春日

 季節が茶色と灰色に染まる真冬を前に、春に咲く花の種を植えた。
「ツナー、これ何色?」
「んー……分かんない。咲いてからのお楽しみ?」
 色とりどりの花で庭が埋まるようにと、プランターにも分けて球根も沢山植えた。涼しくなって、冬の足音が聞こえ始めた頃に、日曜日の朝から夕方まで掛かって、ほぼ一日仕事で。
 小さなスコップを手に土を掘り返し、肥料を入れて、丁寧に埋めていく。綺麗に咲きますようにと祈りを込めて、丹精込めて。
 手伝ってくれた子供達はたまに作業を脱線して、ランボは腐葉土が入っていた麻袋を逆さまに被ってイーピンを驚かせるし、逆上した彼女が真面目にやれ、とランボに飛び蹴りを食らわせて泣かせもした。
 傍で黙々と作業に勤しんでいた綱吉は、同じくせっせと仕事に励むバジルと顔を見合わせて、どうしたものかと騒々しい幼子に肩を竦めた。
「でーきた」
 夕暮れ間近に迫った頃、鼻の頭に土汚れを残した綱吉が汗を拭った。おろしたてだった軍手はすっかりボロボロの真っ黒で、首から提げたタオルはぐっしょりと濡れていた。
 手伝っていたのか、邪魔をしていたのか解らない子供達も、完成した花壇に概ね満足した様子だ。ここは自分が種を撒いた場所だと指差しながら、どんな花が咲くか、春が待ち遠しい顔をして平らに均した地面を小さな手で撫でている。
「いっぱい咲くかな?」
「咲きますよ」
 冬の間は殺風景を免れないけれど、季節が巡って春が来れば、きっと見事に大輪の花が咲き乱れるに違いない。まだ何も芽吹いていない、濃い茶色が広がるばかりの花壇からではまるで想像がつかないものの、そうなればいいなと頷き、綱吉は手伝ってくれた礼を述べてバジルに笑いかけた。
 長い前髪で片眼が隠れている同い年の少年もまた、人好きのする笑顔を浮かべた。
「楽しみですね」
 この花壇とプランターが色に溢れる頃には、こちらに戻って来られると良いのだけれど。そう言いながら俯いた彼の横顔に、綱吉は微妙に気まずいものを覚えて視線を横へ逸らした。
「……仕事、忙しい?」
 バジルは現在も、ボンゴレ門外顧問の一員として活動している。綱吉の父親である家光の下で働く彼の本拠地は遠く海を隔てたイタリアで、まだまだ下っ端であるが故に此処日本に気軽に立ち寄れる立場でもなかった。
 それでも彼は暇を見つけては、足繁く綱吉の元に通っている。今日も無理矢理もぎ取ったという休日の大部分をイタリアと日本の往復に利用し、訪ねて来てくれたというのに、どうしてだかどこにも出かけずに、庭の手入れを手伝わせてしまった。
 尤もそれはバジルが、来日の連絡を綱吉に入れていなかったのが悪いのだが。
 いきなり訪ねて来た彼に面食らった綱吉は、この時既に軍手を嵌めて、子供らと一緒に庭の角を掘り返す作業の真っ最中だった。始めてしまったものを途中で投げ出すわけにもいかず、ならば手伝うとバジルが申し出てそれに甘えて、結局日が暮れるまでふたりして没頭してしまった。
 手を動かしながら雑談に興じるのは難しくて、再会してからの数時間、ろくに話さえしなかった。急に周囲の空気が冷えた気がして、肌寒さに身震いした綱吉は、伸びてきたバジルの指が頬を撫でるのに合わせて目線を持ち上げた。
 手袋を外した彼が、にこやかに微笑む。
「忙しいですが、楽しいです。拙者の働きが沢田殿の役に立つと思えば、どんなに辛くても平気です」
 臆面もなく正面向いて言われ、綱吉は咄嗟に何も言い返すことが出来ずに絶句した。
 疲れたと騒ぐ子供達が、汚れたまま家に上がりこんで奈々に怒鳴られているのが聞こえてくる。しかし目の前に降ってきた影に目を見開いた綱吉は、庭先に佇んだまま暫く動けなかった。
「ツナー、バジル君も。お風呂先に入っちゃって」
「はい、今行きます」
 開けっ放しの玄関から顔を出した奈々に、バジルは深く頷いて綱吉の横を通り過ぎた。記憶に残るよりも少し長く伸びた髪の毛が、サラサラと水のように流れて行く。
 綱吉は涼しい顔をして背中を向けた彼を悔しげに見送って、カサついた唇を手の甲で拭おうとし、軍手を嵌めたままだったのを直前で思い出して舌打ちした。
「キザ!」
 負け惜しみを吐き捨てて、口惜しげにしながらドアを片手に待ち構えている彼を追いかける。バジルは終始余裕な態度で笑っていて、それが綱吉には尚更悔しかった。
 たった一晩、バジルは日本で過ごしただけでイタリアへとんぼ返り。暫くまた忙しくなるので、次に来られるのは間が空いて春になってからになりそうだと、別れ際の彼は言っていた。ならばあの花壇いっぱいに花が溢れかえっている頃に間に合うと綱吉が言えば、彼はとても嬉しそうだった。
 けれど、花は咲かない。
 咲かなくなってしまった。
 その日は土曜日で、自室のベッドで惰眠を貪っていた綱吉を叩き起こしたのは、イーピンとランボによる大きな泣き声だった。
「……なに、どうしたの」
 寝ぼけ眼を擦り、パジャマのまま階段を降りて台所に顔を出す。奈々にしがみついて鼻水垂らして泣きじゃくっている幼子の声は、近所迷惑も甚だしいボリュームだった。
「それがねえ」
 奈々も困惑気味で、懸命にふたりを片腕ずつ同時に抱えてあやしながら、綱吉には顎でキッチンとは反対側を示した。その向こうはリビングで、更にその向こう側には庭がある。なんだろうかと首を捻り、行ってみれば分かると言われたので従って窓越しに外を窺った彼は、二秒間沈黙し、三秒後に我に返って息を呑んだ。
 言葉が何も思い浮かばず、怒りと悲しみが同時に沸き起こって、無意識に握り締めた拳が震えた。
「なに、これ」
 奈々は野良猫の仕業ではないかと言った。泥棒が入ったわけではないのでその可能性が一番高いと、リボーンも同意した。
 掘り返された土、地面に無造作に転がった球根。他にも、何故かチョコレートや飴といった菓子屑がそこかしこに紛れて散らばっており、どうやらランボが、早く大きくなって花が咲くようにと、こっそり自分のおやつを花壇に埋めていたのが原因らしかった。
 植物と人間とでは、生命活動の原理が根本的に違う。人が口にするものを植物に与えても意味など無いことを、小さな子供は理解出来なかったようだ。
 微笑ましい勘違いといえばそうかもしれないが、汗だくになって作った花壇がすっかり駄目になってしまい、綱吉の脱力具合も相当なものだった。
 良かれと思ってやったランボは怒れない。綱吉の心には虚しさと徒労感ばかりが募って、こんなことならバジルが来た時に何もかも放り出して、どこかへ遊びに行けばよかったと後悔ばかりが募ってしまう。
 そんな風に気落ちしていたら、周囲が気を遣ったのだろう。イーピンに強請られて花壇を作り直したその数日後に、国際電話が掛かってきた。
 掛けて来た相手が誰であるかは、考えるまでもない。
『沢田殿?』
「あー……ごめん」
 第一声に少なからず驚いていたら怪訝に名前を呼ばれ、綱吉は困った様子で頬を掻いた。
 まさかイタリアにまで話が伝播し、バジルの耳にまで届いているとは予想していなかった。そこまで自分の落ち込み具合は酷かったのだろうかと、己のことながら疑問に感じ、綱吉は苦笑交じりの謝罪で応じた。
 コードレスの電話を右手に持ち、聞き耳立てている周囲を見回して肩を竦める。あれからもうかなりの日数が過ぎており、日々の生活に忙しくて綱吉自身、花壇を猫に荒らされたことは忘れかけていた。いつまでも落ち込んでいられないし、新しく植えた苗はランボが余計な手出しをしなくなったお陰で、現時点では順調に生育している。春まで待てば、予定通り庭は艶やかな色彩で溢れ返るはずだ。
「なんか、変な心配させちゃったみたいで」
『そんな事は』
「バジル君、忙しいのに」
 自分はもう心配要らないからと遠慮がちに告げ、綱吉は電話が置かれている台所からリビングに移動した。誰も居ない所為で照明が消えているそこに、灯りを点けぬまま居座り、ソファに置かれていたクッションを膝に抱いて腰を落とす。どっかりと体重を預ければ、押し潰されたスプリングが軋んで音を立てた。
 身体を上下に揺らしながら、聞こえてくるバジルの声に耳を傾ける。町中を移動中なのか、車のクラクションが背景に混じって聞こえた。
 国際電話も携帯電話で掛けられる時代になったから、歩きながらなのだろう。疲れているだろうに余計な気苦労を彼に与えてしまったことが哀しくて、綱吉は伏し目がちにクッションの表面に爪を立てた。
 引っ掻いて、膝と肘を使って押し潰す。居心地悪げにしているのが伝わったのだろうか、電話口の向こうから失笑する声が聞こえた。
「バジル君?」
『すみません。でも、いいんです。沢田殿の声がこうして聞けたので』
 最近は電話もサボってしまっていたから、と逆に謝られてしまい、益々身の置き場に困って綱吉は膝を抱えた。クッションを抱いたまま横倒しにソファに転がって、何も無い天井をぼんやりと見上げる。
 彼はまだ少し笑っていた。
「そういう事、さらっと言わないで欲しいんだけど」
『どうしてですか?』
「……どうしても」
 バジルは時々、人を赤面させるに充分な台詞を、照れもなく言い放つから心臓に悪い。彼が本気でそう思っていると分かるからこそ、余計に。
 若干拗ねた声で口篭もると、バジルはまた楽しげに笑った。
『けれど、残念です。春に訪ねるのを楽しみにしていたのですが』
「あ、うん。でも、大丈夫だよ。この前植え直したんだ、全部。ちょっと規模が小さくなっちゃったけど」
 花の種とて安くない。ソファの背凭れを掴んで身を起こした綱吉の言葉に、電話の向こうの相手は暫く沈黙した。どうやらこの話までは、彼の耳に届いていなかったようだ。
 先に教えればよかった。後悔を胸に抱き、綱吉は四角いクッションを立てて背中を丸め、そこに顎を載せた。
『春まで、待てなかったんです』
「ん?」
 ぽつりと呟いたバジルの声は、彼の後ろを通り過ぎたであろうトラックの騒音に掻き消されて半分も聞こえなかった。もう一度言ってくれとせがむが、こちらの声も聞き取りづらいのか、返事が無い。
 どうかしただろうか。綱吉は首を傾げ、背筋を伸ばして掴んでいたクッションを向かい側の壁目掛けて放り投げた。
 埃を巻き上げてオレンジ色のそれが床に落ちると同時に、窓の外を大型車が通り過ぎていく。
『沢田殿』
「なに?」
『すみません。拙者、矢張り春まで待てませんでした』
「……へ?」
『ドアを、開けていただけますか』
 いったいどこのドアの事だろう。綱吉は顔を上げ、廊下とリビングを隔てる扉を振り返った。
 イタリアに居る筈のバジルの電話から、何故か日本語で石焼芋販売の声が聞こえる。次第に大きくなるそれは、コードレスフォンを押し当てる綱吉の右耳のみならず、音を遮断するものが何もない左耳からも聞こえた。
 但し左右で微妙に、タイミングがずれている。
「……バジル君?」
『沢田殿、すみません。開けてください』
 まさか、と背中に冷たい汗がひと滴流れて行く。綱吉はうろたえ、ソファに乗り上げていた両足を下ろして立ち上がった。
 右耳に受話器を押し当てたまま、急いで廊下に出る。ひんやりとした空気が漂う中、確かに玄関の磨りガラスに人影が映っていた。
「っ!」
 一気に頬が紅潮して、綱吉は声を失う。靴下のまま玄関の冷たいコンクリートに降りて、二箇所設けられている鍵を急ぎ回した。音は外にも伝わっているはずで、身を乗り出した彼が押し開けようとしているのを察したのだろう。人影がゆらりと揺らめき、色を薄くした。
 互いの息遣いが電話を通して伝わってくる。顔は見えずとも相手の顔が思い浮かんで、綱吉は逸る気持ちのままにドアを思い切り押した。
 目の前が赤く染まる。
「わ!」
 驚いて仰け反り、後ろ向きにたたらを踏んだ綱吉に迫る、目も醒めるような鮮やかな赤の群生。それは見事咲き乱れる、季節外れも甚だしいチューリップの花束だった。
「沢田殿」
 電子音に変換されることなく直接耳に響く明るい声に、綱吉は丸い瞳を零れんばかりに見開き、花束の横から顔を出したバジルの笑顔に見入った。
 薄い栗色の髪越しに、若葉にも似た緑の瞳が綱吉をいっぱいに映し出している。
「なん、で」
「春まで待てなかったので」
 掠れる声で問えば、至極楽しげにバジルが言う。
 面食らう綱吉に向かい、両手いっぱいに抱えた赤一色の花束を差し出して、彼は。
「だから春を、届けに来ました」

2008/10/29 脱稿