精霊火 第三夜(第六幕)

 ある日骸はどこからともなく情報を手に入れてきて、彼らは南の深き山を目指した。
 人を殺した、何百人と。逃げ惑う輩を容赦なく打ち砕き、切り裂いた。得た力は強大すぎて、骸ひとりでは背負いきれない。だから自分が必要とされたのだと、ランチアはこの時やっと、骸の謝辞の真意を理解した。
 赤黒い炎を背景にし、彼は鈍色の鎖を握り締めた。
 弾き返された鉄球は、人の頭を容易く砕くだけの重量を持っている。それを、まるで柳の枝を払うように簡単に押し退けられてしまった。しかも相手は、全く力を入れた素振りを見せなかった。
 視線は宙を泳ぎ、遠くへ向いている。僅かに驚愕と焦りを滲ませた表情は、目の前にいるランチアを完全に無視していた。
「綱吉」
 震える声で紡がれた音は、先ほどこの場から転がるように逃げていった少年の名前だ。骸が望み、求めた存在。
 けれど今のランチアには、あの少年などどうでも良かった。むしろ骸の願いさえも、なおざりなものに成り果てようとしていた。
 禍々しいものが体の中で暴れている。早く目の前の、黒髪の男を殺させろと、そう蠢いて憚らない。
 ランチアの意識を踏みつけ、肉体の主導権を奪い取り、残虐な思考を巡らせて、生きたまま四肢を引き裂き、温かな血が滴る肉を食わせろと、そう訴えて止まない。
 暴走する獣の鼓動に掻き乱され、彼はきつく唇を噛み締めた。短い間隔で息を吐き、今し方一瞬だけ現れ、消えた、強大な力の発生源を睨みつける。
「う……ヴヴヴヴ……」
 低い唸り声を上げ、ランチアが血走った目を雲雀に向けた。
「っ」
 遠くに気持ちを飛ばしていた彼が、はっとして姿勢を戻す。拐を握った右手を呆然と見やり、桔梗色の炎の残骸に目を見張った。
 深く地面を抉って停止した鉄球の先に、跳ね返されたそれに引きずられたであろう男の姿がある。憤怒の形相で牙を剥き、閉まりきらない口からはだらだらと汚らしく涎を垂らしている。
 最早人としての理性を保っているようには思えず、一種の哀れみさえ抱いて、雲雀は横薙ぎに払ったままだった腕を下ろした。
 蘇ったように感じた力は、あの巨大な鉄塊を打ち払う時に使ってしまってもう残っていない。だがそれに関しては、雲雀は気にも留めなかった。
 問題にすべきなのは、何故今、あの、封印されて久しい力が突如顕現したのか、だ。
「綱吉、まさか……使ったのか」
 奥歯が軋む音を立てるまで噛み締め、隙間から苦い息を吐いて呻くように呟く。何が起きたのかは、吹き荒れる熱風に邪魔されて伝心も叶わず、想像するしかないけれど、あの子の身に何か一大事が起きたのだけは、疑いようが無かった。
 雲雀を取り巻く黄金色の鎖は、その源である綱吉に向かって一直線に伸びている。ふわふわと風に泳ぐように常に揺れ動き、一定しない。それは普段となんら変わりないのだけれど、ほんの少しだけ線が細く、短くなっている錯覚を彼は抱いた。
 封印の鎖、同時に綱吉の命を地上に――雲雀のもとに留め続けるための楔。
 黄金色は綱吉の輝き、彼の命の象徴。綱吉が持って生まれた力、そのもの。
 嵐の中、綱吉と雲雀は出会った。雲雀を食らおうとした蛟の暴走を鎮め、雲雀の中に封じ込める為に、綱吉はその力すべてを使い果たした。彼は蛤蜊家初代の再来とまで言われた霊力を、見えぬものを視るという瞳以外、一切を失った。
 ただ、完全に消えたわけではない。
 彼の力は今も此処にある。嘗ては雲雀の中にいる蛟を封じ、今は龍となった雲雀を人の身に落とし込める封印として、主の元を離れているだけだ。
 あの桔梗色の炎は、その龍身たる雲雀が本来持つ力の断片。綱吉の封印が完璧であったならば、それは表れ出ることがない。絶対に、起きてはならない現象だった。
 事態は逼迫している。あの子に危機が迫っているのであれば、一刻も早く追いついつかなければ。
 その為に、障害となるものは――
 雲雀は気持ちを切り替え、当面の敵といえる眼前の男を見据えた。
 拐を握る手に力を込め、胸の前で十字に組み合わせた。攻守どちらにも対応出来る構えを取り、呼吸を整えて僅かに腰を沈める。左足を幾らか引き気味に、男に対して一本の線になるように肘を引いて丹田に力を込めて。
 直後。
「ひゃっほーいっ!」
 予想していなかった場所から甲高い声が飛んだ。
「っ!」
 咄嗟に身を捻り、顔の前に拐を掲げて視野を塞ぐ。ギンッ、という金属がぶつかりあう音が間近で響き、斜め上から加えられる圧力に雲雀は奥歯を軋ませた。
 不意打ちを防ぎはしたものの、左膝が堪えきれずに折れ曲がる。重心を崩された雲雀は短く喘ぎ、人を押し潰そうとする存在を力任せに横へ薙ぎ払った。
 けれど寸前に意図を察した相手が、拐を蹴り飛ばすことで自ら後ろへ跳躍して逃げていった。空振りさせられた雲雀は肩で息をして、瞬時に暗闇に紛れ込んだ存在の気配を辿る。集中を邪魔する無粋な刃は、右前方に走ることでやり過ごした。
「ひゃひゃひゃっ!」
 犬の攻撃は、彼が飛びかかって来るたびに逐一雄叫びをあげるので、分かり易い。雲雀は、鉄球を回収したランチアが次の攻撃態勢に入る前に彼の懐に入るのを諦め、代わりに左から鋭い爪を繰り出してきた犬の手首を拐で斜め上から、渾身の力を込めて払い落とした。
 同時に身を低くし、利き足を軸にして体をふわりと浮かせる。爪先で柔らかな地面を蹴り、雲雀の身体は独楽の如く軽やかに一回転を果たした。
「ぎゃふっ」
 脇腹にめり込んだ雲雀の左膝が、三角形に折れ曲がった犬の身体を弾き飛ばした。
 捲れ上がった長着の裾から強靭な筋肉に支えられた太股が覗き、着地と同時に隠される。ランチア目掛けて犬を蹴り放った彼は、即座に襲ってきた三本の刃を拐ですべて叩き落とし、間髪入れずに千種に向かって駆け出した。
 眼鏡が割れた所為で視野が狭められている千種には、一瞬で雲雀の姿が消えたように映った。
「なっ――く!」
 何処へ、と目で追いかけるより早く、危険を察した本能が彼に右へ逃げるよう警告した。
 逆らわず即座に右に体を倒した千種の頭上を、雲雀の拐が横一文字に走り抜けていく。
 髪の毛数本を持っていかれ、後から追いかけて来た風圧に鼓膜を激しく震わせた彼は息を呑み、急ぎ雲雀から離れた。
 四つん這いで逃げていく背中に追い討ちをかけようとした雲雀だけれど、その間に体勢を立て直したランチアが熱を放つ鉄塊を投げつけて行動を阻害する。行く道を封じられて、しかも直線で通り抜けていくと思われたそれは、表面に彫られた複雑な溝により空気の抵抗を生み出し、突如予想しない方向から角度を変えた。
「ぐぅっ」
 躱したと気を抜きかけたところに真横から襲い掛かって来られ、雲雀は咄嗟に拐を逆手に握って腕の外側に壁を作った。しかし受け止めきれず、爪先で地面を抉りながら横に押し流されてしまう。
 めき、と筋肉に支えられた骨が嫌な音を響かせ、雲雀の身体は宙を泳いで三丈ばかり先で右肩を下にして崩れ落ちた。奇跡的に拐は無傷だったが、左手が痺れて指先が細かく痙攣している。握り続けることが出来なくて、彼は蹲って右膝を立てた状態で、自由が利かない左上半身を庇った。
 汗が絶えず滲み出て、周囲に立ち込める熱気の所為で呼吸は荒い。体力の消耗は考える以上に激しく、雲雀は悔しげに顔を顰めた。
 龍の鱗を改造した、リボーンお手製の拐でなかったら、今の一撃で雲雀の体は真っ二つになっていただろう。想像してもあまり楽しい光景ではなく、肌にまとわりつく長着と泥を鬱陶しげに払い、袖の上から腕を撫でた。
 ぼうっと青白く輝いていたものが、少しずつ光を弱めて消えていく。咄嗟に皮膚を硬化させたものの、鱗を越えて伝わった攻撃までは防ぎきれなかった。
 ここまで苦戦を強いられるとは思わなかった。彼らの強さを認めなくてはいけないだろう、口惜しげに雲雀は下唇を咬み、己の見識の狭さを呪った。
 昨年の冬の入りに起きた事件でも、綱吉を窮地に追い込んだのは雲雀の驕りだった。相手を格下と決め付けて舐めてかかり、窮鼠猫を噛むという状況を自ら作り出してしまった。
 あの後は多いに反省したのに、この有様とは。情けなくて涙が出そうだ。
 不定期に痙攣を繰り返す筋肉を宥め、雲雀は眼前を睨んだ。既に太陽が地平線に没して久しいに関わらず、村を包む炎の壁は昼のような明るさを作り出し、赤黒い影を地表に、何重にも描き出している。
 村の様子はさっぱり解らない。状況が掴めない。無事な人が果たしてどれくらいいるのだろう、消火作業は進んでいるのか。
 雨でも降らない限り、盆地全域に広がりを見せる炎を消す術は無い。
「せめて結界内なら……ね」
 掠れる声で呟き、雲雀は血の混じる唾を地面に吐いた。
 今ならまだ、瞬転も可能だ。しかしこの三人を放置してはおけない。綱吉が無事に逃げ遂せたかどうかも解らない以上、雲雀だけが安全な場所に退避も出来ない。
 村と、綱吉と、自分自身と。果たして何を優先させるべきか。彼の心の天秤は、依然揺れ動いたままだ。
 じわりと距離を詰め、犬が雲雀を嘲笑う。頬に張り付いた黒髪をそのままに、雲雀は横目で彼の動向を窺い、深く息を吐いて右手に握り締めた拐を思い切り、自分の左肩に叩き込んだ。
「――ぐ!」
 痛烈な衝撃に呻き声が出る。突然自分を攻撃した彼に、犬も千種も目を丸くした。
 ゆっくりと膝を伸ばし、立ち上がった雲雀が痛めつけた肩を一回転させた。感覚は遠いが、痺れは吹き飛んでどうにか手は動きそうだった。
 五本の指を広げ、具合を確かめてから地面に落とした拐を握らせる。その状態で固定してしまえば、多少融通が利かなくなるものの、攻撃を防ぐくらいなら出来るはずだ。
「無茶しやがんの」
「これくらいしないと、君たちを咬み殺せそうにないからね」
 動かない片腕をぶら下げて戦うよりは、後々左腕が使い物にならなくなったとしても、現状を打破できる可能性が残っている道を選ぶ。傲慢に言い切った雲雀に口笛を吹いて賛嘆し、犬は楽しくて仕方が無い顔をして獣の構えを取った。
 一時期気を失っていた所為もあり、この場では彼が一番元気だった。そして不気味なほどにランチアが静かで、ふたりを左右に見守る千種が最も余裕がなかった。
 ランチアに起きている変化や、彼らに立ちふさがる雲雀の存在を、骸が知らなかったとは思えない。僅かに芽吹いた疑問は、疑惑に変わる。しかしあの男の理念に同意し、彼と共に修羅の道を行くと決めたのもまた、自分自身だ。
 骸を信じる、そこに変わりは無い。
 だから彼は考えるのを止めた。今は骸から与えられた、綱吉を彼の元に連れて行く、という命令を忠実に遂行するまで。
 素早く間口の広い袖に両手を交差させ、腕に装着した革帯の隙間に指を差し入れる。無数に組み込まれた柄の無い刃を掴み、引き抜いて彼は劣悪な視界の中、雲雀を中心に据えて狙いを定めた。
「終わりにする」
「とどめだっびょーん!」
 牙を覗かせて鉄球を構えるランチアに合わせ、犬が四足で地面を駆けた。
 雲雀がふらつきつつも爪による攻撃を回避する。しかし直前に犬の後ろ足が蹴り上げた土が目に入り、
「しまっ……」
 咄嗟に両の瞼を閉ざした彼は、闇に染まった視界で風が切り裂かれる音を聞いた。直ぐ傍まで迫っている。それが分かるのに、正確な位置取りが掴めない。
 このままでは避けきれない――
「っ!」
 突如、彼の左斜め前方で小規模な爆発が起きた。
 反射的に両手を顔の前で交差させ、爆風の直撃を回避する。しかし踏み止まる事が出来ずに彼は仰向けに倒れこみ、すぐさま肘を使って身を起こした。膝をついて注意深く周囲を観察し、土を洗い流す涙で霞む景色の中、覚えのある後ろ姿に雲雀は肩を上下させた。
 口で息を吸って吐き、唇を噛み締める。
「……遅いよ」
「うっせー! 助けられたくせに文句言ってんじゃねー!」
 ぼそりと言えば、地獄耳を発動させた獄寺が遠い場所から腕を突上げて怒鳴った。
 暗闇の中でもはっきりと分かる銀の髪。着ている物がかなり汚れているので、彼の方でも色々と大変なことがあったようだ。詳しくは聞かず、雲雀は炎術の余波で焦げた黒髪に舌打ちして、肩に付着した煤を手で払い除けた。
 獄寺の放った呪符の爆発により、雲雀に突き刺さるはずだった千種の投げ刃もすべて吹き飛んだ。直撃を受けたひとつは粉々に砕かれ、跡形も無く消え失せた。よもや外部から援軍がくると予想していなかった彼らは驚き、最も近い場所に居た千種は特に険のある表情を作った。
 乾いた地面を踏みしめて現れた獄寺は、三人に取り囲まれた雲雀にふん、と鼻を鳴らしてその下を親指で擦った。
「随分、苦戦してるみてーじゃねーか」
 獄寺の知る限り、雲雀がこんなにもぼろぼろになっているところを見た事が無い。鬼神の如き強さを発揮する彼も、三人を同時に相手では流石に苦しいかと笑って、相手が不機嫌になるのをつぶさに見て肩を揺らした。
 そして周囲に目を配り、居るはずの存在が無い事実に眉を吊り上げる。
「十代目は」
「逃がしたよ」
「何処へ」
「山」
 てっきり雲雀と一緒とばかり思っていた綱吉が、いない。無意識に声が険しくなり、問い詰めたところで雲雀の答えは冷淡だった。
 むっとした表情で短く切り返されたのを受け、獄寺は黒々と聳える北の山に目を向けた。南から照る炎に下から煽られる形で、輪郭が闇夜に浮き上がって見える。不気味な姿に彼はごくりと唾を飲み、何故ひとりで行かせたのかと怒鳴ろうとして、横から割り込んできた殺意にハッと身構えた。
 千種が睨んでいるのに気付き、怒りの矛先を向ける相手を間違えていたことを知る。
「上等じゃねーか」
 其処に佇む千種の顔を、獄寺は覚えていた。稲荷前に設けられた舞台の上で、見事な手腕で次々に的を射抜いて行った旅芸人一座のひとりだ。
「やっぱり手前らが、退魔師殺しの犯人かよ」
「……だったら?」
「十代目には指一本触れさせねえ!」
 否定も肯定もせず、右の眦を持ち上げて静かに聞き返した千種に、獄寺は激しい憤りを見せて両袖口に交互に腕を差し入れた。抜き取って構えた彼の手には、左右四枚ずつ、合計八枚の呪符が挟み込まれていた。
 自分と同じ飛び道具を、しかも今の爆発からして退魔師の幻術の類を秘めた札を扱うと瞬時に悟り、千種は緊張から脇腹に小さな痛みを覚えて奥歯を噛んだ。
 彼が見ただけで警戒心を強めたと知り、獄寺も不敵な笑みを口元に浮かべながら、油断ならない相手だと気を引き締めて眼力を強めた。
 獄寺の介入は不本意であったが、ひとりでも相手にする人間が減ったことは素直に喜ばしい。雲雀は睨みあうふたりを遠巻きに眺め、目の中に残る土を洗い流して顔を拭った。
 ちりりとした痛みが眼球を圧迫し、気持ちが悪い。
「くぅ」
 以前自分で、蛟に抗うべく抉り出した目だ。
 あの時の不快感が不意に蘇り、雲雀は前歯の隙間から息を吐いて残るふたりの行方を捜し、覚束ない足で振り向いた。
 その頭上を。
 灰色の軌跡を残し、蛙が高く飛び跳ねるかのように犬が舞い踊った。
「隙あり、だっ、びょん!」
 大きく舌を出し、勝ち誇った笑みで犬は雲雀に牙を剥く。完全に見失っていた雲雀は避けることが出来ず、真上から来た衝撃を拐で受け止めるほか無かった。
 痺れたままの左腕に無理をさせ、右腕で極力補いつつ耐え忍び、跳ね返そうと試みる。だが既に、両者は同じ事を何度も繰り返している。犬は雲雀が次にどう動くかを学習し、歯を食いしばった彼が肘を引いた瞬間に体を後ろへ流した。
 空振りした雲雀が、振りぬいた腕の向こうで不敵に笑う犬の顔を見出す。
 腰の高さまで掲げられた彼の右足が、真一文字に空を切り裂いた。
「がっ――!」
 完全に体が左に泳ぎ、右側ががら空きになっていた。しまった、と後悔しても遅く、屈んだ状態の雲雀は後ろへ跳躍して逃げるのも叶わない。
 左肩は先ほどの衝撃が抜け切っていないので殆ど役に立たず、左に泳いだ右腕を即座に引き戻す猶予もない。
 雲雀が見開いた目で犬のゆっくり過ぎる動きを追い、次に来る衝撃に対する構えさえ取れずにいる中で。
「助っ人登場、ってな」
 山本の声が高らかに響いた。
 しゃがみ込んだ雲雀の頭上を、一閃が走り抜けていく。耳に馴染んだ声が聞こえ、嫌な予感を覚えて咄嗟に首を窄めた雲雀は、数寸先で突如吹き荒れた風に驚き、煽られて吹き飛ばされた犬もまた、突如割り込んできた第三者に目を剥いた。
 背中から着地し、弾んだ勢いを利用して宙返りひとつ、四足の姿勢を保った犬が、闇を切り裂いて現れた山本に険のある表情を向けて強く睨んだ。対する山本は、手に入れたばかりの刀を鞘から抜き取りもせず、自分の肩を叩いて余裕の姿勢を維持していた。
 彼は尻餅をついて未だ立ち上がれずにいる雲雀に視線を向け、白い歯を見せて笑った。
「随分男前になってるじゃねーか。お、獄寺もいるのな」
 綱吉を探して彼の家に向かう道中、騒ぎを聞きつけてきてみれば案の定だ。自分の読みが間違っていなかったのに安堵し、山本は広場ではぐれて以後行方が知れなかった獄寺の姿を遠くに見て、ぐるりと首を巡らせた。
 彼もまた獄寺と同じ存在を探していると、その仕草だけで悟った雲雀が、また同じ説明をしなければならないのかと疲れた様子で肩を落とす。
「ツナは……」
「先に行かせた」
「そっか」
 だが山本は、獄寺ほど理解が遅くなかった。この場に居ないと知るとその理由を状況から見定め、ひとりで食い止めていたのかと傷だらけの雲雀を眺め下ろして苦笑した。
 彼に頑張ったな、と褒められても嬉しくない雲雀は、益々表情を険しくさせてそっぽを向いた。
「俺も加勢するぜ」
「必要ない」
「そう言うなって」
 新手の参入に驚かされたものの、元気が有り余る犬は、体力が残り少ない雲雀と遊ぶよりも、山本と遣りあう方がずっと楽しそうだと判断した。長く伸びた爪を舌なめずりし、涎を垂らした彼の姿に、山本は雲雀に向けていた気の抜けた表情を一瞬で引き締めた。
 殺気とは異なる、鋭利な刃物を思わせる気配を漂わせ、緩んだ場の空気を自分のものに作り変えてしまう。
「……それは?」
「ん? ああ、ちょっと――な」
 彼の構え持つ黒塗りの刀に覚えが無くて、雲雀が左の眉を持ち上げて問うた。山本は若干言い辛そうに言葉を濁し、説明に時間がかかるので終わってからゆっくり話す、と約束した。
 ならばいいと、雲雀も深く追求しない。
 彼は鞘に納めたままの刀を腰帯に挿し、安定させて犬に向き直った。
 爛々と目を輝かせ、これから展開されるだろう死闘に期待している男を見据える。獣の物真似をしていたところからして、それに準じた攻撃方法を取るものと予測し、彼は左足を引いて体を直線に構えた。
 狭い舞台で縦横無尽に走り回り、人を凌駕する跳躍力を披露していただけに、油断できる相手ではない。
 高熱の大気が満ち溢れる中、じっとりと汗を流して山本は慎重に犬の出方を窺い、左腰に挿した刀の柄に手を伸ばした。上体を斜めに傾けて上唇を舐め、眉に潜り込んだ汗が形状に添って眦に流れて行く感覚を追いかける。
 ふっ――と、窄めた唇から息を吐いた。
 刹那、山本が地を蹴って横に走った。
 両者の間を遮る障害物が無くなり、ふたりが同時に地面に別れを告げた。
 右後ろで沸き起こった剣戟を片耳に、雲雀は苦痛を堪えて浅い呼吸を繰り返し、ランチアに向き直った。
 これでようやく、他に邪魔される事無くあの男と対峙できる。雲雀は余計なお世話だと思いつつも、それぞれに戦闘を開始した獄寺、山本両者を視界の端に置き、辛うじて痺れが抜けた左腕を叱咤して拐を握った。
 気がかりな部分は多々あるが、雲雀は目下の最優先を、火烏に取り込まれつつあるこの男を駆逐し、再封印することに定めた。その為には先ず限界に達しようとしているこの肉体に鞭打ち、ランチアを徹底的に叩きのめすしかない。
 それに、やられた分はきっちり倍にして返さなければ気が済まない。雲雀は腹の中心に力を溜め、じゃらりと重い鎖の音を響かせた顔に傷のある男を睨みつけた。
 来る。
 実際の攻撃よりも先に襲い来た圧倒的な悪意の風に雲雀は黒髪を揺らめかせ、身を低くして躱す体勢に入ろうとした。
 が。
「……え?」
 その場に居合わせた、火烏に呑まれて感情の消えたランチア以外の全員が驚愕し、呆気に取られ、動きを停止した。
 雲雀の背を切り裂いて噴出した血液が、真っ赤な血飛沫を散らして彼を濡らした。
 力の抜けた膝が、彼の意思に反して崩れていく。前屈みに、そのままうつ伏せに。
「雲雀?」
「おい、テメー、なにやっ――」
 彼の後ろには何も無い。ランチアが攻撃を繰り出した様子も無い。それなのに雲雀は、前触れもなく唐突に、左肩真下、丁度心臓の裏側に当たる場所を引き裂かれて鮮血で己の身を赤く染めた。
 彼自身にさえ、何が起きたのか即座に理解出来ない。
 ただ、一瞬だけ脳裏に浮かび上がった光景に言葉を失い、瞳孔を見開いて、痛みに苦しみ、喘ぐ。
 身体が受けた苦痛よりも、なによりも。
 遠く離れた場所、綱吉の瞳を通して届けられた男の姿に、彼は血が滲むほど強く唇を噛み締めた。
 綱吉の心臓に刃を衝き立てて恍惚とした笑みを浮かべる、紫紺と緋の左右色違いの瞳を持った男の姿に。
 彼は。

 怒り狂い、慟哭の声をあげた。

2009/01/18 脱稿