人間には、二種類ある。
支配する側と、される側。
蹂躙する側と、踏みにじられる側。
蔑む側と、虐げられる側。
人間には、二種類しかない。
尊きものと、賎しいもの。
富めるものと、貧しいもの。
美しいものと、醜いもの。
人間とは、ひとつだ。
金を持ち、権力を持ち、見目麗しい、高貴なものだけが、人間。
それ以外はすべて、人間ではないのだという。
同じ姿かたちをしていても、彼らとは違う存在なのだという。
人は生まれた時から血筋で差別を受けて、差別を受けた側は自分より劣るものを見つけることで、その鬱憤を晴らす。
ひとつの差別が新たな差別を生む。そうやって人は生きてきた、ずっと。誰かを見下すことによって、自分という存在を支えて来た。
だが、では、最下層に位置づけられた人間は、どうなる。家畜同然に扱われ、家畜よりも酷い環境に置かれ、命など紙切れ一枚よりも軽いとさえ言われた、最早人間としても認められないものたちは、どうすればいいのだろう。
雪が降っていた。
しんしんと降り続ける雪は、世界を一面の銀世界へと塗り替える。遠目には美しかろうその光景も、土地に根を下ろす人間にとっては田畑を覆い、家を押し潰す面倒で、厄介なものだった。
しかし家がある人間は、まだ良い。囲炉裏で暖を取り、春がくるまでの長く短い期間をじっと耐え忍べる人々は、まだ良い。
「骸しゃまー、熊が倒れてるっす」
「犬、違う。それ、人間」
びゅうびゅうと吹き荒れる冷たい風が去り、凍りついた樹木が雲間から覗いた光を反射させる。
足跡が三人分、橇を履いた小さなものが蛇行を繰り返したその先に、三角形の雪蓑を被った子供が縦一列に並んでいた。先頭を行く勝気な顔をした子供が何かを見つけ、指差して振り返ったところですぐ後ろの子がぼそりと小声で訂正する。彼らの口から吐き出される息は途端に白く染まり、睫には霜が降りていた。
鼻水さえも凍りつく極寒の地で、大人の姿は近くに無く、子供ばかり。ふたり分の視線を受け止めた最後尾の子は、犬と呼ばれた勝気な少年を押し退けるようにして前に出て、彼が見つけた存在に目を向けた。
雪の中に半ば以上埋もれているその姿は、熊と間違えるのも無理ない外見をしていた。
子供らの身の丈を軽く越える巨躯は雪で白く染まっているものの、髪は黒く、肌の色も濃い。獣の皮を被って防寒具代わりとしており、左腕は頭の下に、右腕は前に出そうとしてか頭の先に伸びていた。
うつ伏せで顔は解らないが、人間の男であるのは間違いない。
「千種が正解ですね」
行き倒れであろうか。
涼やかな声で呟かれた少年の言葉に、犬は不貞腐れた顔で傍らの千種を睨んだ。眼鏡越しにその視線を受け止めた彼は、相手にするのも面倒臭いと言いたげに肩を竦め、この倒れている人間をどうするか、判断を求めて首を横に振った。
「骸様」
「まだ息がありますね」
膝をつき、柔らかく降り積もる雪に穴を掘った骸が言う。彼の手は毛皮の男の背中をそっと撫で、辛うじて残る体温と拍動を確かめて離れた。
藁を編んで重ねただけの防寒具よりも、男が身に纏っているそれの方が余程温かそうだ。剥ぎ取ってやろうかと画策している犬の飢えた表情に微笑み、骸は遠くに目を向けて、白一色の景色に見え隠れする山小屋を指し示した。
「あそこに」
「連れて行くんですか」
「何かの縁でしょう」
休めそうな場所がある、と立ち上がった骸に訝しげな目を向け、千種が静かに問い返す。彼はにこりと微笑み、大いに不服そうな犬を宥めた。
三人で協力し合い、大柄の男を雪から引っ張り出して担ぎ上げる。完全に気を失って、体温の低下が激しい男は、子供達が時々雪に足を取られて彼ごと派手に転ぶ間も、一切目を覚ますことは無かった。
何故自分がこんな死にかけの人間を助けなければならないのかと、犬も千種も言葉にはしないものの、不満が胸の奥に溢れ返る。ただ骸だけが、飄々とした態度を崩さず、冬場は放棄されている狩猟小屋の扉を開けた。
苦心の末に辿り着いた先は、吹き荒れる雪にも充分耐えうる強度を持っていた。壁が丸太を組み合わせて隙間が無いよう作られており、灯り取りの窓も塞がっているので当然内部は真っ暗闇。それでも飛ばされそうな横殴りの強風と、人を生き埋めにする容赦ない降雪から逃れられるとあって、白い息を吐いた彼らは一様に安堵の表情を浮かべ、入り口すぐの場所に揃ってしゃがみ込んだ。
最初に復活を遂げた千種が、懐に入れていた金属性の筒を取り出す。悴む手で凍りついた表面を削り、入り口のすぐ左手に積み上げられていた燃料用の藁をひと束引き抜いて、渋る犬に持たせた。
息を吐いて自分の指先を温め、筒から取り出した石をふたつ、左右にそれぞれ持つ。何度か叩き合わせて火花を起こし、藁に炎を灯した。
ぼうっとした明るさが内部を照らし、力なくぐったりしている男の青褪めた顔が露になる。彼らは火がついた藁を囲炉裏にくべ、その周囲には燃え移り易いように新たに藁を追加し、薪を置いた。
男の体に付着した雪を削ぎ落とし、湿り気を拭い取って藁を被せる。出来るだけ炎の近くに置いて温めてやるが、子供達が出来るのはそこまでで、後は男の体力に頼るのみ。身を寄せ合って彼らも暖を取り、竹筒に入れた雪を囲炉裏の傍に置いて溶かし、温めて喉を潤した。
手持ちの僅かな食糧を分け合い、もそもそとささやかな食事を終える。雪が屋根や壁を叩き、五月蝿い中、交替で火の番をしながら彼らはしばしの休養を楽しんだ。
夢は見ない。泥のように眠り、番をしていた犬までもがうつらうつら舟を漕いで、やがて炎は燃やすものをなくして次第に小さくなっていった。
「うっ」
ぶるっと寒気に襲われ、目を覚ました千種は、傾いた視界で自分に寄りかかる犬の姿を見た。
吹雪はやんでいるのか、一晩中壁を叩いていた風の音はもう聞こえない。光など殆ど無い中で目を凝らし、彼はぼんやりする意識を欠伸で噛み砕いた。伸びをして、その最中で人を枕にしていた犬を振り落とす。いい音がしたが、いびきはまだ続いていた。
「…………」
役割を全うせずに惰眠を貪る彼に呆れ顔を向け、千種はずれていた眼鏡を指で押し上げた。輪郭が滲んでいた視界が良好となり、ホッと息を吐いてぐるり首を回す。その最中で、彼は壁際に佇む巨大な黒い影を見た。
険のある凶悪な目つき、硬く引き結ばれた唇、黒い地肌。鋭い眼光を向けられ、千種はひっ、と息を飲んで身を強張らせた。
「どうかしましたか、千種」
彼が身じろいだ所為で隣に居た骸もまた身体を揺さぶられ、寝ぼけ眼を擦った手で欠伸を隠した。幾らか眠そうにしながらも、犬と違って気配に敏感な骸は千種の様子が可笑しいのにも即座に気付いて、彼が囲炉裏の対岸を見上げて硬直している様に怪訝に眉を寄せた。
自分も同じ方向に首を回し、暗がりの中、うっすら浮かび上がる姿に目を見張る。
凍死寸前のところを拾った男が、その場に仁王立ちしていた。
「おやおや……」
どうせ助かるまいと思っていたものが、凄まじいその生命力をもって見事復活を遂げた。感嘆の息を漏らし、骸は男の生への執着心に惜しみない拍手を送った。
「骸様」
ぱちぱちと手を叩く骸を怪訝に見やり、千種が渋い顔をする。今はそんな時ではなかろうに、と同行するようになってから半年が経過したものの、未だに何を考えているのか良く解らない相手に苦慮していたら、床に転がっていた犬が喧しかったのか、眉間に皺を浮かべて口元を歪めた。
骸と千種が離れてしまった為、寒さを覚えたのだろう。もぞりと動いた後に丸くなり、頭を胸に抱きかかえて膝を折る。
親犬とはぐれた哀れな仔犬のように小さくなった彼を見下ろしてから、ふたりは己らを睥睨する相手を挑むように睨み返した。
「……貴様らが、俺を」
「はい、助けました」
男は被せられていた藁をすべて剥ぎ取り、裸身だった。見につけていたものは濡れていたため、身体を冷やすからと骸の指示で昨日すべて取り払われている。
筋骨隆々の、引き締まった体躯はまだ幼い少年らとは比較にならない。絞られた四肢は無駄な贅肉とは無縁であり、黒々とした肌には無数の傷跡が刻み込まれていた。
顔にも一本、中心部を横に薙ぐ形で大きいものが残されている。
明らかに、刀傷だ。
男は、自分を見てもまるで臆さない子供らに眉根を寄せると、どっかり腰を落としてその場で胡坐を組んだ。千種が入れ替わりに立ち上がり、干していた彼の衣服を集めて近付く。男は横目で千種を警戒しながら、差し出されたものを横薙ぎに奪い取った。
礼の言葉は無かったが、千種は特に気を悪くした様子もなく骸のもとへ戻った。
手早く着衣を身に着け、整えた男は、鋭利な棘のような黒髪を手で梳いて後ろへと流し、組んだ胡坐の上に置いた。
ようやく眠りから覚めた犬が、一番怯えた顔で骸の後ろに隠れて彼を見守る。堂々とした骸と、全く興味が無さそうな千種と順に目を向けて、彼はほかに大人が居ないのかと山小屋をぐるり見回した。
まだ十にも満たない子供ばかりが三人、こんな寒波厳しい場所に居るなんて。倒れる直前の記憶を呼び覚ました男の険しい表情に、何を探しているのか悟った骸は、楽しげに喉を鳴らして笑った。
「大人はいませんよ。僕たちだけです」
事も無げに言い放たれ、男が僅かに驚きを顔に出す。だが表情筋は凍りついたままなのか、その微細な動きは骸以外のふたりには全く分からなかった。
骸はまたコロコロと笑い、麻の肌着に毛皮で作った上下を着込んだ男を、頭の先から足の先までじっくり観察した。その格好は平地に住まう人々のような木綿の長着とは違い、機能性と防寒性を優先させた古来の人々の着衣に近かった。
黒い肌、身体中に無数にある傷、獣の皮を剥いで衣服とするその技術と、習慣。
「貴方は山の民ですね」
確信を持って紡がれた骸の声に、今度は分かり易く、男の眉がぴくりと跳ねた。
耳慣れぬ単語に犬が不思議がり、骸の背中から顔を出して男を窺い見る。背中を叩く小さな手に苦笑した骸は、左右で色の異なる瞳を眇め、理解していると思しきもうひとりに説明を頼んだ。
視線だけで合図を送られ、千種が小さく頷く。
「山の民は、土地を持たずに狩猟だけで生活して、あちこち転々としている集団の事」
「……俺らみたいなもん?」
「違う。けど、同じ」
土地を持たない――即ち定住していないので、山の民は地租を払わない。その代わり稲作や畑作をしないので、定期的な食糧の確保が難しい。
彼らは獲物を追って山々を巡り、自然に生えている果樹や木の実、山菜などを採取して、それで生活している。狩った獣の肉は食べ、脂は燃料として保存し、毛皮は衣服として、牙や角は武器に使う。稀に余った皮革等を里に持って行き、食糧と交換する以外、滅多に人里には姿を現さない。
千種の説明に、分かったような、そうでないような顔をして、犬は頻りに首を傾げて最後に骸を見た。
三人の中で最も大人びた少年は、緩慢に彼に頷き返してから男を見詰めた。
千種の言葉にあった、違うけれど同じ、という言い回しに引っかかりを覚えていた男は、その疑問を率直に目で訴えかける。即座に察した骸は、ふっと息を吐いて遠くに視線を投げ遣った。
「僕たちは、河原者ですよ」
事も無げに言い切った骸に、残るふたりは無表情だったが、聞かされた男の表情だけはにわかに厳しさを増した。
そんな輩が何故こんな雪深い山に居るのかと問えば、骸は逆に、貴方こそどうしてこんな山里近くまで降りてきているのかと聞き返した。
「僕らは旅の途中です。安住できる場所を探して」
「子供だけでか」
「ええ。大人は、信用なりませんから」
さらりと毒を吐き、骸は口を歪めて笑った。
先が二本に割れた蛇の舌でも出て来そうな表情に、男は息を静めて首を振った。解らないとでも言いたいのか、首を振って頭を掻き回す。
相手はまだ年端も行かぬ小僧が三人だ。しかし目の前にいる紫紺の髪をした少年だけは、練熟した精神を持ち合わせた狡猾な存在に感じ取れて仕方が無い。見た目と中身とが一致していない気配に、薄気味悪さを覚えずにいられなかった。
親はどうしたのかという疑問は、聞くだけ無駄だろう。山の民も、河原者も、土地を持たない点では同じだ。そしてもうひとつ、共通点を挙げるとするのならば。
「名前を聞いても良いでしょうか?」
唇を舐めた男に、骸が間を置いて問いかける。答えが躊躇されている間に、少年は自分の胸元に右手を当てて先に名乗り、返す手で千種、犬を紹介した。
千種は黙礼し、犬はそっぽを向いて挨拶は無かった。
「ランチア」
求めたわけではなかったが、教えられた以上、自分も名乗らなければならない。掠れる声で忌々しげに男は名を伝え、最後に舌打ちした。
彼の態度は決して良いものはなかったが、教えてもらえたのは素直に嬉しいらしい。骸は満足げに微笑み、膝を叩いて正座を崩した。
囲炉裏には新たに火が入り、薪が爆ぜる小さな音が狭い小屋に響き渡る。食糧の備蓄はなかったので、仕方なく三人が持っていた残りの食糧を分け合い、昨晩よりも随分と量の少ない食事が行われた。
こんな奴に食わせるものはない、と犬は嫌がったが、骸にたしなめられて嫌々ながら従った。
「しかし、河原者を引き受けてくれる場所など、ありはしないだろう」
白湯だけは、棄てるほどある。竹筒の中で溶けた雪を見詰め、空腹感を訴える犬を慰める骸にランチアが聞いた。
それまで騒がしかった三人が、途端に会話を止めて静かになる。泣き喚いていた犬も例外ではなくて、あまりの息の揃い具合に彼は酷く驚いた。
「まあ、そうでしょうね」
「……」
「だから、作るのです」
「なにを」
「僕たちを不当に迫害している連中を潰して、その後に」
自分たちだけの王国を作るのだと、彼は密やかな笑みを湛えて言った。
ランチアは耳を疑い、瞠目して相手を見返す。子供が考え付くような戯言だと受け流せばよかったのに、真に迫る空気に彼は圧倒され、咄嗟に笑い飛ばすことが出来なかった。
おどろおどろしい気配が漂い、ランチアの動きを束縛する。思考さえも停止させる禍々しさに、呼吸を忘れた身体が痛みを発した。
この子供は、いったいなんなのか。
突如沸き起こった疑問に、ランチアは身震いを堪えて自分の左手首を強く握り締めた。爪さえ立てて傷を作り、痛みで己を保ち続ける。まるで蛇に睨まれた蛙になった気分で、寒いのに全身から脂汗を流し、奥歯を噛み締めた彼は自分を見据えるたった十歳そこらの子供をねめつけた。
だのに骸は、怯えるどころかとても楽しげに笑い、目尻を下げると合格だ、と頷いた。
「骸様」
「むくろしゃん?」
「どうですか、貴方も。ただ産まれた腹が陋劣であったが為だけに卑しい身分に貶められた、その悔しさを晴らしてみたいとは思いませんか?」
囁かれたのは、復讐への誘い。
今度こそ驚愕に全身を打ち震わせ、ランチアは立ち上がった。床を踏み鳴らし、静かな声で空恐ろしい計画を告げた子供を唖然と見下ろす。だが骸は動かず、にこやかな笑みを浮かべるだけ。
彼の言葉に最初に反応したのは、犬だった。
彼は握り拳で骸の左肩を叩き、不平不満を並べ立てて、呆然としているランチアを指差した。
「むくろしゃん、俺、こんな獣臭い奴、いやだ」
「犬も充分、臭いよ」
牙を覗かせて駄々を捏ねた彼に、千種が眼鏡を直しながら小さく言った。
横から茶々を入れられたのが気に食わないのか、途端に犬は顔を顰めて黒髪の彼を睨みつけ、威嚇するかの如く鋭く伸びた爪を高い位置に掲げて見せた。しかし千種は慣れた様子で、相手にせずに溜息を零している。
ふたりのやり取りを眺め、ランチアは答を探して視線を泳がせた。
「それに、子供ばかりというのもなにかと不便です。貴方が居てくだされば、多少は旅も楽になろうかと」
大人は信用出来ないが、親子ではなく兄弟として通用するランチアならば構わないと、屈託なく笑った骸の言葉は、恐らく本心だろう。幼い子供三人ばかりで旅など、何も知らない大人が見れば親とはぐれたようにしか映らない。色々と世話を焼きたがるお節介は街道に多いし、買い物の時だって何かと不便だ。宿にも泊まり難い。
だから保護者代わりになる若者が欲しかったのだと、骸が両手を叩き合わせて己の案を絶賛している。彼の中では既に、ランチアは旅の供に仲間入りさせられていた。
犬はまだ不服そうだったが、骸の命令ならば仕方が無いと唇を尖らせた。千種は無表情のままで、何を考えているのかさっぱり読めない。年相応に幼い彼らの中心にある骸は、その笑みの裏側にどす黒い何かを隠し秘めている。
身の毛立つものを感じ取り、ランチアは言葉もなく立ち尽くした。
彼らは危険だと、本能が警告を発している。それは山で狩りをしている時、自分ひとりでは到底太刀打ち出来ない巨大な、子供を連れた母熊に遭遇してしまった時の恐怖にも似ていた。
手を出せば逆にやられる。生か死かの瀬戸際に追い遣られた心境で、ランチアは生温い唾を音立てて飲み込んだ。
「断れば?」
「諦めます」
あっさりと骸は切り替えし、目尻を下げた。
しかし表情を鵜呑みにしてはいけない。諦めると、見逃すのとでは意味が全く違う。彼の言葉は、同行者とするのを諦めてこの場でランチアを殺す、という意味にだって取れるのだ。
可能性を考え、恐らく予想通りの結果になるだろうとランチアは覚悟した。彼らは話を聞いたランチアを、みすみす逃しはしないだろう。復讐をなんの躊躇いもなく言い切るような相手だ、たとえ見た目が幼い子供であっても騙されてはいけない。
骸は底知れぬ闇を抱えた、ランチアが今まで巡り合ったどの獣よりも獰猛な生き物だ。
「……お前たちは、俺の、命の恩人だ」
ハッと息を吐き、彼は拍動を強めて乱れ打つ脈を静め、厳かに言った。
崩れ落ちるように膝を折り、平らな床に座して背中を丸める。顎を伝って滴り落ちた汗が、彼の目の前で黒い床板に沈んでいった。まるで今の自分のようだと、跳ねもせずに砕けて消えた雫を嘲笑い、力なく首を振る。
長い沈黙を挟み、骸が不意に立ち上がった。頭を垂れているランチアに歩み寄り、彼の前でしゃがみ込んだ後、両手を伸ばして項垂れる彼を抱き締める。
ぎゅっと胸に引き寄せられ、ランチアはたじろいだ。
「なにを」
「……ありがとう」
急にどうしたのかと彼のみならず、千種や犬も驚く中、骸は抵抗する彼を縛り付けてその耳元で囁いた。
果たしてその言葉がどういう意味だったのか、何の意図をして放たれたのか、この時のランチアには解らなかった。心からの感謝だったのか、自ら彼の手駒となる道を選び取った彼への懺悔、或いは嘲笑だったのか。
三人の子供にひとりの青年が加わった一団は、降雪が穏やかになっている間に狩猟小屋を離れ、各地の町を点々とした。
日銭を得るために、生まれながらにして異能だった犬、千種は芸を覚え、ランチアもまたそれに協力した。とても卑賤の生まれには思えない身のこなしの骸は、その特性を生かして、どこで覚えたのか見事な舞いを披露してみせた。
流れ者の旅芸人という触れ込みで、あちこちを放浪する。その裏で、彼らは密かにあるものを探していた。
力を得るために。
自分たちを卑しい身分に引き落とした、差別する側の人間に鉄槌を下す絶対の力を得るために。