精霊火 第三夜(第二幕)

 けぷ、とくぐもった息を吐く――浴びせられた獄寺の髪、顔もまた、どす黒い液体に染まった。
 樹上の男が息を飲み、一切避けようともせずに身を差し出した女に呆然と目を見開いた。声など出せるわけがなく、世の道理すべてを茶化してきた彼は言葉をなくし、広げていた黒に濡れた翼の切っ先を風に揺らした。
 腰に吊るした瓢箪型の徳利が乾いた音を響かせる。遠く、村を焼く炎の轟音が鼓膜を震わせた。
 世界が硬直し、流れ落ちた雫が獄寺の頬に跳ねて砕けた。ツ……と顔の輪郭をなぞって伝い落ちる緋色に、彼が二度、瞬きを繰り返す。
 微かに。
 滞っていた大気が流れた。
「……ぇ」
 掠れた声を喉の奥で押し潰した彼が、更に三度、立て続けに瞬きした。
 濁っていた瞳には徐々に光が戻り、現状に理解が追いつかない顔をして唇を開閉させる。鼻を膨らませて息を吐いた彼は、次に吸い込んだ時に一緒に流れてきた噎せるほどの血の臭いに驚き、首に掛かる濡れた髪にも戦慄いて頬を引き攣らせた。
 咄嗟に身を引こうとするが、右腕が何かに引っかかって叶わない。踵が柔らかな地面に突き刺さって、今いる場所が何処なのかもはっきりとしない彼は酷く狼狽し、自分に寄りかかってくる生暖かな存在を拒み、裏返った声で短い悲鳴をあげた。
「ひっ……」
 恐怖に竦んだ表情で目を見開き、薄明かりの中でようやく彼は其処にいるのが誰なのかを知覚する。
 いや、知っていた。これが誰で、今現在どういう状況に陥っているのか、彼はちゃんと知っていた。それなのに、今頃になってやっと脳が働き、なにもかもを正しく理解して、瞠目し、現実を否定して首を振った。
 動揺が隠せない彼に、再び血の雨が降りかかる。
 苦しげに呼吸したビアンキが、閉じきらない口からだらだらと真っ赤な鮮血を吐き出しては、自分の顔を、喉を、胸元を、そして深々と脇腹に突き刺さる獄寺の腕を汚した。
 美しかった顔には死相が浮かび、獄寺が身を捩るのに合わせてぐらぐらと揺れ動く。最早両足で踏ん張って立つのさえ困難を極め、貫通した獄寺の利き腕がつっかえ棒になっている状況だった。
「う、ああ……」
 瞬きを忘れた獄寺が青白く色を変える姉の肌に慌てふためき、肩を引いて腕を抜こうと藻掻いた。しかし堅牢な筋肉組織に絡め取られているのか、なかなか思うようにいかない。その間にもビアンキの顔色は悪くなる一方で、脇腹から滲み出る血は徐々に量を増していった。
 生温い感触に包まれ、血を吸って赤く染まった髪が獄寺の首筋に張り付く。
 なによりも自分がこの状況を生み出したことが恐ろしく、そしてこうなることを一時でも望んだ自分が居たことに、彼は震撼した。
 違う。望んでなどいなかった。
 だが、では何故、こうなった。
 憎かったのか、この人が。姉が。
 鬼の里での迫害から身を挺して守り、生きる術を教えてくれたこの女性を、自分は、殺したいほど憎んでいたのか。
「な、んで」
 分からない。
 解らない。
 言葉は掠れ、獄寺は頭の中が真っ白になっていくのを感じた。熱を持った腕が動く度に、ぐちゃりと生々しい音が脳内に響き、内臓を抉る感触が肌を通して彼を襲った。
 確かに彼女は厳しく彼を鍛え、何度となく死ぬ様な目に遭った。何故自分がこんな思いをしなければならないのかと当り散らし、暴言を吐いて思い切り引っ叩かれたのだって、一度や二度ではない。
 けれど思い返せば、そんな仕打ちのひとつひとつも、彼女が自分を慮り、案じてくれていたのだと今なら分かる。彼女だって辛かったはずだ、人と鬼の混血である異端者を庇い、守るには、あの里はあまりにも閉鎖的で、優しくなかった。
 彼女は生粋の鬼なのだから、獄寺など放っておいてあちら側に与していれば、一緒に石を投げられるようなことも無かったろうに。それを、片親違いであっても弟であり、家族なのだと言って守り通してくれた。
 そんな彼女を、自分は――
「うっ」
 涙があふれ出し、止まらない。だのに清らかなこの水でもっても、彼女の流す血を洗い落とすのは不可能だった。
 途切れ途切れの呼気が細くなっていくのを感じ取り、獄寺は左手を弱々しくも持ち上げ、しな垂れかかる彼女の肩を抱こうとした。身動ぎし、深く突き刺さっていた右腕の力を抜く。
「姉貴……」
 情けない涙声でビアンキを呼んで。
 ぴくん、と彼女の両肩が跳ね上がる様にぎょっとした。
 一部始終を見守る樹上の男が、即座に気取って苦笑を浮かべる。
「あ、姉貴?」
「ほんと、あんたって子は……」
 か細い声で呆れ交じりに囁き、ビアンキは前に垂らしていた首を持ち上げた。痛いだろうに堪え、時間を掛けて獄寺を至近距離から見つめる。
 優しげな笑みを口元に浮かべ、
「この馬鹿息子がーーーーー!」
 言葉のあやで若干事実とは異なることを叫び、怒髪天の勢いで握り拳を獄寺の左頬に叩き込んだ。
 血飛沫を巻き上げて彼の身体が宙に舞い上がり、周囲の木々を薙ぎ倒して地面へと倒れこむ。頭の上でくるくると星を回した彼は、自分の身に何が降りかかったのかさえ理解できぬまま、顎の骨が砕ける寸前だった頬を真っ赤に腫らした。
 暴走した鬼の力が残っていなければ、頭部が半壊していたかもしれない。大岩さえ打ち砕く鬼の一撃をまともに食らって五体満足で居られる方が奇跡で、頑丈さ、打たれ強さだけは一人前だな、と樹上の男が呵々と膝を叩いて笑った。
 ぜいぜいと肩で息をしたビアンキは、獄寺を殴り飛ばした姿勢のまま数秒間停止し、やおら顔をあげると何事も無かったかのように血塗れた髪を梳き上げた。
 脇腹の傷はぐじゅぐじゅと肉同士が擦れ合う音を零しつつ、ぱっかり開いた着物の穴の中で急速に再生を開始する。確かに貫通していたはずなのだが、既に外壁である皮膚は細胞の再結成を完了させており、あっという間に向こう側が見えなくなった。
 凄まじいまでの鬼の生命力、そして治癒能力。角以外人間と殆ど変わらない外見をしているが、これを見せられると、彼女らは明らかに人とは異なる種だと誰もが思い知らされるだろう。
 愉快だと笑い転げる男の声に不快感を露にし、ビアンキは顔を汚す血も袂でぞんざいに拭って、咥内の唾も吐き捨てた。獄寺は数丈先で地面に半分埋もれた状態で、ひくひくと指先を痙攣させていた。意識までもが一緒に吹き飛んだらしく、数秒のうちに起き上がる気配は非常に薄かった。
「馬鹿ね。私が、貴方如きの攻撃で死ぬわけがないでしょう」
 避けられなかったのではなく、避けなかったのだ。なんてことないように言い放ち、ビアンキは白さが際立つ足を交互に動かして斜面をゆっくりと下った。倒れ伏す獄寺の脇に立ち、蹴り起こしてやろうと駒下駄の先を浮かせたところで、彼の目が空を向いてしっかり開かれていることに気付いた。
 彼は気を失ってなどおらず、ただぼんやり、木々の隙間から覗く夜空を見上げていた。
「ハヤト?」
 だが、目を開けたまま気絶している可能性も皆無ではなくて、ビアンキは怪訝にしながら獄寺の名を呼び、折角持ち上げたのだからと転落時に強かと打ったであろう彼の頭を容赦なく蹴飛ばした。
「あいでっ」
 瞬間、苦痛に顔を歪めた彼が非難の声を放ち、大の字に広げていた四肢のうち、左手を引いて蹴られた場所に押し当てた。
 無碍に扱われた頭部を労い、慰めて、視線の向きを変えてビアンキを見る。下から仰ぐ彼女は、身にまとう着物を乱して赤く斑模様に染めていても、魂が持つ美しさは一切損なわれていなかった。
 敵わないな、と獄寺は喉の奥で笑った。
「何笑ってるのよ」
「いでえ!」
 まだ蹴られた痛みが続いている為、彼の笑顔が皮肉めいた引き攣ったものに映ったらしい。不機嫌な声でビアンキがもう一発叩き込んできて、今度こそ甲高い悲鳴を上げた獄寺は、もうこれ以上好き勝手されてはたまらないと身体を起こし、柔らかな地面に腰を据えた。
 泥まみれの自分自身を気にして首にまとわりついた枯葉を払い、改めて姉を見詰める。
「ちゃんと、生きてんだな」
「其処ら辺に転がってるような、軟弱な人間と一緒にしないでちょうだい」
 確かめるように言った彼に、ビアンキは当たり前だと胸を反らせて不遜な態度で告げた。
 けれど獄寺は、まだ右手に微かに残る生々しい感触を気にしてか、視線を伏すと右へ流し、赤がこびり付いた手を握っては広げ、その仕草を三度繰り返した。
 真一文字に引き結ばれた唇は何の音も発せず、眉間に寄せられた皺は深い。苦悶に満ちた瞳は翳り、心の中で己が罪を問うて自責の念に囚われているようでもあった。
 黙り込んだ弟に呆れた顔をし、腰に手をやったビアンキがその場で膝をついた。
 ガサリと木の葉が音を立て、動いた気配に獄寺が視線だけを持ち上げる。近付いた姉の顔に彼は目を丸くした後、最早これは自分自身ではどうにもならない脊髄反射で、サッと顔から生気を掻き消し、迫り上がって来た吐き気に息を呑んだ。
 ビアンキ以上に肌色を青白く染め、呼吸さえままならない状況に陥って手をじたばたと振り回す。未だ長い爪がビアンキに引っかかり、彼女の頬に赤い筋を新たに三本、刻み付けた。
「っ」
 微細な感触を肩に感じ取り、獄寺がびくりと大仰なまでに反応する。人を傷つけた所為で自分までもが傷つくような、他人を恐れる余りに自分をも嫌う子供の顔をして、唇を噛み締める。
 ビアンキは滲んだ血を手の甲で雑に拭い、微笑んだ。
「これくらい、平気だって言ってるでしょう」
 顔の傷だって、簡単に癒える。肉体を構成する組織がそもそも人間と根本的に違っているのだから、痕が残ることだって無い。
 獄寺とて、知らないわけがない。だが彼女の綺麗な肌を怪我してしまったのは事実で、彼は瞬きを忘れた目に涙を浮かべ、謝りたいのに素直になれず、どうしていいのか解らないまま固まってしまっている。
 里に居た頃から何も変わっていない。親から引き離され、愛情に飢え、誰からも必要とされず、自分の命は虫けらと同じ程度でしかないと思い込んで、決め付けて、故に必死に足掻いて、居場所を探していた頃の。
「馬鹿な子ね」
 ついに土気色をした額に両手を押し当てた獄寺に肩を竦め、ビアンキは妖艶な笑みを口元に浮かべると、赤く染まった袂を持ち上げて彼の肩に手を置いた。そのまま意外に大きく育った背中へと流し、視線を斜めにずらして身を傾ける。
 寄りかかられて、獄寺は「え」と目を瞬いた。
 触れ合った箇所から流れてくる体温は温かく、柔らかい。香を焚きつけているからか、ほんのりと甘い匂いが血の錆びた臭いに紛れて感じられた。
「姉貴……?」
「そういえば、昔、毒の実験台に何度も貴方を死の縁に追い遣ったわね」
 これはいったい、何事か。唖然として他に言葉が浮かばない獄寺の耳元で、頬擦りをした彼女がコロコロと喉を鳴らして言った。
 瞬間、嫌な記憶が様々に蘇り、怒涛の如く押し寄せて来て獄寺は渋い顔を作った。そもそも獄寺が彼女の姿を見る度に吐き気に襲われて倒れてしまうようになったのは、彼女自身が今告白した通り、毒味役を何十回、何百回と体験させられたからだ。
 終いにはビアンキ自体が彼にとって毒と化し、里を追放されるまでの数年間は、それは酷い有様だった。いっそ死んでしまった方が楽だろうに、頑丈な半魔の身体だが非常に憎らしかったのを覚えている。
「あら、そうだったかしら」
「忘れてんじゃねーよ」
 自分で認めたくせに、速攻否定に走った彼女に頬を膨らませ、獄寺は鼻を鳴らすとすぐ前にあった彼女の細い肩に顎を置いた。
 誰かに抱き締められたのは、覚えている限りでは、これで二度目だ。
 変な感じだった。今までこうやって、誰かの腕に包まれたいと思って願ってきたのに、実際にやられると変に気恥ずかしく、照れ臭く、今すぐ振り解いてしまいたくなる。
「じゃあ、これで帳消しね」
「なにが」
「お互い、恨みっこなしよ」
 過去の過ちと。
 現在の罪と。
 相殺して、禍根は残さない。
「……」
 無言で告げられた想いの意味を解し、獄寺は下唇を噛んだ。不公平な気もするが、それで片付くのであれば、幾らか心は晴れる。
 自分はいつだって彼女の尻に敷かれてばかりで、一度くらいやり返したいと思っていたのも確かだ。だがもう、そんな幼稚は発想は終わりにしよう。
「ねえ、ハヤト」
「んだよ」
「私は貴方のこと、嫌いじゃないわよ」
「なっ。なんだよ、急に」
 不意に囁かれて耳まで真っ赤にし、獄寺はついにビアンキの腕を振り払って彼女を真正面から見返した。
 途端に一度は遠ざかった吐き気に襲われ、格好悪く前屈みになって悪寒を堪えた彼に、ビアンキは楽しげに目を細めた。
「貴方は?」
 よしよしと頭を撫でてやる。そういえばこんな風に彼をあやすのも、数年ぶりではなかろうか。
「うっ、せーよ。嫌いに決まってんだろ!」
「あら、それは残念」
 全身から脂汗を滲ませた獄寺が怒鳴り返し、ビアンキはちっとも残念がっている様子もなく目尻を下げてさらりと言った。
 そして下ろした手を彼の膝元に置き、背筋を伸ばして俯いている彼に覆い被さった。
「なら、今の貴方が一番守りたい人は、誰?」
 そっと、囁きかける。
 真下で獄寺が戦慄き、瞠目して地面に置いた手を握り締めた。浮き出た汗が珠になって甲に落ちて砕け、彼は苦しげに、二度続けて息を吐いた。
 忘れかけていた今を――思い出した。
「十代目!」
 弾かれたように顔をあげ、叫ぶ。蹲ったまま腰から上を捻って振り向いた先では、赤黒い炎が地上を舐めて進む様が、依然変わる事無く続いていた。
 はっと息を吸い、飲み込む。怒涛の勢いで拍動を開始した心臓が痛みを発し、彼はあの場所で展開しているだろう最悪の事態を想像し、慄然と背筋を震わせた。
 何故忘れていた。
 どうして思い出そうとしなかった。
 並盛を襲った災禍と、その元凶たる存在と、目的であろう少年の姿を。
「十代目が危ない!」
 彼は身を起こし、駆け出そうと両手を膝の前に衝き立てた。しかし一瞬の躊躇を挟み、長い髪で顔の大半を隠したビアンキに視線を流した。
 気付いた彼女が口元を緩めて笑い、さっさと行け、とばかりに犬を追い払う仕草で右手を揺らした。
「何をしているの。やる事があるんでしょう?」
「姉貴」
「今度はちゃんと、自分で守りなさい」
 彼女を此処に残して行っていいものか。迷う彼の胸を押し、ビアンキは言った。
 意味を読み取れず、獄寺が変なものを見る目で彼女を見返す。
「この村にいたいのでしょう、ずっと。だったら、私に構う必要なんて何もないのよ」
 鬼だとか、人だとか、そんなものは一切関係なく。
 自分で選んで、自分で決めればいい――共にありたいと願った人の隣に居る為に、今最優先させるべきは果たして、なにか。
「誰かを愛せないようでは、誰も愛してなどくれないわ。だから貴方は、もっと胸を張っていいの」
 やっと大切だと思える人にめぐり合えたのだから、と彼女は呆然とする獄寺の額を小突き、茶目っ気に溢れた笑顔を向けた。
 誰の事を指して言っているのか理解した獄寺の顔が見る間に赤くなり、湯気を立てて爆発する。
「ま、待てよ。なんでそうなるんだよ。俺はただ十代目に、だな。立派な蛤蜊家の当主になっていただこうと思って、それで」
「あら? 私はあの坊やだなんて、ひと言も言ってないわよ?」
 わたわたと慌てふためいている弟の反応を面白がり、曲げた指を下唇に置いた彼女が意地悪く目を眇める。婀娜な風貌に獄寺はどきりと胸を鳴らし、墓穴を掘った自分自身への怒りも込めて、握り拳で地面を叩いた。
「兎に角、姉貴が考えてるような、そんなんじゃないんだからな!」
「はいはい。そういう事にしておいてあげるわ」
 反動を利用して立ち上がり、野袴に付着していた土を払った獄寺が、人差し指を彼女につきつけて大声で宣言する。一方のビアンキは涼しげな態度で掌を顔の前で返し、解ったから早く行けと再度手首から上をひらひら揺らした。
 言い足りないところが多々ある獄寺だったが、これ以上彼女に振り回されるのも真っ平御免。悔しげに歯軋りをした彼は仕方なく踵を返し、覚えてろよ、と負け犬の遠吠えを残して斜面を滑るように駆けて行った。
 暗さと視界の悪さで彼の姿は直ぐに見えなくなり、彼が居た気配も里から来る熱風に掻き消される。膝を崩して座り直したビアンキは、貫かれた左脇腹に右手を添えてカクン、と首を前に倒した。
 樹上から降りた男が傍らに立ち、痩せ我慢も良いところの彼女を嘲笑った。
「無鉄砲も良いところだな」
「黙りなさい、この腐れ烏」
 ゆったりとした仕草で腕を組んだ男の感想を突っぱね、ビアンキはふいっと顔を逸らして蘇った痛みに唇を噛み締めた。
 組織の再生は途中から勢いを失い、鮮血は未だ止まらず、彼女の腰を伝って直接地面に注がれていた。獄寺からは見えないように隠された傷口は、深い。
「死ぬのか」
「……死なないわよ。でもあんたが此処に居たら、死ぬかもしれないわね」
「そりゃ、悪いことをした」
 暗にこの姿を維持できなくなっていると告げられ、男は肩を竦めると閉ざした翼を広げた。旋風を巻き起こし、空になった徳利を打ち鳴らして空中へ舞い上がる。そうして再び樹上の人となり、北に坐す深き山に視線を走らせた。
 地上にひとり取り残されたビアンキは力なく笑って、獄寺が去った方角に目を向けた。ふらふらと前後に上体を振った後、右を上にして地面へと倒れこむ。
 薄影の月だけが見守る中、彼女は静かに目を閉じた。