精霊火 第三夜(第一幕)

 しゃんしゃん、しゃんと鈴の声。
 こんちきちん、と鉦の音。
 ぼんやり浮かぶは灯篭の火、淡い橙色の輝きひとつが小さな太陽。
 空には満天の星。月は澄み、薄く広がる雲を柔らかく照らしている。
 濃い藍の帳を下ろした夜、けれど人は眠りを忘れて笑い、謡い、踊り、駆けた。
 砂利の大通り、わらわらと流れる人の群れ。取り囲むのは大きな鉾、花笠。
 人の波は引くを知らず、どんどん押し寄せ黒い頭が通りを埋める。突き出るは鉾の先のみ、それを追いかけ子供が走る。
 転ぶ子、泣く子。囃し立て、指笛を吹くは大人たち。女達は優美に着飾り、花簪を髷に刺して白粉たっぷりに紅は艶やか。
 異界の宴に出向いたような華やかさ。幻惑に色めく世界は甘く、穏やかで、良い匂いがした。
 良く見えないと結んだ手を引く。困った顔をして山吹色の長衣の女が腰を屈めた。
 輪郭、着物の色ははっきりと分かるのに、顔は黒一色のっぺらぼう。お歯黒の口が何かを告げるが、聞こえない。
 女は顔を上げた。向かいに立つ誰かと話をしている。俺は後ろを見た、太い両腕が降りてきた。
 腰を掴まれ、軽く抱えられる。自分の小さな足が草履を垂らし、ぶらん、と揺れた。
 生まれて初めての肩車、途端に狭かった世界が広がった。
 歓声をあげ、手を叩いてはしゃぐ。嬉しかった、とても。
 男の顔も、真っ黒。墨で塗りつぶされて、何も分からない。
 何かを言われた、俺も何かを答えた。
 聞こえなかった。
 鉾、花笠がゆっくりと流れて行く。人の波がそれに従う。漂うのは数多の光。
 綺麗だと思った。俺は遠くにあるなにかを指差した、その小さな手を肩車の男が捕まえた。
 握られた、温かかった。
 女が何かを囁く。聞こえなかったのか男が聞き返し、相手をして貰えなくてつまらないと幼い足が揺れた。
 笑い声、祭囃子。喧騒は続き、興奮が渦を巻く。
 赤い、明るい。
 炎が。
 来年もまた来ると駄々を捏ねた。手を引く女が困った顔をした。それでもまた来たいと言い張った。もう無理だと言われて、ついに泣き出した。
 気が付けば男の姿は無い。どこにも、無い。
 祭囃子は遠い、遠い彼方。名残ばかりが微かに耳に届く。森の中、暗い道、女とふたりだけ。山道、険しい坂、梟の声が響く。
 泣いた。また一緒に来たいと言った。みんなと一緒が良いと叫んだ。
 女は首を振った、強く抱き締められた。
 女も泣いていたと思う、けれど分からない。ごめんねと、言われた気がした。
 寂しかった、哀しかった。泣きじゃくっていたら、また謝られて、余計切なくなった。
 女の顔を見た。優しい色の髪をしていた。
 綺麗だった。
 ――姉貴……?
 思ったが、違うようだった。彼女よりももっと大人びて、淑やかで、哀しい目をしていた。
 炎が。
『やっぱりこいつは危険だ。だからあの時、殺しておくべきだったんだ!』
『お前の母親が禁忌を犯しさえしなけりゃ、里はずっと平和なままいられたんだ』
『お前の中に、例え半分だけでも鬼の血が流れているからって、俺たちはお前を同輩だとは認めない!』
『貴様の母親が自ら岩室に籠もっている意味を考えろ。人と交わった挙げ句、お前を産んだ穢れを祓う為だろうが』
『母親の恩を無駄にしおって。ビアンキも、もう庇いきれまい』
 聞こえる、罵詈雑言。日々浴びせられる大人たちの薄汚れた言葉と、視線。
 友達はいなかった、誰も近付こうとしなかったから。
 力の使い方は姉貴から教わった。毒のある植物とそうでないものの見分け方、獣の捕り方、生活する為に必要な道具の作り方も、全部。鬼の文化に文字は無かったが、人間社会からこっそり持ち込んだ書物を彼女は与えてくれた。貪るように読んだ。
 姉貴と、姉貴がどこかから調達する本の中身が、俺の世界の全てだった。
 鬼の連中は嫌いだった。自分を嫌う相手を、どうやって好きになれるというのか。
 けれどやり返せばその数倍になって返された。石を投げられ、棍棒で打たれる。痛いのは嫌だが、後からもっと痛い思いをするのも嫌で、懸命に我慢した。
 耐えて、耐えて、耐え忍んで、限界を超えて、ある日貯め込んでいた感情が爆発した。
 村を追放された日、山道を下る最中に見た女の影。あれは姉貴だと、ずっと思っていた。
 人間は鬼よりも少しはまともかと思ったが、あまり違わなかった。むしろ小さくまとまっていた鬼の里の方が、相手を巧く避けさえすれば嫌な思いをせずに済んだだけ、良かったかもしれない。
 慣れない人間社会に溶け込むのは、至難の業だった。文化が違い、無駄に多いしきたりに縛られて身動きさえ取れない。鬼の血を半分引くというだけで煙たがられ、恐れられた。銀の髪という見た目も手伝い、町を歩いているだけでも奇異の視線が向けられる。
 鬱陶しくて、屋敷に引き篭もった。世界がまた、狭くなった。
 強くなりたかった。
 強く在りたかった。
 誰の目も気にせず、誰かに怯えずに済む、弱い自分を隠さなくて良い場所が欲しかった。
 必死に術を学んだ。屋敷中の本を読み漁り、力を追い求めた。ひとりきりで生きていく為には、それ以外術が無かった。それしか知らなかった。
 腕は確実に上がった、これでもう誰にも見下されずに済むと信じた。けれど父親だという男は喜ばなかった、奴の母親はあからさまに俺を恐れて拒んだ。
 奴は俺が鬼の里にいる間に人間の妻を娶り、子を成していた。その義妹とは、一度も顔を合わせたことが無い。鬼の俺が取って食うとでも思っているのだろう、俺も特に会いたいとは思わなかったから、丁度良かった。
 鬼の里でもひとり、人の里でもひとり。
 やがて俺は、蛤蜊家に呼び立てられた。九代目の容態が悪化の一途を辿り、後継者選びが急務とされている話は聞きかじっていたが、末端の弱小家に属する俺には、なんら関係ないことと決め付けていた。
 状況が一変した。それは雪解け水が小川に流れ、花の香りが溢れる季節だった。
 俺には、なにもかもが眩しかった。
 妬ましかった。
 俺が望んでも、どれだけ願っても持ち得なかったものを、当たり前のように享受している。家族に愛され、友に恵まれ、他者から命を脅かされる心配もなく、長閑に、穏やかに、漫然と時を過ごす。
 どうして自分には与えられなかったのだろう。どうして彼にばかり与えられるのだろう。
 狡い。
 猾い。
 ずるい。
「哀れね、……ハヤト」
 女が嘆く。腕を組み、柳眉を顰めた彼女は、長い髪を梳いて後ろへと流した。
 深い薮が覆う森の中、獣が踏み固めた細い道の最中に佇み、ビアンキは眼下から現れた青年を見据えた。銀髪を泥で汚した彼は、目に鮮やかなその色に遠く燃え盛る炎を照り返し、濁らせていた。
 樹齢三百年は越えるだろう杉の木に背を預けて立つ彼女は、美麗な顔を顰めて露骨に不快感を表に出した。
「どーすんだい?」
 頭上から声がして、見れば別の木の枝に男が腰を下ろしている。背中に生やした黒い羽根を動かして、細い足場から落ちぬよう調整しつつ、ほろ酔いの赤ら顔で問いかけた彼に、彼女は益々眉間の皺を深めた。
 鬱陶しいから去れと言っても、どうやら最後まで見守る気でいるらしい。茶々を入れられるのは好きではなく、ビアンキは剣呑な目つきで闇と同化している男を睨み、最後に力なく息を吐いて肩を落とした。
 急峻な斜面は下草が少なく、腐葉土が積もって柔らかい。踏ん張りが利きづらい足場ではあるが、特に気にする様子もなく、彼女は駒下駄の右足を僅かに引いてしなやかな指で耳元の髪を掻き上げた。
 稲荷の社がある広場は炎に包まれ、その範囲は緩やかながら確実に広がっていた。何人かが逃げ遅れて炎に巻かれたのだろう、断末魔の叫びは人の聴覚の遥か上を行くビアンキの耳にもしっかりと届いていた。
「馬鹿な子」
 異父弟の虚ろな眼を見詰め、ぽつり呟く。紅をさした唇は赤く、額から覗く小さな二本の角がなければ、彼女が人ならざる存在だとは決して分からないだろう。
「あんな簡単な術に引っかかるだなんて、修行が足りないわ」
 獣の如き唸り声をあげ、ビアンキを前に牙を剥いている獄寺にあっさりと断言し、彼女は腹立たしげに爪を噛んだ。遠くからずっと見ていたが、あんな子供だましの幻術に惑わされてしまうとは思わず、拍子抜けだった。
 知識も耐性も持たないただの村人ならまだしも、獄寺は鬼の血を半分とはいえ引き、更に退魔師としての修練も積んでいる。広場を囲む形で並べられた篝火と幻惑の舞が併せ持つ意味を即座に悟れなかったのは、完全なる獄寺の落ち度だ。
「そう言ってやりなさんなや。あっちのが上手だったって事だろ」
「ハヤトを馬鹿にしないで頂戴!」
 樹上の男が獄寺を庇う発言をしたが、途端にビアンキは角を逆立てて怒鳴った。最初に獄寺を卑下したのは誰だったのか、あまりにもあんまりな彼女の反応に男は肩を竦め、乾いた笑みを浮かべて誤魔化した。
 ばさり、羽根を動かして風を打つ。
 けれど実際のところ、全く警戒しておらず油断しきりだったとはいえ、彼の心にすんなり潜り込んでみせたあちらの手腕が勝っていたのは間違いない。百人を超える村人を捕縛し、傀儡とする。言うのは簡単だが、なかなか出来るものではない。
 周到に準備をして、隙を狙っていたのだ。人々の歓喜が極まり、興奮も絶頂に至ったところで術を仕掛ける。見破って切り抜けるのは至難の業。
 上出来すぎて、空恐ろしい。男はお見事と手を叩いて敵を褒め、口笛を吹いてからかった。
「切り裂くわよ」
「おお、怖い、こわい」
 不謹慎な楽を聞かされたビアンキがこめかみに青筋を立て、利き手の爪を長く伸ばしてその鋭利さを燃え盛る炎の彩に晒した。きらりと輝く細い刃に男は呵々と笑って枝を飛び移り、彼女の後ろから前へ居場所を替えた。
 頭上を覆う枝が風もないのに揺れ、獰猛な野獣を模して息を吐いた獄寺が物音に顔を上げた。
 瞳に力はない。術の発動に邪魔になるからと短く切り揃えられていた彼の指の爪は、今現在、数寸ばかり長く伸びていた。
 口角から涎を垂らし、獲物を求めて視線を彷徨わせる。やがて見出したビアンキに狙いを定めたらしく、彼は日頃から武器としている呪符ではなく、己の肉体を凶器とし、構えを取った。
 獄寺の目に映るビアンキは、勿論ちゃんとビアンキの姿をしており、彼女が実の姉であるという認識も形成されていた。けれど彼の心は、彼女を自身の姉とみなしながら、同時に彼女を憎むべき対象としてすり替えていた。
 愛すべき存在――己に近しい存在を憎み、恨み、怒り、滅ぼせ。そう命じられ、その通りに実行する。理性を取り戻した時、身近な存在が朽ち果てた姿を見て、己の手が血まみれになっている様を知り、限りない絶望に落ちるように。
 良い趣味をしていると術者たる骸を評し、樹上の男は遠き地平に目を向けた。
 盆地に広がる豊かな田畑を、蛇の舌が如き炎が舐めていく。旅芸人一座の舞台を見に行かず、無事であった村人は先ず炎に驚き、そして広場から散った傀儡に突然襲い掛かられ、混乱を拡大させた。
 阿鼻叫喚の図そのままの光景が、村の東から西、そして南北へ徐々に展開されつつあった。
 今現在の並盛の村に被さる格好で現れた、色の抜けた古ぼけた景色に眉目を顰め、男は嫌な記憶を呼び覚まされたと舌打ちした。彼の下では獄寺がじりじりとビアンキに肉薄し、自然体で構えて攻め入る隙を与えない彼女へ恫喝の声をあげていた。
 彼はビアンキを前にすると、幼少期の厳しい修行が蘇るのか、泡を噴いて卒倒することが多かった。けれど今は、脳が幻術に支配されているからだろう、無様な姿を晒すこともなく彼女への距離をじわりと詰めていった。
 ビアンキはまるで動かず、涼やかな眼でそんな弟の動向をじっと見詰める。瞳に宿る色は一種の哀れみを湛え、複雑な色彩を作り出していた。
「頭は良い筈なのにね。馬鹿な子」
 いや、良すぎたからこそ、こうも呆気なく敵の術に堕ちたのか。
 手間の掛かる弟だと嘆息して、ビアンキは獄寺から繰り出された第一撃を易々と受け流し、僅かに乱れた長い髪を胸元に抱き寄せた。
 細い爪の先で軽く梳き、整えてから背中に流す。余裕の仕草に樹上の男はやれやれと肩を竦め、一旦は開いた間合いを再度詰める獄寺に憐れみの目を向けた。
「いいのか?」
「構わないわ。この程度で朽ちるなら、それまでの子だったのよ」
 母の願いは叶わず、時代に及ばなかっただけのこと。あっさりと言い放った彼女に男は最早何を告げても無駄と悟り、背中の翼を広げて自身の周囲に風を起こした。
 立ち去ろうという気配を感じ取り、額に二本の角を持つ妖艶な女がさっさと行けと手を振った。
「つれないねえ」
「邪魔だって言ってるでしょう」
 振り向きもしない彼女の素っ気無さを笑い、男が遠方に目を向けた。
 村の一角に滾った赤い炎は、数多の憎しみと悲しみを飲み込んで、じわり、じわりと地表を覆い尽くすべく両手を広げている。しかもあの炎は、ちょっとやそっとの水では決して消えない。
 地獄から召喚された炎だ。完全に消すには、それこそ神力をもって清められた霊水を用いなければ。
 並盛山の源泉を使えば、或いは可能だろう。しかし代わりに、泉そのものが干上がってしまう。
 それは即ち、水に恵まれたこの里が渇く事に繋がる。
「どうするんだかねえ」
 一向に姿を見せず、気配も漂わせず、どこかへと掻き消えてしまった赤ん坊。山の守護者であり、沢田家代々の守役でもある黄色い頭巾を被った存在を思い浮かべ、男はばさりと背中の翼で空を叩いた。
「ぐぎぃゃぁぁぁ!」
 丁度地上では甲高い声をあげ、ビアンキに痛烈な一打を食らった獄寺が斜面を滑り落ちようとしていた。
 途中で細い木に引っかかり、即座に飛び上がって体勢を整える。日頃の体力の無さが嘘のようで、しつこく、何度倒されても食らいつく彼には、ビアンキもほとほと呆れ顔だ。
「何度やっても、今の貴方の戦い方じゃ、私には勝てないわよ」
 鬱陶しそうに言い放ち、疲れたと右の手首を左右へ振る。態度からはとても本気を出しているとは思えず、獄寺は悔しげに顔を歪めて舌打ちし、狼の遠吠えにも似た咆哮を上げた。
 顔の前で交差させた手を横に薙ぎ、もっと強力な武器を求めて姿勢を低くする。鋭く長く伸びたその爪では、袂に仕込んだ呪符を取り出すのは最早不可能だった。
 呆れ調子に拍車をかけ、ビアンキがいい加減にしろと肩を竦めた。
「訂正するわ。やっぱり、馬鹿だわ」
「自分の弟に、容赦ねえな」
「貴方、まだ居たの」
 てっきりもう去ったとばかり思っていた相手から言われ、ビアンキは形の良い眉を吊り上げた。
 遠くを見ていた男は、こっちの方が面白そうだからと平然と嘯き、持ち上げた腰をどすん、と枝に落とした。明らかに不機嫌に輪をかけたビアンキが、勝手にすれば良いと怒鳴って飛びかかって来た獄寺を右に薙ぎ払う。
 土塊を撒き散らし、地面に太い筋を残して仰向けに吹っ飛んだ彼が背筋だけで瞬時に起き上がった。獰猛な獣を思わせる唸り声には理性がまるで感じられず、鬼本来の闘争心に支配されている様子が窺えた。
 艶がかった銀髪は黒く汚れ、日焼けと無縁の白い額には、それまで無かった筈の小さな突起が覗いていた。
 気付いたビアンキが顔を顰め、初めて動揺めいたものを表情に滲ませた。
「あの子……」
「おー、おー。本性出てきたか?」
 手を叩き合わせた男の楽しげな声を苛立ちのうちに聞き、ビアンキは苦悶に唇を噛み締めて傍に生えていた罪もない木の幹を抉った。
 鋭い爪で三本の筋を刻みつけ、それでも尚鋭利さを失わない凶器を闇夜に煌かせる。
「本当、どうしようもない子だって思ってたけど」
 哀れみと悲しみを併せ持った目をして、半魔の力を暴走させようとしている弟を見詰め、彼女は力なく首を振った。
 鬼の里を追放されたときも、人の里を追われた時も。そして今もまた、彼は自分で、自分の居場所を消し去ろうとしている。
 安息の地を追われる理由を自分自身で作り出している事に、どうして気付かないのだろう。
 こんなことをさせる為に、人の世界へ送り出したわけではないのに。
「ぐ、う……うがあぁぁぁぁ!」
 体内を駆け巡る鬼の力に圧倒されるのか、獄寺は苦しげに喚いて全身を戦慄かせた。天に向かって吼え、人の形を捨てて異形に成り下がろうとする有様に、ビアンキは苦悶の表情を浮かべ、初めて辛そうに視線を逸らした。
 修行の最中、禁足地と定められた鬼の領地に偶然迷い込んだ挙句、食糧が尽きて倒れた若い男を介抱したのは、その里に住む鬼の娘だった。
 既にひとりの娘の母となっていた彼女だが、死に瀕した男を捨て置けず、里の同胞に悟られぬよう洞窟に隠して、日々細やかに世話をするようになった。外の世界をまるで知らぬ鬼の女は、男が語った人間の暮らす華やかな世界に、段々と心惹かれるようになっていった。
 同じように男もまた、美しく心優しい鬼の女に自然と惹かれていった。
 男の傷が癒えようとした頃、頻繁に里の外に通う女を怪しんだ彼女の夫が跡をつけ、蛤蜊家が定めた禁を破り、迷い込んだ人間が居ることを知った。話は瞬く間に里全体へと広がり、掟を忘れた人間と、これを匿った女を焼き殺せと鬼達は奇声を上げた。
 最早話し合いでは納まらぬと察した女は男を逃がそうとし、男は己を庇ってひとり償いをすべく戻ろうとした女を思いとどまらせ、人里へと連れ去った。
 しかし鬼の里から女を連れ出したと知れれば、蛤蜊の取り決めに背いて禁域に足を踏み入れたことも当然露見し、罰が科せられる。最悪お家取り潰しとなるのを恐れた男は、両親が待つ屋敷には戻らず、ひなびた村で女と共に生活する道を選んだ。
 やがてふたりの間にひとりの子供が生まれた。男の子の額には、顔を隠し続けなければならない女とは違い、角は生えていなかった。
 とはいえ、成長するに従って表に出てくるかもしれない。人と鬼の血が混じった子がどんな風に成長するのか、前例が無い為誰も分からない。ただ女は、このまま人の形を保ち、平和で穏やかな一生を送ってくれるよう切に願っていた。
 だがその思いは、意外な形で裏切られた。
 二歳にも満たない幼子が癇癪を起こし、操りきれぬ力を露見させ、村を焼いたのだ。
 鬼の女とその子供が居るという話は即座に広まり、都に居た男の両親の耳にも――蛤蜊家の老獪にも届けられた。
 季節は夏の終わり、秋の入り口。丁度、今の時期。
 男は、自分が起こした騒動など露も知らずに笑っている息子と、妻であった鬼の女を連れて、都の祭見物に出かけた。それまで人目を憚り、遠出など一切した事のない家族の、最初で最後の家族旅行だった。
 この日を境に鬼の母子は姿を消し、男はひとりで親元へ戻った。蛤蜊家によって下された処分は重く、男は長く謹慎生活を強いられる。
 御家取り潰しの災は避けられたが、門閥は格下げされた。元々廃れる一方だったので男は特に気にしなかったのだが、周囲はこれを揶揄し、彼が鬼の力を得て蛤蜊家に取り入ろうとしたという、詮無い噂が広まった。男は否定する機会を持たされず、いつしかそれが真実へと置き換わり、獄寺もこれを信じた。
 里へ戻った女は、獄寺の身の安全を保証する代わりに罰を受け、岩牢へ自ら引き篭もった。鬼の女は数が少なく貴重とされ、無闇に命をとるのを嫌った故でもあった。
 しかし里の者達は、誰一人として人間の血が混じる獄寺を保護しようとはせず、ビアンキの父親もこれを拒否した。仕方なく、最初は渋々、ビアンキが面倒を見る形で落ち着いた。
 厳しく当たったのは、ひとりでも生きていけるように。だが物心つく頃に母親を彼に奪われたという恨みが、多少あったのも事実だ。
 お前など死んでしまえば良いと思った時期もある、殺してしまいそうになったことだって。
 真実を告げるなと緘口令が敷かれていたが、そうするまでもなく、ビアンキ以外に誰も獄寺の触れようとしなかった。両親に愛されて過ごした時間は、辛い記憶に押し潰され、消えていった。
 限界を超えた鬱憤を爆発させ、鬼の里を焼き、ふたつ目の居場所を失った彼は、最後の砦として人間の父親に縋った。
 しかしその頃にはもう、男は家督を継ぎ、一人前に所帯を持っていた。そんな最中に突然現れた、嘗て捨てた筈の子に、果たして男は何を思ったであろう。
 隠居した両親への引け目もある、新しく得た妻と生まれた子供への配慮もある。歓迎し、胸に抱くなど不可能だった。
 余所余所しく、腫れ物に触るような扱いしか受けなかった獄寺は、自分が居られる場所を探して暗中模索する子に育った。己の手で居場所を焼き尽くしながら、他にどうすれば良いのか分からないと泣きじゃくる子供のまま育った。
 最初は姉に、次は父親に認めてもらいたくて、必死に努力して切磋琢磨しても、苦心の末に得た力は誰にも受け入れてもらえず、孤独感は募るばかり。
 そうやって同じ事を何度も繰り返し、漸く辿り着いた安住の地――並盛を。
 彼は、また。
「ぐぎ……ぉ、おおぉぉおぉぉ…………」
 ぴしぴしと皮膚に無数の血管を浮かせ、赤黒い瞳をビアンキへ向ける。猛り狂った気配に圧倒され、周囲の木々が風も無いのに波立った。
 獄寺を中心に大気が渦を巻く。舞い上がった一枚の木の葉が彼の周囲でくるくると輪を描き、木っ端微塵に打ち砕かれて塵と散った。
 風が物悲しい声で哭いている。鼓膜を打つ不穏かつ不可思議な気配に樹上の男は眉を寄せ、高下駄の歯を打ち鳴らした。
「西風か」
 ぽつり呟かれた声は、誰の耳にも届かない。
 ビアンキは自身を見舞う風に髪を煽られながら、両足を肩幅に広げてその場で重心を低くした。吹き飛ばされぬように構え、紅を引いた鮮やかな唇を真一文字に結ぶ。
「おいおい、死ぬ気か」
 樹上で彼女の意思を汲み取った男が裏返った声で聞くが、返事は無い。代わりに渦巻く風に身を包んだ獄寺が一際高く吼え、呼応するかの如くどこかから野生の狼の咆哮が響いた。
 ぎょっとして背後を振り向いた男の足元で、ビアンキが目元に来た髪の毛をぞんざいに後ろへ払いのけた。
 獄寺が、地を蹴る。
 彼の足が大地を離れた瞬間、高密度に圧縮された空気が弾け、ピシピシと罅割れた音だけがその場に取り残された。
 獣の雄叫びを上げ、赤き炎に照らされた銀が槍の如く天を劈く。
「――っ」
 ビアンキの細い体が一瞬前後に揺らめき、闇夜に鮮やかな紅が舞った。