牴牾

「なァにやってんだぁ?」
 開けっ放しの戸口から漏れる微風に前髪を掬われ、中を覗きこんだスクアーロはけだるげな声で小さな背中に問うた。
 不意打ちの呼びかけにビクリと肩を震わせたその少年――年齢的にはもう既に青年と呼ぶに相応しい――は、亀のように首を引っ込めた後、恐々後ろを振り返った。
 怯え切った大きな瞳が、黒装束に銀髪という出で立ちのスクアーロを映し出す。長く伸びた前髪の隙間から怪訝な目を向けている彼を認め、綱吉は一瞬の後ホッと胸を撫で下ろした。
 驚かせたつもりはなかったのだが、そうビクビクされるのも不本意で気に障る。いい加減慣れろ、と怒鳴りたくなったが、そうすればまた怖がらせてしまうと過去の教訓から既に学んでいるスクアーロは、腹に力を込めてぐっと我慢した。
 緊張を解いた綱吉の表情は、三秒前とは打って変わって穏やかで落ち着いていた。ほのぼのとした空気が彼の周辺に漂って、外は真冬の気候だというのに、此処だけ一足先に春がやって来たかのようだった。
「なーんだ、スクアーロか」
「他に誰がいるってんだ。アァ?」
 率直な感想を述べた綱吉に素っ気無く言い返し、スクアーロは凭れかかっていた戸口から腕を下ろした。
 斜めにしていた姿勢を真っ直ぐに戻し、顔に掛かる長髪を鬱陶しそうに後ろへと払い除ける。靴底も厚いブーツで一歩を踏み出すと、乾いた硬い音が響いた。
 彼の言葉に、綱吉は人差し指を立てて自分の頬を突いた。丸みを帯びた肌を少しだけ凹ませ、真剣に考える素振りを見せる。
「うーん」
 だが何も思い浮かばないようで、鼻を鳴らして小さく呻き、今度は腕組みまで始めた。俯き加減に悩む彼の後ろでは、銀色のケトルが真っ白い息を吐いて盛んに騒ぎ立てていた。
 最大火力を維持する青白い炎が踊っている様に顔を顰め、スクアーロはふたりの間に置かれた作業用のテーブルを回り込んだ。
「沸騰してんぞ」
「ふえ?」
 ぞんざいに言えば、瞬時に顔を上げた綱吉が間抜けな声を出して変な顔をする。なにが、とでも言いたげな瞳に顎をしゃくってやれば、彼は示された方向を振り返って飛びあがった。
 すっかり忘れていたのだろう、大慌てでガスを消し、ケトルを黙らせる。肩を落としてほうっと長い息を吐き出す頃、スクアーロは彼の隣に到達した。
 手元を覗き込めば、大きめのマグカップがコンロ脇に置かれていた。中には粉末が落とし込まれ、湯を注がれるのを、今か今かと待ち侘びている。
「なにやってんだ」
「うん? ココアだよ」
「そうじゃねー」
 尖った口からか細い湯気を吐き出すケトルに手を伸ばし、綱吉がスクアーロの質問に顔を上げずに答えた。だがその内容は彼の聞きたがっているものとは違っていたようで、不機嫌に放たれた声に綱吉は首を傾げた。
 まだ熱い持ち手を握ろうとして、火傷しそうな高温に驚いて肩を引っ込めた彼に、スクアーロは深々と溜息を吐いた。
「んなこと、見りゃ分かる」
 綱吉が飲み物を欲し、湯を沸かしていたのは誰の目にも明らかだ。飲み物の種類云々は、この際どうでもいい。紅茶だろうがエスプレッソだろうが、それこそワインであってもスクアーロには関係ないことだ。
 肝心なのは、こんな軟弱で幼い外見をしている綱吉だけれど、一応は次期ボンゴレと目される人物であり、ボス修行中という立場である彼が、何故自らの手で飲料の支度をしているのか、という点だ。
 わざわざ自身の手を煩わせなくとも、この屋敷には使用人が大勢居る。綱吉は彼らを、それこそ顎で使うべき立場にあった。
 暴虐の極みにあるザンザスを見習えとまでは言わないが、もう少し堂々としていればいいものを、生まれた場所のお国柄か、綱吉は誰に対しても腰が低い。
「それはまあ、うん。分かってるんだけど」
 右の耳朶を抓み、引っ張った綱吉がケトルを見詰めたまま呟く。スクアーロは彼の邪魔にならぬ程度に距離を置き、腰より少し低い作業台に寄りかかった。
 キッチンには、他に誰も居ない。屋敷の人間の食事を用意する厨房は他にあり、コックはそちらに詰めているからだろう。もっとも台所と呼ぶに相応しい機材はきちんと揃っており、天井からはソーセージや真っ赤なトマトが、鈴なりにぶら下がっていた。
「なんかね。自分で出来ることだから、自分でやりたいっていうか」
 随分と間を置いてから綱吉は言い難そうに言葉を繋ぎ、ようやく適温になったケトルを掴んで持ち上げた。
 マグカップから白い湯気が立ち上り、透明だった液体は見る間にこげ茶色に濁っていく。細かな泡が渦を巻いて、綱吉はケトルを置いた手で銀色のスプーンを掴んだ。
 金属と陶器がぶつかり合う音が小さく響いて、スクアーロはあまりにも自分のボスとは違う少年に目を眇めた。
 カップを左手に持った綱吉が、まだ中身を掻き回しながら身体ごと向き直る。どこか困ったような、曖昧な笑顔を浮かべていた。
「だが、テメーがやることでもないだろう」
 鈴を鳴らせば、何処からともなく使用人が駆けつけて来る。流石にザンザスの我が儘は、常時暴力が付きまとうので他の人間にやらせるわけにいかないが、綱吉ならば新入りの使用人であっても充分対応が可能の筈だ。
 使用人は、文字通り使われてこそ意味がある。お前のやっている事は、屋敷に雇われている連中から仕事を奪うことだと、スクアーロは若干苛立った口調で告げた。
 綱吉は黙って聞き、彼が喋り終わると同時にスプーンをカップから引きぬいた。
「ああ、そっか。そういう考え方もあるんだ」
 スプーンの膨らんだ底を縁で擦り、余分な水分を切った綱吉が感心した様子でボソリと言う。考えたこともなかったと告げる視線に、スクアーロは肩を竦めた。
 綱吉は不要になった銀食器を流し台に置き、両手で温かいカップを包み込んだ。表面に息を吹きかけて湯気を揺らし、慎重に唇を寄せて赤い舌を覗かせた。
 猫か犬が水を飲む時のように、舌の先をちょっとだけ熱いココアに浸して、温度を確かめる。触れて、直ぐに咥内に引っ込め、また伸ばしてもう一度調べてから、彼はようやく本格的にカップを傾けた。
「猫舌か」
「そうじゃないけど、……そうかも」
 一旦否定しておきながら、直ぐに肯定する。どっちなのか分からなくてスクアーロが顔を顰めると、綱吉は一気に半分まで減ったココアを揺らして悪戯っぽく笑った。
 オーク材のテーブルに近付き、スクアーロの横に並ぶ。彼の背丈では腰よりも少し高いテーブルに、半分尻を乗せて腰掛け、浮いたつま先を当て所なく揺らした。
「座ると怒られんぞ」
「スクアーロが黙っててくれれば、ばれないよ」
 このテーブルは、食材を扱う作業台だ。人間の座るべき場所ではない。言葉少なに咎めた彼に、綱吉は屈託なく笑って幾らか冷めたココアで喉を潤した。
 甘い匂いが漂ってきて、微かな吐き気さえ覚えたスクアーロが嫌な顔をする。綱吉も彼が甘いものを好まないと知っているのだが、ちょっとした嫌がらせの意味合いも込めて、飲むか、と残り少ないココア入りのカップを差し出した。
 露骨に不機嫌な顔をしたスクアーロが、調子に乗る綱吉の額を小突いた。斜めに身を乗り出していた彼は叩かれた衝撃に身を竦ませ、僅かに赤くなった肌を撫でて茶目っ気たっぷりに片目を閉じた。
「痛いなあ、もう」
「自業自得だろうが」
 言葉とは裏腹に、綱吉の口調は明るい。そっぽを向いたスクアーロも、今の一瞬で怒りは発散できたようで、語気はそう荒くなかった。
 ズズ、と音を立てて綱吉は残るココアを飲み干した。カップの底を天井に向け、首を後ろに仰け反らしてあまり目立たない喉仏を全面に押し出す。中学生当初からさして成長の見られない体躯は、もとより年若く見られがちな東洋系の骨格を抜きにしても、幼さが際立っていた。
 今の彼にTシャツを着せ、ジーンズとスニーカーを履かせて中学校に通わせても、きっと誰も彼の年齢を疑わないだろう。
「そんなに、変かな」
「ん?」
「俺が自分で、こうやって台所に立ってお湯を沸かして、ココアを作って飲むのって」
 やや自嘲気味に呟かれた彼の台詞は、此処に居るスクアーロに向けられたもののようであり、自分自身への問いかけにも聞こえた。
 空になったカップを下ろし、両手で包み込む。汚れた縁を親指でなぞった彼は、それを両手ごと太股の間に落とし込み、疲れた様子で天井を仰ぎ見た。
 石組みの上に漆喰を塗り固めた白い壁は、そこかしこにヒビが入り、補修が繰り返されてきた形跡が窺えた。
 最初に基盤となる部分が造られたのが中世で、そこから増改築を繰り返して今に至っているこの建物は、時代を映して様々な装飾が施され、場所によってバロック調であったり、アラビア風であったりと、実に統一感に乏しい。
 歴史がある分、使い勝手が悪いところも多々あるが、下手に外観を変えようものならば速攻政府のお役人が飛んでくるので、始末に終えない。ただ機能性を重視しすぎた建物は味気なく、面白みに欠けるので、これはこれで味があると、スクアーロも気に入っていた。
「変じゃねー、と、そう言って欲しいのか」
 習慣も、倫理や宗教、思想からして違う場所からぽんっ、と此処に投げ込まれた綱吉は、右向いても左向いても同じものが何一つ無い、古めかしく黴臭いこの環境に未だ馴染めずに居る。
 一緒に海を渡ってきた山本武や笹川了平等は、お気楽な性格故かあっさりとこちらの空気に順応し、獄寺隼人やランボは元々この国の住人なので違和感なく受け入れてしまった。雲雀恭弥は渡航を拒否して日本に居残り、クローム髑髏は目下行方不明。
 綱吉だけが、自分の居場所を見出せずにふわふわと漂っている。
 スクアーロの問いかけに、彼は視線を伏し、首を振った。
 思ってもいないくせに、誤魔化しの慰めならば要らない。マグカップの持ち手を爪で削った彼は、底に溜まった解け残りのココアの筋に目を細め、舌に残るくどいまでの甘さを唾で洗い流した。
「飲みたくなって、さ。急に。聞いてみたんだ、ココアはあるかって。そしたら、お持ちしますね、って言われて」
 喉仏を上下させ、一緒に息を吸い込んだ綱吉が不意に早口に喋り始めた。視線は相変わらず下ばかり向いており、スクアーロは俯いている綱吉の白いうなじを斜めに見詰め、僅かに唇を尖らせた。
 銀髪が頬を撫でる。風が流れていた。
「彼女は部屋の掃除中だったから、良い、自分でやるって、俺は言った。そうしたら、とんでもないって顔されて。なんか、俺ってそんな何も出来ない奴に見えるのかなって、落ち込んだ」
 先ほどスクアーロが、使用人の仕事を奪うなと告げた時の綱吉の顔は、意外だと言わんばかりの表情だった。その理由が明かされて、なんだか急に色々なことが馬鹿らしく思え、彼は大仰に肩を竦めた。
 人を小ばかにする態度に、即座に綱吉は頬を膨らませた。カツカツと爪で頻りにカップを叩き、神経質な音を響かせて粘性のココアの滓を飲もうと前以上に首を後ろに倒した。
 が、元から不安定な場所だったからだろう、綱吉の爪先は宙を蹴り、仰け反った上半身は瞬時に真後ろへ沈んだ。
 ゴンっ、と実に小気味のいい、痛そうな音が静かなキッチンに轟いて消えた。
 コップを放り投げなかったのだけは褒めてやっていい。苦痛に顔を歪めて懸命に声を殺している綱吉を呆れ顔で見下ろし、スクアーロは思った。
 陶器製のマグカップは、幸いにも綱吉の親指が持ち手に引っかかっていたお陰で遠くへ飛ばず、狙い外れて彼の額に激突していた。
 手を伸ばして退けてやれば、垂れ落ちたココアが赤い縁取りの中で斑点を刻んでいた。
「馬鹿だな」
「うー……いってぇ」
 なにをやっているのかと問えば、綱吉はぶつけた後頭部を撫でて顰め面をより強めた。眉間に寄った皺の深さが、苦痛の大きさを物語っている。
 彼は起き上がろうとしたが、蹴り上げた足の反動が足りず、背中が数センチ浮いただけに終わった。また後頭部がテーブルに激突し、喉の奥で息を詰まらせた綱吉は、じんわり涙を目尻に浮かべて辛そうに口を開閉させた。
 奥歯を噛み締めて、浅く胸を上下させる。背筋を伸ばしているので、服の上からでも動きは良く見えた。
「手間のかかる奴だな、おい」
 起き上がるのを諦め、綱吉が両手をテーブルに投げ出す。先ほど、テーブルは座ったり寝転んだりする場所では無いと言ったばかりなのに、全く従う気はないらしい。
 天地を正しく向けたコップを、綱吉の手が跳ね飛ばさない場所に隔離して、スクアーロは肩から前に回り込んでくる自分の髪を後ろへ払った。彼の真横では、綱吉の膝が前後に落ち着きなく揺れており、背筋を真っ直ぐ反らしている彼の顔は非常に遠い。
 仕方なく自身もまたテーブルに腰を預け、長年使い込まれてなんだか解らない匂いが染み付いているオークの木の板に体重を乗せた。
 ふたり分の重みを受け、頑丈な作りをしている作業台も流石に軋んだ音を響かせた。震動を感じ取った綱吉が薄目を開ける前で影が降りて、目を見張った彼の視界を塞いだ。
「手間のかかるガキだな、ったく」
「うっさい」
「ンなだから、使用人の連中もテメーの世話、焼きたがるんだろ」
「どーせ」
「誰かが言ってたぜ。テメーに嫌われてんじゃねーのか、つってな」
「……ほえ?」
 逆さを向いた髪を梳く手が、乱暴な口調の割りに随分と優しい。ぶっきらぼうに言い放たれた言葉に逐一反抗的な返事をしていた綱吉は、不意に聞こえた思いがけない台詞に目を瞬かせた。
 額のココアを拭った指が離れていく。追いかけて綱吉は両肘を突っ張らせ、上半身を起こした。
「だれが、なに?」
「この耳は飾りか」
「いだっ、痛いいたい、あいだだだっ」
 聞こえたが理解が追いつかない綱吉が、もう一度言ってくれるよう頼んで却下を食らった。左耳を思い切り抓んで引っ張られて、千切られそうな痛みに顔をくしゃくしゃにしてスクアーロの手と足を思い切り殴りつける。
 本気で耳がただの飾りになる寸前で解放してもらって、綱吉は一気に上昇した体温に汗を拭った。心臓が喧しく音を立て、くらくらする頭を右手で抱え込む。
 前髪を掬った指先が、まだ残っていた甘いココアを削ぎ落とした。
 過保護なくらいに世話を焼きたがる使用人たちを、綱吉は嫌いだと思ったことはない。ただ彼らはいつも忙しそうにしているので、その手を煩わせるくらいなら、自分で出来ることくらい自分でやろうと、そう思っただけだ。
 ところが使用人側からすれば、何の用事も言いつけてくれない綱吉は、自分たちを不要な存在として扱って、邪険にしているのではないかと、そんな風に思えたらしい。手間が掛からなくて楽だけれど、もう少し甘えてくれても良いのではないか。
 そうでなくとも綱吉は、見た目が幼い所為もあろう、屋敷の使用人連中からわが子のように可愛がられている。何処かの横柄なボスとは違って愛想も良く、笑顔を絶やさない彼は、どうにも保護欲がそそられる存在、なのだそうだ。
 何故かそこだけやけに素っ気無く、ムスッとした顔で言ったスクアーロを下から眺め、綱吉は指にこびり付くココアを舐めた。
「あまい」
「まったくだ」
 砂糖の塊を舐めている気分で呟いた綱吉に、意味を取り違えたスクアーロがつまらなさそうに言った。頬杖をつき、長い脚を組んで完全にテーブルを椅子代わりにしている。
「見付かったら怒られるよ」
「テメーが黙ってりゃ、ばれやしねーよ」
「それもそっか」
 悠然と構えるスクアーロの言い分に頷き、綱吉は勢いつけて自分はテーブルを飛び降りた。
 スクアーロが置いたコップを回収し、銀色の蛇口を捻って中に水を注ぐ。ついでに濡らした手で自分の額を擦り、甘い匂いを洗い流して、次いで彼は沈黙するケトルに手を伸ばした。
「ねえ、スクアーロ」
「あぁ?」
「カプチーノって、難しい?」
 一度沸騰して、今は冷めてしまった水の入ったそれを両手で抱え、綱吉が上目遣いに問うた。
 頬杖ついていたスクアーロは、いきなり何を言うのかと驚いた顔をして彼を見返し、じっと自分に向けられる琥珀の奥に潜む意図を見出して意地悪く口角を歪め、笑った。
「ああ、テメーにゃ一生かかっても無理だな」
「酷いなあ」
 顎を掌に戻し、不敵な笑みを浮かべる彼の言い分に綱吉は肩を竦め、舌を出した。
「じゃあ、今度」
 頼んでみようかな。
 ケトルを戻して呟いた綱吉が、背筋をピンと伸ばして空っぽの両手を背中で結び合わせた。
「好きにしな」
 不遜に言い放ち、スクアーロはふと指に残ったままの茶色の液体を思い出して舌を這わせた。
 酷く甘いその味に、彼は思い切り顔を顰めた。

2009/01/15 脱稿