豊満

 二週間ぶりに聞くチャイムの音が、天高く澄んだ空に吸い込まれて消えていった。
「セーフ!」
 最後の一音が余韻を残す中、正門を全力で潜り抜けた綱吉は、鞄を持ったままの両腕を水平に広げ、野球の審判と同じポーズを取って絶叫した。
 砂埃を巻き上げて靴底で地面を擦り、斜めに流れて行く身体を押し留める。ぎりぎりだが間に合ったはずだと自信満々に振り向いた彼であったが、門の脇に構えていた黒服の青年は不敵な笑みを浮かべ、口角を持ち上げた。
「残念。アウト」
 チャイムが鳴り始めて半分以上経過してからの登校は、遅刻に相当する。雲雀が下した冷徹な判決に、三学期初日から朝寝坊をしでかした綱吉は顎が外れんばかりに口を広げ、がっくり肩を落として空を仰いだ。
「そんなぁぁぁ」
「大人しく生徒手帳、出して」
 登校している生徒の大半は、体育館で行われる始業式に参加すべく移動を開始している。風紀委員の多くもそちらに出向いており、今現在正門前に居残っているのは委員長である雲雀と、彼に捕まった哀れな生贄たる綱吉だけだった。
 冬の風が吹き荒れる中、めそめそと咽び泣いた綱吉が渋々鞄のポケットに手を差し入れる。しかし空っぽだったようで、彼は首を傾げて別のポケットを弄った。
 だが、どうやらそちらもアテが外れたらしい。
「どうしたの」
「ちょーっと待ってください。あれ、おっかしいなぁ」
「忘れた?」
「そんなはずは……」
 通学に使っている鞄は、昨年末の終業式以後殆ど触っていない。だから手帳も、いつもと同じ場所に突っ込まれているはず。此処ではなかったか、と外のポケットを探し終えた彼は、最終的にファスナーを開けて内部を漁ってみたが、ついに目当てのものには行き当たらなかった。
 寒空の下、地面に鞄を置いて途方に暮れる綱吉を見下ろし、雲雀は小さく溜息を零した。
「なくした?」
「やっ。絶対どこかにあるはずなんですって」
 忘れた、よりも一段階上の質問を投げかけた彼に、綱吉は強固に言い張って今一度鞄の点検を開始した。
 二学期が終わってから今日に至るまでの冬休み中、通学鞄及び制服はずっとクローゼットの片隅に追い遣られ、存在自体忘れられたものと化していた。それこそ今日の朝、目覚まし時計に叩き起こされた直後、何処に片付けたか咄嗟に思い出せなかったくらいだ。
 遅刻の原因は無論寝坊したからだが、準備に手間取っていなければ、少なくとも三十秒は早く登校出来た。
「どうして昨日のうちに、用意しておかないの」
 見苦しい言い訳を早口に告げる綱吉に再度嘆息し、雲雀は待ち草臥れた右手を引っ込めて腕を組んだ。
 黒の学生服を羽織った彼は、どうやら綱吉が生徒手帳を見つけ出すまで此処で待つつもりらしい。見下ろされるのはプレッシャーになるのだが、本人はまったく気付いておらず、温い唾を飲み込んだ綱吉は額に浮いた汗を拭い、必死に鞄を掻き回して目的の品を探し回った。
 もっとも、今日は始業式とホームルームだけで授業はないので、荷物自体はさほど多くない。
 筆記用具、奈々に判子を貰った通信簿に、今日提出するように言われている諸々のプリント類と宿題等々。掃除をしても午前中には予定されている内容は全て終わるので、弁当は持ってきていない。だから一分としないうちに、綱吉のチェックは終了してしまった。
 数あるポケットも各三回ずつ確認するが、出てくるのは飴玉の包み紙であったり、未開封のチューインガムだったりと、学校には必要のないものばかり。
 不要物に行き当たる度に雲雀の目が爛々と輝くので、綱吉としては生きた心地がしない。早く、早くと焦るのだが、ついに生徒手帳は見つけ出せなかった。
 行き場を失った手を泳がせ、下を向いたまま彼は心の中でどうしよう、とべそを掻いた。
 三学期早々遅刻、生徒手帳紛失、菓子を学内に持ち込んで風紀を乱したと、これだけ失態が重れば、流石の彼でも気分が落ち込む。
 ちらりと盗み見た雲雀は、相変わらず寒そうな格好でいながら平然と佇み、綱吉の視線に気付いて唇を尖らせた。
「見付かった?」
 顔を上げた彼の意図を別の意味に取った雲雀が問うて、欠伸を噛み殺す。風に流された枯葉が一枚、綱吉の足元にカサカサと音を立てて紛れ込んだ。
「いや、あ……その」
 いつ取り出したのが最後だったろう。終業式は遅刻しなかったので、その前の日か、もうひとつ前。確か物凄く急いでいて、手帳を握ったまま階段を駆け上って教室に飛び込んだ、ような気がする。
 問題はその後だ。クラスのみんなに笑われながら席に着いて、肩に担いでいた鞄を下ろして、手帳は――
「あ」
 雲雀の鋭い目がじっと見詰めてくる中、綱吉はようやく繋がった記憶に両手を叩き合わせた。
 乾いた音をひとつ響かせ、膝をついたまま左手で制服の胸ポケットをなぞる。ベージュ色のジャケットに貼り付けられたフェルトの校章越しに、縦長の長方形のものが収められている感触が生じた。
 上辺のポケット口に指を入れ、挟んで引き抜く。それこそ綱吉が散々待ち焦がれた、彼の生徒手帳に他ならなかった。
「良かった~」
 これで雲雀のお仕置きは、少なくともひとつは減る。心底安堵の表情を浮かべて脱力した彼を前に、何故か雲雀はとてもつまらなさそうに顔を顰め、舌打ちまでしてくれた。
 失礼極まりない彼に頬を膨らませ、どうぞ、と差し出す。しかし雲雀は受け取らず、眉間に浅く皺を刻み込んでなにやら考え込んでいた。
「ヒバリさん?」
 どうかしただろうか。さっきから人の顔をじっと、穴が開きそうなくらい見詰めているけれど。
 首を傾げ、あまりじろじろ見ないで欲しいと顔を赤らめる。今更珍しがられる顔でもない筈だと、彼と過ごした日数を軽く数えて綱吉は右手で自分の頬を覆い隠した。
 それが気に食わなかったのだろうか。雲雀はスッと動いて綱吉に影を落とし、片膝を折ってしゃがみ込んだ。
 急に視界が暗くなり、身を仰け反らせた彼を制して雲雀の手が伸びる。しなやかな指先が綱吉の額にかかる前髪を払い除け、丸みを帯びた頬を撫でて顎へ降りていった。
「ヒバリさん……?」
 唐突な彼の変化に驚き、綱吉が繰り返しその名前を呼んだ。けれど雲雀は返事をせず、真一文字に唇を引き結んでじっと綱吉を見詰め続ける。
 喉の周囲を這いずり回った彼の手は、やがて掌全体で肩を包み、上腕を二度ばかり軽く揉んでから更に下を目指した。
「えっ、ちょ」
 いくら他に人の気配がないとはいえ、ここは門前だ。いつ、誰が通り掛るか解らない上に、正門は鉄柵で出来ているので道から内部は丸見え状態。そんな場所でいきなり胸を弄ってきた雲雀に吃驚して、綱吉は裏返った声を上げた。
 呆気に取られ抵抗するのを忘れていた。行き場の無くなった生徒手帳を握り締め、綱吉は拳で雲雀の肩を叩き、もう片手で彼の胸を押し返した。しかし爪先だけで身体を支え、浮かせた踵に腰を預けているという不安定な姿勢では、ろくに力も入らない。対する雲雀は、右膝を地面に添えて重心を低く据えており、綱吉が押した程度ではびくともしなかった。
 制服の上から薄い胸板をなぞった彼の手は脇へ流れ、気がつけばもう片手がふらつく綱吉の腕を掴んでいた。ただ支えてやる目的ではなく、服ごと華奢な腕を揉みしだく動きが混じっている。
 捲りあがったブレザーの下に潜り込んだ彼の手が、下に着込んでいたベストの裾を引っ張りだした。
「やっ、ヒバリさん。なに」
「黙って」
「そんな、無理言わないでください!」
 背筋に寒気を覚え、綱吉は抵抗を強めて雲雀に怒鳴った。両手で制服を押さえ込み、雲雀の手がこれ以上進まないよう食いとめようと試みる。しかし身を乗り出した雲雀が肩口に顔を寄せ、耳朶を狙って息を吹きかけて来て背筋が粟立ち、咄嗟に力が緩んでしまった。
 声を潜めて彼が笑うのが、見えないけれど分かってしまって、悪戯を仕掛けられた綱吉は素早く潜り込んだ彼の手に背筋を凍らせた。シャツ一枚の上から腹筋を撫で、爪を立てて弛む襞越しに引っ掻いてくる。脇腹の弱い部分に触れられ、綱吉はあげそうになった悲鳴を必死で堪えた。
 唇を噛み締め、全身をカチコチにして耐える。硬く目を閉じて、雲雀から逃れようと反対方向へ首を伸ばすが、腰をがっちり掴まれている所為で何の意味もなかった。
「うっ……」
 するりと背中に回った雲雀の手が、半端に浮いていた尻を撫でた。左手は服の下を抜けて太股に回り、爪先立ちに疲れて震える腿を労わるように動き回る。
 緊張で頭の中が真っ白に染まり、背筋がぞわぞわしてたまらない。奥歯を軋ませて綱吉は呻き、倒れそうになる身体を支える柱を欲して、手は無意識に雲雀の腕を掴み、握り締めていた。
 休み期間中殆ど顔を合わせることもなく、声を聞く機会もなかった。元旦に年賀メールは届いたけれどそれくらいで、ろくすっぽ相手をしてもらえなくて不満でいっぱいだった。雲雀が忙しいのは知っているし、冬休みも風紀委員に休みがないのは分かっていたが、一日くらい自分の為に予定をあけてくれても良かったのではないか。
 新学期が始まって顔を合わせたら、真っ先に苦情を申し立ててやるつもりでいた。だのに実際は、どうだ。
 たとえ正門前のひと目が気になる場所とはいえ、こうやって彼に抱き締められて、触れられると、体は嬉しさに溢れて従順に反応してしまう。しかも悔しいことに、二週間我慢していた分、いつもより過敏で過剰だ。
「や、めっ……」
 首に顔を埋めた雲雀の唇が、熱っぽい息を吹きかけて綱吉の肌を濡らす。瞬時にぞわっと来て、弱々しい声で訴え綱吉はかぶりを振った。
 太股の裏側をなぞった雲雀の左手が腰に戻り、背中を優しく撫でた。小刻みに震えている華奢な身体を支え、そっと包み込む。
 重なり合った胸の鼓動が心地よくて、綱吉は一瞬場所を忘れて胸に満ちる幸福感に頬を緩めた。雲雀の肩から背中に腕を回し、ぎゅっと強く抱き締める。

 しがみつく綱吉の横で雲雀は笑い、服の上からくどいくらいに彼の背中をさすった。
「うん、やっぱり」
「……?」
 どことなく嬉しげで、楽しげな雲雀の声に綱吉は顔を上げた。近すぎて正面から見詰め合うのは難しく、彼は小首を傾げたまま身動ぎし、腕の拘束を緩めて重心を後ろに傾けた。
 意図を察した雲雀も、同じように力を抜いて身を引き、きょとんとしている綱吉を覗き込んだ。
 そしてやおら、
「君さ、太ったね」
 言われた瞬間、綱吉は彼を突き飛ばした。
 とはいえ、姿勢の安定度がまるで違うふたりだ。突き飛ばした方の綱吉が、先にバランスを崩して後ろにふらつき、尻餅をついて地面に蹲る。雲雀はちょっと上半身を揺らしただけに留まり、綱吉は冷たい地面に拳を突きたて、不公平だと声を荒立てた。
 勝手に自滅したくせに、文句を言われ、雲雀は顔を真っ赤にして湯気を立てている彼に肩を竦めた。
「だって、太っただろ」
「ひどっ!」
 断定され、綱吉は益々全身を赤く染めて座り込んだまま地団太を踏んだ。
 確かに雲雀の指摘通り、実はこの二週間で二キロ弱だが体重が増えた。冬休みの間、外の寒さから出不精を決め込んでいたのが災いした。奈々もおせち料理を奮発したし、冬の味覚は何かと魅力的で、誘惑が多い。三が日があけた後も毎日のように、おやつとして餡子たっぷりのぜんざいを食べていたし、クリスマスではケーキが大量だった。
 遅く起きて朝食をとり、そう時間をおかずに昼食もしっかり食べて、おやつを経て夕食。テレビゲームで時間を潰し、一歩も家を出ない。カロリー過多の運動不足で、これで太らない方がおかしい。
 雲雀がじっと見ていたのも、場所を弁えず触ってきたのも、全部それを確認する為だったのだ。
「すみませんね、悪かったですね。ええ、ええ、太りましたとも!」
 分かっていたこととはいえ、ずばり言い当てられたのは恥かしい。外見がそんなに変わったつもりはなかっただけに、余計だ。特に見抜いたのが、よりにもよって一番知られたくない相手だっただけに、ショックの度合いも深い。
 自分で思っていなかっただけで、人から見れば簡単に分かってしまうほど太ったのだろうか。握り拳を胸の前で震わせて鼻を鳴らした綱吉に、雲雀は目を丸くしてからプッと噴出した。
 喉を鳴らして腹をかかえ込んだ彼に、綱吉は一層羞恥を募らせてじたばた暴れ始めた。
「やっ、だって、しょうがないじゃないですか! 笑わないでくださいってば!」
 このままぶくぶく太って豚みたいになったら、雲雀に愛想尽かされるかもしれない。そちらに考えが向いて、今日、今すぐにでもダイエットを始めようと焦る心で誓った綱吉の丸い鼻を小突き、彼は地べたに直接座り込んでいる綱吉に手を差し伸べた。
 自分もスラックスの汚れを払い除け、いつまでもそうしていては冷えてしまうと、幾分笑みを残した声で告げる。
「そんなに恥かしい?」
「うぅ、だって……」
「僕としては、これくらいの方が柔らかくて気持ちいいけどね」
 ほら、と雲雀が手を揺らして催促するが、綱吉は下を向いたまま応じない。痺れを切らした彼が言いながら再度しゃがみ込み、両腕を前に伸ばして綱吉の脇を攫った。
 無理矢理引っ張りあげられ、宙に浮いた爪先が雲雀の脛を蹴り飛ばした。
「わっ」
「やっぱり……少し重くなったね」
「痩せます」
 言葉とは裏腹に軽々と抱え上げ、綱吉を地面に下ろされた彼がそんな感想を呟く。ごんっ、と頭を打つひと言に綱吉は臍を咬み、今日から暫くおやつを食べずに過ごそうと決めた。どうせ明日には破られるのだろうが。
 頬を膨らませ、唇尖らせた彼の決意に、雲雀は地面に置き去りにされていた綱吉の鞄を取って首を振った。
 そんなつもりで言ったのではない。
 綱吉はそもそも痩せすぎで、同年代の男子生徒と比較しても体格差が大きい。背が低い分、体重が少ないのは道理だけれど、それでも身長別の平均体重にすら達していない。
 脂肪がつきにくく、太りづらい体質なのだろうが、もう少し太った方が雲雀としては安心出来る。肥満体の方が好きと言うわけではないが、痩せすぎで体調を崩されるよりはいい。
 そう言われても、相応にショックを受けている綱吉は頷こうとしなかった。
「でも、重いって」
「休み前に比べたら、だよ。なんなら応接室まで運んであげようか?」
 先ほど言われたことを気にして、もごもごと小声で呟いた綱吉を下から覗きこみ、雲雀は一旦下げた両手を持ち上げた。脇腹を擽られ、背筋を駆け抜ける悪寒に襲われた綱吉は慌てて三歩後退し、距離を取って身構えた。
 今になって現在地を思い出し、笑っている彼から鞄をひったくって胸に抱え込む。体育館での全校集会はとっくに始まってしまっている頃合だ。今から行ったら否応なしに目立つので、教室で終わるまでひとり待つのが得策といえた。
 それもこれも、全て雲雀の所為。
 自分の朝寝坊と準備不足を棚に上げ、仇を見る目で人を睨む綱吉に肩を竦め、雲雀は黒髪を優雅に掻きあげると返す手で綱吉の頬に触れた。
 丸い輪郭をなぞり、一瞬だけ緊張した彼の肌を解きほぐしていく。
「そのままでいいよ」
 無理にダイエットなどしなくていい。大体、綱吉は成長期に入ったばかりなのだから、変に食事制限を設けるのは、却って本来起こるべき成長を阻害して良くない。
 静かに諭す声に綱吉はつまらなそうに唇を窄め、はぁい、とあまりやる気の無い声で返事をした。
 けれど雲雀はそれでも満足したらしく、優しい笑顔を浮かべて綱吉の頭を大きな手で掻き回した。乱暴に髪の毛を乱され、元から散々だった髪型のくしゃくしゃ度が倍増するけれど、不思議と嫌な気分にはならない。
 むしろ彼が自分を深く案じてくれているのだと伝わってきて、照れ臭くて、恥かしかった。
「えっと、あ、あの」
 彼が今の自分を好いてくれていると分かって、嬉しいのに面と向かって笑い返せない。鞄を抱きかかえた綱吉の手から、長く忘れ去られていた生徒手帳を引き抜いた雲雀は、素早く胸ポケットから抜いたペンで今日の日付に印を入れ、表紙を閉じて彼に返した。
 未だ顔を上げられず、受け取った綱吉は乾いた唇を舐めて手帳の表に印刷された校章を爪でなぞった。かすかに残る雲雀の体温は、時間と共に薄れて消えてなくなる。
「もう行っていいよ」
 肩に羽織る学生服をはためかせ、やっと仕事が片付いた雲雀はくるりと踵を返した。半端に開いている正門を閉じるべく歩き出した彼を反射的に見上げ、綱吉はハッと息を吐いて腕を伸ばした。
 殆ど無意識だった。揺れる制服の袖を捕まえ、引っ張る。前に出ようとしていた雲雀から学生服がずり下がって、布が肩を擦る感触に彼が怪訝な顔をして振り返った。
「なに?」
 同時に問いかけるが、綱吉は大きな琥珀の目を丸くするばかりで、雲雀に話し掛けられていることにさえ気付いていない様子だった。
 右に傾けた首を真っ直ぐに戻し、雲雀は制服を直して綱吉から袖を奪い返した。握っていたものが引きずられ、吊り上げられた腕を下ろした彼は瞬時に両手を背中に隠し、下を向いて爪先で地面に穴を掘った。
「なに?」
「いや、あ、……えっと」
 同じ質問を繰り返した雲雀に、綱吉は言いよどんで穴を深くした。
 咄嗟の行動だったので、考えがあったわけではない。だがこのまま話を終わりにして、別れるのは嫌だった。
 もじもじするばかりで黙り込む彼を見下ろし、雲雀は対応に困って後ろ髪を掻き回した。沈黙する校舎を前方に見やり、どうしたものかと甘い蜂蜜色の髪を爆発させている少年に目を眇める。
 仕事が立て込んでいるので、いつまでも綱吉の相手ばかりしていられない。ただ、綱吉が感じているように、雲雀もまた彼と離れ難い気持ちはそれなりに抱えており、いっそ教室へ行かせず、応接室に閉じ込めてしまおうかとさえ思ってしまう。
 だがそれでは、綱吉の学生生活に支障が出る。となれば、彼の家庭教師を公言するリボーンが介入に乗り出すのは間違いない。
 他の誰が出てきても負けるつもりはない雲雀だが、あの赤ん坊にだけは逆らえない。彼に反抗して、結果綱吉を奪われるのだけは遠慮願いたいところだ。
「つなよし」
「あの、だからその。おれ、もっ」
 良いから教室に急ぐよう口を開きかけた雲雀を制し、綱吉が不意に堰を切って喋りだした。前に戻した手で鞄を抱き潰し、背伸びまでして雲雀に身を乗り出す。頭がぶつかりそうになって、虚を衝かれた彼は急ぎ半歩後退した。
 至極真剣な眼差しが至近距離から突きつけられ、雲雀は半端に開いていた口を閉じて咥内にあった空気を飲み込んだ。喉を鳴らし、次に紡がれる言葉を想像して仄かに顔を赤らめる。
 綱吉は更にもう一歩前に出て、ふたりの間にあった距離をゼロに戻した。
「俺も、ヒバリさんがでぶっちょのぷよぷよになっても、ヒバリさんのこと大好きですから!」
 宣言した直後、綱吉は突き飛ばされて地面に転がった。
「誰がなんだって……?」
 一瞬のうちに取り出したトンファーの先から、白い煙が棚引いている。綱吉の右側頭部にも同じ煙が立ち上り、巨大なタンコブを抱えた彼は地面に撃沈したまま大粒の涙を目尻に浮かべた。
 地の底から響く低音で凄みを利かせた雲雀は、一瞬想像してしまった自分の太った姿に嫌悪感を隠さない。一方の綱吉は、最大限の愛の告白のつもりだっただけに、こうも無体に扱われるとは思っておらず、両手で頭を庇って盛大に鼻を鳴らした。
「だって、ヒバリさんがあ!」
「なに。じゃあ君は、僕が丸々と太っても構わないっていうの」
「太れって言ったのはヒバリさんなのにー!」
「話題を逸らさない!」
 もう一発、今度は地面に向かってトンファーを叩き付けた雲雀の怒声に、恐怖で身を竦ませた綱吉がガタガタ震え上がった。
 零れ落ちそうな大きな瞳を歪め、ごめんなさいと両手を結び合わせて神様に祈るポーズを作っている。怯え切った表情は可哀想でありながら非常に愛らしく、もとより加虐的な性質を持ち合わせている雲雀はつい息を呑み、攻撃の手を止めて彼に見入ってしまった。
 自分の性格の悪さを痛感しつつ、嘆息の末に武器をしまい、自由になった手を伸ばす。
「ヒバリさん?」
「冗談だよ」
 触れた瞬間、ビクッと大袈裟なほどに身を硬くされてしまい、己の短気さを反省しながら短く謝罪を告げる。両手で抱き締めてやると、やっと緊張を解いた綱吉が心の底から安堵した様子で柔らかく微笑んだ。
 ふにゃりと力を抜き、しな垂れ掛かってくる小さな体を受け止める。両腕で大事に抱え込むと、春の陽だまりにも似た優しい匂いが胸いっぱいに広がった。
 もぞ、と身を捩り、雲雀は満面の笑みで甘えてくる綱吉を前にしばし沈黙した。
「……前言撤回」
「ほえ?」
 脳裏に浮かんだ、拳銃を構えて極悪顔を作るリボーンを掻き消し、ぼそり呟く。聞こえなかった綱吉が間抜けな声を発し、小首を傾げた。
 直後、前ぶれなく立ち上がった雲雀に驚き、甲高い悲鳴を上げた。
 落とされそうになって、慌てて目の前の首にしがみつく。間に挟まれた鞄がずり下がり、落ちそうになったのをもう片手で拾い上げるが早いか、雲雀は何の断りもなく歩き出した。
「え、え? ヒバリさん、ヒバリさん?」
「駄目。行かせない。やっぱり連れていく」
「ちょっ、ちょっと待った!」
 急に態度を激変させた雲雀に面くらい、綱吉は彼の襟を引っ張って立ち止まるよう訴えた。腕の中で暴れられては、雲雀もろくに前に進めない。最悪落ちて怪我をするのは綱吉であり、仕方なく彼は玄関前で足を止め、胸元で息せき切らしている膨れ面を睨んだ。
 どことなく傷ついたようにも見える表情は予想外で、横抱きにされた綱吉は宙に浮いた足を泳がせ、困った様子で彼を窺い見た。
「ヒバリさん、急にどうし――」
「嫌?」
「……ずるい」
 名を呼べばそう聞かれ、断れるわけがない綱吉は頬を膨らませ、それだけを口にした。
 振り落とされないように両手で彼の肩に捕まり、顔を伏す。雲雀の詰め襟が額を擦って、鼻先を埋めたシャツからは太陽の匂いがした。
「うん。やっぱり」
 耳の先まで赤くなっている綱吉を見下ろし、抱え直した雲雀が遠くを見据えて呟いた。
「今のまま、僕が抱えられるくらいの体重で、いて」

2009/01/06 脱稿