稀なるは

「うーん……」
 机に広げた教科書を前に、眉間の皺を深くした夏目が低く呻いた。
 右手に挟み持ったシャープペンシルの尻でこめかみを掻き、段々と位置を下げて耳を通り越したところで腕を下ろす。続けて真っ白のノートに両手を叩きつけ、彼は椅子ごとぐーっと背中を逸らした。
「くっそー、駄目だ」
 さっきからちっとも勉強が捗らない。
 転がったシャープペンシルがノートをはみ出し、辞書の角にぶつかって止まる。手垢がついて使い古した感のあるそれは、現在世話になっている藤原夫妻でなく、此処に来る以前に厄介になっていた家の人のお下がりだった。
 両親と早くに死別し、ろくな資産も持ち合わせていなかった彼は、祖母から受け継いだ稀有な力に翻弄され、親戚中をたらい回しにされた。
 毎日の食事と寝床が提供されるだけでも贅沢で、あれが欲しい、これが欲しいと我が儘を言える立場に無かった彼も、中学生に上がった時、流石に英語の辞書くらいは手元に置いておきたいと願った。
 図書館に行けば広げるのは可能だが、ああいうものは何処も貸し出しが禁止されており、利用は館内に限定される。それでは家でじっくり勉強するのも難しく、困り果てていたところ、余っていたお古を譲り受けた次第だ。
 貰った時はとても嬉しかったのを覚えている。まだ引き取られたばかりで、人と異なるものを視る眼の事を知られる前の話でもあった。
 二ヶ月と経たないうちに、他の人には視得ないモノが居間に座ってテレビを見ていることを指摘してしまい、以後奇異な目を向けられるようになって、半年が過ぎようとした頃にうちでは扱いきれないと放逐されてしまった。
 そんな出来事の繰り返しで、ひとところに二年以上いた例がない。だから今の、この環境は非常に心地よく、愛おしかった。
 辞書を開くたびにほろ苦い記憶が蘇るが、藤原夫妻に新しいものが欲しいとも言えず、未だに愛用している。それに、どんなに辛い思い出が伴おうと辞書自体に罪は無く、むしろ夏目が異国語を解するのに多大なる恩恵を与えてくれた。感謝しこそすれ、捨て去ろうとは思わない。
「あー、もう。わっかんねえ」
 だが、困ることがひとつある。
 この辞書は、見た目のボロさの通り、夏目の倍以上の歳を重ねている。つまりは、近年急速に広まったインターネット関係といった最新事情に、全く追いつけていないのだ。
 教科書の長文を訳して来る、それが現在進行形の課題なのだが、連ねられる英文には見慣れない単語が並び、どれだけ辞書を引いても該当するものが見付からなかった。
 語幹から類推するにも限度がある。完全にお手上げで、両腕を頭上に投げ出した夏目は軋む椅子の上で伸びをし、疲労を蓄積して凝った肩を労って交互に叩いた。
 溜息が同時に漏れて、頭が軽く痛む。どうしたものかと草臥れた感の強い辞書を横目で見やり、続けて後方で呑気に昼寝を楽しんでいる猫を恨めしげに睨んだ。
 人の苦労も知らず、ゴロゴロと畳の上で腹を出して寝転がっている。でっぷりと丸い胴体に短い四肢が同化しており、時々痙攣を起こして動かなければ、ただの白い潰れ饅頭にしか見えない。
 背凭れに左肘を預け、腰を捻った夏目は、呆れ混じりに寝こけている謎の物体を眺め、肩を落とした。
 だらしなく開いた口からは涎が垂れ、楽しい夢でも見ているのか表情はとても幸せそうだ。それが余計に、難題の前で苦悶させられている身としては腹立たしくて仕方が無い。
「ニャンコ先生」
 呼びかけるが、熟睡している丸ダヌキ、もとい猫は起きない。むなむなと意味の解らない言葉を発して、騒がしいのを嫌ってか寝返りを打つと夏目に背中を向けた。
 伸びきった短い足が畳の黒い縁を撫で、尻にちょこんと乗った尻尾がゆらゆらと揺れ動く。窓から差し込む日光は、まだ肌寒いこの季節であっても、ガラス一枚を経ているお陰か、温かいようだ。日向から出ないぎりぎりのところで寝転がっている様に、カーテンを閉めてやろうかと夏目は椅子を引いた。
 しかし途中で思いとどまり、背凭れに寄りかかって頬杖ついて、このナマケモノを観察してみることにした。
 真ん丸い胴体に付随する四本の足は太く短く、頭部は若干小ぶりで垂れ気味の耳が時々面白いように動く。間抜け顔が見えないのが残念でならないが、耳と尻尾が動くタイミングがほぼ同時なのは、新しい発見だった。
「猫はいいよな、気楽で」
 学校に行って勉強をしなくて良いし、働かなくても食事にありつける。次生まれて来るときは、自分も猫に産まれたい。そんな事を考えた彼は、頬杖を崩して重ねた両腕に顎を置き、口から息を吐いて唇を閉ざした。
 だが結局のところ、どんな生き物であっても多少の苦労は強いられるのだ。猫が嫌いな人間もいるし、野良に生まれたら保健所の車に怯えなければならない。運良く家猫になれたとしても、自由に外を歩きまわれない不便さが付きまとう。
「去勢、てのもあるな」
 右肘を引いて前髪を梳き上げ、物騒な言葉を呟いた夏目を知らず、楽しい夢に浸っている元招き猫に目を眇める。藤原夫妻からそういう話題が出たことが無いので気にもしていなかったが、他所で雌猫に変なことをするようなら、手術を受けさせるべきだろうか。
 いや、そもそも招き猫に性別はあるのか。
「先生は、……雄、だよな?」
 一瞬考えてしまい、今更な事実を疑問視して夏目は眉間に指を置いた。仰向けに姿勢を戻したメタボ腹をじっと見詰め、肝心の箇所を確認しようとするが、この距離からでは生憎分からない。
 座ったまま背筋を伸ばしたが叶わず、仕方なく彼は今度こそ立ちあがり、気付かれぬようそうっと部屋の中央を占領している謎の生命体に近付いた。
「あれ」
 畳の縁を踏まぬよう注意深く、忍び足で机を離れる。その途中、何気なく見やった窓の外を、ひらり、ひらり、と白いものが舞っていた。
 最初埃か何かかと思ったが、それにしては量が多い。風に流されてハラハラと散るそれは、桜の花びらを思わせた。
 興味惹かれ、夏目は依然眠ったままの、オヤジ臭く腹を掻いた猫から意識の矛先を変え、斜めに伸びる西日を浴びながら窓辺に歩み寄った。
 彼の影が部屋に落ち、絶賛睡眠中の妖に覆い被さる。室温は変わらないものの、それまで陽射しを受けていた腹部の体感温度は瞬時に変化して、瞼を襲った薄暗さに彼は顔を顰めやった。
 反対方向を見ている夏目は気付かない。ほうっと息を吐いた彼は、手を伸ばして窓に触れ、ガラス越しの景色に目を凝らした。
 ひらひらと天から舞い落ちる、幾つもの白い花びら。額をこすり付けて見上げた空は蒼く澄んでおり、筋雲が高い位置に陣取っている以外陽射しを遮るものは無かった。
「ゆき……?」
 晴れているのに。
 自問して身を引いた夏目は視線を伏し、胸の前で両腕を組み合わせた。右手で左肘を握り、その左手で顎を抓んで首を捻る。
 緑深い山に近く、都会と呼ばれる場所からは縁遠いこの地方は、雪と馴染みが深い。ここいらはまだマシな方で、山をふたつ、みっつ越えた先は冬になると雪に道が塞がれ、一昔前までは陸の孤島と化していたとも聞いている。
 今まで彼が転々として来た場所は、いずれも空気の汚れた、人の多い場所だった。こんな長閑な、自然に囲まれた場所は稀有だと夏目は思う。
 だからだろう、妖たちも都会に比べると随分元気だ。
 朝起きて、外が一面の銀世界になっていた日は感動したし、凄いと思ったが、長く此処に住まう友人らにはすこぶる不評だった。
 面倒臭い季節がやって来たと口を揃えて言い、理由を問えば雪かきが疲れる、電車が遅れる、道を歩いていると滑って転ぶ、等など。最初は楽しくて面白いのに、と喜んでいた夏目も、今なら彼らと一緒に愚痴を零せそうだ。
「なんだろう」
 まだ白いものは窓の外で踊っている。風に煽られて、ひらり、ひらり、と儚く揺れ動く様は蝶にも似て、可憐だ。
 吐く息が窓ガラスにぶつかり、砕ける。一瞬だけ白く曇る視界を手で拭えば、大きく育った水滴が掌を湿らせた。
「さむいわ!」
「うわっ」
 興味津々に外を窺っていた夏目の膝裏に、唐突にゴスッと何かがぶつかってきた。
 押し出された膝が壁に激突し、良い音を響かせる。骨を伝った衝撃に悶絶し、バランスを崩した彼は尻から床に沈み、柔らかなものを思い切り踏み潰した。
「ぎゅえ」
 みっともない悲鳴が下から聞こえて来て、夏目は壁に衝突させた膝の痛みを堪えて俯いた。左右に広げた腿の隙間から、じたばた暴れる小さな後ろ足が見える。本来は真っ白い綿毛のような尻尾が今はピーンと伸びて、アイスのコーンを逆向きにしたような形になっていた。
 この肉厚のクッションがなんであるか、確かめるまでもない。
「ふぬー、ふぬぬー!」
 夏目の尻から脱出しようと懸命に足掻いているが、これはこれでとても座り心地が良い。このまま座布団にしてやろうと決め、立てていた膝を横に倒した彼は、胡座を組んで自分で支えていた体重全てを腰部に集中させた。
 丁度視線が窓の最下部ぎりぎりに来て、瞳を持ち上げれば軒の先から続く空がよく見えた。
「綺麗だな」
「ふがー!」
「おっと」
 ぽつりと感想を述べたところで踏み潰された物体が鼻息荒く叫び、腹を膨らませて夏目を押し返した。弾き飛ばされそうな気配を感じ、慌てて両手を振り回して前に逃げる。
 ぼんっ、と煙が沸き起こって、咄嗟に顔を庇った夏目の視界を、何処かより現れた真っ白い毛むくじゃらが埋め尽くした。
 生臭い風が額を撫でる。思わず顔を背け、頭上に掲げた両腕を広げた彼は、一瞬のうちに潰れ饅頭から変化した、美しい毛並みの白い獣に乾いた笑いを零した。
「折角人が気持ちよく眠っていたというのに、何をするか貴様」
「や、先生はそもそも人じゃないし」
 口を開いた獣の発した重低音は、非常に不機嫌そうだった。
 揚げ足を取る格好で他所向いたまま言い返した夏目は、今にも自分に食らいつきそうな妖を宥め、落ち着かせようと掌で空気を押し出す仕草をした。だがそんな生半可なことで気持ちを納めるような相手ではなく、本性を現した斑は、その大きすぎる体躯を丸め、鼻先を夏目に押し当てて近い位置から切れ長の目で睨みつけてきた。
 両手で抱きかかえられる猫の姿からは想像がつかない、勇壮、かつ麗しい姿だ。もし出会った時の彼が招き猫ではなく、この姿であったなら、夏目の彼に対する態度も、少しは違ったものになっていたかもしれない。
 荒々しく鼻息を吹きかけられ、湿った空気に夏目は眉根を寄せた。
 窓の前に立って陽射しを遮ったのは悪かったが、だったらそう言えば良い。先に暴力に訴えて出たのは彼の方で、夏目はやり返しただけだ。目には目を、歯には歯を、の精神に則ったまで。
 反抗的な態度で唇を尖らせた夏目に、斑は獣の顔を歪め、険を強めた目で距離を詰めてきた。
 罰として食わせろ、とでも言えば即座に殴り飛ばしてやるつもりで夏目が構える。背中に隠した利き腕で拳を作った彼が息を呑む中、斑は下から舐めるように夏目を見やり、思いがけないものに気付いて首をスッと伸ばし、感嘆の声を漏らした。
「ふむ、風花か」
「え?」
 耳慣れない単語に夏目は目を瞬かせ、彼が見ているものを振り返った。
 窓の外、あの白い花がまだひらひらと空を泳いでいた。
「かざ……?」
「なんだ、知らんのか。無知な奴だ」
「悪かったな」
 知らないのだから、仕方がないではないか。知ったかぶりを決め込むよりはずっと良いと言い放ち、夏目は斑の鼻の頭を振り向き様に殴った。
 油断していたところに食らった一撃に、美麗なる妖はみっともなく横倒しになり、鋭い爪を持つ手でじんじん痛む場所を撫でた。顔の一部分を赤く腫らした獣に胸を反らし、こちらも痛かった拳に息吹きかけた夏目は、どうせだからと手を広げて冷えた窓に押し付けた。
 あっという間に熱が奪われ、気持ちが良い。
「かざはな、――風の花か」
 言われてみれば、そんなイメージだ。しっくり来る語感も気に入って、繰り返し口の中で呟いた夏目は、手首を返して掌を窓に預け、優雅に空を駆る無数の花たちに目を細めた。
 痛みから復活した斑が、まだ赤みを残す鼻を寄せて夏目の肩越しに外を眺める。
「あれは、雪だぞ」
「そうなんだ?」
「世間知らずも甚だしいな」
「もう一発いっとくか?」
 馬鹿にした声で呟いた斑に握り拳を見せつけ、こめかみをヒクつかせた夏目に、先ほどの容赦ない攻撃を思い出したらしい彼はサッと顔を青褪めさせ、大慌てで首を横に振った。
 夏目の部屋の天井は、低い。無論人間である彼が日常生活を送るには充分事足りる高さを持っているが、本来の姿に戻った斑では、伸びをすれば頭がつっかえてしまう。
 窮屈に肩を窄めた彼は、夏目が手を引っ込めるのを待ってホッと息を吐き、同時に首を前に倒して背中を丸めた。
「わっ」
 再びボンッ、と何かが弾ける音がして、部屋中に煙が立ちこめたかと思うと、夏目の上に何かが落ちてくる。咄嗟に両手で受け止めるとずっしり重く、危うく肩が抜けそうになった彼は何事かと霞む視界に目を凝らした。
 覚えのある重みと肌触りに加え、にやりと不敵に笑うふてぶてしい姿が其処にあった。
「お前はっ」
 ちゃっかり踏まれた仕返しをしてくれた招き猫を投げ捨て、夏目は次第に薄くなる風花に溜息を零した。
 猫の姿に戻った斑は畳の上で二度跳ね、畳に爪を立てて滑っていく体を押し留めた。そんな事をしたら畳が傷んでしまう、爪とぎは別の場所でしろと即座に夏目は叱りつけ、後で塔子にどう謝ろうか頭を抱え込んだ。
 苦悩する彼をいい気味だと笑い、項垂れている夏目の背中を踏み台にして斑は窓によじ登った。
「なかなか風流だな。よし、雪見酒と洒落込むか」
「おいおい……」
 まだ日は高い、酒盛りをするには時間が早すぎる。
 飄々と笑って言った彼に呆れ、夏目は伸び気味の前髪を梳いて肩を竦めた。しかし肝心の妖は既に心此処に在らずで、いそいそと酒の隠し場所である押入れに向かって歩き出していた。
 足を動かす度に、丸い尻尾が左右に揺れる。上機嫌な証拠で、窓辺で胡坐を組んだ夏目は仕方が無いかと苦笑し、以前ヒノエが持ってきた一升瓶を器用に取り出した斑の浮かれた姿に見入った。
「待て。俺は飲まないぞ」
 にんまりと振り返った招き猫の手には、杯がふたつ握られている。なにやら雲行き怪しいものを感じた夏目は急ぎ声をあげ、右膝を立てて身を起こした。
「何を抜かすか。つきあえ」
「馬鹿言うな。未成年に酒を勧める奴があるか」
「そんなだから、いつまで経ってもひょろひょろなのだ、貴様は」
「関係ないだろ!」
 白塗りのお猪口を差し出してくる相手を避け、距離を取って夏目は騒いだ。諦めの悪い斑が極悪顔で詰め寄り、人の酒が飲めないのかと脅してくる。矢張りもう一発殴っておくべきだったと後悔し、直後反射的に手を出した彼は、見事酒瓶を抱いてひっくり返った規格外猫に胸を撫で下ろし、乱れた襟を直して窓に向き直った。
 酒を庇って受身が取れず、背中から落下してピクピクと四肢を痙攣させている斑は、哀れと呼ぶ以外ない。
「自業自得だ」
 つれなく言って、儚く散る風花に目を細める。
「……綺麗だな」
 階下に居る塔子は、この美しい景色を知っているのだろうか。今頃は夕飯の支度に忙しく、窓も締め切った台所に詰めているだろうから、気付いていないかもしれない。
 教えてやろうと腰をあげ、彼はまだ裏返っている斑を避けて足を進めた。
 ついでに辞書のことも相談してみよう。本当は、あまり我が儘を言いたくはないが。
「甘えても、いいかな」
 最近になって少しだけ、そう思えるようになって来た。
 優しく笑う塔子の嬉しそうな表情を思い浮かべ、照れ臭そうにはにかみ、夏目は襖を横に滑らせた。復活した斑が、短い足で畳を叩いて抗議の声を発しているが、耳は貸さない。廊下に出て、無言のまま戸口を閉じた。
 いい匂いがする、今夜のメニューはなんだろう。
「もうちょっと、降っててくれよ」
 切なる願いをこめて呟き、彼は急ぎ足で階段を駆け下りた。

2009/01/17 脱稿