寒波

 ガタガタと吹き荒ぶ風に煽られ、窓枠が激しく波打った。
 アルミサッシが擦れ合う音に綱吉は顔を上げ、ガラスに体当たりしてきた枯葉に驚いて目を瞬かせる。ビクリと大袈裟なくらいに肩を震わせているうちに、すっかり疎かになった手の中で黒色のコントローラーが上下左右に震動した。
「わっ」
 一瞬しか気を逸らしていなかったというのに、その僅かな時間で、折角調子よく進んでいたゲームが頓挫してしまった。
 見事に撃墜されてしまい、ゲームオーバーの文字がテレビモニターに大きく表示される。コンテニューまでの残り時間が刻々と減って行く画面を見詰め、肩を落とした彼は、もういいや、と諦めの境地に至ってコントローラーを床に降ろした。
 長いコードが絡まないようにまとめ、本体に手を伸ばして電源を落とす。一緒にテレビのスイッチも切れば、プツンという短い音の末に時代遅れのブラウン管が沈黙した。
 長い息を吐いて自由になった両腕を頭上に伸ばし、背筋を反らして骨を鳴らす。リズムにあわせたわけではなかろうが、窓を叩く風の音が断続的に室内に響いた。
 冬の風は冷たい。ただでさえ気温が低いのに、体感温度をより一層下げて寒さを強調してくれるから、綱吉は嫌いだった。
 暑い夏も苦手だが、寒い冬の方がずっと辛い。どんなに着込んでも、木枯らしひとつ吹くだけで全部台無しにしてくれるからだ。
 今日も朝から風が強く、実際の気温よりも外はずっと寒い。郵便物を取りにちょっとだけ外に出ただけで、凍え死ぬかと思ったくらいだから、よっぽどだ。
 但し太陽は燦々と輝き、空を覆い隠す無粋な雲も少ない。陽射しは柔らかく、風を遮ってくれる窓越しならば充分に暖かかった。
 こういうのを小春日和、というのだろう。なけなしの知識を振り絞った感想に、ハンモックに揺られていたリボーンは声を殺して笑った。
「なんだよ」
 使い方は間違っていないはずだと頬を膨らませ、拗ねた表情で綱吉は小生意気な赤ん坊を睨んだ。しかし帽子を顔に被せ、昼寝を楽しんでいるリボーンは全く反応を返してくれず、果たして今の笑いが綱吉に対してなのか、それとも彼が見る夢に対してなのかは、最後まで分からなかった。
「……ちぇ」
 続くかと一方的に思っていた会話が打ち切られ、面白くないと綱吉は握った拳で床を叩いた。
 時計を見れば、午後二時を少し回ったところ。おやつまでまだ一時間もあって、昼食にたらふくチャーハンを食べただけあって、空腹感は程遠い。ただ暖房を入れている所為か、空気は乾燥していて、喉に微かな渇きを抱いた。
 まるで成長の兆しが見えない喉仏をなぞり、声変わりは未だだろうかと遅い第二次性徴を気にして綱吉は駆動音も止まったゲーム機を見詰めた。もう一度起動させて遊ぶ気分でもなし、しかし勉強をすべく机に向かう気力も沸かない。
 休日の昼のテレビは再放送が多く、興味も無い二時間ドラマがただ無為に流れて行くばかり。
 非常に中途半端な時間帯に、暇になってしまった。手持ち無沙汰気味に肩を回した綱吉は、どうしたものかと、鼻提灯を膨らませているリボーンを見詰め、深々と溜息を吐いた。
 全身の力を抜き、背中を丸めて胡坐を組んでいる足首の交差点に額を押し当てる。こんなヨガのポーズもあったよな、と同じ場所に手を置いて小さくなった彼は、骨格が軋んで歪む痛みに堪えきれず、五秒と経たないうちに姿勢を戻した。
 同時に脚も前に放り出し、狭い空間で出来る限り体を広げて床に横倒しになる。ひんやりと冷たい床が気持ちよくて、思わず頬擦りしようとしたところ、鼻先に食べ終えたポテトチップの空袋がぶつかって、止めた。
 部屋には当たり前だが、ゴミ箱くらいある。しかしついつい、その小さな筒に入れるのさえ面倒臭がってしまい、こうして床に放置状態が長く続いていた。
 奈々が部屋に来る度に、掃除をしなさいとこっぴどく叱られるのだが、これはこれで、自分なりに何処に何があるのかしっかり把握しているので生活がしやすかったりもする。
 下手に片付けると、どこにしまったのか忘れてしまい、結局部屋中をひっくり返して探し回り、またごちゃごちゃになってしまうことも、割に多いのが綱吉の性格だ。
 身を起こして欠伸を噛み殺し、癖だらけの髪の毛をかき回して目尻の涙を拭う。仕方なく目に付いた空袋は丸めてゴミ箱に放り投げ、彼は渋々立ち上がった。
 天井間際の壁に設置した空調は、のんびりとしたリズムで温い風を送り出してくれている。此処に居る限り自分は安泰で、寒さとは無縁の生活を送るのが可能だ。
 窓の外は澄み渡る青空がどこまでも続き、丸くなった雀が群れだって電線で羽根を休めていた。
「あー、そういえば」
 あまり面白くはないけれど、やっぱりゲームを再開させようか。
 そんな事を考えつつ、床に座り込んだまま綱吉は窓の外を眺め、ふと思い出した会話に視線を泳がせた。
 今日の午後、並盛中学の野球部は、どこぞの中学と練習試合をするらしい。もっともそれは、山本から直接聞いたのではなく、偶々彼と同じ部活に所属する別のクラスの生徒が、廊下で立ち話をしているのを耳にしただけの不確かな情報でしかない。
 応援に行こうかと一瞬考えたが、その必要があるなら山本本人から要請があっていいはずだ。秋の大会は既に終わっている、なかなかの好成績だったという話も聞いた。だが決勝まで残れなかったのが、彼は大いに不服の様子だった。
 こういうところが、団体戦の難しいところだと思う。ひとりだけ抜きん出た選手がいても、他のメンバーのレベルがそこに追いついていなければ、結果は残せないのだ。
 それに、今の野球部は最上級生が受験準備の為に引退して、新体制に入ってまだ間もない。山本にも色々と責任が求められており、これまで以上に大変になるだろうと思われた。
 彼は野球を心から楽しんでおり、そんな彼を見るのが綱吉は好きだった。ただ最近は、彼は部活の話をあまりしなくなった。
 綱吉や獄寺が興味をあまり示さないから、敢えて話題に選んでいないだけかもしれない。そういう気遣いは無用なのだが、山本は自分ばかりが楽しんでいるのは申し訳ないと、そんな風に考えていやしないだろうか。
「うーん」
 試合会場は、分かる。並盛町の外れにある、市民グラウンドだ。
 開始時間までは知らないが、午後からと聞いたので今から行けば多分間に合う。再び時計を見上げた綱吉は、身を乗り出して窓の外を覗き込み、見えやしないと分かっていながら、目を凝らしてグラウンドの光景を探した。
 風が吹き、雀の子が飛ばされぬように身を寄せ合って塊を作り出す。見るからに寒そうな光景に、暖かな室内にいる綱吉にまで寒気が及んで、彼は鳥肌を立てた腕を服の上からさすった。
 白く曇った窓ガラスから離れ、短い逡巡を挟んでどうにかその場に踏み止まる。
「寒い、よな」
 いくら野球の試合中でも、守備の間はボールが飛んでこない限り、戸板も無いグラウンドで立ちっ放しを強いられる。攻撃の回でも、打順が巡ってこなければ吹き曝しのベンチで座って待たされる。
 自分ならばきっと耐えられないと、綱吉は緩く握った拳に爪を立てた。
 唇を浅く噛み、カタカタと小刻みに震え続ける窓枠に目を落とす。ガラスに触れると、ひんやりとした感触は肌を伝った。
「寒いよ」
 だけど彼は、この寒い中を懸命に闘っているのだ。
 背筋を伸ばして天井を仰ぎ見た綱吉は、同時に静かに瞼を下ろして浮かび上がったユニフォーム姿に奥歯を噛んだ。
「ああ、もう」
 じれったい。
 即決できない自分の意気地なさに地団太を踏み、綱吉は荒っぽく自分の頭を掻き毟って踵を返した。足音を喧しく響かせて部屋を横断し、クローゼットのドアを開けて中からお気に入りのダッフルコートを取り出す。去年の春にクリーニングから戻って来て、半年以上ずっとそのままだったものをベッドに投げ捨てて、手際悪くビニールを剥ぎ取って、オレンジ色のタグも引き千切った。
 中身が溢れかえっているゴミ箱に不要となったビニールを押し込み、コートを抱えて彼は廊下に出た。冷たい床板を踏みしめて階段を降り、一直線に玄関に向かおうとしたところで、はたと思いとどまる。
 右袖だけコートに通した状態で、階段もあと一段残すのみとなった地点で停止した綱吉は、瞬きもせずに数秒間考え込み、手摺りから身を乗り出して台所の入り口を振り返った。
「かあさーん」
「なーにー?」
 呼べば即座に声は返ってきたが、姿はなかなか現れない。どうやら自分から行かなければならないようで、綱吉はコートから腕を引き抜くと畳んで胸に抱え込み、階段を両足そろえて飛び降りた。
 暖簾を押し上げて台所に顔を出せば、子供達へのおやつの支度中らしき奈々が、エプロン姿でコンロの前に立っていた。換気扇が回る音が低く響き、熱せられたヤカンからはしゅわしゅわと勢い良く湯気が立ち上っている。
「おやつはまだよ。あら、出かけるの?」
 彼女は長い菜箸を右手に握り、もう片手で銀色のボゥルを支えていた。中に入っているのはクリーム色をした液体で、彼女はそこに食パンを浸して満遍なく水分を吸わせていた。
 どうやら今日のおやつのメニューは、フレンチトーストらしい。
 見ればヤカンの横にフライパンが既に準備されている。これから焼いて行くのだろう、今から準備しておけば、三時には充分間に合う。
 だが綱吉の用事はそうではなくて、そわそわ落ち着き無い息子が抱きかかえているものを見て、奈々は首を傾げた。手を止め、ヤカンの火を消す。途端に換気扇の音が五月蝿く響いて、綱吉はどきりと心臓を跳ね上げて小さく頷いた。
「うん。だから俺のはいらない。それで、お願いがあるんだけど」
「お小遣いなら、駄目よ。無駄遣いばっかりするんだから」
「そうじゃないよ」
 ひとり勝手に決め付けて喋る奈々に痺れを切らし、綱吉は足を踏み鳴らして首を振った。違うのだと声を荒げ、驚いて目を丸くした奈々に若干ばつが悪い顔を向けて、頼みごとの内容を早口に告げる。
 今度は黙って聞いてくれた奈々が、直後に嬉しげに目を細めて両手を叩き合わせた。
「そう。じゃあ、直ぐに準備してあげるわね」
「お願い」
「はいはい。貴方も手伝ってね」
「はーい」
 自分に出来ることなどそう多くは無いが、模範解答な返事をして、綱吉は邪魔になるコートを自分の椅子に置いた。

 冬空は高く、白い筋雲が高い位置を流れて行くのが見える。
 強い風が断続的に吹き荒れ、砂埃が舞って目が痛い。逆立っている髪の毛を攫われて綱吉は首を窄め、襟元から潜り込んだ冷気に竦みあがった。
「さむー」
 家の一歩外は、予想していた通り冬の嵐。陽射しはあるのに気温は低く、いつもは隣家の軒先で日向ぼっこに興じる猫も、今日ばかりは家の中に引っ込んでしまっている様子だった。
 奈々に準備してもらったものを懐炉変わりに胸に抱き、綱吉は予想以上に時間がかかってしまったと小走りにアスファルトを蹴り飛ばした。
 途中で騒ぎを聞きつけた子供たちに乱入されたのが、一番の原因だ。火を扱っているのだから危ないと言い聞かせても、好奇心旺盛なランボはちっとも人のいう事を聞こうとしない。きつく叱り付ければ直ぐに泣き出すので、加減が難しくて実に厄介だ。
 思い出すとまた腹が立ってきて、綱吉は道端に落ちていた小石を思い切り蹴り飛ばした。頭上高くを飛行機が、音もなく滑るように飛んでいく。地面に落ちる影は薄く、やや長かった。吐く息は白い。
「まだやってるかな」
 野球の試合は、早ければ二時間程度で決着がついてしまう。グラウンドに着いた時にはもう試合は終了し、人っ子ひとり居ない状況を想像して、綱吉は慌てて首を振って否定した。
 悪い方に考えるのは、よくない。たとえどんなことであろうとも。
 すぐ気弱になる自分を叱り、鼻息荒く握り拳を作った綱吉は、兎も角急ごうと緩みかけていた歩幅を戻し、ペースを上げた。
 横断歩道を渡り、交差点を幾つか折れて、人通りの少ない道を走る。最初に感じた寒さは、心臓が送り出す血液が量を増やし、息が弾んで呼吸が苦しくなるにつれて薄れていった。
 そうしてようやく辿り着いた目的地は、悪い予想が半分正解し、半分外れの状態だった。
「あ、ちゃー……」
 最初に目に入ったのは、背の高いフェンス。ホームベース後方一帯を取り囲むその金網の柵の傍に設置されたボードには、七回までの全ての欄に数字が書き込まれていた。
 最終回下側の欄には、大きなバツ印がひとつ。その右隣に合計点が表示されて、後攻めの――並盛中の勝利だった。
 敷地を囲うフェンスに歩み寄った綱吉は、後片付けもひと段落した様子の選手達の姿を左から順に眺め、がっくりと肩を落とした。
 居残っていたのは負けた方のチームで、知らない顔ばかりだ。決勝点に関わる失策でもしたのか、ひとりの選手が大粒の涙を流して声を堪えており、チームメイトが必死に慰めの言葉を掛けている姿が見受けられた。
 こんな光景を見せられては、折角山本の所属する野球部が勝ったというのに、素直に喜べないではないか。
 嫌な瞬間に立ち会ってしまったと、綱吉は乾いた唇を舐めた。そういう事を考えてしまう自分も嫌で、首を振る。
 勝負なのだから、勝つ側があれば、負ける側も当然居る。競争しているのだから、それは仕方の無い事だ。
 負けて悔しければ、次は負けないように努力すればいい。彼らはそうやって、日々切磋琢磨する道を選んだのだ。
 ならば自分はどうなのか。空っぽで、何もつかめていない両手を見下ろし、綱吉は小さく項垂れた。
「どうしようかな」
 泣いている選手の感情に引きずられたわけではないが、哀しい気持ちになって落ち込む。世の中自分の思い通りになってばかりだと面白くない、と分かっていても、計画通りに事が運ばないのは、やはり憂鬱だ。
 溜息混じりに呟いて空を仰いだ綱吉の視界を、低い位置で鳥が羽根を広げ飛んでいった。
 折角来たけれど、意味が無かった。忙しい奈々にまで余計な手間を掛けさせたというのに。
 このまま帰るのはなんだか気が引けて、綱吉は手持ち無沙汰に両手を泳がせた。肩から斜めに提げた紐を握り、両手にずっしり来る重みを持ち上げる。
「あっれー?」
 下向けば自然と溜息が漏れた。幸せが逃げると言われているけれど、既に逃げられた後なのでもう気にも留めない。そんな気落ち激しい綱吉の背中で、唐突に甲高く明るい声が響いた。
 聞き覚えのある、というよりは耳慣れた声に頭を後ろから殴られた彼は、危うく顔面をフェンスに激突させるところだった。
 完全に不意をつかれ、構えも取れていなかった。咄嗟に両手を前に突き出して網目に絡ませ、正面衝突だけは回避させるものの、体重を寄りかからせた分音が響き、グラウンドに居た保護者らしき妙齢の女性にじろりと睨まれてしまった。
 顔を赤くし、綱吉は恥かしげに急ぎフェンスを押し返して二本の足で地面に立った。一方、不意打ちで声をかけて来た人物は、綱吉の状況などお構いなしに近付いてきて、斜め後ろから肩に腕を回してきた。
 抱きつかれ、綱吉は下を向いたまま彼の方へふらついた。
「ツーナ! どうしたんだよ、こんなとこで」
「山本……」
 左肩をつかまれ、右肩越しに顔を覗き込んできた親友に、綱吉は呆れ声でその名前を口ずさんだ。途端に山本はパッと表情を輝かせ、嬉しげに目を細めて白い歯を見せて笑った。
 今まで何処に居たのかと聞けば、敷地の反対側でミーティングをしていたという。その言葉が意味する通り、振り向いた綱吉の視界には、山本と揃いのユニフォームを着た選手が集団を作っていた。
 その中には綱吉が立ち聞きした、今日の練習試合を話題にしていた生徒の顔も混じっている。あちらも綱吉に気付いて、ダメツナが居ると隣の選手に話しかける声が聞こえた。
「山本、重い」
「お、悪い」
 いつまでも圧し掛かられたままでは、潰されてしまう。両手を使って山本の左腕を押し退けた綱吉は、彼が素直に応じた分拍子抜けした顔で息を吐き、額に浮いた汗を拭った。
 体を揺らした所為で、提げる水筒がゴンゴン足に当たって痛い。
「それで、ツナ?」
「あ、うん。……山本、今日試合だって聞いたから」
 土汚れの目立つ帽子に、ユニフォーム。胸にはアルファベットで並盛の文字。肩から野球道具が入った鞄を斜めに引っ掛けた彼は、人好きのする笑顔で言いよどむ綱吉の顔を覗き込んだ。
 思いがけない返事に、きょとんと目を瞬く。
「俺、言ったっけ?」
「ううん。でも、聞いた」
 立ち聞きだったので詳細は省いたが、綱吉の返答に山本は前屈みだった姿勢を戻し、顎を撫でて遠くを見た。
 団体行動の和を乱し、綱吉に駆け寄ってきた山本を、指導員の男性が大声で呼んでいる。チームメイトも、早く来いと一様に口を揃えて彼を手招いた。
「いいよ。俺も、もう帰るし」
 野球は団体競技なのだから集団で行動するのが基本で、個人の勝手で動き回るのは良くない。山本は今後、野球部を背負って立つ逸材になってもらわなければならないのだから、こんなところで自分に構っていてはいけない。
 みんなが呼んでいるから、と綱吉は動こうとしない山本に言い聞かせ、その肩を押した。しかし彼の方が身体も大きいので、悔しいことにびくともしなかった。
 山本は仲間の顔を順に見詰めてから、暮れ始めたオレンジ色の太陽に目を細めた。そして急に綱吉を振り返ったかと思うと、悪戯っぽい笑みを浮かべて目尻を下げた。
「山本?」
「すんませーん。今日は俺、このままこいつと歩いて帰りまーす!」
「え? えええぇえ!?」
 両手を口の横に添え、拡声器代わりに使った山本が、唐突に大声でそう宣告する。最後に腕を取られ、真上に引っ張られた綱吉は、漁師に釣り上げられた魚宜しく片方の爪先を浮かせた。
 素っ頓狂な声で悲鳴を上げるが、傍らの人物はにこにこと屈託なく笑うばかり。チームメイトも呆気に取られ、反論を忘れてしまっていた。
「そゆことで。じゃ、また明日!」
「ちょっ、山本。やまもと!」
 本当にそれでいいのかと声を大にして異論を唱えるが、彼は聞く耳を持たず人を引きずって歩き出した。ずるずると砂の上に二本の浅い溝が走り、転びそうになった綱吉が慌てて膝に力を入れて、スニーカーの裏で地面を蹴り飛ばす。
 後方からは非難轟々、そして何故か愛の逃避行だと囃し立てる声が聞こえたが、山本はそれらも一切無視した。
「山本、やーまーもーと! 痛い、痛いってば」
 強引過ぎるやり口に僅かな反感を抱き、綱吉は裏返った声で悲鳴を上げた。実際引っ張られる腕は肩が外れそうなくらいに痛く、このままでは脱臼してしまう。
 この際周囲に居る無関係な人も巻き込むつもりで、助けて、と叫んでみようかと考えていた綱吉は、急に弱まった手首の拘束に驚き、前につんのめった。
 ぼふっ、と柔らかなものに鼻の頭をぶつけ、息を詰まらせて綱吉が身を捩る。見上げれば山本が、照れ臭そうな、困った顔をして頬を掻いていた。
「あー、わりぃ……」
「いや、あ、うん。いいよ、もう」
 反省しているように見えないが、若干気落ちした様子を覗かせる彼に、綱吉もあまり強く問い詰めるのは悪い気がして、緩慢に首を振った。
 握られていた場所が赤くなって、痣になっている。コートから覗く細い手首を撫でていると、山本が申し訳無さそうに頭を垂れた。
「悪い」
「いいってば。なんか、勝ったのに元気ないね」
 いつも明るく元気いっぱいなのが彼の最大の特徴なのに、今日はそれが空回りしている気がする。メンバーに綱吉と帰ると宣告した時だって、張り上げた声は大きかったが覇気はなかった。
 何かあったのだろうか。怪訝に彼を見上げるが、表面上はいつもと変わりなく思えて、心の内側を探るのはなかなか難しい。
「山本」
「ん。……ちょい、スランプ」
「でも」
「勝ったのは相手のエラーだよ。俺も、今日だけで失策ふたつ。情けねーや」
「誰だって、調子悪い時くらいあるよ」
「だなー」
 綱吉の言葉にも、どこか上の空で相槌を返す山本の横顔は、やはり元気が無い。
 こういう時に、気の利いたことばのひとつやふたつ、かけてやれたらいいのに。運動のみならず、勉強においてもダメダメっぷりを発揮している綱吉は、落ち込んでいる親友を慰めることさえ出来ない自分の不甲斐なさを呪い、何も無い空中を蹴り飛ばした。
 白い息が視界を埋め、空振りした足に跳ね上げられた水筒が勢い良くぶつかってくる。
「いたっ」
 我ながら間抜けだと、肩に提げた重いものの存在を思い出し、綱吉は渋い表情をして突き出ている腰の骨をさすった。
 急に真横で悲鳴があがったので、山本も虚を衝かれた様子で彼を見下ろす。視線を上から感じ取り、綱吉はばつが悪い顔をして下唇を咥内に巻き込んだ。
 顎を前に突き出して上目遣いに睨まれて、山本は途端に苦笑した。それまでの気落ち具合が嘘のように晴れ渡り、いつもとなにも変わらない、明るくて元気な山本の笑顔が舞い戻ってくる。
 身を張ってのギャグではなかったのだが、ともあれ山本が楽しげに笑ってくれたのは、嬉しい。ただ、矢張り未だ少し、痛い。
 左腰に手を当てたまま、綱吉は水筒の位置を胸元中央に移し変えた。それはそれで、歩くたびにトントン、と調子よく前に跳ねては元に戻り、コートの裾を必要以上に揺らめかせる原因となった。
「それ、いつも持ってたっけ」
「うん?」
「水筒」
 ウォーキングをやっている人などは、水分補給用に水を持ち歩くこともあろうが、綱吉の出で立ちはそういう目的とはとても考えられない。あまり見かけないアイテムに、山本は人差し指を綱吉に向けて小首を傾げた。
 言われて、綱吉もああ、と緩慢に頷いて首から伸びる細い紐を両手で引っ張った。
「ん。や、……今となっては結構、恥かしい理由なんだけど」
「ツナ?」
「試合って外でやってるし、今日は風が強いから、うん。寒いんじゃないかなって、思って」
 言っている傍からその突風が吹き荒れて、巻き上げられた砂埃を避けて綱吉は右手で顔を覆った。目を閉じ、バサバサと髪の毛が騒ぎ立てる音を聞いて浅く唇を噛み締める。
 全身に浴びせられる風が弱まってホッと息を吐き、腕を下ろすと同時に窄めていた首を伸ばす。膝を屈めて身を小さくしていた綱吉は、姿勢を戻すに従って上を向き、一秒前から変化無く、棒立ちになっている山本に舌を出した。
「だから、さ。でも、必要なかったみたい」
 ちょっと遅かったね、と恥かしいのを照れ笑いで誤魔化し、綱吉は真っ白いコートに散った砂を落とそうと、胸元を忙しなくパタパタ叩いていった。
 山本は綱吉の言葉を受けてしばし硬直した末、右手を丸めて己の唇に押し当てた。手の甲の硬さを顎で受け止め、西に傾く太陽を見ようと綱吉に背を向ける。
 顔が熱いのも、心持ち耳朶が赤いのも、きっと全部夕焼けの所為だ。
「ツナ。そのお茶、熱い?」
 奈々にわざわざ新しく沸かしてもらった湯で作ったお茶は、保温性の高い密閉容器に入れられている。多少時間が過ぎているが、まだ一度も蓋を開けていないので、きっと今でも湯気立つ温かさを維持しているに違いない。
 他所向いたまま問うた山本を見上げ、綱吉は両手で抱いた銀色の水筒を揺らした。
 ちゃぷん、と掌に水の流れる感触が伝わった。
「うん。たぶん、だけど」
「そか」
 確かめていないので自信はないが、水筒の性能は信じて良い筈だ。曖昧にだが頷き返した綱吉に、山本は依然遠くを見たまま返事をした。
 ひょっとして、冷たいほうが良かったのだろうか。確かに外気温は低いけれど、考えてみたら山本は直前まで試合をしていたのだ。緊張もするだろう、寒さを感じている暇など無い。
 その可能性は、考えていなかった。
 しまったと後悔しても遅く、どうしようと焦ってもどうにもならない。両手を頬に当てて焦りを浮かべた綱吉の態度に、ようやく振り向いた山本が相好を崩した。
「そっか、熱いお茶かー。それもいいけど、今は冷たい奴が欲しいかも」
「そっ、そう、そうだね。ごめん、全然気付かなかった。じゃあ、買って来るよ。コンビニに……あっ、あそこに自販機あるから」
「ツナ」
 彼の笑顔があまりにも無邪気で、眩しくて、綱吉は取ってつけた言い訳を口にして落ち着き無く周囲を見回した。市民グラウンドは公園の敷地の一部なので、散歩コースとなっているこの一帯に店舗はない。その代わり、屋根のある休憩所傍に自動販売機の群集ならあって、綱吉はそちらを指し示して急ぎ駆け出そうとした。
 止めた山本が、綱吉の手をコートの上から握り締める。
 がっしりとした彼の体格に見合った、太く、逞しい手だった。
「いい。折角お前が持ってきてくれたんだ」
「だけど、山本。今」
「うん」
 彼が自分で言ったのだ、冷たいお茶が飲みたいのだと。
 だけれど此処にあるのは、湯気立つ温かいお茶だけ。それでは彼の希望を叶えてやれない。
 順序立てて言葉を連ねた綱吉に、山本は穏やかな調子で首を横に振った。少しだけ目尻を下げた笑顔の彼は、多少元気を取り戻してはいるものの、先ほどの落ち込み具合をまだ微かに残している。
 それでいて、綱吉がこの場から立ち去ってしまうのを恐れているような、寂しささえ感じられた。
「やまもと……」
 どうしたのかと問えば、彼はまたひとつ、首を振った。手を広げて綱吉の手首を開放し、改めて肩を広げ、腕を左右に伸ばす。
 鼻先に土の匂いを感じた頃にはもう、綱吉の小さな体は彼の胸に閉じ込められていた。
「ツナ。ありがと、すっげー嬉しい」
 彼が自分を気に留めてくれたこと。
 この寒い中、知らせても居なかった練習試合の応援に来ようとしてくれたこと。
 自分を気遣って、言葉を選んで、慰めようとしてくれたこと。
 綱吉が、此処に居てくれること。
 そのどれもが嬉しくて、嬉しくてたまらない。それなのに、この気持ちを的確に彼に伝える言葉を、山本はまだ持ち合わせていなかった。
 どうすれば伝わるだろう、どうやったらこの気持ちが彼に届くだろう。
 考えても分からなくて、結局こうやって、無理矢理に近い状態で抱き締めることでしか表現できない自分が、もどかしくてならなかった。
 試合でのミスは、消せない。次で挽回するしかない。落ち込んでいたって始まらない、前を向いて我武者羅に走るくらいしか、自分には出来ない。だけど、今、この一瞬だけは、立ち止まるのを許して欲しい。
「ツナ。お前のそのお茶が冷めるまででいいから」
 夕暮れは西の空一面に広がり、天頂の青は色を強めて藍色に変わろうとしていた。地上を駆ける風は冷たく、気温はぐっと下がって肌を刺す。
 ただお互いが触れ合う部分だけが、暖かかった。
 悔しさを噛み殺した山本の言葉は、半端なところで途切れて後が続かない。綱吉は行き場に困って持て余していた両手を広げ、トントン、とランボを寝かしつける時と同じ動きで、彼の背中を軽く叩いた。
 人の肩に額を埋めて、山本が僅かに身じろぐ。そんなにきつくしがみつかなくても、逃げたりしないのに。
「いいよ」
「ツナ」
「いいよ。ずっと、こうしてるから」
 ちょっと休憩するくらいなら、野球の神様だってきっと許してくれるよ。
 明るく言った綱吉のことばに救われた気がして、山本は顔を伏したまま小さく頷いた。

2008/12/14 脱稿