聖家族

 大雪を過ぎれば、今年も残すところあと三週間。
 期末試験も目前に迫って、学生の多くは日頃の不真面目さを悔やみながら机にかじりつき、点数アップを目論んで必死に勉学に勤しむ時期でもある。
 クリスマスや正月といったイベントが目白押しの冬休みが待っているというのに、補習授業等で貴重な休日を潰したくないのだろう。いつもは騒がしい昼休みも、試験範囲が発表されたからか、学校全体がどこかそわそわしながらも、妙に静まり返っていた。
 数百人もの中学生を集めておきながら、この静かさはある種不気味でもある。日が差し込む窓辺に立ち、誰ひとり居ないグラウンドを眼下に見やって、雲雀は肩を竦めた。
 冬特有の気温の低さの影響もあろうが、いつもなら誰かひとりくらい、ボール遊びに興じていてもおかしくない時間だ。けれど見事に閑古鳥が鳴いて、置き忘れられたサッカーボールが隅の方で寂しげに転がっているだけだった。
 後で片付けに行かせなければ。置いていった生徒も見つけ出して、風紀を乱したと処罰を下す必要があろう。そんな事を考えて眉目を顰めた彼の視界に、公道上でゆっくりと減速するトラックの姿が飛び込んできた。
 灰色の塀から背中がはみ出して見える、箱型の車体。中学校の正門前で停止したそれは、彼の記憶が間違っていない限り、運送会社の配送用トラックで正しい筈だ。
「なんだろう」
 自分は備品を注文した覚えはないので、教職員の誰かが文具でも発注したのだろうか。ただ午前中に注文した場合、配送は夕方、或いは翌日の午前中に行われる場合が多いので、時間帯的に今来るのは妙だ。
 首を傾げて自問した雲雀は、段ボール箱を抱えて正門を潜る、まだ若いドライバーに目を眇めた。
 応対に出た職員にひとこと、ふたこと告げて建物の庇の下に潜ってしまう。そうなるともう応接室の窓からは見えなくて、目で追うことが出来なくなった雲雀は、同時に興味を削がれて窓を離れた。
 どの道、自分には関係なかろう。気にしたところで意味などなくて、それよりも昼食に用意したサンドイッチでも抓んで腹を満たし、午後の仕事の準備に取り掛かった方が、余程効率的だ。
 風紀委員に買いに行かせた、並盛でも評判のパン屋の袋を広げ、中からハムと卵を挟んだものを取り出す。それをひとつ口に咥え、彼はコーヒーを淹れるべく机を大回りして片隅の棚に向かった。
 保温のランプが点っている小型の湯沸しポットを持ち上げ、顔の横で振って残量を確認してから、硝子戸を横にスライドさせる。
 中に収められているものを順に確認した彼は、落ちそうになっていたサンドイッチを噛み千切って左手に持ち、ドアから響いた物音に顔を上げた。
「なに?」
 二度続けてノックされて、口の中にあるものを噛み潰しながら問う。しかし声が小さすぎたのか、扉はいつまで経っても開かなかった。
「誰?」
 こんな時間に、何の用だろう。
 風紀委員ならば、こちらの返事があった時点で「失礼します」のひと言を添えて、ドアを開けて中に入ってくるはずだ。しかしノックの主は、中に居る雲雀がドアを開けてくれるのを、じっと待っている雰囲気があった。
 怪訝に眉を寄せ、雲雀はコーヒーを諦めて手の中のサンドイッチを全部口に押し込んだ。右頬を膨らませて奥歯で塊を擂り潰し、唾液と混ぜて小さくしてから少しずつ飲み込む。大股でドアまで進んだ彼は、唇に残るマヨネーズを指で掬ってから舐め、依然沈黙したままのドアノブを見下ろした。
「開いてるよ」
「委員長、すみません」
「哲?」
 鍵はかけていない。確かめて頷いた雲雀は、もう一度冷たくドアの向こうへ告げた。するとようやく返事が成され、聞き覚えのある声に彼は顔を顰めた。
 風紀委員副委員長の、リーゼントヘアをした強面の青年が即座に脳裏に出現し、雲雀は若干裏返った声でその名前を呼んだ。一緒に銀色のノブに右手を添え、捻って引く。開かれたドアから真っ先に現れたのは、突き出た草壁の髪の毛ではなかった。
 茶色の、段ボール箱だ。
「なに?」
 予想と随分違っていて、雲雀は面食らって仰け反った。一秒遅れで箱の上から草壁が顔を覗かせ、驚いている雲雀に道を譲ってくれるよう懇願する。
「すみません、恭さん」
「……なに、それ」
「それがですね」
 大人しく壁際に退いた雲雀の前を、草壁が申し訳なさそうに通り過ぎた。
 開けっ放しのドアからは冷たい風が流れ込んできて、折角暖房を入れているのに、このままでは冷やされてしまう。雲雀は素早くドアを閉め、応接室中央のテーブルに段ボール箱を置いた彼に問うた。
 前屈みの姿勢を戻した草壁が、若干申し訳なさそうに言葉を重ねる。
 彼に差し出されたものを受け取って、雲雀は頭に疑問符を浮かべた。
「宛先が、ですね」
 それは先ほど、学校前に停車したトラックの――運送会社の送り状だった。
 送り先住所は此処、並盛中学校。それもしっかり、応接室行きと指定されていた。
 それだけならば、別段問題はない。雲雀だって風紀委員の備品関係を、他の学校の備品と混ざらないよう、応接室止めにすることはあった。
 ところが、この送り状には応接室行き、の文言の後ろに、もうひとつ名前が追加されていた。しかも雲雀や草壁といった、風紀委員に属する人物の名前ではない。
「さわだ、つなよし……?」
「あーー!」
 何故、と雲雀が記されている名前を読み上げた直後、応接室のドアが今度はノックもなしに、大音響を響かせて乱暴に開かれた。
 一緒に飛び込んできた、少年特有の甲高い悲鳴に草壁がおっかなびっくりその場で飛び跳ね、雲雀はある程度予想できたことだと受け流した。
 背中から足音を響かせて近付いてくる人物の姿を、振り返って確かめるまでもない。
「やっぱり、届いてたんだー」
 いったい、なにをしてやっぱり、なのか。手にした送り状ばかりを見詰める雲雀の後ろ、黒革のソファ越しに身を乗り出した綱吉は、隣にいる人の機嫌など全く気にした様子もなく、薄茶色の髪の毛を振り乱して言った。表情はとても嬉しそうで、そこからでは手を伸ばしても届かないと知ると、さっさと背筋を伸ばしてソファを回り込む。
 テーブル前で膝を折った彼は、草壁が運んで来た荷物に愛おしげに触れ、ちゃんと届いてよかったと、外国からの輸入と分かるシールその他を撫でた。
「あ、もう開けちゃったりとかしました?」
「いえ、それは」
 そういえば、と彼はぽかんとしている草壁に問い、返事を聞いてよかったと力ませていた肩を落とした。ホッとした様子で未開封の箱の継ぎ目をなぞり、しゃがみ込んだままでは邪魔かと立ち上がる。
「失礼ですが、沢田さん」
「はい?」
「それは、いったい?」
 かなり大きな箱だ。大柄の草壁でさえ、両手で抱えなければならないほどの。
 低い位置にあるテーブルを指差して質問した彼に、綱吉はズボンの汚れを払い落として「ああ」と頷いた。両手を胸の前で結び合わせ、急にそれまでの元気の良さを裏側に隠してしまう。もじもじと恥かしそうにしながら、上目遣いに雲雀を盗み見ては、パッと逸らす仕草を繰り返した。
 それだけで、草壁は自分がお邪魔虫だと悟った。
 このふたりの関係を知る数少ない人間のひとりである彼は、ならば自分から言うことは何も無いと両手を挙げ、降参のポーズをとった。今すぐ出て行くので後は好きにしてくれと、半ば投げやり気味に告げて踵を返そうとする。
 慌てたのは綱吉だった。
「そんな、別に変なものじゃないですから!」
 何か妙な誤解をさせてしまったと早とちりし、綱吉は顔を赤らめて去ろうとした草壁を呼び止めた。一方の雲雀は、相変わらず綱吉宛になっている送り状を睨みつけ、日本語ではない言語で記された送り主の名前を懸命に読み解こうとしていた。
 いや、実のところ、其処に書かれている文字が誰を指しているのかは分かっている。だが納得しかねて、他に読み方が無いかと探しているところだった。
「はあ」
 ぎりり、と奥歯を軋ませている雲雀を他所に、草壁が釈然としない様子で足を止め、綱吉を振り返った。そして、聞いて欲しそうにしている綱吉の、興奮気味に色付いた顔を眺めて小首を傾げる。
 雲雀は別のことに熱中しているので、自分が相手をしてやるしかなさそうだ。
 開けっ放しのドアを少し気にしつつ、草壁は両手を握り締めて鼻息荒くしている綱吉に向き直った。
「では、いったい?」
「クリスマスプレゼントです!」
 じゃーん、と自分で効果音さえも口にした綱吉の宣言に、草壁は、そして雲雀もまた、自分の聞き間違いかと彼の顔を揃って凝視した。
 テーブルに鎮座する箱に両手を向け、ひらひらと指を躍らせて注目を集めようとしている綱吉ひとりが、この場からいやに浮いてしまっている。しかも本人は全く恥かしいと思っている様子が無くて、反応に困り、草壁は助けを求めて雲雀を見た。
 右手で送り状を握りつぶした雲雀は、こめかみの周辺に小さく青筋を立てていた。
「へえ……?」
「それで、ですね。これ、ちょっと大きいんですけど、此処に置いてもらっても良いですか?」
 地の底から響く低音で相槌を打った雲雀を無視し、綱吉は楽しげに声を弾ませ、長方形の箱を軽く叩いた。
 サイズもさることながら、かなり重かった。一階で預かってから此処まで運ぶのに、結構苦労させられたのを思い出して草壁は首を捻る。無論中身に興味はあるが、北極のブリザードを背負う雲雀の機嫌をこれ以上損ねるのは出来れば避けたい。
 巻き込まれるのは嫌だと思いつつ、立ち去るタイミングを逸してしまった彼は、静かな怒りを滾らせる雲雀が無理矢理笑顔を作る様に全身を慄かせ、半歩後退した。
「いいよ。そこの棚の上、使うといい」
「有難う御座います!」
 表面上はにっこり、優しい笑顔だけれど、その裏側に隠れている感情は底が知れない。震え上がる草壁を他所に、全く気付く気配が無い綱吉は鼻歌まで歌いながら梱包を解き始めた。
 一分半後、彼らの前に姿を現したのは、灰色と茶色で彩色されたテラコッタだった。
 奥行きは三十センチ程度、横幅は五十センチセンチ少々。厚みは場所によって多少の差があるものの、平均すれば五センチ程度。表面に平らな部分は殆どなくて、凹凸が激しい。
 中央やや右奥寄りに、高さ二十センチばかりの四角い箱が付属していた。正面部分がくりぬかれ、中が覗けるようになっている。申し訳程度についた屋根が、なにかの建物を模したものだと教えてくれた。
「っと、重……」
「持ちましょう」
 輸送途中で割れないよう、何重にも梱包材が巻かれていたそれを箱から抜き取ろうとした綱吉だったが、予想以上の重さに腰が引けた。見かけて草壁が助け舟を出し、入れ替わりに箱の中身に手を伸ばした。
 ずっしりと来るそれを、雲雀が先ほど示した棚の上へ移動させ、此処で良いかと綱吉に指示を仰ぐ。彼は満面の笑みを浮かべ、ばっちりだと微笑んだ。
 心底嬉しがっている笑顔に、草壁もついつい顔が綻ぶ。しかし直後、ぞっとする寒気に襲われて、彼は竦みあがった。
 どす黒い気配を背負い、猛禽類の目をした雲雀に睨まれて、彼はそそくさと綱吉の前から退いた。
「では、私は仕事がありますので、これで」
「はい。どうも有り難う御座いました」
 引きつった笑顔でわざとらしく告げた草壁に、気付かない綱吉は深々と頭を下げた。途端に雲雀から溢れ出る怒りの量が増大し、巻き込まれては堪らないと、草壁は急ぎ足で応接室を出て行った。
 当然、ドアを閉めるのは忘れない。
「それで?」
「ほえ?」
 扉の向こうに草壁が消えても、暫く彼を見送って手を振り続けた綱吉に、雲雀の低い声が掛かる。呼びかけられて振り返った綱吉は、此処に来てやっと、雲雀の不機嫌ぶりに気がついた。
 背中に冷たい汗を流し、凄んで来る雲雀の視線に顔を引きつらせる。
「ひ、ヒバリさん……?」
「それで、どうして。あの男からのプレゼントが此処に届くわけ?」
 握り締めた送り状、発送元はイタリア。
 差出人は、ディーノ。
「え? あ、いや。それはその」
 雲雀がイタリア語を読み書き出来るという話は聞かないが、アルファベットを読み解くくらいは綱吉だって出来る。発送国と、それらしき綴りから彼なりに導き出した結論に、雲雀は声を震わせた。
 聞かれた方の綱吉は、言葉に詰まって視線を他所向かせた。胸の前で人差し指を小突き合わせ、巧い言い訳を探そうとしているのが表情から読み取れた。
「どうして?」
「だから、それは……」
 雲雀と綱吉とが恋仲であるのは、ディーノも知っている。知っていながら、彼はまだ綱吉の事を諦めていない。
 隙あらば横から攫っていこうと画策する彼と、彼のアプローチにまんざらでもない綱吉を見せられるのは、非常に気分が悪い。綱吉宛で応接室に届けられた荷物が、あの姑息な跳ね馬からのクリスマスプレゼントだというのなら、ふたりして雲雀を馬鹿にしていると雲雀が受け止めるのは当然だった。
 そこまで考えを巡らせていなかった綱吉は、迂闊だったと視線を泳がせた。
 だが脳裏に思い描く後悔は、差出人をロマーリオにしてもらえばよかったとかいう、あまり反省しているとは思えない内容ばかり。
 土台は大きくて重いと聞いていたので、家に届いたものを持ってくる手間を省こうとしたところが、そもそもの間違いだった。ズボラをした所為で、雲雀にあらぬ疑いをかけられてしまい、綱吉は返答に窮したままじりじり後退を試みる。しかし雲雀の怒気は強まるばかりで、一歩間違えれば咬み殺されかねない状況に、彼は心臓を竦ませた。
 そこへ響き渡る天の声、もとい午後の授業開始を告げるチャイム。
「あ、あっ。俺、昼の授業あるんで、もう行きますね!」
「綱吉」
「またあしたー!」
 上擦った声をあげ、綱吉は神の救いに感謝して飛びあがった。雲雀の脇を猛ダッシュで駆け抜け、草壁が閉めたばかりのドアを開けて廊下に飛び出す。
 開けっ放しでぶらぶら揺れる扉を見詰め、出したものの届かなかった手で雲雀は空気を握り潰した。
 忌々しいものを見る目で、綱吉に届いたディーノからの贈り物を睨みつける。いっそトンファーで粉々に打ち砕いてやりたい気分にさせられて、実際愛用の武器を手ににじり寄った彼ではあるけれど。
『届いてたんだー』
 嬉しそうな声で部屋に飛び込んできた綱吉の顔がちらついて、直前で彼は踏み止まった。
 ぐっと腹に力を入れ、奥歯を噛み締めて怒りを堪える。
 これを壊してしまったら、綱吉はきっと哀しむだろう。いや、怒るかもしれない。雲雀の応接室に置いているとはいえ、元々これは綱吉宛に送られて来た荷物であり、彼の所有物であるのに違いはない。それを勝手に破壊したらば、責められるのは雲雀の方だ。
「……っの!」
 勝ち誇った顔をするディーノが想像できて、雲雀は八つ当たりに、空っぽになった段ボール箱を叩き潰した。

 次の日から、綱吉は毎日昼休み、応接室に顔を出すようになった。
 雲雀が部屋にいても、居なくても、だ。主不在の時は、雲雀から渡された合鍵を使って中に入っているらしい。誰も居なかったはずの室内に微かに残る人の気配が、ささくれ立った雲雀の心を刺激し、また同時に和らげた。
「なんなのかな、これ」
 土曜日も、日曜日でさえ彼は律儀に雲雀を訪ねて来て、定型句の挨拶をした後、そそくさと壁際に置かれた棚へ向かった。
 十二月八日の昼にディーノから届いた、巨大な陶器の置物。それから一週間を経た今、その形状は明らかに変化していた。
 凹凸激しい表面に最初から設置されていたのは、四角形の建物のミニチュアひとつきりだった。ところが今はそこに羊が二頭いて、ロバが二匹いて、建物の中には椅子が置かれていた。腰掛けているのは白いローブを纏った女性の人形で、二頭目の羊がやって来た次の日に追加された。
 そして今日、つい先ほど、まだ弁当を食べていないのだと言って慌てて帰った綱吉が置いていったのが、飼い葉桶。
 雲雀はその小さくも精巧な置物を小突き、土台と材質が同じかを確かめた。
 丁寧に形を整えて、焼き上げた後に色付けされたらしい。柔らかな色彩は、手作りの温かみを感じさせてくれた。
 だが雲雀は、依然としてこれが何であるのかが解らない。
 いや、陶器の置物であり、日に日に種類が増えていくジオラマであるのは、最早誰の目にも明らかだ。解らないのは、何故綱吉がこれを、わざわざ応接室に設置するか、だ。
 矢張り嫌味か。
 高笑いしているディーノの顔が浮かんで、つい指に力が入って桶を倒してしまった。カコン、と硬い音がして、壊れてしまったかと一瞬肝を冷やした雲雀は、慎重に爪で抓んで顔の前に掲げ、無傷であると知ってホッと胸を撫で下ろした。
 恐らくは、クリスマスの日に完成するようになっているのだろう。綱吉の言動を思い出し、雲雀は手の中のものを元あった場所に戻した。
 そう思う理由は、椅子に座る女性が両手を胸の前で丸め、何かを抱え持つ時のポーズをとっているからだ。但し、彼女の腕の中には未だなにもない。
 この女性が聖母マリアを模したものであるのは、いくらこういう宗教行事に疎い雲雀といえども、直ぐに想像がついた。だから此処に納められるのは、クリスマスの夜に誕生したと言われるキリストに他ならない。
 但し、今年のその日はまだ来ていないので、マリアの腕に赤ん坊が抱かれているのはおかしい、という事だ。
 雲雀の目の前で、ディーノからのプレゼントを完成させる綱吉。なんという嫌がらせ、なんという性格の悪さか。これほど人を馬鹿にした贈り物もあるまい。
 綱吉も綱吉だ、自分の恋人がいったい誰であるのか、今一度胸に手を当てて考えてみるといい。
 嬉々としてミニチュアを増やしていく愛し子の顔を脳裏に描き、雲雀は納得が行かないと鼻から荒っぽく息を吐いた。
 踵を返し、陶器の馬小屋の前を離れる。引いた椅子に乱暴に腰掛けた彼は、胸を反らせて背凭れに深く身を沈め、腰元で両手を結び合わせて天井を仰ぎ見た。
 長い溜息を吐いて苛立った気持ちを沈め、そっと瞼を下ろす。浮かび上がるのは綱吉の顔ばかりで、言い表しようの無い複雑な感情を抱え、彼は臍を噛んだ。
 果たして自分は、あの子に何か物を贈ったことがあったろうか。記憶を辿り、過去を振り返ってみるが、思い当たる節にぶつからない。既に付き合いは半年を越えるというのに、未だに一度も、だ。
 互いを意識するようになったのはもっと前からだが、関係が変わったのは雲雀が誕生日を迎えた日だったように思う。本人でさえすっかり忘れていたその記念日に、綱吉がプレゼントを手に訪ねて来たのがきっかけだった。
 紆余曲折はあったものの、今の関係に落ち着いたのが夏休みの少し前。十月の中ごろ、妙に彼がそわそわしていると思っていたら、十五日に思い切り殴られたのは記憶に新しい。
 あれは、綱吉の誕生日を完全に忘れていた事への報復だった。
 聞いていない、教えた、の押し問答の末に、大泣きする綱吉を前にして雲雀が折れて、謝罪を繰り返してやっと許してもらえた。が、その時も彼に贈ったのは言葉ばかりで、形に残る物は渡さなかった。
「……強請られてる?」
 ハッと目を開けて息を呑み、雲雀は倒れかけた姿勢を整えて右手で口元を覆った。
 ならばこれは、誕生日に何も寄越さなかった雲雀に対しての、綱吉なりの自己主張なのだろうか。ディーノはこんなにも手の込んだものをくれたのに、と無言の圧力をかけているのか。
 だが綱吉がそこまで陰湿な性格をしていると思いたくなくて、彼は頭を抱え、机に寄りかかった。
 横目で棚の上に鎮座する、テラコッタの像を盗み見る。柔らかな風合いを醸し出すそれが、今は悪魔の巣窟に思えてならず、雲雀は深々と溜息を零した。
 風紀委員の仕事にかまけて、最近はあまり綱吉に構ってやれなかった。特に今日から期末試験が開始されて、カンニングを試みようとする不埒な輩を取り締まる、という業務が追加されている。冬休みを前にして気が緩み、風紀を乱す連中も徐々にだが増えている。
 こういう時期だからこそ手を抜けなくて、綱吉との逢瀬を後回しにしてきたのは事実だ。
 こめかみの鈍痛を堪えて、雲雀は奥歯を噛み締めた。
 見た感じ、綱吉に表立った変化は無い。放課後は寄り道をせずに真っ直ぐ自宅に帰って、期末試験で少しでも良い結果を残そうと真面目に勉強に勤しんでいるようだ。山本や獄寺といった友人らとの関係も、目立つトラブルを起こさずに良好さを維持している。
 先ほど訪ねて来た時は笑顔で、終始上機嫌に過ごしていた。透明な袋に入った桶ひとつを握って、バランスよく見えるように何度か置いては引っ込める作業を繰り返し、満足出来たところで帰って行った。
 無駄な雑談は、交わさなかった。彼は雲雀に挨拶をすると一直線に棚に向かって行って、こちらから話しかける隙を与えてくれなかった。
「避けられてる?」
 自問するが、どうも釈然としない。避けるなら、彼のことだ、徹底的に逃げ回って顔も見せないはず。
 だったら、綱吉の目的はなんなのだろう。さっぱり分からなくて、雲雀はお手上げだと降参のポーズを取った。
 次の日の昼休みも、綱吉は小さな人形を手に応接室に姿を現した。
「しっつれいしまーす」
 リズムを取って調子よく大きな声を出した彼に、雲雀はコーヒーを淹れる手を止めて戸口を振り返った。
 一度限りのノックの後、即座に開け放たれたドアから身を乗り出した綱吉が、入って良いかどうかの許可を求めて目を泳がせている。既に第一歩が室内に紛れ込んでいるのだから、さっさと入れば良いものを、妙に遠慮を表明しているところが実に彼らしい。
「早く閉めて」
 暖房で温くなった空気が外へ逃げてしまう。インスタントコーヒーの瓶を片手に言った雲雀に、綱吉は慌てて背筋を伸ばし、いそいそと身体全部を応接室に移動させた。
 後ろ手にドアを閉め、頬を撫でる柔らかな空気にほうっ、と息を吐く。
 昨晩から急激に強まった冷え込みは日が昇ってからも薄れず、最高気温は十度を越えないとの予報が出ていた。当然廊下も相応に空気が冷えており、悴んだ指先に息を吹きかけた綱吉は、自分と違って温かい部屋に居座っている雲雀を若干恨めしげに見た。
 持って来たものを両手の間で挟み、肩を丸めた姿勢で綱吉はテクテクと壁際に進んだ。袋の中身は、白髭の男性の人形だ。
「テスト、どう?」
 なにか話をしなければ。その義務感に背中を押され、雲雀は幾らかぎこちなく、けれど不自然になりきらない程度に誤魔化して、コップの中にコーヒーの顆粒を落とし込んだ。
 綱吉の行動理念を探るには、まず会話をするところから始めなければならない。今の自分たちに必要なのはそれだと昨日一日悩んで結論づけた雲雀の問いかけに、綱吉はさしたる疑問を抱くこともなく、棚の前で苦笑いを浮かべた。
「あ、うーん。ぼちぼちってところです」
 午後からもう一科目予定されていて、綱吉は曖昧に答を濁して頭を掻き毟った。
 彼の返事を待つ間、自分ががらにもなく緊張していたことに、雲雀は入れすぎたコーヒー豆をコップの底に見て思い知らされた。ついそちらに気を取られてしまって会話は途切れ、一区切りついたとみた綱吉は至極あっさりと彼から視線を外した。
 老人の人形を袋から取り出して、何処に置こうか迷って土台を隅々まで見回す。そして昨日と少しだけ位置が違っている飼い葉桶に目敏く気付き、唇を尖らせた。
「ヒバリさん、動かしたでしょ」
「え?」
「これ」
 一旦コップに入れてしまった粒を瓶に戻すのは憚られ、しかし棄てるのも勿体無い。綱吉の注意を引きつけられなかった自分の不甲斐なさを呪いつつ、コーヒーもどうしようか迷っていた雲雀は、急に話し掛けられて驚き、裏返った声を出した。
 綱吉は棘のある目つきで雲雀を睨み、左人差し指でテラコッタのミニチュアを指し示していた。
 前日雲雀が小突き倒した飼い葉桶は、彼が最初に置いた場所からさほどずれていない地点に並べられていた。ぱっと見ただけでは、動かされたかどうか分からない。しかし綱吉の直感が位置の変化を指摘しており、言い当てられた雲雀は心臓をドキリと鳴らし、慌てて視線を逸らした。
「僕の部屋にあるんだから、僕がどうしようと勝手だろう」
「ヒバリさんの部屋じゃなくて、学校の、応接室、ですよ」
 単語を細切れにすることで意味を強調した綱吉が、顔を背けている雲雀を眺めて嘆息する。仕方が無いな、という感情が滲み出る表情だったが、別方向を見ていた雲雀は彼の機微に全く気付かなかった。
 綱吉はひとり溜飲を下げ、握り締めたままだった老人を女性の傍に置いた。倒れないようにバランスを取り、慎重に手を離す。
 男性の慈愛に満ちた瞳の先にあるのは、座るマリアの手元だ。
「これでよし、と」
「いつまでやるの」
「そりゃー、勿論」
 人物像が安定したのを確かめ、彼は満足げに頷いた。直後後ろから声がかかり、振り向き様に口を開いた綱吉は、すぐ近くに雲雀が立っているのに驚いて飛びあがった。
 左右の手両方に白いコップを持った雲雀が、不機嫌に唇を歪ませている。白い湯気が揺れて、片方を差し出された綱吉はきょとんとし、もう片方を口に運んだ雲雀を不思議な目で見返した。
 結局雲雀は、コーヒーを二杯作ることで妥協した。砂糖もミルクも入っていない、苦いばかりの飲み物を無理矢理押し付けられ、綱吉はこれをどう処理したものかと迷い、首を傾げた。
「あげる」
「はあ……」
 ところが雲雀の返答はそんな素っ気無いもので、緩慢に頷いた綱吉は両手でカップを抱き、暫く湯気立つ水面を見下ろし続けた。
 雲雀はブラックのまま、熱いそれを冷ましもせずに喉に押し流していく。正直なところ、綱吉に要らないと押し返されるのも覚悟していた彼だが、緊張気味に見守る前で綱吉は照れ臭そうに頬を赤らめ、表情を綻ばせた。
「お砂糖、貰いますね」
 このままでは苦いからと、お子様味覚を存分に発揮して綱吉は声を弾ませた。嬉しそうに目尻を下げて笑い、雲雀の横をすり抜けて食器類が並ぶ戸棚へ小走りに駆けていく。
「場所」
「分かります。ヒバリさんのコーヒー、いっつも俺が作ってあげてるじゃないですか」
 迷いのない綱吉の足取りに呆気に取られ、反応が遅れた雲雀の声に綱吉は呵々と喉を鳴らした。今更なにを言っているのかと笑い飛ばされ、雲雀はそうだったかと瞳を宙に浮かせた。
 確かに、綱吉の言う通りかもしれない。そしてこれが、記念すべき、雲雀が綱吉の為に淹れた最初のコーヒーだった。

 それがプレゼピオというものだと知ったのは、学校が終業式を迎え、二週間の休暇が生徒達に宣告される日だった。
 草壁が、偶々見たテレビのニュースで、これに良く似たものを紹介していたと教えてくれた。イタリアのクリスマスで、家庭や路上、教会などでごく一般的に飾られる置物なのだという。雲雀の予想通り、マリアが抱く赤ん坊のキリストは、クリスマスの当日に置かれるのだとか。
「ふぅん」
 副委員長の丁寧な説明を聞き流し、相槌だけを返した雲雀は、声と一緒に彼に判を押した書類を衝き返した。受け取った草壁が深々と頭を下げて出て行くのを見送り、頬杖をついて口から息を吐いた雲雀は、自然と視線が向いた先にあるプレゼピオに表情を曇らせた。
 最初こそ簡素だった土台は、今では沢山の人形で埋もれて大賑わいだった。
 中央に置かれた小屋の外には羊の群れと、羊飼い。聖母マリアの左前には三博士が並び、ヨセフらしき男がその隣に並ぶ。受胎を告げた天使の姿は屋根の上に見えて、精巧なジオラマの完成は間近に迫っていた。
 それはつまり、二週間と少し、毎日此処を訪ねて来ていた綱吉が、休みに突入するのをきっかけに顔を出さなくなる、という事だ。
 今日は二十四日、終業式。
 クリスマス・イブ。
 成績表を受け取り、大掃除をして、ホームルームのみで解散。宿題は別として、イベントが目白押しの長期休暇に突入する喜ばしい日だ。
 プレゼピオの飾りつけは、見たところ殆ど完了している。他に人形を置こうにも、残る場所は限られているし、これ以上増やすのも意味が無いように思えてならない。
 マリアの腕に赤子を置けば、終わり。明日から休暇に入るので、ここに人形が追加されるのは今日だろうと、雲雀は予想していた。
 そうすれば綱吉とは、二週間も会えなくなる。一緒に何処かへ出かける計画は、全く立っていない。雲雀は風紀委員の仕事があるし、綱吉は綱吉で、友人らと遊びに行く予定で日程は埋まっているだろう。
 何度か都合の良い日を聞こうと試みたことはある。だが絶妙なタイミングでいつも邪魔が入り、自分から言い出せぬまま、この日が来てしまった。
「…………」
 陰鬱な気持ちに浸って、雲雀は背を仰け反らせた。椅子を軋ませて後ろへ引き、重い腰を持ち上げる。
「もうじきかな」
 時計を見上げれば、ホームルームに宛がわれている時間がじき終わる頃合だった。チャイムよりも一足先に解放された生徒が、歓声上げて正門を飛び出していく姿も見えた。
 綱吉は、今日も来るだろうか。
 そわそわと落ち着かない気持ちを抱えたまま、雲雀はコーヒーでも飲もうと戸棚へ向かった。電熱器のコードを壁に差込み、湯を沸かす。同時進行でカップをふたつ並べ、スプーンで掬ったコーヒー豆を落とし込んだところで、学内全体に設置されたスピーカーが一斉に鐘の音を響かせた。
 視線を持ち上げ、何も無い壁を見た雲雀が銀スプーンを右のコップに放り込む。
「ふたつも、要らなかったかな」
 淡い期待を抱きつつ、彼が来ない可能性に、雲雀は小声で呟いた。
 プレゼントは一応、用意した。なにを贈ればいいのか分からなくて、最後まで悩みに悩まされ、最終的にひとつに絞ったものの、その中から良質なものを吟味する暇は与えられなかった。
 もっと早くから行動しておけばよかったと後悔しても、後の祭り。群れる連中を咬み殺すのは迷わないくせに、どうしてこうも、綱吉に関わることにだけは愚鈍になってしまうのか。
 充実していくプレゼピオを前に、嬉しそうにしていた綱吉が思い浮かぶ。結局、何故それを此処に置いたのか、理由は未だ聞けずにいた。
 ディーノには負けたくなかった。だが、あれよりも大きなものとなれば、自分ひとりで抱えられない。
 折角直ぐ会える距離に住んでいるのだから、宅配など使わずに直接手渡したいではないか。今の雲雀にとって、経済力にも秀でているディーノに勝てるのは、その辺くらいしか残されていないのだから。
 綱吉でも気軽に身に着けられるもので、失くす心配が少なく、邪魔にならず、相応に高価な、見栄えのするものを。しかし条件を厳しく設定しすぎたためか、全てをクリアするものになかなか行き着かなかった。
 付け加えるなら、綱吉が本当に受け取ってくれるか、という根本的な疑問も残る。
「いや、……うん」
 段々気弱になっていく自分に首を振り、雲雀は気持ちを落ち着かせようと深呼吸を二度繰り返した。瓶に蓋をして棚に戻し、静まり返っている室内を見回して後、黙りこくっているドアを睨む。誰かが訪ねてくる気配は、未だ見付からない。
 今夜の綱吉は、彼の自宅で開催されるパーティーに出席するという。賑やかな連中が彼の周囲に多いので、さぞや騒がしい夜になるだろう。
 一応、綱吉は雲雀も誘ってくれた。が、群れるのを何よりも嫌うが首を縦に振るわけが無いのは、綱吉も聞く前から分かっていた。しつこく食い下がることはせず、実に呆気なく、大人しく引き下がっていった。
 行く、と言えばよかったか。自分のポリシーをねじ曲げてでも。
 だがそれでは、これまで自分が築き上げて来たものが一瞬で崩れてしまうことにもなりかねず、天秤を左右に揺らしながら、雲雀は不機嫌に眉間の皺を深めた。
 コップの片方に砂糖を入れ、顆粒タイプのミルクも入れて、砂糖はこれでは少ないかとスプーン半分程を追加し、雲雀は苛々と爪先で床を叩いた。トントン、と神経に障る音を響かせ、なにをやっているのかと、いつまで待ってもやって来ない綱吉に痺れを切らす。
「まったく」
 この雲雀恭弥を待たせるとは、なんたる不届き者なのか。自分がひとりで勝手に待っているだけなのを棚に上げ、彼はひと際高く足音を響かせて入り口に向かって歩き出した。
 来ないのなら、こっちから行ってやる。パーティーだかなんだか知らないが、首根っこを掴んででも連れて来てやる。
 半ばやけっぱちになって、雲雀は奥歯を噛み締めるとドアを開くべく右手をノブに伸ばした。
「あっ」
 ガチャリ、と不協和音を響かせて、触れる直前だったそのノブが勝手に右に回転した。
 危うく顔面をドアに削られるところで、反射的に飛び退いた雲雀の前で短い声が跳ねた。
 まさか雲雀がこんなところに居ると思っていなかった綱吉が、驚いた顔で目を丸くする。零れ落ちそうな琥珀の瞳に見詰められ、雲雀は一瞬息を詰まらせた後、前を向いたまま後退した。
 道を譲れば、綱吉が三十センチばかりの隙間から身を捻じ込ませてきた。
 肩に鞄を担いでいるので、ホームルームが終わって帰るところなのだろう。時間がかかったのは、夕方からのパーティーの打ち合わせを友人間で行っていたからだと、聞かれる前に綱吉本人が説明してくれた。
 出鼻を挫かれ、雲雀は微妙に気まずいものを感じながら頬を掻いた。
「巡回ですか?」
「いや、……それより、成績、どうだったの?」
「あー、出来れば聞かない方向で」
 お願いします、と舌を出した彼の表情は、明るい。だから言うほど結果は悪くなかったのだろうと想像して、雲雀は湯気を放っているポットを思い出して踵を返した。
 彼が出かけるのではないと知り、綱吉はホッとした様子で鞄を下ろした。ソファに預け、ファスナーを開けて中からいつもの袋を取り出す。
 中身を気にして、コップに湯を注いでいた雲雀もそれとなく様子を窺う。そうとは知らない綱吉は、しゃがんだばかりの体をまた起こし、最早習慣と化しているプレゼピオの飾りつけに向かった。
「あつっ」
「ヒバリさん?」
「……なんでもない」
 綱吉を気にしすぎて手元が疎かになっていた。注ぎ口から跳ねた湯が手に掛かり、思わず声に出してしまった雲雀は、足を止めた綱吉に気まずげにボソボソ言い返した。
 彼が赤い顔を隠すべく俯いてしまったので、綱吉は小首を傾げつつもそれ以上の追求はしなかった。気を取り直し、プレゼピオに新たな彩を添えようと歩を進める。
 コーヒーの薫りを漂わせて雲雀がテーブルに向かった頃、綱吉も自分の見立てに満足したらしく、軽い足取りでソファへと戻って来た。
「終わり?」
「はい。――あ、有難う御座います」
 これでついに完成か、と複雑な気持ちで雲雀は問いかけ、頷いた綱吉は差し出されたカップを両手で下から受け止めた。
 革張りのソファに腰掛けた彼を残し、雲雀はどんなものか見ようとプレゼピオに向かった。熱い液体を胃袋に流し込み、渋い顔をして幅広の置物を斜め上から睥睨する。
 聖母マリアの両手は、未だ空っぽだった。
「え」
「倒さないでくださいよー?」
 予想と違った現実に雲雀は目を見開き、彼の声を違う意味に取った綱吉は、砂糖たっぷりのコーヒーに綻んだ顔を瞬時に険しくした。
 折角苦労してここまで組み上げたのに、雲雀のちょっかいで水の泡にされるのは困る。頬を膨らませて言う彼にどうにか頷き返し、雲雀は先ほどまでと違う場所を探して視線を泳がせた。
 なにせ数が多い。総数二十近くある置物をつぶさに見て、雲雀は違和感を覚えた箇所に顔を寄せた。息を殺し、呼気で吹き飛ばしてしまわぬように注意して目を眇める。
 増えたのは、天使だ。鳥の翼を背中に生やした人形が、祈りを捧げるポーズを取ってマリア像の後ろに配置されていた。
 では肝心のキリストは、いつやってくるのか。
「ヒバリさんは、今日もお仕事遅いんですか?」
「え? あ、ああ。だと思うよ」
「何時頃まで?」
「さあ、特に決めてないけど」
 眉根を寄せ、曲げた腰を真っ直ぐに戻す。緊張していたのか掌に汗が滲んで、スラックスにこすり付けていたら、後ろから綱吉の質問が飛んできた。
 ドキッとしてしまい、腰から棚にぶつかっていくところだったのを堪える。衝撃を与える事無く済んだのに安堵して、気付いていない綱吉にも胸を撫で下ろした彼は、平常心を念じつつ身体を反転させた。
 残り少ないコーヒーを飲み込み、濡れた唇を拭う。下から視線を感じて俯けば、ソファに座る綱吉がじっとこちらを見ていた。
「なに?」
「あ、いや。そか、わかんない、か」
 怪訝に問いかければ、綱吉はやや挙動不審気味に身体を揺らして顔を伏した。挟み持ったコップに息を吹きかけ、雲雀のものよりもずっと色が薄いコーヒーを口に含ませる。
 甘すぎやしなかったかと雲雀は心配したが、綱吉は嫌な顔ひとつせずに飲み干したので、彼の舌には丁度良かったらしい。
 今度から、あの分量で作ってやることにしよう。心に刻み、雲雀は空になったコップを受け取って自分のものと一緒にテーブルの隅に置いた。
「今日はずっと学校ですか?」
「夕方には巡回に出るよ。夜は戻って来るけど」
「晩御飯は?」
「適当に、どこかで食べるよ」
 クリスマス自体に興味は無い。綱吉の真向かいに座って素っ気無く言った雲雀だが、心の中では自分の言動に慌てふためいていた。
 もっと他に言うべき事があるだろうに、何故思っているのとは正反対の事を口にしてしまうのか。巡回の途中で綱吉の家に寄るくらい造作もないし、仕事だって少し早めに切り上げるのも可能だ。綱吉が求めれば、いくらでも時間を作ってやれる。それなのに、自分は忙しいから邪魔するなとでも言わんばかりの返答ばかりしてしまって、彼は俯いてしまった綱吉に唇を噛んだ。
 しゅん、としている目の前の愛し子を、出来るものなら今すぐ抱き締めたい。このまま帰らず、今日はずっと此処に居ろと、そう言えたらいいのに。
「ヒバリさん、大変ですよね。風紀委員……冬休みなのに」
 空になった手を握り、右を向いた綱吉が遠くを見ながら呟く。だからそうではないのだと、声高に叫びたい気持ちに駆られた雲雀だが、実際には口は開いても声は出ず、中途半端に腰が浮いただけに終わった。
 空気を押し潰してソファに座り直し、彼は綱吉と反対方向に首を向けた。窓から差し込む光は、夏の日差しとは異なって柔らかく、どこか頼りなく朧気だった。
 沈黙がふたりの間を流れて行く。無音の世界に耐えきれなくて、膝に置いた手を解き、綱吉は自分の太股を叩いて顔を上げた。
「じゃあ、俺、これで。何時までもヒバリさんの邪魔してちゃ、悪いですしね」
 脇に置いていた鞄を取り、立ち上がる。苦笑する彼の声にハッと我に返り、雲雀は弾かれたように綱吉を見た。
「お仕、事頑張ってくださいね」
 腰を九十度に曲げて頭を下げた綱吉の髪の毛が視界で踊り、寂しげな表情が雲雀の前に現れた。あとちょっと突けば泣きそうで、懸命に堪えているのが分かる姿に、息を呑む。
 テーブルの前を通り過ぎ、雲雀の座るソファの脇を抜けて部屋を出て行こうとする彼の背中を追って、雲雀はようやく立ち上がった。
「沢田!」
 ソファの背凭れを押し、反動で身体を前に倒す。踏み出した一歩は大きくて、ドアノブに手をかけようとしていた綱吉に追いつくのは簡単だった。
 名を叫び、彼の細い手首を捕まえる。
 素肌が触れた瞬間、思いがけず伝わってきた相手の熱にふたりして驚いてしまう。ビクッ、と大袈裟なくらいに肩を震わせた綱吉が瞬時に身体を硬直させて、大きな琥珀色の瞳をいっぱいに見開かせた。
 振り向いた彼とぶつかる寸前の距離で目が合って、お互いに息を呑んで言葉を失う。なにか、次に繋げようとしていた言葉が確かにあったのに、顔を向き合わせた途端になにもかも吹き飛んでしまった。
 瞬きさえ忘れ、ただ無言で見詰め合った。半端に開いたままの唇を閉ざした雲雀は、一緒に咥内に溜まっていた唾を飲み込み、喉を鳴らした。
 隆起した咽頭の動きをつぶさに見て、綱吉は僅かに遅れて奪い取られた己の手に目線を向けた。細い小枝のような自分の手首に絡む雲雀の指が、今にも骨ごと折ってしまいそうなほどに力んでいた。
 華奢な印象のある雲雀だが、その腕力に物言わせて学内を支配しているだけに、相応に鍛えられた肉体を保持している。綱吉の脆弱な体躯を壊すなど、造作も無い。
 薄い皮膚越しに骨が軋んで、痛い。右の頬を痙攣させた綱吉にハッとして、雲雀もまた、掲げた己の手に目を向けた。
「あ……」
 このまま帰したくないという無意識の現われか、強く握りすぎていた。これでは綱吉に嫌な思いをさせるだけで、彼は慌てて指先を緩め、拘束を解いた。
 先に肩を引き、肘を後ろに下げれば、支えを失った細い腕もまた、彼の視界から沈んでいった。
 行き先に迷い、ふたりの間を彷徨う綱吉の指先が、雲雀の羽織る学生服を捕まえようとする。しかし爪の先が掠める直前に躊躇が発生して、綱吉は俯き、両手で鞄を握り締めた。
「……その」
 なにか言わなければ。
 帰ろうとした綱吉を引きとめた理由を説明しないのは、状況的におかしい。
 分かるのに、雲雀は上手に言葉を発することが出来なくて、下向いている綱吉の薄茶色の髪の毛ばかりを見ていた。
「帰りますね」
 十数秒の沈黙の末に、綱吉が小さく言う。張り詰めた緊張の糸がぷつりと音を立てて切れて、雲雀は安堵なのかショックなのか、どちらかはっきりしない吐息を零した。
「気をつけて」
 意気地なし、と心の中で自分を罵りながらも、表面には一切出さずに雲雀は淡々と告げた。
 一度は自分から手を伸ばしたくせに、今度は背中を押して送り出そうとしている。矛盾する彼の行動に綱吉は目を丸くし、それからふっと表情を綻ばせて微笑んだ。
「ヒバリさんも、あんまり無茶、しないでくださいね」
 思いがけず笑顔を向けられて驚く雲雀に、綱吉は柔らかな口調で嬉しそうに言った。そして今度こそ彼の学生服を掴み、軽く引っ張って爪先立ちになる。
 寸前で目を閉じ、首を伸ばして雲雀にくちづける。
 表面が一瞬掠れる程度の、本当に軽いキスでしかなかったけれど、予想だにしなかった出来事に雲雀は呆気に取られて凍りついた。白昼夢でも見ているのかと疑ったが、唇に触れた感触は紛れもない本物で、ほんのりと残る綱吉の体温も嘘ではない。
 茫然自失としている雲雀から離れ、綱吉が恥かしそうに舌を出す。膝の前で揺れた鞄を再度両手で抱え直し、彼は勢い良く頭を下げた。
「じゃあ、行ってきます」
 花が咲いたような満面の笑みで叫び、ドアを開けて出て行く。ぽかんとしたまま見送った雲雀は、音を立ててドアが閉じられたところで我に返り、まだ綱吉の感触が残る唇を撫でた。
 キスなら、これまでにも何度かしている。ただ、いつまで経っても慣れなくて、ふたりして緊張で凝り固まった状態でくちづける機会が多かっただけに、今回のような不意打ちめいたものは初めてで、純粋に驚いた。
 それに、いつもは雲雀から仕掛けるパターンが多くて、綱吉からのキスはこれが初めてだった気がする。
 あと、もうひとつ気になるのは。
「行ってきます……?」
 出て行く間際に言われた台詞に首を傾げ、雲雀は仄かに赤い顔を掌で覆い隠した。
 綱吉は自宅に帰ろうとしているところなのに、その挨拶は可笑しいのではないか。不思議に思うが、答を聞こうにも本人は既に部屋を去ってしまっており、追いかけて問うのも憚られた。
 戸口に立ったまま雲雀は室内に向き直り、壁際のプレゼピオを見た。
 人形が乱立する真ん中に座す女性像は、未だその腕に赤子を抱いていない。
 マリアという名の女性が聖母となるのは、果たしていつか。
「明日も来るから、かな」
 ゆったりとした歩調で棚に歩み寄り、雲雀はすっかり騒がしくなった陶器製のジオラマに嘆息した。今日追加されたのが天使の人形なのだから、赤ん坊のキリストが此処にやってくるのは、普通に考えてクリスマス当日だ。
 日付が変わってからまた来ると、そう言いたかったのだろうと雲雀は自分に納得させた。
 愛らしい天使の顔が、どことなく微笑む綱吉に似ている。つい突いてしまいたくなった彼は慌てて手を引っ込めた。
 不用意に触って、壊してしまったら元も子もない。
 これがやって来た当初は、ディーノへの反感からあまり良い印象を抱けなかったプレゼピオ。しかし今は、綱吉を応接室に引き寄せる魔法の小道具にも思えて、雲雀はがらにも無い事を思い浮かべた自分に照れ、顔を赤くした。

 シン、と静まり返った学校は、ある種の畏敬を抱かせる不気味さを伴い、聳えていた。
 教職員も業務を終え、全員が帰途に着いた。最後まで居残っていた風紀委員副委員長の草壁も、午後九時を少し回った頃に帰宅し、今現在、並盛中学には雲雀ひとりが存在するだけだった。
 煌々と照る応接室の明りは、カーテンを通しても外に漏れる。それは不埒な考えを持つ外部からの侵入者を防ぐ警告でもあり、この学校を愛して止まない雲雀という存在の思いの表れでもあった。
「これで最後、かな」
 三十枚近い紙束をクリップでひとまとめにして、投げ捨てるように執務机に放った雲雀は、疲れた声でそう呟いた。
 肩を回せば骨がボキボキと音を立て、同じ姿勢で長時間座っていた彼を咎めている。ストレッチでもして解そうかと、凝り固まった全身の筋肉を感じ取り、雲雀は椅子を引いて立ち上がった。
 動作の最中で見上げた壁時計は、間もなく午後十時を告げようとしていた。
 もうこんな時間なのかと、軽く驚かされる。草壁が帰ってから一切休憩を挟まずに職務をこなしていたので、体が疲れを訴えるのも無理なかった。
「そういえば」
 どうしても今日中に終わらせてしまいたい内容だったので無理を押し通したが、お陰で夕飯を食べるタイミングを完全に逸してしまった。意識した途端に空腹感が襲って来て、雲雀はシャツの上から腹筋を撫でて肩を落とした。
 出前を頼むにしても、この時間では営業している店も限られる。どうしたものかと悩み、彼は両腕を真っ直ぐ上に突き立てて背筋を伸ばした。
 その状態で腰を左右に捻って停滞していた血液の循環を促し、疲労が蓄積されている肩を労って交互に叩く。最後にもう一度伸びをして、彼は中央に寄り集まっていた前髪を掻き上げた。
 家に帰ったところで、夕食は用意されていないに決まっている。買って帰るにしても、コンビニエンスストアの売れ残った弁当では味気なさ過ぎて、気乗りしなかった。
 クリスマスなんて行事に興味はないけれど、自分以外の大勢が賑やかに、楽しく過ごしているのかと思うと、疎外感を覚えずにいられない。綱吉はパーティーを楽しんだだろうか、そちらに思考を切り替えて雲雀は腕を下ろした。
 帰り道、少し遠回りになるが、様子を覗きに行ってみよう。昼間訪ねてきてくれた時に渡し損ねたプレゼントは、サンタクロースを気取って窓辺にでも置いておけばいい。
 本当は直接手渡して、喜ぶ顔が見たかったのだけれど。
 もう夜も遅い。いい加減、どんちゃん騒ぎもひと段落している頃だ。のんびりと時間を過ごしているところを邪魔するのは忍びないし、会えばきっと攫って行ってしまいたくなる。
 自分の見苦しい独占欲で、彼の生活を壊すような真似だけはしたくなかった。
「帰ろう」
 外は寒いから、風邪を引かないようにだけ注意をしなければ。ソファの背凭れに預けていた学生服を取り、羽織るのではなく袖に腕を通した彼は、クリスマスの主役が不在のプレゼピオを振り返って苦笑した。
 腕の中が空っぽのマリア、まさしく今の雲雀はその状況だった。
 過去十年以上、クリスマスも正月も関係なく、ひとりきりが当たり前だった日常が、いつの間にか綱吉とふたりになっていた。果たしてそれが喜ばしい事なのか、この先の自分に弊害となるのかは、まだ解らない。ただ、今この状況を寂しいと感じているのだけは、嘘ではなかった。
 暖房のスイッチを切ろうと手を伸ばし、斜め上から降って来た暖気に目を細める。立て襟のフックも引っ掛けて、彼はひとつ深呼吸を置いた。
 パタパタと、どこかから足音が聞こえて来た。
「うん?」
 こんな夜遅い時間に、学校を走り回る生徒など居ない。風の起こした悪戯か、空耳の類かと疑って瞳を持ち上げた雲雀は、右手を空調操作盤の前に置いたまま、直ぐ横の扉に向かって身を乗り出した。
 ドアは閉まっている。草壁が去って以後、一度も開かれていない。
 自分の思い過ごしだと結論を下し、雲雀は今度こそ暖房と、照明を切ろうと右手に意識を向けた。
 直後。
「メリー・クリスマス!」
 バンッ、と勢い良くドアが外側から押し開かれ、雄叫びが静寂を打ち破った。
 あまりの唐突さに雲雀は目を丸くし、驚いた弾みで指が照明スイッチに触れた。パッと部屋の電気が一斉に消えて、外から紛れ込む冷気に反応した空調が、低い唸り声を増大させた。
「え……あ、あれ?」
 突然真っ暗闇になった応接室を覗き込み、素っ頓狂な声をあげた人物が誰であるのか。想像に難くなく、雲雀はドア横で唖然と立ち尽くした。
 すぐそこに雲雀がいるのに、綱吉はちっとも気付かない。おかしいな、停電か、とひとりぶつぶつ呟いているので、姿は見えないが首を傾げている様子が伝わってきた。
「ひょっとして、帰っちゃった?」
「誰が?」
「うひゃぁぁ!」
 自問する彼に、堪えきれずに合いの手を返す。予想していなかった場所からの雲雀の問いかけに、頭の天辺から突き抜ける声を出して綱吉は飛びあがった。
 着地に失敗した彼が足をもつれさせ、後ろ向きに倒れたところで、雲雀は明りのスイッチを戻し、応接室に光を呼び込んだ。
 綱吉は赤と白の、サンタクロースを模した服装をしていた。但し、なぜか頭に被った帽子の横からは、こげ茶色の枝分かれした角が覗いていた。
 パーティーが終わり、その格好で突撃を仕掛けてきたのかと雲雀が首を捻る。というのも、未だ床にしゃがみ込んで腰を抜かしている彼の隣には、真っ白い大きな袋が転がっていたからだ。
「……どうしたの、こんな時間に」
 思わぬ来訪者に内心の動揺を隠しつつ、雲雀は淡白な口調で問いかけた。
 いつまでも其処に居られては、ドアが閉められない。起きるように言って、一緒に右手を差し出した雲雀に、綱吉は若干恨めしげな視線を投げて、転倒時に打った臀部を撫でた。
 助け起こしてもらい、落とした荷物を胸に抱えて室内に入る。ドアが閉まる音を背中で聞いて、彼はぶすっと頬を膨らませた。
「なんで、そんなところに居るんですか」
「帰るところだったんだよ」
 驚かせるつもりだったのに、綱吉が逆に驚かされた。一分前の自分を思い出して顔を赤くした彼の不満顔に苦笑し、雲雀はわざとではないと急ぎ釈明した。
 たまたま、運悪く。偶然が重なっただけだと早口に告げて、突っ立っていないで座れば良いとソファを示す。なかなか動こうとしなかった綱吉だけれど、外に出る必要がなくなった雲雀が学生服のボタンを外す様を見て、彼の言葉が本当なのだと納得したようだ。
 綱吉がもそもそと重そうな荷物を引きずってソファに座るのを待って、袖から腕を引き抜いた雲雀は、置きっ放しにしていた処理済の書類に半分に畳んだ学生服を被せた。
「それで。どうしたの、急に」
 まさかこんな時間に訪ねてくると思っていなくて、雲雀は緊張を内包しつつも、どこか弾んだ声で訊いた。
 その言いぐさに、トナカイの角がついた帽子を外した綱吉は、普段よりも少し大人しい薄茶色の髪の毛を手櫛で掻き回して首を振り、唇を尖らせた。
「来ちゃ駄目ですか」
「そうは言ってないよ」
 歓迎されていない雰囲気を感じ取り、低い声で言い返して雲雀を睨む。その拗ねた態度が可愛くて、つい雲雀は笑ってしまった。
 そこは笑うところではないのに、と益々むくれた綱吉が顔を顰めて皺くちゃにする。あまりにも幼い彼の反応に、また噴出しそうになったのを堪え、雲雀はやれやれと肩を竦めた。
「それで?」
「だから、……クリスマス、なんだし」
 先を促され、綱吉は顔の赤みを強めてそっぽを向いた。恥かしそうに視線を泳がせ、ボソボソと聞き取り難い声で呟く。だが窓の外から騒音の類が一切紛れ込んでこないので、蚊の鳴くような音量ではあったが、幸いにも彼の台詞は雲雀の耳に無事届けられた。
 両手を膝で揃え、ソファの上で居住まいを正した赤い服の少年に、雲雀は首を傾げた。横目で様子を窺っていた綱吉は、その、あまり分かっていない様子の彼に憤慨し、テーブルに置いた白い袋を指差して勢い良く立ち上がった。
「だから!」
 どうしてこうも、この人は物分りが悪いのだろう。
 平素の自分を棚に上げ、綱吉は怒鳴った。
「クリスマスを、好きな人と一緒に過ごしたいって思っちゃ駄目なんですか!」
「え……?」
 雲雀はあまり、外国輸入のイベントに興味が無い。しかし綱吉は違っていて、この日は恋人たちが互いの愛を確かめ合って過ごす一夜なのだと、生まれた頃から刷り込まれて来た。
 一年に一度しか訪れない、貴重で、重要な日なのだ。
 全身茹蛸みたいに真っ赤にして、頭から湯気を出して綱吉は奥歯を噛み締めた。握り拳を胸の前で上下に揺らし、依然きょとんとしている雲雀に地団太を踏む。
「だーかーらー!」
 恥かしいから言いたくないのに、言わないと理解してくれそうにない男の鈍感さを綱吉は責めた。
 馬鹿、阿呆、朴念仁、この唐変木。思いつく限りの罵詈雑言を並べ立て、最後に息切れした綱吉は、ぜぃはぁと肩で息をして頭を抱え込んだ。
 がっくり項垂れる彼を見て、雲雀は眉間に皺を寄せた。
 悪口を言われているのに、不思議と心地よいのは何故だろう。目尻に涙を浮かべてべそをかいている子を見下ろし、彼はひとつの可能性に思い至って、左手で机の角を押した。
 身体を前に運び、少し美味しい匂いがする綱吉の前に立つ。
 唇を噛み締めて泣くのを我慢していた綱吉が、つられて顔を上げた。
 雲雀はそっと両腕を伸ばし、遠慮がちにその身体を抱き締めた。
「つまり、……こういう?」
「気付くのが遅い!」
 念の為に問えば、大声で怒鳴られた。しかし悪い気がしない。綱吉の罵倒は、全部照れ隠しに起因するものだと分かってしまったから。
 会いたいと思ってくれていたのだと、嬉しくなる。自分ばかりが寂しく感じていたのでは無くて、綱吉も、こんな時間にわざわざ学校まで足を向けてしまうくらいに、自分を求めてくれていたのだ。
 胸の中が幸せに満たされていく。こんなに素晴らしいクリスマスプレゼントは他になくて、伝わってくる綱吉の温かさを噛み締めながら、雲雀は彼を抱く腕に力を込めた。
 綱吉は小さく身動ぎし、苦しくないように体勢を整えて雲雀に鼻を摺り寄せた。小動物めいた仕草に雲雀は笑み、首を窄めて少しだけ屈んだ。
「ん」
 こぶりな鼻の頭にまずキスをして、吃驚した綱吉の唇を奪い取る。くちづければ微かに肉の味がして、咥内を舌で弄れば匂いはいっそう強まった。
 沢山美味しいものを食べてきたのだろう。自分の母親は料理上手だと、綱吉は何度も自慢していたので、パーティーではきっと豪華な食事が提供されたに違いない。
「んう……」
 少し悔しく思いながら、雲雀は沈もうとする綱吉の顎を取って上向かせた。捻じ込んだ舌で柔らかな彼の舌を擽り、唾液に残る味を攫っていく。
 無理のある姿勢でのキスの嵐に、綱吉は苦しげに顔を顰めた。
 前歯で潜り込ませた舌を削られて、思い出した空腹感が暴走しかかっていた雲雀がハッと我に返る。間近から見下ろした綱吉の表情は、赤く甘い色に濡れ、辛そうに荒い息を繰り返していた。
「……すまない」
 加減を忘れていたと慌てて綱吉を解放し、謝罪する。彼の言葉に綱吉は濡れた唇を手の甲で隠し、恥かしそうに後ろを向いた。
「あ、あの。ところでヒバリさん、晩御飯」
 上擦り気味の、呂律が回りきらない声で、取ってつけた質問を雲雀に投げかける。背中を向けられたままの雲雀は、熱を持っている顔を引っ掻いて、頭から綱吉の唇の感触を追い出した。
 わざとらしく咳払いをして気持ちを切り替え、表向きは平静を装いながら彼は首を振った。
 その仕草が綱吉には見えていないことに気付くのに、三秒かかった。
「色々あってね」
 忙しかったのもあるが、草壁と男ふたりで寂しく食事、という気分にはなれなかった。努めて大きな声を出した雲雀に、綱吉はぴんと背筋を伸ばして拳を作り、それじゃあ、と僅かに期待に満ちた眼差しで振り返った。
 妙にきらきらと目を輝かせている彼に怪訝にしつつ、雲雀が頷く。
「食べ損ねたよ」
 言葉を付け足せば、彼は何故かガッツポーズを作った。
「沢田?」
「あの、えっとですね。その……うち、パーティーしたじゃないですか。それで、母さんが気合い入れて作り過ぎちゃって。みんな結構頑張ったんだけど、食べきれなくって、勿体無いな~、って思ったから」
 どことなくぎこちない口調で、拳を解いた綱吉が早口にまくし立てる。胸の前で人差し指を小突き合わせた綱吉の視線の先にあるのは、テーブルに載せられた白い巨大な袋だ。
 そういえば、あれはなんなのか。どうやら中には四角形のものが押し込められているようで、袋の表面に無数の凹凸が出来ていた。
 訝しむ雲雀の表情を覗き見て、綱吉は膝を折ってソファの前に蹲った。潰れている袋の口から手を入れ、納められているものを取り出していく。
 赤を散らした白い箱だ。一部分は中身の水分が表面に染み込み、灰色に滲んでいた。
 他にも、使い捨てタイプの白い皿、プラスチックのスプーンとフォーク、割り箸等の食器がテーブルを埋めていった。紙コップも出て来たが、応接室に陶器のコップがあるのを思い出してか、彼はそれだけ袋に戻した。
 最後に銀色の、保温性に優れた水筒を取り出し、綱吉は潰れた袋を丸めてソファに投げた。
「えっと?」
「残り物、なんですけど。よかったら」
 ひと言紡ぐたびに息を吸って吐き、綱吉は積み重なる箱のひとつを取って蓋を開けた。中に納められていたのは、まだ仄かな温かさを残す骨付き鳥腿肉の照り焼きだった。
 艶やかな焦げ色から香ばしい匂いが漂って、雲雀は思わず唾を飲み、喉を鳴らした。
 綱吉の手が別の箱に伸びる。出て来たのはコールスローサラダで、落とした時にひっくり返ったからだろう、ドレッシングを塗した千切りキャベツが蓋にまでびっしり張り付いていた。
 他にもオードブルが三種類、サラダがもう一種類、サンドイッチにフライドポテト、水筒の中身はコーンポタージュスープ。
 次々に出てくる料理に雲雀は驚き、彼の表情を見て綱吉は笑った。
「これ」
「どうせヒバリさんのことだから、食べてないんじゃないかなー、と思って」
 昼間、綱吉が雲雀の仕事の予定を聞いたのは、この為だったらしい。どう考えても残飯とは思えない品々に苦笑し、彼はしてやられたと掌で額を叩いた。
 若干ふらつく足取りでテーブルに近付き、綱吉と向かい合うように腰を下ろす。
「重かったんじゃない?」
「これくらいなら、平気ですって」
「寒かっただろう」
「それも、平気」
 立て続けの質問に、雲雀は心配性だと綱吉は屈託なく笑って箱の中身を紙の皿に移し変えていった。どうぞ、とフォークを添えて差し出せば、雲雀は一瞬の間を置いて瞑目した。両手を合わせ、頂きます、と呟く。
 習慣付いている雲雀の仕草に見惚れ、綱吉は照れ臭さに顔を染めた。召し上がれ、と顔を上げた彼の前に皿を置いてやると、今度はちゃんとはっきり聞こえる声でお礼を言われた。
「ありがとう」
「別に、そんな。お礼とか、そういうつもりじゃ」
 雲雀に幸せを運んで来たサンタクロースは、ぶっきらぼうに言い返して照れ臭さを誤魔化し、自分はコーヒーでも飲もうと立ち上がった。
 ちらりと後ろを窺えば、早速チキンにかぶりついた雲雀が忙しなく口を動かしている。余程お腹が空いていたらしく、ハイペースで平らげていく彼を見て、来て正解だったと綱吉は表情を綻ばせた。
 コーヒーカップにポットからお湯を注ぎ、次々と料理を片づける雲雀を見守る。ちょっと多いかと思っていたが、この調子なら余ることは無さそうだ。
 奈々に頼んで、みんなで食べる分と別にしておいて貰ってよかったと心底思う。お陰でパーティーでの料理が足りず、穴埋めにビアンキのポイズンクッキングが炸裂したのは、ご愛嬌という他ない。
 じっと見ていたら、気付いた雲雀が視線を上げた。目が合って、首を傾げられた。
「食べる?」
「俺はお腹いっぱ……やっぱ、ちょっとだけ」
 ひとくち齧ったサンドイッチを手に、雲雀が問う。実際もう食べすぎで満腹なのだが、綱吉は途中で言葉を訂正して、スキップしながら雲雀の方へ歩み寄った。
 気を利かせた彼が、サンドイッチが山盛りになっている皿を取って差し出した。けれどコップを置いた綱吉の手は、差し向けられた皿を素通りし、雲雀の歯型が残る食べかけを掴んだ。
 軽く引っ張り、大きく口を開いてかぶりつく。挟まれていたレタスは噛み切れなくて、巻き込まれた具材のシーチキンが雲雀の手にぼろぼろ落ちて行った。
「んぐ」
 しまった、と思うがもう遅い。口の中にあるものを噛み砕かずに飲み込んで、綱吉は急ぎ雲雀の手を両手で握った。マヨネーズがこびり付いた舌を伸ばし、ぺろりと欠片を掬い上げたところで、息を呑む雲雀の気配に我に返る。
 呆気に取られた雲雀の顔が、すぐそこに。
「っっっっっ!」
 今自分がなにをしたか、思い出した綱吉の頭がボハン、と爆発した。
「ふぎゃ、むごっ、げふ……ご、ごめぶじゃ、しゃっ……」
 先ほど無理に飲み込んだ分が咳と一緒に戻って来て、咄嗟に口を塞いだ綱吉が言葉にならない声を出した。謝ろうとする努力は認めるが、喋ろうとすればするほど咳き込みは激しくなって、むせ返る彼を呆然と見詰めていた雲雀は、ややしてから舐められた自分の手に視線を落とした。
「まあ、……勿体無いし、ね」
 肩の力を抜いて呟き、自分も彼と同じように舌を出してマヨネーズが絡んだシーチキンを舐め取った。
 斜め前方では、羞恥に喘ぐ綱吉が頭から湯気を立て、しな垂れて小さくなっていた。
 時々思い切った行動に出るくせに、たまに信じられないくらいに初心で、そのギャップがまた面白い。見ていて退屈しないと、一秒と同じ顔をしていない綱吉を笑って、雲雀は彼が食べ残したサンドイッチを口に放り込んだ。
 充分なくらい咀嚼して、嚥下する。その頃には綱吉も若干復活しており、コーヒーカップを両手で抱いていそいそとソファに着席した。
 雲雀は指に付着した油分を舐め取り、温かいスープで口の中を漱いだ。黙々と食事を平らげる間、綱吉は飽きもせずに彼を見詰め続けた。
 会話は無い。けれどお互い、心地よい空気を感じていた。
 最後まで残っていたハンバーグ、嫌いなのかと思っていたら、他の料理を片付け終えてから雲雀の箸が伸びた。丁寧に切り分け、ひと口ずつ味わうようにゆっくり噛み砕いていく。だから、最初に思っていたのとは正反対なのだと綱吉は理解した。
 意外に子供っぽいところがあるのだと教えられて、嬉しくなる。胸の奥が擽られて、にやけていたら雲雀に変な顔をされた。
 食事が終われば、テーブル上はゴミだらけ。綱吉が持って来た袋に使い終えた食器類を放り込んで、部屋が綺麗になった頃、時計の針は午後十一時半を少し回った位置にあった。
 紙ナフキンで唇を拭い、ご馳走様と手を合わせた雲雀が外を気にして窓に目を向けた。
 袋の口を引き絞って結ぶのに悪戦苦闘していた綱吉が、同じく時計を見上げて緩慢に頷く。但し彼の胸の内にあるのは、やっとこの時間になったか、という思いだった。
「すまなかったね、遅くに」
 但し表には表れないので、雲雀は気付かない。申し訳なさそうに詫びられて、綱吉は首を横に振った。
 本当は、料理の差し入れなどただの言い訳でしかない。綱吉の目的は、もっと別のところにある。
「ヒバリさん、コーヒー飲みます?」
 あと二十分と少し、なんとしてでもこの部屋に留まり続けなければ。ちらりとプレゼピオに目をやり、綱吉は自由を取り戻した両手を叩き合わせた。
 帰り支度に取り掛かろうとしていた雲雀が、不思議なものを見る目を彼に投げた。もういい加減帰らないと、綱吉の母親も心配しているに違いない。夜更かしは健康に良くないし、綱吉の明日の予定にだって差し支えるかもしれない。
 いきなりなにを言い出すのかと咎める口調で言った雲雀に、綱吉は頑として首を縦に振ろうとしなかった。
 そして、要らないのであれば自分の分だけでも用意すると、空になっているコップを手に戸棚に向かって歩き出す。
 彼が急に意固地になって怒り出したのか分からず、雲雀は半分に折り畳んだナプキンを握り潰し、ゴミ箱に向かって投げた。しかし狙い外れてゴールが決まらず、彼は仕方なく立ち上がった。
 拾い上げ、悔し紛れにもう一段階潰してから屑箱へと。右を向けばそこにプレゼピオがあって、雲雀を驚かせた。
「知ってます? それ」
「ああ」
 草壁から教わった程度でしかないが、全く知らないわけではないので、彼は綱吉の問いに頷いた。
 白い湯気を立てるコーヒーを手に、彼は雲雀の横に並んだ。
「ディーノさんにお願いしたら、こんなに立派なのが届くんだもん。払いきれるかな、俺」
 砂糖とミルクがたっぷり注がれた液体を口に運び、ほっと息を吐いた綱吉が、当時のやり取りを思い出してか肩を揺らして笑った。その言葉に、雲雀が僅かに目を見開いて傍らを振り返る。
 意外だと表情に出した雲雀に、綱吉は少々ばつが悪い顔をして小さく舌を出した。
「お年玉で足りるといいな」
 茶目っ気たっぷりに肩を竦めて言った彼に、雲雀は細い目を丸くした。じっと見詰められて、綱吉が居心地悪そうに身を捩る。
 誤魔化しに甘いコーヒーで咥内を潤し、喉から通り抜けていった熱にほうっと息を吐いた。
「君、の」
「はい?」
「支払い?」
「そうですよ。クリスマスプレゼントだって、言ったじゃないですか」
 自問しているのにも似た雲雀の言葉に、綱吉はどうしてそんな基本的な事を聞くのか、と首を傾げた。
 濡れたカップの縁を親指でなぞり、腰を軽く曲げる。屈んで小さくなった綱吉は、イタリア製のプレゼピオに顔を近づけて、居並ぶ人形の配置に満足げに目を細めた。
 マリア、ヨセフ。そこにもうじき、此処に家族が加わる。
 雲雀は顎を撫で、綱吉の今の台詞を脳内で反芻させた。
 確かに大荷物が届いたその日、彼は高らかにそう宣言していた。しかし雲雀は、差出人の名前から、勝手にこれはディーノから綱吉への贈り物だと理解していた。日頃なにかと綱吉を蔑ろにしている自分へのあてつけ、嫌がらせの類だと思い込んでいた。
 違うのか。
「……なんでそうなるんですか」
 問えば、背筋を伸ばした綱吉が不機嫌な声を出した。頬を膨らませて唇を尖らせ、直ぐにコーヒーカップ目掛けて息を吐く。細い湯気を揺らし、彼は残っていた液体を一気に煽った。
 プレゼピオが届いた直後から一週間ばかり、雲雀の機嫌がすこぶる悪かったのは、その所為か。事情を説明しなかった自分も悪いが、とひと通り反省をみて、綱吉はカップの底に溜まった溶け残りの砂糖を見詰めた。
 イタリアのクリスマスというものを教わって、興味を持って、ディーノに購入代理を頼んだのがそもそもの始まり。
 土台は大きいし、重い。運んでいる途中で壊れてしまう危険性もあるので、直接学校に輸送してもらうよう頼んだのだが、これは矢張り失敗だった。送り主がディーノで、受取人は綱吉、住所が応接室というのは、周囲に――特に雲雀に、あらぬ誤解を招いただけだった。
 状況からして彼が勘違いするのも無理なくて、以後気をつけようと心に誓って、彼はカップを置きにテーブルに戻った。雲雀はプレゼピオ前に居残り、複雑な顔で綱吉と棚とを交互に見詰めた。
「ヒバリさんへ、のつもりだったんだけどな」
 後ろから聞こえた独白に、雲雀は決まりの悪い顔をする。ひとり悶々と思い悩んだ時間が蘇り、恥かしさに耳を赤くした。
 もっとちゃんと、会話を重ねればよかったのだ。勝手に誤解して、勝手に悩んで。道化師の如くひとり滑稽にくるくる回っていただけだと、口元を手で覆い隠して彼は斜め上の何も無い空間に瞳を泳がせた。
「そうそう。クリスマスって、あっちは家族と過ごす日なんだそうですよ」
 気を取り直すように急に明るい声を出し、話題を変えた綱吉が爪先立ちで身体を反転させた。白い綿毛の胸飾りが一緒に踊り、ふわりと膨れ上がった裾がゆっくり沈んでいく。
 この格好で、白い袋を抱えて夜の町を走るのは、正直なところ凄く恥かしかった。だが時節柄、何かの罰ゲームかと思ってくれる人が多く、幸い警察の職務質問に遭うようなことも無かった。
「へえ?」
「日本とは違うんですねー」
 興味を持った様子で相槌を打った雲雀に、綱吉は背中で両手を結び合わせて腰を叩いた。踵を下ろし、一旦は開いた雲雀との距離を詰めていく。
「で、このプレゼピオは、あっちの家にも普通に飾り付けられるもの、なんだそうです」
 クリスマスツリーのようなものだと例に出した彼だが、雲雀の家にはツリーなどない。どうにもピンと来なくて首を傾げていたら、隣でわざとらしい咳払いが聞こえた。
 話を続けていいかと目で訴えられ、緩慢に頷いて返す。下から睨みつけていた綱吉は、もうひとつ咳をしてから壁の時計を仰ぎ見た。
 あと十分と少し。
「えっと、確か……飾りつけは、八日から始まるんだそうです。それで、えっと、なんだっけ」
 家々ごとに飾り付けられる、プレゼピオ。クリスマスのその夜は、日頃離れて生活している家族も集まって、聖家族の人形を前にのんびりと、そして賑やかに、寛いだ時間を過ごす。
 前に回した両手の指を絡ませ、綱吉は若干言いづらそうに、照れを隠しながら言葉を紡いだ。視線は遠くに投げられて、傍らの雲雀になかなか戻ってこない。
 雲雀はそっぽ向いている綱吉のつむじを見詰め、首の後ろまで赤く染めている彼に眉根を寄せた。回りくどい説明を続ける彼の、本当に言いたいところが掴み取れず、怪訝な表情を作り出す。
 プレゼピオに足りないのは、赤ん坊のキリスト。
 彼の存在がこの世に誕生したのは、果たして何時か。
 そして綱吉の説明で、馬小屋での瞬間を再現したこのジオラマは、イタリアの何処に飾られているとされたか。
 クリスマスは、誰が誰と一緒に過ごす日と語られたのか。
 昼間、帰り際に綱吉は彼になんと言ったか。
「ヒバリさんって、……鈍感」
 分かってくれてもいいのに、と不満を零し、綱吉は赤いズボンのポケットを弄った。
 指先に触れる、小さくて固いもの。小石程度の大きさしかないが、取り出して掌に広げれば、あるものを模していると即座に理解出来る形をしていた。
 横目で盗み見た雲雀が、膨れ面を潰した綱吉の指先を見る。それが何であるかを知り、頭の中で複雑に絡まった糸がようやく解けたと頷いた。
「君の、家は……此処じゃ」
「ここは、ヒバリさんの部屋ですから」
「ただの応接室だよ」
「だけど、半分以上ヒバリさんの家じゃないですか」
 プレゼピオを飾る場所を間違えているのではないか。静かに問うた雲雀に、綱吉はまた口の中に空気を溜め込んで唇を窄めた。
 露骨に拗ねてみせる彼に肩を揺らして笑って、赤くなっている綱吉の耳朶に指を伸ばす。触れると、ほんのり温かかった。
 後れ毛を一緒に擽られ、綱吉はようやく隣に立つ人を見た。思いの外優しい、柔らかな笑顔を向けられて、頬は自然と赤らみ、胸の鼓動が激しく波を打つ。じっとしていられなくて、途切れてしまった会話を再開させようと言葉を捜した彼だったが、肝心の話題がなにひとつ浮かんでこなかった。
 瞳を泳がせ、上目遣いに雲雀を窺い見る。彼の手は綱吉の首をなぞり、顎のラインを伝って前に回り込もうとしていた。
 人差し指だけで顔を上向かされて、逃げ場を失った琥珀の双眸がどこか不安げに揺れた。
 どうしてあの時、綱吉が「行ってきます」と言ったのか、分かった。綱吉がプレゼピオを応接室に置いた意味が、ようやく理解出来た。
「おかえり」
「……遅い」
 林檎よりも艶やかに色付いた頬を両手で包み、雲雀は目を細めて言った。途端に憎まれ口を叩かれ、彼は相好を崩して額を綱吉に擦りつけた。
 影が落ちて目の前が暗くなり、綱吉は目を閉じた。降って来たくちづけに身を委ね、雲雀のシャツを掴んで引き寄せる。
「ん……」
 抱き締められ、胸板がぶつかり合う。着衣越しに直接感じる相手の鼓動の早さに眩暈がして、鼻から抜ける息を零し、綱吉は自分から大きく口を開いて彼に噛み付いた。
 前歯で下唇を削られた雲雀が、仕返しだといわんばかりに合わさりを深めてくる。背に回された彼の腕が片方上にずれ、息苦しさから嫌々と首を振る綱吉の頭を抱え込んだ。
 逃げ道を封じられ、貪欲なまでに唇を貪られる。濡れた音が静かな応接室に響き渡り、ふたりを煽った。
 何もかも熱くて、溶けてしまいそうだ。舌を擽られて背筋が粟立ち、思考が掻き乱される。心臓は今にも破裂しそうな勢いで脈動し、短い間隔で呼吸を繰り返して、綱吉は自力で立っていられなくて雲雀にしがみついた。
 思い切り腕に爪を立ててやるが、彼は意に介さず綱吉の咥内を存分に堪能し、溢れ出た唾液にも舌を這わせて舐め取っていった。
 荒く息を吐き、肩を上下させた綱吉が涙目で睨んでも、彼は愉しげに笑うばかり。
 額、こめかみ、目尻、眉間、瞼、鼻、頬、と顔のあらゆる場所にキスの雨を降らせ、一度は解放した綱吉をまた胸に閉じ込める。
「ヒバリさ……んぅ」
 時計の針がもうじき重なり合う。潤んだ瞳で訴えても彼はくちづけを止めてくれなくて、非難のつもりで拳で彼の肩を殴ったら、キスをしたままその手を掴み取られた。
 親指だけで握った手をこじ開けられて、中にあった小さな人形を奪われる。転がり出たそれは、白い産着に包まれた赤ん坊だ。
「んぁっ、ちょ!」
「僕の、なんだろう?」
 このプレゼピオは、綱吉から雲雀へのクリスマスプレゼントなのだという。ならばそこに加えられようとしているこの人形もまた、雲雀のものだ。
 意地悪い目で覗き込まれ、綱吉は不満げに頷いた。唇を尖らせて拗ねる子供っぽい表情に、雲雀は黒い縁取りの時計を仰ぎ見て秒針の動きを確認した。
 あと三十秒。
「はい」
「え?」
 視線を戻し、綱吉に今し方攫ったばかりの人形を差し出す。目を丸くした綱吉は、きょとんとして首を傾げた。
「君にあげる」
「……」
 雲雀の部屋に置かれた、雲雀のプレゼピオ。
 この夜、新たな家族が産声をあげる。
 残り十秒。
 雲雀の顔と手元を交互に見詰めた綱吉は、驚きに頬を染めて恐る恐る手を伸ばした。落としたら簡単に見失ってしまえる小さな人形を抓み取り、左手を下に添え、非常にゆっくりとした動きでプレゼピオに向き直る。
 呼吸を整え、緊張に表情を硬くして、慎重過ぎるくらいに慎重に、彼はそっと、他を倒さぬように注意を払いながら、マリア像の腕に赤ん坊を置いた。
 たったそれだけだ。だのにどうしてだか、急に場が華やかさを増して、明るくなった気がした。
 心が弾んで、胸が躍る。興奮に表情を綻ばせて振り返れば、即座に雲雀のキスが落ちて喋ろうとした綱吉から言葉を奪い去った。
 メリー・クリスマス。
 祝福されし家族の誕生を、屋根の上の天使が笑顔で見つめていた。

2008/12/15 脱稿