筆録

 人間とは、己の予想の範疇を大きく逸脱する出来事に遭遇した時、思考を停止させて固まってしまう生き物らしい。
 実体験をもとにそう判断した綱吉は、自動ドアを潜り抜けたその先で硬直し、頬の筋肉を痙攣させた。
「おやおや」
 即座に回れ右が出来たなら、どんなにか良かっただろう。しかしあまりに現実離れした状況に頭が混乱し、咄嗟の判断が下せなかった。
「そんなところにいると、他の方の邪魔ですよ」
「なっ……」
 ぼうっと突っ立っていないで、こっちに来るなり、横に退くなりしろ。手招きと一緒に言われ、綱吉はハッと我に返って止まっていた呼吸を再開させた。口から息を吐き出し、見開いた瞳で陳列棚の前に立っている青年を凝視する。
 閉まっていた自動ドアが反応して、ガラスの扉が横にスライドしていく。外から吹き込んだ風に襟足を擽られて、慌てて横に跳んだ綱吉を見て彼は楽しげに喉を鳴らした。
 何故此処にこの男が居るのか。お前は現在進行形で暗く冷たい牢獄に、能力を封じられた上で囚われているのではなかったのか。
 涼しげな顔をして佇む六道骸に唖然とし、綱吉は反す言葉を失って首を振った。
「珍しいですね、君が本屋になど」
「う、うっさい!」
 彼が幻術使いで、クローム髑髏の身体を借りることで、一時的に地上に現れるスキルを持っているのを思い出す。恐らく今も、そうなのだろう。
 疑いの目を向けると、骸は左右色違いの瞳を細めて綱吉に言った。正直すぎる彼の感想に悪態をつき、綱吉は唇を尖らせてそっぽを向く。そのまま店内の配置を確かめて、彼をその場に残して歩き出した。
 他人に構って遊んでいられるほど、自分は暇ではない。それにいくら勉強が苦手で、嫌いな綱吉でも、全く本屋に足を向けないわけではない。
「何処に行くのですか。漫画本はこっちですよ」
「なんでついてくるんだよ!」
 失礼な事を面と向かって言ってくる相手に怒鳴り返し、綱吉はバックミュージックさえない店内で張り上げた大声に、しまったと首を引っ込めた。立ち読みをしていた客や、棚の整理をしていた店員もが一斉に彼を振り返って、浴びせられた無数の視線に居た堪れない気持ちで唇を噛み締める。
 綱吉の三歩後ろにいた骸が、一瞬だけ目を丸くした後にまた眇めた。楽しくて仕方が無いと言わんばかりの彼を睨んで、綱吉は悔しげに地団太を踏んだ。
 黒曜中学の制服に身を包んだ骸の手には、この店の袋が握られていた。紺色のビニール製で、中身が透けて見えないようになったものだ。厚みがなく、袋の表面が弛んでいないので、購入物は雑誌か何かだろうが正確には解らない。
 彼の買い物は終わっているはずだ。故にこの店に留まり続ける理由は無い。現に綱吉とは店の出入り口で遭遇したわけで、骸はレジで会計を終えて帰るところだった。
 そこへ綱吉が入って来て、お互い思いがけない人物との遭遇にちょっとだけ話をして、それでお終い。
 彼とは既知の間柄であるものの、仲良し小好しを気取る程の繋がりは無い。共闘関係にあっても、それは双方手を結んだ方がより大きな利益を得られるという、言うなれば敵の敵は味方という図式に基づいている。
 骸はマフィアを憎んでいる。綱吉はまだそのマフィアの、後継者候補だ。
 骸の敵は、マフィアだ。そして綱吉を排除したがっている連中もまた、闇の中に実体を置く組織。
 ボンゴレが骸の仲間であった者たちを保護し、庇護下に置くのを条件に、彼は綱吉たちに手を貸す。信用ならない奴だが実力は申し分なく、だからこそ手元に置いておきたい。
 敵に回すと厄介だというのは、綱吉も、リボーンも認めている。
 ただ彼の本質は非常に気まぐれであり、こちらの思惑通りになかなか動いてくれない。呼んだって出て来ない場合が多いのに、どうでも良い時に限ってひょっこり現れるものだから、その点でも大変面倒臭い相手だった。
 コミックスが占有する棚の方角を指差した骸に気まずい顔をして、綱吉は深々と溜息をついた。赤い顔を手で隠し、前髪を掻き毟って項垂れる。
 確かに彼の言う通り、綱吉は漫画が好きだ。コミックスも沢山持っているし、定期購読している雑誌も何種類かある。ただ、だからといって本屋への用事がそれひとつに限定されるのも、非常に腹立たしい。
 決め付けられたことへの苛立ちも込めて睨みつけ、綱吉はいいから帰れ、と手で追い払う仕草を取った。ニコニコと笑顔を絶やさない骸も、犬猫と同じ扱いをされたと知るとムッと表情を険しくさせ、不穏な空気を漂わせ始める。
「お前、こんな場所で使うなよ」
 緋色の右目に妖しい力を感じ取り、綱吉は背筋に走った悪寒を堪えて言った。務めて平静を装い、もうひとつ溜息を吐いて肩を竦める。
「使いませんよ、勿体無い」
「あ、そう。ならイイや」
 彼が実体化するには、相応の力が必要だ。そこから術を使う分を追加で消耗したら、どうなるか。実体化が解けて彼は再び眠りに就く。
 衆人の目がある中で髑髏に戻ったら、騒動が起こる。その辺はちゃんと弁えていると骸は横柄に言い放ち、綱吉を呆れさせた。
 口ではそう言っておきながら、今の気配は間違いなく使う一歩手前だった。堪忍袋の緒が短すぎると心の中で悪態をつき、綱吉は気を取り直して広いフロアを歩き出した。
 後ろから足音がついてくる。骸がなにをしたいのか分からず、鬱陶しく思いながらも、追い払ったところで無駄だと諦める。次に話し掛けてこられても無視しようと決め、綱吉は先を急いだ。
 行き着いたのは階段を登った二階の、比較的目立つ一画だった。
「日記?」
「そ」
 天井から吊るされたパネルの文字を読み取り、骸が怪訝な声を出す。ついつい相槌を打ってしまい、綱吉は後から気付いてしまった、と顔を歪めた。が、骸はあまりにも意外だったからか、綱吉の反応に一切絡んでこなかった。
 その代わりに珍獣を見る目を向けられた。
「……なにさ」
「いいえ、特には」
「嘘つけ。似合わない、とか思ってんだろ」
「はい」
 猜疑心に駆られて口走れば、あっさり掌を返した骸が首肯して綱吉は脱力した。そこは、お世辞でも良いから否定するところではないのか、と痛むこめかみに指を置いて三度目の溜息を零す。どうにも彼を相手にしていると、疲れて仕方が無い。
 まだ本屋に入って五分と経っていないのに、既にぐったりしている綱吉に目を細めて骸は笑った。犬もそうだが、彼はリアクションが大きい。見ていて飽きず、だからつい、意地悪をしてしまいたくなる。
「もー……いいよ」
 さっき、骸を無視すると決めたばかりなのに、その誓いを自分から破ってしまった。堪え性のない自分に呆れつつ握り拳で頭を小突いた綱吉は、わざとらしい咳払いひとつで気持ちを切り替え、階段前の広いスペースに向き直った。
 それなりに広い空間に、商品陳列のワゴンがふたつ並んで設置されていた。
 綱吉の胸元の高さまでしかなく、土台は白で統一されており、中身が零れないよう銀色の低い柵が付随している。足場を組んで高低差が作られたそこに並ぶのは、皮製の表紙をつけた厚みのある大きなもの。平らな面には乱雑に、誰かが掻き回したと分かる、携帯サイズの小さなものが並んでいた。
 ワゴンの片方は日記、もう片方がスケジュール帳。どちらも女性向けの可愛らしいものは少なく、無骨で愛想のない、男性向けのものが主体だった。
 綱吉はそのうち、スケジュール帳が幅を利かせている方に足を向けた。
「つけているんですか?」
 二秒遅れで追随した骸の問いかけに、今度は答えない。好きに想像するがいいさ、と振り向かずにワゴンに手を伸ばした綱吉は、中身を確かめようと見本として展示されているものを取った。
 綱吉以前に大勢の人の手を経たと思われるそれは、紙の一部が捲れ上がり、薄ら汚れていた。
 中身はごく一般的な、機能性を重視したもの。装飾は無いに等しく、実に素っ気無い。年間カレンダーが先頭に来て、一ヵ月ごとのカレンダーの後に一週間単位のメモが付属している。それが十三回分繰り返されて、最後に住所録や無地のメモが現れた。
 新書サイズよりも少し小ぶりで、鞄に入れても邪魔にならない大きさだ。折り畳んで掌に載せ、全体の厚みと重さを確かめてどうしようか迷う。ふと隣を見ると、骸は綱吉とは違う手帳を広げていた。
 彼が興味を持つのは、どんなものだろう。物珍しさに駆られて背伸びをし、横から覗き込んだら寸前で避けられた。
「なんなんですか、君は」
「そっちはどんなのかな、って思っただけだろ」
 いきなり身を乗り出してきた綱吉に驚いた骸の反論に、頬を膨らませて綱吉は拗ねた声を出した。そんなに大きな声を出さなくてもいいではないかと、持っていた手帳ごと両腕を頭上に跳ね上げた彼を睨んで、綱吉は最初に手にした手帳を元に戻した。
 隣にあった表紙が深緑のものを広げ、即座に閉じる。指先を空中に彷徨わせて次はどれにしようと迷い、掴み取ったのは骸が戻したばかりの一冊だった。
 横からの視線を感じ、持ち上げる前に手を放す。途端に骸が不機嫌なオーラを発して、綱吉は忍び笑いを零して今度こそ顔の前で広げた。
 数字と罫線ばかりの、酷くシンプルなものだ。簡素すぎて、清々しいほどの潔さをしている。
 悪くは無い。けれど自分がこれを使っている姿は想像できなくて、綱吉は中身を確かめ終えると名残惜しそうにワゴンに戻した。
「気に入りませんか」
「お前とは趣味が合いそうにないな」
 面白くないと嘯いた骸に、誓いを忘れた綱吉は呵々と笑った。
「では、どういうものが良いのです」
「んー? そうだな」
 続いた質問には声を潜め、眉間に皺を作る。視線を浮かせて光に満ちる天井を仰ぎ、最初に見たものを探し出して人差し指で小突いた。
 骸が取り上げて、広げる。ぱらぱらと紙を捲る音を聞きながら、綱吉はまた違うものに手を伸ばした。
「あんまり小さすぎなくて、でも大きくもなくて、見やすいの、かな。あと、毎日のちょっとした事が書き込めるスペースがあったらいい」
「それなら日記で良いではありませんか」
「日記ってさ、……面倒じゃん」
「そうですね。君なら三日坊主どころか、一日坊主になりそうです」
 淡々と告げられた嫌味に綱吉は乾いた笑いで応え、ワゴンを漁る手を止めた。全くもって彼の言葉通りだから否定することも出来ず、かといって認めるのも悔しくて、若干赤い顔を照明で誤魔化し、彼は無意味にその場で伸びをした。
 真上から真横に広げた腕が骸の肩にぶつかる。触れた場所に向かって埃を払う仕草をされ、綱吉はムスッと唇をへの字に曲げた。
 日記帳は、まるで毎日欠かさず書くように無言の圧力をかけてくるから嫌いだった。その点スケジュール帳ならいくらか気が楽で、多少サボっても本来の用途が違うから関係ないと開き直れた。
 それに、スケジュール帳ならば数行の文章で事足りる。ひと言、その日の天気だけでも良い。
 遊びに行く予定等と一緒に書き込んでおいて、後から見返したらそれだけで思い出が蘇る。一石二鳥だと笑った綱吉と対照的に、骸はあまり興味なさそうに鼻を鳴らし、肩を竦めた。
「なにさ」
「いえ、特に」
 思うところがあるなら、言えば良い。だのに彼ははぐらかして、ダンマリを決め込む。その態度が気に入らないのだと、綱吉は少々乱暴に売り物の手帳を叩いた。
「そういうお前は、どうなんだよ」
「なにがです?」
「日記とか、つけたりしないわけ?」
 ほら、と隣のワゴンを顎で示した綱吉の問いかけに、同じ物を視界に入れた骸は細い指で顎をなぞり、口角を歪めて笑った。
 呆れた表情で綱吉に向き直り、やれやれと首を振る。その嫌味ったらしい動作に腹が立って、綱吉はだからなんだ、とポーズを取るばかりで一向に喋らない骸の爪先を踏みつけた。
 狼藉を咎め、彼を追い払った骸が前髪を掻き上げる。冴えた色違いの双眸に見下ろされ、途端に綱吉は居心地悪そうに身体を揺らした。
「僕は、記録を一切残しませんよ」
 不遜に言い放ち、彼は夕暮れを飲み込む夜闇にも似た瞳を細めた。
 自分でも、誰かが作成するものも関係なく、六道骸という存在の本質それ自体を記録しない。残させない。
 日記など自分には必要ないものだと断言し、彼は腕を組んで胸を反らせた。己の胸の内を誰かに露呈するなどありえず、ましてわざわざ書き記してまで残そうとも思わない。
 六道骸という人間そのものが、幻なのだ。確かに其処にありながら、いつの間にか霧の如く掻き消える。
「……なんか」
 不意に綱吉が呟き、掠れる声に骸は下を見た。
「なんか、それって」
「綱吉君?」
「骸、ちょっと此処で待ってろ」
 口元に手をやって俯いた綱吉の独白に、骸が怪訝な顔をする。直後スッと視線を持ち上げた彼に命令され、勢いの良さに驚いた骸が返事できずに惚けている間に、綱吉は最初に見ていた手帳と同種の、ビニールに梱包されているものを引っ張りだして胸に抱え込んだ。
 止める暇もなく駆け出し、レジに向かってしまう。
「……?」
 急にどうしたのかと首を捻るが、綱吉の思考回路は単純なようで、時々突拍子も無いところに行き着くので、さっぱり想像がつかない。他にすることもなく、仕方なく言われた通りワゴンの前で大人しく待っていたら、三分後に会計を済ませた綱吉が息を切らせて戻って来た。
 階段を登って来た見知らぬ客が変な顔をするが、気にも留めない。彼はぜいぜいと肩を上下させて心臓の辺りを撫で、唾を飲み込んで背筋を伸ばした。
「骸!」
「はい」
「俺は今日、お前に会ったからな」
 そうして急に大声で名前を呼ばれ、面食らいつつも律儀に返事をしたら、綱吉は宣誓する時のように右手を掲げてまくし立てた。
「ああ、はあ。まあ、そうですね」
 同じフロアに居る人間から注目を浴びている現状は、骸にとって好ましくない。横目で様子を窺っている連中に舌打ちし、骸は綱吉の肩を押して階段の方へ追い遣った。
 横にふらつき、転びかけた綱吉が腹立たしげに睨むが、彼の意図を即座に察したのか文句は言わなかった。骸に従って照明の少ない暗がりに身を寄せ、レジで渡された袋に右手を突っ込んだ。
 ガサガサ言わせて、出て来たものの包装を解いていく。
 テープを剥がし、袋から引き抜いて表紙を捲る。一緒に取り出されたボールペンには、バーコードを印刷したシールが巻きつけられていた。
 そんなものを何処で、と振り向くがフロアの影に入ってしまっているので見えるわけがない。レジかその近くに置かれていたのだろうと判断し、骸はもどかしい手つきで目的のページを探す綱吉を見下ろした。
 なにをそんなに必死になっているのか。奥歯を噛み締めて唇を引き結んでいる彼の真意が分からず、骸は手持ち無沙汰に自分の買い物を入れた袋を鳴らした。
 やがて綱吉は彼に背を向け、垂直にそそり立つ壁に手帳を押し当てた。目線よりも高い位置に掲げ、新品のボールペンでなにやら書き込みを開始する。
「?」
「よっし」
 ガリガリと音を立てて強い筆圧で数文字記した綱吉が、鼻息荒く握り拳を作った。そして首を傾げている骸に向かって、まだ購入したばかりだというのに広げ癖がついてしまった手帳を突きつける。
 あまりに顔に近すぎて見えず、無言で骸は後退した。
 綱吉が手にしたものは、来年のスケジュール帳ではあるが、今年の十二月分も予備として加えられているタイプだった。
 一ページに一週間分の日付が配され、各日に数行書き込める空白が割り振られている。日曜日だけ、他よりもスペースが多い。
 その空間に――今日の日付に、彼の汚い字が踊っていた。
「残したぞ、記録」
 ゆらりと手を伸ばした骸が、綱吉の持つ手帳の下辺を握った。
 彼からスケジュール帳を奪い、骸が呆れ半分に呟く。左手を下にずらせば、紙の向こうから現れた綱吉は自信満々に胸を張っていた。
 あまりにも滑稽で、おかしすぎて、笑うしかない。
「……馬鹿ですか」
「なっ。悪かったな!」
「こんなもの、何の意味もない」
 低い声で呟き、骸は喉の奥で笑いを押し潰した。右手に手帳を持ち替え、左手の人差し指を紙面に添わせる。ヴン、と羽虫が飛ぶような音が聞こえて、綱吉はハッと息を呑んだ。
 待て、と叫ぼうとした口が第一声を放つ前に、骸の指が黒い文字をなぞった。まるで消しゴムをかけられたかのように、彼の動きに合わせて、今し方綱吉が書いたばかりの字が消えていった。
 ほら、と裏返した手帳を見せられ、綱吉は一瞬で購入時の状態に戻されたメモ欄に涙を呑んだ。
「うっそぉ」
「言ったでしょう。僕は記録を残さないと」
 綱吉は今日の日付の横に、「骸と会った」と書いた。ところが彼は、あろう事かその文面を消してしまった。
 魔法にかけられてしまって、綱吉は愕然とする。彼のやる事だから幻術の一種だろうに、表面には凹凸すらなく、見事なまでに綺麗な状態で、打ち破ることが出来なかった。
 情けない顔をして肩を落とす綱吉に微笑み、骸は左手を丸めて顎を持った。右手の小指で雑誌の入った袋を支えつつ、親指で綱吉の手帳を一ページ分捲る。
 俯いている綱吉は気付かない。彼がとても楽しそうに、左の人差し指で別の日付をなぞったことに。
「お返ししますよ」
「ちぇー」
 良い案だと思ったのに。ぶつぶつと文句を言った綱吉が、閉じて返された手帳を広げてもう一度中身を確認し始めた。
 例のページは、依然真っ白だ。自分の書き込んだ形跡は、裏目に現れる凹凸さえ完璧に消されてしまった。
 他にもこうやって消して回っているのだろうか、彼は。自分の足跡を、自分の存在を証明するものを。
 そして彼は、いつか本当に消えてしまうのだ。確かに此処に居るのに、最初から何処にも居なかったことにして。
 自分自身さえ、幻にしてしまうのだ。
 そんなのは、寂しいし、哀しすぎる。だから綱吉は、嫌がらせの意味合いも込めて彼が消え去ることへの抵抗を示したのに、簡単に突き崩されてしまった。
 悔しいが、骸の方が綱吉より何枚も上手だった。腹立たしくてならず、綱吉は白いメモ欄をしつこくなぞり、ふと、微かな違和感を覚えて眉間に皺を寄せた。
 骸がそれとなく彼から距離を取る。綱吉は手元に注目したまま、恐る恐る手帳のページを捲った。
 今日から約二週間後の、某日。
「……はい?」
 まだやって来てもいないその日に、見慣れた綱吉の汚い文字が踊っていた。
 素っ頓狂な声が漏れて、顔を上げる。しかし既に骸は彼からかなり離れた場所に立っていて、綱吉が気付いたと知るとにこやかな笑顔で手を振ってくれた。
「骸、ちょっと。なに、これ。お前なあ!」
「是非実現させてくださいね」
「待てってば。骸、おい!」
 購入したての手帳だから、既に決まっている今後の予定は一切書かれていない。それを逆手に取った骸の暴挙に、綱吉は声を荒げて彼を追ったが、それよりも早く彼は階段を駆け下りていってしまった。
 手摺りから身を乗り出した綱吉がなおも叫ぶが、返事はなく虚しいだけ。爪先が浮いて落ちそうになったところで彼は姿勢を戻し、心底困り果てた表情で項垂れた。
 記録は残さないと言ったくせに、予言は残すのか。ならば彼の望みは、誰かが簡単に改竄してしまえるような記録ではなく、誰かの心に一生変わることなく残る、記憶として留まることか。
「どうすんだよ、もう」
 綱吉は自分が書いた字をなぞり、呻いた。その日は既に、友人らとの約束がある。食べて、歌って、存分に騒ぐつもりでいたのに。
 深く溜息を零し、新品の手帳を恨めしげに見詰める。
 彼の視線の先で、二十四という数字が笑っていた。

2008/12/13 脱稿