秋晴れの空の下で、野球部が元気良く活動に勤しんでいる。
騒がしい声を窓越しに聞き、斜めになった陽射しを目で追った綱吉は、行き着いた先で威風堂々としている人物に見惚れ、三秒後我に返って慌てて首を振った。
見とれている場合ではないと自分を戒め、膝に広げたテキストで視界を塞ぐ。しかし顔の前に持ち上げたそれは、時間が経つに連れて段々と下がっていき、膝に着地したところで視線は再び右に流れた。
「なに?」
既に綱吉の視線に気付いていた雲雀が、目が合うのを待っていたのか嫣然と問いかけて来た。
「!」
朗々と響く低音に、綱吉の頭が噴火を開始する。一瞬で顔は赤くなり、沸騰した薬缶宜しく湯気を立てた。
あまりの彼の動揺ぶりに、雲雀は面食らってから小さく噴き出した。口元に手を当てて声が漏れないように封じ込めるが、背中を丸めて肩を震わせているので、まるで隠し通せていない。
綱吉は真っ赤になりながら憤然とソファの上で飛び跳ね、最終的に恥かしさに負けて大粒の瞳を歪めた。
見る間に琥珀が涙で滲んで行く。なにも泣かなくても、と思うのだが、どうにも雲雀にからかわれることに関してのみ、彼は過剰反応が習性と化してしまっているようで、雲雀は椅子の上で居住まいを正すと嘆息し、短く謝罪を述べた。
「ひどいです、ヒバリさん」
「だから、悪かったよ」
まだ怒りが治まらないようで、拗ねた様子で歯軋りしている綱吉に手を振り、雲雀は視界の邪魔になる前髪を梳きあげた。
日頃隠れている額が露になり、顔立ちの印象が少し変わる。若干年齢があがったように見えて、綱吉は途端に涙を止めて口を間抜けに開けたまま彼に見入った。
手は直ぐに取り払われ、いつも通りの雲雀が戻って来る。少し残念だと思いながら、綱吉は若干気持ちが静まったと息を深く息を吐いた。
胸に手を当てて軽く撫で、五月蝿く鳴り響く心臓を落ち着かせる。平常心、平常心、と呪文のように心で呟き、突き刺さるように感じる雲雀の視線を必死に耐えた。
コロコロと切り替わる表情、怒ったり笑ったりと忙しく、眺めているだけでもまるで飽きない。一秒として同じ顔をしていない綱吉の必死な様子を楽しげに見詰め、雲雀は頬杖をつくと、さっきからまるで進んでいない自分の仕事に肩を竦めた。
集中できないのは、部屋に彼が居るからだ。
そして向こうも、思いは同じだろう。
「どれが解らないの?」
この三十分間、彼が手にしているテキストは同じページを広げ続けている。その事実を指摘し、余程難しい問題に取り組んでいるのかと、多分不正解だろう憶測を敢えて声に出した雲雀に、綱吉は噛み締めすぎて赤みを強めた唇を解き、ぺろりと舐めてから顔を上げた。
探るような目で雲雀を見返した後、教科書とノートを揃って持って立ち上がる。
胸に抱きかかえ、どことなく弾んだ足取りで重厚な執務机を回り込み、窓側へ移動した彼は、雲雀の左後方に立ってテキストだけを前に出した。机に置いて、開き癖がついたページの右上側に書かれた練習問題を指し示す。
雲雀が身を乗り出し、椅子を動かして僅かに綱吉の側へ寄った。
「……」
綱吉は立ったまま、難しい顔をして斜めに教科書の記載を読み取っていく彼のつむじを見下ろした。
艶のある黒髪はストレートで、綱吉の四方八方に跳ねる癖毛とは大違いだ。触ればサラサラと指から逃げていくし、梳いても途中で絡まって引っかかるようなこともない。羨ましいと自分の頭に手を伸ばし、綱吉は視線を浮かせて天井を仰いだ。
「これはね」
端正な顔立ちの彼を直視し続けるのには勇気が必要で、ドキドキと宥めたばかりの心臓がまた五月蝿く響き始める。ノートを抱えたまま両手の指を絡め、そわそわと膝を捏ねた綱吉は、不意に下から聞こえた声に危うく悲鳴をあげるところだった。
大仰に驚いて仰け反った彼に、背凭れを揺らした雲雀は呆れた表情を作った。よく熟した林檎に負けないくらいに頬を染めた彼は、ノートで顔の上半分を隠して人の視線を防いでいた。
「沢田」
「は、はい!」
「聞く気が無いなら教えてあげない」
「え……えええー!?」
あの大きな瞳を気に入っているのに、隠されてはつまらない。思い切り拗ねた声を出した雲雀は同時にそっぽを向いて、裏返った声をあげた綱吉は即座に腕を下ろし彼に泣きついた。
見た目以上にがっしりとした肩に両手を置き、それは困ると彼に懇願する。ガクガクと頭を揺すられて、雲雀は首に力を込めて耐えながら振り向き、背筋を伸ばした。
狙いは若干逸れて口の端に前歯がぶつかり、肌を齧られた形となった綱吉が目を回す。直後広がった焼け付くような痛みに今度こそ悲鳴をあげ、彼は肘と胸で挟んでいたものを落とし、窓辺まで飛び跳ねて逃げていった。
沸騰した頭からは無数の湯気が立ち上り、ぐるぐると渦を巻く琥珀の目が実に面白い。
噛まれた場所を両手で押さえ、茹蛸のように顔を赤くしている綱吉を一頻り笑い、雲雀は胸の奥からこみ上げるくすぐったい感情に相好を崩した。足元に落ちたノートを拾い上げ、汚れていないものの埃を払って表面を軽く叩く。
表紙に書き込まれた教科を読み取った彼は、まだ真新しいそれに思うところあって首を傾げた。
「替えたの?」
「ふぇ?」
何を指しての言葉か分からず、綱吉はきょとんとしたまま雲雀とは反対向きに首を倒した。
西日が差込み、綱吉の身体を淡く照らし出す。元から色合いの薄い髪は更に色素を飛ばし、豊かに実る麦の穂を連想させた。
「なにがですか?」
「ノート。数学のはまだ、ページ、残ってなかった?」
瞬時に爆発した心臓は、同じくらいの速度で静まって元に戻った。どうにか落ち着いて会話が出来ることに安堵しつつ、綱吉は雲雀ににじり寄って彼が示す自分のノートを見詰めた。
どうして彼が、綱吉のノートのページ残量を把握しているのだろう。不思議に思いながら、まだおろしたてのそれを受け取って表面を爪で削る。
直後。
「あ!」
思い出した綱吉は裏返って甲高い、素っ頓狂な声をあげた。
「沢田?」
真横で聞いた雲雀が、鼓膜を激しく震わせる音量に驚いて身を引く。綱吉もまた狼狽して、視線を左右に泳がせた後に彼から顔を隠してノートで額を叩いた。
「ちょ、ちょっとよごし……つ、使えなく、なっちゃったんで、す」
途中で言い直し、綱吉は恥かしそうにしながら尻すぼみに言った。
よもや雲雀のメモ書きが残るページを消したくなくて、大事に家の机の引き出しにしまっているなど、口が裂けても当人にいえるわけがない。自宅で勉強中、集中力が切れるたびに取り出して眺め、なぞりすぎた所為で却ってボールペンのインクが掠れてきてしまっていることも。
しきりに視線を泳がせ、もじもじ膝を捏ねる綱吉に、事情を知らない雲雀は釈然としないものの頷いた。彼の言っている内容が嘘だというのは態度からバレバレだけれど、追求してもどうせ話は進まないだろう。
過去の経験を踏まえ、時間の浪費を極力避けようと雲雀はそこで話題を一旦区切らせた。もとより、綱吉と過ごす時間が無駄だとは思えないが、今はほかに優先させることがある。
期末試験は近い。また次も赤点だらけとなった場合、綱吉は冬休み返上で補習に繰り出さなければならなくなる。
「ここでこの公式を使うっていうのは、分かる?」
「なんとなく……」
気を取り直して説明を開始した雲雀の手元を覗き込み、滑らかなペンさばきで書き込まれた数式を目で追って、綱吉は緩慢に頷いた。
また新しいノートを買わなければならないかもしれない。耳に心地よい雲雀の声を聞きながら、次第にぼうっとしていく頭の片隅で考えていた綱吉は、雲雀が呼んでいるのに反応が遅れた。
「……だ、沢田。つなよし?」
「!」
耳元で息吹きかけながら下の名前で呼ばれ、不意打ちを食らった彼は今までで一番酷い驚き方をして後ろ向きに倒れそうになった。
横から伸びた雲雀の腕が、素早く腰に回されて彼を支える。腕一本で易々受け止められてしまう自分の体重を恨みつつ、綱吉は急に暗くなった目の前に目を見開き、唇に重なった熱にぎゅっと瞼を閉ざした。
濡れた舌になぞられ、押し当てられる。ゆっくりと甘く食んでくる感触に背筋が震え、膝が折れて綱吉は其処にある雲雀の胸に両手を押し当てた。ベストの表面を手繰って握り締め、必死に崩れ落ちようとする己を耐え忍ぶ。
やんわりと柔らかな表面を撫で、たっぷりと綱吉に唾液を塗した雲雀は、満足げに笑って顔を離し、同時に彼を支えていた左腕も解放した。
途端に立っていられなくなった綱吉が床にへたり込み、呆然とした顔で艶を放つ唇を手で覆い隠す。
「分かった?」
そんな彼に向かって雲雀が意地悪く聞き、
「わ……分かりません!」
綱吉は真っ赤になりながら、思い切り怒鳴り返した。
2008/11/27 脱稿