恋花・花蕾

 保健室を出て、とぼとぼと廊下を歩く。すれ違う人の影はなくて、階段に至るまでの道程は兎に角静かだった。
 自分の爪先ばかりを見詰め、薄く汚れが付き始めたそれに苦笑する。先日新しく買って貰ったばかりだというのに、もうこんな状態では、一ヵ月後にはまたスリッパ状態に陥りそうだ。
 着込んだベストの裾を掴んで下に引っ張り、自然光をたっぷりと取り込む窓に目を向ける。澄み渡る高い空に浮かぶ雲は小さく、外では風が吹いているのかカタカタと窓枠が震えた。
 細波立てる心は静まらず、常に騒いでいる。けれど意識しないうちに少しずつ、こんな状況にも慣れ始めていて、綱吉は冷たいガラスに手を添えると、息を吐いて視界を曇らせた。
 下駄箱が並ぶ玄関は他よりも薄暗く、少し土臭い。人の姿がちらほらと見え始め、学校にいるのが自分だけではないという安堵に彼は胸を撫で下ろした。階段へ足を向け、銀色の手摺りを握り締める。
 第一歩を踏み出すには時間がかかって、上から来る人を警戒して綱吉は臍を噛んだ。
 これから先ずっと、学校内を歩き回るたびにこんな風にビクビクしなければならないのかと思うと、憂鬱でならない。教室にいるときだって、風紀委員は抜き打ちで持ち物チェックに現れることもあるので、気が抜けない。
 遅刻ももう出来ない。リボーンは雲雀を気に入っているので、彼が下手に騒動を引き起こさないかも心配だ。
「しんどいよ」
 思わず声に出して呟き、綱吉はくしゃりと前髪を握りつぶした。
 それもこれも全部、雲雀の所為だ。彼が綱吉を引っ掻き回して、しかも悪びれない。
 何が確かめたかった、だ。そんなもの、こっちから願い下げだ。
 深い溜息を吐いて、顔を上げる。階段を慎重に登った綱吉は、踊り場で身体を反転させて、向かってきた人を避けて壁際に寄った。
「ツナ君」
 呼ぶ声がして、振り向く。しかし声の主は上にいて、手摺りから身を乗り出したかと思うと直ぐに引っ込み、駆け足で近づいて来た。
 綱吉よりも薄い色の髪を肩の上で切り揃え、綱吉に巻けず劣らず大きな瞳を僅かに不安に染めている。いつも笑顔を絶やさない口元は今に限って引き締められており、全体的に険しい表情を作り出していた。
 スカートの裾を押さえて降りてきた京子は、綱吉の一段上で足を止め、胸に手を添えて大きく息を吐いた。
「保健室にいたの? 戻ってこないから心配したよ」
「あ、……うん。ごめん」
 登校して鞄を机に置いた直後、トイレに行ったまま授業が始まっても戻ってこなかった彼を心配して、探してくれていたらしい。彼女に見下ろされるのはなんとなく変な気分で、綱吉は頬を掻いて照れ笑いを浮かべた。
 最近、彼女らには余計な気苦労をかけてばかりだ。雲雀ばかりを責められないなと心の中で呟いて、彼は気遣ってくれた京子に感謝の気持ちを告げ、もう平気だとまだ赤い目尻を擦った。
 昨日は午後の授業を全部サボって、今日もまた一時間目に出席しなかった。ただでさえ試験の結果が宜しく無いのに、出席日数まで危なくなっては、進級できるかどうか怪しい。折角無くなった補習授業が再開される可能性に思い至り、億劫さが蘇って彼は肩を竦めた。
「もう平気なの?」
「うん。ちょっと気分が悪かったから、休んでただけ」
「風邪ひいてたもんね。まだ治って無いの?」
「昨日、あんまり眠れなかっただけだから。休んだら楽になったし、大丈夫」
 当たり障りの無い嘘で本当を隠し、誤魔化す。本人さえ驚く滑らかな説明に、京子は頷き、顎に手をやって難しい顔をした。
 彼女が損得勘定無しに心配してくれるのが嬉しくて、綱吉の表情は自然と和らいでいった。ささくれ立っていたものが穏やかに凪ぎ、冷たい風は温かな陽射しへと入れ替わる。心がほっこりとして、幸せな気分になった。
 それは京子が持つ、周囲を楽しい気持ちにさせるオーラとでもいおうか、雰囲気に拠る部分が大きい。
 彼女と居ると、優しい気持ちになれる。それは雲雀を前にした時に生じる変化とは、完全に正反対の効果だった。
「一時間目のノート、見る?」
「いいの?」
「うん。あとね、宿題が出たよ。ツナ君、次当たるかも」
「うわあ、それはやだなあ」
 休憩時間の残りが少ないに関わらず、立ち話が続いて終わらない。此処からならチャイムが鳴ってから走っても間に合うという気持ちの下で、綱吉の返した合いの手に彼女は楽しげな笑い声を立てた。
 手の甲を口元にやって、目を細めて肩を揺らす。見ているだけでも幸せな気持ちになる京子の姿に、自分はやはり彼女が好きなのだと安堵感を強めた綱吉だったが。
「あ」
 何かに気付いた京子が不意に会話を途切れさせ、手を下ろした。
 ひんやりした空気が背中から流れてきて、綱吉は瞬間、ビクリと身を強張らせた。以前にも、彼女が似たような反応をした事があった。その時の記憶はまだ新しい。
 振り向くのが怖い。けれど確かめずにいられなくて、綱吉は引きつけを起こした指を握り締めた。
 恐る恐る、右肩を引く。下半身は固定したまま、腰を捻って上半身だけを斜め後ろに――階段の踊り場周辺に向かせて、そして。
 予想していた通りの人物をその場に見出し、彼は和んでいた心が急速に冷え、固まっていくのを感じ取った。
 ドクン、と心臓が大きく鳴り響く。身体中の血液が沸騰して、熱を発し汗が滲んだ。気道が詰まって呼吸が出来ず、見開いた瞳は乾いて痛みを発した。痙攣が酷くなり、震えが止まらない。強すぎる動悸に眩暈が引き起こされ、目の前がぐにゃりと歪んだ。
 雲雀が、綱吉を見た。視界の端に姿を捉えて、ゼロコンマ三秒間、停止する。
 また何かしてくるのか。くちづけを連想させる仕草をするか。それとも昨日みたいに、強引な遣り方で綱吉を束縛するのか。
 恐怖心が彼を縛り付ける。逃げ出したいのに足が動かなくて、カチカチと奥歯が鳴った。
 頬の筋肉を引き攣らせ、引き結んだ唇を噛んで視線を外へ流していく。目が合ったのはほんの一瞬だけだった。先に逸らしたのは、雲雀だった。
 ――え?
 彼は階段を登っていった――綱吉を見もせずに。
 首筋に生える産毛が焦げ付くような、ちりちりとした熱が痛い。膝に力が入らなくてふらつき、壁際に寄っていた綱吉の身体が勝手に動いた。雲雀が進もうとする方へ、吸い寄せられる。
 肩がぶつかりそうになって、慌てて逃げた。大袈裟なまでに強張って、仰け反るようにして避けた。
 その間も、彼は綱吉を見なかった。一瞥たりともくれない。前だけを、上だけを見て。まるでそこに綱吉が居ないみたいに。
 思えばそれが、当たり前の関係だった。
 自分たちは確かに、リボーンの介入をきっかけに顔見知りとなりはしたが、気軽に挨拶をするような間柄でもなかった。雲雀は風紀委員長であり、綱吉はただの平凡な一般学生。取り締まる側と、取り締まられる側という、そんな関係性しか両者の間には存在していない。
 だから雲雀が綱吉に話しかける必要も、視線を合わせなければならない道理も無い。
 それが当たり前だった――あんなことがある前は。
 だから、ちょっと前に戻っただけ。
 自分たちの、元々の関係に戻っただけ。
 それなのに。
「ツナ君?」
 怪訝な京子の声が聞こえ、ハッと我に返る。ぼんやりしてしまったと、もう見えない雲雀から意識を彼女に向け直した彼は、聞いていなかったと素直に詫びてなんだろうか、と話を振った。
 が、彼女は眉間に皺寄せ、変な顔をして綱吉を見詰めている。
「なに? 京子ちゃん」
「ツナ君、これ」
 使ってと言われ、スカートのポケットを探った彼女が取り出したハンカチに綱吉は目を瞬いた。いきなり何を、と理解出来ない京子の行動に面食らっていたら、強引に握らされて益々驚いた。
 鳩が豆鉄砲を食らった顔をして、怒っているとも取れる顔をしている京子を見詰め返す。
「ツナ君、雲雀さんとなにかあったの?」
「え」
「だって、泣いてるよ」
 突然出てきた雲雀の名にギクリとした綱吉は、指摘された内容に直ぐに頷けなくて首を傾げた。
 そんなはずが無いと、笑い飛ばそうとして頬を撫でる。指先が濡れた肌を擦った。
「え……」
 絶句して、今度は手の甲で拭ってみた。頬が皮膚に引きずられ、湿り気が範囲を広げた。
「うそ。なんで?」
 濡れた手を広げ、呆然と見入る。意識した途端に目尻が熱くなり、じわっと浮かび上がった涙が零れ落ちるのが今度ははっきりと分かった。けれど、どうして自分が泣いているのか、その理由が解らない。
 別段変わったところは何も無かった。京子と立ち話に花を咲かせ、心が和らいだところで雲雀とすれ違ったくらいしか。
 どこに涙のわけがあるのだろう。綱吉は混乱し、首を振った。頬を辿った雫が、顎を伝って階段に落ちた。
「なんで……」
 目を閉じれば浮かぶ、雲雀の背中。嫌いだと突っぱねたその姿が、いつまでも綱吉の瞼に張り付いて剥がれなかった。

 朝の早い時間や、日も暮れた寒い夜等には、まだ時々であるけれど、吐く息が白く濁るようになった。
 日中の暖かさに反して、太陽が沈んだ後の気温の低下は凄まじい。真昼と同じ格好をして夜を過ごしていると、途端に寒気を覚えて全身が震えた。
 平凡な日々が過ぎていた。特別大きな騒ぎも起こらず、淡々と、穏やかで和やかな時間が、ごくごく当たり前として目の前を急ぎ足で駆け抜けていく。振り返りもしないであっという間に人に背中を向けて、後を追わせてもくれない。
 道端に散る落ち葉の数も少しずつ減って、落葉樹はすっかり物寂しい姿と成り果てた。常緑樹さえもどこか寒そうに小さくまとまっており、鳥達もふっくら丸みを帯びて、歩み寄る冬に備えていた。
 コロコロと太った雀が、朝食になるものを探して地面を飛び跳ねている。電信柱から伸びる黒い無数の線にも、親子なのかつがいなのか、何匹もの鳥が羽根を休めていた。
 長閑な景色に欠伸が零れ、片手で覆い隠した雲雀は、窓越しにぞろぞろと群れだって登校してくる生徒の波を見下ろした。
 学校内の誰よりも早く登校し、誰よりも遅く下校する。風紀委員長の一日はとっくに始まっていて、彼は金属が擦れ合う不快な音を立てる鍵束を揺らし、薄ら寒い廊下の終着点で足を止めた。
 銀色の扉の向こうは非常階段で、彼は手にした直径十センチほどある輪を顔の前に掲げると、目を眇めて一本ずつ表、裏を確かめて行った。
「これだったかな」
 似たような形ばかりの中でひとつを選び取り、凹凸がついている箇所を指で撫でる。皮膚を刺す冷たい感触を確かめた後、彼は躊躇なくそれをドアノブ中央の鍵穴に差し込んだ。
 すんなりと奥まで辿り着いたそれに内心微かな喜びを覚えつつ、右に捻って錠を外す。僅かに重い手応えの後、引き抜いて左手に束ごと持ち替えた。
 右手でノブを握り、ゆっくり力を込めて回しながら押す。隙間が出来上がった途端、外で吹いていた風が内部にまで紛れ込んできて、雲雀の艶やかな黒髪をかき回して行った。
 細い毛先が目に入りそうになって、咄嗟に防衛本能が働いて瞼が閉ざされる。首を捻って顔を背け、しかし扉を押す力は緩めない。彼は奥歯を噛むと抵抗を示す鉄製のドアを強引にねじ伏せ、陽射しの弱い外に足を伸ばした。
 三十センチほどの隙間に身を滑らせると、その先は灰色のコンクリートで覆われた階段だった。手を放せば己の重みでドアは勝手に閉まり、その際に大きな音を響かせて雲雀を驚かせる。特別教室棟の裏手は当たり前だが人気がなくて、校舎の影に入っている影響で薄暗かった。
 頬を撫でる風は最初の一撃ほど強くなく、細切れの雲が流れる速度も緩やかだった。
 雲雀は前髪越しに高い空を見上げた後、下に通じる階段に視線を転じた。一段ずつ慎重に下っていき、三階、二階の非常扉の鍵を外側から外していく。都度異なる鍵が使用されているのに、雲雀はそのどれも、一度して間違えなかった。
 鍵の種類が多すぎて、他の誰かにこの仕事を頼むと雲雀の数倍時間が掛かってしまう。そうなると生徒らの登校時間に間に合わない可能性が出てくる為、こうやって学校内に異常が無いか確かめつつ、各扉を開錠して回るのが彼の日課だった。
 秋風に誘われたからか、今日はいつもよりずっと雲雀の行動はゆっくりだった。
 そろそろ予鈴のチャイムが鳴る時間かと、体感ではあるものの凡その検討をつけ、彼は最後に残していた一階の扉を開けるべく階段を下りていく。靴底が砂利を踏んで、明りが無いためにかなり暗い一角に足を踏み入れたところで、目算通り遠くからチャイムの高らかな音色が響いてきた。
 思わず視線を持ち上げ、彼は何も無い無愛想な壁を見詰めた。無意識に鍵束を握る手に力を込め、さっさと終わらせて遅刻者の取り締まりに移ろうと心に決めて、重量があるそれを胸の高さに持ち上げた。
「ん……?」
 ふと、ガサガサと不自然な木の葉の揺れる音が聞こえて来て、雲雀は鍵を選ぶ手を止めて二度瞬きを連続させた。
 風が吹いてもいないのに、枝が揺れている。しかもピンポイントに一箇所だけが。
 なんだろうか。奇怪なものを見る目を向けた雲雀は注意深くその周囲を観察し、息を潜めると足音を立てぬよう気配を殺して扉の前を離れた。慎重に進み、学校の敷地と外とを遮っているコンクリートブロックの壁を見上げる。
 揺れていたのは外にまで枝を伸ばし、葉を茂らせた木だった。
 そろそろ剪定をしないと、近隣から苦情が出そうだ。今度業者を呼んで見積もりを取ろうと決め、壁の向こうからにゅっと伸びた白い手に驚いて目を見開く。
 二秒後我に返った彼は、何かを探すように上下に動く手を見つめ肩を竦めた。どうやら遅刻の取締りを嫌った生徒が、裏手からこっそり潜り込もうとしているらしい。
 此処なら滅多に人も来ないし、校舎に入るのも容易で、しかも着地の際に足場にする木も近くに生えている。侵入経路としては絶好の地点であり、雲雀はいったいどんな馬鹿な生徒が壁をよじ登ってくるか楽しみに待ちつつ、手にしたままだった鍵束をスラックスのベルトに引っ掛けた。
 自由になった手は次に、隠し持っていた愛用のトンファーへと伸ばされる。音もなく身構えた彼が待ち構えているとは知らぬ生徒は、もう片方の腕も伸ばしてブロック塀の上辺に両手を這い蹲らせた。
「う、くっ……」
 微かに力み、呻く声が聞こえた。
 覚えのある、しかし記憶に残っているものよりも若干低めの掠れた音に、雲雀は右の眉を持ち上げた。
「ぬぐ、ぐぐぅ……、ったぁ!」
 腹の底から声を絞り出し、ぐっと腕の力だけで身体を持ち上げて壁をよじ登る。漸く向こう側が見えたことに歓喜し、赤みを帯びた顔を綻ばせた綱吉は、直後眼下に佇む青年を見出して驚愕に目を見開いた。
 雲雀もまた似たり寄ったりの顔をして、彼を凝視する。
 お互いに声さえ出ず、高低差のある中で見詰め合う中、余韻を残して予鈴のチャイムは消えていった。
「え……?」
「…………」
 呆然と雲雀を見下ろす綱吉が、あまりにも予想外な人物との遭遇にヒクリと頬を引きつらせた。それまで満面の笑みだったのが一瞬で凍りつき、北極の吹雪に裸で放り込まれたような顔を作り出す。
 雲雀もまた、綱吉の表情の変化をつぶさに見て、不愉快だと言わんばかりに眉間の皺を深めた。
 よもやこんな場所で再会しようとは。
 保健室帰りの階段で遭遇して以来、こうやって直接顔を合わせるのは初めてだった。
 学校内で日中を過ごす以上、どうしても姿を見かけることはある。実際綱吉も、何度となく雲雀を遠巻きに眺める機会があったし、その逆もまた然り。けれど両者ともに遠慮が先走ってか、視線を絡み合わせることはついに今日の今まで一度も無かった。
 気がつけば無意識に姿を探している。背中を追っている。だのに、いざ目が合いそうになると、先に逸らして逃げてしまう。
 以前のような、呼吸が出来ないくらいに胸が締め付けられる強い痛みは生まれなくなった。入れ替わりに綱吉の中に現れた感情は、泣きたい程の切なさだった。
 本当に嫌われてしまったのだと、自分が先にそう言ったに関わらず、身に沁みて実感させられた。またあんな風に、露骨な無視を決め込まれるのが嫌で、自分から背を向ける術を覚えてしまった。
 時々突き刺さる誰かの視線を感じることがある。振り向けば雲雀が遠くに居た、けれどその時にはもう、彼は綱吉を見ていなかった。
 存在を意識するのに、歩み寄らせてもらえない。とはいえ、彼に近付いたところで自分が何をしたいのか、言いたいのか、綱吉には分からなかった。
「な、んで」
 この時間、人がいた例はないのに。
 これまでにも何度か、風紀委員に捕まるのを回避したくて、彼はこの侵入口を使ったことがあった。今まで誰かに見咎められる事無く学校内に入り込めたので、油断していたのは確かだ。けれどまさか、よりによって、一番会いたくなかった人にぶつかるとは。
 彼は狭いブロック塀の上に猫のように両手両足を寄せ、背負った鞄ごと身体を丸めていた。ちょっとでもバランスが崩れれば前か後ろに転落する危険がある、そんな状態だ。
 トンファーを構えた雲雀の表情は、綱吉の位置からでは影になっているお陰で良く見えない。しかし黒髪から覗く鋭利な瞳が他ならぬ自分を射抜いているのだけははっきりと感じられて、彼は息を詰まらせ、心臓を縮こませた。
 全身に鳥肌が走る。ブルッと下から登って来た寒気にも似た感覚が彼を包み、綱吉は喉を引きつらせて悲鳴を飲み込んだ。
 場所を弁えずに勝手に身体が動く。無意識に後ろに仰け反って距離を取ろうとした彼は、コンマ五秒後に自分の現在地を思い出して恐怖に喘いだ。
「ひっ……!」
 宙を泳いだ両手が、必死にバランスを取ろうと空気を掻き回した。爪先立ちの足に腰が浮いて、横に傾いだ左膝が体重を支えきれなくなってずるりと靴底を滑らせる。
 地球には重力がある。上にあるものは下に落ちる。
 綱吉の体もまた例外ではない。
「うわ、あああ!」
 寸前で踏み止まろうと頑張ってみたが、人間の体は空を飛べるように出来ていない。無駄な足掻きでしかなくて、大きく前に傾いだ彼の体を唯一支えていた右足も、下向いた重心に引きずられる形でブロック塀を削った。
 雲雀の目には、彼が自ら飛び降りようとしているようにも見えた。しかもこのままでは確実に、受身も取れずに頭から地面に激突する――
 瞠目した彼は、余計な事を考える暇もなくトンファーを投げ捨てて走り出していた。
「沢田!」
「ひぅっ――!」
 訪れる衝撃に怯え、綱吉は頭を下にして硬く目を閉じた。切迫した雲雀の声を背中で聞いて、せめて少しでもダメージを減らそうと、両腕を頭上で交差させて顎を喉にくっつくまで首を引っ込める。
 踏み固められた地面は硬い。木の根が表にはみ出ており、凹凸もある。壁の高さは人の背丈を軽く越えて、二メートル近い。怪我だけで済めば万々歳だが、下手をすれば骨の一本や二本は覚悟しなければなるまい。最悪、首の骨を折って半身不随――
 こんなところで、と裏技を使ってバグに嵌められた気分で、綱吉は訪れる苦痛を想像して涙を呑んだ。
 限界まで身体を丸め、小さくして、そして。
 ドンっ、と右上半身に押し寄せた衝撃に彼は呻いた。
「うぁっ」
「ぐ――!」
 自分の口が発した甲高いものと、もうひとつ。
 歯を食いしばった末に喉から漏れた声が、とても近い場所に。
 直後香る、微かな他者の体温。小さく跳ねた身体が沈んだ先で、いきなり耳に飛び込んできた心音の速さに驚き、彼は竦みあがって目を開いた。
 痛くなかった。確かに硬い地面に激突した筈の身体は、間に割り込んできたクッションに衝撃の大半を吸収されてしまった。
 肩で息をして、硬直した全身を軋ませる。俯せで下敷きになった両腕が触れるのは冷たい大地などではなく、温かくて柔らかい、けれどしっかりとした硬さを持つものだった。
 一定間隔で上下に波打ち、触れ合った場所から鼓動が流れてくる。肩を両側から挟む形で背中に回されていた腕が片方落ちて、いっぱいに見開かれた綱吉の視界の端を横切った。
 髪を撫でられて、予想外の優しい手つきに愕然となる。
「な……ん、で」
 琥珀の瞳を大きく広げ、映し出された人の顔に喘ぐ。驚きと困惑と、それらとはまた違う感情が複雑に入り乱れ、綱吉は言葉に窮して息を吸ったばかりの唇を噛んだ。
 綱吉の下敷きになって彼を受け止めた雲雀は、強かに打った背中が痛いのか顔を歪めている。横一文字に結ばれた唇は血の気が引いて青褪めており、硬く閉ざされた瞼の横、力が篭もっているのが分かる目尻には数本の皺が刻まれていた。
 苦しげに口から息を吐き、即座に噛み締めて閉ざす。当然だろう、あの高さから落ちた人間を正面から受け止めたのだ、衝撃を分散させる暇も無かったに違いない。
「ヒ、……ヒバリさんっ!」
 どうして、この人は。その苦痛ぶりを思い浮かべて頭の中が真っ白になった綱吉は、慌てて彼の名前を何度も呼んだ。自分が乗ったままでは圧迫されて辛かろうと、折り畳んだ肘を伸ばして身体を浮かせようと試みる。しかし背負った鞄の下側、腰に近い位置で背中に回された彼の右手は、綱吉の退避を許さなかった。
 抗ったが、彼の腕はまるでその状態で凍りついたかのように動かない。胸元に十センチ弱の隙間は出来るものの、それ以上は広がらず、雲雀に跨る形で四つん這い状態の綱吉は悔しげに顔を顰め、依然瞼を下ろしたままの雲雀を睨みつけた。
「ヒバリさん、放して。放してください」
「いやだ」
 もしやこの状態で気絶しているのではないかと疑ったが、綱吉の懇願に返答があったのでそれは無さそうだ。
 表情はまだ苦しげで、声を聞いた瞬間綱吉は逆の意味に理解して、解放してもらえるかと突っ張らせた両手両足に力を込めた。が、強固な抵抗に遭って自分の勘違いに気付き、目を瞬く。
 胸を凹ませて息を吐いた雲雀が目を開けて、久方ぶりに間近で見た黒々とした瞳に綱吉は、鼻の奥がツンと来る衝動に駆られて首を振った。
 まただ。この目に見詰められると途端に自分が自分でなくなってしまう。最近は大人しかった胸の疼きが再発して、締め付けられる痛みに彼は荒い呼吸を繰り返し、目頭に涙が滲むのを必死に防ごうとした。
 けれど身体は意思に反し、雲雀に触れている場所から熱を帯びていく。視界がぐにゃりと歪んで、綱吉は唇を震わせた。
「放して、……放してください。はなして!」
「いやだ」
「なんで!」
 綱吉は雲雀を嫌いだと言った。身勝手で傲慢で、横暴で、人を振り回して遊んでいる彼が大嫌いだった。
 ちょっかいを仕掛けてきて人の心を掻き乱したかと思えば、唐突に存在自体を無視して、居ないものとして扱う。あんまりな態度の急変に、自分が考えていた以上に綱吉は傷ついた。
 だからもう、これ以上傷を負いたくなかった。
 雲雀を見ていると心が騒ぐ。勝手に顔が熱くなる。胸が高鳴って、心臓が締め上げられて痛い。呼吸が苦しい。落ち着かない、じっとしていられない。
 目が合うと、逸らせない。動けない。雲雀に無視されるようになって、本当ならそれで一安心の筈だった。だのに、変だ。今度は彼が自分を見ないのが嫌で仕方がない。こっちを見ろ、振り返れと、そう願ってしまう。祈ってしまう。
 自分を見て欲しい。此処に居るのだと、背中に向かって大声で叫びたい気持ちに駆られたのは、一度や二度ではなかった。
 こんな自分がいやだった。こんなのは自分ではない、だから元に戻りたかったのに。戻ろうとしていたのに。
 全部台無しだ。
「放せってば。はなせ!」
 堪えていた涙を一粒頬に零し、綱吉は瞬時に赤く染まった顔で真下にいる雲雀に怒鳴った。彼がまだ転倒の衝撃から抜け出せていないと分かっていながら、容赦なく拳を作ってその肩を殴る。鎖骨を打つ痛みに雲雀はぐっと息を詰まらせ、喉を反らして後頭部を地面に押し当てた。
 黒髪が逆さを向いて、日焼けに縁遠い額が露わになる。もう一発殴れば、震動に引きずられて毛先が跳ねて踊った。
「なんでだよ……なんで。放してよ!」
「いやだ」
 放さない。
 離さない。
 低い声で雲雀が言う。三発目を殴ろうとした綱吉の腕は、横から伸びた彼の左手に攫われ、外向きに捻って止められた。
 肩が開き、関節が変な方向に曲がる。急なことにたじろいだ綱吉は、歪められた骨格を戻そうとして真っ直ぐに伸ばしていた左肘を曲げ、左半身を沈めた。
「うあっ」
 其処へすかさず、雲雀の腿が彼の膝を内側から横に蹴り飛ばした。
 ぎりぎりのところで支えられていた体重は行き場を失って垂直に落ち、骨張った雲雀の身体にぶつかって止まった。背中に回された彼の右手はそのままで、僅かに保っていた隙間さえ奪われて綱吉は目を剥いた。
 右手首の拘束を解かれたのにも気付かず、直接響いた自分たちの心音に唖然となる。
 斜めに滑り落ちそうになったのを支えられ、束縛される。急に接近した相手の顔を、瞬きを忘れてじっと見詰める以外何も出来なくて、綱吉も雲雀も、浅い呼吸を繰り返しながら数秒間停止した。
 雲雀が乾いた唇を舐める動きを目で追ってしまい、綱吉がハッとして視線を逸らす。両掌を下にして雲雀の胸元に添えて、少しでも彼から離れようと足掻くものの、効果は無かった。
 燃え盛る炎にくべた岩に触れているみたいだ。雲雀のなにもかもが熱くて、どこまでが自分の体温で、どこからが彼なのかが解らない。
「はなっ、……はなして」
 切実に願い、赤い顔を伏して表情を隠して頼み込む。けれど綱吉を抱き締める両腕は緩まなかった。
「いやだ」
「どうして!」
 さっきからずっと同じやり取りの繰り返しだった。
 かぶりを振り、我侭放題の雲雀を叱って綱吉が叫ぶ。けれど彼は綱吉ではなく、その向こうに広がる狭い青空を見上げていた。
「放したらまた君は、逃げる」
「そんなっ、の」
 当たり前ではないか。そう言い返そうとしたのに出来なかったのは、不意に顎を引いて頭を持ち上げた雲雀が、その黒く冴えた瞳で綱吉を射抜いたからだ。
 他人に簡単に感情を読ませない、能面とも鉄面皮とも揶揄される雲雀の顔が、僅かに揺らいでいる。不安げとも、怯えているとも取れそうな微細な変化に綱吉は驚き、目を逸らせなくて息を呑んだ。
 彼は綱吉を左腕一本で束縛したまま、右手を地面に突き刺して綱吉ごと身体を起こした。
 白いシャツや紺色のベストのあちこちに乾いた砂が付着し、髪の毛にまで紛れ込んでいる。しかしそれらに一切構う事無く、雲雀は薄ら土色に汚れた状態で綱吉を膝に載せ、ようやく上になった視線に頬の強張りを解いていった。
 感じ取った揺らぎが薄れていく。綱吉が逃げずにこの場に留まったのに安堵した様子が窺えて、おおよそ彼らしくなかった。
 琥珀の瞳が波立つ。違う。こんな雲雀を、綱吉は知らない。
 綱吉の中に有った雲雀恭弥という存在は、絶対の強者であり、慇懃無礼甚だしく、傲岸不遜を絵に描いたような人物だった。誰かの為に身を投げ打つような真似はしない、絶対に。
 それがなんだ、この有様は。現に今、その雲雀恭弥は壁から落ちた綱吉を庇って地面に転がり、砂まみれになっているではないか。
 肩に近い位置にあった綱吉の手は、彼の上半身が垂直になるに従って沈んでいった。胴体と脚とを繋ぐ関節の継ぎ目に落ち、裏返って止まる。掴むものを求めた指は、自然と彼の着ているベストを手繰った。
 背骨を圧迫していた力は緩まり、今ならば綱吉でも簡単に彼を振り解いて逃げるのも可能だった。しかしもうそんな気分にすらなれなくて、彼は胸の中をするりと抜けて行った目に見えないものに困惑し、うろたえた。
 軽く曲げるだけだった指に力を込め、紺色の布を爪で掻く。
 恐る恐る背筋を伸ばすと、途端に雲雀との距離がぐんと狭まって、彼の吐く呼気が肌を掠めて熱を運んだ。
 緊張している、あの雲雀が。
 いつだって自信満々で、綱吉がどんなに手を伸ばしても届かないところにいる人が、こんなにも近くにいて、綱吉を見ている。
 綱吉だけを、見つめている。
「あ……」
 近すぎる距離に眩暈がして、綱吉がつい零した声に雲雀の肩が揺れた。彼もまた何かを言いかけていたけれど、薄く開いていた唇は閉ざされて、音はついに発せられなかった。
 その微細な動きをつぶさに見て、綱吉は小さく喉を鳴らした。
「…………」
 心臓がドドド、と滝のように音を立てて血液を身体中に巡らせている。地面に添えて折り畳んだ膝は雲雀を両脇から挟むようにして並んでおり、硬い上履きが足の動きを制限して少し痛かった。
 そちらを気にした綱吉が、腰を捻って後方に視線を流す。上半身に限定された動きだったのだが、雲雀には彼が逃げようとしている風に見えたらしく、緩んでいた拘束がいきなり戻って来て面食らった。
 慌てて顔を前向けて見た彼の、どこか必死な様子が、急に可愛くて、可笑しく感じられた。
「ふっ」
 すぼめた口から息が漏れる。それが丁度笑ったような声にも聞こえたものだから、雲雀はムッと顔を顰めて益々腕の力を強め、綱吉を引き寄せて閉じ込めた。
 ぎゅうぎゅうと胸に胸を押し当てられて、こんなまっ平らで何も無い身体を抱き締めたところで、気持ちよくも何も無かろうと思うのだが、不思議と不快さは感じなかった。それは多分、一匹狼気質の雲雀が、他ならぬ自分に執着しているという事実がはっきりと感じられて、それが感覚を麻痺させているのだろうと、綱吉はぼんやりとする頭で考えた。
 晩秋の気配濃い風が吹き、露出する首を撫でていく。後ろ髪が攫われて擽られたのと、空気自体の冷たさにビクッとして竦み、悴んだ指が雲雀のベストをきつく握り締めた。
「…………」
 長い息を吐き、雲雀が慎重に綱吉の背を撫でる。肩の真下から腰のすぐ上まで、手提げタイプでありながら、壁を登るのに邪魔だからとリュックのように背負った鞄が幅を利かせており、それが雲雀には不満だったのだが、下ろせとも言えずに我慢するしかなかった。
 腰骨の周囲を往復する彼の手もくすぐったくて、綱吉は今度こそ本当に笑い、顔を伏したまま雲雀の左肩に額を押し当てた。
 少し早い心臓の音が聞こえる。自分のものと重ね合って、気がつけばリズムが同じになっている鼓動に、泣きたくなるくらいに酷く安心した。
 嵐の日、停電の中でみっともなく騒がずに済んだのは、この音があったからだ。今のように、自分を抱き締め、優しく背中を撫でてくれる腕があったからだ。
 最初の雷はとても怖かった。停電になって、吃驚して、いつもならもっと慌てふためいていたと思う。けれどその後何度も続いた雷鳴を、轟音をやり過ごせたのは、雲雀が一緒に居てくれたからだ。大丈夫だと、心配要らないと、抱き締めてくれる人がいたからだ。
 あの瞬間から、自分たちは確かに変わった。
 おずおずと顔を上げると、雲雀は首を引いて胸元を覗き込んでいた。上目遣いの綱吉と即座に目が合って、お互いにビクッと警戒心めいたものを抱いてしまい、大仰なまでに身を硬くする。
 相手の意思を探るように見詰めあい、雲雀が僅かに頭を右に傾けた。前髪越しに息が吹きかかり、額を擽られる感覚に綱吉がぎゅっと目を閉じた。
 くちづけられるかと身構えたが、怯えを露にした彼に遠慮が働いたのだろうか。雲雀は一瞬の間を挟み、綱吉の背を鞄ごと抱え込んでこめかみの上付近にキスを落とし、離れて行った。
 掠めるだけの感触は柔らかいが、遠い。思い浮かべていたものとは全然違っていて、綱吉は微妙な気持ちになってきつく閉ざした瞼を持ち上げた。
 こめかみへのキスは、ディーノたちから挨拶で何度か貰ったことがある。最初は驚いたが、習慣なのだと理解してからはなんとも思わなくなった。
 けれど今までに雲雀がくれたものは、挨拶などでは無い。
 若干の物足りなさを覚えている自分に戸惑い、綱吉は弱く首を振った。身を引いた雲雀が少し怪訝な顔をして、鞄の厚み分伸ばしていた腕を戻した。太股の外側を彼の手の甲がなぞって行く。寒気とは違う震えを堪え、綱吉は喉の奥に溜まっていた二酸化炭素を吐き出した。
 握る指先に力を込めすぎて、関節が痺れて痛かった。
「ヒバリさんは、……なんで」
 逃げたい気持ちと、このままでいたい気持ちが半々。頭の中で鬩ぎあう、相反する感情に苛まれつつ、綱吉は視線を斜め下に逸らして浅く下唇を噛んだ。
「なんで、俺に。あんなこと」
「知らない」
「そんなっ」
 彼がどうして自分に触れるのか。固執するのか。掻き乱すのか。
 理由が知りたい。苦しい想いを吐き出して問うた綱吉に、だけれど彼は手つきや心音に反して言葉は素っ気無かった。
 突き放すようにも聞こえる台詞に、声を高くして綱吉は顔を歪ませた。勝手に湧き出る涙で目尻が熱く、鼻から吸った空気は冷たさが粘膜を刺して痛みを引き起こした。
 校舎裏、不良達との喧嘩の真っ最中だった雲雀に追いかけられたあの日が蘇る。綱吉が引っ掻いて出来た傷はもう癒えて綺麗に消えているが、目を向けるとまだ赤く筋張っているようにも見えた。
「知らない。……解らない」
 シャマルと保健室で繰り広げた会話を思い出し、雲雀は目の前で泣いている子供を見詰めた。
 涙で潤んだ琥珀の瞳が、じっと自分を見詰めている。時折感情が昂ぶるのか、大きく揺れて睫を濡らすその鏡が、自分だけを映し出すこの状況は決して不快ではなかった。
 今まで他人をこんなにも近くに許容した事など無かった。自分に近付いてくる連中は問答無用で叩きのめしたし、それで満足だった。
 逃げる者を追うなんていう悪趣味を持った覚えも無かった。それなのに今の自分は、彼が自分を置いて立ち去ってしまうことを何よりも恐れている。
 重ねた胸を通して伝わる心音が、心地よかった。少し高めの体温もまた、低体温の自分にはちょうど良くて、気持ちがいい。
 彼を見かける度に五月蝿く騒いだ胸は、こうして近くから見つめていると静かになった。痛いくらいに拍動を強める心臓が、ちょっとずつではあるものの穏やかさを取り戻そうとしている。息苦しさは遠退き、眠ってしまいそうな安らかさを覚えた。
 この瞬間を一秒でも長く続けたくて、だから手放したくなかった。だのにどうして自分が、彼に対してだけこんな心理状態に陥るのかが、雲雀には分からなかった。
 知りたいのは自分の方だ。
 一瞬だけ触れた柔らかさの正体が、本当に彼の唇だったのかを知りたくて、もう一度触れてみたくなった。トイレの鏡の前で、艶めいて誘うように動くのを見て、我慢出来なかった。
 ところが、いざ触れてみたら余計に分からなくなってしまった。
 今まで他人の顔など何百、何千と目にしてきているのに、唇に触れたいという感情が引き起こされたのは綱吉ひとりだけ。そもそも男相手にキスしたいと、たとえ一時の気の迷いだとしても想い抱くなど、過去の自分では絶対にありえなかった。
 これは綱吉に触れたが故に生じた現象なのだから、彼に再度触れたら治るだろうか。しかし手を伸ばそうにも露骨に避けられて、顔を合わす機会がぐっと減った。日を重ねるに連れて次第に増して行く苛立ちが、自分を暴走させたと言っても過言では無い。
 綱吉を前にすると、冷静で居られない。自分が自分で無くなる。だから一刻も早く、元の自分に戻りたかった。
 それなのに、歯車は狂っていくばかり。
 視界に居ると落ち着かない。でも姿が見えないと不安になる。気がつけば探している。見つけたら、もっと近くで眺めたくなる。その琥珀を鏡として、自分の姿だけが映し出される様を覗いてみたくなる。
 触れたところから体温が急上昇を開始して、それなのに寒気を覚えて鳥肌が立つ。息苦しくて、胸が張り裂けそうに痛い。勝手に顔が赤くなって、全身から湯気が出る。それでいて、こうやって実際に心音を重ね合うと途端に安堵を覚える。
 なんだろう、これは。
この感情は、いったい、なんなのだろう。
 変わった、変えられてしまった。綱吉に、雲雀に、お互いがお互いを、少しずつ変えていった。
 身動ぎした綱吉の両の手が緩み、雲雀の深く波立ったベストを放した。背筋を伸ばすと鞄の重みに引っ張られ、背中が後ろに倒れて猫背が修正された。
 正面には雲雀の顔。深い湖の水を思わせる静かな黒い瞳にまっすぐ見つめられ、綱吉は心騒ぎながらも、彼の腕の中に包まれている現実にホッとしていた。
「君は」
 端正で綺麗な顔を至近距離から見上げ、うっとりと恍惚に浸っていた綱吉を雲雀の声が現実に引き戻す。
「どうして僕に、こんな事を許すの」
 こんなこと、と言われて直ぐに理解出来ず、きょとんとした綱吉は、雲雀が苦い顔をして腰を叩いて来たのを受け、膝に座って抱き締められている状況を指しているとやっと理解した。
 もっともこれは、雲雀がやったことだ。人を捕まえて、抱き締めて、逃げるなと懇願しておいて、その質問はおかしい。
 唇を尖らせて反論した綱吉に、彼は力なく溜息をついた。肩を落とし、俯いて寄りかかってくる。
「君は、僕が嫌いじゃなかったの」
 皮膚から突き出た鎖骨に鼻筋を埋めた彼が、直前に呟いたことばに綱吉はハッとなり、咄嗟に身を引いて避けようとしたのを堪えた。
 逃げられないように両側から綱吉を包み込むくせに、その拘束加減は弱い。身を捩って抵抗すれば簡単に抜け出せそうで、却ってそれが綱吉の腰を重くしていた。
 雲雀はずるい。綱吉が本当に逃げ出さないかどうか、こんなところで試している。
 そして自分は、彼に抱き締められているこの状況になんら不満を感じていない。彼から与えられる熱に、鼓動に、吐息に、眠くなりそうなくらいの安心感を抱いている。
 この感情に名前があるのだとしたら、いったいなんと呼ぶのだろう。
「きら……い、でした」
 躊躇を間に挟み、最後だけはすらっと言い放って、綱吉は背筋を真っ直ぐにして空を仰いだ。
 澄み渡る青は高く、綺麗だった。
「きらい?」
「っていうか、うん。怖かったです。ヒバリさん、何考えてるのかさっぱり解らないから」
 過去形で言われたのを気にして、雲雀が顔を上げようとして途中で止めてしまう。矢継ぎ早に饒舌になった綱吉の台詞に、感じるところがあったのか、ああ、と小さく相槌をうつのが聞こえた。
 そういえば遭遇はしても、会話を交わした時間はごく僅かしかなかった。雲雀は基本的に無口だし、自分からあまり喋らない。質問を受けても機嫌が悪ければ応じもしないので、他人からすれば、彼の頭の中がどういった思考回路で出来ているのか、行動から推察する以外術が無い。
 暴力的で、我侭で、利己的で、他人に冷たい。そんな解釈が成されていても、雲雀は否定して訂正しようとしないので、いつの間にかこれが定説になってしまっていた。
 何を考えているか想像がつかない人。綱吉にとっても、それは同じだった。
 ただ今は、少し、違う。
「解らないってのは、怖いことだって、凄く思った。考えても全然見えてこないから、頭の中ぐちゃぐちゃになって、そればっかり考えちゃって、なんか、気がついたらヒバリさんばっかりになってて。そしたら余計に……怖くなった」
 自分の心にぽっかり空いた穴が、知らぬ間に雲雀で溢れていく。寝ても醒めても思考は一箇所に沈殿して、抜け出せない。日常生活にすら支障が出てきてしまって、当惑した。
 そんな矢先に、雲雀から直接、興味本位だったと解釈できる言葉を浴びせられて、何かが切れた。爆発した。
 自分はこんなにも雲雀に振り回されているのに、彼はそうではなかったのがショックだった。思えばあの時から、雲雀は言葉が足りなかったのだ。
 綱吉の責める言葉に、幾らか反省して雲雀が続きを待つ。けれど待てど暮らせど綱吉は口を開かなくて、数秒間黙ったまま見詰めあい、ほぼ同時に「えっと」と言い放ってふたりして面食らった。
 ひと通り言いたかった事を言い終えていた綱吉は、次を待っていた雲雀に困ってしまう。お先にどうぞ、と彼は雲雀を上目遣いで見たが、雲雀までそちらこそ先に、と譲って来て、いつまで経っても話は再開しなかった。
 最終的に綱吉が焦れて、折れて、はーっと深く長い溜息を落とした後、裏返した手を握り、開いた指で雲雀の袖を抓んだ。軽く引っ張って、注意を引き寄せる。
「それで? ヒバリさんは、なんで俺にあんな真似したのか、分かったんですか?」
「沢田?」
「ヒバリさんが知りたかったこと、分かったんですか?」
 さっき彼が自分で言ったのだ、綱吉に触れてみたかったのだと。そうすれば心の中で蓄積されていく、もやもやとしたものが消えるのではないだろうかと。
 そんなわけがないのに、と内心思いつつ、じっと目を逸らさずに問いかける。彼は瞳を眇めて不審げな視線を投げ返し、ややしてから首を横に振った。
「解らない」
「じゃあ」
「解らない。けど」
 君に触りたい。
 殆ど音にならなかった掠れた声に、どきりとする間もなく綱吉は目の前に落ちた影に瞼を閉じた。
 鼻先をすり抜ける呼気が、恐る恐る綱吉に触れてくる。ゆっくりと重ね合わせられた唇が離れていくまでの数秒間、綱吉は無意識に息を止めていた。
 上向けた顎を戻し、目を開ける。再開させた呼吸に胸を上下させ、綱吉は微かに残る雲雀の体温を舐めて口を開いた。
「……分かったんですか?」
 一見無表情の雲雀が、綱吉の詰問に首を振る。
 解らない。態度でそう告げた彼に、にわかに怒りが湧き起こって綱吉は奥歯を噛んだ。
 両腕を真上に伸ばし、振り下ろす。勢い任せに突き飛ばしてやろうと思っていたのだが、直前で考え直し、代わりに彼は無防備な雲雀の胸倉を掴んだ。力が入っていない上半身を思い切り前後に揺さぶり、我に返った彼が抵抗を開始するより早く、腰を浮かせて膝で身体を支えた。
 身を乗り出し、伸び上がり、呆気に取られている雲雀目掛けて頭からぶつかっていく。
「さ――」
 彼が名前を呼ぼうとして吐き出した呼気を奪い取り、綱吉は半ば噛みつくように雲雀にくちづけた。
 さっきのような、風が撫でて行ったにも等しいキスではなく、三度目の時の雲雀のように強く押し当てて、相手の熱を奪い取るような。牙を立て、内側に隠れている心そのものを噛み砕いてやろうと言うほどの。
 口角に力を込め、唇の表面を覆う無数の襞を広げてやろうという意気込みさえ感じる。合間に挟まった綱吉の吐息を飲み込んだ雲雀は、驚きに染めた瞳をゆっくりと闇に閉ざした。
 放置していた両手を持ち上げ、綱吉の腰を掻き抱く。捲れ上がったベストの裾の下から白いシャツが露になるが、それさえもスラックスから飛び出しており、意図せず直接素肌に触れた彼の冷たい指に、綱吉はヒクリ、喉を震わせた。
 そうとは知らない雲雀が、見た目以上に細くて華奢な体躯を引き寄せる。
「んぅ……」
 先ほどの消極的な態度は、いったい何処へ行ってしまったのだろう。
 綱吉に触発されたのか化けの皮を剥いだのか、拘束を一瞬で強めた彼に唇を舐め取られ、綱吉が息苦しさに喘いで首を振る。しかし逃すまいと首を前に押し出した雲雀にがっぷり食らいつかれ、願いは叶わなかった。
「ふっ、ぁ、……ンっ」
「……っは、ンん」
 息継ぎをしたくて綱吉は容赦なく吸い付いてくる彼の胸を叩き、放せと意思表示するが聞き届けられない。瞼を閉ざしたままで涙を零し、酸欠に頭がぼうっとする中、綱吉は細く瞼を持ち上げた。
 薄く広げた視界、硬く目を閉じた雲雀の顔が見える。必死さが窺える様子が可笑しくて、面白くて、あの雲雀恭弥をこんな風にしてしまった自分に呆れると同時に、照れくささと嬉しさに胸を詰まらせた。
「は、あ……んっ」
 伸びた舌が綱吉の開きっぱなしの唇を舐め、溢れていた唾液を掬い取る。顎を這った生暖かな柔らかさに背筋が粟立ち、ゾクッと来た綱吉は堪えきれずに浮かせたままだった腰を落とした。
 舌先を伝った唾液の糸が途切れ、冷たさに綱吉がハッと息を吐いた。熱っぽく潤んだ瞳は揺らぎ、強い鼓動に後押しされた血液が身体中を巡っている。
 雲雀に触れられた箇所が、どこもかしこも熱い。伸ばしたままの舌を咥内に戻すことさえ出来ず、綱吉は雲雀が濡れた口元を指で拭うのをぼんやり眺めた。
「さわだ」
 やや舌足らずに名を呼ばれ、頬に伸びた手が優しく包み込むのを待たずにまた目を閉じる。今度は荒々しさが薄れた、慰めにも似た静かなくちづけが降って来た。
 ――あ、……そっか。
 重ね合わせた胸から響く雲雀の心臓が、綱吉と同じタイミングで弾んだり、落ち込んだりしている。触れる寸前はちょっと怖がって、触れた後は少しだけ豪胆になって。
 綱吉の鼓動は雲雀が触れる直前に竦み、その後は和らぐ。リズムが全く同じだから、落ち着くのだ。
 ――なんで哀しかったのか、分かった。
 階段で雲雀に無視された時、泣くほどショックだった理由が、やっと今になって芽を出した。
 雲雀に「触れてみたかった」とだけしか言ってもらえなかった時、やけっぱちになるくらいに彼に反発した答えが、こんなところに転がっていた。
「……ヒバリさん」
 気付いてしまえば至極簡単な結論だった。どうして今まで見過ごしていたのか不思議なくらいだけれど、必要以上に傷つかぬよう無意識下で鍵をかけていたのだとしたら、納得が行く。
 切なげに名前を呼び、睫毛を震わせて雲雀を見つめる。情欲を孕んで熱を帯びた黒い瞳がじっと自分を見据える様に、全身が粟立った。
「君は、分かったの?」
「さあ、……よく、わかんないです」
 熱の篭もった息を吐いて、長いキスの後に雲雀が問う。綱吉は僅かに視線を横に逸らし、肩を竦めて心で舌を出した。すぐに分かる嘘をついて、探るように相手を下から窺い見た。
「そう」
「ヒバリさんは?」
 緩慢な相槌だけを打たれ、物足りなさから急ぎ聞き返す。小首を傾げて見せると、雲雀は一瞬迷った後、訝しむ目で綱吉を覗き込んだ。
 ああ、ひょっとして彼もまた、自分と同じ事を考えたのだろうか。そんな気がしたが、お互い言葉にはしなかった。
「僕もまだ、よく解らない」
「そうなんですか?」
「そう」
 だったら、と。
 ふたり同じタイミングで息を吐く。額を小突き合わせて、小さく噴出して、顔を上げた。
 自然な流れで戯れのようなキスをして、離れる。雲雀のベストを握り締めていた綱吉の手は、いつの間にか肩へ回り、首の後ろで結ばれていた。

2008/11/26 脱稿