遊覧飛行

 ふわり、と。
 目の前を不意に左から右へ通り抜けるものがあり、雲雀は出しかけた右足を慌てて引っ込めた。
 丁度彼の視線の高さをゆらゆらと、不安定に揺れながらもほぼ直線の軌道を描いて通り過ぎていくそれ。白と灰色の中間の色をした紙で折られた飛行機だと理解するのに、彼は二度の瞬きと一度の呼吸が必要だった。
 突然だったので驚き、反射的に警戒心を強めた全身の強張りを解いて肩を落とす。ネタが知れたらなんて事もなくて、雲雀はのんびりと宙を泳ぐ紙飛行機の行方を追い、右に視線を流した。
 もし窓が開いていたなら、そのまま大空へと飛び去っていたかもしれない。だが残念なことに、透明なガラスがはめ込まれた窓枠は綺麗に閉ざされ、しっかり施錠もされていた。景色ばかりがこの薄い板を通りぬけることが出来て、哀れにも紙飛行機は機首を垂直に切り立った崖にぶつけ、呆気ないほど簡単に墜落した。
 ぶつかったときだけコツンと音がして、それ以外はほぼ無音。雲雀は廊下に沈んだ紙の行方を目で追った後、足を前に繰り出すと同時に首を左に回した。
 廊下と教室を繋ぐのは、何も前後の扉だけではない。その中間にも、内部を窺い見るのが可能な窓が前後に二箇所、並んでいた。
 曇りガラスをはめ込んだそちらの窓は解放されて、視界を広げるのに役立っている。
 灰色の壁沿いに落ちた紙飛行機を拾い上げ、雲雀は付着した埃を軽く叩いて払い落とした。丁寧に折られた紙はすらっとしたシルエットで、空気抵抗を極力減らして遠くまで飛ぶように工夫されていた。
 飛行機の胴体部分、主翼の下に横長に伸びる部位を右手の指二本で挟み持つ。だが彼はそれを投げ放つ仕草だけで済ませ、腕を下ろした。
 物音がして、磨りガラスの向こうからひょっこりと薄茶色の頭が飛び出したのだ。
「あ」
 一緒に放たれた、思わず出てしまったという声に雲雀もまた視線の矛先を変えて怪訝に眉を寄せる。
 微妙に気まずい空気が場に流れ、腰窓から上半身を乗り出した綱吉が困った風に乾いた笑いを浮かべた。
「あの、……」
「今日は午前中までのはずだけど」
「はい。そうですね、はい。まったくもってその通りです」
 暗に居残りを命じられていたのだと告げ、綱吉は抑揚に乏しい口調で言った雲雀から目を逸らした。
 胸の前で広げた両手を重ね、左に顔を向け続ける。人差し指だけが時折互いを小突き合って、何か言いたげで、しかし言うのが憚られるといった彼の態度に、雲雀は小首を傾げた。
 教室には綱吉がひとりいるだけで、他に人影や気配もない。だからこの紙飛行機は、突然時空の裂け目を越えて出現したのでない限り、作ったのは兎も角として、投げたのは彼の仕業だと容易に知れた。
 雲雀は改めて右手に握る紙飛行機に視線を落とした。
「これ」
「出来ますれば返していただきたく存じ上げる次第で御座います」
 畏まり、丁寧さに丁寧さを重ねた所為で妙な日本語を操った綱吉が、肘を曲げて飛行機を揺らした雲雀に向けて両手を差し出した。左右揃え、掌を上にして、軽く指を曲げて、受け取る気満々で。
 だからこそ余計に不自然で、雲雀は角度を変えて折り曲げられた紙を眺めると、試しに胴体上部中央に走る割れ目に指を入れた。千切れないように注意しつつ、広げていく。
「うあっ」
 綱吉の慌てた声にピクリと眉が持ち上がったが、それだけ。雲雀の手は止まらず、折り癖が残る紙の表面を軽く撫で、元の四角形の状態へと戻してしまった。
 皺をなぞって伸ばし、山折と谷折が並ぶ長方形を縦に構えて持つ。
「沢田綱吉、零点」
「うぎゃぁぁぁあぁぁ!」
 上辺に黒鉛筆で記された名前と、赤ペンで斜めに走り書きされた点数とを読み上げる。途端、甲高い悲鳴をあげて両手で頭を抱え込んだ綱吉が、その場で膝を折り、しゃがみ込んだ。
 雲雀の視界から彼の姿が消えて、皺くちゃの答案用紙から視線の先を変えた雲雀が身を乗り出す。窓枠に左手を置いて下を覗き込み、壁際に蹲って小さくなった綱吉の頭部を見つけて目を細めた。
「良い点数だね」
 こんな数字、滅多に見られるものではない。
 喉を鳴らして笑った雲雀に、綱吉は涙目の顔を持ち上げて恨みがましく暗がりから彼を睨み返した。
 なるほど、居残りの原因はこれか。ひとりで納得した雲雀はペン先を押しつけて弾いただけの乱暴な×印を指で数え、一番下までなぞり終えてからまた上に戻した。
「どうせ、どうせ俺は馬鹿ですよ」
 すっかり落ち込み、いじけてしまった綱吉の声が弱々しく響く。風が吹けば掻き消されそうな音を辛うじて拾いあげ、雲雀は折り目が無数に交差する答案用紙を半分に折り畳んだ。
 真ん中で、縦に。角を揃えてから、続けて翼部分を作る作業に取り掛かる。一度形が出来上がっていたものをなぞるだけなので、次がどれかの予想さえつけば、さしたる労力も必要ではなく、若干ふやけてよれよれの紙飛行機は直ぐに完成した。
 最初に飛んでいた時よりも明らかに不恰好だが、これでもやろうと思えば幾らかは空を飛ぶだろう。
 窓に寄り掛かったまま飛ばす仕草を繰り返し、返してと両手を頭上に翳した綱吉には首を振る。
「いらないから、飛行機にしたんじゃないの?」
「う、いや、その。なんかもう、飛んでけー、って気分だったんで」
 こんな恥かしい点数の答案用紙で紙飛行機を作って、飛ばして。万が一誰かに拾われたら恥の上塗りだ。実際、もうそうなっているのだけれど。
 雲雀の淡々とした問いかけに綱吉は床に沈んだまま照れくさそうに頬を掻き、下ろした手を前後に動かして、雲雀同様に紙飛行機を飛ばす真似だけをしてみせた。
 スッと真っ直ぐに、顔の横をすり抜けた直後に重なり合っていた親指と人差し指が離れて前へ空気を押し出す。
 一点の曇りも無い滑らかな動きに、見下ろす雲雀も語る言葉を忘れて見入ってしまった。
 目には映らぬ紙飛行機が空中に飛び出し、遠く、空高く目指して舞い上がる。光景が浮かび、瞬きをした彼は、一足先に現実に戻って真上を向いた綱吉が、何か言いたげにして丸い瞳を曇らせているのに漸く気付いた。
 前に突き出ていた肘を戻し、真下を向く。綱吉が空っぽの手を差し出したので、雲雀は仕方なく右手に構えていた零点の答案用紙を彼目掛けて放り投げた。
「うあっ」
 勢い良く胸元に飛び込んでこられて、驚いた綱吉が後頭部を壁に激突させた。ごんっ、と痛い音が雲雀にも聞こえて、受け止め損ねた紙飛行機を床に落とした綱吉が背中を丸めてうんうん呻いた。
 悪い事をしたとは思うが、これはこれで面白いと意地悪く思って、雲雀は笑いがこみ上げる口元を左手で隠した。
「いってえ……」
 酷い。至極簡潔に感想を述べた綱吉が、本気で涙を頬に零してずるりと腰を落とした。こげ茶色の床にへたり込み、じんじん痛みを放つ頭を頻りに撫でる。
 雲雀は廊下側に立ったまま彼に手を伸ばしたが、指の先が爆発している髪の毛に触れる程度で、届かなかった。
 肩を引き、毛先に擽られた中指をじっと見た彼が急に踵を返す。
 足音を聞いて綱吉は顔をあげ、あっさり居なくなった存在に唇を尖らせた。
「ちぇ」
 なんだか急に何もかもつまらなくなってしまって、綱吉は両足を投げ出し、翼を傾けて転がったままの紙飛行機に手を伸ばした。
 しかし彼が拾うより早く、横から現れたしなやかな指が主翼部分を抓んだ。
「ヒバリさん」
「よく飛ぶ飛行機だったね」
 見知った顔が涼しげな表情で佇み、曲がってしまった機首を撫でて言った。
 思いもよらぬところで褒められ、少し嬉しくなる。だが直後に、「零点だからかな」と言われたのには、思わず頬を膨らませた。
「……なんでしたら、折り方教えましょうか?」
「へえ?」
 興味深そうに飛行機を弄っている雲雀に提案すれば、彼は切れ長の目を眇めて口角を持ち上げて笑った。悪い気はしていないと見て、綱吉は深く頷く。
 よいしょ、の掛け声と共に壁に体重を預けて立ち上がり、返してもらったテストを広げて赤ペンの数字をなぞる。
「その代わりと言っちゃなんですが……」
 答案用紙を胸に抱き、おずおずと上目遣いににじり寄った彼に、雲雀は次に続くだろう言葉を予想し、肩を竦めて笑った。
「いいよ。勉強、教えてあげる」

2008/08/02 脱稿