背丈

 薄暗い階段に差し込む光の中で、埃がキラキラと踊っている。
「あ」
「ん?」
 前を行く背中を何気なく見上げた綱吉は、不意に意味もなく声を出した。
 聞こえた山本が足を止めて振り返り、危うく正面衝突するところだった綱吉に驚いて、悪い、と呟いて場所を譲る。狭い階段の只中で隣り合ったふたりの肩は、随分と高さが違っていた。
「どうかしたか?」
 見上げ、そして下に視線を動かした綱吉に彼は怪訝に問いかけを投げ、何か変なものが付着しているだろうかと肘を持ち上げる。目の前を彼の黒髪が上下して、綱吉は瞬きを二度繰り返し、慌てた様子でなんでもない、と早口に告げた。
 誤魔化す風にぴょん、と上の階段へ飛び上がって移動し、身長差を逆転させて先を目指す。踊り場を抜けて残っていた十数段を駆け抜けた綱吉はその勢いのまま屋上へ飛び出して、数歩遅れて山本が続いた。
「うっ」
 快晴、但し風は強い。
 屋根の無い開かれた空間に出た瞬間、真横から吹きつけた風に煽られた綱吉が片足で数回飛び跳ねた。持っていた弁当箱が揺れ、目に飛び込もうとした塵を避けて瞼を閉ざす。
 ふらついた彼を支えたのは山本で、胼胝のある右手が綱吉の肩へ回され、胸板で受け止められた。
「あ、ごめん」
「気をつけろよ」
 こんなところで転ぶのは格好悪いぞ、と明るく言って山本は綱吉の頭を二度、軽く叩いた。
 広い手が逆立った髪の毛を押し潰し、離れていく。昔、曖昧な記憶の中で父親がよくやってくれた仕草に似ていて、綱吉は唇を舐めると触れられた場所に自分の手を置き、日陰を探して歩き出した彼を追いかけた。
 直射日光は鋭いが、風があるのでまだ幾分涼しい。上空を流れる雲の数を数え、場所を確保した山本の横に座って奈々お手製の弁当を広げる。おかずは、煮込みハンバーグとポテトサラダだ。
「お、いいな」
「昨日の残りだよ」
 早速覗き込んできた山本の感想に苦笑し、箸を取り出して手の間に挟んで瞑目する。日々充分な食事が出来る事への感謝を心の中で呟き、彼は早速、空腹を満たすべく食事を始めた。
 山本も持ってきた袋を広げ、中から菓子パンと牛乳を取り出した。彼の体型からしてそれだけで足りるのかと心配になるが、それは杞憂で、彼はちゃんと弁当も持ってきていた。
 但し、三時間目が始まる前の段階で、そちらは全部食べ尽くしてしまっているが。
「いっただっきまーす」
 元気良く宣言し、封を破ったパンにかぶりつく。彼の豪快な食べ方に苦笑し、綱吉も箸を急がせた。
 大きな弁当箱をひとつ片付け、今からパンを三つ。彼は他に、おやつと称した放課後用の食料も用意しているので、一日五食くらい食べているのではなかろうか。それで全然太らずに、縦にばかり伸びるのだから、実に羨ましい。
「ツナが少食過ぎるんだって」
「俺は平均的だよ」
 練習でロリーを消費しているから太らないだけだ。呵々と笑って山本は最後のひと欠片を口に放り込み、牛乳パックを思い切り凹ませた。
 音を響かせ、最後の一滴まで飲み干して満足げに目尻を下げる。彼は心底おいしそうに物を食べるので、見ているだけでも充分楽しい。
「俺も山本くらい食べたら、背、伸びるかな」
「無理じゃね?」
「ぶっ」
 プチトマトの蔕を取って口に入れた綱吉の呟きに山本は即答して、丸のまま飲み込んでしまいそうになった綱吉が噎せた。
 激しく咳き込んで目尻に涙を溜め、喉を掻き毟って息を詰まらせた原因を舌に転がす。手で口を押さえて受け止めた彼は、そのまま奥歯で噛み砕いた。
 途端、酸っぱい汁が咥内いっぱいに広がった。
「大丈夫か、ツナ」
「ぐえー……」
 唾と混ぜて飲み込んで、肩を落として息を吐く。冷や汗を浮かべた山本が覗き込んできて、綱吉は恨みがましく彼を睨み、唇に付着したトマトの種は吐き出した。
 濡れた口元を拭い、呼吸を整える。
「どうせ、俺はチビですよ」
「や、そういう意味じゃなかったんだけど」
 綱吉の拗ねた声に、山本は対応に苦慮した様子で頬を掻いた。
「骨格とか、そういうのは遺伝だから。ツナはおばさん似だし」
 伸びたとしても、山本程にはならないと言いたかっただけで、今後一切伸びないという意味ではない。出来るだけ丁寧に説明しようとした彼だが、緊張すればするほど言葉が出てこなくて、綱吉は終始無言だった。
 そもそも綱吉は奈々似と言われるのがあまり好きではない。その通りなので否定しないが、男として生まれた以上、矢張り筋骨隆々の逞しい体格をした父親に似たかった。
 頬の中にあった空気を吐き出し、困り果てている親友を眺め、綱吉は大人気ない自分を自覚し、首を振った。
「山本さ、また伸びたでしょ」
「え? あ、ああ。そうか?」
「そうだよ」
 唐突に発せられた綱吉の声に、ワンテンポ遅れて山本が反応する。頷いてから首を傾げた彼は、強く肯定する綱吉に眉を寄せ、肘を曲げて伸ばし、その手を頭に置いた。
 髪の毛は確かに伸びてきているが、身長までは自分では分からないようだった。
 たとえ綱吉の言うことが本当だとしても、一日でいきなり一センチも、二センチも伸びるわけではない。微細な変化の積み重ねであり、余程注意深く経過を観察していない限り、本人でも気付けない。
 そろそろ散髪に行かないと、と違うことをぼんやり考えた山本は、真剣な眼差しを向けてくる綱吉にへら、と力の抜ける笑顔で返し、分からない、と素直に告げた。
「でも、絶対、伸びてるって」
「成長期だしな」
「……どうせ俺は伸びてないよ」
「そこで拗ねるなって」
 信じようとしない山本に言葉を重ね、落ち込んだ綱吉の肩を叩いた山本が呑気に笑った。成人してからも背が伸び続ける人も居るのだと慰め、根拠も無いのに大丈夫だと太鼓判を押す。
「牛乳飲めって、んで煮干だ、煮干。カルシウム」
「えー……魚嫌いなんだけど」
「だから伸びないんじゃね?」
「むう」
 遺伝云々よりももっと根本的なところを指摘され、反論できない綱吉は再び頬を膨らませて上目遣いに彼を睨んだ。
 目元を緩めて山本が優しい顔で笑い、自分が優位に立ったと見るや人の頭を乱暴にかき混ぜ始めた。嫌がって逃げる綱吉を捕まえ、後ろから羽交い絞めにする格好で腕の中に閉じ込める。
 綱吉は暫くの間抵抗を続けたが、やがて面倒になったのか諦め、逆に彼に寄りかかった。
「背がでかいのも、結構不便だぜ。あちこち頭ぶつけるし」
「……けど」
 綱吉が平然と通り抜けるドアも、山本は屈まないと潜れなかったりする。高いところにあるものを取るには便利だが、逆に低い場所にあるものを探すのは苦手だった。
 一長一短だと笑う彼に、綱吉はまだ胸の中のもやもやを消し去れずに低い声を出した。
「たまに、背が高かったら、今の自分と違うものが見えるのかな、て思う」
「違うもの?」
「うん」
 聞き返した山本に頷き、綱吉は右手を掲げて空を仰いだ。
 ぽっかりと浮かぶ白い雲に差し伸べ、掴もうと握る。潰れた空気が指の隙間から逃げて、自身の体温だけが残された。
 見えるもの、見えないもの。あと十センチ視界が違えば、見えたかもしれない沢山のもの。同じ理由で、その十センチが無かったからこそ見えたものもあろうが、毎日変わることの無い視点ではその事実を忘れがちだ。
 隣の芝は青いとは、よく言ったものだ。
「ふーん?」
 分かったような、分からなかったような。曖昧な返事で山本は首を傾げ、目の前で沈んでいく綱吉の手を見送った。
 無い物強請りという言葉が浮かんで、今日も元気良く逆立っている彼の髪の毛に目を向ける。薄茶色越しに日焼けとは無縁の頭皮が隙間から覗けて、いつもは見えないものが今日偶々目に付いた偶然に、こういう事か、と山本は頷いた。
「俺は、ツナの身長を伸ばしてはやれないけど」
「山本?」
「違う世界が見たくなったら言えよ。肩車くらいならしてやるからさ」
「……なんかそれ、違わない?」
 にこやかな笑みを浮かべて親指で自分を指した彼を振り返り、綱吉は若干ずれた解釈の彼に頬を引き攣らせた。
 それに、自分はもう中学生で、肩車をされて喜ぶような年齢でもない。山本だって、綱吉を肩に担ぐのは相当骨の筈だ。
「えー、できると思うぜ?」
 無理だろうと言えば、山本は反対の事を言って立ち上がろうと膝を寄せた。実際に挑戦してみようとする気配を感じ取り、脇腹に両手を置かれた綱吉はくすぐったさに悲鳴をあげ、身を捩って逃げた。
 出来る、出来ないの問題ではない。単純に恥ずかしいのだ。
 空っぽになった弁当箱を膝で蹴り飛ばした綱吉が、ひっくり返ったそれに驚いて慌てて蓋を閉める。すっかり忘れていた片付け作業に取り掛かったところ、ゴミを袋に放り込むだけで済ませた山本が、勘違いしたまま尚もしつこく綱吉に迫った。
「じゃあさ。おんぶなら良いだろ?」
「それも、ちょっと……」
 そういう問題ではないのに、一旦食いつくとなかなか離れてくれない。いい加減相手をするのも疲れて、綱吉はそろそろ教室に戻ろうと誘って彼の胸を肘で突いた。
 その腕を山本が取り、思い切り引っ張る。
「んじゃ、さ」
「うわぁ!」
 ぐいっといきなり身体を持ち上げられ、足が宙に浮いて綱吉は裏返った悲鳴を上げた。
 視界が一瞬だけ歪み、直ぐに元に戻る。弁当箱がカタカタと音を立て、握り締めた布の結び目が指に食い込んだ。
 首筋を撫でた風は生温く、喉元に触れた呼気は更に熱い。
「これならどうだ」
「や、山本!」
 自信満々に吼えた彼に身体を掬われ、抱き上げられた綱吉は下に来た彼の屈託無い笑顔に仰天し、目を見開いた。
「どうだー? なんか見えるか?」
「い、いい。いいから。下ろして!」
 言葉とは裏腹に、振り落とされる恐怖に負けて、綱吉は彼の頭にしがみついた。遠くを見る余裕などなく、それどころか怖がっているというのに、山本はぐるん、と勢いつけて綱吉ごと身体を回転させる。
 ピンと伸びた爪先が空中に半円を描き、踵を踏み潰した上履きが見事に両方吹っ飛んだ。
「山本!」
「うはー、かっりーな、ツナ。やっぱお前、あんまりカルシウム摂るな」
「分かった、分かったからもう!」
 鳴り響いた予鈴にも気を取られ、何を言われたのか、内容を理解せぬまま綱吉は怒鳴った。
 山本が高らかに笑う。嫌だと言う綱吉を抱き上げたままもう一回転して、今度こそ彼に遠慮なしの一発を頭に叩き込まれた。

2008/08/02 脱稿