恋花・花芽

 触れてみたかった。
 触って、確かめてみたかった。
 あの熱が本当に彼のものなのか。それとも、自分のものだったのか。
 柔らかさと、温かさと、心地よい音色の、その全部が、何処から来たものかを知りたかった。
 逃げられたから、追いかけた。
 抵抗されたから、捕まえた。
 こっちを見ようとしないから、腹が立った。
 だから、自分を見て欲しくて、くちづけた。
 発作的だったと言っていい。そのつもりはなかったのに、気がつけば体が勝手に動いていた。
 目論見どおり、彼は自分を見た。見て、そして、凍りついた。
 怯えた顔をして、泣き出して、怒り出して、叫んで、暴れて。
 嫌いだと言われた。
 動けなくなった。心臓さえ止まるかと、本気で思った。
 もう追えなかった。拒絶されたと心が理解した。
 目に見えない、名前の無い何かが、音を立てて崩れていった。

 風が冷たい。ぶるっと身震いした綱吉は、鰯雲が広がる空を見上げ、すっかり秋模様の景色に淡く微笑んだ。
 通学路には落ち葉が積もり、歩道のコンクリートが半分以上埋もれている。これらを掻き集めて焚き火をして、焼き芋が出来ればいいのに。今は野焼きが法律で禁じられているから風情がなくて、面白くないなと呟き、綱吉は登校する生徒で賑わう正門を潜り抜けた。
 黒い学生服で身を固めた風紀委員が、油断なく構えて服装チェックに勤しんでいる。手荷物検査をするといわれて鞄を差し出し、勉強道具と弁当以外に何も入っていない中身を確かめられた後、無事解放された彼は正面玄関を抜け、上履きに履き替えた。
 新品のそれに踵までしっかり押し込んで、簀の子でつま先を交互に叩く。ちょっときつく感じるのを我慢して身を起こした綱吉は、下駄箱のドアを閉めて生徒が行き交う校舎内部に目を眇めた。
 落ち着いた光景だった。
 凪いだ心をそのままに、彼は教室へ向かって歩き出す。もう遠回りのコースを使うこともなく、教室まで最短経路を選んで階段を登り、すれ違う知り合いとは手を振って挨拶を交わして、上の階へ。
「おーっす、ツナ」
「おはよう、山本」
 後ろのドアから中に入ると、半分程の生徒が既に登校済みだった。自分の席へ向かう途中、先に来ていた山本に声をかけられて、穏やかに笑って返す。
 席替えがされたばかりの為、一瞬自分の机が何処に行ったか分からなくなった彼は、黒川に教えてもらって思い出した後、その椅子を引いた。ファスナーを開けっ放しにしていた鞄を下ろし、中身を取り出そうと両手を前に差し出す。
 影が落ちて顔を上げれば、山本がなにやら楽しそうにして立っていた。
「ツナ、聞いたか」
「なにを?」
「雲雀の奴が、女と揉めたって話」
 にやにやと、どこかいやらしい感じのする笑い方の彼が告げた台詞に、綱吉は思考が一旦停止してきょとんとなった。
 丸い目を大きく見開き、視界いっぱいに親友の顔を映し出す。面白いものを見つけた子供の顔をした山本は、綱吉の理解が追いついていないのも気付かずに顎を撫でると、いったいどこの女だろうかと自分の推察を次々に並べていった。
 あの鬼の風紀委員長を射止めるなんて、どこの美人だろう。学校内の人間か、いやはや中学生じゃなくて年上に違いない。性欲なんて皆無みたいなストイックな顔をして、案外隅に置けない。あいつも人の子だったのだな、と終いにはそれなりに酷い事を口に出す。
 ただ綱吉は殆ど聞いていなかった。右の耳から入っても、左の耳から素通り状態で、思考回路は完全にストップしていた。
 まさか本当に、綱吉の言葉通りに他の女性で試したとでも言うのか。だとしたら、あんなにもわんわん泣いて午後の授業を全部サボり、保健室の枕を濡らして過ごした自分はなんだというのか。
 夕食さえ喉を通らず、早い時間からベッドに引き篭もって、泣き疲れて眠り、今日を迎えた自分はいったい、なんだったのだろう。
 滑稽だ。
 乾いた笑いが浮かび、言いようの無い怒りがふつふつと湧き起こる。どす黒いオーラを突然噴出させた彼に、山本は喋るのを中断して怪訝に眉を顰めた。
「ツナ?」
「へえ……そうなんだ」
 本当に自分でなくて、誰でも良かったのだ。あれだけ人の事を振り回しておきながら、昨日の今日でそんな話題を提供してくれるとは。雲雀という人間にほとほと呆れ果てて、綱吉は目が据わった状態で口角を歪めて笑った。
 嘗て無い彼の気配に圧倒され、山本が冷や汗を流す。理由は解らないが、自分はどうも綱吉の地雷を踏んだらしいと判断し、そういえば最近妙に雲雀を避けて通っていたな、とこれまで深く気にしていなかった綱吉の行動に首を傾げた。
「ツナ、なんか知っ……」
「知るもんか!」
 念の為問いかけるが、全部言い終わる前に綱吉は気勢を吐き、鞄から抜き取った教科書類を力任せに机に叩き付けた。弾みで布製のペンケースが転がり落ち、山本の足にぶつかって止まった。
 腰を曲げて拾ってやり、荒く肩を上下させている綱吉に差し出す。それもまた、彼は横から掻っ攫う形で取り返した。
 雄々しい所作で椅子に腰を落とし、憤慨頻りの様子で荷物を引き出しの中に入れていく。どうやら彼は本当に、自分の知らないところで雲雀とトラブルを起こしたらしい。それも相当、綱吉が気に入らない形で。
 詳細は聞かぬほうが身の為だと、雲雀の名前を出しただけでこんな状態になった彼に苦笑し、山本はくわばらくわばら、と呟きながら自席へ戻ろうとした。
 その背中を、綱吉が呼び止める。
「山本」
「ん?」
「ヒバリさん、……自分で言ったの?」
 女性とトラブルを起こしたのだと。
 気まずげな、どこか苦しそうな綱吉の表情と声色に、振り向いた山本はまたも首を捻り、眉間に皺を寄せた。視線を合わそうとせず、斜めにずれた場所を向いている彼に「いいや」と返し、山本は身体ごと向き直った。
 右手は腰に当て、左手を持ち上げて人差し指を残して折り畳む。彼は己の左頬を指差し、爪の先で引っ掻く仕草をして空中に筋を刻んだ。
 上から下へ、繰り返す事三回。
「ここに、傷。それって、誰かに引っかかれたって事だろ」
 中指、薬指も使って再度同じ場所をなぞった彼の言葉に、椅子の上の綱吉が身を固くした。
 ドキン、と跳ね上がった心臓が高速回転を開始して眩暈を引き起こし、視界がぐにゃりと曲がった。独自の解釈を再度展開させ始めた山本の声は完全に耳に入らず、綱吉は瞬きを忘れた瞳の奥で、昨日の昼休みの出来事を逆回しに再生させた。
 雲雀の頬に出来た引っ掻き傷、真ん中の一本からは血が滲んでいた。
 手首が痙攣し、意志とは関係なく膝の上で大きく跳ねて、綱吉は咄嗟に右手を左手で押さえ込んだ。反り返った中指にチリチリとした痛みが生まれる、それは雲雀を引っ掻いた時と同じ痺れだった。
 爪の先に、まだ彼の皮膚が残っている気がする。抉った瞬間の、爪が剥がれそうな衝撃を覚えている。
 折角一晩かけて落ち着かせた心にまた波紋が広がって、綱吉は胸を衝いた痛みに息を詰まらせた。
「だからさ、やっぱあれって、女にやられたと思うんだよ」
 喧嘩の最中にナイフで斬られた等という鋭利さはなくて、傷の具合は半端だった。遠目だったが直接見たと言う山本の弁論は次第に熱を帯び、今日一日この話題で楽しめると喜んでいた。
 しかし綱吉は、それどころではない。心臓が頭の中で大きな音を響かせ、動揺を彼に悟られぬようにするのが精一杯だった。
 そんな風に見えるのか、あの傷は。綱吉が一心不乱に彼から逃れようと抵抗した結果が、思いも寄らぬところで大きな騒ぎを引き起こしている。
 午前中の雲雀の顔に傷はなく、放課後には既にあった。手当てする様子もなく、擦った血の跡もそのままにしていたから、本人もよっぽどショックだったのではなかろうか、と。
 山本の声がぐわん、ぐわんと反響している。声量が大きいので教室中に届く言葉に、クラスメイトも興味津々に耳を傾けているのが分かった。
「勇気ある人いるんだねー」
「ってか、雲雀の奴、何やったんだろうな」
「風紀委員長が風紀乱して、どうすんだよ」
 好き勝手、思いつくままに言葉を連ねる彼らは、綱吉と雲雀の間に起きた内容を知らない。知らないからこそ、無粋な邪推を続けられるのだ。
 もう止めて欲しい。叫び声を上げそうになった口を左手で塞ぎ、嗚咽を堪えた綱吉は、目尻がじんわり熱を帯びるのに怯え、慌しく椅子を蹴って立ち上がった。突如発生した騒音に、手振りを交えて討論していたクラスメイトが一斉に黙る。
 泣き出す寸前まで顔を歪め、怒りとも哀しみともつかない感情を懸命に押し殺している綱吉に、誰もことばが出ない。
「トイレ」
 もうじき授業が始まるというのに、彼はそれだけをぶっきらぼうに言い放つと、細い隙間を抜けて教室を出て行った。騒然とした級友が、綱吉の突然の変化の激しさに首を捻り、別の誰かは女性独自のあの日かと揶揄を込めて笑った。
 昨日の午後も突然授業をサボった綱吉は、これまでの経歴もあって、なにかとクラスの話題に上りやすい。ひょっとして雲雀を引っ掻いたのは案外あいつかもな、とそのものズバリを言い当てた生徒もいたが、冗談で口にしただけであり、誰もそれが真実だとは受け取らなかった。

 保健室のドアを開けた綱吉を見た瞬間、シャマルはとても嫌そうな顔をした。
「おいおい、うちはサボり魔の温床じゃねーんだぞ」
「目が痛い。喉も痛い。熱っぽい、風邪ひいた」
「……お前なあ」
 膨れ面で本当と嘘を織り交ぜつつ告げ、中に入って後ろ手にドアを閉める。レールの上を滑った扉は、立て付けが悪くなっているのか素直ではなかった。
 二度、壁に叩き込む形で音を響かせながら壁とドアをくっつけ合わせ、綱吉は憤然としたまま目尻に残っていた涙を拭った。横を見ると、既に諦め模様のシャマルが資料の山からプリントを挟んだボードを引っ張り出し、そこに綱吉のクラスと名前を書き込んでいた。
 保健室で休んでいた証明書となるそれを一枚外し、上下を入れ替えて差し出された。黙って受け取った彼は、すっかり見慣れてしまった文言に視線を走らせた後、四つに折り畳んでズボンのポケットに捻じ込んだ。
「また泣いてたのか」
「うるさい」
 真っ赤に腫れた目を指摘され、拗ねた声で返す。唇を尖らせた綱吉は、綺麗に整頓された奥のベッドコーナーに目を向け、カーテンが閉まっているのに小首を傾げた。
 先客がいるらしい。
「あー、静かにしとけよ。寝るなら使ってくれて構わんが」
 騒いだら追い出すと言外に告げられ、綱吉は緩慢に頷いた後、一瞬だけ迷ってシャマルの前にある椅子に腰を下ろした。
 とてもではないが、横になる気分ではなかった。風邪だと自分で言ったくせに、速攻で否定する行動に出た彼に肩を竦めて笑い、不良保険医は胸ポケットを探って煙草を取り出して一本を口に咥えた。
 流石に中学生には勧めず、蓋を閉めて同じ場所に戻す。ライターは机の上に放置されていて、資料の山に頭半分隠れていた。引っ張りだした途端、積まれていたプリントが雪崩を起こす。
「どわっ」
 予想してはいたが、本当にそうなるとは。目の前で展開された出来事の滑稽さに噴き、久しぶりに笑った綱吉は、ばつが悪そうにするシャマルを上目遣いに見詰め、ふっと息を吐いて表情を消した。
 昨日此処で散々泣いて、彼に車で送って貰って帰り着いた家でも泣いて、枕を濡らして、全部吐き出してやっと心の中が静かになったと思っていたのに。
 山本の言葉で引き起こされた細波は、大津波となって彼を飲み込んだ。押し流され、突き崩されて、跡形も残らない。砕け散った残骸を拾い集めることも出来ず、綱吉は波打ち際で呆然と立ち尽くすばかりだ。
 シャマルは何も言わない。火をつけた煙草を燻らせ、椅子を回転させて綱吉に背を向けると、仕事に戻るべく、手始めに崩してしまった書類の片づけを始めた。
 授業はとっくに始まっている。窓にはカーテンが引かれ、白い布越しの陽射しは弱かった。
「聞いていい?」
 程無くしてカリカリとボールペンを動かす音が聞こえ始め、無言に耐えられなくなった綱吉が椅子を掴んで身体を前後に揺らした。
「なんだー?」
「シャマルって、キスとか、したことある?」
 山本や獄寺に聞くのは憚られた質問を猫背に繰り出した途端、白衣の男の背中は騒音をまき散らして前に倒れ、握られていたボールペンの先が宙に浮いた。
 頭から机に突っ伏した彼がヒクヒクと痙攣している。何故そんな反応をされなければならないのかと、至って真剣に問うた綱吉は憤慨し、地団太を踏んで椅子を蹴り飛ばし立ち上がった。
「シャマル!」
「お前まで……って、おわー! どうしてくれんだ、これ作るの大変だったんだぞ」
 作成途中だった書類にはボールペンの線が一本縦長に走り、周囲には引きずられたと分かる皺が寄っていた。自分でしでかした事なのに綱吉に怒鳴り、シャマルは拳を震わせた後、自分は悪くないと睨み返して来る、琥珀色の目をした少年に肩を落とした。
 座るよう諭し、脂性の癖毛を掻き回す。フケが散って、綱吉は飛んできたそれを嫌そうに手で払い除けた。
 音を立てて倒れた椅子を起こし、表面を軽く払ってから座る。上履きの底を落ち着きなく床に押し当てて捏ねていると、煙草を灰皿の縁で叩いて灰を落としたシャマルが、探るような目で綱吉を覗きこんだ。
 顔が近付いて、臭い息が鼻に掛かった。
 渋い表情を作り、綱吉が背を仰け反らせて距離を取る。しかし彼はそれ以上近づいてこず、何がしたかったのか、スッと身を引いた。
「なに?」
「いや」
 今のはなんだったのだろう。不審がる綱吉に曖昧な返事で言葉を濁し、彼はまだ長さが残る煙草を潰して火を消した。ちらりと閉まっているカーテンに視線を流し、波の形を作っている布が少しだけ揺れているのを見て、喉の奥で笑った。
 くくく、と声を殺す彼に益々不愉快に顔を歪め、綱吉が真面目に答えろと話題を元に戻した。膝を叩かれ、シャマルは仕方が無いなと新しい煙草を取り出して指に挟み持ち、右を上にして脚を組んだ。何故か偉そうに踏ん反り返る。
「あるに決まってんだろ」
 年齢的なものを考えてみろと、無精髭が生える顎を撫でた彼に、本当かどうか疑わしいと綱吉はねめつけた。
 ビアンキを含め、大勢の女性にラブコールを送っている彼だが、報われているところを見た例は無い。誰彼構わず、女性と見れば声をかけずにいられない性質の彼に聞いたのが間違いだったかと、綱吉は今更ながら後悔し、苦々しい表情を作った。
「うそくさ」
「んだとこら!」
 ぽつりと本音が漏れて、聞き漏らさなかったシャマルは声を大きくした。
 さっき自分で、静かにしていろと言ったくせに。耳を両手で塞いで唾を避けた綱吉に睨まれ、彼はわざとらしい咳払いをした後、握った拳を解いて潰してしまった煙草をゴミ箱に棄てた。
「まー……いいが。んじゃなにか、テメーが昨日から散々泣き喚いてんのは、誰かにフラレたのか」
「ちっ」
 次の一本には手をつけず、汚れを白衣で擦って落とした彼の言葉に綱吉は反射的に叫んだ。しかし全部言い終えることは出来ず、途中で勢いは失速し、浮き上がった腰も間を置かず椅子に戻された。
 上下に身体を揺らした後、下を向く。
「ちがう」
 掠れた声は、殆ど音になっていなかった。
「俺が、いった。……嫌いって」
 椅子の天板ごと両手を握り締め、唇を噛み締める。
 振った、振られた、のどちらかで言うなら、綱吉が雲雀を振ったのだ。嫌いだと突っぱねて、彼を拒絶した。
 だのに気持ちは逆のベクトルに向いている。シャマルが指摘する通り、綱吉の連日の行動は、好意を寄せていた相手に思いを伝えた後、拒否された側のそれに等しい。
 記憶を振り返っているうちにまたじんわり涙が浮かんで、零れる前に袖で拭った綱吉は同時にしゃくりをあげ、鼻を鳴らした。
 鼻水が垂れそうになるのを我慢して、短く喘いで口呼吸を繰り返す。見ている方が痛々しい姿に眉目を顰め、シャマルは横に倒した太股に肘を置き、頬杖をついて背中を丸めた。
「嫌いって……お前のそれ、どう見てもそいつのこと好きだろ」
「そんなわけ、ない!」
 だって相手は、あの雲雀だ。並盛中学最強最悪の凶暴且つ超絶無慈悲にな風紀委員長にして、極悪非道、傍若無人の代名詞とも揶揄される、そんな人だ。
 綱吉は過去何度も彼に酷い目に遭わされている。恨みを抱きこそすれ、好意など。ましてや彼は、同性で。
 そんな事があって良いわけがない。
 いきなり音量を上げて叫んだ綱吉に、シャマルは不満げな表情を作った。あからさまに動揺しており、態度から肯定しているとしか見えない。しかしここでそれを指摘しても綱吉は聞き入れないだろうし、それでは話が先に進まない。彼の気が済まないと仕事にも戻れそうになくて、仕方無しにシャマルは自分の意見は横に置き、先を続けるよう掌を向けて促した。
 もっとも綱吉本人は、自分の感情を整理して他人に語れるところまで至っておらず、鼻をぐじぐじ啜るばかり。
 深く長い溜息を零し、姿勢を正したシャマルは椅子を鳴らした。
「んじゃお前は、嫌いな奴にキスされて、んで泣いてんのか」
「…………」
 現状を端的に言い表したシャマルの言葉に、綱吉は頷けなかった。
 その通りなのに、首肯できない。
 雲雀が怖かった。自分を好き勝手振り回して、混乱させた彼が嫌い。だけれど、泣いているのは彼とキスを交わしたからではない。
 理由はもっと、違うところにある。
「シャマルは、好きじゃない相手ともしたことあるの」
「あるぜー」
「どんな時?」
「情報を聞きだす為とか、ターゲットに接近する手段としてだな」
 今はこうして中学校の保険医に落ち着いているが、シャマルは元々裏社会で名の知れた暗殺者だ。長く忘れていた事実をこんなところで思い出させられて、綱吉は素直に感嘆すると同時に、自分の欲しかった答が得られなかったことに脱力した。
 行為自体にさしたる意味はなく、ただ有効な手段として利用していた、それがシャマルの返答の中身。感情を挟まない、打算的な行動の帰結だ。
「不満そうだな」
 真面目に答えてやったのに、綱吉の反応は芳しく無い。もっとも彼は最初から分かっていたようで、綱吉の鼻の頭を弾いて顔を上げさせると、沈黙しているベッドの方を振り返った後、三本目の煙草に火をつけた。
 赤い炎が宿って消えて、白い煙が立ち上る。匂いが好きではなくて、綱吉は顔を顰めて椅子ごと十センチほど後ろに下がった。
 静寂が舞い降りて、居心地の悪さに身じろぐ。視線を左右に絶えず動かし、そういえばこの会話はベッドで眠っている人に丸聞こえなのだろうかと気になって、誰がいるのか解らないかと首を伸ばした。
 だが照明の関係上影は映らなくて、もし映ったとしても、横たわるシルエットだけで何百人もいる並盛中学の生徒からひとりを選出するのは、不可能だ。
 さっきからカーテンが少しも揺れないので、深い夢の中に居てくれていると願い、彼はシャマルに向き直った。
 腕を下に向けたまま肩を回し、深呼吸を二度繰り返す。
「なんで、俺だったんだろ」
「ん?」
「そりゃ、最初は俺からだったかもしれないけど。でも、あれは偶然で、……事故だし」
 雷に驚いて飛びついて、勢い余って押し倒して。
 一瞬だけ掠めて触れた唇。
 確かめたかったと雲雀は言った。それは、暗闇の中で重なったものが綱吉の唇だったかどうかの、確認としての意味だったのか。
 でも、ならばトイレでの二度目でことは済んだ筈で。三度目、昨日のあれは、明らかに余計だった。
 唇を撫で、指の背を押し当てて綱吉は半眼した。
 難しい顔をしてぐるぐる悩みだした彼に苦笑し、紫煙を吐き出したシャマルは天井を仰いだ。
 なにせ綱吉は、人生経験が浅い。まだ中学生というのも無論あるが、友人らしい友人に恵まれる事無く、幼少期の多くをひとりで過ごして来た苛められっこは、己に対する敵意や悪意には敏感ながら、その逆にはとことん鈍感だ。
 自分に向けられる強い感情は、どれもが自分に害成すものと認識している傾向も見受けられる。獄寺の行き過ぎた好意を迷惑がるのも、根っこはそこにあるとシャマルは感じていた。
 傷つきたくないから、気付かない振りをする。だけれど今回のその相手は、綱吉がこれまで培ってきた防御壁を突き崩し、彼のテリトリーに踏み込んで内側から掻き回した。
 外からの衝撃には強くても、中からのダメージには脆い。人間の心とは大概そういうものだと達観したシャマルは、吐いた煙でリングを作り、綱吉を驚かせた。
「ボンゴレ」
「なに」
「ん」
 段々短くなる煙草を灰皿に委ね、シャマルは綱吉を指で招いた。疑いもせずに身を前に倒した綱吉に、彼もまた顔を近づけ、熱でも測ろうとしてか額を押し当ててきた。
 髪の毛が挟まったので、直接皮膚が擦れあったという感触は薄い。果たして何の意味があろうかと怪訝な目で見詰め返すと、彼はくしゃりと綱吉の頭を掻き回し、そして叩いた。
「いった」
「お前さ、ちったぁ疑うとかなにかしろよ」
「はぁ?」
 ごちん、といい音がして首を引っ込めた綱吉は、両手を殴られた場所に押し当てて素っ頓狂な声を発した。
 何故シャマルが怒っているのか解らない。不満顔でねめつけたら、盛大な溜息を吐いて肩を落とした彼が、波立ったカーテンを気にした後、綱吉に手を伸ばした。
 曲げた中指の背をちょん、と唇に押し当てられる。一瞬で遠ざかった自分の生み出すものとは異なる感触に、二秒後綱吉は意味を理解して顔をボッと赤く染めた。
 今し方綱吉と綱吉の間にあったのは、キスの距離だ。
「なっ、ばっ、な!」
「おっせー……」
 言われてやっと気がつく愚鈍さにシャマルは呆れ果て、癖のある黒髪を掻き毟った。
 これでは相手も梃子摺るはずで、綱吉が言うキスの相手に少なからず同情した彼は、椅子の背凭れに体重を預けて両足を前に投げ出した。靴の先が綱吉の上履きに当たって、蹴られた分を彼が引っ込める。
 口を両手で隠し、守りに入った綱吉が丸い琥珀でじろりとシャマルを睨んだ。だが若干潤んでいるため迫力に欠け、気迫は微塵も感じない。
 へっ、と笑い飛ばした彼に怒り狂い、綱吉は手の甲で唇を何度も拭った。力を入れて手首を往復させ、シャマルが若干傷ついた顔をしたところで満足して肘を下ろす。
 ひりひりとした痛みに、綱吉は苦いものを感じて唾を飲んだ。
 シャマルとはあんなに顔を近づけても、キスをされるとかは考えなかった。真正面から目を見詰め返し、何をするのだろうとじっと観察し続けた。
 雲雀のときはどうだったろう。顔が近付いてきて、驚いて目を閉じ損ねて、その後は。
「確かめるって……どういう意味だろ」
 長い睫毛、秘された瞳。ゆっくりと綱吉の唇の形をなぞる格好でくちづけられた、二度目。
 反して、一瞬だった三度目。
 小さく痛む唇を爪で掻き、彼は自問した。音を拾ったシャマルが、問われていないと知りつつ腕を組んで一緒に考え込む。
 嵐の日、停電の中で触れたものが唇かどうかを確かめたければ、三度目は必要ない。キスがしたいだけなら、相手が綱吉でなくても構わないはずだ。
「そう言われたのか」
「うん」
 確認されて、頷き返す。視線は下を向いて、綱吉は自分の膝から下ばかりを視界に広げた。
 割り込んできたシャマルの足が、床を叩く。
「……よく分からんが」
 いまいち要領を得ない彼の説明に、シャマルは困った様子で髭が伸びる顎を掻いた。真っ白い天井の端から端まで視線を流し、床に落として綱吉の落ち着かない手を見詰める。
 広げては握り、重ね、指を絡め、裏返し、表に向け直す。一秒としてじっとしておらず、それはそのまま彼の精神状態を如実に表していた。
「確かめたいって事は、つまりは知りたい事があったんじゃねーのか?」
「なにを」
「俺に聞くなよ」
 現場に居合わせてもないシャマルが、分かるわけがないと肩を竦めて腕を横に広げた。第一綱吉は、相手が誰であるのかを彼に伝えていない。判断材料に乏しい中で、思いつくままに言葉を発した彼を責める権利は、綱吉には無かった。
 彼は両手を背中側に回してまた椅子を握り、背中を斜めに倒して両足を浮かせた。
 交互にぶらぶらと揺らし、最後に右足を蹴り上げて床を叩く。上を向いた顔は思案気味に顰められ、やがて諦めに近い表情で姿勢を戻すと同時に伏せられた。
「……さっぱりわかんない」
「お前はどうなんだ」
「なにが」
「嫌だったのか」
「どう、だろ。いやっていうか、……びっくりした」
 思い返してみれば、雲雀には驚かされてばかりだ。くちづけはどれも唐突で、嫌悪感云々を考える暇さえなかった気がする。
 左手の人差し指で唇を撫で、少しだけ冷静に思い返せるようになった記憶を辿って彼は小首を傾げた。シャマルに言われて気がついたのだが、そう、奇妙なことに綱吉は雲雀とのキスを別段、嫌だとは思わなかった。
 相手がよりによってあの雲雀だったことに戸惑って、男同士で気持ちが悪いとか、そういうところに考えが行かなかった。
 先ほどシャマルが顔を覗き込んできた時も、普通、キスされるとか考えない。しかし今の綱吉は、雲雀が接近してきたら、真っ先にそれを警戒する。周囲の目など気にせずに彼が突発的に行動する懸念があるので、接触を回避しようと無駄に足掻きもした。
 その理屈の底辺にあるのは、雲雀とのくちづけが嫌だからではない。
 雲雀を前にして、動揺し、狼狽し、自分が自分でなくなる錯覚に陥るのが怖かったからだ。
 胸が痛くなる。心臓が張り裂けそうで、呼吸が苦しくて、勝手に顔が赤くなり、彼を直視できない。耳鳴りがして、眩暈がして、倒れてしまいそうで、壊れてしまいそうで、冷静でいられなくて、金縛りにあったように動けなくて。
 だから綱吉は、自分をそんな風に変えてしまう雲雀を、暴力的な意味合い以外で、とても恐ろしいと感じていた。
「…………」
 それは本気で、完全にアレではないのかと、聞かされたシャマルは半ば呆れていたが、自覚するに至らない綱吉は真剣に考え込み、思い出してか鳥肌を立てて全身を竦ませた。両肩を抱き締めて椅子の上で小さくなり、踵を椅子に持ち上げて三角座りを作り出す。
 寄せた膝に顔を埋め、
「もうぐちゃぐちゃだよ」
 心底辛そうに言った。
 表情は見えないが、苦々しい気持ちは充分に伝わってシャマルは失笑した。若さというものを目の当たりにさせられて、自分も歳を取ったものだと照れ臭そうに綱吉を眺める。
 自分の気持ちを持て余して、所在無げに漂わせている。名前を知らない新しい感情を、そうだと教えてやるのは簡単だが、今の彼が認めるとはとても思えなかった。
 せいぜい変な方向に行かないよう、傍観しつつ見守ってやるくらいしか出来ない。
 いや、既に話は妙な方向に進みだしているのだが。
「そんで、お前さんは、これからどうしたい」
 混乱の極みに至った頭を抱えて、この先も過ごすか。綱吉の言葉から相手は学内の人間だと楽に想像できて、そうなればニアミスは今後も多いだろう。接触を完全に回避するのは難しい。
 いつまでも逃げ回っているようでは解決にならないし、本人も辛いだけだ。左肘を机に置き、右手で綱吉を指差したシャマルの言葉に、彼は顔を上げた後痛々しい表情で唇を噛んだ。
「わかんない」
「お前なあ」
「だって! だって、……わかんないよ」
 今だって充分苦しいのに、会えばもっと苦しくなる。嫌いだと、そうはっきりと言ったのは自分なのに、まだ忘れられないし、思い出して鼓動は強まり、顔は勝手に赤くなる。
 嫌いだ。沢山泣かされて、振り回されて、無茶苦茶にされた。だから嫌いの筈なのだ。
 答えが明確にならない。心のどこかで知らない自分が「本当に?」と聞き返し、問い詰めるのを止めてくれない。
 考えたくない。雲雀のことなんか金輪際、思い出したくも無いのに。
 心は簡単に頭を裏切り、彼の姿を脳裏に描き出す。忘れようとすればするほど、頻度は酷くなり、映像は鮮明になった。
 キスをする直前の、閉ざされた瞼。長い睫、きめ細かい肌。熱い吐息、冷たいと思っていた手も存外に熱を帯びて、聞こえた鼓動は少しだけ早かった。
 全身鋼鉄の塊のようなくせに、彼にも柔らかい部分があるのだなと、そんな事を考えて綱吉はまた無意識に自分の唇を弄っていた。
 これからどうするのか。どうしたいのか。
 雲雀に直接謝罪を求めるか。けれど今更謝られても、虚しいだけだ。彼に奪われたファーストキスも、その次も、時間だってもう戻ってこない。綱吉が雲雀を目にするたびに覚える動悸を、消す方法があるのならどうぞ教えて欲しかった。
 ぽっかり空いた胸の穴は、埋め戻すどころか益々広がってしまった。
 遠く、まるで別世界の出来事のように、一時間目終了のチャイムが鳴り響く。もうそんなに時間が過ぎてしまったのかと驚き、彼は顔を上げて時計を探し、シャマルも腕時計を確認して頷いた。
「次もゆっくりしていくか」
 コーヒーくらいなら出してやるぞといわれたが、綱吉は首を振った。椅子を引いて立ち上がり、皺だらけになった保健室利用証明書をポケットの上から確かめる。
「戻る。……授業聞いてる方が落ち着く」
 他の事を考えているうちは、まだ雲雀の事を思い浮かべずに済む。言外にそう告げた綱吉は椅子を脇へ寄せ、疲れた笑顔を浮かべて頭を下げた。
「泣きたくなったらまた来いや」
「遠慮しとく。シャマル、タバコ臭いんだもん」
 皮肉を返す程度の余裕も戻って来て、務めて明るい声で返した綱吉に彼は手を振った。ドアを開け、きちんと閉めて立ち去った背中にふっと力を抜いて溜息を零し、椅子を喧しく軋ませてベッドが並ぶ区画に目を向ける。
 同時にカーテンが向こう側から開かれて、雲雀が気まずげな表情をして現れた。
「だとよ」
「なにがいいたいの」
「お前さんのそれ、あいつだろ?」
 自分の左頬を指差したシャマルの問いに、雲雀は答えない。けれど無言を肯定の意味で捉えた彼は、したり顔で小さく笑った後、面倒くさそうに頭を掻いて身体を前後に揺らした。
 足を組み、爪先を壁に向けて頬杖を作って背中を丸める。視線は新規の来訪者が来る気配の無い出入り口に向かった。
「で、お前さんはあいつを、どうしたいんだ」
「知らない」
「おいおい」
 お前までそんな事を言うのかと、無責任も甚だしい雲雀を咎め、彼は身を起こした。膝を叩き、カーテンの端を指で弄って遊んでいる黒髪の青年に目を眇める。
 下ばかり向く彼というのは、珍しい気がした。
 雲雀恭弥という人物をシャマルは詳しくは知らないが、真っ直ぐ前を睨む様に見据えている印象があった。不良グループの頂点に立ち、他を寄せ付けない圧倒的な強さを誇り、それを自認している。強者が持つ独特の空気を纏っていた彼と、この場に居る彼とが同一人物だと言われても、ピンと来ない。
 今の彼は何かに苛立ち、怯えている風だった。
 頬杖を作り直し、ひと通りの観察を終えたシャマルは、面倒臭いことになっているな、という感想を新たにした。
「知らないよ。どうやってもあの子は、僕を見ないんだから」
 瘡蓋になった左頬の傷を指でなぞり、まだ残る痛みに顔を顰めて呟く声が聞こえる。
 綱吉が訪ねてくるよりも十分と少し前に、彼は保健室のドアを開けた。珍しい奴が来たと、雷でも落ちるのではないかと危惧したシャマルだったが、発せられた質問にその懸念を否定した。
 雷どころではない。台風がいきなり日本列島頭上に現れるかもしれないと、本気で思った。
 キスしたら泣いて暴れられた、これはどういう事か、と。
 おおよそ他人に興味なさそうな人間が言い放った台詞に、顎が外れんばかりになったシャマルは、トンファーをちらつかせて怒りの形相を作った彼に慌てて「それは嫌われているんじゃないのか」と言い返した。
 そんな事を言えば余計に彼を怒らせるだけだと、後から気がついたわけだが、予想に反して雲雀は武器を引き、ショックを受けて呆然とした顔で立ち尽くした。
 彼は、やっぱり、と、そんな言葉を呟いた気がする。それがどういう意味なのかはこの時まだ分からなかったが、綱吉が来て話を聞くにつれて、段々と分かってきて、笑いを堪えるのに必死だった。
 立ち去るかと思いきや雲雀は、気分が悪いと言ってシャマルが迷惑がるのも構わずベッドに潜り込み、カーテンを閉めた。今そのベッドには、彼が使った布団が一箇所で丸められ、塊になっている。
「テメーは、あいつを振り向かせたくてやったのか」
「ちがう」
「んじゃ、なに」
「知らない」
 さっきからそればかりだ。的を得ない雲雀の返事に自分まで苛々してきて、シャマルは舌打ちして吸っている途中で放置していた煙草を思い出し、灰ばかりになったそれに肩を落とした。
 新たな一本を出そうとして、綱吉にタバコ臭いと言われたのを思い出す。白衣を引っ張って鼻に寄せ、臭いを嗅いでみたが自分では分からなかった。
「おい、俺って煙草……」
「触ったら、分かるかと思ったけど」
 返事を期待せずに雲雀に訊こうとしたら、途中から雲雀が声を割り込ませてきた。抓んだ部分が外に尖った袖をそのままに、遠くを眺めている雲雀を斜め下から仰ぎ見る。
「余計に、分からなくなった」
 触れてみたかった。
 触れて確かめてみたかった。
 あの日から頭の中に住み着いた小さな存在が、いったい何を表しているのか。それまで眼中になかった貧弱な存在が、今では心の中にどっかりと居座って、動かない。追い出そうとしてもびくともせずに、時間を置くに連れて段々と大きくなっていく。
 腹立たしいこの気持ちは、何故か本人を前にすると、膨らみつつも、凪いでいく。だのに彼は怯えた顔しかせず、怖がって逃げ出す始末。そうなると前以上に苛々が募って、納まらない。
 どうすればこの不可解で理不尽で、意味不明な感情を打ち消せるのか。正体が解らないままでは手の施しようが無いと考えて、故に探ろうとした。こんな風になってしまうきっかけとなった出来事を繰り返せば、少しは分かるかと思ったのに。
「分かったのは、あの子が僕を嫌いって事だけだね」
 ぼそりと言い、雲雀は手応えの無いカーテンを殴って足を踏み出した。
 その頼りない背中を、シャマルが呼び止める。
「良い事教えてやろうか」
「なに」
「お前さんが恐い顔して追いかけるから、逃げるんだろ、あいつは」
 綱吉は真正面から向かってこられると、反射的に避けてしまう性質がある。根っからの負け犬根性が染み付いており、自分が傷つくのを恐れるあまりに、他人に深く介入されるのを嫌がるのだ。
 にやりと不遜に笑ったシャマルに、何を言いたいのかと雲雀は口を曲げた。拗ねた表情をする彼をまた笑って、だから、とシャマルは火のつかない煙草を顔の前で揺らした。
「押してだめなら、引いてみな」
「なに、それ」
「休憩時間終わるぞ、さっさと戻れ……って、お前は授業受けてねーんだったな」
 後は自分で考えろと、投げやり気味に犬を追い払う仕草で手を振った彼に、雲雀は釈然としないものの、居座り続ける理由もないので素直に従った。ドアはそのままに、廊下に出る。
 ひんやりとした風が頬を撫でた。
 後ろで、開けたら閉めろという声が聞こえたが無視して、彼はどこか虚ろな面持ちで左に曲がった。正面玄関に続く道程を進み、休憩時間終了間際で賑わう頭上に目を向ける。
 階段の手摺りに寄りかかるようにして一歩を踏み出し、時間をかけて昇っていく。上下運動を繰り返す視界は途中平らな踊り場で埋められ、方向転換しようと彼は久方ぶりに顔を上げた。
 黒髪の隙間から覗く景色、そこに立つふたりの人物。片方――上の段にいる少女がまず先に彼に気付いて、「あ」という小さな声をあげた。
 会話が中断し、何かあると察した少年も、遅れて振り向こうと肩を後ろへ引いた。明るい蜂蜜色の髪が踊り、薄らと紅に色付いた頬が雲雀の眼前に現れる。
 と同時にそれまで少年にあった笑顔が凍りつき、薄れ、消えていくのが手に取るように分かった。一瞬の変化を瞬きもせず見送った彼は、息を呑み、激しく脈打った心臓が砕け散る感覚に震え、慄然とした。
 全身を巡る血液が沸騰し、頭の中で何かが金切り声で喚き散らしている。不快で、聞き苦しいその声が、他ならぬ自分自身のものだとも気付けず、雲雀は表情を引き攣らせ、過大に怯えを含んでふらついた綱吉から目を逸らした。
 そんな顔をする彼を見たくなかった。
 何百キロもの重りがつけた足を持ち上げ、階段を登る。一歩、また一歩。左右の足を交互に前に運び、雲雀は表面上涼しい――鉄面皮とも揶揄される顔を維持したまま、綱吉の右を通り抜けた。
 横に視線を流しもしない。前だけを見て、振り返らない。
 すれ違う瞬間、肩がぶつかり合いそうな近さで綱吉がビクリと警戒心を露に震えた。が、それだけだった。
 綱吉は雲雀が嫌いで、顔も見たくないらしい。ならば声も聞きたくなかろう。
 自嘲気味の笑みを浮かべ、彼は応接室へ向かった。引きずるような足取りで、チャイムに急きたてられる生徒の声で騒がしい教室棟から離れる。
 あの子に引っかかれた傷がズキンと痛み、彼は苦々しい気持ちで唇を噛み締めた。

2008/11/08 脱稿