莞爾

 じりじりと肌を焼く熱は地表を覆うアスファルトに吸収され、上下を挟まれた人間はさながら蒸し焼き一歩手前という状態だった。
 日向に立っているだけで汗が滲み、身体中の水分が蒸発して、干物にされている気分になる。それは一緒に歩いている幼子も同じらしく、しかも背が低い分アスファルトにも近いので、余計に強く感じるのだろう。
「ツナ、暑いー。アイス、アイス食べたい~」
 長い坂道を登り終えた直後から、それまで歩くのに必死だったランボが急に駄々を捏ね始めた。じたばたと両手両足を振り回し、綱吉の脛近辺をポカスカと殴って喧しく騒ぎ立てる。
 通り過ぎる人に笑われて、綱吉は毎度のことながら懲りない弟分に盛大な溜息を零した。
「駄目だよ、ランボ。今日はお遣いだけなんだから」
 奈々に頼まれた用事に、無理矢理ついてきたのはランボの方だ。訪ねた先で麦茶の一杯は出して貰えたが、それだって彼が人様の玄関先で暑い、疲れたとしつこく口にした為に向こうが苦笑しつつコップに注いでくれたのであって、本当は渡す物を渡したら、綱吉はさっさと帰るつもりだったのだ。
 可愛らしい弟さんね、と笑って許して貰えたが、顔から火が噴き出るかというくらい恥かしかった。それを、この子少しもは悪びれもせず当然と受け止めていたので、席を辞した後に一発殴っておいたのだが、その事はもうすっかり忘れ去られているらしい。
 元々の用事が荷物を届けるだけだったので、財布など持って来ていない。所持金はゼロ、無銭飲食など言語道断。
 いい加減遠慮というものを覚えろと顰め面で睨みつけるが、ランボはもう動けない、歩けないとついには熱せられた道路に転がった。こうなると梃子でも動かないと分かっているだけに、綱吉は途方に暮れて左手で痛むこめかみを慰めた。
「置いてくぞー」
「あれ、十代目じゃないですか」
 言っても聞かないのなら強攻策に訴えるしかない。冷たい声で言い、爪先を方向転換させて家への道を進もうとした矢先、綱吉の右斜め後方からよく知る声が飛んで彼は思わずつんのめった。
 足は地面に張り付いたまま、身体だけが前に倒れそうになって慌てて両手で空を掻き、崩れかけたバランスを取り戻す。ひとりでおっとっと、と間抜けな動きをしている綱吉を見て、小走りに駆け寄って来た獄寺が不思議そうな顔をした。
 ランボは依然地面に転がってじたばた暴れまわっており、歩調を緩めた獄寺は、彼を蹴り飛ばす寸前で完全に足を止めた。
「十代目?」
 地上で泳ぐような動きをしていた綱吉が、漸く重心を真っ直ぐに戻してホッと胸を撫で下ろす。怪訝な獄寺の声に呼ばれて振り向くと、彼は芋虫みたいになっているランボを足の先で小突きながら首を傾げていた。
 買い物帰りなのか、布製の鞄を肩から提げ、楕円に広がった口からは長葱の先端が覗いている。
「え、あ、っと。こ……んにち、は?」
 妙なタイミングで会ったもので、どう返事をすれば良いのか迷ってしまう。土曜日の午後という時間帯故に、おはようでは変だし、久しぶり、もまたおかしい。
 結局疑問符つきで妥当な選択をしてみたところ、獄寺は綱吉の一瞬の逡巡には気付かなかったようで、元気良く背筋を伸ばし、「ちわっ!」と威勢良く挨拶を返してくれた。
 上機嫌に笑っている彼に、思わず苦笑が漏れる。
「で、このアホ牛はどうしたんですか」
 まだ転がったままだが、最初の頃よりは幾分大人しくなったランボの脇腹を再度靴で蹴り、嫌がった彼が起き上がるのを待って獄寺が聞く。ランボに視線を向ける時だけは険があって、分かり易い彼の区別に綱吉は肩を竦めた。
 実は、と事情を掻い摘んで説明して、最後に頭を掻く。薄茶の髪は長時間日光を浴び続けた所為で温み、頭皮は熱を持っていた。
 状況の理解が済んだ獄寺の顔もまた、怒り心頭で真っ赤に染まり、口笛を吹いて自分は悪くないと嘯いているランボに拳が向けられる。
「十代目に迷惑をかけるたぁ、なんてふてえ奴だ!」
 ゴンッ、と勢い任せにもじゃもじゃ頭に拳骨を叩き込んだ彼に、綱吉が驚いて目を丸くする。手痛い一撃に、途端大粒の涙を浮かべた幼子は、またしてもぎゃあぎゃあ泣き喚いて綱吉のズボンの裾にしがみついた。
 これでは益々この場から動けない。獄寺も直後にしまった、という顔をして周囲の注目を集めた状況に右往左往した。
 ふたりして狼狽し、綱吉がランボを抱きかかえて頭を胸に押し込めて駆け出す。ワンテンポ遅れて獄寺が続いて、ふたりは猛ダッシュでその場を逃げ出した。
 そうして辿り着いた公園のベンチ、綱吉と並んで座るランボの手には封を破った葡萄味のアイスキャンディーが握られていた。
「あー、ん」
 機嫌よくかぶりつき、甘さと冷たさに満面の笑みを浮かべた彼に苦笑いを浮かべ、綱吉はランボを挟んで反対側にいる獄寺にごめんね、と小声で謝罪した。
 綱吉の手にもまた、ソーダ味のアイスが握られている。これらは公園脇のコンビニエンスストアで、どうやっても泣き止まないランボに苦慮した綱吉の為に、獄寺が買ってきてくれたものだった。
「いえ、良いんです」
 綱吉の為ならたとえ火の中、水の中。胸を張って言い切った彼は本当でやってのけそうで、綱吉は若干引き気味の笑みを返してから、自分もまた冷たいアイスに齧りついた。
 鼻歌交じりにおいしそうに食べるランボの頭を撫で、
「ほら、ランボ。食べてばっかりいないで、ちゃんと獄寺君にもお礼いいなって」
 お金を出してくれたのも、買ってきてくれたのも彼だ。偶々通り掛かっただけなのにとんだ迷惑をかけてしまって、申し訳なさに綱吉はランボの首を無理矢理捻り、彼に向けさせた。
 しかし生意気な五歳児は、先ほど思い切り殴られたのを覚えているのか、つーんと鼻を立ててそっぽを向いた。綱吉がどんなにか言い聞かせても、全く応じようとしない。
 これには獄寺も怒り心頭で、綱吉の手を離れたランボのこめかみに拳を押し当て、ぐりぐりと捻り始める。痛がるランボはそれでもお礼を言おうとせず、意地の張り合いになっているふたりに脱力し、綱吉は溶けかけているアイスの表面に急ぎ舌を這わせた。
「テメエ、だったらそのアイス返しやがれ!」
「やーだもんね。これは、ランボさんのものなんだもんね!」
「ああ、この野郎、全部食いやがった!」
 まだ塊が大きく残っていたのに、棒ごと口に咥えて噛み砕いたランボに獄寺が裏返った悲鳴を上げる。そんな彼らのやり取りに目を細めた綱吉は、ある事に気付いて目を瞬かせた。
 この場には三人いるのに、アイスはふたつしかない。
 ひとつはランボに、もうひとつは綱吉に。
 支払いは獄寺もちなのに、肝心の彼の手には何も無い。
「獄寺君、俺の、食べなよ」
 角に歯型がついているが、それで構わないのなら。彼だけが食いっぱぐれるのは奢ってもらった手前、申し訳なさ過ぎる。
 綱吉はランボの手が届かないよう高い位置でアイスを持ち、銀髪の彼へ薄水色のそれを差し出した。
「ですが」
「いいって。俺の食べさしで悪いんだけど」
「そんな、滅相も無い!」
 十代目が口にしたものなら、どんな不味いものだって美味に変わります、とこれまた正気かと疑いたくなる事を大声で言い放った彼にドン引きし、綱吉は頬を引き攣らせた。
 ただ彼の実直な気持ちは伝わってきて、照れ臭く、くすぐったく感じて綱吉はすぐに相好を崩した。
「じゃあ」
 ならば早く受け取ってくれないか、と再度腕を伸ばす。だが、
「いいえ。お気持ちだけで結構です。それは俺が、十代目に捧げたものですから」
 大袈裟な口ぶりで真剣な顔をして言い、彼は両手を胸の前に突き出して綱吉を押し返す仕草をした。
 これには綱吉も目を丸くし、どんどん熱を吸収して柔らかくなっていくアイスに困った視線を向ける。
 一応綱吉にだって意地というものはあって、彼だけが仲間外れになるのは許せない。折角なのだからともう一度食べるよう促すが、獄寺の意思は固く、首を縦に振ろうとしなかった。ランボは上を向いて、だったら自分が食べると両手を伸ばして背伸びをし、また獄寺に殴られて涙を滲ませた。
「ああ、もう」
 意固地になっている獄寺は腹立たしいし、ぐじぐじ鼻を鳴らして泣くランボも鬱陶しい。暑苦しい環境にも辟易して、綱吉は苛立ちを募らせてベンチの上で膝を立てた。
 どうやっても獄寺にアイスを食べさせてやるぞ、と意気込み、無理矢理咥えさせてやろうと綱吉は彼の口目掛けて握った棒を突っ込ませた。
 が、獄寺は難なく右に避けて綱吉の渾身の一撃を躱す。
「ランボさんが食べるの!」
 そこへ、癇癪を爆発させたランボがベンチの上で勢い良く飛び上がり、彼の頭が綱吉の肘に激突。
「あっ」
「ああ!」
 綱吉と獄寺が、ふたり揃って同時に悲鳴をあげた。
 握りが甘くなった綱吉の手から、アイスの棒がするりと零れ落ちる。重力に引かれたそれは、空中で二度ほど横回転して砂で覆われた地面に着地した。
 同時に、べちゃりと溶けて形を崩した。
「あ~……ランボさん、知らないもんね」
 一緒になって下を向いたランボが、自分の所為ではないとそっぽを向いてまたもや鼻歌を奏で出す。綱吉は呆然としながら視線を下から上に持ち上げ、同じコースを辿った獄寺と目を合わせて暫く沈黙した。
 やがて、堪えきれずにぷっ、と噴出す。
 笑い事ではないのだが、可笑しくて仕方が無い。
「十代目?」
「ごめっ、でもなんか、ごめん。ツボに入った」
 何が可笑しいのか解らない獄寺に怪訝な声で呼ばれるが、自分でもどこが面白いのかさっぱりなのだ。ただ止まらなくて、ひーひー言いながら眼に涙を浮かべているうちに、獄寺も肩の力を抜き、はにかんだ笑みを浮かべた。
 勿体無かったな、と足元で早速蟻にたかられているアイスを見詰めて立ち上がる。
「ソーダ味でいいっすか」
「ん?」
「買って来ます。言っとくが、馬鹿牛にはもうねーからな」
「えー、やだやだ、ランボさん食べる~」
 獄寺に次いでぴょん、とベンチから降りたランボが地団太を踏み、やっと笑いが収まった綱吉が涙を拭って彼を見上げる。
 ごめんね、と有難う、の両方を込めて笑いかけ、彼は獄寺に向かい、右手の指を何本か折り曲げた。
「うん。全部で三本、ね」

2008/08/03 脱稿