恋花・双葉

 俯いて伏された顔に反し、露わになった首筋は薄らと汗ばんで、赤く染まっていた。
 蜂蜜色をした髪から覗く耳朶もまた、湯気を立てんばかりに熱を帯びているのが分かる。握られたスティック状のリップクリームはまだ新品で、押し出された先端は彼の目の前でゆっくりと、桜色の唇に添えられた。
 左から右に引き、また左に戻る。続けて上に移動し、同じ動きを。
 塗り終えたと同時にスティックを引いて、鏡に顔を近づける。元から大きな瞳をもっと広げて、具合を確かめつつ唇を捏ねるのは、塗りつけたものを馴染ませたいからだろう。
 一連の仕草には不器用さ、もとい不慣れさが窺えた。さっきから洗面台の前で百面相を繰り広げていたのも、すべてはそこに原因があると思って間違い無さそうだ。
 乾燥した唇を潤すためだけに、なんと手間のかかる子だろう。
 呆れてものが言えない。だのに、柔らかな唇に触れたリップクリームから目が逸らせない。
 矛盾した思いを抱え、雲雀は彼が視線に気付いて顔を上げるのにあわせ、気まずげに首を回した。
 洗った手を拭ったハンカチの、濡れた面を内側に入れ替えて畳み直す。それを更に半分に折って縦長の長方形に作り変え、真ん中を握ってスラックスのポケットへと捻じ込んだ。しかし先端が布の重ね目に引っかかり、一度では巧く行かなかった。
 腹立たしさに舌打ちする。瞬間生じた、引き裂かれるような痛みにより顔を顰め、雲雀は左手を持ち上げた。
「あ」
 掠れる声が聞こえ、瞳だけをそちらへ流す。指先が触れた下唇はカサカサに乾き、表面を覆う薄い皮膜が罅割れて毛羽立っていた。
 下手に触ると悪化すると分かっていながら、つい指を置いてしまう。三日前からずっと、こうだ。正確には二日と半日前から、だが。
 最近ぼんやりしていると副委員長にまで指摘される始末で、実際仕事にも少々支障が出始めている。報告を受けている最中も上の空で、意見を求められてから我に返り、再度最初からやらせるなどという真似もしでかしており、熱でもあるのかと余計な心配をされてしまった。
 熱があるのは僕ではないと、咄嗟にそう言い掛けたのを思い出す。あの時に脳裏に浮かんだ姿は、今此処に居る人物と完全に一致している。しかし自分たちの間にある関係性は酷く曖昧で、細い。日頃の話題にまず上ることもない脆弱な相手の名前を出した途端、何かあったのかと要らぬ詮索を受けるのは確実だった。
 だから言わない、言えるわけが無い。
 元から興味をそそられる相手ではあったが、それは不可思議な炎を額に宿し、下着一枚で暴れまわっている時の彼だけだ。日常で見かける、弱い連中同士で群れを成してへらへら笑っている彼は、その他大勢と同じ。相手をする価値さえ無い。
 そう思っていたのに。
「なに」
 不機嫌な声を返し、凄んだ目を向ける。瞬間彼は怯えた顔をして、乗り出しかけた身体を引っ込めた。
 左手を下ろし、唇を舐める。痛みを感じるのは乾いているからで、ならば唾液で湿らせれば万事解決ではないか。しかしなにかが足りない気がして、雲雀は不満顔を目の前の存在に向け続けた。
 睨まれてすっかり萎縮した彼は、居心地悪げに肩を窄め、立ったまま身を小さくした。下を向き、跳ね上がった前髪の隙間からちらちらと人の顔色を窺ってくる。
 その落ち着かない態度が気に入らなくて、雲雀はギリッ、と奥歯を噛んだ。
「あ、えと。……使います?」
 控えめに、恐々といった風情が滲み出た調子で言われる。同時に差し出されたリップスティックは、優しい色使いで描かれた女性向けの図柄が表面を覆っていた。
 彼の趣味かと疑うが、奥手で臆病なこの子は、こういうものを買うのさえ勇気が足りないで躊躇するタイプだ。下唇に出来た赤い傷は目立つので、見かねた誰かから与えられたのだろう。
 訝しむ目を向け、その真意を探る。必然的に眼力が強まった為、生まれつきの目つきの悪さも手伝い、見下ろされる側は明らかに怯えを増長させて膝を捏ね合わせた。
 慌てふためく様子がありありと伝わって来る。視線の向かう先は定まらず、そわそわと落ち着かない。何か言いたげに開いては閉ざされる唇は、リップクリームのお陰か妙に艶めかしい彩を放っていた。
 クリーム自体には着色料が用いられていないはずなのに、ふっくらとしたそこは鮮やかに色付いている。赤い顔や肌と相俟って、甘そうな蜜を滴らせているように見えた。
 おいしそうだと、何故かそう思ったのだ。
 甘くて、柔らかくて、温かくて。嵐の日、一瞬だけ掠めた感触がはっきりと蘇り、雲雀は無意識に動いていた。
 差し出されたリップクリームに目を向け、小動物の目をしてこちらを窺う存在に意味深な笑いを浮かべて返す。
「そうだね。貰おうかな」
 食べてみたいと、思った。
 どんな味がするのか、この前は確かめ損ねたから。
 中指と親指、広げて握れば楽に一周出来てしまう細い手首。華奢で脆く、ちょっと力を加えるだけで簡単に折れてしまいそうな首。丸くて大きな、零れ落ちてしまいそうな瞳と、小ぶりな鼻、それから。
 熱を吐く、生意気な唇。
「んっ」
 喉を引きつらせた悲鳴を奪い取り、塞いでしまう。重ね合わせた唇から、彼のそこに塗られていたクリームを掬い取る。
 熱に溶けたそれは、微かに花の匂いがした。
 なかなか視線が絡まないのが癪だった。他の、いつも群れている連中には満面の笑みを浮かべるくせに、自分の前ではいつも小さくなって震えて、下ばかり向いている。それが気に入らなくて、顔を背けられないように顎を掴んで、固定した。
 至近距離から覗き込んだ琥珀は思った通りに綺麗に澄んでいて、大きく映し出された自分の姿が見られたのは満足だった。
 自分が彼に何をしているのか、何をしたくて彼にこんな事をしたのか、後から幾ら考えても結論は出ない。ただ、そう。この時はとにかく触れたかった。
 彼に。
 彼の唇に。
 艶を放ち、色付いた、柔らかくて暖かなそれに。
 もう一度触れて確かめたかった、あの嵐の日に掠めたものが本当に彼だったのかどうかを。
 存分に舐め上げ、啄んで音を響かせて離れる。握った手首から伝わる鼓動は速度を増して、呼応するかのように自分の心臓も耳に五月蝿く鳴り響いた。
 手を放せば彼は力を失い、くたりと膝を折って床にしゃがみ込む。呆然とした瞳は虚ろで、言葉のひとつも思い浮かばない様子だった。
 尤もそれは雲雀にも同じ事が言えて、己の行動に満足した彼は濡れた唇を舐めて笑い、ひとりドアを開けて用事が済んだトイレを出た。置き去りにされた方がどう思うか、どうするのかを考える余裕は、彼にはなかった。
 いや、彼は自分自身の行動を顧みるという事自体が出来ていなかった。
 廊下に出て、数歩進む。人気の無い空間は静まり返り、ふと斜め後ろに遠ざかるドアを振り返ったところで彼はやっと、我に返った。
「え……」
 扉は沈黙したままで、内側から開かれて誰かが出てくる気配は無い。
 次第に拍動を強める心臓が、痛いくらいに彼の胸を衝いた。
「今、僕は」
 赤い顔をした綱吉の顔が浮かぶ。手放され、惚けた顔で自分を見上げていた琥珀を思い出す。
 くちづけた感触と、奪い取った熱と、握った手が震えていたことがまざまざと蘇る。
 あれは。
 あれは、キス、だ。
 自分は彼と。
 沢田綱吉と。
 キスを――した。
 理解した瞬間、ドッと彼の全身を行く血液が逆流した。下からせり上がってくる名も知らぬ感情に戦き、彼は唇を戦震わせて瞠目した。
 キィ、と軋む音が聞こえる。ハッとして雲雀は顔を上げ、その場に立ち尽くした。
 よろめき、ドアを頼りにする形で、綱吉が出てくる。恐る恐る慎重に、崩れそうになる身体を懸命に支え、周囲を窺いながら。
 そして離れた場所に立つ雲雀を視界に収めた瞬間、彼は露骨に怯えた顔をした。
 全面を赤く染め上げ、口元を手で覆い隠し、泣き出す寸前に瞳を歪め、転びそうになるのを堪えて走っていく――雲雀のいるとは反対方向へ。振り返らず、速度を緩めもしない。大きな足音ばかりを残して、それもすぐに聞こえなくなった。
 出しかけた手が中途半端なところで停まり、沈んでいく。呆然と彼を見送るしかなかった雲雀は、もう誰も居なくなった廊下をそれでもずっと、見詰め続けた。

 薄い雲が空一面に立ちこめ、陽射しは弱く、どこか薄暗い。
 頬を撫でる風は日増しに冷たくなっていき、冬の足音ははっきり聞こえるところまで迫っていた。
 もう幾つ寝ると、という童謡が頭に浮かんでくる。気の早い町は既にクリスマスムード一色で、ラジオから聞こえてくる音楽も、冬をモチーフにしたものが主体に切り替わろうとしていた。
 小学校時代に愛用していたコートは着丈が短くなってしまっていて、そんなところで自分がこれでも少しは背が伸びたのだと自覚する。新しいものを買わないと駄目ね、とナフタリン臭が残る白いダッフルコートを折り畳んだ奈々に言われて、綱吉は緩慢に頷いたのだった。
 少し前までは半袖で頑張っていた山本も、最近は寒さが厳しくなってきたからか長袖に紺のカーディガンを愛用している。白が目立っていた夏場に比べると、教室内の風景も随分と暖色が目立ち始めた。
 壁に吊るされたカレンダーは残り僅かで、既に来年の日程のものが販売されて店舗を賑わせている。女子などは購入したスケジュール帳を見せ合い、どれが一番可愛いかと盛んに論議していた。
「沢田、次の当番、お前な」
「あ、やっば。そうだった」
 出席番号順に回ってくる、授業ごとの当番。取り立てて何をするでもないのだが、授業に使う細かな道具などがある場合、運んで先生を手伝うという仕事があった。だから前の授業が終わると同時に、職員室に出向いて何か用事があるかを逐一確認しなければならない。一週間に一度か二度、巡ってくる当番は、教科によって当たり外れが非常に大きかった。
 体育や技術の授業を引き当てると、嫌で仕方が無い。しかし幸いにも次の授業は現代国語であり、重いものを運ばされる危険性は回避できそうだった。
「行って来る」
 カ行最後のクラスメイトから、サ行先頭の綱吉へ。言われて思い出した彼は席を立ち、真っ直ぐ教室前の扉を潜って廊下に出た。
 まだ休憩時間は始まったばかりだというのに、そこは既に人で溢れて騒がしかった。トイレに行く生徒もいれば、教科書を忘れたために別クラスの友人を頼って走り回っている生徒もいる。ふたつ隣のクラスは次が音楽のようで、縦笛と教科書類を抱えた集団が綱吉と反対方向へ歩いていった。
 教室から一階にある職員室へ行くには、特別教室棟に繋がる階段を下りたほうが圧倒的に近い。しかし彼は意図的にそちらを避けて、敢えて遠回りである反対側の階段を使うようにしていた。
 学校に来て教室に向かう時だって、そうだ。出来る限り特別教室棟――応接室がある区画には近付かないようにしていた。毎日早めの起床を心がけ、お陰でこの一週間全く遅刻をしていない。服装ひとつにしても定められた規則を守り、実行していた。
 それもこれも、風紀委員に目を付けられない為の自衛策だ。
 いや、風紀委員はこの際どうでもいい。目下彼が問題にしているのは、その頂点に立っているただひとりだけ。
 雲雀恭弥に会いたくない。その一心で、綱吉は極端なまでに問題行動を控え、地味で目立たず大人しい、リボーンが押しかけてくる以前の彼に戻っていた。
 また無意識に唇に触れそうになっている自分に気付き、踊り場で足を止めた彼は慌てて首を振った。両手を後ろに回して背中で結び合わせ、腰を叩きながら残る階段をゆっくりと下りていく。校舎の端に当たるからだろう、周囲に人の姿は無かった。
 あれから十日以上過ぎていた。
 風邪はすっかり治り、熱も下がった。学校を休む理由はなくなってしまい、綱吉はこうして毎日欠かさず登校を続けている。
 雲雀とは以来ひと言もことばを交わしていない。そもそも会う機会を作らないようにしているのだから、会話自体がありえないことなのだが。
 彼が立ち寄りそうな場所は避け、応接室には近付かず、遅刻もせず、騒ぎも起こさない。その他大勢に紛れ、突出せず、風景に同化するくらいの心構えで日々を過ごす。獄寺や、学校に紛れ込んだランボが引き起こすトラブルにも最低限しか首を突っ込まないで、傍観に徹した。
 それでも同じ敷地で一日の大半を過ごすのだから、姿を遠くから見る日はあった。大勢の委員を引き連れ、我が物顔で学内を闊歩する姿は異様なので直ぐに分かる。周囲もざわつくのでそれが防波堤代わりになって、即座にその場を離れるのが習慣となりつつあった。
 常時気を張っているような状態なので、非常に疲れる。けれど正面から雲雀の顔を見るのは、瞬間的に体温が上昇して心臓が爆発しそうな勢いで跳ね上がる為、もっと健康に悪かった。
 胸が苦しくて、痛い。わけもなく泣きたくなって、じっとしてなどいられない。
 雲雀が怖かった。またあんな事をされたらどうしようと、そればかり考えて不安で落ち込んでしまう。
 だから考えないように、会わないように、見ないように。一秒でも早くあの忌まわしい出来事を忘れ去って、楽しい記憶で塗り替えてしまわなければ、自分は一生この傷を引きずることになりかねない。
 ふと気が付けば思考は傍若無人な人物に集中しており、綱吉は前向かせていた視線を足許に落とした。
「なんで、ヒバリさん。あんな」
 キスを。
 また無意識に指が唇をなぞっていて、ハッとした綱吉は最後の一段を降りたところで立ち止まった。
 苦々しい想いが溢れ出て、口の中が酸っぱい。奥歯を噛んで堪えた彼は、指を引き剥がすのではなく敢えて触れさせ、乾いた表面を撫でた。
 自分の指の感触と、雲雀から与えられたくちづけは、まるで違う。その事実に、ひっそりと安堵している己を自覚する。
「ファーストキス、だったんだ、ぞ」
 恨みがましく呟くと、余計に哀しくなって彼は肩を落とした。盛大に溜息を零し、職員室に向かうべくトボトボ歩き出す。
 何故雲雀があんな真似をしたのか。毎日、毎晩考えているが、結論は出なかった。当然である、本人に確かめてすらいないのだから。
 可能性を考えるとしたら、真っ先に出てくるのは好意を寄せられている、という事。しかし今までの彼の行動を振り返るに、そんな気配は微塵とも感じられなかったし、綱吉もそれはないと真っ向から否定した。
 だって、ありえるわけが無い。彼は男で、自分も男だ。しかも綱吉は、雲雀が卑下する、弱いくせに群れたがる存在の筆頭だ。
 嫌われる要素は沢山あるが、その逆は皆無に等しい。しかし、ではならば何故、という最初の疑問に立ち返って、綱吉は憂鬱な気持ちになった。
 重い溜息が零れ、視線は下に集中する。雑踏が戻って来て、前から来る人を避けた彼は意気消沈したまま職員室のドアを開いた。
「失礼します」
 小さな声で告げて頭を下げてから敷居を跨ぎ、視線を左右に流して国語の担当教諭の姿を探す。学年別に島が出来ている職員室内部は、物で溢れかえっている所為で実際よりもずっと狭く感じられた。
 こちらに背を向ける形で座っている、髪の毛が残り少ない先生を見つけ、足音を忍ばせつつ歩み寄る。途中で思い出して上履きの踵を持ち上げた彼は、残りの距離を飛び跳ねる形で埋めた。
「ん? おお、すまんな」
 近付いてくる人の気配に振り返り、綱吉の用事を言うより早く察した先生が人好きのする表情を作った。手にしていた赤色のペンを置き、これを、と傍らに積み上げているプリントの山を指差した。
「悪いが、これを運んでおいてくれないか」
「これ全部ですか?」
 高さ三十センチはあろうわら半紙の束に驚き、綱吉が聞き返す。先生はにこにこと目を細め、満面の笑みで頷いた。
 十枚程度で一組らしく、ホッチキスが留められている角だけ膨れ上がっている。抱えられないことはなかろうが、かなりの重量になると予想できた。もし途中で転ぶなどして、廊下に撒き散らしでもしたら悲惨だ。
 現代国語の当番なんて楽勝だと思っていたのに、まさかの展開。頬を引きつらせて応じた綱吉に、先生は頼むよと言って反転させた椅子を机に向けてしまった。
 自力で持っていく気は、彼には無いらしい。イジメだ、と心の中で愚痴を零し、綱吉は三度目の溜息を零すと仕方なくプリント前に移動し、山を崩さないように底の部分を持って自分の方へ引き寄せた。
「よいしょ、っと」
 バランスが崩れて前に倒れそうになったのは、顎を押し付けて封じ込める。自分の平らな胸を壁にして持ち上げるのには成功したが、第一歩を刻むのは一苦労だった。
 国語教師は飄々とした態度で、呻いている綱吉をちらりとも見やしない。絶対にわざとだと心の中で悪態をつくが、休憩時間も残り少ないので従うしかない。彼は渋々体の向きを変え、入って来たと同じドアを目指そうとした。
「あれ、ツナ君」
「うわっ」
 そこへ急に、不意打ちで後ろから名前を呼ばれて驚いた。
 弾みで転びそうになり、最悪のシナリオを実行するところだった彼は冷や汗をかいた。腕の中で震えるプリントの山を支え直し、恐々振り向く。そこに立っていたのは京子だった。
 紺色のベストに、臙脂色のリボンを形良く結び、スカートは膝丈。肩の上で切り揃えた髪の毛は少し外側に跳ねており、綱吉の負けないくらいの大きな瞳を興味深そうに彼に向けていた。
「京子ちゃん」
「重そうだね、手伝おっか?」
 彼女がそこに居るだけで周囲が華やかになるのは、気のせいではないと綱吉は思う。いつだって楽しげに笑っている彼女を振り返り、綱吉は心の中が晴れやかになるのを感じた。
 有り難い申し出に、つい表情が緩む。
「い、いいの?」
「うん。プリント出しに来ただけだから」
 自分には荷物が無いと両手を広げて見せた彼女に、綱吉は天にも昇る思いで頷いた。
「じゃあ、ちょっとだけ、お願い」
 全部を渡すわけにはいかないので、三分の一程度を京子に預ける。膝を軽く折って取り易いように姿勢を低くし、腕にかかる負担が減ったところで真っ直ぐに戻す。視界が広がって、気持ちまで軽くなった。
 彼女とはクラスメイトだから、教室でなら幾らでも姿を見かけることは可能だ。だけれど職員室でもこうやって会えたのは奇跡だし、よもやこんな特典が待っていようとは夢にも思わなかった。
 自分は幸せだと、雲雀に関わる問題をすっかり吹き消して、綱吉はプリントを抱えて教室に戻るべく足を繰り出した。
 その背中に、京子の声が飛んだ。
「ツナ君、そっちじゃないよ?」
 自分が入って来たドアを目指したつもりでいたのに、否定されて彼は慌てた。出しかけた足を引っ込め、反対側に爪先を向けている彼女に首を捻る。だが京子も、綱吉と似たような顔をしていた。
 横に広い職員室にも、ドアは二つある。前と、後ろと。人の出入りが活発なのは、京子が行こうとしている方向だった。
「こっちからの方が近いよ」
 半年この学校に通っている綱吉だから、京子が言わんとしている事は即座に理解出来た。
 スタートとゴールが同じなら、半分の時間で行ける道順を選び取るのが、人としての常。そしてこの一週間綱吉が使い続けた道程は、その人として楽な方に進みたいという本能に逆らっていた。
「行こ」
「あ、うん」
 京子は綱吉の事情を何も知らない、だから当たり前のように距離的に短くて済むコースを取る。促され、先に歩き出されてしまい、綱吉は緩慢に頷いた。
 そっちの階段は嫌なのだと言えたらよかったのに、出来ない。理由の説明は面倒だし、人に大っぴらに言えるような内容でもない。彼女を口が軽いとは思わないが、もし誰かに秘密を漏らされでもしたら、それこそ目も当てられない状況に陥るのは確実だった。
 綱吉は浅い呼吸を繰り返し、覚悟を決めて彼女を追いかけた。開いた距離を詰め、廊下に出てからは横に並ぶ形でゆっくりと進んだ。
 冷たい空気に汗を滲ませ、彼は学内で雲雀に会う確率を考えた時、そうならない可能性の方が非常に高いのではないかと思考を切り替えた。
 雲雀は日頃応接室に引き篭もっているし、その部屋だってこの区画からは切り離されている。それに、綱吉は何も悪い事をしていないのだ。びくびくして怯えて過ごすのは、今日限りもう止めにしよう。
 雲雀とのことは、犬に噛まれたとでも思うことにする。折角京子と一緒にいられるのだから、今は彼女に集中したい。
 左を向くと、綱吉と同じものを抱えた京子が気付いて顔を向けてくる。にこりと微笑まれて、ほんわかと胸の中が温かい気持ちに満たされていった。
「凄いね、これ。授業で使うのかな」
「じゃないかな」
 右手で底を支えて持ち、左手で一枚捲ってみる。じっくりと読むのは難しいが、斜め読みした限りどうやら新聞の切り抜きのコピーのようだ。
 これでどんな授業が繰り広げられるのかさっぱり想像つかないが、単純に文章を朗読させられるばかりよりは幾らか面白そうだ。難点は字が細かくて、印刷する際に画数が多い漢字が潰れてしまっているところか。
「ほんとだ」
 綱吉が指摘すると、同じ箇所を見た京子がクスクスと声に出して笑う。先生も、拡大して印刷するというところまで頭が回らなかったようだ。
 後ろから走ってくる生徒を避けて隅に寄り、踊り場で小休止してプリントの束を元に戻す。教室までまだ遠いが、京子が手伝ってくれたお陰で疲労は少ない。もしひとりで運ばされていたらと思うと、ゾッとした。
「そういえばツナ君、綺麗になったね」
「へ?」
 嫌な想像に冷や汗を拭っていたら、いきなり斜め下から覗き込んできた京子がそんな事を言った。
 一瞬何のことか分からずに、きょとんとしてしまう。綺麗という単語は凡そ自分に該当するものではなくて、聞き間違いかなにかかと反射的に彼女を凝視してしまった。
 落としかけたプリントを慌てて支え、首を捻る。彼女は楽しげに目尻を下げて、足りないひとことを後から付け足した。
「唇。ほら、先週」
 血が出てたのにね、と微笑んだ京子に、彼は漸く合点がいって、ああ、と頷いた。
 同時に蘇った人の姿に、背筋が粟立つ。
「ちゃんと使ってくれてるんだね、リップクリーム」
「あ、……うん」
 若干歯切れの悪い返事をし、綱吉は両手が塞がっている所為で触れられない唇を浅く噛んだ。
 そのリップクリームの所為で綱吉がどんな目に遭ったかを知らないから、彼女は平気で話題に出せるのだ。もうとっくに忘れているとばかり思っていたので、綱吉も油断していた。
 急にズン、と胸の奥に巨大な鉛球が落ちてきた気がして、足取りが重くなる。さっきまでは平気だったのに、今や階段一段登るのさえ苦痛だった。
 なにがどうなって、こんなことになってしまったのか。嵐の放課後はただの事故で済ませられたけれど、トイレでのあれは最早事故とはいえない出来事だった。
 明確な犯意が込められた、完全な故意だ。
 捏ね合わせた唇の感触が、雲雀と触れた瞬間を思い出させる。柔らかくて、熱くて、少し乾燥してカサついていた。閉じ損ねた隙間から流れ込んできた彼の息も熱くて、溶かされてしまいそうで、眩暈がした。
 馬鹿みたいに覚えている。触れる寸前の彼の瞳の色も、握られた手首の痛みも、流れてきた体温も。
 鼓動の力強さまで。
「っ」
 長い睫、冴えた色の瞳。そこに映し出された自分の顔まではっきり思い出せる。頬を上気させ、赤い顔をして、目を潤ませた自分の知らない自分の顔を。
 足が動かない。先を行く京子が気付いて振り返る。
「ツナ君?」
 どうしたのかと問われても声が出なかった。身体中の血液が沸騰して、頭がふわふわと宙に浮かぶようだ。心臓は喧しく耳を打ち、唾を飲んだ喉は乾いて痛いほど。
 胸が苦しい。
 息が出来ない。
「ツナ君?」
 おーい、と戻って来た彼女が口の横に手を添えて綱吉を呼ぶ。だけれど彼の目は別の場所に向いていた。
 階段の上、上級生の教室が並ぶ廊下を曲がるひとりの青年。艶のある黒髪と、怜悧な刃物を思わせる同色の瞳。綱吉と同じ紺色のベストを着込み、右袖には安全ピンで固定した臙脂色の腕章が。其処に居た人を手も触れずに押し退けて進む足取りは、緩まない。
 京子も気付いて顔を上げ、階段の手摺りに腰を押し当てた。降りて行こうとする彼の視線を受けて、咄嗟に顔を背ける。
 けれど雲雀が見たのは、京子ではなかった。
「……っ」
 息を呑んだ綱吉はドッと滲み出た汗に全身を濡らし、膝を砕けそうなくらいに震わせて立ち竦んだ。
 抱えたプリントの一枚一枚が鋼鉄の板に思えてくる。ずっしりと両腕に圧し掛かる重みが、彼の身動きを封じ込めた。
 人ごみを左右に割り広げ、出来上がった道を雲雀は無言で突き進んでくる。愛用の武器は構えず、従える風紀委員もいないが、彼の存在感は圧倒的であり、人が彼を自ずと避けるのもまた自然だった。
 誰も彼に近付かない。
 彼も誰かに近づかない。
 誰も寄せ付けない。
 でもそれは、ずっと一人ぼっちだという事にならないか。
 巡りついた思いに、綱吉がハッとする。階段に爪先を下ろした雲雀は、綱吉を目前にして左手を肩の高さまで持ち上げていた。
 地面と水平に腕を構え、軽く曲げた指の背で中空を弾く。しなやかな人差し指が、丁度唇の位置に来るように。
「――!」
 瞬間的にカッと頬が熱くなり、綱吉は仰け反った。腰に銀色の手摺りが食い込み、もう少し上半身を後ろに倒せばひとつ下の階へ真っ逆さまに落ちていくと知る。これ以上退けない現実に、彼は背筋を粟立てた。
 恐怖心が先走る。雲雀の足音が近付く。前にも後ろにも進めなくて、綱吉はプリントを抱き締めて全身を硬直させた。
 肘を外向きに引いた雲雀の腕が伸ばされる。すれ違う瞬間、綱吉の顔の前をそれは素通りした。
 触れはしない。ただ巻き起こされた風が鼻先を掠め、前髪を弱く煽って遠ざかっていく。
「…………」
 雲雀は無言だった。そのまま二度と綱吉に視線を向けず通り過ぎ、腕を脇に垂らして階段を下りてどこかへと姿を消した。
 残された生徒達からは一斉に安堵の息が漏れ、京子もまた、一瞬感じ取った尖った空気が何事もなく掻き消えたことに胸を撫で下ろした。
 ただひとりを除いては。
「ツナ君、行こう。ツナ君?」
 活気を取り戻した廊下のざわめきに負けぬよう声を出し、京子は残り短い休憩時間を気にして二段先まで上った。
 だが綱吉は雲雀が行き過ぎた瞬間の体勢で凍りつき、唇を震わせていた。
 今の仕草は、明らかにあの出来事を暗示している。果たしてそれが何の目的であるかまでは解らないものの、雲雀があれを、ただの気まぐれによる一過性のものとして処理する気が無いと、そう告げたに等しい。
 悪戯に綱吉の心を掻き乱した彼は、微かに笑っていた。
「なんで、だよ……」
 胸が痛い。息が苦しい。呼吸が出来ない。前が見えない。
 目の奥がツンとする。涙が出そうだった。
 瞼を閉じても、開いても、雲雀の姿がちらつく。どんなに振り払っても、拒んでも、否定しても消えてくれない。
 締め付けられた心臓が悲鳴をあげている。脈を狂わせ、破れそうなくらいに激しく鳴動している。沸き起こる衝動に叫び出しそうで、唇を噛み締めて懸命に堪える。
 こんな感情を、自分は知らない。
「なんなんだよ、これ」
 知らぬ間に心の中にぽっかり空いた穴に、雲雀が詰め込まれていく。盗み取られたものが何であるかを知らず、綱吉は逃げるように階段を駆け上った。

2008/10/27 脱稿