銀鎖

 陽射しは柔らかく、日向に居れば風が吹かない限り、ぽかぽかと暖かい。けれど一旦日陰に入ってしまうと肌寒さは否めず、時折気まぐれに吹く秋風は日増しに冷たさ、及び鋭さを増して容赦なく顔を刺した。
 空気の冷たさに痛みを覚えるようになるのは、当分先の話だろう。けれど真冬の厳しさを思い出させるには充分で、身震いした綱吉は鼻を啜り、喘ぐように息を吸って吐き出した。
 教えられた場所はもう目の前で、見上げると首が痛くなりそうな郊外の公立図書館の景観に、彼はポカンとしてしまった。
 不良の巣窟とまで揶揄される黒曜中学に在籍している生徒が、こんな、いかにも頭が固そうな連中が好む場所に居つくなんて、ちょっと想像がつかない。本当に居るのだろうか、と疑りながら首を傾げるも、クロームが教えてくれた内容に嘘があるとも思えなくて、綱吉は気を取り直して咳払いを三度繰り返した。
 此処に図書館があるのは知っていたけれど、調べ物なら大抵中学校の図書室で充分だし、そもそも綱吉はあまり本を読まない。故に中に入るのは初めてであり、妙に緊張してしまう。
 喉元に指を入れて襟を正していると、脇を孫らしき小さな男の子を連れた老婆が通り過ぎていく。慣れた足取りでガラス張りの玄関を通り抜けていく姿には、綱吉のような無用な気負いが無い。公共施設とだけあって、誰に対しても門戸を開いているのだから、彼が立ち入るのに誰かが見咎めるようなこともないのだ。
 今一度咳払いをして、綱吉はそれでも畏まった態度を崩すことが出来ず、やや緊張気味に歩き出した。
 自動ドアを抜けて、コンクリート製の建物の中に入る。瞬時に空気が入れ替わったと分かり、綱吉は高い玄関ホールの天井を見上げて、眩しさに目を細めた。
 湿気があるのか、少し黴臭い気がする。それが大量に本を所有している建物特有の匂いなのだと理解するには、綱吉はまだ経験も知識も足りなかった。
 物珍しげに周囲を見回し、建物内部の案内図を見つけてそちらに駆け寄る。その間も何人もの人が彼の後ろを通り過ぎて、各々の目的地を目指して階段を登っていった。
 郊外なので乗用車で来る人もあるのだろう、地下には巨大駐車場があるらしい。喫茶店も併設されている。
 下から順に配置図を眺め、広すぎる敷地を前に、自分はどこへ向かえばいいのだろうかと彼は首を捻った。
 図書館にいると思う、と教えられたまでは良かったが、まさかこんなにも大規模な建物だとは思っていなかった。もっと詳しく、例えばどのコーナーにいるかの予想も聞いてくるべきだったが、既に遅い。何十人、何百人と居るだろう人の中から、たったひとりを探し出すのは至難の業だ。
 遠い目をして肩を落とし、溜息をついた綱吉は、二秒後首を振って顔を上げた。こんなところで諦めてどうする、何事も死ぬ気でやればどうとでもなる、と半ばやけくそにも思える思考で己を奮い立たせ、鼻息荒く拳を握り締めた彼は、広げた手でズボンの後ろポケットに触れて、僅かな凹凸に指を這わせた。
 頑丈な布の上から形を確かめ、気持ちを切り替えて奥へと向かう。
 彼の事だからきっと移動を面倒臭がり、一箇所に腰を落ち着けているだろうと想像する。下から行くか、上から探すかで一瞬考えた綱吉は、一階には子供向けのコーナーが設けられ、静かさを求められる図書館にあって少し賑やかだったので、此処は避けるだろうと判断して階段に進路を取った。
 果たして綱吉の予想が正しかったのか、それともただの偶然か。薄いカーペットが敷かれた館内を歩き回ること十分足らず、ひっそりと静まり返った一画に、目当ての姿はあった。
 まるで自分に近付くなと言わんばかりに、机に何冊もの本を積み上げて壁を作り、その中で読書に興じている。遠目からでもはっきりと分かるハードカバーの、いかにも難しそうな内容の本ばかりを集めているが、全部読破するつもりなのだろうか、彼は。
 少々どころか、かなり近づき難い雰囲気が滲み出ている。四人席であるに関わらず、広い机をひとりで占領して誰も近付こうとしないのが、その証拠だ。他の机は、どこも混雑しているというのに。
 時折神経質に眼鏡を押し上げるものの、それ以外はページを捲るくらいしか動かない。欠伸や、疲れたと首や肩を回す仕草も、一切無い。まるで精巧に作られた置物のようで、綱吉はどうしたものか、と斜め上を見上げてつま先で床を捏ねた。
 折角来たのだから、目的は果たしたい。居並ぶ書架を盾にして、綱吉は様子を窺いながら少しずつ角地にある机に歩み寄っていった。
 誰かが咳をする音がするが、それ以外はほぼ無音。これだけの人間がいながら、喋り声が一切無い空間は異常にも思えて、ランボたちを連れてきたら一発で追い出されるな、と彼は肩を竦めて笑った。
 残る距離は十メートルを切り、横顔がはっきりと見て取れる近さになった。相変わらずの仏頂面で、斜め下の手元に集中している視線は全くぶれる事が無い。綱吉の存在を気取る気配もなくて、ホッとしてよいのか、がっかりしてよいのか分からず、彼は困惑のまま書架の間を通り抜けた。
 一直線に机に近付き、わざと足音を響かせる。だけれど反応は皆無で、隣の机の人が僅かに視線を持ち上げただけに過ぎなかった。
 これには綱吉も少々落ち込んだが、直ぐに気弱になる心を叱咤して首を振る。いかにもほかに空いている椅子が無いので仕方なく、を表面上装い、彼はきっちりと机の下に納められている木製の椅子を掴んだ。
 背凭れを斜めに傾け、ゆっくりと音を立てないように引く。人がひとり潜りこめるだけの隙間を作ったところで手を放したら、この時ばかりは物音が比較的大きく響いて、読書に熱中している人物も顔を上げた。
「いいかな」
 帽子を目深に被った彼が、綱吉の小声の問いかけに僅かに驚き、眼鏡の奥に宿る細い瞳を見開いた。
「……」
 何かを言いかけた唇は、しかし無音で閉ざされる。ただ続けて吐き出された吐息が今までと少し色が違っていたので、綱吉のどっきりは成功といえるだろう。
 椅子を揺らし、机と身体の隙間を調整して深く腰を落とした綱吉に、彼は怪訝にしたまま持っていた本を机に下ろした。全体の三分の一程度進んだ紙面に栞代わりの紐を挟んで、勝手に閉じてしまった時の為の目印とする。どうやら綱吉が、用もなく自分を訪ねてくるとは思っていないらしい。
 不機嫌に顰められた眉間の皺が、邪魔をするなと態度で示している。分かり易い表情の変化に、綱吉は肩を竦めて首を亀の如く引っ込めた。
「なに」
 短く問われて、改めて正面に来た相手の顔を見詰める。
 柿本千種。六道骸の仲間で、大雑把な括りで見れば、その六道骸の代理人であるクロームを守護者としている綱吉の、仲間、でもある存在。しかし千種本人がそう思っているかは甚だ疑問で、綱吉自ら彼らの元に出向かない限り、あちらからの接触はほぼ皆無な状況が今も継続していた。
 千種を含む、クローム以下三名は現在、ボンゴレの保護下にある。その枠を飛び出さない限りは何をしても、何処へ行くのも自由。無論、ボンゴレに反旗を翻すなどは以ての外。
 囲われの鳥という表現が最も適切なように思われた。綱吉自身は、彼らと本当の仲間になりたいと思っているのだけれど。だからこうやって、暇を見つけては彼らの元に赴いて、あれやこれや話を――殆ど綱吉ひとりが喋っているだけなのだが――して、交友を深めようと試みている。
 とはいえ、実を結んだ例は殆ど無い。
 明確に拒絶の言葉を貰ったことは無いが、態度で好まれていないのは丸分かりだ。綱吉は深く息を吐き、掌で受け止めて握りつぶした。
 迷っている間に、会話は成立しないと判断した千種が、栞の紐を外してそれを綱吉の方へ伸ばした。紺色の幅五ミリもないそれを真っ直ぐ机に這わせ、中断させていた読書を再開させる。
 下向いた彼の視界には、もう綱吉は入らない。黙々と紙面に並ぶ文字を目で追う作業を展開させる彼は、綱吉が何故わざわざ図書館まで出向き、彼を探し出したか、その理由に気付いていなかった。
 忘れているのだろう、今日が何の日なのか。
「……らしい、て言えば、らしいんだけど」
 口の中でぼそりと呟き、綱吉は椅子の上で腰を浮かせ、下敷きになっていたズボンのポケットに隙間を作り出した。
 指を入れて、押し込めていた中身を取り出す。白い紙製の袋は見事に皺くちゃになり、中に収められているものの形を表面に浮き上がらせていた。
 紙が擦れ合うガサガサとした雑音を手の中で潰し、周囲に気取られないようにと膝に下ろす。自分の体と机とで、他の人には見えないように注意しながらセロテープを剥がし、折り畳まれていた口部分を広げた。
 その際に大きめの音がして、真後ろにいた人が椅子の上で身じろいだのが感じられた。但し向かいにいる千種は、全くの無反応。
 もう少し自分に興味を持ってくれてもいいのに。千種のその態度は綱吉限定ではなく、誰に対しても全く変わらないのだが、そこはかとなく不満を露にし、頬を膨らませた綱吉は、空気を吐き出すと同時に、昨日買い求めた品物をジーンズの上に引っ張りだした。
 不要になった袋は小さく丸め、ズボンのサイドポケットへ無理矢理捻じ込む。仄かに自分の体温が乗り移っている細長い金属のチェーンを指に絡めた彼は、ぐっと腹に力を込めて咥内の唾を飲み、恐る恐る千種を窺い見た。
 依然綱吉には無関心で、左肘を立てて頬杖をついた彼は首を斜めに傾け、ページを捲ろうと右手を泳がせていた。胸の前を横断した手が、左下の角を抓んで右側へ移動していく。淀みなく流れるような仕草に見惚れそうになって、綱吉はいかん、いかん、と首を振った。
 深呼吸を二度繰り返し、胸の鼓動を落ち着かせてから膝の後ろで椅子を後方に押し出す。中腰になって、左手は太股の上に残し、右腕を真っ直ぐに千種へと伸ばした。
 迫り来るものを知らず、千種は新しく現れたページに意識を集中させている。
 その視界が、急に濁った。
「っ」
 細い黒縁眼鏡のフレームを抓んだ綱吉の手が、千種から離れていく。一緒になって厚みのあるレンズも遠ざかって、唐突に焦点が合わなくなった千種は驚きに顔を染めた。
 今日初めて変化を見た彼の表情に、綱吉がにんまりと意地悪く笑うけれど、裸眼ではぼんやりとしか景色が見えない千種には、当然見るのは叶わなかった。
「……返して」
「返すよ」
「今すぐ」
「ちょっと待って」
 若干怒気の篭もった声で低く言われるが、綱吉は気にしない。ひそひそ話は周囲に響かず、彼らに注意を向ける人も殆どなかった。
 千種から眼鏡を奪い取った綱吉が、再び椅子に深く腰掛ける。左手を持ち上げて机に移動させれば、握っていたチェーンの端が擦れ合う音がして、全く見えない千種は首を傾げた。
 輪郭が滲み、色が混ざり合って、そこに綱吉が居るのは分かるものの、手元で何をしているのかはさっぱり不明だった。もし今の状態で犬が横から出てこられても、反応出来そうにない。己の視力の悪さに舌打ちし、千種はそこに何も無いと知りつつも眼鏡を押し上げる仕草を無意識に取った。
 眼鏡が外されると、頬のタトゥーが良く目立つ。顔の造詣も普段以上にはっきりと見て取れて、どうしてコンタクトレンズにしないのだろうかと考えながら、綱吉は彼から奪い取った物を珍しげに眺めた。
 手に取って掲げ、目元に当ててみる。綱吉は視力だけは自信があって、そんな彼だからレンズを通して景色を見た瞬間、ぐにゃりと世界が歪んで頭痛がした。
「これ、……きっつ」
「返して」
「今、全然?」
「見えない」
 単語ばかりだけれど一応短い会話が成立して、綱吉は差し出された千種の大きな手を見下ろした。
 所々に傷跡が薄く残る指は細長く、骨っぽい。爪は短く切り揃えられていて、袖から覗く手首もまた細かった。背が高い分腕も長くて、身を乗り出さなくても綱吉に届くのではないかと、現実にはあり得ないけれど、そんな事を思った。
 まだ用事は終わっていないので、返す事は出来ない。だから綱吉は作業しやすいよう、少し身体から離れた場所に置いていた肘を引き寄せ、奪われないように胸に抱き込んだ。
 千種の手は、最初の地点から先に伸びてこなかった。
 本人が言う通り、本当に見えていないらしい。目を眇め、眉間の皺を深くした彼の苛立った姿に綱吉は唇を舐めると、これ以上怒らせるのは得策でないと悟り、急ぎ眼鏡のテンプルを左手で抓んだ。
 レンズには触れないように注意して縦に構え持ち、膝から移動させた銀チェーンの片端を右手に持って、据え付けられている半透明のゴム部分を指で押し潰す。
 細かった輪が拉げ、空間が大きくなる。そこへ耳に引っ掛ける先セルを捻じ込み、曲がっている箇所を越えてから手を放した。
 輪の大きさはテンプルとほぼ同じで、軽く引っ張った程度では外れない。反対側にも同じように輪を通して、綱吉は「出来た」と小さく呟いた。
 聞こえた千種が、変な顔をして首を傾げる。
「……なに」
 まさか壊したのではなかろうかと、予備を持ち合わせていない千種はこめかみの鈍痛を堪えて口をへの字に曲げた。
 此処からねぐらにしている黒曜ランドまでは結構な距離があり、そこに帰り着くまで眼鏡なしではかなり厳しい。なにせ一メートル先でさえ見えないに等しいのだから、遠くから近付いてくる車があったとしても、気づくのは撥ねられた後になりそうだ。
 それは勘弁願いたいところで、口元に手をやって表情を隠した彼に、綱吉は肩を竦めて笑った。
「今、返すよ」
 そろそろ千種の我慢も限界を迎えそうで、こんなところで暴れられては綱吉としてもたまったものでは無い。椅子を引いて立ち上がり、後ろの人にぶつかったのを詫びて頭を下げ、彼はゆっくりと座ったままでいる千種の傍へ歩み寄った。
 明るさは分かるようで、綱吉の移動にあわせて首を巡らせた千種の素顔に彼は目尻を下げた。
「コンタクトにはしないの?」
「めんどい」
 先ほどの疑問を直接本人にぶつければ、即座に素っ気無い返事が投げ返された。それがいかにも彼らしい答えだったので、つい声に出して笑ったら、一斉に周囲の注目を浴びて綱吉は顔を赤らめた。
 迷惑そうにしている千種にも舌を出し、彼の眼鏡に固定したチェーンを抓み上げる。
「……?」
 手渡されるとばかり思っていた千種は、帽子越しに頭に触れた感触に、顔を顰めた。
「こう、かな」
 なにやら綱吉がごそごそ動いているのは分かるが、何をしているのかまでは分からずに困惑する。非常に近い位置にきていた綱吉の胸を押し返そうとしたら、狙いが逸れて行き過ぎた指が綱吉の顎を掠めた。
 丸く切り揃えた爪の先が、柔らかな膨らみを押し上げて慌てて肘を引く。
 首の後ろに冷たいものを感じたのは、その時だった。
「あ、ごめん」
 引っ掻いたのは千種なのに、何故か綱吉が謝って急ぎ身を引く。最中で両手を横に広げてしまい、綱吉の手から外れた眼鏡が千種の胸に当たって止まった。
 何かに引っかかっているわけでもないのに、そこから落ちていかない。もうひとつ言えば、首の後ろが何かに圧迫されている。
 背中で指を絡めて結び合わせ、爪先で床を擦った綱吉が戸惑い気味に首を傾がせた。千種もまた予想していなかった事に少々狼狽しながら、左手を首に回して素肌に直接触れる銀チェーンを指に絡めた。
 視覚に頼れないので、触覚だけで確かめ、彼の指はするりと表面に沿わせて胸元へ降りていった。行き着いた先に眼鏡を見つけ出し、両手でテンプルを持って顔の前へと。
 耳に引っ掛けて見慣れた姿に戻った彼がすぐさま横向いて綱吉を見上げて、ようやくはっきりと輪郭が浮き上がった姿に眉間の皺を解いた。
「これ」
「ええっと、えと、その。プレゼント」
 レンズ越しに睨まれて、綱吉は前にやった手で指を捏ね回しながら他所を向いた。
「プレゼント?」
「……誕生日の」
 怪訝に聞き返され、出来るなら自力で思い出して欲しかったのにな、と綱吉はぎこちなく告げた。
 千種の首に回されたチェーンは肩の左右で先端が持ち上がり、眼鏡に繋がっていた。天井からの照明を浴びて、飾り気の無い簡素な銀の鎖が、やや厳しく彼の顔を飾った。
 似合っているのかどうかは、正直綱吉には解らない。千種といえば眼鏡、というくらいしか連想がいかなくて、けれど彼の視力が解らないのに眼鏡本体を贈るのもまた変な話であるし、どうしようかとあちこち探し回っていたところ、たまたま見かけたのが、これだった。
 眼鏡を外す際、首からぶら下げられるようにするチェーン。値段が手頃で、デザインもシンプルで無駄が無いので、使う人を選ばないところを綱吉は気に入った。
 広げた手を指先だけくっつけ合わせ、遠くを見たままの綱吉がしどろもどろに説明する。千種はけれど、どうにもピンと来ない様子で、自分の使い慣れた眼鏡と、まるで馴染みの無い銀チェーンを頻りに指で遊ばせた。
 ふと、金属の鎖とは違う触感を顔の横に見つけて目を細める。
「やっぱ、変、かな」
 違和感があるのだろうと、綱吉にだってそれくらい分かる。渋い表情をしながら自分で眼鏡を外した彼が、テンプルを弄ってチェーンの先を探り出し、外そうとしている時も綱吉は特に文句を言わなかった。
 誕生日プレゼントだと言っても、彼は表情ひとつ変わらなかった。喜んでいる雰囲気は皆無で、逆に邪魔だから取り除こうとしているのだと、そんな風に綱吉の目に映った。
 けれど。
 千種はチェーンを片方だけ外し、眼鏡を顔に戻した。首の後ろから引き抜いた鎖の先端をレンズの前に持って行き、抓んだものが見えやすいように角度を調整する。
 何をしているのかと横目で覗き見た綱吉は、瞬間、度肝を抜かれて悲鳴を上げた。
「ちょっと、君。五月蝿いよ」
 即座に鋭い注意の声が飛び、両手で口を覆った綱吉は大仰に四方へ頭を下げて謝った。千種は椅子の上で背中を丸めて笑いを殺しており、恥かしさで真っ赤になった綱吉は、文句を言いたくてもいえない状況に、大粒の瞳を潤ませて涙を堪えた。
 千種の右手の中には、購入した時に店の人が外し忘れていた値札がしっかりと握られていた。
 プレゼント用かと聞かれたが、包装には別料金が必要と知り、自宅用だと答えたのが災いした。持って帰った際に袋からだし、自分で値札を外す作業をすればよかったのに、それも忘れていた。
 先ほど自分で結び合わせた時も、輪にテンプルを通す作業に没頭していた所為で、全く気付かなかった。
「だって、……だって、しょうがないじゃんか。月末なんだよ、金欠なんだから」
 羞恥に身悶え、顔から火が吹きそうになりながら綱吉がもごもごと言い訳を口にする。周囲に遠慮して小声なので、迫力は全く無かった。
 千種はまだ笑っている。喉を引きつらせて苦しそうに息をする様は、眼鏡をかけていない彼以上に珍しいものだった。
「笑うなって」
「……安物」
「しょうがないだろ!」
 二千円にも満たない品であっても、懐事情が非常に怪しい綱吉にとっては大金なのだ。アルバイトも禁じられている中学生に、万単位の贈答物を求める方が、どうかしている。
 つい声を荒げてしまい、またじろりと大勢から睨まれた綱吉は、次第に元気をなくして項垂れ、最終的に千種の足元に蹲って小さくなった。
 緩く握った拳で太股を叩かれて、千種は紐の捩れた値札を爪で削った。
 この金額は、狙ったのだろうか。一瞬考えてからそんなわけはあるまいと首を振り、抓んで一気に引きちぎる。
 誕生日など、すっかり忘れていた。一度だけ、それも随分昔にそんな話をした気もするが、まさか覚えられていたとは夢にも思わなかった。
 紐が食い込んだ皮膚が、少しだけ痛い。赤くなった人差し指の腹をなぞり、千種は通行の邪魔をしている綱吉に立ち上がるよう促して、重力を無視して跳ねている彼の髪ごと頭を撫でた。
 大きな手で、わしゃわしゃと遠慮なしにかき回す。上から押し潰される圧力に、渋々持ち上がった顔は僅かに涙ぐんでいた。
 鼻を鳴らし、丸い琥珀色の瞳を潤ませる姿をしっかりと目に焼きつける。
 彼は呆れ調子に笑いかけ、眼鏡のテンプルを掴んだ。真っ直ぐ前に押し出して、片方だけ外れてしまったチェーンごと顔から外す。
「……えと」
「嵌めて。自分じゃ出来ない」
 外すことは出来ても、その逆は難しい。再びあやふやにぼやけてしまった視界で、困惑していると分かる綱吉に少し温んだ眼鏡を差し出して、握らせる。
 彼が今どんな顔をしているのか、見えないのが残念でならなかった。
 触れた綱吉の手は震えていて、落とさないように両手でしっかり挟んで受け渡す。肘を引いた彼に、見えないけれど笑いかけて。
「外れたら、嵌めてもらいに行く」
 心持ち優しい声色で伝えれば、学習能力のない綱吉の弾んだ返事がまた大きく響いた。
「……出る?」
「ごめん」
 ふたり揃って一斉に鋭い視線を浴びせられ、居たたまれなくなった千種の提案に、綱吉は心底申し訳なさそうに頭を下げた。

2008/10/20 脱稿