恋花・種子

「うげえ……」
 がやがやと賑やかな、昼休みの中学校。
 屋上で獄寺、及び山本と昼食を終えた綱吉は、口に咥えたストローから牛乳パックの最後の一滴を搾り出したところで、呻くような声をあげた。
 空気を吸い取られ、凹んでいた四辺が一斉に元の形に戻ろうと蠢く。乳白色の雫が半透明のストローの内側を滑り落ちて行ったが、綱吉は間抜けに口を開いたまま、ぽかんと掲示板に見入った。
 先頭を行く獄寺が先に気付き、彼の動きにつられた山本が僅かに遅れる格好で、最後尾についていた綱吉を振り返る。
「十代目?」
「どした、ツナ?」
「あっちゃー。やっちゃったよ」
「ん?」
 惚けた顔をしている綱吉に、高い位置から山本が問う。空っぽになった弁当箱の包みを揺らし、頭の後ろで手を結んだ彼は、大股で戻って来て、悲壮感漂わせた親友が見ていたものを覗き込んだ。
 廊下の壁に設置された、緑色の掲示板。所狭しと部活の募集や、定期演奏会の案内が画鋲で固定されている中で、一際目立つ位置にでかでかと、横長の白い紙が張り出されていた。
「あー……」
 獄寺が無言で、山本は感嘆の息を漏らし、ふたり同時に憐れみを含んだ目で綱吉を見る。広げた手を額に押し当て、俯いている彼のつむじを見下ろし、山本は呵々と乾いた笑いを浮かべた。
「まあ、がんばれよ」
「十代目、気合です。気合でここはひとつ」
「補習に、そんなの関係ないってば」
 項垂れていた顔を上げた綱吉は、拳を胸の前で揺らした獄寺の、見当違いも良い激励に肩を落とした。これなら山本のように、軽い調子で笑い飛ばしてくれる方がずっと有り難い。
 先日のテスト、確かに結果はすこぶる悪かった。このままでは進級できないかもしれないぞ、という先生の脅し文句は、そろそろ冗談で聞き流せない状況に陥ろうとしている。
 綱吉だって、これでも努力しているのだ。しかしいざ真面目に試験勉強をしようとすれば、ランボやイーピンに邪魔され、ビアンキの夜食に当たっては腹を壊し、勉強会を開けばハルが乱入してどんちゃん騒ぎが引き起こされ、ちっとも集中して教科書と向き合う事が出来なかった。
 リボーンはそれを、精進が足りない、のひと言で片付けてしまう。そういう彼の妨害もまた、綱吉の集中力を損ねるひとつの要因だというのに。
「最悪だ」
 がっくりと脱力し、綱吉は弱々しく首を振った。そうなるだろうとは思っていたが、まさかこんな風に、掲示板の真ん中を占有して、フォントサイズ超特大で名前を出されるとは思いもしなかった。
 なんの見せしめであろうか、これは。
 沢田綱吉、補習。今週一週間、放課後に個別指導。
 特別授業をわざわざ綱吉の為に用意してくれるのは有り難いが、そろそろ教員にも我慢の限界が来ていると見て良い。見放される前にどうにか手を打っておかないと、うちでは面倒を見切れないと放校されてしまいそうだ。
 名前の下に書かれた一週間のスケジュールは、赤点を取った教科でみっちり埋まっている。これではさぞや、先生方も大変だろう。
「ダメツナー、お前何やってんだよー」
 後ろを通り過ぎていく級友が、からかう声をあげる。他にも、多くの生徒が綱吉と掲示板とを交互に見比べ、クスクスと忍び笑いを零して去っていった。
 恥かしさに顔が勝手に赤くなる。情けなくて涙が出てきそうだった。
「まあまあ、ツナ。人間誰にだって苦手なもんはあるって」
 今回は辛うじて赤点を免れた山本が、明るい調子を崩さずに綱吉の肩を叩いた。彼なりに慰めようとしているのだが、その励ましは余計に綱吉をどん底に突き落とした。
「十代目、あの、なんでしたら俺も一緒に」
 机を並べて補習を受けて、解らないところがあれば教えます。そう提案した獄寺の目は、キラキラと輝いていた。
 しかし彼の説明は、教科書をそのまま読み上げるだけに等しく、もっと噛み砕いた説明を欲する綱吉にはちんぷんかんぷんだった。それに、何かとトラブルメーカーの彼だから、どうせ教師にも楯突いて、騒動を巻き起こすのは目に見えている。
 気持ちだけは有り難く受け取って、綱吉は打ちひしがれたまま溜息を零した。リボーンに知られたら、なんと言われることか分かったものではない。
 ただでさえテスト結果が芳しくなくて、彼の機嫌は悪化の一途だというのに。火に油を注ぐ事になりはしないか、とても不安だ。
 泣きたい気持ちを堪え、昼休憩終了を告げるチャイムに背中を押される格好で、彼らは掲示板の前を離れた。
 横並びになった三人を照らす日差しは、夏の厳しさがすっかり消え失せた晩秋の輝きだった。

 日が暮れるのがすっかり早くなった。
 夏休みの頃は、午後七時を過ぎてもまだ空は明るかったのに、今では六時を回る前に暗がりが東から押し寄せて、沈み行く太陽を急き立てる。秋の夜長とは言うけれど、外で自由に走り回る時間が減る分、損をしている気分だった。
「はぁぁぁ……」
 一週間を予定していた補習は、それだけで終わらないという判断のもと、二週間が経った今も絶好調で継続中だ。
 期末試験まで続くのではなかろうかという危惧さえ抱く状況に、綱吉は盛大なため息を零して机に寄りかかった。
 窓の外が暗いのは、何も時間が遅いからだけではない。分厚い雲が徐々に範囲を広げ、雨を呼ぼうとしていた。
 朝の天気予報では、夜半から降り始める可能性が高いと言っていたが、どうやら予定は早まったらしい。迷惑極まりない気まぐれな空模様に視線を投げ、真っ白いノートに突っ伏したまま綱吉はもぞもぞと膝を捏ねた。
 紺色のベストの上から、凹んだ腹を撫でる。正午過ぎの昼食から、水の一滴さえ胃袋に入れていないので、空腹感も絶頂に近かった。
 間食をしようにも、おやつ関係は学校生活に必要ないものだからと、風紀委員が見つけ次第問答無用で没収していく。交換で突きつけられる反省文用の原稿用紙が嫌なので、大半の生徒は危険を冒してまで菓子類の持ち込みを強行しない。
 綱吉もそのひとりで、だからさっきから五月蝿く泣き喚く腹の虫にも、ひたすら我慢するしかなかった。
「お腹空いたなあ」
 今までだったら、部活に所属していない綱吉は四時ごろには家に帰り着いており、子供達と取り合いをしつつおやつを抓んで、七時頃から奈々の愛情たっぷりの夕食に舌鼓。腹ごなしに子供達と少し遊んで、風呂に入り、リボーンにせっつかれつつ机に向かって宿題を済ませ、時間が余ればゲーム等で遊び、就寝。
 ところがこの二週間は、身体に馴染んだタイムスケジュールが大幅に狂いっぱなしだ。
 帰宅が遅くなり、おやつにありつけない。補習は基本的に六時台――部活が終わるのと同じ頃合に終了するのが常だが、進行具合ではもっと遅くなることもあって、そうなれば必然的に夕食の時間も後ろ倒しになった。
 最近子供達にもあまり構ってやれなくて、ランボは少々鬱憤が溜まり気味だ。こちらの都合関係なしにじゃれ付いてきて遊んでくれと強請るので、綱吉も苛立っている分対応が邪険になりがちだった。
 昨日などはついに泣かせてしまい、奈々にも怒られた。綱吉にだって言い分はあるのに、聞いてもらえない。小さい子はそれだけで得だと、心底悔しかった。
「ちぇ」
 思い出すとまた胸の中がもやもやして、気分が悪い。舌打ちした彼は鈍い動きで体を起こし、黒板に書き記された設問に目を向けた。
 順序だてた解法が丁寧に横に添えられている。この方法で解けば良いのだと、言われた時には理解出来たつもりだったのに、先生が会議があるからと席を外した途端、何も分からなくなってしまった。
 一度切れた集中力は、簡単には戻ってこない。空腹と、騒がしくて落ち着かない家に帰る憂鬱さも加わって、綱吉は芯を引っ込めたシャープペンシルで頭を掻き毟るのに固執した。
「帰っちゃおうかな」
 ぽつりと呟き、シャープペンシルを今度は顔の前でくるくると回転させる。肘を突き、左手に顎を載せて頬杖をついて左に視線を流せば、数分としないうちに空を覆い尽した暗雲が、夕暮れの輝きを完全に消し去ってしまっていた。
 天井から綱吉を照らす蛍光灯が、ジジジと軋むような音を立てる。手元に落ちた薄い影を爪で掻き、いよいよ本格的に降り始めそうな外の様子に目を細めた彼は、長時間座り続けている所為で凝り固まった身体の節々を伸ばし、最後力尽きて再び机に突っ伏した。
 会議が長引いているのか、先生が戻って来る気配は無い。グラウンドからは途切れ途切れに部活中の生徒の声が響いてくるが、ガラス一枚隔てたこの空間は驚くくらいに静かだった。
 廊下もシンとして、足音ひとつ響いてこない。物悲しささえ覚える寂しさに綱吉は唇を浅く噛んで、ついに問題を解くのを諦めて握り続けていたシャープペンシルをノートに転がした。
 しかし黙って帰ったのがバレた場合、後が怖い。自分の為にわざわざ先生方の貴重な時間を削らせているわけだから、綱吉も真剣に彼らに応えるべきではないか。元々真面目で律儀な性格をしている彼は、その押し付けがましくもある善意を無碍に扱えなかった。
 これが獄寺だったなら、余計なお世話のひと言で済ませてしまうのだろうけれど、綱吉はそこまで傲慢になれない。
「あー、もう」
 このまま居残り続けるか、放り出して帰るか。
 前者を選べば自分の苦労は増すが、他者の心証を悪くすることはない。後者は、その逆だ。二者択一、白と黒の扉を前に吊るされ、綱吉はどちらかに決められないまま無駄に時間が過ぎていくのを待った。
「そこの君、何してるの」
 ひとつに絞れない優柔不断な自分を恨みつつ、降りそうで降らない曇り空を仰いだ綱吉の耳に、不意に低音が紛れ込む。物音ひとつしなかったのに何故、と驚いた彼は椅子の上で飛び跳ねて、だらしなく傾けていた上半身を真っ直ぐに伸ばした。
 窓から反対側の廊下に目を向けて、零れそうなくらいに大きな瞳を限界まで見開く。教室後ろ側の扉に寄りかかる格好で、濃紺のベストを着た生徒がひとり佇んでいた。
 艶のある黒髪で、前髪はやや中央に集まり気味。その隙間から覗く瞳は切れ長で眼光鋭く、不機嫌に歪められた唇は薄い。全体的に整った顔立ちで、だからこそ感情を読ませない無表情には迫力があった。
「ふぇっ」
 綱吉もよく知る顔だった。
 並盛中学風紀委員長でありながら、学校全体を取り仕切る裏の顔役としても知られ、不良の総元締めとして君臨する、雲雀恭弥。彼を怒らせて無事で済んだ生徒はひとりも居ないとも言われ、口答えしようものならたとえ相手が教師であろうと、なんであろうと、容赦なしに叩きのめすとしても有名だ。
 その暴力は女子供にも等しく加えられる。彼が怖いから、並盛中学の生徒は馬鹿な真似をせず、昨今話に聞くような学級崩壊も起こらない。
 今現在、彼が率いる風紀委員に真っ向から対立しているのは、獄寺くらいではなかろうか。
「え、あ、え?」
「下校時間だよ」
 誰だ、教室のドアを開けっぱなしにして帰った奴は。
 帰宅の途についているクラスメイトに心の中で悪態をつき、綱吉は二重になっているドアの側面に肩を預け、少しだけ斜めに体を傾けている雲雀の前で視線を左右に泳がせた。
 顎で壁に設置された時計を示され、現在時刻を確認して頷く。言われてみれば確かに、いつも補習を終えて帰る時間帯を幾らか過ぎていた。
 椅子で床を擦って腰を半端に持ち上げて、直ぐに落として座り直す。挙動不審な動きを見せた綱吉に、雲雀は眉間に寄せた皺の本数を増やした。
「なにしてるの」
 時間は過ぎたのだ、さっさと支度を済ませて帰れ。
 短い叱責に込められた言葉を敏感に読み取り、綱吉は苛立ちを膨らませた雲雀に怯え、ひっ、と喉を引きつらせた。けれど、だめなのだ。自分は未だ、帰って良いという許可を先生から貰っていない。
 事情を説明出来ればいいのだが、強い語気で問われて咄嗟に返す言葉が出てこない。両手を持ち上げて顔の前で交差させ、首を亀みたいに引っ込めて座ったまま小さくなる。雲雀との距離は充分あるのに、今すぐ殴り飛ばされるのを想像して彼は目を閉じた。
 来るはずも無い衝撃を待ち構えている綱吉に呆れ、雲雀は嘆息すると同時に体を真っ直ぐに戻した。寄りかかっていたドアを離れ、廊下に漏れる蛍光灯の明りを見下ろす。
 居並ぶ教室で、明りがついているのは此処だけだ。特別教室棟で部活動中だった生徒も、お喋りを中断させて帰り支度を急いでいるはず。グラウンドから響いていた声も、既に遠い。
 在籍する生徒を全員帰宅させないと、見回っている風紀委員も帰れない。無言の威圧に綱吉は益々小さくなって、彼の視線から逃げた。
「聞いてるの」
「あ、の! お、俺、その」
 一歩教室内に踏み出した雲雀の足音が、鼓膜を突き破る勢いで綱吉の脳内に響き渡る。雲雀が廊下を歩いている音はちっとも聞き取らなかったくせに、こんな時に限ってどうでもいいくらいに集音能力があがるのは皮肉だった。
 このままでは酷い目に遭わされる。悲痛な決心で顔を上げた綱吉だったが、既に残り三メートルのところまで迫っていた雲雀に驚いて、みっともなく悲鳴をあげた。
 椅子から転げ落ちそうになって、慌てて両手を伸ばして机にしがみつく。広げていたノートが揺れて、載っていたシャープペンシルが勢い余って床に転がり落ちた。
 初期地点から机の位置がずれて、黒板に対して右が突き出る格好になった。跳ね上がった足からは、踵を潰した上履きもすっぽ抜けるところで、咄嗟に膝を下向きに曲げた彼は、残り二メートルのところで足を止めた雲雀を気まずげに見上げ、仰け反っていた背中を前に倒した。
 ひとりアクロバットを決めた綱吉はぽかんとし、直後に我に返って雲雀は右手を腰に当てた。馬鹿にしたつもりはなかったが、そんな風に見えても仕方が無い。人の顔を見て、殴られると怯えて勝手に慌てふためいた綱吉が悪いのだ。
「楽しい?」
「いえ……」
 揶揄して聞かれ、綱吉は申し訳なさそうに両肩を丸めて猫背になった。並べた膝に両手を重ね、握り締める。乾燥してかさついた肌に、右手中指のささくれが引っかかって小さく痛んだ。
 後ろではついに空が泣き始め、大粒の雫を地表に散らし始めた。窓を打つ風と雨音に外の変化を感じ取り、綱吉は重苦しい雰囲気に負けて長いため息を零した。
「帰らないの?」
「俺も、帰りたいのは山々なんです、けど」
 傲岸不遜、傍若無人で慇懃無礼。他人を思いやるというなど絶対にあり得ないとまで言われる、あの雲雀恭弥が。
 綱吉に配慮するだなんて。
「君が帰らないと、僕の仕事が終わらないんだけど」
 と思って驚いていたら、違っていた。
 間違っても彼の申し出は、綱吉の為などではなかった。単純に風紀委員の仕事が片付かないから、さっさと帰れという一方的な命令でしかなかった。
「そ……あ、そっ、そうですね、外、すっごい雨ですもんね。ヒバリさんだって、帰りたいですよね」
 少しだけ、本当に少しだけ、彼の優しさに期待した自分が馬鹿だった。
 哀しい気持ちが急に押し寄せて来て、綱吉は饒舌さに感情を誤魔化し、膝の上のノートを机に置いた。転がしたシャープペンシルを屈んで拾い、慌しくペンケースに押し込んでファスナーを閉める。
 忙しなく綱吉が動き回る間、雲雀は終始無言だった。
 雨音が窓越しに響き渡り、それが余計に場の空気の冷たさを強調した。沈殿してまとわりつく湿気を振り払い、椅子を膝裏で後ろに押した綱吉は、机の横に吊るした鞄を取ろうと腰を浮かせた。
「君は」
 不意に雲雀が口を開く。聞き取れなかった綱吉は無視しかけて、別のものにハッとして手を止めた。
「っ!」
 窓の向こう、暗闇を貫き、禍々しいまでの閃光が突如教室に襲い掛かった。
 反射的に身を凍らせ、肩を強張らせた綱吉が息を止める。指に引っ掛けていた鞄の取っ手が外れ、自重に負けて床に沈んだ。
 雲雀もまた言葉を切り、南向きの壁を埋める窓ガラスを仰ぎ見た。瞳を焼く眩さに顔を顰め、背ける。室内照明を上回る光量に、長く伸びた柱の影が唸るように伸びて縮んだ。
 完全に立ち上がるか、椅子に座り直すか。どっちつかずの綱吉の身体が泳ぎ、脛が椅子の脚にぶつかった。ガタガタと後ろの席にぶつかって喧しい音を立て、雲雀がそちらに気を向けるより前に、綱吉が彼の方へふらつく。
 右肩が迫り、雲雀は咄嗟に彼を避けようとして両手を外向きに広げた。
 左足を引き、爪先で床を擦る。
 直後。
「うわぁぁぁぁぁ!」
 かなり近い場所で落雷の轟音が鳴り響いた。
 震動で窓ガラスが一斉に震える。びりびりと鼓膜を打つ衝撃を伴った迅雷に、綱吉は裏返った悲鳴をあげて其処にあったものに縋った。
 恐怖に竦みあがり、目を閉じて光を遮断する。虚空を掻いた指が掴んだものがなんであるのか、本人が理解しているかは甚だ疑問だった。
「ちょっ」
 雲雀もまた上擦った声を漏らし、浮かせていた両手を下ろそうと試みた。
 網膜を直撃した光の所為で、視界がぼやけている。奥歯を噛んで眩暈を引き起こす大気の慄きをやり過ごそうとした彼だが、間断置かず炸裂した稲光に怯んだ瞬間、胸を衝いた勢いに押され、ぎりぎりで保っていたバランスはついに瓦解した。
 ふっ、と空気が凪ぐ。
 異変を感じ取り、雲雀が姿勢を崩す最中で天井を見た。
 光が――消えた。
 目を見張る。されど彼の瞳に映し出されたのは、陰影もなにもない一面の闇だった。
 停電。こんな時に。
 圧し掛かる重みが少しずつ中心点を上にずらしていくのが分かる。このままでは受身も取れないが、振り払うことも出来なくて、雲雀はぎゅっと自分にしがみついてきた存在を庇うように、両手をその背中に回した。
 迅雷が大気を劈き、肩から床に落ちた雲雀は跳ねた肘が居並ぶ机にぶつかって痛みを発する中、一瞬だけ触れた柔らかなものに暗がりの中で目を見張った。
 容赦なく鳴り響く稲妻に心臓を縮めこませた綱吉もまた、唇に掠めた熱に驚き、自分の下敷きとなって衝撃を吸収してくれた相手を思い出して、琥珀の瞳を零れんばかりに広げた。
 数秒間、時間が停止する。相手が自分を見ているとも知らずに、お互いが暗闇の中で息を止め、今自分の身に何が起こったかを動かぬ頭で懸命に考えようとした。
 が。
「ひゃう!」
 三度教室を襲う雷光、そして雷鳴。地響きさえ伴うその激しさに、綱吉は男としての誇りもなにもかも投げ出し、目の前にある温かく確かな存在に縋って恐怖を堪えた。
 照明はまだ復活しない、恐らく最初の落雷でブレーカーが飛んだのだろう。
 綱吉は額を雲雀の胸に押し当て、細かく震えながら彼のベストを握り締めた。指を絡め、絶対に放すものかという意思表示を本人の自覚無いままに示して。
 右から左へ柱の影が走りぬけ、四度目の雷が轟く。転倒時に受けた痛みを堪えた雲雀は、重く圧し掛かる綱吉を押し返そう彼の肩に手を置いた。
「やあ!」
 だのに矢のように鋭い声をあげられ、抱きつく腕の力を強められた。
 ガクガク震える姿は、肉食獣を前にした草食動物じみている。目尻に涙を浮かべ、巧く行かない息継ぎを繰り返して喘いで、雲雀の腰に回した腕を左右で握って離れない。
 触れ合った箇所から流れてくる熱は、驚くほどに高かった。
 五度目、最初の一撃よりも随分と遠くなった。だのに綱吉は震えたまま、唇を噛み締めて恐怖を押し殺している。
 哀れにも思える怯え方に、雲雀は目と首が疲れる暗闇の中での観察を諦め、力を抜いて床に後頭部を戻した。綱吉の肩に残していた右手を滑らせ、彼の背へと流す。
 その瞬間だけ綱吉はピクリと震えを止めた。しかしそっと撫でてやると、震えは幾分弱まった。
 左手で胸板に埋もれている彼の頭を撫でる。鼻水を垂らしていたら許しはしないと心の中で呟くが、手つきは自分でも驚くほど優しかった。
 見た目は硬そうなのに、触れてみると意外に髪質は柔らかい。爆発している髪型の所為で大きく感じた頭部は、実際は思うほどではなかった。
 こんなに小さい子だったのかと、不思議な気分になる。
 綱吉は動かない。まだ落雷のショックが抜けないのか、時々しゃくりをあげるだけだ。
 明りは灯らず、雷光も遠退いて教室は暗い。雨の音だけが、ふたりの鼓膜を打つ。
 いや。
 ――あたたかい……
 ふたり分、混ざり合った心臓の音が肌を通して直接相手に響いていく。
 腕に力を込めると、距離が狭まった分、音が近くなる。綱吉は一瞬だけ苦しそうに身動ぎし、やがて安定する場所を見つけたのか大人しくなった。
 いつ止むかと知れない雨の中、教室に光が戻るまでの長くも短い時間、じっと、ふたりはそうして折り重なりあっていた。

2008/10/05 脱稿
2009/7/26 一部修正