息が切れる。圧迫する胸は苦しく、酸素をどれだけ掻き集めても肺まで行かず、喉で止まって押し返されている感じだった。
綱吉は駆けている姿勢だけを残し、歩いているに等しい速度で、枯れ草が両脇を彩る道を必死に進んでいた。
身体中の血液が沸騰し、熱を生む。犬を真似て舌を出して熱を吐き、傷だらけであちこち痛む体を懸命に前に運んで、彼はふと顔を上げた。
前方の暗がりの中に、もっと黒々しい巨大な壁が見える。昼間であればそれは緑濃き山だと分かるが、この時間帯では薄ぼんやりとした星月の明りしか頼るものがない為、輪郭線さえあやふやに映った。
不気味さを覚えるのは、後方に広がりつつある炎の輝きの煽りを受けているからだ。疲れを訴える足を止めて振り向いた彼は、地平を舐める赤い影に顔を顰め、目尻に涙を浮かべた。
「ヒバリさん……」
行け、と言われて走って来たが、不安ばかりが募って仕方が無い。離れるべきではなかったと後悔が胸を過ぎり、直ぐに追いつくと言った彼の言葉を信じて、綱吉は数秒間その場で待った。
けれど誰かが追いかけてくる様子はまるでなく、彼はついに透明な雫を頬へ流し、温かな熱が伝う感触にはっとして慌てて目元を擦った。
泣いてばかりいては雲雀に呆れられる。彼に心配をさせないためにも、一刻も早く安全な場所へ急がなければ。
それに、家に残して来た奈々も心配だ。
「みんな、大丈夫……だよね」
獄寺に山本、フゥ太。行方が知れない仲間を気に病み、自分ばかりが逃げていていいのかと綱吉は苦悶する。
深呼吸をし、首を振った彼はもうひとつ流れた涙も拭って胸に手を押し当てた。走った影響でいつも以上に激しく鼓動を繰り返す心臓を確かめ、そこに感じる微かな雲雀の気配に目を閉ざした。
雲雀は無事だ。彼が無事なら、きっと皆も大丈夫。
根拠も無く浮かんだ結論に頷き、綱吉は腕を下ろしてもうひとつ息を吐いた。
山へ行って、そしてリボーンを探そう。彼だって並盛が燃えてなくなってしまうのは不本意だろうし、きっと望まない。
今は自分が出来る事を、出来るようにやるだけ。雲雀が逃げろといった、だから綱吉はそれに従う。
夜も遅い時間帯だというのに、村を巻く炎の所為なのか気温は高い。肌にまとわりつく蒸し暑さを振り払い、綱吉は休んだお陰で少し楽になった足を前に繰り出した。
だが、五歩といかぬうちに彼の足は再び止まった。
「誰」
胸を内側から撫でる不快感に眉を寄せ、彼は誰何の声をあげた。
人が居る。綱吉が行こうとする細い畦道を塞ぐ形で、北の方角に。
其処を抜ければ屋敷に通じる九十九折の石段まであと少し。周囲に人家はなく、両側に広がる田畑で使う農機具を入れておく小屋がひとつ、水路の隣に設けられているだけだ。
騒ぎを聞きつけて心配した奈々が降りてきたのかと最初は思ったが、それならば彼女は提灯なりなんなり、灯りを持っているはずだ。こんな暗がりの中では、起伏の乏しい平らな場所を歩くだけでも骨だというのに。
一歩踏み誤れば怪我を回避できない石段を、足元を照らす光の頼りなしに楽に進めると綱吉は思わない。いくら急いでいたとしても、十年以上あの屋敷で暮らしている奈々がそんな初歩的な失態を犯すとも考えづらく、ならば、と綱吉は闇に目を凝らし、緊張に肩を強張らせた。
奈々ではない。では、あそこに居るのは誰だ。
真っ先に浮かんだのは、雲雀が相手をしていたあの男達。事情は分からないが彼らの狙いは綱吉らしく、その綱吉が逃げたとあれば追いかけてくるのも当然と思えた。尤も雲雀が易々と彼らを見逃すわけもないし、もしそうだとしても姿を見せるのは後ろ――南側からが道理といえた。
綱吉は走っている間、ずっとひとりだった。誰かに追い抜かれたという記憶は無い。
問う声の返事は、待っても来なかった。
「……」
注意深く気配を探ってみるが、分からない。村人から溢れ出た悪意は飛び散り、並盛の空気を濁らせる。炎の熱がそれをかき混ぜ、綱吉から状況を読み取る力を邪魔していた。
彼は今一度背後を窺い、雲雀が追いついてこないかと僅かに期待を寄せてから肩を落とした。
雲雀の気配は薄い。まだ無事でいるのは疑いようが無いが、どのような状況に陥っているのかはさっぱり把握できなかった。伝心で呼びかけても、彼の傍にある何か――間違いなくあの怪力自慢の男が宿すものによって弾かれ、届かない。
鬼の形相で怒鳴った雲雀の、いつになく切羽詰った様を思い出す。胸がちくりと痛み、綱吉は下唇を噛んで新たに沸き起ころうとした涙を堪えた。
「ツナ兄」
「っ!」
他所に気を向けすぎて、目の前の事を一瞬忘れていた。綱吉は自分を呼んだ幼い、弱々しい声にびくりと震え、喉から飛び出しかけた胃袋を急ぎ飲み込んでもとの場所に戻した。
どきっとしてしまった自分の心臓を宥めて両手で上から押さえ、振り返る。北の道に佇む人影が、短い歩幅で綱吉ににじり寄った。
先に足元が見え、次いで腰、胸、肩と現れる。雲間から覗いたか細い月明かりに照らし出され、煤で顔を汚した少年は力なく綱吉に微笑みかけた。
「フゥ太……?」
綱吉の肩ほどまでしかない背丈に、綱吉よりも薄い色の髪。全身泥と煤に汚れ、着物の所々には焦げて破れた箇所が見受けられた。
肌色は優れずに土気色をしており、唇も紫に染まって血の気が遠退いている。どこか虚ろな瞳に覇気は乏しく、綱吉へ歩み寄る足取りも不安定で、いつ倒れても可笑しくない様子だった。
自力で炎に巻かれた広場から脱出したのだろうか、綱吉の目には幼い少年ひとりしか映らない。
よほど怖い思いをしたのだとフゥ太の様子を見て判断した綱吉は、胸の中にあった警戒心を解き、彼の無事を知って胸に閊えていた重荷のひとつを取り除いた。ほっと安堵の息を吐き、強張っていた表情を緩める。
「フゥ太、良かった」
「ツナ兄」
自分からも彼に足を踏み出し、前に出て両手を軽く広げた。
いつもならフゥ太は、これだけで嬉しそうに笑って綱吉に駆け寄ってくる。けれどどうしたのか、彼は曖昧に口元を綻ばせただけで笑顔に替え、のろのろと千鳥足を続けた。
左手は体の横で前後に振り、利き腕は背中へと。どこかぶつけて痛いのかと眉根を寄せた綱吉は、彼の様子に微細な違和感を覚えて出した右足を引っ込めた。
立ち止まって、彼が近付いてくるのを待つ。フゥ太は綱吉の三歩弱手前で歩くのを止めた。
「フゥ太、なにがあったんだ」
「あのね、ツナ兄。あのね」
じっとりと首筋から背中にかけて汗が滲み、薄汚れた長着が肌に貼りついて気持ちが悪い。綱吉はじりじりと背中から体を焦がされる感覚に襲われながら、俯いているフゥ太の髪からはみ出ている耳ばかり見ていた。
彼は実年齢よりもずっと幼い口調で綱吉を呼び、依然光を失った瞳をして綱吉を見上げた。
「フゥ太?」
「ツナ兄、あのね。……僕ね、雲雀さん、嫌い」
「え?」
聞こえて来た声に先ず自分の耳を疑い、綱吉はきょとんとして瞬きを繰り返した。
空気が冷えて、重く沈んでいく。
「雲雀さん、嫌い。山本のお兄ちゃんも、嫌い。あの獄寺って人も、嫌い。みんな、嫌い。嫌い。だいっきらい」
フゥ太が言う。綱吉の身近な人の名前を順番に挙げ、その人を罵り、これまで彼がどれだけ皆から慈しまれてきたのかも忘れ、否定して、嫌いだと声を荒げて吐き捨てた。
綱吉の知るフゥ太は優しくて、自分より小さな子の面倒もしっかりと見ることの出来る、ちょっと大人びて、頭が良くて、それでも歳相応の甘えん坊で、母親思いのとても良い子だ。こんな、今綱吉の目の前にいるような、汚らしい言葉で他人を貶し、傷つける真似をする子ではない。
「フゥ太、どうしちゃったんだよ。なんでそんな事言うんだよ」
「だって嫌いなんだもん!」
大好きな人たちが罵られて、黙ってなどいられない。これ以上言って欲しくなくて綱吉は声を大きくしたが、フゥ太はきかんぼうの様相で首を振り、綱吉を上回る大声で怒鳴った。
左拳を握り、震わせ、地面に向かって唾を吐く。顔を上げた彼の眼には光が戻っていたが、その輝きは生気に溢れたものではなく、もっとおぞましい、見る側に寒気を呼び起こさせる残酷で冷たい色をしていた。
半歩下がり、綱吉は現実を否定したくて首を振った。
フゥ太が前に出て、広がった以上の距離を詰めた。
「みんな、みんな死んじゃえばいいんだ。雲雀さんも、山本のお兄さんも、みんな、みーんな」
「そんなこと言うな!」
けたけたと歯を鳴らして笑い、楽しげに肩を揺らしたフゥ太に我慢ならなくなった綱吉が怒鳴る。瞬間、彼はぴたりと動きを止め、糸が切れた操り人形の如くかくり、と首を前に落とした。
目まぐるしい変化についていけず、綱吉が叫んだ姿勢のまま肩を上下させた。
考えてみれば、持田もそうだった。彼と一緒に綱吉を追い回していたふたりも、日頃は温厚で、優しい人たちだ。
幼い頃は軟弱で男らしくないと綱吉をからかい、虐めてきたが、最近はそんな事もなく、持田以外とは普通に会話も出来たし、道ですれ違えば挨拶もした。
あんな風に獣の声をあげて追いかけてくるなんて事、一度も無かった。
「…………思い出せ、考えるんだ」
もしフゥ太の罵詈雑言も、持田たちの変貌にも、理由があるのだとしたら。
何の異変も起こらなかった綱吉、雲雀、了平たちと彼らとの違いは、いったいなんだ。
きっかけは――?
「ツナ兄が怒った」
ちかちかと頭の奥で光が明滅し、答は此処だと教えている。しかし綱吉がそこへ到達する前に、動きをとめていたフゥ太が不意に低い声を放った。
空気が変わった。感じ取り、綱吉が鳥肌を立てた体を抱き締める。
「フゥ……」
「ツナ兄が怒った。ちがう、ツナ兄は僕に怒ったりしない。僕のツナ兄は僕を怒鳴ったりしない。ツナ兄じゃない、こんなツナ兄はいらない!」
憎悪に満ちた瞳が綱吉を真正面から射抜く。ぞわっと彼を取り囲む空気が膨張して弾け、避ける暇なく浴びせられた人の悪意に綱吉は反射的に萎縮し、体を硬直させた。
胃袋の中身が逆流し、気道を圧迫しながら喉へ登ってくる。吐き気を必死に堪えて息を止め、襲い掛かる真っ黒い毒の塊に目を見開き、綱吉はフゥ太の急変ぶりに悲鳴をあげた。
隠されていたフゥ太の右手が高く掲げられる。朧な月明かりを反射する鋭利な輝きに、綱吉の身体は彼の意志に関わらないところで、勝手に反応した。
地面を蹴り、着地の体勢が整わないのを承知で後ろへと跳ぶ。
「うあっ」
細い銀の線が目の前を斜めに駆け抜け、綱吉は右肩から背中を打って地面に倒れこんだ。骨に響く衝撃に呼吸が止まり、苦痛に噎せて激しく咳き込む。眼の奥で星が散って明るいのに暗く、口を開いて絶え絶えに息を吐いた彼は、頬に散った泥を払おうとして左手を持ち上げ、袖のほぼ中央がぱっくりふたつに裂けているのに気付いた。
切られたのだと理解するのに、更に数秒が必要だった。
あと少し跳ぶのが遅ければ、切れたのは布だけで済まなかったろう。想像して慄き、彼は乾いた口腔に唾を呼び込んで後退しながら体を起こした。
柔らかな地面に、綱吉の尻が掘った溝が浅く残される。フゥ太がそれを乗り越え、大股で間隔を詰めた。
彼の右手には、逆手に握られた鋭い小刀。柄の形には見覚えがあって、それはフゥ太が町の学校で専門的に勉強を学ぶ為に村を出た日、彼の母親が護身用として持たせたものだ。彼はこれをいつも帯の内側に、お守り代わりに潜ませていた。
日頃の温厚さからは想像もできない形相で綱吉に刃を振り翳し、躊躇せず突き立てる。
「うっ」
積み重なった疲労で重い体を強引に地面から引き剥がし、綱吉は仰向けからうつ伏せに姿勢を変えてそれを躱した。とは言っても余計に体勢が悪くなっただけで、もうひとつ転がって顔を天に向けた彼は、首を引っ込めて迫る銀の刃から逃げ、反対に跳ね上がった足でフゥ太の手首を狙った。
凶器を手にしているとはいえ、元からフゥ太は武術の鍛錬など積んでおらず、故に構えもなにもかもが見様見真似。腕の振りは大きく雑で、雲雀たちを見慣れている綱吉には充分目で追えるものだった。
「うあ!」
甲高い悲鳴をあげ、フゥ太が蹴られた手から守り刀を落とした。その間に綱吉は姿勢を整えて起き上がり、フゥ太との距離を取る。本当は小刀も取り上げてしまいたかったのだが、不用意に近付いて思わぬ反撃を食らうのは避けたかった。
口の中に入った土を吐き出し、唾で汚れた唇を洗う。綱吉は荒い呼吸の間隔少しずつ伸ばし、注意深くフゥ太の動向を観察した。同時にこれまでの出来事を振り返り、脳裏に掠めた仮定を当て嵌めていく。
始まりは山本の帰還、そしてディーノの来訪。
囁かれる旅芸人一座の噂。
ディーノの事は一旦外に置く。その上で綱吉は、ここ数日の間に自分の周囲で起きたあらゆる出来事を振り返り、どたばたの最中で忘れていた事をひとつ、思い出した。
山本が伝えた退魔師を狙う輩の影と、予想される進路。
退魔師を殺して回る連中は、いったいどうやって標的に近付いたのか。
殺された人々の死因は、獣に引き裂かれ、巨大なものに押し潰され――
雲雀と一緒に居たところを襲った男達は言っていた。綱吉は連れて行く、雲雀は殺して良い、と。
彼らが何故綱吉を求めたかは、本人らに聞いてみない限り不明のまま。だからまだ可能性、仮定の段階でしかないけれど、ここでやっと、綱吉は雲雀が言うのを渋っていた内容と理由を知った。
退魔師殺しの犯人と、並盛を訪れた旅芸人一座と、綱吉を狙って襲ってきた奴らは、同じ。
奴らが綱吉を手に入れる為に、村を滅茶苦茶にした。
では綱吉が居なければ、村人は巻き込まれずに済んだ――?
「ツナ兄なんか嫌いだ!」
はっとして、綱吉は唸り声をあげて繰り出されたフゥ太の刃を寸前で避けた。髪の毛が数本巻き込まれて散り、首を窄めた綱吉は姿勢を低くしたまま、フゥ太とすれ違う形で重心の位置を入れ替え、踵で土を抉って倒れ掛かる体を支えた。
肩で息をして、歯を食いしばって全身に力をみなぎらせているフゥ太を見詰める。
綱吉が居なければ云々は、考えるだけ無駄で意味を成さない。起こらなかった可能性に道筋を求める暇があったら、現状を打破して少しでも改善させる方法を探すべきだ。
過ぎた事をうだうだ言って落ち込むくらいなら、しゃんと背筋を伸ばして次同じことが起きた時、どうすれば失敗しないかを考えろ。リボーンに何度も頭を、尻を叩かれながら言われたことばが蘇る。
自分が今、すべき事はなにか。
目の前に救いを求める存在がいて、綱吉に出来ることと言えば、なんだ。
考えろ。己に命じ、綱吉はふっと感じた風に視線を持ち上げた。
南の地平線が明るい。炎は鎮火するどころかますます気勢を強め、里を飲み込もうとしている。獄寺たちが気がかりだし、雲雀がどうなっているのかも全くの不明。
心臓への圧迫感は幾分和らいでいる。その理由を思い、綱吉は左胸を撫でた。
「ヒバリさん……」
苦々しい顔をしていた彼を思い出し、南に延びる鎖の行く末に目を向ける。今も耐えず淡い輝きを放っている封印の証に唇を噛み、綱吉は雲雀が食い止めている男から感じた禍々しさに身を震わせた。
少しだけなら、大丈夫だろうか。
彼の戦いを有利に運ばせて、一秒でも早く終わらせる為だ。ちょっとだけなら、きっと大事には至らない。
試したことがないから保証は出来ないけれど、このままでは、綱吉は誰も救えない。
彼は胸を撫でた手で肩を抱き、上腕へ滑らせて肘を握った。指先に込める力を僅かに強め、細くなっている手首を捕まえる。
道場でディーノに組み敷かれ、触れられた記憶が生々しく蘇る。耳元で囁かれた言葉が繰り返し頭の中に響き渡る。それら一切を振り払い、綱吉は奥歯を噛み締めて嗚咽を堪え、自分と雲雀を結んでいる金色の鎖に指を掛けた。
無数の輪を連ねた、眩い輝き。彼が触れた瞬間に一層光を強め、淡い蛍火が彼の周囲に飛び交った。
「…………」
すぅ、と息を吸い、吐き出す。凝縮された濃い空気が綱吉の髪を優しく撫で、人を傷つける道具を握ったフゥ太はその体勢のまま固まった。
綱吉に向けた悪意が弾き返されている。穏やかに揺らぐ大気とは異なるものの流れを感じ取って、彼は指一本動かせない。
「……つなよし?」
雲雀は自分の中に流れる力の鼓動が強まる気配を敏感に受け止め、その名を呼んだ。
返事は無い。代わりに空高く泳いだ鉄球が突如予想しえぬ場所で軌道を変え、余所見をした雲雀の頭上を襲った。
金の鎖がひとつ、たったひとつ。
砕け散る。
「……――」
直撃を食らうのを嫌い、それまで鉄球から逃げる一方だった雲雀が北を向いたまま拐を後ろへ引く。遠巻きに見ていた千種は、その行為を自暴自棄に陥ったものかと錯覚した。
ランチアが顔を顰める。彼は人の耳に聞こえぬ高さで空気が一度だけ震え、巨大な波を起こして鳴く音を聞いた。
「くっ!」
彼は咄嗟に、変容した気の性質に気付いて鉄球に繋いだ鉄の鎖を引いた。けれど勢いに乗るそれは、彼の腕力だけでは最早どうにもならない。
「綱吉」
雲雀は接近する鉄球の起こす轟音にも構わず、ぽつりと呟いた。
拐に淡い桔梗色の光が宿る。
彼は無造作に、迫り来る鉄球を、撫でた。
気持ちが入っているとは思えない動き。そんな仕草では到底剛球を防ぎきれるわけがなく、千種は頭を潰され、ぐちゃぐちゃになった雲雀を脳裏に思い描いた。
ズゴゴゴォォ!
だのに予想は裏切られる。
轟音を伴い、大地を震わせ、打ち返された鉄球は土で出来た山を弾き飛ばした。
「くぅっ!」
ランチアが呻き、鎖に引きずられそうになった体を必死に留め、大地に足を突き刺して踏ん張る。炸裂した土の塊は雲雀だけを避けて四散し、避け損ねた千種は犬ごと身体半分を地中に埋めた。
薄い煙を棚引かせる拐に瞬きした目を向け、雲雀は、一瞬だけ復活して消えた自身の力に内心驚き、北ばかりを気にしながら手を広げて、握った。
意識を失ったフゥ太を両腕で支え、綱吉はその小さな手に握られたままの小刀を取り上げた。
愛息子の身を案じてこれを持たせた母親の心痛を思うとやるせなさに包まれるが、綱吉は悲しげに顔を伏して弱く首を振り、人差し指と中指の二本で挟んで持った刃を、指を交差させる事で粉々に砕いた。
もうこれで二度と誰かを傷つけぬように――誰かを傷つける事で、フゥ太が傷つかぬように。
安らいだ顔をして眠るフゥ太の表情に安堵し、綱吉はふっと体の力が抜けるのを感じた。自力で立っていられなくて、膝を折って地面に崩れ落ちる。それでもフゥ太を落とさなかったのは、こんな状況に彼を追い遣ってしまった事への贖罪だった。
落ち着いた呼吸と脈拍を確かめ、すっかり汚れてしまったフゥ太の髪の毛を指で梳く。ごめんな、と声になりきらない音量で囁き、綱吉は彼を地面に下ろした。
「うぐ……うぇぐぇっ」
横に脚を広げ、両手を膝の前に突き立てる。そうして背中を丸め、今度こそ催した吐き気を泥の上にぶちまけた綱吉は、殆ど胃液ばかりの吐露物に涙を浮かべ、悲鳴をあげる全身を懸命に奮い立たせた。
日頃雲雀に預けっ放しの力が、こんなにも重いものだったとは。
長らく自分から離れていたものが急激に、本当に僅かな量と時間でしかなかったのに、戻って来ただけで、こんなにも負荷が掛かるものだったなんて。
「……違う。俺が、ちゃんと使えてないだけだ」
現に夏の梅雨の時期の騒動では、此処まで酷くならなかった。あの時と今の違いは、簡単。術を――力を使ったか、どうか。
「リボーンの、言う通り……だった、な」
使えなくても、行使できなくても、手順や作法、形は覚えておけと耳に胼胝ができるくらい言われていたのに、綱吉は必要ないと突っぱね、真面目に学ぼうとしなかった。一生使う機会がないし、使うつもりはないと決め付けていたけれど、世の中はそう甘くなかったという事か。
後でまた、リボーンに怒られてしまう。
撥で頭を殴られて瘤を作っている自分を想像し、あまりにも平和すぎる光景が可笑しくて綱吉は泣き笑いの表情を浮かべた。
苦しい。痛い。哀しい。辛い。
切ない。
「誰が、フゥ太を……みんなを、こんな風に」
初めて誰かを許せないと思った。
滾る怒りのやり場を求め、綱吉は握った拳で自分の腿を殴った。二度、左右一発ずつ。震動が下から登ってきて、綱吉は溢れ出た涙で頬を濡らし、
「くそぉ!」
叫んだ。
悔しい。情けない。自分が惨めだった。後悔しても、なにもかも手遅れで。気付くのが、遅すぎて。
「くそ、くそ、くそお!」
あらん限り叫び、三発目の拳を高く掲げる。直後、ガサッと草葉が揺れ、弾かれたように彼は顔を上げた。
琥珀を瞬かせ、綱吉は暫くの間呼吸をするのを忘れた。
「君は」
人が居た。
村人ではない。
紫紺の単衣に長めの前髪、天頂の部分だけが逆向いて天を指し、小奇麗な身なりをして、年の頃は綱吉よりは少し上、恐らく雲雀と同じくらい。すらりとした体躯に、背は高く、地面に座り込んでいる綱吉は首に角度を持たせて見上げねばならなかった。
暗がりの所為で分かりづらかったが、声を聞いて綱吉は記憶の蓋を開け、中身を取り出した。
「えっと……」
呆けたまま綱吉は言葉に窮し、対応にも困って息苦しさから咳をした。喉を撫で、ざりざりとした感覚に見舞われる胸の不快さに首を傾げる。
「良かった。君は正常なんですね」
けれど違和感の正体を探り出す前に青年は興奮に上擦った声をあげ、綱吉に小走りで駆け寄った。そして横たわるフゥ太に気付き、手前で立ち止まる。
近くなった所為で余計に首の角度を強めた綱吉が、この人は誰だっただろうかと、取り出した筈の昨日の記憶に首を傾げ、不思議そうに目を細めた。
「正常?」
「急に火の手が村を襲って、何があったのか聞こうとしたらその人がいきなり襲い掛かってきて。這う這うの体で此処まで逃げて来たんです」
早口にまくし立て、胸元に手を押し当てた青年の綺麗な姿を上から下に見詰め、綱吉は違和感が強まるのを受け止めながらも、それが何故か分からずに困惑した。
ひとつ、大事なことを忘れている。そんな気分で、だのに肝心な箇所に思考が巡り行かない。まるで思い出すなと言われているようで、眉根を寄せた彼は今一度青年の顔を見詰め、曖昧に笑い返した。
思い出せないのなら、きっとたいした事ではない。そう割り切ることで自分を安心させ、綱吉は左を下にして横になっているフゥ太の頬を撫でた。
「俺も、よくは……。村に来ていた旅芸人が、村の人たちになにかしたんだと、思うんだけど」
具体的に言えないものの、元凶は其処にあると見て間違いない。綱吉は言葉を選びながら、舞台に上がった男達を順繰りに辿っていった。
怪力男、獣を模倣する男、投擲の名手、そして。
そして、あと、ひとり。
もうひとり。
口元にやっていた手がするりと落ち、反対に綱吉の泳いでいた視線が上を向いた。
見知らぬ男がひとり、にこにこと笑っていた。
「初めまして。僕は、六道骸」
ゆったりとした動作で彼は右手を横に振り、胸の前で止めて腰を曲げた。優雅に深めの礼をして、宜しくと嘯く。
綱吉はよろめき、立ち上がると同時に彼から離れた。フゥ太をその場に置き去りにすることになったが、今の彼に他者を気にする余裕は皆目残されていなかった。
「むく、ろ……」
不吉な名前に綱吉が頬を強張らせる。引き攣った表情を浮かべる彼に、何を怯えるのかと骸は目尻を下げて優しい笑顔を浮かべ、一歩踏み込み、綱吉に近付いた。
「ええ。これからはその名で呼んで下さい、――」
紡がれた綱吉のものではない、名前。
ディーノが繰り返し、焦がれる思いを載せて刻み続けた、名前。
雲雀とよく似た人の幻が綱吉を呼ぶ、その音を。
骸は。
骸が。
「いえ、今の君は沢田綱吉、でしたか」
「っ!」
夢うつつだったものが急に現実味を帯び、綱吉の前の幕が開いた。
温い風が吹き、骸の長い前髪を掬い上げる。ふわり、浮き上がったその下に隠されていた瞳がふたつ、綱吉だけを見詰めていた。
緋と、紫紺。
左右で異なる色に浮き上がる、地獄の数と同じ数字。
竦み、綱吉は濁流となって押し寄せてきた様々なものに囚われ、瞬きさえ忘れ、唇を戦慄かせた。
にこやかな青年が迫る。逃げなければと思うのに、分かるのに、身体はぴくりともしなかった。
「綱吉、綱吉君……良い名前ですね」
赤い炎。
燃え盛る村。
崩れ落ちる梁、断末魔の叫び。
人が死んだ。沢山、死んだ。
殺された。
誰に。
誰に?
「…………――?」
知らぬ名前を、綱吉は自覚なきまま呟いた。
骸は一瞬目を見開き、そして底抜けに明るく、とてもとても嬉しそうに笑った。
笑って。
「ああ、君は。君はやっと、僕のところに帰ってきてくれた」
右手を高く掲げて。
砕いたはずのフゥ太の短剣で。
彼は。
とても嬉しげに微笑んで。
「君を愛しています、とても――とても」
綱吉の左胸に。
つき立てた。