精霊火 第二夜(第二幕)

「がっ!」
 すかさず起き上がった山本が左腕で了平を殴り飛ばす。足元がふらついていた所為で今度は避けられず、彼はもんどりうって倒れ、口腔に紛れ込んだ砂粒に唾を吐いた。
 視界が白く濁り、輪郭が二重、三重にぶれて定まらない。熱を持った右頬を庇って身を起こし、了平は山本の横に並ぶ獄寺の存在を思い出して舌打ちした。
 あまり言葉を交わした記憶は無いが、春先から沢田家に居候している獄寺もまた、雲雀や山本同様に退魔の術者だという事実を脳裏に浮かべ、ならば今炸裂したものも、と素早く状況を読み解いていく。現に獄寺の指先には数枚の札が、いつでも投げ放てるように握られていた。
 山本ひとりならばどうにかなっただろうが、そこに獄寺の援護が挟まるとなると、形勢は了平に不利な方向へ一気に傾く。同時に相手を出来るかと計算を巡らせるが、獄寺の闘い方が了平にとっては未知数であり、今のような攻撃を連発させられれば追い詰められるのが誰であるかは自明だった。
 脂汗を額に流し、打開策を探して了平が落ち着き無く視線を彷徨わせる。
 彼の瞳に、覚えのある華やかな小袖が映し出された。
「京子!」
 右斜め前方、押し合い圧し合いが続く村人の群れの中に一瞬だけ現れて消えた小柄の少女。赤黒い炎に照らされる限られた視野しか確保できぬ場であっても、絶対に見間違えないと誇れる姿に了平は呻き、戦慄に心の臓を震わせた。
 全身の血液が沸騰し、怒りが頂点を突き抜ける。がりっ、と音を響かせて奥歯を噛み締めた彼は、男の手に引きずられてなぎ倒された京子を助けることを最優先事項として改めて己に認識させた。
 目的を達するのにすべき事はなにか。
 彼は嘗て無い怒りに身を焦がし、憤怒の形相で山本、及び獄寺を睨みつけた。
「お前達に何があったかは知らん、聞かん。だが、邪魔立てするならば容赦はせんぞ」
 男女の差なく、怒号が、悲鳴が稲荷前の広場に波を起こす。血の臭いはいよいよ濃くなり、炎が爆ぜる音と脂が燃える臭いに混じって、地獄絵図は緩やかに範囲を広げて行く。
 雨を忘れ、乾燥した大地に引火した炎の勢いは強い。
 村人の異変は広場の外側にも伝わり、綱吉は完全に萎縮したまま細かく震え続けた。
 雲雀が肩を掴んで揺するが、意識が混濁しているのか瞳は泳ぎ定まらず、此処に雲雀が居るという認識さえ出来ていない様子だった。爪の跡が刻まれるくらいに自分の腕を強く握り、皮膚が裂けて血が滲むのさえ厭おうとしない。
 伝心で直接呼びかけても反応は鈍く、声は届かない。何かの邪魔が入っている可能性は非常に高く、雲雀は騒ぎの声がどんどん大きくなる広場にも気を揉み、臍を噛んだ。
 草履の裏で土を抉り、綱吉を支えたまま背後を見る。鮮やか過ぎるまでの赤に彩られた広場の舞台では、人々の騒乱などそ知らぬ顔で舞は続いていた。
 可笑しい、異様だ。
 それが分かっていながら思考は追いつかず、状況整理が出来なくて混乱に拍車をかける。綱吉を放っておくわけにもいかないが、騒ぎに飛び込んでいった了平は心配だし、矢張りあの騒動の渦中にある獄寺たちの行方も気に掛かる。遠巻きに見える村人は、どうしてだか互いを罵りあい、謗りあい、殴り、倒れた上に圧し掛かって更に拳を叩きつける陰惨な状態に陥っていた。
 早くとめなければ、仲間内で死者が出る。けれどいったい、何故。
 少し前まで談笑し合っていたのに、急にこんなことになるなんて。
「いや、いや……こわい、こわい」
 呆気に取られて浅い呼吸を繰り返す雲雀の上腕を取り、綱吉が涙交じりの声で譫言のように繰り返す。大丈夫だと抱き締めてやるのは簡単だが、嘘で誤魔化しきれるほど生温い状況ではない。
 逼迫した空気に人々の、日常は心の奥底に隠されて現れ出ることのない悪意が混ざりこむ。他者の感情に殊更敏感な綱吉に、それは毒でしかない。
 彼を此処から遠ざけるのが先決。漸く心が決まり、山本たちならば己らだけでなんとか対応出来るだろうと信じて雲雀は身を起こした。
 ――クフフ……
 それを、不意に聞こえた嗤い声が邪魔をする。
 力の入らない綱吉を無理矢理引っ張り上げた雲雀が、よろめいた彼を支えて両腕を伸ばしたところで脳内に直接響いた声に、彼ははっとして息を呑んだ。
「ヒバリ、さん?」
「……まさ、か」
 瞬きを三度連続させ、意識を僅かに浮上させた綱吉が定まらぬ焦点でどうにか雲雀の姿を視界に置いた。けれど彼はもう他に気を傾けており、黒く冴えた瞳が見出すのは炎の中で優美な舞を披露する青年の姿だけだった。
 血のように赤い緋の裳が、ただ、ただ禍々しい。
 美しい女の面をつけていたはずだ。しかし、今は。
 慄然とし、雲雀は腕を下ろした。支えるものが無くなった綱吉の身体が、すとんと地面に沈む。尻餅をつき、落下の衝撃に彼は悲鳴をあげたが、雲雀は気付かなかった。
「まさか」
 繰り返された自問に、導き出された結論はひとつ。否定しても、拒んでも、同じ答しか出てこない。
 浮かび上がる闇夜の炎、自ら望んで業火に焼かれ、地獄へと消えていった姿。
 許さないと、そう告げた男が。
 鬼の面を結ぶ紐が解け、するりと落ちていく。愛しい男を奪われて、求めて復讐の鬼と化した橋姫の面が砕け散る。
 瑠璃紺の髪が逆巻き、炎の中で揺れた。
 浮き上がった紫紺と緋。色の異なる双眸を爛々と輝かせ、不遜に笑みを浮かべる男の顔に、雲雀の中であの夜の悪夢が重なった。
 戦慄く唇が音を伴わず、けれどはっきりと、古き名を紡いだ。
「ヒバリさん……?」
 流れ込んでくる激しい怒り、濁流と化した雲雀の心に綱吉が打ち震える。巻き込まれ、押し潰されてしまいそうになり、彼は竦んで己を抱き締めた。
 燃え盛る炎、崩れ行く梁、断末魔の叫び、流された夥しい血。失われた数多の命、許しを請う声を遮り無慈悲に振り下ろされた黒き力――貫かれた心臓。
 深き山、月も輝かぬ暗闇。哀しみに咽ぶ心、悲鳴をあげて。
 どうして救えなかったのかと。
「貴様ぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
 雲雀が。
 吼えた。
 綱吉が止める間もない。彼は地を蹴り、僅かな砂埃だけを残して空間を渡った。跳び、瞬時に広場に設けられた即席の舞台上に現れ出る。中央に佇む男が、そうなると知っていたかのように雲雀を見た。
 眼が合う。不敵に笑む顔は揺るがない。
「っ!」
 左右両側から気配が散る。咄嗟に雲雀は上段に構えていた拐を左に薙いだ。反動で体が右に傾ぐ、その力さえ利用して彼の不意を衝くつもりだった男の脇腹に痛い一撃をお見舞いする。
「ぎゃ!」
 思わぬ反撃をくらい、打たれた犬が舞台上に背中から落ちた。瞬時に体勢を入れ替えて体を裏返し、四足で支えて獣の如く牙を覗かせる。雲雀の拐を短刀で受け止めた千種もまた、空中では姿勢を維持できずに後ろへ弾かれ、右肩を舞台袖の柱にぶつけた。
 舞台の縁ぎりぎりのところに着地した雲雀の頭上に、突如影が落ちる。静電気が生じたように全身がびりびりと震え、彼は振り返る事無く横に跳躍した。すかさず犬が鋭い爪で彼の肉を引き裂こうとしたが、読んでいた雲雀は拐で難なく受け止めるとその突進してきた勢いを逆に利用して、舞台中央で相変わらず涼しげにしている男目掛け、投げ返した。
 しかし雲雀がいた場所に、舞台を破壊することをなんら躊躇せず叩き込まれた丸太の衝撃で、足元は揺れ、狙いは大きく逸れてしまった。犬も器用に中空で姿勢を反転させ、千種と男の間に着地する。
 雲雀は舞台下に立つランチアを睨みつけ、口惜しげに舌打ちした。
 すべて分かった。
 なにもかもが、繋がった。
 呼吸を乱し、激憤に身を置いて青銀の拐を強く握り締めた雲雀を楽しげに眺め、骸は色違いの瞳を眇めると長い袖で優雅に口元を覆い隠し、喉を震わせて笑った。
「お久しぶりです。いいえ、この姿、この時代では初めまして――ですかね?」
「性懲りも無く、君は」
「ええ。言ったでしょう、必ず戻ってくると」
 クフフ、そう嗤って彼は自信に満ちた眼で雲雀を射抜いた。
 ぞっと寒気が走り、忘れかけていた首筋の、ちりちりと焼けるような痛みが蘇る。
 ここ最近感じていた、嫌な感覚。理由は長い間分からないでいたが、今ここで、彼の中にひとつの答が導き出された。
 太陽の運行を守護する任にあるディーノが、どうして不定期に地上を訪れて各地を放浪していたか。その彼が、何故この時期に並盛にやって来たのか。
 過去、一度だけ。
 まだ綱吉と出会う前、幼かった雲雀は、この全身を焼く悪辣な炎に恐怖を覚えた事があった。
 南方の山の奥、人が立ち入れぬように幾重にも結界が張られ、厳重に封じ込められたその場所に眠るものは――
「あの男、それで!」
 眩い金髪の青年を思い浮かべ、悪態をついて雲雀は気を吐いた。
 なにが、自分を連れ戻しに来た、だ。それはまったくの方便で、彼の真の目的は己の失態を内々に処理する為だったに違いない。
 目まぐるしく頭を回転させ、手に入れた情報をこれまで足りていなかった穴に埋め込んでいく。ぴたりと重なり合った場所からはじき出された結論は、即ち。
「……君が元凶か」
「いいえ。僕はきっかけに過ぎない。すべては、あの子が始まり」
 あらゆる出来事の輪の中心に居る、ひとりの人物。あどけなく微笑む愛らしい姿を脳裏に描き出し、雲雀は熱に膨らんだ空気を噛み砕いた。
 ランチアの一撃の余波で篝火を支える鉄枠が崩れ、舞台に燃え移り燻り始めていた。長く此処に在れば巻き込まれる、それなのに雲雀を含め、この場で睨みあう全員が一歩も動こうとしなかった。
 広場では依然騒乱が続き、ちらりと盗み見た景色の中に了平の背中が見えた。獄寺と山本のふたりを何故か同時に相手させられ、苦戦ぶりが窺える。
 こうなった原因も、すべては雲雀を嗤う男――骸の仕業としか考えられなかった。
「クフフ、良いではありませんか。僕は人々の、心の裏に隠されていた本質をちょっと突いてあげただけですよ。皆、常日頃から誰彼、大なり小なり憎いと思っていたのです。それを包み隠さず表に出すよう、枷を外しただけに過ぎない」
 骸は両腕を大袈裟に広げ、愉しくて仕方が無い様子で言い放った。己の行為を正当化し、誇らしげに語って、この状況を生み出したのは村人の責任だと嘲る。
 人々が隠し、見ないようにしていた人間としての汚い部分を、無理矢理に引きずり出しておきながら、彼は。
「どうです? 素敵でしょう。これこそが人間の本来の姿、本質。さあ、君も見せてください」
 友を殴り、家族を傷つけている村人を示し、骸が高らかに謳う。雲雀の中に宿る怒りを増幅させ、冷静な判断力を奪い取らんとする彼の術中に嵌り、彼は怒号をあげて無謀な突撃を開始した。
 傲慢に笑む骸の前を犬と千種が素早く固め、各々武器を構えて雲雀を迎え撃たんとし。
 鈍く輝く拐を振り翳した雲雀の後頭部を。
「うおおおぉぉぉぉぉぉおぉぉぉっ!」
 広場中央に居る了平の起こした風圧が思い切り叩いた。
「うっ」
「ぎゃ!」
 ドン、と地面が沈む錯覚に襲われ、居合わせた全員が動きを止めた。骸までもが突如起こった凄まじい気の爆発に驚き、腕を掲げて顔を庇いながら何事かと視線を向ける。危うく舞台中央に出来た溝に転がり落ちるところだった雲雀も、よく知る気配が急激に収縮、爆発と連続させたことに目を見開き、肌を叩く名残の風を受けて平静さを取り戻していった。
 瞬きを忘れ、低い姿勢のまま音を飲み込んで終息した異変に見入る。
 静まり返った広場には吹き飛ばされた村人が折り重なり、その大半が気を失っているようだった。
「京子!」
 了平の声が雲雀を現実に引き戻す。
 何が起こったのか。想像するに、了平は炎の壁を打ち砕いたときと同じ、いやそれの数倍の威力を込めて拳を繰り出したのだろう。以前、村を訪れた旅人に凄い技を教わったと、了平が自慢していたのを思い出す。それは己の中にある気と、周囲に浮遊する大気中の霊気を集めて凝縮し、一気に相手に叩きつけて破壊する凶悪技だった。
 原理は退魔師の験術に近い、いや全く同じと言っていい。
 凄まじい破壊力を目の当たりにさせられ、雲雀は冷水を頭からぶちまけられた気分で、妹を探して倒れた村人を掻き分ける幼馴染の背中を見送った。そして自身も、守らなければならない存在を置いてけぼりにしてきてしまった事実を思い出す。
「……く」
 斃さなければならない存在を前に、躊躇を踏み潰して雲雀は踵を退いた。拐を十字に構え、じわりと骸たちからの距離を広げる。
 そして、跳んだ。
 一瞬で掻き消えた雲雀の姿に、露骨に顔を顰めて犬が唾を吐く。臆病者と謗り、嘲笑おうとしたのを千種が止めた。
「どうしますか、骸様」
 炎の勢いは一瞬だけ萎えたものの、再び隆盛を取り戻して舞台全体を包み込もうとしていた。
 舞台のみならず、火の粉は数多に飛び散り、乾ききった大地を舐めて村全体を明るく照らし行く。祭りに参加せずに家に篭もり、夜明けを待っていた村人たちもそろそろ騒ぎに気付いて良い頃だ。
 骸の幻惑に囚われた若者が、三々五々に散開する。
 騒ぎはまだ終わっていない。むしろこれからが本番と言えた。
 残虐な笑みを浮かべ、問われた彼は地表を這う炎の舌にうっとりと目を細めた。
「追いなさい」
 短く命令を下す。
「追って、あの子を。雲の君は殺して構いません」
「承知」
 興奮で笑いが止まらない。骸のやや上擦った声に応じ、犬、千種のふたりが同時に舞台から飛び降りた。
 ランチアだけが残り、黙したまま彼を見下ろす。目つきは鋭く、感情を悟らせない。
「貴方も」
 早く行けと急きたて、骸は犬畜生を追い払うように手首を振った。
 言葉を挟まぬまま、ランチアは瞳だけを動かして骸の顔から彼の手、そして再び骸の眼を真っ直ぐに見詰めた。
 口を開く以上に雄弁に心内を代弁する視線に苛立ち、骸が声を荒げる。
「……分かった」
 五月蝿く怒鳴られ、眉間に薄く皺を寄せたランチアが漸く動いた。踵を返し、ふたりの後を追って暗闇と赤が入り混じる世界に紛れて姿を消す。
 残された骸が、肩で息をしていたのを整え、腹の底から嗤い声を響かせた。
「クフフ、クハハ!」
 すべては今日のために。
 すべては、このときのために。
 願いはついに決する。
 勝利を確信し、彼は燃え盛る炎の中で天目掛けて拳を衝きたてた。