精霊火 第二夜(第一幕)

 炎が天を衝く。
 空を焦がす。
 灼熱の赤が闇を貫く。
 誰もが魅入られたかのように棒立ちとなり、その場から動こうとしなかった。
 皆が皆、この異様な空気に疑念の欠片も抱かず、惑わされるままに舞台の中央で優雅に舞を披露する青年を見詰めていた。
 厳かな調べに乗り、ふくよかな娘の面をつけた舞い人が幻想の世界を演出する。軽い太鼓の音にあわせ、背高の彼は右に持った扇を広げ、風を招き、炎を喚んだ。
 ゆらり、ゆらり、ゆらり。
 焔が踊る。
 影を背負った稲荷の社の中で、珠を咥えた狐の像が陰影の中で瞳鋭く闇を睨んだ。
 丹塗りの鳥居が低く嘶く。何かに怯え、何かに竦み、稀有な力を感じ取って、遠く、此処より遥か彼方へと警句を発する。
 はてさて、誰がそれを知るというのか。いったい誰に伝えようというのか。
 ゆらり、ゆらり、ゆらり。
「親方様」
 稲穂の髪色の少年が、焚き火の前で瞑目する男の背に問うた。
「間に合わん。あいつらを信じろ」
 遠く、悠遠の果て、思い、憂い、男は断ち切らんと短く告げた。
 炎が踊る。舞う。叫ぶ。
 翼を広げ、この世を焦がす。
「出やがった」
「あんたのお仲間でしょ、なんとかしたらどうなの」
「あんなのと一緒にしないでくれ」
 漆黒の闇の中でも美しさを失わぬ女が、鋭い爪を掲げて赤に染まる大地を指差した。
 頭上で男が濡れ羽黒の翼を畳み、吐き捨てるように言い放つ。
「お手並み拝見と行くか」
 何が起きるか、何が終わるか。
 なにが始まり、なにを結ぶか。
「ちっくしょ……俺は、また」
 悔しげに唇を噛み、黄金をまとう青年が口惜しげに声を漏らす。北の峰の中ほどに立ち、遥か眼下、点であった赤が面となり行く様に柳眉を顰めた。
 今すぐ此処を飛び立てたなら。そうは思うが願いは虚しい。
「…………」
「…………」
 倒れた楠の影に立ち、青年は震える三つ編みの髪の少女を傍らに抱いて立ち尽くした。
 南東より来る悪しき気配を懸命に堪え、折られ、奪われそうになる心を懸命に奮わせる。
 言葉は無い。未だ幼い彼らには、ただ耐えることしか出来ない。
「こんな日が来ないことを、祈っていたんだがな」
 男は嘯き、黒き刃を鞘に収めた。
「京子!」
 最愛の妹の名を叫び、青年は危険を承知で火の輪を目指す。
「うおぉぉぉぉぉぉぉ!」
 丹田に力を込め、気を吐いた彼は自慢の右拳を握り締めた。幕を引く赤を断ち切らんと、青い頭巾の旅人に教わりし技を惜しみもせず彼は使った。
 金無垢の輝きを掻き集め、一点に集中させて呼吸を止める。体内の血管が何本か千切れる音を聞いたが、彼は止まらなかった。
「了平」
「お兄さん!」
 後ろから駆け寄ったふたりの目の前で、彼は行く手を阻む炎の壁を、読んで字の如く、拳ひとつで打ち砕いた。
 ぶわっ、と熱を含んだ風が四散し、軽い体重が災いして綱吉が煽られ、天を向いた。
 炎の欠片が幾つも空に飛び交い、瞳に残影が刻まれる。長く雨の降らない気候が続き、乾ききっていた大地とそこに伸びる草花に飛び移ったそれらは、燻り、集った。
「拙い、了平!」
 気付いた雲雀が声を荒げて幼馴染の背中に叫んだ。しかし肩を幾度も上下させて呼吸を整えた彼は、呼び止める声にも耳を貸さず、滴り落ちる汗を拭い、広場の中央へ急ぎ駆け出した。
 転がった体を起こし、綱吉もぽつぽつと地表に点る赤に目を見開き、驚きを露にした。
 銅鑼、笛、人の声。
「なに……」
 物々しい気配を敏感に感じ取り、即座に全身を包み込んだ悪寒に綱吉は自身を抱き締めた。
 過去体感した事のない、いや、違う。綱吉はこの感覚を知っている。
 憎悪、邪念、嫉妬、怨嗟。様々な人が抱く悪意が渦巻き、綱吉を取り囲む。
 蛤蜊家本家で浴びせられた感情に似ている、去年の冬の入りに起きた事件でも。
 これは、殺意だ。
「……いや、だ」
 何故そんな感情がこの場から噴き出ているのか。此処にいるのは日常の苦楽を共にする、綱吉と慣れ親しんだ村人ばかりだというのに。
「いやだ、いや……なに? なんで? どうして!」
 体を丸め、怯えきった綱吉が悲鳴をあげる。唐突の事に驚き、雲雀は了平を追いかけようとしていた足を慌てて止めた。
 振り向き、闇の中で蹲って小さくなっている存在を見つける。恐怖に慄き、目を見開いたまま涙を零す彼の姿に、雲雀は息を呑んだ。
 舞台の上では男が悠然と舞を続けていた。蝶のように、花のように、静かに、粛々と、儀式の終了を間近に見て、面の奥で微笑んで。
「京子!」
 了平の声が雅な楽を妨げる。一瞬だけ彼は顔を顰め、扇を閉ざして先を広場中央へと向けた。
 それまで同じ姿勢で舞を見守り続けていた村人が、一斉に視線の矛先を替えた。
「京子、どこだ、きょ……うわっ!」
 なにかに足を取られ、了平は不意を衝かれて派手にすっ転んだ。
 獣並みの反射神経を生かし、両腕を丸めて頭を庇い、衝撃を最小限に済ましてなんとかやり過ごす。人垣に囲われた中で一回転の後に四つん這いに屈んだ彼は、居並ぶ村人の脚を見回して自然と滲み出た脂汗に唾を飲んだ。
 妙だ。
 本能が危険を察し、彼は両手を浮かせ、いつでも立ち上がれるように少しずつ重心を後ろへ移し変えていく。
 炎が。
「っ!」
 嗤った。
 一際大きな焔が波となってうねり、舞台袖を奔った。了平はわけが分からぬまま身体が反応する通りに動き、真後ろへ跳んで荒く肩を上下させた。
 今しがた彼が居た場所に合計六本、大小の違いはあれど人の腕が、拳を硬くして突き立てられている。
「な、……にを」
 一切の躊躇を挟まなかった淀みない攻撃の手に、彼は驚愕に目を見開き、首筋を撫でた汗の生温さに吐き気さえ催した。閉じることを忘れた唇から絶えず息を吐き、言い知れぬ恐怖心に苛まれて状況を把握しようと躍起になる。
 蠢いた闇がざわめきを引き連れ、一斉に了平に向き直った。
 この暗がりの中、禍々しい数多の眼が彼を射抜いた。
「うぐっ」
 壮絶な殺気を浴びせられ、彼は呻き、反射的に顔の前で両腕を交差させた。
 何が起きたわけでもないのに圧倒されて、呼吸が止まった。息苦しさに喘ぎ、滲み出る汗を拭うことさえ出来ずに彼は瞳ばかりを慌しく左右へ走らせる。
 此処に居るのは、つい先ほどまで彼と一緒に旅芸人一座の芸を楽しんでいた村人だ。生活の苦楽を共にする、大切な仲間だ。日頃から下らない遊びに興じ、笑い合い、時に愚痴を言い合って、村を発展させるのにはどうすれば良いか、夜遅くまで蝋燭の明りを頼りに熱く語らいあう、そんな同胞達のはずだ。
 それが、どうして。
 彼に殴りかかったのもまた、今朝方共に神輿を担いだ彼の友だった。
「なにが、どうなっている。京子、京子、どこだ!」
 首の後ろがちりちりと焼け焦げるように痛み、焦燥感に心臓が圧迫される。腕を解いて叫んだ了平だったが、彼の声はうねりを伴って空へ駆け上る炎に掻き消され、遠くまで響いていかなかった。
 今や彼の周囲には五十を越える村人が輪を成し、虚ろな目をして彼を見詰めていた。
 正気の色をしていないと気取るのに、彼は経験が不足していた。
 平穏な時を重ねて来た並盛にあって、争いごとはほぼ皆無に等しい。肉体強化の鍛錬はひとりでも続けられるが、死に直面するような危機感を抱かせる環境に身を置くことを、彼は一度として願った試しは無かった。
 姿勢を低くし、左膝を乾いた大地に擦りつけ、了平は全く読み取れない状況に手を拱き、次にどう動くべきか迷い続けた。
 しかし、時は待ってなどくれない。
 不気味な呻き声をあげ、彼のほぼ正面に立っていた男が拳を高く掲げた。呼応する波は瞬時に広がり、牙剥いた大勢が了平目掛け突進を開始する。
「止めろ! お前達、いったいどうしたというのだ!」
 懸命に呼びかけるが反応は一切なく、次々に繰り出される数多の腕を掻い潜り、彼は自身を攻撃する見知った顔を前に辛そうに表情を歪めた。
 無意識に体が反撃を繰り出そうとして、寸前で意識を巡らせ動きを止める。けれど逃げてばかりでは一向に打開策を見出せなくて、了平は次第に乱れてあがる息を堪え、一旦退いて体勢を立て直す事を優先させた。
「すまんっ」
 最短距離で広場を抜け出せる道程を探し、まったくなっていない攻撃を繰り出して大きく姿勢を崩した友に謝罪しながら、その鳩尾に重い一発を叩きつける。ぐぽっ、と胃袋の中身ごと息を吐く音が聞こえ、即座に腕を引いた了平は、地面にぶちまけられた消化途中の食物の中へ倒れる彼にもう一度心の中で詫びた。
 構えを取り戻した拳が鈍く痛む。力量差のある相手を殴った感触というものは、あまり楽しいものではない。改めて実感させられ、了平は静かに意識を下腹部に溜めて呼吸を整えた。
 ざわり、彼の首筋を生温い風が再び撫でる。
「――っ」
 産毛を焼く痛みに喉を引き攣らせ、彼は振り返らぬまま後ろから襲ってきた攻撃を回避した。しかし風圧までは躱しきれず、僅かに遅れて右頬に走った痛みに眉根を寄せ、苦悶に奥歯を噛み締めた。
 空気が沈殿する。危険だと本能が警告を発し、了平は着地と同時に構えを取り直して息を潜めた。
 先ほどまで人混みの中、身動きひとつ取るのさえ苦労させられたものが、今は了平を中心に二間ばかりの距離を置いて空間が形成されていた。
 もみくちゃにされた際に引っ張られ、千切れた法被を邪魔と感じた彼はそれを雑に取り払い、脱ぎ捨てる。
 了平を起点とした騒ぎは今や方々へ広がり、人々は互いに誰彼構わず傍に居る人間に殴りかかり、蹴りを入れ、引っ掻き、阿鼻叫喚の図が展開されていた。止めるものは無く、流れ行く風に微かな血の臭いさえ混じり始めていた。
 その中にあり、了平はふたりの男と対峙し、動けずにいた。
 騒動を止めなければならない事は承知しており、一刻を争う状況だという事も分かっていた。けれど下手に背を向ければ命に関わると、凛と冴え渡り鋭く尖る空気が彼に教えていた。
 よもやこの状況で、敵対する羽目に陥るとは。
「……どうなっているのだ」
 騒乱の中に妹がいるのかと思うと、焦りばかりが募っていく。
 楽しみにしていた祭りの夜が、一瞬にして血生臭い凄惨な場に変容した事実は、容易には受け入れ難い。今でも夢であれば良いと思っている了平は、瞬きを繰り返し、目の前で隙無く構えを取るふたりの青年が幻と消えてはくれないかと切に祈った。
 鼓の音がする。もしかしたら舞台上では未だ舞い手が雅を気取っているのかもしれない。けれど見上げる余裕もなく、了平は今此処にあるすべてが現実なのだと諦め、受け入れ、哀しげに眉を顰めた。
「お前達、いったいどうしたというのだ」
 声を荒げて問うが、返事は無い。
 真っ先にこの異変に気付き、村人を止めるべく動いて然るべき存在が、了平の前に立ちふさがっている。
「山本! 獄寺!」
 叫び、彼は右腕を横へ薙ぎ払った。
 影が延び、炎が闇を彩る。先に動いたのは、山本だった。
「――っ!」
 速い。
 一瞬消えたように思われた彼の体躯は、直後了平の眼前に現れる。構えを取り戻す隙を衝いて繰り出された拳が空を掻き、目標物を失った山本は呆けたように口を開いて瞳を泳がせた。
 ぎりぎりのところをしゃがんで避けられたと知ったのは、地面を削るように円を描いた了平の足に脛を掬い上げられ、転がされてからだった。
 砂埃を巻き上げ、山本が左肩から落ちていく。本来の彼の動きからは程遠い鈍重さに、即座に起き上がった了平は息をついて顎に滴った汗を拭った。
「間がずれておるぞ」
 長物を武器として愛用する山本と、己の拳を武器とする了平とでは間合いが大きく異なる。刀を手に闘う術に慣れてしまっている山本は、体が覚えているからだろう、その距離感を維持したまま了平に突っ込んできた。
 避けるのは易くないが、不可能ではない。
 両脚で跳んで拍子を取り、自分の戦い方を保持した上で了平が嘯く。若干余裕を取り戻した彼の横っ面で、
「ぐわっ」
 突如火花が散り、眩い光に視力を奪われた彼は姿勢を崩して斜め後ろへとよろめいた。