掌中

 小さい頃の自分は、大人になればなんだって出来るのだと、漠然と考え、そう信じていた。
 大人というものは子供の憧れで、ヒーローみたいなもので、悪い奴らを見つけたらあっという間に薙ぎ倒してしまうような、強い人の事を言うのだと思っていた。
 だから自分も、今はひ弱だけれど、いつかテレビに出て来る勇者や英雄みたいに強くなって、ロボットみたいに大きくなって、母さんを悪い奴らから守ってやるのだと、そんな事を言っていた気がする。
 奈々はにこにこと嬉しそうに笑って、じゃあもしもの時はお願いね、と優しく頭を撫でてくれた。
 けれど、実際は、どうだ。
 彼女が家光と共に連絡を断ったと聞かされても、自分は何も出来ない。地下深くに建設されたアジトに守られて、小さく震えているしかないなんて。
 大人になれば、強くなれると思っていた。
 子供の頃の夢は、ヒーローになることだった。
 アニメや特撮みたいに、悪者をばったばったと倒して、みんなを幸せにするのだと。出来るようになるのだと、漫然と信じていた。
 そういう番組に出てくる悪役の大半も大人だという事実にも気付かずに、大人とは強く、格好良く、完璧で、頭も良くて、好き嫌いもしなくて、立派で、凄い人のことを言うのだなんて。改めて振り返ってみると、当時の自分は酷く幼稚で、滑稽な思考回路をしていたのだというのを痛切に感じた。テレビに踊らされ、騙されていたのだと、どうして気付けなかったのだろう。
 強くなれば、なんだって出来ると思っていた。
 大人になるという事は、強くなることだと、根拠もないままに信じていた。
 だのに、なんだこの結果は。みんなを守るとあの日誓ったのに、たった十年でこの有様か。
「うっ……」
 暗闇の中で嗚咽を零し、喉を引き攣らせた綱吉は、寝返りを打って身体を仰向けに投げ出した。
 見た目は硬そうなパイプベッドだが、敷かれているマットは科学の進歩なのか薄いのに存外に柔らかい。体の形に合わせて凹凸が作られ、まるで砂浜に寝そべっているような気分だった。
 お陰で慣れないのも手伝い、眠れない。いや、眠れない理由はもっと別のところにあった。
 身体は疲れを訴え、眠りを欲している。今までなら目を閉じて五秒と経たずに夢の中へ旅立つ自信があったのに、今日に限ってそれは無理な相談といえた。心が強張って、意識がずっと緊張に震えているのが分かる。
「……」
 額にやった手を下ろし、大の字を作って腕を広げると右の指先が縁からはみ出て空を掻いた。空調が動く低い音が、耳鳴りのように頭の奥底に響き渡っている。
 突然自分を襲った、未知の出来事。命の危険を、なにより本人に緊張感が欠ける中で言葉荒く伝えられたが、最初は混乱と困惑が先立って全く実感が沸かなかった。ところが落ち着ける環境に身を置いたことで、それまで慌しさを理由に考えずに済んでいた現実を、否応無しに直視させられる羽目に陥った。
 自分たちが居た時代から、約十年先だというこの場所。争いの火種は絶えず、それどころか拡大の一途を辿り、挙句多くの仲間や知人が巻き込まれ、行方が分からなくなり、或いは命を奪われたという事実。
 いったい自分は、あれから先の十年間で何をしてきたのだろう。
 ぼんやりと思い描いていた未来の自分像が真っ向から否定された気分で、落ち込むし、憂鬱になる。気が重い、ついでに言えば体も重い。
「駄目だ、眠れるわけないよ」
 左目を掌で覆い、被っていた毛布を押し退けて身を起こす。小さく呟いたつもりだったが、密閉された空間に思いの外声は大きく響いた。
 獄寺を起こさぬように静かに床へ降り立ち、背筋を伸ばす。横になっている間はずっと丸くなって、胎児のポーズを取り続けていた所為か、膝の関節のみならずあちこちの骨が鳴り、微かな痛みが綱吉を襲った。
 黄緑色の非常灯を頼りに歩を進め、センサーで人を関知した瞬間に自動で開く扉を抜ける。シュッ、と空気を切り裂く音が短く流れ、癖のついた髪の毛を掻き毟って彼は廊下に出た。
 ひんやりとした通路にも等間隔で非常用のライトが薄く火を灯し、綱吉を照らした。閉じたドアの前に佇む彼の周囲には、灰色の影が足元や壁に何重にも伸びている。それはまるで、彼は確かにひとりしかいないのに、世界には何人もの沢田綱吉が存在しているのだと告げているようだった。
 顔を上げ、虚ろな目で綱吉は右を見た。ふらふらと、特に目的地があるわけでもなしに、歩き出す。
 通路の左右には色々なものが積まれていた。建築材に、整理する前に一時的に置かれただけと思われる、書類や書籍が詰め込まれた段ボール。何が入っているのか解らない、施錠されたプラスチックケースもあった。
 これらには触れるなと、リボーンには言われていた。中に、綱吉が知りえない――知るべきでない十年間の記録が紛れ込んでいる可能性があるからだ。
 もっとも、言われなくても触れるつもりはなかった。頭の中がパニックに陥っており、とてもではないが細かな文字を目で追う気になれない。本を手に取って広げるのさえ、億劫だ。
 当て所なく広い敷地を彷徨い、行き止まりにぶち当たっては引き返す。アジトの構造は、簡単な説明を受けたものの、殆ど頭に残っていなかった。
 時々転がっている建材に躓き、転びそうになるのを堪え、同じ場所を何度も行き来する。進む方角は一定ではなく、辿り着いたエレベータに乗って適当にボタンを弄っては、ドアが開いた階へ何も考えずに足を踏み入れた。
 暗い。
 今まであった非常用の灯りが消え、エレベータが閉まると同時に綱吉は闇に飲み込まれた。朧げにエレベータの現在地を報せるランプが光っているものの、手元を照らすには不十分で、ドアを開ける為のボタンが見付からない。
 焦って振り返って壁に触れるが、操作盤を完全に見失ってしまった。凍えるような鉄製のドアが綱吉を拒絶し、継ぎ目に指先を押し込んで左右に引いてみたが手ごたえはなかった。
「うそ、どうしよう」
 こんな場所に閉じ込められるとは夢にも思わず、綱吉は口の中で言葉を押し潰した。焦りが汗となって滲み、心拍数の上昇と共に呼吸は段々間隔が短く、浅くなっていった。
 耳の奥でどくん、どくんと心臓が五月蝿く騒ぎ立てる。緊張に全身の筋肉が痙攣を起こして、突然背後から襲ってきた寒気に彼は悲鳴を呑んで己を抱き締めた。
 素足で出てきた事を後悔しても遅い。冷たい床は綱吉の体温を容赦なく奪い取っていく、彼はその場で足踏みを繰り返して奥歯をカチリと鳴らした。
 ベッドで大人しくしていればよかったのに、余計な事をするからこんな状況に陥るのだ。俺の馬鹿、ダメツナの大馬鹿、と自分自身を散々心の中で罵って、綱吉は色の抜けた唇を噛み締め、直ぐに最悪な状況をはじき出す弱気な思考回路を急いで否定した。
 瞼を持ち上げ、前を見る。暗闇に目を凝らした彼は、前髪を撫でた微かな空気の流れに顔を顰めた。
 空調が回っているから、酸素が尽きるなんてことは無さそうだ。まずそれに安堵して、次に耳を澄ます。排気ダクトが動く、虫の羽音にも似た低音が常に鼓膜を震わせるが、その中で微かに、本当に微かに、異なる物音が紛れ込んでいた。
 超直感が働いたとでも言うのか、自分以外の人の気配を読み取って綱吉は目を丸くした。
「だれ……」
 恐々闇に向かって問いかけるが、向こうはまだ綱吉の存在を気取っていないから、当然返事はなかった。
 ゴクリと喉を鳴らして唾を飲み、綱吉は虚空の闇を数秒間凝視した。依然何も見えてこないものの、幾許か目が慣れたお陰か、ものの輪郭は薄らぼんやりながら識別できるようになっていた。
 呼吸を整え、気持ちを静めて深呼吸を繰り返す。胸元に左手を添えて撫で、最後に長く息を吐いた彼は、吸う動作と一緒に俯かせた視線を持ち上げた。
 意を決し、足を前に繰り出す。ひんやりした触感が、自分の命が此処にあることを綱吉に教えてくれた。
 手を前方左右に絶えず動かし、障害物の有無を確かめて非常に緩慢に、ゆっくりと進んでいく。足も慎重に、段差がないかどうかを逐一調べてから床へ下ろした。
 時間がかかるが、転倒して怪我をするよりはいい。息を潜めて行く様は、スパイ映画か何かを連想させた。
「……れ」
 距離だけなら、さほど進んでいない。しかし通常歩く数倍の時間を費やして辿り着いた先で、綱吉は細い、横に伸びる光を見つけた。
 床に落ちる淡い光は、何処かから漏れているものだ。足を止めた彼は肩を上下させ、前傾気味だった姿勢を真っ直ぐに正した。
 進行方向右側に、何かが見える。浮き上がる影絵のようなそれは、格子だった。
 木を交互に組み合わせ、四角形を幾つも並べた格子戸の隙間が、光の発生源だ。非常に弱い、頼りないものだけれど、すっかり暗中に馴染んでいた綱吉の目には十二分に眩しく見え、彼は乾いた咥内に唾を呼んで一気に飲み干した。
 誰かが居る、間違いない。
 疑念は確信に変わり、頬を紅潮させた綱吉は、助かったと胸を撫で下ろして残る距離を一気に詰めた。
 こんな場所で、こんな夜中に、隠れるように存在している人物が誰なのかなど、全く考えない。兎も角彼は、一秒でも早くこの場から脱出したかった。
「すみません、だ――」
「誰だ!」
 足音を響かせて走り、一センチにも満たない格子戸の隙間に指を差し入れる。歓喜の声を張り上げ、右にスライドさせようとした彼よりも早く、綱吉の体を巻き込んで戸は内側から開かれた。
 鋭い声が飛び、強すぎる光が綱吉の目を焼く。反射的に瞼を閉ざす寸前、視界の中心を銀の閃光が奔り抜けた。
「っ――!」
 格子戸の勢いに負けて尻餅をついた綱吉が、首を引っ込めて下から来た衝撃を受け流す。目の前で誰かが息を呑む気配がはっきりと伝わってきて、綱吉は顎を引いたまま恐る恐る右目を開いた。
 鋭い光を反射させて眩く煌く日本刀が、鼻先三センチのところで停止していた。
「ひっ、ひぃぃぃぃ!」
 知覚した瞬間仰け反って避け、座り込んだまま後ろへ下がった綱吉が、全身を竦ませて裏返った悲鳴をあげた。恐怖に瞠目した目は、闇に浮かび上がる刀を構えた背高の人物を映し出していた。
 短い黒髪、顎には大きな傷。精悍な顔立ちに野性味を帯びた目はしかし、今は驚きに染まって、口元もあんぐり間抜けに開かれていた。
 濃紺のスーツの下に着込むシャツは目の醒めるような青、ネクタイはそれよりも色が濃く、絵柄はなかった。肩幅は広く、細身ながらがっしりとした体格が服の上からでもよく分かる。蛇腹の柄巻を右手で握り、左手は格子戸を握った指の形をそのままに宙を漂って、やがて下に落ちた。
 先端に向かって僅かに反りあがる切っ先もまた、彼の左手と一緒に床へ下ろされる。鎬部分も美しい日本刀は、その気になれば見た目どおりの切れ味を発揮してくれただろう。
「ツナ、お前、……こんなところで、なに」
 微妙な間があって、瞬きを連続させた山本が抜き身の刀を背中に回して言った。
 戸を開けようとした一瞬に感じた、心臓を突き刺すような激しく鋭い気配はもう微塵も感じられない。侵入者に対して無条件に反応するよう訓練されたが故の勘違いだと、彼は蹲っている綱吉に笑いかけた。
 ただその笑顔も、どこかぎこちない。
「ち、ちびるかと思った」
「悪い、悪い。けど、明りも無しに歩き回るお前だって」
 緊張の糸が切れ、腰が抜けた。涙が勝手に溢れ出して、綱吉は山本の手を断って先に顔を乱暴に拭った。
 投げ捨てた鞘に刀を戻し、戸の内側にそれを置いて山本が部屋の明りを最大にする。視界が白く染まり、突然の眩しさに綱吉は顔を背けた。
 指の隙間から見た室内は、板張りの床に天井は高く、遠く向こう側の壁には横に長い額が飾られていた。だから最初に内部に目を通した綱吉が抱いた感想は、剣術道場みたいだ、だった。
「入れよ。立てるか?」
「あ、うん」
 再度手を差し出され、綱吉は今度こそ握り返して下半身に力を入れた。
 不安だったが、引っ張ってもらったお陰でどうにか二本足で立ち上がるのには成功した。しかし歩くのは無理そうで、内股気味に膝を軽く曲げてもじもじしていたら、山本は軽く肩を竦めて笑った。
 三度目の正直で手を握ってもらい、ゆっくりと格子戸の内側に案内される。彼は暗い廊下と明るい室内を遮る戸を閉めて、綱吉をそこから程近い柱に寄りかからせた。
「……ありがと」
 崩れ落ちるようにしてその場に座る。膝で曲げた足は外向きに広げてぺたんと腰を落とした綱吉に苦笑して、山本は蹴り飛ばされそうになった杯を脇に退かせた。
 置きっ放しにしていた刀を拾い上げ、戻って来た山本が綱吉の左横に並んで座る。曲げた左膝に肘を置き、右足は床で横に倒す格好で、刀は肌身離さないつもりか、左腕の内側に添え立てた。
 誘われるままに中に入ってしまったが、この後どうすれば良いのだろう。何も考えていなかった自分に困惑し、綱吉は揃えた膝の上で両手を軽く握り締めた。
 床の板は本物の木なのか、肌触りは優しい。此処に来てからコンクリート等の味気ない内装ばかり目にしていたからか、和風な色合いのこの部屋は彼を安心させた。
 ほっと息を吐き、遠くを見詰める。額に飾られている達筆は誰の字だろうか、さっぱり読めなかった。
 と、真横でコトン、という小さな音が聞こえ、彼方へ飛ばしていた意識を綱吉は急ぎ引き返させた。
 見上げると、山本がひとり、乳白色の杯を手にして透明な液体を呷っている。
「ん?」
 何をしているのか一瞬分からず、きょとんとしてしまった綱吉の視線に気付いて山本も彼を見下ろす。十年間ですっかり男らしく成長を遂げた彼は、瞳だけで綱吉にどうしたのかと問いかけ、空になった杯を直接床へ戻した。
 よくよく見れば彼の向こうには、栓を抜いた一升瓶がどん、と置かれている。こげ茶色の半透明をした瓶の中身は、半分少々に減っていた。
「え?」
 山本の目線に、綱吉は首を傾げた。自分でも何故こんな反応をしているのか解らないと、右手を顎にやって目を泳がせる。その間に山本は、慣れた手つきで酒瓶を引き寄せ、細長い首部分を掴んで傾けた。
 底の浅い杯に日本酒を注ぎ、零れるぎりぎりのところで止めて瓶を引っ込める。先ほど綱吉が聞いたのは、この一升瓶を立てる時の音だった。
 山本の手は滑るように動き、杯を支える高台を指二本で器用に抓んで持ち上げた。黒塗りの、直径五センチほどのそれに注がれた酒をひとくちで飲み干し、濡れた唇を舐めて息を吐く。
 そしてまた、次の一杯を注ぐべく杯を床に置いた。
 ひょっとして彼は、ずっと此処でひとり、こうやって酒を飲んでいたのだろうか。
 身を前に乗り出し、真横に居る彼を覗き込んだ綱吉の遠慮のない視線に彼は皮肉げに口元を歪め、持ち上げようとしていた酒瓶を戻した。空っぽの杯をそのままに、背中を後ろに倒して両腕で身体を支える。
「俺が酒飲んでるのが、珍しいか」
「へ? え、あ、いや」
 抑揚に乏しい声で言われ、目を丸くした綱吉は直後に慌てて首を振った。
 そんなつもりはないのだと早口に告げ、気を悪くしたのなら謝ると付け足す。けれど実際のところ、山本の指摘は図星だった。
 数日前――綱吉がまだ本当の、自分があるべき時間に存在していた時の山本は、当たり前だが中学生だった。
 十四歳だった山本が、たった数日の間に十年という歳月を飛び越えて目の前にいる。二十四歳の彼が当たり前のように、それも慣れた手つきで酒盃を呷っている様は、綱吉の知る山本武たる人物と完全に一致しなかった。
 申し訳なさそうに頭を垂れ、上唇を噛んだ綱吉の頭を山本の手が優しく撫でた。
「お前も呑むか?」
「ふえ?」
 そしてやおら問われ、綱吉は丸い目を瞬いた。
 見上げた先の山本の表情は、さっきまでと何ら変わらない。しかし彼がまとう気配は少しだけ、ほんの少しだけ、色が違っていた。
「そういやお前は、まだ十四だっけか」
 綱吉が返事できずにいるうちに、山本はひとりで答を出して肩を竦めた。未成年に飲ませるわけにはいかないよな、と軽い調子で自分が言った事を笑い飛ばし、改めて一升瓶を傾けて日本酒を杯に注ぐ。
 視線は逸れて、重ならない。綱吉は彼の手元に目を向け、それから広げた自分の手を顔の前に翳した。
 親指から小指まで、きちんと五本揃っている。指は少し短めで、全体的に丸みを帯びて掌の皮は少し厚い。中指の第二関節近くが切れているのは、此処に来る途中で転んだ時に出来たのだろう。血は乾いて、傷口自体は塞がって痛みもない。
 小さな、――子供の手だった。
「山本、は」
「ん?」
「お酒、好きなの?」
 会話は途切れたまま、彼が酒盃を呷る音だけが断続的に繰り返される。沈黙に耐え切れずに綱吉は手を下ろし、甲を上にしてぎゅっと握り締めた。
 何に対してなのかも解らない決意をして、傍らを見る。山本は口につけていた杯を遠ざけ、唇が触れた場所に親指を添えた。
 人差し指と二本で丸い縁取りを掴み、内側に折り込んだ中指の左側面で高台の底を支える。残る指は軽く曲げるだけに留め、顔の前で円を描くように杯を動かした彼は、視線を何処か別の場所に投げた後、残る酒を喉に流し込んだ。
 音もなく息を吐き出すが、今までと違って空になった黒い杯は床へ下ろさない。手にしたまま、彼はほんの少し残る液体をすり鉢上の底で回し続けた。
「そうだな。好き……になってたな」
 綱吉が良く知る山本では、日本酒を呑む姿が想像できない。けれど現実に、二十四となった彼はこうして酒を嗜んでいる。
 身長や体格の変化もそうだが、こんなところからも十年という年月を感じさせられて、綱吉は顔を伏して首を振った。
「呑みすぎだよ、山本」
 綱吉の周囲でアルコールを好む人は、父親か、シャマルくらいしかいなかった。特に父親はビールが大好きで、まだ彼と一緒に生活していた頃は、頻繁に赤ら顔で臭い息を吹きかけられもしたので、綱吉自信は酒に対してあまり良い印象を持っていない。
 言うなれば綱吉にとって、酒に対する知識は家光に絡むものばかりだ。山本も、彼のように真っ赤になってみっともなく酔っ払い、醜態を晒すのかと思うと、複雑な気分になる。
「そうか? いつもこれくらい呑んでるじゃねーか」
 しかし山本は、自分はこの程度では酔わないと言い切った。
 同意を求められ、綱吉が顔を上げる。目が合った彼は一瞬言葉を詰まらせ、乾いた口元に左手を置いた。
 ゆっくりと首を回し、綱吉から視線を逸らしていく。空っぽの杯が震え、指が支えきれずに大きく傾いて床へ落ちた。
 高台を軸にして回転しつつ勢いを弱め、ぴたりと黒の杯は正しい向きで静止した。それは見事な着地だったが、綱吉も山本も、一切見向きもしなかった。
 山本はいったい、誰に向かって言ったのだろう。しまったという表情を即座に手で覆い隠し、悟らせぬように顔そのものも横向けた彼の気配りは、哀しい。
「悪ぃ……やっぱちょっと、酔ったかも」
 手で口元を塞いだまま、くぐもった声で山本が言う。
 此処にいる綱吉と、彼が話しかけた綱吉は、別の人。彼と共に十年を過ごした綱吉と、十年の時を越えてやってきた綱吉は、全く異なる、赤の他人。
 胸がざわめく。息苦しさに喘ぎ、綱吉は無意識に寝間着代わりのシャツの襟元を掻き毟った。
「やまも、……」
「ツナ?」
「手、見せて」
「ん? ああ」
 俯いたまま言われ、山本は面食らった後、杯を失って空っぽになった手を見詰めた。少し濡れているそれを握っては広げ、差し出そうとしてから躊躇して脇に下ろす。ポケットを探ったがハンカチ類は見付からなかったようで、仕方なく彼は上着の裾で代用した。
 黒っぽい繊維を数本絡みつかせた右手を出され、綱吉は両手で彼の手を取った。左右から挟み、自分の前に来るよう引っ張る。山本は、抵抗しなかった。
 肉厚で、ごつごつして、所々に胼胝が潰れた痕が見える。今も、刀を握るときに出来るものなのか、指の側面で幾つか成長中だ。
 少なくとも、球技をする人間の手ではない。あんなにも好きだった野球を離れ、既に数年が経過していると、綱吉にも分かる掌だった。
 何故彼は長年の夢を諦め――捨てて、此処に居るのか。華々しい場で活躍する道に背を向け、危険で後ろ暗い、マフィアの世界に飛び込んだのだろう。
 聞きたい。だが、聞いてはいけない。綱吉は痛いくらいに奥歯を噛み締め、傷だらけの山本の手を何度も撫でた。
「ツナ」
 くすぐったさを覚え、山本が名前を呼ぶ。その声も、とても良く知っている筈なのに、綱吉が知る山本とは別の声だった。
 大きな手だ。十年前の山本の手も、背丈の大きさに相俟って仲間内で一番大きかったが、そこから更に成長を遂げている。無駄な肉がなくなり、洗練されて、研ぎ澄まされた刀のようだった。
 幼い頃にも、家光の手をこうやって弄った記憶が蘇る。少し似ていると言うと、不本意だったのか山本は肩を竦めて綱吉から己の手を奪い返した。
「あー、こら」
 何をするのかと、まだ触り足りない綱吉が唇を尖らせて緩く握った拳を振り上げた。本当に殴りはしないが、山本は調子に乗って大袈裟に避けてみせ、床の杯を膝で蹴り飛ばして慌てていた。
 黒塗りの酒杯が無事なのを確かめ、ホッと安堵してから軽く綱吉の額を小突く。今のは完全に山本が悪いのに、自分が咎められるのは不条理だと言い張ったが、綱吉の主張は通らなかった。
 代わりに、ほら、と広げた手を差し出される。
「俺の手なんか見て、面白いか?」
「ううん」
 さっきからしげしげと物珍しげに見詰め、指も一本ずつ丁寧に触れて、撫で回す綱吉に山本が聞く。返事は呆気なくて、首を振ってさらりと否定した綱吉に、彼は絶句した。
 ならば何故、と目で重ねて問うが、明確な答えは出されない。綱吉は一頻り触れて満足したのか、最後に彼の手首を握り、縦に構えさせた。
 座禅を組んだ大仏などが掌を正面に向けている、あのポーズだ。
「ツナ?」
「やっぱ、……大きいや」
 何をするのだろうと怪訝に待っていると、山本の手首から解かれた綱吉の手が、そこに重ねられた。
 今までと違う熱の伝わり方に、山本の肩がピクリと揺れる。しかし彼は逃げず、綱吉が身体を左右に揺らして興味深そうに横から眺める間、じっと息を殺し続けた。
 緊張で喉が渇き、少しだけ感じていた酔いは綺麗さっぱり消え失せた。心臓が早鐘を打つ、体内を駆け回る熱が肉体という殻を破って溢れそうだった。
「山本」
 否応無しに汗が出て、掌を濡らす。浅い呼吸を繰り返した彼を、澄んだ声で綱吉が呼んだ。
「俺、さ。ずっと、大人になったら、なんだって出来るようになるって、そう思ってた」
 強くなりたかった――強くなったはずだった。
 皆を守りたかった――守れたはずだった。
 平穏を取り戻したかった――つまらなくも楽しい日常が戻って来るはずだった。
「大人になったら、もっと、もっと、俺は、いろんなことが出来るようになるんだって、ずっと、おもっってた……」
 指輪争奪戦が終わり、これでやっと、元の生活に戻れると信じた。自分は役目を果たし、成すべき事を成して、全て終わらせたつもりでいた。
 あれが始まりだったなんて、考えもしなかった。
 自分は強くなどなかった。
 は守りたいものを守れなかった。
 取り返せなかった。
 此処に、本来在るべき自分が居ない。
 何処にも、もう、求めた未来が存在しない。
 沢田綱吉はどこにもいない――
「ツナ」
「ごめっ、ね……ごめん、ねっ」
 気がつけば涙は自然と溢れ、頬を濡らしていた。
 重ね合わせた手はそのままにして、自由の利く腕で乱暴に目尻を拭う。大きな音をたてて鼻を啜るが、次から次に雫は流れ落ち、止まらない。
 擦りすぎた肌が痛い。けれどみっともなく涙を零す姿を山本に見られたくなくて、綱吉は懸命に自分に泣き止むよう訴え、ぐしゃぐしゃに顔を引っ掻き回した。
「ツナ」
 山本が手を伸ばす。右手を握り、綱吉の左肩が外れるくらいに力任せに引っ張って、小さな彼を胸の中に閉じ込めた。
 出遅れた綱吉の右手が後ろへ流され、爪の先から拭い取ったばかりの露が散った。弾き飛ばされた杯が音を立てて転がり、床の上を滑って五メートルほど離れた場所でうつ伏せに倒れる。
「謝るな。お前が悪いことなんか、ひとつもないんだ!」
「けど、俺は、もっと、俺には、たくさん!」
 沢山、出来る事があったのではないか。
 死を回避し、争いを鎮める術があったのではないか。
 仲間を守り抜く方法があったのではないか。
 喪われずに済む命があったのではないのか。
 嗚咽を漏らし、綱吉は山本の腕に爪を立てた。力任せに引っ掻き、袖の上から彼の引き締まった体躯を傷つける。
 こんな事をしたいわけじゃないのに、自分を止められない。身の安全が一時的にではあるが保証された場所に在って、それまで考えずに居たことが一斉に押し寄せて綱吉を潰した。
 心が引き裂かれ、血飛沫を撒き散らし、悲鳴を上げている。
 哀しい。
 それ以上に。
 怖かった。
「お前は悪くない、お前はこの十年、すっげー頑張った。無理もして、無茶もして、お前は、俺たちのために出来る限りの事をやってくれた。最後まで止めようとしてくれた、守ろうとしてくれた。お前は誇って良いんだ。ツナ、お前はお前が思うよりもずっと強い」
 震え、泣き続ける小さな子供を抱き、山本が懸命に言葉を操る。ぎこちなく、たどたどしく、けれど精一杯、思いを伝えようと。
 こんな細い、華奢な子の双肩に未来を託さなければならない残酷な現実に抵抗を覚える。どうして自分ではなかったのだろうと、後悔ばかりが胸に過ぎる。
 自分の方こそ、もっと出来た事があったはずなのだ。だのに気付くのはいつだって、なにもかも手遅れになってから。
 早く大人になりたかった。
 過去の自分に恥じない男になりたかった。
 誰かを――たったひとりを、支えられる人間になりたかった。
「なれるよ、ツナ。お前なら。俺の知ってるツナは強い、誰よりも一番に。お前はどんな時だって、いつだって、俺たちの前で……大丈夫だって、そう言って笑ってたんだ」
 柔らかな春の陽射しを思わせる髪を撫で、泣きじゃくる子に向けて、山本は精一杯の笑顔を浮かべた。
 さっさと終わらせて、みんなでテーブルを囲んで、美味しいものを食べて、旨い酒を飲み、陽気に歌って、騒いで、笑い合おう。いつからそうなったのかは覚えていないけれど、それが、自分たちの合言葉だった。
 だから、今回も。
 皆で集まって、もう一度、大声で笑う為に。
「守るよ、今度こそ。“お前の俺”が、……お前を守るよ」
 綱吉に聞こえぬ声で囁き、彼は顔を上げた。
「お前に……また会えて、良かった」
 一緒に居た時間は幸せだった。それだけは忘れて欲しくなくて、山本は泣きじゃくる綱吉が泣き疲れて眠るまでずっと、優しく抱き締め続けた。

2008/09/03 脱稿