爽秋

 燦々と降り注ぐ陽射しは温かく、気温は夏を思わせるところまで上昇していた。
 しかし真夏の炎天下に感じたような、肌を突き刺す厳しさは影を潜め、全身にまとわり着く不快感を伴った風も何処かへと綺麗さっぱり消え失せた。
 過ごし易さは一ヶ月前の比ではなく、快適と言えた。一年中今のような天候が続けば良いのにと、四季折々の景観を楽しむ日本人としての感性を何処かへ置き去りに、綱吉は考えた。
 最早遅刻は確定、それどころか重役出勤も良い時間帯。既に授業は二時間目を終え、三時間目に突入しているはずだ。
「んー……」
 鞄を持った腕を高く掲げ、その肘を左手で抱く。背筋を伸ばして骨を鳴らした彼は、青々と広がる空に目を向けて気持ちよさげに深呼吸を繰り返した。
 いっそこのまま、学校に行かずにどこかで時間を潰してしまおうか。河川敷の原っぱで日向ぼっこも、気候的に悪くない。
 悪魔の囁きが聞こえ、綱吉は腕を横に広げて脇へ下ろした。交互に肩を鳴らし、荷物が満載の鞄を担いで重みを受け止める。中に入っているもののうち、最も重量があるのは弁当箱だ。
 この弁当の準備があるかないかで、奈々の起床時間も変わってくる。時間が経っても食材が傷まないよう、丁寧に下拵えをしてから濃い目に味付けされた具は、昨今の冷凍食品優勢の傾向に反して多くが手作りだ。
 愛情がいっぱい詰め込まれた弁当箱は、クラス一、いや、学校一美味しいと綱吉は自負していた。
 それを、友人と輪になって食べれば、また一段と美味しさが引き立つ。わいわいと下らない話を真剣に語らいあい、忙しく箸を動かす。これぞ学生生活の醍醐味と言えなくは無いか。
 けれど学校をサボり、河川敷でひとり過ごすとしたら、奈々の愛情は一気に冷えて弁当は不味くなってしまう。
 のんびり気ままに、ひとりぼっちで一日を終えるか。
 怒られるのを覚悟で学校に出向き、面白くもない勉強に勤しんで仲間と一緒に過ごすか。
 天秤は揺れ続け、どちらかを選べないまま綱吉の足は交互に前に進み続けた。
「あ」
 そして気がつけば学校の目の前にきていて、聳え立つ校舎を見上げて彼は苦笑した。
 無意識に、足は学校に向いていたらしい。これでは考え、迷う意味がなかったなと肩を竦め、彼は少し軽くなった鞄の端を握って正門に通じる道を急いだ。
 しかし。
「えー……」
 三時間以上遅れで漸く辿り着いた校門は見事に閉じられ、挙句鍵まで掛けられていた。
 遅刻魔の綱吉と雖も、その遅れはせいぜい十分未満が大半。それに、一時間目が終わるまでなら、大体風紀委員がひとりはチェックに立っていて、門にも人が通れるだけの隙間が残されているのだが。
 今日のような手酷い遅れ方をしたのは、入学以来始めてのこと。近年多発する不法侵入者による犯罪の影響で、門番がいない時は正門を閉める取り決めが成されている事を、綱吉は知らなかった。
 鉄製の門扉に手を伸ばし、握って前後左右に振るが、内側から施錠されているので当然ビクともしない。まるでお前は学校に来なくて良いと宣告された気分で、綱吉は肩を落として天を仰いだ。
「そんなぁ~」
 折角来たのに、門前払いを食らうとは夢にも思わなかった。
 ついつい泣き言を漏らし、逆立った髪をくしゃりと掻き回した彼は、もう一度門が開かないかどうか確かめた後、全く同じ反応をする鉄格子を思い切り蹴り飛ばした。
 もっとも、門はガシャン、と大きな音を響かせただけで、痛かったのは足を弾き返された綱吉だけ。骨にまで届いた衝撃に悲鳴を上げて飛び上がり、あまりにも惨めな自分に彼は涙を浮かべた。
 鼻を啜り、いつも以上に大きく感じる鉄門を見上げる。胸を張る、いや、むしろ踏ん反り返る人の姿にも似ていて、此処を絶対通すものかという意気込みに綱吉は尻込みした。
 矢張り、諦めようか。
 深々と溜息を零し、お手上げだと首を横に振る。もう一度髪の毛を掻き回して額に手を重ね、彼は陽射しの中で堂々とそそり立つ中学校の校舎に目を細めた。
 音楽室からピアノの音が聞こえる。建物を隔てた向こう側のグラウンドからは、男子生徒の大声が。賑やかで、勉学に励むべき年齢の生徒が大勢そこに居ると分かるのに、自分は何をぼんやり此処に突っ立っているのだろう。
 正門は二メートル近い高さがあって、背伸びをしても手は最上部に届かない。爪先を引っ掛ける場所があればまだ救いがあったのだが、侵入者対策であろうか、足場になるような横棒は設置されていなかった。
 鞄を下ろし、試しにジャンプして手を伸ばしてみる。だが指先は上辺に掠りもしなくて、仕切りの役目を果たす細い柱を爪が削っただけだった。
「あー、もう!」
 二度、同じ事を繰り返したが結果はいずれも同じ。しかも段々跳躍力が落ちていくようで、手が届く位置が徐々に低くなっていった。
 肩で息をして、自分の体力の無さに喘ぎ唾を飲む。おまけにここは公道に面した歩道の一画で、通行人がじろじろと人の背中に目を向けていくので、羞恥心が余計な浪費を招いた。
 顔を赤くした綱吉は、四度目のジャンプにも失敗して勢い余って尻餅をついた。固い石畳に両手が落ちて、転がっていた小石に左の掌を抉られる。しゃがみ込んだまま確かめれば、皮膚が裂けて薄ら血が滲んでいた。
 虚しいし、哀しい。不意に泣きたくなって、格好悪い自分が嫌になって、目尻に涙を浮かべた彼は慌てて半袖シャツを引っ張った。
 薄い布地に顔を押し付け、傍目には汗を拭っているように見せかけて拭き取る。鼻で吸った息を口から吐き出して心を静め、ズボンの砂埃を叩き落しながら彼は立ち上がった。
 置きっ放しの鞄を拾い、一切の変化が見られない校門をしばし見詰める。三秒後、綱吉は疲れた足取りでその場を離れた。
 登校を断念して家に帰る、というわけではない。学校内に潜り込む経路は、なにも正門からのひとつだけとは限らないのだ。
 並盛中学の風紀委員は厳しいことで有名だが、そんな彼らを煙に巻く手段も、探せばそれなりに見付かる。委員長を出し抜くのは流石に難しいが、あの人だって学校の敷地全体が頭に入っているわけではなかろう。
 鞄を胸に抱えた綱吉は、いそいそと正門前の通りを抜けて角を曲がった。西側の、壁で陽射しが遮られて薄暗い細道に入って暫く進み、周囲を警戒しながら立ち止まる。
 隣の家の壁には小さな扉が設けられていて、その向かい側に道路を不法占拠する格好でゴミ箱が置かれていた。
 四角形の、ちょっとやそっとでは動きそうに無いしっかりとした造りのもので、上部には鉄製の蓋が。そのもっと上を見れば、中学校の敷地に植えられた木が枝を伸ばし、日陰を作っていた。
 灰色のコンクリートブロックの味気なさに、木の葉の緑がいやに浮き上がって目に映る。綱吉は若干臭う空気に顔を顰めた後、背に腹はかえられないと心を決め、半円形をした鞄の取っ手を左右に広げた。
 弁当の中身が心配だが、汁漏れするような具は無かったと記憶している。ご飯が片方に寄ってしまうが、仕方あるまい。
 彼は縦にした鞄を背側に回し、持ち手部分を左右の肩にそれぞれ通した。使い方としては間違っているものの、両手を自由にする必要があるので、リュックのように背負って身体を前後に揺する。
 落ちないかどうかを確かめた後、よし、と握り拳を作って意気込み、綱吉はごめんなさい、と後ろの家の住人に心の中で謝ってゴミ箱の縁に足を乗せた。
 右足を先に置き、滑らないようにしっかり踏ん張って左足を。重心を移動させた途端に視線の高さが変わって、地面が遠くなった恐怖心に鳥肌が立った。
「う……っ」
 落ちそうになり、両手を広げて慌ててバランスを取り戻す。一瞬で拍動を強めた心臓を必死に宥め、綱吉は左胸を制服の上から撫でて落ち着かせた。
 深呼吸を三度繰り返し、誰も近付いて来ていないかどうか改めて周囲を見回す。風に枝が揺れる音にさえビクついて、何故自分がこんな、こそ泥のような真似をしなければならないのかと、正門に鍵を掛けた人物を軽く恨んだ。
「よいしょ、っと」
 遠慮がちな掛け声をひとつ、両手を真っ直ぐ上に伸ばして枝を掴む。ざらざらしているかと思いきや、意外に肌触りも滑らかな樹皮を抱き抱え、彼は利き足をブロック塀へ垂直に押し当てた。
 腹に力を込め、腕の筋肉を収縮させる。頭の中に血液が大量に流れ込み、耳から湯気を吹く勢いで彼は左足を宙に浮かせた。運動靴の踵を塀の縁に引っ掛け、右足を浮かせて上半身の力だけで身体を持ち上げる。
 塀の幅は五センチ足らず。頭を下にして枝にぶら下がる格好は、コアラか、はたまたナマケモノか。
「ぐっ、う……っとおぉ……」
 地面に向いている背中を捻り、枝の上へと身体を運び込んだところで、やっと一息。塀に預けた足を一旦戻して呼吸を整えた彼は、真下を見て地面との距離感に再び軽い眩暈を起こした。
 ぐらりと視界が揺れ、枝にしがみついたまままた身体を百八十度反転させそうになり、慌てて全身を強張らせた綱吉は、次に後ろ向きに進んで細いブロック塀に爪先を預けた。
 学校に尻から近付く格好で、視界が制限されるために、当然彼の目に塀の内側は映らない。ただ以前この経路を利用した時には、下に花壇等の着地の邪魔になるものは何もなかった。
 こんな校舎裏の辺鄙な場所がいきなり開発されるわけもなく、前回同様、木の根元は乾いた土に覆われて目に見える障害物は見当たらない。
 塀を抜けて更に木の幹に近付き、やっと学校に入り込めたと安堵した綱吉は、チャイムが鳴るまであとどれくらいの時間が残っていただろうと、先にそちらに気を向けた。
 両足で太い枝を挟み、爪先をぶらんと下に垂らす。壁を越えてしまえば後は楽勝と、油断していたのは間違いない。
「も~……疲れた」
「へえ、重役出勤でも疲れるんだ?」
「っ!」
 木の冷たさが気持ちよく、目を閉じてしばしリラックスしていた綱吉の耳に、過分に呆れを含んだ低音が飛び込んだ。
 聞き覚えがありすぎて、あまり嬉しくないがもう絶対聞き違えない自信さえついてしまった人物の声。伸びやかで、少し鼻にかかる、時と場合によって心地よかったり、恐ろしかったりと百八十度印象ががらりと入れ替わる、その声の主は。
 冷や汗を流し、心臓をきゅっと縮めて綱吉は頬を引き攣らせた。全身が鳥肌を立て、気温は高いのに寒気を覚えて息を呑む。
 恐々振り向いても、そこに誰も居ない。当然だ、声は下から聞こえた。
「ねえ、返事は?」
 穏やかそうに思えて、しかし北極海のブリザードよりも冷たい呼びかけに、綱吉は顔を向けられずに横を見た。だらだらと汗を流し、どうやってこの絶体絶命の状況を潜り抜けようか懸命に考える。
 だがどう頭を捻っても、妙案はひとつとして出てこなかった。
「聞こえないの、沢田綱吉」
 チャキ、と金属を構える音が小さく聞こえて、続いた低音に彼は心の中で悲鳴をあげた。慌てて首を振って幹に貼り付いたまま下を見る。太い木の根元に立っていたのは案の定、この学校の影の支配者こと、鬼の風紀委員長だった。
 愛用のトンファーを両手に構え、今にも殴りかかる雰囲気をぷんぷん匂わせている。彼ならば、この胴回りも立派な木さえも一発で薙ぎ倒してしまいそうだ。
「き、きき、きこ、きっ、聞こえてましゅ!」
 音を立てて立派な木が倒れる様を想像してしまい、焦った綱吉は呂律が回らないままに叫んで舌を噛んだ。
 思い切りやってしまい、痛みも半端無い。撫でるのにも躊躇する場所であり、彼は肩を小刻みに震わせると両手で口を覆って背中を丸め、枝の付け根に額を押し当てた。
 悶絶している彼を見上げ、何をやっているのかと雲雀が肩を竦める。武器を素早く片付け、いい加減そこから降りて来るように言って、黒光りする靴の裏で太い根元を蹴り飛ばした。
 この程度なら直径五十センチ近くはあろう木はビクともしないが、勢いだけは伝わって綱吉は大仰に怯えた様子で身を強張らせた。顔の下半分を手で覆い隠したまま、瞳を泳がせて最後に雲雀を見る。フルフルと首を横に振られ、下にいる彼は眉を寄せた。
 何かの指示を出しているようであるが、言葉を介さない瞳の合図だけなので分からない。首を傾げていると、綱吉は右手だけを外して空気を前に掻き出した。
 花咲か爺さんを真似て、灰でも撒き散らそうというのか。さっぱり理解出来なくて、雲雀は益々怪訝な顔をして高い位置にいる綱吉を睨みつける。彼は琥珀色の瞳を歪め、目尻に涙を浮かべていた。
 さっきと同じ動きを繰り返されるが、雲雀は場から動かない。逆に言葉で説明しろと怒鳴られ、綱吉は弱々しく首を振って残っていた左手をやっと外した。
 赤くなった唇を開き、息を吐く。動きがたどたどしいのは、噛んだ舌がまだ痛いからだろう。
「早く降りておいで」
「だかっ、ヒバリさ、そこどいっ……つぅぇぇ!」
「綱吉!?」
 理解力に乏しい雲雀に怒りを覚え、今度は腕を横薙ぎに払いのける形で振り回した綱吉だったが、何分暴れるには場所が悪すぎた。
 バランスを崩した綱吉が裏返った悲鳴をあげ、重力に引っ張られるままに丸みを帯びた枝に太股を滑らせた。支えを失った体が宙を泳ぎ、必死に鳥の翼の如く腕を動かして抵抗するが、そんな事で空を飛べたら誰も苦労しない。
 目を剥いた雲雀が足を前に踏み出して、靴が踏んだ木の根に意識を取られる。綱吉に毟られた木の葉が舐めるように滑り落ちて、彼は急ぎ頭上を仰ぎ見た。
 さっきの綱吉の仕草は、着地点に居る雲雀に退くよう促していたのだ。今更気付いても後の祭りだが、勘が鈍っていた自分に舌打ちし、雲雀は垂直に落下する綱吉を受け止めるべく両手を広げた。
「ぐっ」
「ぎゃふ!」
 地面に頭を直撃させるのだけは、回避させなければならない。咄嗟に背中を丸めて頭を胸元に庇った綱吉の肩を抱きとめた雲雀だが、勢いに乗った彼の体は予想以上に重く、肩が外れんばかりの衝撃を与えられて全身が軋んだ。挙句、ふたりまとめて地面に転がる最中に、額に綱吉の膝蹴りを食らわされた。
 いい音が頭の中で響いて、目の前が真っ白になった雲雀は飛び去ろうとする自身の意識を寸前で取り返した。逆立ち状態の綱吉をどうにかして抱え、背中から地面に倒れ込む。
 砂埃が高く舞い上がり、乾いた風が塵を攫ってどこかへ消えた。
 きゅぅぅ、と目を回した綱吉の脚を顔の上から退かした雲雀が、人の下腹部を枕にしている彼をいつまで乗っているのかと横に追い払う。二度目の衝撃に星を散らした綱吉は、背中の鞄の分だけ胸を膨らませて仰向けに寝転がった。
「いっつ……」
 酷い目に遭った。
 強かと打ちつけた頭を撫でて慰め、苦悶に顔を顰めて唾を吐く。少しだけ赤い色が混じっていたので、歯が咥内を削って切れたらしい。現にじくじくとした痛みが、微かではあるが口の中から発せられていた。
 立ち上がった雲雀は、依然琥珀の目にぐるぐる渦巻きを書いている綱吉の肩を微妙な手加減で蹴った。砂まみれの制服を撫でて汚れを払うが、白いシャツが完全に元の色を取り戻すには、洗濯を待たねばなるまい。
 深々と溜息を零し、雲雀はやっと呻き声と共に瞼を持ち上げた綱吉に冷ややかな視線を投げた。
 同時に、三時間目終了のチャイムが厳かに鳴り響く。視界いっぱいに青い空を見詰めた綱吉は、あちこち痛む身体に無理を言わせてどうにか上半身を起こした。
 鞄は自分の体重に押し潰されてぺしゃんこで、弁当はさぞや悲惨なことになっているだろう。時間通りに見送ってくれた奈々に心の中で詫び、両手で頭を抱えた綱吉は、曲げた膝の間に潜り込んだ黒い靴に目を瞬いて顔を上げた。
 陽射しを背負い、雲雀が威風堂々と立っている。ネクタイは綱吉を受け止めた時の影響か、少しだけ形を崩して左に流れていた。
「うぇ、と、あの……」
「遅刻だよ、沢田綱吉」
 逃げ出そうにも身体中が痛くて、とてもではないが走れそうに無い。大人しくお縄を頂戴するしかなさそうで、しかしいったいどうして、こんな人目につかない死角からの侵入がばれたのか、不思議でならなかった。
 しょんぼりと頭を垂らし、唇を尖らせた綱吉を小突いて雲雀は生徒手帳を差し出すよう促す。逆らう気も起こらず、鞄を下ろした彼は見事にいろんなものがひっくり返って混ざり合っている中身に涙を呑み、底をかき回して掌サイズの手帳を探した。
 だが、見付からない。そういえばポケットに入れていた気がすると、胸元、腰元、尻と順に叩いて確かめるが、いずれも空っぽだった。
「あ、あれ?」
 おかしいなと頭の上にクエスチョンマークをいくつも飛ばし、鞄をひっくり返すが、無いものは、無い。立ち上がってズボンのポケットを引っ張りだしても、布屑や洗剤滓が出てくるだけで、肝心の手帳は行方知れず。
 どこかで落としたか。しかし、何処で。
 振り向いて壁を乗り越えるのに使った木を見上げるが、木の葉以外地面に落ちているものはなかった。塀の外かもしれないが、可能性は低い。
「忘れたの?」
「いえ、ちゃんとポケットに。あれ、おっかしいな、今日の朝見たのに……」
 制服に入れたまま洗濯に出してしまって、奈々が寸前で気付いて抜き取ってくれていたそれを、弁当箱と一緒に受け取った。慌しい朝の出来事を脳内で振り返り、間違いないと頷いて綱吉は今一度自分の胸ポケットを叩いた。
 此処に入れて、弁当は鞄に押し込んで、玄関を飛び出した。走ればぎりぎりだが遅刻せずに済む、そんな時間だった。
 南の高い位置にある太陽を雲雀ごと見上げ、下唇を噛む。思い当たる節は他にもあるが、それを雲雀に言うのは憚られた。
「まあ、いいよ。それで? 今日の遅刻の理由は、なに」
 まさか寝坊ではあるまいと、眩い陽光の中に佇む雲雀の問いかけに、綱吉は俯いて返事を渋った。瞳は乾いた地面を泳ぎ、一定しない。
「沢田綱吉」
「……寝坊、です」
「嘘だね」
「寝坊ってことで、良いです。どうせ本当のこと言っても、ヒバリさんだって、信じないだろうし」
 横を向いたまま綱吉は回りくどく、その上分かりづらい説明を展開させて口をつぐんだ。これ以上弁解するつもりはないと、そう態度で現しているつもりなのだろう。
 妙なところで強情な彼に嘆息し、雲雀は胸元で組んでいた手を解いてずれていたネクタイを綺麗に整えた。
 温い風が吹き、緑の木々がざわめく。膨らませた頬を撫でる風の心地よさに綱吉は睫を伏し、上目遣いに何も言わない雲雀を見た。
 彼は、意地の悪い顔で笑っていた。
「ヒバリさん?」
「並盛中学二年A組、沢田綱吉。並盛総合病院から、生徒手帳が届けられたと連絡があったよ」
 律儀に所属学級まで朗々と謳った雲雀に、綱吉が目を丸くした。
「……はい?」
「登校途中に産気づいて蹲っていた女性を助けて、救急車で一緒に病院に行った上に、女性の家族へも連絡を入れて、ご両親が駆けつけるまで傍に居て手を握っていた――そうだね」
 遅刻の理由にしてはあまりにも出来すぎたストーリーに、綱吉は言葉を失ってぽかん、と間抜けに口を開けた。
 黒く切れ長の目を眇め、口元に右の人差し指を添えた雲雀が声を殺して笑う。名前さえ告げずに、病院内が騒然としているどさくさに紛れていなくなってしまった少年を探し、落ちていた生徒手帳を頼りに女性の家族が学校へ直接電話を掛けてきたのは三十分以上前の事だ。
 お礼さえ言えなかった事を、相手方は非常に気にしていた。
「な、なんですか、それ。そんなわけ、あるわけない、じゃ」
「じゃあなんで、生徒手帳が病院に落ちてたの?」
 ぎこちなく言葉を発し、一向に雲雀を見ようとしない綱吉に追い討ちをかける。彼はぎくりと肩を震わせ、膝に両手を重ねて握り締めた。
 通学路に病院は無い。経由するにしても大回りだし、見舞う相手を持たず、病気や怪我をしたわけでもない彼が、わざわざ出向く場所でもない。中学校の制服姿は否応なしに目立ち、暇潰し目的で入り込むのも不適切な場所といえた。
 反論できず、拳を細かく震わせた綱吉が窺う目を雲雀に投げかける。彼は相変わらず底意地の悪い笑みを口元に浮かべ、素直でない後輩の頭を撫でた。
 くしゃくしゃに髪の毛をかき回され、首を引っ込めた綱吉が恥かしそうに下向いた。
「先方がどうしてもお礼が言いたいそうだから、放課後、病院に行っておいで」
「けど、俺は別に、そんな」
 偶々、坂道の中腹で気分が悪そうに蹲っている人を見かけた。そのまま通り過ぎようかと思ったが、苦しそうに呻く声が聞こえ、足が止まった。どうかしたのかと問うて、泣いている女性が救急車を呼んで欲しいと懇願し、慌てて近くの家に飛び込んだ。
 吃驚しているその家の人を説得して電話を頼み、急いで戻って不安がる彼女を励ました。なかなかこない救急車に痺れを切らし、自分で背負って行こうか本気で考え始めた頃にやっとサイレンが聞こえて、安堵した。
 女性とは思えない力で握り締められた手が痛かった。振り解くことが出来なくて、一緒に救急車に乗って病院へ行った。
 幸いにも受け入れ先は直ぐに見付かって、女性の持っていた携帯電話を頼りに家族と思しき人に連絡を入れた。病院の名前を伝え、救急隊員の話から分かる限りで状況の説明を付け加えた。直ぐに向かうという答を聞いてホッとして、自分の役目は終わったかと思いきや、女性が呼んでいると看護師に引っ張られ、訳も分からぬまま分娩室に連れていかれた。
 頭に帽子を被せられ、白衣のような上着を着せられ、消毒をして、なにがなんだか解らないまま女性の手を握り続けて。
 女性の両親が到着したという報せを受けて、やっと解放された。ふらふらになりながら病院を出て、そして今に至る。
 手帳を落としたのは、そのどさくさの最中だろう。全く気付かなかった。
「ごめんなさい……」
「どうして謝るの」
 自分でも何に対しての謝罪か解らないが、兎も角口を開いたらその言葉が自然と滑り落ちて行ったのだ。雲雀の呆れた声にはにかみ、綱吉は首を振って頭に乗ったままの彼の手を追い払った。
 髪に指を入れて梳き、乱れていたのを簡単に整えて顔をあげる。久方ぶりに雲雀を正面から見た気がした。
 良い事をしたのに、自慢しない。偉ぶらない。当たり前の事をしたと言い切り、学校に遅刻したのを恥じている。女性の家族に連絡を入れたときに、一緒に学校にも報告しておけば、こんな風に裏からこそこそ入らなくても済んだろうに。
「正門の横にインターホンがあるだろう。門が閉まってる時はそれを押せば、用務員が開けてくれるよ」
「え、うそ」
 甲高い声を出し、綱吉は座ったまま伸び上がった。
 やはり知らなかったかと雲雀は眉間に皺寄せ、痛むこめかみに指を置いた。
 立つように言われ、大人しく従う。散らかしていた鞄の中身を片付けてファスナーを閉めている最中に、四時間目開始のチャイムが鳴ってしまった。
 苦虫を噛み潰した顔をして、斜め上に校舎を見た綱吉の肩を雲雀が引き寄せる。後ろから抱き締められ、突然触れた体温に彼は背筋を粟立てた。
「男の子だったそうだよ」
 耳元で囁かれ、ゾクッと来たのを懸命に誤魔化して綱吉は頭を振った。悪戯する雲雀から逃げようと足掻いて、何をやっても彼に敵わないとだけ思い知らされた。
 体力も殆ど残っておらず、最後の抵抗も封じられて静かになった彼の頭を撫で、頬を寄せる。雲雀の手は優しくて、諦めて彼に甘えることにした綱吉は目を閉じ、自分からも彼に体重を預けて寄りかかった。
 産声は元気いっぱいだった。自分もこんな風に奈々から産まれたのかと思うと、不思議な感じだった。
「会いに行く?」
 低い声で問われ、綱吉は二秒間を置いて頷いた。
 解放され、ふらつきつつも自分の足で立ち、雲雀を見詰める。穏やかな表情の彼は、しかしふと何かを思い出し、またしても悪巧みをしていると分かる顔をして綱吉の鼻を小突いた。
「そうそう、あとね」
 過分に笑いを咬み殺した声で、彼は言った。
 きっとありがたいことなのだと思う。けれど自分の境遇を思うと、それは止めておいたほうが良いと思えて、綱吉は複雑な面持ちで頬を引きつらせた。
「産まれた子の名前、君にあやかって、綱吉にするんだってさ」

2008/09/02 脱稿