精霊火 第一夜(後編)

 ばさり、風を切って黒く濡れた翼を折り畳んだ男が茂みを縫って地面へと着地した。
 頬を冷たい空気に撫でられ、髪を嬲られた若い女性が不機嫌に眉を顰め、形の良い唇を歪めて現れた男を一瞥する。
「あんたかい」
「悪かったな」
 つまらなそうに吐き捨てた彼女の声に、男も負けず面白くなさそうに声を放ち、斜めになって足場の悪い地面を踏みしめた。
 腰に吊るした徳利をひとつ取り、栓を外してやおら掲げ持ち、ひとくち含んで息を吐く。途端に酒臭さが林の中ほどに広がって、彼女は益々整った顔を険しくして男を睨み付けた。
 怜悧な刃を思わせる切れ長の瞳が放つ怒りに、しかし男は平然と受け流し、お前もどうだと今しがた自分が口をつけた徳利を差し出した。即座に空が切り裂かれ、両者の間に伸びていた太い枝が四つの輪切りに分解された。
 耳を劈いた植物の悲鳴に、咄嗟に後ろに飛び退いて避けた男は、呵々と声高く笑った。
「逃げるんじゃないよ!」
 口惜しいと凄む女を高い位置から見下ろして、男は赤ら顔のままもうひとくち、酒を煽った。美味そうに飲み干し、濡れた顎を雑に拭ってそれを脂ぎった髪に押し付ける。
 いきり立つ彼女を飄々とやり込め、男は残り少ない酒に舌打ちし、捕まえた無事な枝を軸に身体を反転させた。
 ひょいっと軽業師も舌を巻く軽妙さで枝の上に足を乗せてしゃがみ込み、距離を確保して徳利を空にする。女は美麗に整った顔を鬼の形相に変容させ、前髪に隠れていた二本の角をむき出しに牙を剥いた。
「降りていらっしゃい!」
「やー、やー。そう怒りなさんな。折角の美人が台無しだぜ」
 でなければ今すぐこの爪で足場にしている木ごと真っ二つに切り裂いてやる。冗談ではないと分かる声の迫力に男は肩を竦め、落ち着けと両手で空気を押し出す格好をして彼女を宥めた。
 勿論その程度で鎮まる怒りではなく、彼女は男の制止を無視して切っ先鋭く伸ばした爪を掻き鳴らした。
 一触即発の状況に、されど男はどこか楽しげに相好を崩してどっかり枝に座り直す。見ろよ、と指差した先は、闇に覆われた盆地の只中で唯一赤く照らし出される異様な空間だった。
 村の端、誰が設けたか分からぬ稲荷の社が鎮座する広場。そこに今現在、並盛村の住民の半数以上が集まっていた。
 人いきれは離れたこの山の斜面にまで聞こえてくるほどで、実際に時折人々の歓声がとぐろを巻いて鼓膜を打つ。反して山の中は驚くほど静かで、虫の声さえ響かない。
 山に塒を構える獣達も今夜ばかりは場所を替え、落ち着かぬ時を過ごしていることだろう。
「人間て奴は、愚かしいな」
 だから面白いのだが、と他人事を決め込んで呟く男の声を真上に聞き、鋭利な爪を引っ込めた女は憤然としたまま唇をへの字に曲げた。
「あんただって、元は人間だろう」
「そう言うなや。やめてからもう二百年以上経つ。忘れたさ」
 冗談めかせた口調で、どこまで本気なのか分からぬ物言いに彼女は柳眉を顰め、くるりと体の向きを反転させた。
 柔らかな腐葉土の地面を踏み固め、足場を確保した後に男が腰を落ち着けた木の幹に肩を預ける。立ち去る気配が無いところからして、彼女も今宵の傍観者を決め込むのに、この場所が最適と踏んだのだろう。
 遠からず、近からず。踊る炎の幻惑に囚われることもなく、邪念に染められることもなく。
「祭は、集団心理を動かし易いからな」
 居住まいを正した男の声に頷きもせず、否定もせず、彼女は優美に腕を組むと首を振って唇に絡んだ髪を後ろへ流した。
「祭であろうとなかろうと、人間なんてものは、一様に周囲に流され易いものよ」
「否定はしないな」
 何かを思い出しているのか、不意に声を潜めた彼女の言葉に頷き、男は腰に吊るしていたもうひとつの徳利を手に取った。紐を外して栓を抜き、ぐびっと中身を煽って美味そうに喉を潤していく。
 飲み飽きたりはしないのかという呆れた彼女の問いかけに、こればかりは止められないと男もまた遠い過去に記憶を飛ばして暗い目を眇めた。
「あんなもんを、見せられちゃあなあ」
 炎に包まれる館、地に伏す人々。赤く塗られた壁、響き渡る断末魔の叫び。音を立てて崩れ落ちる梁、舐めるように全てを飲み込んで壊れていく。
 内側から破られた牢、真っ先に木っ端微塵に引き裂かれたのだろう肉塊は、嘗てその屋敷の主だった男の亡骸。女、子供、老人も含め血族を根絶やしにせんと目論んだ狂者の怒りは底を知らない。
 止める術は無かった。ただ呆然と、震え、己に災厄が降りかからぬよう祈り、怯えて時が過ぎるのを待つ他、なにも出来なかった。
 医者だった。それなのに救いを求める手を握り返してやれなかった。冷たくなっていく身体を暖めてやることさえせずに、逃げ出した。
 逃げ延びた先で、奇跡を見た。
 人の力の限界を知り、その先を見た。
 だが矢張り、どう足掻いて抗ってみても、己の器量はあの日見た奇跡に程遠い。
「俺の役目は、だから、一部始終を見て、覚えておくことだ」
 そこにどんな意義があるのかと問われたら答えに窮する。しかし、もう二度とあの夜のような思いだけはしたくないから、こうして今此処に在る。
「面倒臭い男だねえ」
 嘆息交じりの女の声に肩を竦め、男は更にもうひとくち、酒を胃袋に押し流した。
 そんなものを飲んでいるから、いつまで経っても外道に堕ちたままなのだ。揶揄する彼女の言葉に乾いた苦笑で応じ、男はまたひとつ大きくなった炎に巨大な翼の陽炎を見た。
「祭は嫌いか。鬼の里にもあったろう」
「とうに廃れたよ。そうやって、滅びていくのさ」
 進化を止めた輩に、期待できるものなど何も無い。変容を望んだ存在は、それを望まぬ同胞によって抹消された。
 最早何を言っても無駄、彼らの願いは静かに朽ち果てて行くこと。
「だがお前さんは、まだ諦めちゃいないんだろう」
「何を根拠に」
「我が身可愛さだけなら、里に引き篭もったままでいりゃ済む」
 男の指摘に失笑した彼女だったが、続けられた内容に口を噤み、形の良い下唇を噛んだ。
「首魁は、あとどれくらい持つんだ」
「お前さんに教える義理はないね」
 低い問いかけに彼女は大袈裟に首を横に回し、髪を振り乱して木の幹に全身を預けた。早口にまくし立て、これ以上この話題に触れることを全身で拒否する。分かり易い女の態度に苦笑して、男は膝に肘を立てて頬杖の姿勢を作った。
 互いに腹に一物を抱え、人に言えぬ傷を持つ。ふたりは最早それ以上語らいあうこともなく、静かに、村の一角で高まりつつある儀式を見詰めた。
 炎の輪に囲われた空間で執り行われる祭りはいよいよ最終局面を迎えようとしており、居合わせた人々は手に汗握り隠し切れない興奮に頬を鮮やかに染め上げる。舞台上に上がった舞い手の素顔は面に覆われて見えず、不気味な白い肌に赤々とした炎の影が狂い猛っていた。
 薪が爆ぜる。
 篝火が踊る。
 広げられた扇が熱風を招き、魅入られた人々は悠然とした流れに目を奪われて言葉を失う。
 獄寺はその中で、未だひとり眉間に皺を寄せて懸命に記憶の引き出しをかき回していた。
「なんだ、なんだった……? 思い出せ、大事なことの筈だ」
 すぐそこまで思い出せているのに、魚の小骨が引っかかっているみたいにちくちく痛むだけで、肝心な部分が出てこない。じれったさに足踏みし、独り言を呟き続ける彼を、傍らの山本が迷惑そうに振り返った。
「おい、獄寺。ちょっと黙れって」
「うっせー。なんだっけ、なんだ。ここまで出てきてるんだよ、ほら、あれだよ、あれ。お前が言ってたんじゃねーか!」
 炎の影を受けてくすんだ銀に見える髪を掻き毟り、何故お前は気にならないのかと八つ当たりで山本の襟首を捕まえた獄寺の怒鳴り声に、周囲に居た村人が一斉に彼を睨みつけた。
 余所者が、と言いたげな視線に彼は益々気持ちを荒ませる。埃っぽい地面を蹴り飛ばした彼は、ハルや京子たちの不安げな瞳に舌打ちし、憮然としたまま山本を解放した。
 衝かれ、後ろによろめいた山本が衿を整えて息を吐く。
「大体、さっきから何気にしてんだよ、お前は」
「おいおい、舞が始まっているんだぞ。静かにせんか」
 いつまで経っても終わらない喧嘩に痺れを切らした了平が、またしても仲裁を買って出て腰に両手を押し当てる。それから彼はふと奇妙な感覚に襲われ、鳥肌を立てた腕を撫でた。
「どうしたの、お兄ちゃん」
 目敏く気付いた京子が、しゃがみ込んだ姿勢のまま腕を伸ばして兄の法被の裾を引く。彼は案ずるようなことではない、と首を振って笑うと、口論は止めたが睨み合いは続けている獄寺と山本双方を拳骨で一発ずつ殴り、五月蠅いと声を荒立てた。
 お前の声が一番大きい、と獄寺に悪態をつかれて呵々と笑い飛ばす。そして再び腕を交互にさすり、
「すまんな。小用だ」
「んな事いちいち言わなくていいんだよ!」
 舞台に背を向けたまま片手を挙げた了平に怒鳴って、獄寺は歯軋りした。
 以前から感じていたことだが、この村の連中は総じて呑気だ。ちょっとした事でも気になってしまう獄寺こそが神経質なだけだが、山本も了平も、つくづく自分の性格には合わないと彼は臍を噛み、了平を見送って笑顔を崩した山本を下から睨んだ。
「覚えてねーのかよ」
「だから、何が」
 了平に間に割り込まれた所為で中途半端な形で浮いていた話題を引き戻し、獄寺が小声でぼそりと言う。音を拾った山本が袖口に交互に手を差し入れて腕を組んで、舞台を見たまま問い返した。
 理解力に乏しい彼を心の中で散々貶し、だから、と声を大きくしようとした獄寺を足許のフゥ太が睨みあげる。
 こんな子供にまで厄介者扱いされるのは癪でならず、かといって有耶無耶なまま放置できることでも無い気がして、彼は舌打ちで感情を誤魔化すと、横目で炎の向こうに連なる闇を見た。
 綱吉は戻らない。雲雀と一緒に、もう屋敷へ戻ったのだろうか。
「怪力に、獣に、……なんか、引っかかるんだよ」
 舞台上で所狭しと展開されたあの一座の芸に、不審なところは何も無かった。けれど、気になる。綱吉の頭上を奔った刃の件もそうだが、他にもっと、重要なことを自分たちは見逃していないか。
 唇をなぞり、指の背を噛んだ獄寺の表現し難い焦燥に、山本は首を捻ってから目を細めた。
「そういやあ、なんか……あれ?」
 引き千切られ、食い破られ。
 正体の分からぬ重いものに押し潰され。
 貫かれ。
 そうやって死んだ者たちが、居なかったか。
 サッと山本の顔色が朱に染まり、瞬時に蒼に切り替わる。戦慄いた唇が無音を刻み、彼は足元から迫りあがって来た目に見えぬものの冷たさに息を呑んだ。
 彼の表情の変化を感じ取り、獄寺が合いの手を挟まずに山本が結論を出すのをじっと待つ。
 舞台上の能面が、静かに彼らを見た。
「まさ、か」
 南から北を目指し進む、死の連鎖。報告されているのは、狙われているのが退魔師の家系にある者たちである事と、むごたらしいその死に様。
 掠れた声を零した山本の顔から血の気が音を立てて引いていく。どうして今まで思い出しもしなかったのかと、記憶に蓋をした自分の愚かさを彼は呪った。
 獄寺がどうした、と耳打って山本に半歩擦り寄る。
 銅鑼の音が、唐突に静寂を打ち破って彼らの頭上を襲った。
「うっ」
「なんだ?」
 炎が舞い上がる。
 月が雲間に隠れた。

 闇の帳の中、目も覚める黄金色が物憂げに揺れた。
「始まるぞ」
 北の峰の中ほどに佇み、ディーノは眇めた目に不安をちらつかせながら、手を出せぬ己の境遇への怒りを押し殺した。
 遥か眼下、暗がりの中で異様に浮き上がる赤い炎の円の中で、今まさに、凶悪な獣が目覚めようとしていた。その先に待つ未来を知りながら、伝えることさえ許されぬもどかしさに、彼は苦々しい表情で唇をきつく噛み締める。
「火烏、そうまでして貴様は!」
 握った拳で宙を殴り、苛立ちを誤魔化す。次第に膨らんでいく炎の渦を、裏腹に冷めて行く心で見詰め、ディーノは今まさに羽化せんと首を擡げた禍々しい鳥の翼に顔を背けた。
 震える拳で今度は己の胸を叩き、瞼の裏に浮かんだふたつの笑顔をひとつに重ね合わせる。
 約束は、まだ生きている。
 今度こそ、絶対に。
 陽だまりのような、あの子を。
 笑顔を。
「奪わせるものか!」
 

 行灯に宿る炎が不安定に揺らぎ、目には見えぬ空気の変化を悟って男は瞑想を中断させた。
 組んでいた脚を解いてゆっくり立ち上がり、僅かな光の中で迷いもせず部屋の一角を目指して歩を進める。音は響かず、ただ薄い影だけが静かに追随した。
 かたん、と木が擦れ合う乾いた声がひとつ。彼は横に長い抽斗を両手で引き出し、箪笥から完全に分離させると丁寧に扱って床へ下ろした。
 冷たい木の感触が膝に当たって、男はその時だけ、僅かに表情を強張らせた。
「嫌な風が吹いていやがるな」
 低い掠れた声で呟き、袖を捲くる。短く刈りそろえた黒髪には幾らか白髪が混じり、疲れを滲ませた表情には彫りも深い皺が無数に刻まれていた。
 余分な肉を一切持たず、骨ばって全体的に角張った体型をした男は、慎重な手つきで抽斗に仕舞われていた畳紙を上から順に取り出して行く。長らく広げられていないと分かる、厚みのある和紙に包まれた着物には一切手をつけず、あと一枚分で底が見えるというところで一旦手を止め、浮かせていた腰を落として正座した。
 軽く握った拳を膝に揃え、深呼吸を三回繰り返す。僅かに躊躇しようとする己を鼓舞してか、最後に広げた手で思い切り頬を叩いた男は、再び姿勢を前に傾がせて敷かれている畳紙に指を添えた。
 懐かしみ、愛おしむ目で表面をなぞる。表を覆っている紙を結ぶ紐をゆっくりと丁寧に解き、幅広のそれを大事に捲りあげた男は、綺麗に折り畳まれている衣に相好を崩し、はにかむように微笑んだ。
「なあ、お前。あいつは立派に成長しているぞ」
 畳紙の間から現れた淡い縹色の単衣に向かい、そっと語りかける。女物のそれは、無論返事などせずにじっと彼の言葉に耳を傾けていた。
「どんなことがあったとしても、どんな謂れがあろうとも、あいつは、俺とお前のひとり息子に違いはない」
 だから、と彼はそこで一旦言葉を区切り、首を振った。瞑目し、呼吸を整えて細波だった己の心を鎮める。
 彼は無言のまま、決心した目を開き縹色の布を両手で掬い上げた。
 硬い紙ががさがさと擦れあい、音を立てる。ふっと凪いでいた空気が動き、行灯の火が心細げに揺れた。
 村の片隅で行われている祭りとは無縁の静けさの中で、男は、乳白色の畳紙の上に咲いた花の中央に秘されていたものを取り出した。
 玄い鞘。否、それは柄から切っ先まで一様に黒に飾られた、一振りの太刀だった。
 鞘の中腹を右手で握り、水平に掲げる。どこかで水の跳ねる音がして、男は一瞬息を呑んでから見開いた目を伏し、閉ざした。
「あいつは、俺たちの自慢の息子だ。お天道様に顔向けできなくなるような真似は、させられん」
 仄暗い中でも存在感を主張し、黒々しく輝く太刀を縦に構え、男は立ち上がった。
「道を違えるようならば、俺がこの手で断ち切るまでよ」
 夜気に紛れて肌を刺す毒々しい気配を振り払い、彼は鋭く気を吐いて鯉口を切った。
 鞘から解放された刀身が行灯の火を反射し、水の匂いを残してさっと大気を切り裂く。
 玄き刃を光に照らし、男はまるで祈るように誰かの名前を口の中で囁いた。

 君は知らない、僕の事を。
 僕は知らない、君の今を。
 君は知っている、僕の過去を。
 僕は知っている、君の未来を。
 ねえ、詞を唄って。
 あの頃のように。
 ねえ、笑って。
 僕のために。
 ねえ、乾いて仕方が無いんだ。
 お願いだから、僕を満たして。
 君の命で、僕を満たして。
 君の罪を、僕の為に贖って――

 暗闇の中を動く人影を見て、綱吉はおや? と首を傾げた。
 同じものに気付いた雲雀が、寄りかかっている綱吉をそのままに首を巡らせて目を細める。枯れ草を踏みしめる音が続いて、陽炎棚引く広場の残照に浮き上がった人物は、遅れてふたりの存在を気取り、綱吉と同じような顔をした。
「どうした、そんなところで」
「お兄さんこそ」
 真っ先に聞かれ、綱吉が苦笑して肩を竦めた。
 てっきり屋敷に戻ったとばかり思われていたふたりが、仲良く並んで広場からさほど距離も無い場所に佇んでいたのだから、了平の驚きも当然だろう。気持ちは分からなくもなくて、薄暗い中で間近に居なければ輪郭も朧げにしか分からない相手を見返し、綱吉は聞こえてくる雅な楽を顎で示した。
「俺は小用だったんだがな」
 雲雀が行きたがらないので、舞を見るのは叶わない。けれど折角の機会なのだから、せめて楽だけでも耳で楽しみたいではないか。そういう意図を綱吉から察した了平は、なるほどとひとつ頷いてから愛し子の願いも聞き入れない頑固な雲雀を笑い、それから困った風に頭を掻いた。
 日に焼けすぎて色が抜け、白くなった髪をぐしゃぐしゃに掻き回し、彼にしては妙に歯切れの悪い口調で呟く。
「お兄さん?」
 小用が済んだのなら、早く皆の元へ戻ればいい。彼は綱吉と違って人が大勢集まっていてもへっちゃらなのだから、何を躊躇することがあろうか。
 だが了平は、次に顎を爪で掻いてから宙に視線を投げ、懸命に今の自分を説明するに適した言葉を捜して、見つけられず、もやもやとした気分を撒き散らして最後には大声で叫んだ。
 日頃から珍妙な行動が目立つ彼だが、今日は輪をかけて可笑しい。雲雀も眉を寄せ、幼馴染の顔を見返す。彼は二度地面を思い切り蹴り飛ばすと、俺にもよく分からないが、と前置きをひとつして後ろを振り返った。
 綱吉たちからすれば前方に当たる、広場を見る。
 篝火の赤がぽつぽつと等間隔で並び、炎が燃え盛っている様が闇に浮き上がって非常に不気味だった。
「寒気がしたので小用かと思ったんだが」
 未だ言葉に窮しながら、了平はむき出しの両腕を交互にさすった。筋骨隆々として逞しく、綱吉の二倍は太さがありそうなそれに、ぶつぶつと鳥肌が立っている。
 言いよどむ彼に、綱吉の肩を抱いた雲雀が僅かに身を前に乗り出した。
「了平」
 なにか、嫌なものが彼の後ろにまとわりついている気がしたのだ。同時に首の裏を刺すあの感覚が強まって、雲雀は露骨に顔を顰めた。
「ヒバリさん?」
 ただならぬ雲雀の様子に綱吉が首を巡らせ、ほぼ真上にある彼の顔を見上げる。琥珀色の瞳を眇めた彼の不安めいた表情に、幾ばくかの間を挟んで、了平が自分の感覚を否定して首を振った。
「いや、やはりなんでもないな」
 広場から離れた途端、寒気は治まった。この鳥肌は思い出しただけで、今はもう大事無い。きっと気のせいだと事を済ませようとした了平に尚も食ってかかり、雲雀は、自らも説明できない焦燥感に駆られて綱吉の肩を押した。
 つんのめった綱吉が短い悲鳴をあげ、了平の顔が顰められる。乱暴だぞ、とお節介な忠言を口に出した彼の鼻先を、雲雀が腕を横に薙いで生じた風が過ぎていった。
 赤い炎が、闇を焦がす。
 踊る火の粉が、天を埋める。
 紅蓮の翼が、人々の歓喜の声を飲み込んで行く。
「分からないのか!」
 雲雀らしからぬ慌てた声に、綱吉は目を見張り、彼が見詰める先の景色を視界の中心に据えた。
 燃え盛る、赤。
「どうしたのだ、いったい」
 直後、声を失った綱吉の驚愕に染まった表情を見て、唇を歪めた了平が身体ごと広場に向き直る。そして、彼もまた絶句した。
「な……」
 火焔が。
「なんだ、あれは!」
 広場全体を、炎の壁が包み込もうとしていた。
 ゆらゆらと陽炎が揺れる。鳥の翼にも似た形をして、村人を飲み込んで、目にも鮮やかな赤が、綱吉たちの前方に広がって行く。
 了平が振り向くが、問う視線を向けられても、雲雀も綱吉にも分からない。ほんの数秒前までは、何の変哲もない広場だったはずだ。篝火が場を囲み、舞台を南に置いて、村人は厳かに始まった楽に耳を傾け、艶やかな舞に心を躍らせていた。
 今はもうその楽も聞こえない。其処だけが昼のように明るくて、あまりにも異様過ぎる光景に誰も次に続く言葉を発せられなかった。
 三人、呆然と立ち尽くす。
 最初に我に返ったのは、意外にも了平だった。
「京子!」
 あの炎の中に最愛の妹が居る。はっとした彼はその名を叫ぶと、矢の如く地を蹴って駆け出した。
「了平、待つんだ!」
 事の異様さは際立っている、不用意に近付けば何が起こるか分からない。
 明らかに人智の範囲を超えている状況に雲雀は焦りを滲ませ、遠くなる背中を懸命に呼び止めた。しかし了平が聞くわけがなく、歯軋りした彼は綱吉の肩を力任せに掴んで爪を立てた。
 痛みに悲鳴を堪える綱吉の心が五秒遅れで伝わり、慌てて肘を引いて解放する。
「ヒバリさん、あれ」
 右肩を左手で庇い、身を屈めた綱吉が顔を歪めて伝心で詫びる彼に首を振った。それよりも、と了平が駆けていった方角に細めた目を向け、言いようのない不快感を露にして生温い唾を飲む。
 感覚は共有されている。伝わって、雲雀は頷いた。
「変、だよ。気持ち悪い……」
「ああ。だが」
 言葉少なに膝を伸ばし、背筋を伸ばした綱吉の身体を雲雀が後ろから抱き締める。
 雲雀が了平から感じ取ったものを、綱吉も今漸く理解した。
 ぞぞぞ、と背筋に悪寒が走り、雲雀に支えなければ立つのも苦しい。炎の帯が広がるに連れてより明確に、露わとなっていく赤黒い感情は、醜悪なまでの憎悪に他ならなかった。
 鳥の姿を形作り、巨大な怨念が並盛の空を覆い隠そうとしている。
 ひっ、と悲鳴を飲んだ綱吉の震えを腕の中に閉じ込めて、雲雀は中心部に当たる稲荷前の広場を強く睨んだ。
 あの中には、山本や獄寺たちも居るのだ。
「なにをしているんだっ」
 憤り、逸る気持ちを抑えて雲雀が呻く。ふたりだけではない、京子やハル、フゥ太、大勢の村人が、炎に包まれている。
 どうすれば良いのか、その答えは了平が既に示した。
「綱吉、君は此処に」
「駄目。俺も一緒に行く!」
 震える声で雲雀の腕を握り、しがみつく。立っているのがやっとだというのに強がって、彼は押し退けようとする雲雀に首を振った。
 置いていかないでと、その心が悲鳴をあげていた。
「綱吉……」
「大丈夫、だから。俺も一緒に連れていって」
 心臓が拍動を強め、圧迫感が胸の内側から彼を苛む。雲雀とて、その辛さは触れ合った肌を通しとっくに気付いていた。
 けれど。
「分かった」
 孤独を怖がり、闇を恐れ、不安に押し潰されそうになっている彼をひとり、残してはいけない。
 鬩ぎ合う心の葛藤の末、雲雀は静かに、綱吉の目を真っ直ぐに見詰めて頷いた。
 

 闇が嗤う。
「さて、どうなるかな」
 月の無い空を見上げ、リボーンは黄色い頭巾で笑みを隠した。

2008/08/23 脱稿