しゃんしゃんしゃん、と鈴の音。
一夜限りの夜更かしを許されてはしゃぐ、子供たちの声。
緩やかな笛の音が、静かな闇の空に融けて行く。
「ツナにぃ、早く、はやくってばー」
「フゥ太、そんな引っ張らないでってば」
小走りに、我慢できないと急かす弟分に右手をつかまれ、綱吉は転びそうになる身体を懸命に踏み止まらせた。
日頃は村人もあまり足を向けない村はずれに、昼間では考えられなかったくらいに人が押し寄せている。中央には櫓が組まれ、隣には即席の割には見事な舞台が用意されて、両袖と前方左右に煌々と夜闇を遮る篝火が焚かれていた。
広場の外郭にも幾つもの篝が用意され、時折薪が大きな音を立てて弾け、火の粉をまき散らす。赤々と照らし出される陰影深い光景を遠巻きに眺め、綱吉は徐々に自分までもが心逸るのを抑えきれなくなった。
「いいよ」
期待の眼差しで背後を振り返り、薄明かりに浮かび上がる黒髪の青年を仰ぎ見る。綱吉が何を求めているのか即座に理解した雲雀は、緩慢に頷いて綱吉越しに広場の光景を眺めた。
昼間、村の南端で行われた里神楽の最中に起きた不可思議な事件の話は、既に彼らの耳にも入っていた。
山に四方を囲まれた閉鎖空間の、さらにはこういう時期なだけに、噂が流布するのは非常に早い。様々な憶測が行き交い、神風だなんだと色々尾ひれがついて回って、実際の現場で何が起きたのかを彼らが正しく把握するには、了平の訪問を待たなければならなかった。
彼はその場に居合わせて、騒ぎの一部始終を見ていた。周囲に流されない独特の個性を持っている了平は、下手な噂など信じず、ただ己の目が見たものだけを伝えてくれた。
燃えた南方を守護する幡、神輿を中心に沸き起こった風。その中心に了平は、金色の人影を見たとも言った。
それが誰の事を指し示すのかは、雲雀と綱吉に関してだけ言えば説明も必要ない。獄寺や山本は、まさかディーノではあるまいと笑って受け流したが、彼らがそう軽口を叩き合っていた時、正直綱吉は心臓が止まる思いだった。
あの黄金色の髪をした、緋色を纏った青年の行方は依然知れない。それどころかリボーンまでもがずっと姿を消したままで、色々と伺いを立てたいこともあったのに何も聞けぬまま、言えぬまま、夜を迎えてしまった。
本当は魂送の前夜は、身を清めた後は夕食も摂らず、神域の宮で過ごさなければならない。だが止める人がいない中、結局村を訪れた旅芸人一座への誘惑に勝てず、夕暮れ時に迎えに来たフゥ太に手を引かれて此処まで来てしまった。
けれど、来て良かったようにも思う。複雑に落ち込んだ気持ちは雲雀のお陰で大分回復したものの、それでも幾許か足りない。祭は魂を鼓舞させる役目も担っているから、村人の笑い、楽しむ空気に触れれば、少しは綱吉も意気消沈した心を盛り上げられるだろう。
雲雀が頷くのを見て彼は嬉しげに笑い返し、今度は自分からフゥ太の手を引いて、我先に駆け出した。
「あっ、ツナにぃ、待ってってばー」
さっきとは逆の言葉を発し、フゥ太が慌てて下駄の裏で乾いた地面を蹴って綱吉を追いかけていく。賑やかなふたりを雲雀の斜め後ろに並ぶ形で見送った獄寺は、童心に戻っている綱吉を微笑ましく思いながら相好を崩した。
だらしなく鼻の下を伸ばしている彼の脇を小突き、横を行く山本がいやらしく笑う。
「なーに見てんだよ」
「十代目は矢張り誰よりも愛らし……って、何言わせんだ!」
軽快な足取りで広場へ駆けて行った綱吉は、やがて知り合いの村の若者に迎え入れられ、人の輪に消えていった。小さな体躯は暗さも手伝って直ぐに紛れて見えなくなり、ほんわかした気持ちでつい気が緩んだ獄寺は、山本に合いの手を返しかけたところで我に返って怒鳴った。
握り拳を振り回し、どこまでも騒々しい彼に嘆息して雲雀は素早く周囲に視線を巡らせた。目下彼最大の不愉快の原因たるディーノを探してのことだが、どれだけ注意深く探っても、あの男の気配は欠片さえ見出せなかった。
まだ近くにいるのは間違いないのに、所在が掴めない。部屋の箪笥の引き出しが全部ひっくり返されていた恨みも追加して、絶対に見つけたら殴り飛ばしてやるのだと誓いを新たに、彼は拳をわなわなと震わせた。
理由は分からないものの不穏な空気を滲ませた雲雀に苦笑し、山本は触らぬ神に祟りなしと最後尾を行く了平に意識を向ける。袖のない法被にねじり鉢巻、白い股引姿の彼はそのままお囃子を聴いた途端に踊りだしそうな雰囲気だった。
「結構集まってるのな」
「ああ。皆、昼の一件で不完全燃焼なのだろう」
見れば確かに了平と同じ出で立ちの青年が何人か、篝火のひとつを囲む形で集まっている。いずれもが、昼に神輿を担ぎ、里神楽にも参加していた顔ぶれだ。
了平たちが歩み寄る様を見つけ、数人が揃って手を上げて彼らを手招く。
一方で雲雀は、周辺をひと通り観察し終えてから肩を落として首の裏に手を伸ばした。
ちりちりと産毛を焼く感覚は、いつもは昼間だけのものだ。ところが今日に限って、夕刻を過ぎて日が沈んだ今でも、時折嫌な感覚が肌を刺す。
不愉快だとか云々ではなく、兎も角気に障る。傷があるわけでもなくて、日中だけならば照りつける日差しの所為だと誤魔化しも利いたが、今はそうではない。この感覚が常時付きまとうとなるとかなり厄介で、苦痛だ。雲雀は悟られぬよう舌打ちし、下唇を噛んだ。
緋色の炎が空に向かって大きく唸り、火柱が鉄製の籠の中で幾つも弾けては消える。最初から一座の公演に批判的だった年寄り連中以外、村人の殆どがこの広場に集まっているのではと思える賑わいだった。中でも血気盛んな若者たちは、昼の鬱憤を晴らす勢いで随分と意気込んでいる。
普段から娯楽の少ない地方なだけに、期待の度合いは計り知れない様相を呈していた。
これで芸がつまらなければ暴動でも起きそうだ、と騒ぎを遠巻きに眺めて率直な感想を述べた山本が、了平を引き連れて楽しげに輪の中へ入っていく。一歩半遅れて獄寺がついていくかで迷い、既に歩を止めていた雲雀を振り返った。
目が合うとお互いに嫌そうな顔をしてしまうのは、最早習慣だった。
むっと表情を強張らせた彼に雲雀は冷めた視線で返し、行かないのか、と顎で人垣を指し示す。
「てめーこそ」
「僕はいいよ」
元々芸に興味はなく、単に綱吉の保護者代わりについてきただけだ。淡白な雲雀の物言いに、獄寺はあからさまな嫌悪を顔に浮かべて大きく舌打ちした。
雲雀は濃い目の鳶色の着流し姿、素足に草履で、灯りから離れた場所に立たれると黒髪なのも手伝ってすっかり闇に溶け込んでしまった。一度でも見失うと、余程近くまで行かなければ、彼が何処に居るのかさっぱり分からないくらいだ。
此処のところずっと、雲雀は綱吉を独占している。神事があるからそれも仕方がないと割り切ろうとしても、なかなか心は追いつかない。不満を隠しもしない獄寺の様子を他所に、雲雀は近くにあった杭に寄りかかり、腕を組んだ。
「行かないの」
「行くよ!」
恐らくは水路の整備で使ったものの、一本だけ片付け忘れたのだろう。腰よりかは若干低い位置にある、木槌で打たれて平らになった面に半分だけ腰を落とし、静かに問うた雲雀の声に獄寺は声を荒げ、腕を振り回した。
袖の中に何か入れているからだろう、重みの所為で長着と腕の動きとかちぐはぐになっている彼に雲雀が肩を竦める。銅鑼の音が足元を流れて行き、急かされた獄寺は乱暴な足取りで大股に歩き出した。
やっと静かになったと嘆息し、雲雀が腕を解く。
広場を取り囲む篝火が照らす範囲は、狭い。雲雀の足元には薄ら影が浮かぶ程度で、己の両手すら輪郭線がぼやけてしまいそうだった。
その代わり炎の柱の内側は昼にも似た明るさが確保され、集まった人々の興奮した表情を浮かび上がらせていた。
空に視線を向ければ、闇の中に無数の星が瞬いている。月が見えないと思ったのは、風に流された雲に顔を隠されていた所為だった。
耳を澄まして聞こえるのは人のざわめき、銅鑼の余韻。この騒ぎを嫌ったのか、虫の声は途切れ気味に微かだった。
伏した目を前に向け、綱吉を探す。目を凝らさなくても簡単に見つけ出せる存在は、先に来ていたらしい京子とハルに捕まってなにやら楽しげに話し込んでいた。
直ぐ傍には山本と了平、それに獄寺が壁を作り、押し合い圧し合いの空間から彼らを守っている。
他にも見慣れた顔が幾つもこの場にはあって、きりがないくらいだった。
よくあんな人が密集した場所で平然としていられる。本来の気性として大勢と群れるのを好まない雲雀は、矢張り此処で足を止めておいて正解だったと嘆息し、腰を預けている杭を揺らした。
昼間の陽気を残す生温い風が彼の襟足を撫で、湿気が絡みつくように全身を包み込んだ。濡れた手で撫でられた感触に近く、薄気味悪さに顔を顰めて雲雀は口角を歪めた。
三度鳴り響いた銅鑼は止み、耳の奥にあった反響も次第に薄まる。ざわめいていた人も口を閉ざし、いよいよ始まるであろう曲芸に期待して静かに時を待った。
これほどの人が一箇所に集っておきながら、この静けさは却って気持ちが悪いほど。しかしあそこに居る者たちはその異様さにも気付かない。
軽く曲げた膝に肘を立て、背中を丸めた雲雀は直後、わっと沸いた人々に目を丸くした。
男がひとり、舞台袖から飛び出して来たのだ。
「始まった!」
「待ってました!」
口々に囃し立てる人の声に、拍手喝采が続く。
来るのが遅くなり、広場の後ろの方で固まっていた村人たちが、見えないと騒ぎ立てて前の人の背中を押した。危ないか、と咄嗟に立ち上がろうとした雲雀だったが、矢のように鋭い山本と了平の制止する声に、騒動は見る間に終息していった。
子供たちを前に、大人は後ろに。素早い場所移動が展開される間に、舞台中央に上がった男はてきぱきと準備を整え、再び構えを取って村人の前に姿を現した。
「あの時の……」
距離があるものの、視力の良さは比類ない雲雀の目に映ったその人物は、笹川の屋敷で会った男に他ならなかった。
短い髪、顔に走る大きな傷。幼い子が見れば泣き出しそうな強面だが、意外に内面は穏やかで物腰も柔らかな男だったと記憶している。目つきの鋭さで損をしているのは雲雀も同じで、微妙な親近感を覚えると共に、一種の嫌な空気をも彼の男から感じ取った。
初対面の筈が、そうでないように思える既視感。挨拶の後に差し出された手を握り返した時に与えられた、牽制にも似た動きと、探るような視線。
その後のどたばたですっかり忘れていた事を今頃思い出し、雲雀は組んだ右腕を持ち上げて爪で顎を掻いた。
雲雀が物思いに耽る中、ランチアと名乗った男は舞台の上で足踏みし、用意されていた巨大な丸太に手を置いた。
長さも太さもフゥ太の背丈以上あり、とてもひとりでは持ち上げられそうに無い代物だ。ところが彼は、横に倒されていたそれを、腰を屈めて軽々と縦に起こしてしまった。
どよめきが沸き起こるが、その程度ならば山本だってやろうと思えば出来る。驚くほどの事ではないと笑った彼だったが、次の瞬間にはその笑みが凍りついた。
「おお、やるな」
隣の了平が感心した様子で頷き、あれはちょっと難しいな、と山本が顔を引き攣らせて呟く。
ランチアは苦もなく丸太を片腕で掴み持ち、己の頭よりも高く掲げて見せたのだ。
だが当然疑り深い者も居て、丸太の中が空洞ではないかという声が群集の中ほどから飛んだ。呼応するように、「そうだ、そうだ」と人々が一斉に囃し立てるのを受け、ランチアはこうなることは想定内だったのか、表情を変えず、しっかりとした足取りで舞台前端まで進み出た。
背丈のある男に上から睨み下ろされ、口々に罵声を飛ばしていた男達が急激に勢いを萎ませる。舞台の直ぐ前にも人はいたが、無音の威圧を浴びた彼らは慌てて立ち上がり、方々に逃げていった。
ランチアがその出来上がった空間に、掴んでいた丸太を突き立てる。
どぉぉぉぉっ! という轟音が鳴り響き、地面が揺れた気がして綱吉は竦みあがった。
「ひゃっ」
フゥ太も驚きに飛び上がり、ハルと京子が近くに居た了平の腕に左右からしがみつく。山本は咄嗟に綱吉を庇っていて、出遅れた獄寺ひとりが空っぽの手で悔しげに宙を殴っていた。
砂埃が巻き上がり、水を打ったような静寂が広場全体を覆う。薪の爆ぜる音が立て続けに響き、そこに呻くような悲鳴が重なった。
逃げ遅れた人がひとり、丸太の直ぐ脇で腰を抜かしていた。
「ひ、ひぃぃぃ……」
落下の勢いと丸太自身の重みで、平らだった地面が僅かながら窪んでいる。もし直撃していたら骨が砕けるどころか、命さえ奪われかねない。無論ランチアにその意思は無かったが、彼の腕力が似非でないことはこれで十二分に村人にも伝わった。
息を呑む気配の後、腰を抜かした青年には失礼な話だが、一斉に村人から歓声が沸き起こった。数秒前まで疑ってかかっていた男達も興奮に顔を赤く染め、両手を叩いてやんややんやの喝采を送る。
「すっげ……」
「あれは俺にも難しいな」
冷や汗と共に喉の奥から絞り出された山本の感想に、了平が自慢の鍛え上げた上腕筋を叩いて呟く。喋り声は周囲の大声に掻き消されてなかなか聞き取りづらいが、言っている内容は大まかに伝わって、綱吉はまだ自分を抱えている山本の胸をそっと押し返した。
「あ、悪い」
すっかり忘れていた山本が短く謝罪し、綱吉を解放する。直前、触れた彼の肌が微かに熱を持ち、震えているのに気付いて眉根を寄せた。
怯えられていると、直感的に山本はそう悟った。
「ツナ」
「うわー、すごーい!」
そういえば昨日から彼の様子は変だった。雲雀もぴりぴりして、触れれば刺さりそうな棘を全身から放っていたのを思い出す。
自分の知らないうちに、知らないところで何かあったのか。疑念が膨らんで、山本は離れ行く綱吉の肩に再度手を伸ばした。
邪魔をしたのは、伸び上がったフゥ太だった。
甲高い声を発した彼は爪先立ちになり、綱吉を押し退けて半歩前に出た。間に割り込まれて山本はぶつかりそうになった腕を慌てて引っ込め、フゥ太に道を譲る。篝火に照らされて紅潮した頬を更に赤く染めた彼は、目をきらきらと輝かせてその場で何度も飛び上がった。
村人が一点に見詰める先にいる男が次に持ち上げたのは、米俵だった。
但し、中に入っているものが果たして本当に米かは分からない。今度は疑われないようにする為か、ランチアは舞台近くにいる村人何人かに向かって手招き、応じた二名ばかりを舞台に引っ張り上げた。
「う、重い」
「こんなの持ち上がらないよー」
二十台半ばの青年と、フゥ太と同い年の子供のふたり。それぞれが横に並べられた米俵を持ち上げようと奮闘するものの、どれだけ踏ん張って力を込めても、寸分たりとも動きはしなかった。
諦めて戻り行く青年に、仲間が情けないぞ、とからかいの声を立てる。だったらお前がやってみせろ、と売り言葉に買い言葉で乗せられた男がまたひとり壇上に上がったが、結果は惨敗に終わり、日頃力自慢を謳っていた彼は顔を真っ赤にしながらすごすご引き下がっていった。
山本が冗談半分に了平の背中を押し、京子が不安げに瞳を泳がせる。無理はするなと無言で告げる妹の頭を撫でた彼は、流石にこれ以上邪魔は出来ないと逸る気持ちを押し堪えてその場に留まり続けた。
他に挑戦者が出ないのを確かめ、ランチアがまたしても易々と、日頃から農作業で鍛えられている村人の誰も出来なかったことを成し遂げてみせた。どっと歓声が沸き起こり、離れた場所に佇む雲雀の目には、人々の興奮が篝火の炎に煽られて渦を巻きながら闇空へ登っていく様が映し出された。
「怪力自慢か」
芸能者としては珍しくない分類だ。特に面白くも無い、とランチアの動きひとつにどよめきが起こる広場に肩を竦め、雲雀は冷めた目を眇めて乾いた唇を舐めた。
ちりり、と焼きつく首裏の痛みは消えない。他に意識を集中すれば一時忘れることは出来るが、この状態ではそれも難しそうだった。
ランチアの曲芸に驚き、目を丸くしては楽しげに笑って仲間と感想を告げあい、また笑う綱吉の姿に目を留める。あんな風に感情をあるがまま表に出せたなら、雲雀もまた楽に生きられたかもしれない。
「ちっ……」
低い声で唸った雲雀など露知らず、舞台上で重い米俵ふたつを使ってお手玉を開始したランチアに、若い娘は落としやしないかと冷や冷やしながら甲高い悲鳴を上げた。
興奮が場に渦巻き、言い表しようの無い一体感が生まれ始める。最後に空高くぽーん、と米俵を投げた彼は頭の上でふたつ重ねて難なく受け止め、その状態で舞台袖に消えていった。
女性達の黄色い声が、男達の野太い声を押し退けて彼の再登場を懇願する。筋骨隆々として逞しい外見をしている彼は、毎日同じ顔ばかり見なければならない閉鎖的な村に暮らす女性陣にとって、非常に魅惑的な存在に映ったようだ。
「ランチアなんぞに良いとこ持ってかれてたまるかってんだ!」
誰も居なくなった舞台上に、不意に声が舞い落ちる。何処から聞こえたのか誰も分からず、賑わっていた場がまた唐突に静まった。
「あ、あそこ!」
広場で一際高く設けられた櫓の上に人影を見つけ、綱吉が天を指差す。誰よりも勘が鋭い彼の指摘は正しく、つられて上を見た人々の目に映し出されたのは、獣の如く両手両足を使って細い櫓の頂にしゃがみこむ男の姿だった。
いつの間に、と誰もが舞台に注視していた中で気にも留めなかった場所に座る男が、篝火が巻き起こす熱風の中で金色に近い髪を揺らした。
狼の遠吠えが響き渡る。
その場に居た男の半数以上がその野生の獣の姿を想像し、まさか、と反射的に身構えた。急に鋭くなった周囲の気配に女子供が怯える中、再び、とても近い場所で遠吠えが闇夜に溶けた。
「これは、違う」
冷静な声で雲雀が半眼のまま呟き、獄寺もまた眉間の皺を深くして首を横へ振った。
「鳴き真似だ。良く聞いてみろ」
騙されている山本の肩を殴るように叩き、獄寺は綱吉がそうしたように立てた人差し指を櫓に向けた。
確かに言われてみれば、似ているが微妙に違う気がする。声はひとつだけであり、応じる吠え声はどれだけ待っても聞こえては来なかった。
憤然とした様子で腕を引いた獄寺の言葉に綱吉は頷くが、京子とハル、フゥ太は信じられないのか了平や綱吉にしがみついたままだ。大勢居る村人にも獄寺の忠言は聞こえず、大袈裟なまでに狼の襲来を懸念して警戒を露にする。
傍目から見れば滑稽だ。騙されている大勢を鼻で笑い、雲雀は頬杖を崩して杭から腰を浮かせた。
風が流れ、隠れていた月が姿を現す。薄ぼんやりとした光に照らされた櫓の上で、男は不意に立ち上がった。
「あっ」
落ちる、と誰しもが思った。実際、輪郭だけを浮かび上がらせていた男はふらりと不安定に揺れた後、身体を支えていた右足で櫓の端を蹴って空中に身を投げた。
悲鳴があちこちから上がり、最悪の光景を想像して場が騒然となる。