晩景

 夕焼け空が西の地平線を覆い尽くし、鮮やかな朱色の雲が無数の筋を刻んで、さながら魚の鱗のようだった。
 長く伸びた影は色濃く、アスファルトの大地に並んで伸びている。カラスの鳴く声がどこかからか聞こえて、不意に幼い日に口ずさんだ童謡が浮かび、綱吉の表情が自然と緩んだ。
「十代目?」
「うん?」
 その顔を見て、不審がった獄寺が彼を呼ぶ。何の気なしに視線を上げた彼は、そこで若干戸惑った風の獄寺を見つけて首を傾げた。
「なにかな」
「あ、いえ」
 呼ばれた理由が分からなくて聞いた綱吉に、彼は気まずげに視線を泳がせた。
 歩いていたら急に横で笑い始めたから、何か面白いものでも見つけたのかと思った。獄寺がやや言葉足らずにそう説明すると、綱吉は一瞬考え込む素振りを見せて、唇に左の中指を押し当てた。
 笑っていたのかと、今更に数秒前の自分を思い返して驚く。そんなつもりはなかったのだが、獄寺にはそう見えたらしい。
「俺、笑ってた?」
「はい」
 改めて聞き返せば、獄寺はしっかりと頷いて綱吉を見詰める。斜め下を向いた彼の視線に綱吉は照れた風に頬を掻き、自覚していなかった己を笑って肩を竦めた。
 腕を下ろし、もう聞こえないカラスの声を探して夕焼けを見上げる。
「カラスがさ、鳴いてたから」
「烏?」
「うん。だから早く家に帰らないとなー、って」
「はあ……」
 腰に回した手を背中で結び、リズムを取って綱吉は右足を大きく前に蹴り上げる。着地と同時に左足を今度は前に。歩幅を大きくした彼にほんの少し置いていかれて、獄寺もまた足を動かすペースを速めた。
 ずれた影がまた並び、獄寺は怪訝に表情を顰めたまま交互に動く自分の足先を見詰めた。
「カラス」
「ん?」
「が、何故早く家に帰らないといけないんですか?」
「ほえ?」
 真剣な顔をして、視線を上げた獄寺が問う。言われた内容がすぐさま理解出来ず、綱吉は反射的に足を止めて靴の裏でアスファルトを削った。一歩半先に出てしまった獄寺が、遅れて足を止めて西日の中の綱吉に首を捻る。
 本気で分かっていない様子に、綱吉は目を丸くして驚きを正直に表に出した。
「えーっと……あれ、知らない?」
「何が、でしょうか」
 てっきり日本人ならば誰しも知っている童謡だと思っていたのに、違ったか。指を解いて前に戻し、手の皺を重ね合わせた彼に獄寺が不機嫌に唇を歪めて言った。
 そんな顔をされるのは不本意だと言いたげに、睨まれる。明らかに拗ねている獄寺に、綱吉は頭の中で童謡の旋律を呼び出して、そこに覚えている歌詞を重ねた。
 綱吉の中ではごく自然に、この歌が流れるイコール、夕焼け空が西の空一面に、というイメージが出来上がっているのだが、獄寺は違うらしい。その理由を考えて、ふと、彼が日本生まれでもなければ日本育ちでもない事実を思い出した。
「あ、そっか」
 それならば致し方ないと、ストンと得心が行った綱吉は急に甲高い声を上げ、両手を叩き合わせた。
「十代目?」
 ひとりで百面相をしたかと思えば、いきなり自分だけで納得してしまっている。獄寺の不機嫌具合に拍車がかかって、ぶすっとした声で呼ばれた綱吉は小さく舌を出した。
 獄寺があまりにも日本語に慣れていて、違和感が無いものだから、うっかり忘れてしまいそうになる。彼はイタリア生まれのイタリア育ちで、ついこの間この国に来たばかりなのだ。
「獄寺君は、聞いた事ない?」
「ですから、さっきから話がさっぱり分からないんですが」
「そういう歌があるんだ」
 話の原点に戻り、綱吉が喉を鳴らして笑う。
 最初の獄寺の疑問は、綱吉が呟いたカラスが鳴いたら家に帰る、という話だ。綱吉はそこに、彼が当然のように七つの子の歌詞を知っているという大前提を持ち込んだ。
 この段階で既に間違いが発生していたわけで、歌を知らぬ獄寺と、知っていると思っている綱吉との間で齟齬が生じるのも当然だった。
「はあ……」
 分かったような、分からなかったような、微妙な顔をして獄寺が相槌を打つ。構わずに綱吉は左右の指を絡め、斜め上に視線を浮かせて音程が若干ずれた調子で記憶の歌詞をなぞり始めた。
 昔、幼稚園かその辺りだった頃に、奈々に手を引かれて一緒に歌って帰った気がする。もしかしたらそれは、テレビか何かのイメージに自分たちを当て嵌めただけかもしれない曖昧な記憶でしかないけれど、思い出す度に優しい懐かしさが胸に広がって幸せな気分になれた。
 けれど三番まで唄って、どうだ、と綱吉が仰ぎ見た獄寺は、矢張り先と変わらぬ表情をして綱吉を見ていた。歌詞と夕焼けと、どう繋がるのか未だにしっくり来ないらしい。
 考えてみれば確かに、歌詞には直接家に帰るよう促す文言はなく、夕焼けに関わる語句も無い。ならば矢張り、夕焼け時に多く聞かされて来たからという事や、買い物などの岐路に着く最中によく奈々が歌っていた、或いはこの曲がテレビで流れるときに夕焼けの映像が張り付いていたという、そういった後付のイメージに起因するところが大きいのかもしれない。
 考えるうちに分からなくなってきて、綱吉は唇を噛んだ。
「……兎に角! このメロディーが聞こえたら、ああ、なんか帰らなきゃいけないんだな、って思うんだよ。俺は」
 半ばやけっぱちに怒鳴り、最後の「俺」の部分を強調して綱吉は獄寺の背中を押した。
 ドンっ、と衝かれた獄寺がよろめき、前に出した足で踏ん張って転倒を回避させる。叩かれた箇所が痛んだのは一瞬で、それよりも綱吉が憤然と急に怒り出したことに彼は面食らった。
 深く気にすべきところではなかったのか。獄寺は緋色に染まった地平線を見やり、ひっそりと嘆息した。
 カラスの鳴き声が、其処に混ざる。
 獄寺は後ろで、まだ人の背中に両手を押し当てたまま俯いている人を窺って頬を緩めた。なんだかよく分からないものの、綱吉がそう強固に主張するのだか、そういうものなのだろう。
 夕焼け、カラス。
 早く帰ろう。
 教えられた途端、そんな風にあの黒い羽の鳥が言っているようにも聞こえてくるから不思議だった。
 知っているようで、意外に知らないものだ。獄寺は実母と会う機会も殆どなく育った上に、ビアンキの母親である義母には抱き締められた記憶さえない。綱吉のように母と子ふたり仲良く、手を繋いで夕日の中を歩いた経験は、皆無だ。
 もし彼女が普通に獄寺を産み、育てていたとしたら、彼女は、唄ってくれただろうか。
「獄寺君?」
「帰りましょう、十代目」
 寂しげに微笑んで、脳裏に蘇った女性に首を振る。もういない人に期待して胸を痛めるのは、あまりにも哀しい。
「へ? あ、うん」
 立ち止まったままでいた自分たちを思い出し、さっきよりも長くなった影を振り向いて綱吉が頷く。藍色の雲が東の空に広がろうとしており、闇は着実に世界を飲み込もうとしていた。
 日暮れまでもう間が無い。薄らいでいく光を追いかけて、羽根を広げたカラスが高い空を駆け抜けて行った。
 早く帰れ、家に帰れ。家族が待つ場所に帰れ。
 耳の奥でこだまする、獄寺をいとおしむ声。一瞬だけ目を閉じた彼は、胸に去来した優しい笑顔に口元を綻ばせた。
「帰ろう、獄寺君」
 綺麗な、綺麗な、夕焼け空で。
 綱吉が笑って、獄寺に右手を差し出した。
「十代目?」
「なんなら、唄いながら帰る?」
 きょとんとした獄寺の前で手首を揺らし、茶目っ気たっぷりに肩を竦めた彼が聞く。
「それは……ちょっと」
 流石にこの年齢で、童謡を合唱しながら帰るのは恥かしい。苦笑と共に遠慮を表明した獄寺に、言った本人も「だよねー」と同調して、声を立てて笑った。
 けれど、手は。
 差し出された暖かな手は、捕まえた。
「帰りましょう」
「うん」
 握って、互いの体温を確かめて、力を込める。獄寺が促せば、綱吉は短く返事をして静かに頷いた。
 帰ろう。
 家に、帰ろう。
 きっと明日から、夕焼けを見るたびにこの日の事を思い出すのだろう。
 カラス、歌声。
 綱吉の笑顔。
 繋ぎ合わせた記憶の欠片、暖かな気持ちに微笑んで、獄寺は静かに目を閉じた。

2008/05/01 脱稿