それは陽炎にも似て

 チリっという焼けるような一瞬の痛みに、ハヤトは顔を顰めて下唇を噛んだ。
「あちゃー」
 確かめるべく左手一本で荷物を抱え、右手を広げて顔の前に翳す。ランプの薄明かりの中で浮かび上がった己の指先には、想像通りの小さな傷が出来上がっていた。
 中指の先端、指紋を斜めに横切る形でぱっくりと皮膚が裂けている。弱い光の中でもはっきりと分かる赤が隙間からじわりと滲み出て、徐々に範囲を広げているのも見えた。
 じくじくとした痛みもまた、呼応してハヤトの脳に届けられる。苦虫を噛み潰した顔を作った彼は、やってしまった、と後悔で心を埋めて左手の中にあるものに視線を落とした。
 木製の玩具。屋根裏部屋の整理も兼ねて不要物とそうでないものとに選り分けていたのだが、これに棘があったらしい。
 形状からして積み木のようで、足元の木箱に目を向けると同じようなものが他に何個か、転がっていた。
「これ、危ないな」
 放置されてからどれくらいの年月が過ぎているのか。注意深く観察すると、今しがたハヤトの指を傷つけた棘以外にも幾つか、乾いた表面に鋭いささくれが見付かった。今度は刺されないよう注意深く人差し指でそれを押し潰し、この状態のままでは子供たちに渡せないな、と肩を竦める。
 中指の痛みはまだ引かないが、確かめるとどうやら血はもう止まったようだ。それ程深くなかったことに安堵して、傷口に棘が残っていないかどうかを調べる。
 自分の掌を睨みつけて動きを止めた彼は、ほぼ真後ろにある梯子を登ってくる気配にもまるで気付かなかった。
「んー……ない、か。大丈夫そうだな」
「ハヤト?」
「うわっ、吃驚した!」
 夕方、陽も暮れかかった時間帯なので、西に傾いた陽射しは殆ど屋根裏部屋に入ってこない。近くに置いたランプの心許ない光しか頼るものが無い場所で、不意に後ろから声をかけて来た存在に、ハヤトは大仰に驚き、その場で飛び上がった。
 梯子に両手両足を預け、肩から上だけを床から覗かせていたキールは、あまりにもあんまりな彼の反応に些か傷ついた顔をして、残る段を一息で登った。平らな床に腰を下ろし、途中で引っかかったマントの裾を取り返して汚れを払ってから立ち上がる。横に並ぶと、拳ふたつ分ほどの身長差が出来上がった。
「何をしていたんだい」
「あ、いや。片付け?」
 気を取り直して聞いてきた彼に、ハヤトは意味もなく若干の気まずさを覚えて苦笑した。
 自分でやっていたことに疑問符をつける彼が理解出来ず、キールは首を傾げて眉を寄せた。困った風に頭を掻いて益々笑って誤魔化そうとしているハヤトをじっと見詰め、やがて彼は、その手に握られたままの木材に気付いて倒した首を戻した。
 最初は塗装されていたようだが、大部分が剥げ落ちて見る影も無い。建材にしては小さすぎて役に立ちそうにもなく、何に使うものなのかさっぱり見当がつかない彼は、眉間の皺を深くしてハヤトに目で問いかけた。
「積み木、だと思うんだけど。毛羽立って、棘が出来ててさ」
「棘?」
「うん」
 ほら、と笑いながらハヤトは先ほど作ったばかりの指の傷を彼に示した。見事にぱっくりと割れた先は血の流れた跡が残り、見るからに痛々しい。
 実際、微かな痛みは今も継続していて、周辺に触れると殊更強く痛む。ファーストエイドでもあれば良かったが、生憎手持ちは無い。
 包帯を巻くには大袈裟過ぎるが、下手に触れないように布切れかなにかで包んでおいた方が良いだろう。ばい菌が入っていたら困るので、消毒が先か。
 手順を思い浮かべ、握ったままだった積み木を箱に戻してハヤトが肩を竦める。黙って聞いていたキールは、裏返されたハヤトの手から彼の顔に視線の位置を移し替えた。
 ずっと疑問に思っていた内容を、口に出す。
「召喚術を使えば、直ぐに治るじゃないか」
 やや不機嫌気味の、棘のある声だった。
 ハヤトが顔を上げ、目を丸くする。言われた内容を理解するのに数秒を要した彼は、無事な左手を顎に押し当てて難しい表情を作った。
 そう言われてみれば、確かにその通りだ。地球に居た頃の価値観で物事を考える癖は簡単には抜けなくて、この世界には召喚術という便利なものがあるという事も、油断すると直ぐに忘れてしまう。
 ハヤトは正式な召喚術師ではないのだが、どういうわけだかキールと同じことが出来た。リィンバウムを囲む四つの異界に居る者たちを呼び寄せ、使役させる力を、彼も持っている。
「けどなあ」
 一通りキールの主張を理解したハヤトだが、やっぱりやめておく、と既にサモナイト石に手を伸ばしかけていた彼に首を振った。
「ハヤト?」
 何故か咎めるような声でキールに名を呼ばれても、ハヤトは持論を曲げない。へらり、と締まりのない顔をして、
「これくらいならさ、直ぐ治るよ」
 実際、もう血は止まっている。傷口では身体を形成する無数の細胞が蠢き、再生を開始している。痛みもまた、話をしている間に随分と薄れた。
 手首から先の力を抜いて揺らし、大袈裟にしたがるキールを逆に諭してハヤトは屈託なく笑った。
 人間様の治癒力の高さを舐めるな、と声を立てて肩を揺らしたハヤトの表情に、キールは呆然として、それから深く溜息をついた。
「けれど」
「それに、さ。この程度で呼び出してたら、あいつらも可哀想だろ」
「ハヤト、彼らは」
「いつも厳しい戦いで力を貸してくれてるんだ。何もない時は、ゆっくり休ませてやりたいじゃないか」
 キールが咎めようと語気を強めた声を放つ前に、何を言われるかおおよそ見当を付けたハヤトが、遮る格好で早口に告げた。
 キールは召喚師だから、召喚獣は使って当たり前という観念が先に立つ。しかしハヤトは、そうではない。
 ハヤトにとって彼らは、使役する為の存在ではなく、一緒に戦ってくれるかけがえのない仲間だ。だから、必要ない時に無理に呼び出そうとは、思わない。絶対に。
 驚きを表明し、目を丸くした彼に笑いかけ、ハヤトは傷口の裏側に当たる中指の爪に唇を寄せた。
「それに、さ。これくらいの傷、舐めれば治るって」
 もう平気だからともうひとつ笑って、ハヤトは緩く指を丸めて拳を作った。まだ納得いかない顔をしているキールの胸元を軽く叩き、此処での用事は済んだから戻ろう、とランプを取りに窓辺へ向かう。
 背中を向けられたキールが、そのハヤトに手を伸ばした。
「え?」
 右手を取られ、驚いたハヤトが丸い目を振り向かせる前に、彼は無理矢理奪い取ったハヤトの手首から先を引き寄せ、赤みを帯びた指先に唇を押し当てた。
 舐める、という表現が的確かどうかは分からない。けれどそれはハヤトを瞠目させ、更に赤面させるには充分だった。
「き、キール!」
「こんなことで治るとは思えないんだけど」
「ものの喩えで言ったの!」
 まさか本当にやるとは思わなかった。
 彼から右手を奪い返し、胸に抱きこんだハヤトが早口で怒鳴る。未だそこには他人の唇が触れた感触が残っていて、心臓が嫌に早鐘を打って喧しい。
「ハヤト?」
 急に顔を赤くした彼にきょとんとして、キールが首を捻る。分かっていない彼を前にして狼狽するハヤトは、ひとり滑稽だった。
 言い返してやろうにも、言葉が出てこない。ぐるぐる駆け回る思考は一秒として同じ場所に佇まず、上目遣いに恨めしげに睨み付けるのがやっと。臍を噛んだハヤトは、もういい、とか細い炎を揺らすランプに向き直った。
 右手を伸ばしかけ、寸前で左に入れ替えて上部の金具を掴む。
「……治らない?」
 憤然としている彼の態度を見て緩慢に頷き、キールが分かったような、分からなかったような声を出して呟いた。
 ハヤトが育った環境では決まり文句だった台詞も、リィンバウムでは通用しない。だから、真に受けたキールが悪いわけではなくて。
 ぐちゃぐちゃ考えているうちに、そもそも何故こうなったのかも分からなくなったハヤトは、恥ずかしさから顔を紅に染め、吸い込んだ息を肺いっぱいに留めた後、一気に吐き出した。
 振り返る。目の前にはキールの綺麗な顔。
「治るかもしれないけどな!」
 思い切り怒鳴りつけて、ハヤトは面食らう彼をその場に残し、ランプの火を吹き消して梯子を飛び降りた。ドスン、と着地の痛い音が響いて我に返ったキールが階下を覗き見た時にはもう、その姿は近くには無い。
「……治るのか、治らないのか、どっちなんだ?」
 姿勢を戻し、腕組みをしたキールが真剣に悩んで、呟く。けれど結局答えは出なくて。
「今度、試してみるか」
 生真面目な彼の性格を考慮しなかったハヤトが悪いのか。
 冗談を冗談と受け止められなかったキールが悪いのか。
 翌日、バノッサの襲撃後にハヤトが別の意味で盛大な悲鳴をあげたのは、言うまでもない。

2008/05/01 脱稿