盂蘭盆会

 蝉時雨が頭上高く空を駆け抜けていく。
 竹林の中を風が走り、襟足を濡らす汗を奪い取って何処かへと消えて行った。
「う……」
 煽られた前髪が落ち着くのを待ち、咄嗟に顔を庇った腕を下ろして鬱蒼と茂る緑を見上げた沢田綱吉は、無意識に握りしめてしまった手書きの地図を思い出して苦々しい顔を作った。
 掌に浮いていた汗が染み込み、べたりとした感触に慌てて力を緩める。が、時既に遅く、鉛筆書きの線の一部は滲んで幅を広げ、黒く汚れてしまった。
 指先にも薄ら色が移り、顔を顰めた彼はそれをハーフパンツの裾に擦りつけた。ついでに布の端を抓み、はしたないとは思いつつも周囲に誰も居ないからと前後に揺らし、太股までまくって涼しい空気を内側に送り込んだ。
 続けて、着込んでいる袖なしのパーカーの裾も捲り、熱を帯びた肌を冷やしていく。日陰ではあるが暑い盛りの時間帯の為、じっと立っているだけでも全身から汗が滲んだ。
「どうしよう」
 ひと通り体温を調整し終え、再度前方を仰いだ彼は、己の視界の大半埋める白塗りの土壁に肩を落とした。
 左を見て、右を向いても、延々と壁は道路に沿って続いている。途切れることなく視界の果てまで伸びており、壁の向こう側は一面の竹林だ。
 困り果てた声で呟いた彼は、皺が増えた紙に視線を落とし、左手で現在地と思しき箇所を指し示した。そこから北西に相当する場所には星印が赤で記されており、彼の目的地がそこだというのは容易に想像がついた。
 地図の尺図は解らないが、それ程遠い距離ではない。だが現実には、高く長い壁がこの二箇所を遮っていた。
 壁の向こうは即ち、私有地。ゴールと見定めた場所も、当然ながらその領域に入っている。
 途方に暮れた綱吉は、ずり下がったリュックサックを背負い直し、深々と溜息を零した。
 折角、苦心の末に場所を特定できたというのに、辿り着けなければ意味が無い。並盛町の大抵の山は国有で、遊歩道なども整備されているので立ち入りは容易と高を括っていたのに、何てことだろう。
「もっと調べておけばよかった」
 泣きたい気持ちを抑えつつ愚痴を零して、地図を折り畳む。山裾から道を下って此処まで来たのだが、いつ終わるとも知れない壁にそろそろ絶望しそうだった。
 随分と広い屋敷だ、いったいこの壁の向こうを占有しているのは、どこの豪族なのだろう。きっと着物姿で髭面の、いかにもという感じがする強面のお爺さんに違いない。打ちひしがれたまま頭の中で想像を巡らせ、乾いた笑いを浮かべた綱吉は、このまま壁に沿って進んでどこに行き当たるか、それだけを確かめようと再び歩き出した。
 土地の持ち主と話をして、立ち入りの許可をもらえないだろうか。夏休みの宿題の一環だと説明すれば、どんなに頑固な人でも理解は示してくれるはずだ。
「……だと良いなぁ」
 平底のサンダルで熱せられたアスファルトを削って、緩やかな斜面をゆっくり下っていく。
 蝉の声は近くなったり、遠くなったり。車や人の姿は殆どなく、日頃住み慣れた並盛の町並みともまるで違っていて、さながら別世界に迷い込んだ錯覚さえ抱きそうになる。綱吉は少しだけ色が濃くなった土壁に目を向け、竹林がいつの間にか途切れていることに気がついた。
 濃紺の煉瓦が上部に載せられ、僅かながら壁自体にも厚みが増している。歩調を緩めた彼は、来た道を振り返って竹が遠くから手を振っている様に目を細め、その向こう側にお椀を伏したような形状の山の姿を見出した。
 今まで近すぎて見えなかったものが視界に入り、素直な驚きを表明する。こんもりとした緑に覆われて、標高はさほど無かろうが、町中で暮らしている綱吉からすれば完全な別天地だった。
 知らぬ間に結構な距離を歩いたことになる。目的地にもその分遠ざかったわけで、忘れていた疲れがドッと押し寄せた彼は額の汗を拭い、落胆を表情に浮かべた。
「諦めるしかないのかなあ」
 折角此処まで来たのだから、現物を確かめて帰りたかった。その為にわざわざ持って来たものだってあるのに、と当地に行かなければ意味が無い品物をリュックごと揺らして、二度その場で飛び跳ねる。
 そろそろ壁の切れ目が見えても良い頃なのに、いったいどこまで続いているのだろう。憎らしい山の所有者の、せめて名前だけでも確かめなければ気がすまない。
 気分を切り替え、綱吉は体の向きを戻した。そして遠目微かに、他よりも頭を飛び出している一画があるのを見つけ、爪先立ちで背を伸ばす。
 恐らくは、門。
「あそこかあ」
 やっと終着点が見えて、安堵の息もそこそこに、彼は小走りに駆け出した。
 足元の陽射しが徐々に範囲を広げ、南にある太陽の光を遮るものが完全に無くなった頃、息せき切らして肩を上下させた綱吉の前に、漸くドンと構えた巨大な門構えが現れた。
 綱吉の胴回りよりも太い柱に支えられ、観音開きの扉は車一台くらい余裕で通り抜けられる大きさがある。但し今は閉じられていて、中の様子は窺えない。
 一瞬寺か何かかと思ったが、違う。人ひとりが通るのに適した扉が右脇にちょこん、と設けられ、そこは半分だけ内側に開いていた。
 門の前は一メートル四方はあろう石で舗装されて、時代を感じさせる趣を演出していた。思わず三歩下がって見上げてみるが、全景を視界に納めるのは難しかった。
「でっかー」
 並盛町にこんな屋敷があった事を、十四年間過ごして来て初めて知った。
 口をぽかんと開けて感嘆の言葉を呟き、いったいどんな人が住んでいるのか気になってまた門に近付く。表札はちゃんと掲げられていて、古めかしい大きな板に立派な字で記されていた。
「くも、……すずめ?」
 だが、読めない。
 どこかで見た覚えのある字面なのだが、読み方が頭の中に咄嗟に浮かんでこなかった。
「うーん」
 喉元まで来ているのに、そこから先が出てこない。魚の小骨が引っかかっているような気分で、綱吉は腕を組んで顎の下から親指で押し上げ、眉間に皺を寄せて深く考え込んだ。
 なんだっただろう。確かに自分は、この苗字を知っているのに。
 遠くからドドドド、という低い地鳴りが段々近付いているのも知らず、重厚な造りの門を前に仁王立ちして、背筋を後ろへ逸らす。眩しい陽射しを後ろから浴びて、首がチリチリと焦げる感覚に彼は無意識に舌打ちした。
 神経に障るエンジン音もそこに加わり、不快指数は一気に上昇する。人が真剣に考え込んでいるというのに、無粋な邪魔をして。怒鳴りたい気持ちをぐっと堪えて音の発生源を探ろうと左を向いた彼は、その一メートルほど先で静かに停止したバイクに身を仰け反らせて目を剥いた。
 速度に乗ったまま突っ込んでこられたら、確実に撥ねられていただろう。意識した途端にヒヤッとした空気が背中を伝って、汗をこめかみに滑らせた綱吉は一瞬息をするのを忘れた。
「…………」
 瞳孔が開くくらいに動揺を露にした彼を前に据えて、バイクに乗っていた人物がブレーキを握りしめたままハンドルから身を乗り出した。背中を丸め、唖然とする綱吉に怪訝な顔をして細い目をより細く尖らせる。
 両足を地面に突き立てて横転しないように支えるが、持ち堪えるのが辛くなったのかやがて彼はバイクから降り、エンジンを切ってスタンドを立てた。中型の、国内メーカーの高級品バイクを、ヘルメットも被らずに乗りこなしていた人物は、あろう事か綱吉が通う中学校の制服に身を包み、臙脂色の腕章を袖に揺らしていた。
「なにしてるの」
「ひ、ヒバリさん?」
「邪魔だよ、退いて」
 そこに立ったままで居られると、中に入れない。
 バイクを押して運ぼうという気配が感じ取れて、綱吉は丸い目を数回瞬かせ、驚きを隠しもせずに雲雀を見詰めた。
「え、あの。なんでヒバリさん、此処に?」
 質問の内容に雲雀は首を傾げ、微妙に噛み合わない会話に目を眇めた。たったひとつの大前提に齟齬が生じていて、綱吉はきょとんとしたまま門の柱に打ち付けられた表札と、バイクの脇に立つ雲雀を交互に見詰めた。
「君こそ、こんな所で何してるの」
 この暑さの所為で思考回路も鈍ったらしい。まだ複数与えられた情報がひとつにまとめられずにいる彼は、打ち返された雲雀の質問に正直に答え、今度は貴方の番だと回答を迫った。
 そこに表札が出ているというのに、なにを言っているのかと雲雀がムスッと顔を顰める。ひょっとして読めていないのではないかという想像は、出来るならば信じたくなかった。
 だが、状況からしてその可能性は大いにあり得る。
「そこ、僕の家だけど」
 閉じている立派な門を指差し、無感情に言い放つ。
 瞬間、綱吉は頭の上に巨大なクエスチョンマークを浮かべ、カクン、と首を右に倒した。
 立て続けに左にも倒し、持ち上げたかと思うと今度はぎこちなく後ろへ半回転させて瓦屋根の下にある表札を仰ぎ見る。
「くも、すずめ」
 ひと文字ずつ区切った訓読みを音読され、やっぱり、と落胆の息を吐いた雲雀が頭を抱えた。
「ひばり、って読んで欲しいんだけど」
 ひばり。
 雲雀。
 雲雀恭弥。
 ヒバリさん。
 呆れ果てた声で雲雀が言い、やっと綱吉の脳内で錯綜していた情報が合致を見る。
 とどのつまり。
 この広大無辺の敷地の持ち主は。
「……え、ええええええええーーーーーーーー!?」
 綱吉は顎が外れんばかりに驚き、天に届きそうな声で悲鳴をあげた。

 社会科の夏休みの宿題は、家系図を作れ、というものだった。
 両親や祖父母と言った肉親から話を聞き、資料があるならそれを調べて、自分の先祖が何処から来たのか、どういう人だったのかをまとめてくる。何代前まで遡るかは自由だが、せめて曾祖父くらいまでは追いかけて来るようにと、休み前最後の授業で先生は無責任な発破をかけてくれた。
 けれど綱吉には祖父母自体おらず、父親さえもが行方知れず。奈々の縁者は遠い場所に住んでいる上に血の繋がり自体も希薄で、親戚づきあいらしいも全く無いと言って良い。
 こういう宿題が一番困るのだが、自分だけが別の課題を出して貰えるわけもなくて、対処に苦慮していたところ、助け舟を出してくれたのは意外なことに、リボーンだった。
 そういえば彼は沢田家の家系図を持っていたな、と遠い昔の記憶を呼び覚まして見せてくれるよう頼んでみたが、それは自分でやれとつれない。代わりに、いったいどこから調達してきたのか、家光の父親、つまり今はもう亡き綱吉の祖父、そして曽祖父などの資料を提供してくれた。
 沢田家代々の墓は、並盛の外れにある共同墓地にある。小さい頃は彼岸の日に、奈々に手を引かれてお参りに行った記憶があるが、最近ではさっぱりだった。
 しかし調べていくにつれ、沢田家の祖に当たる人物――イタリアから渡ってきた初代ボンゴレこと、沢田家康たる人物は、そちらの墓に眠っていないらしい事が分かった。
 とはいえ、あの共同墓地自体が戦後に整備されたものなので、時代的にも釣り合わないから、当たり前と言われればそれまでなのだが。
 では、いったい彼は何処に葬られたのか。家系図製作よりもそっちが気になってしまって、脱線していると承知の上であれこれと資料をひっくり返し、古めかしい文語体の達筆な字に苦しめられながら、リボーンの助けも得て検討を重ねた結果、綱吉はひとつの答えに行き着いた。
 初代が生きたのは、鎖国が解かれてそう間もなく、外国人がまだ珍しい時代だった。
 髪や肌の色による好奇の目や偏見は今よりずっと厳しく、世間の注目を浴びずに落ち着いて生活するには、どうしても人里から一歩離れた場所で生活する必要があったらしい。
 彼が隠棲したのが、並盛町の外れにある山裾。当時の様子は想像するしかないが、長閑な田園風景が広がる一画だったのは確かだ。
 静かに余生を過ごし、この地で没した。墓もまた、住み慣れた場所の近くに建てられた。
 その土地がどういう経緯で、雲雀家の領地になったのかは綱吉の知りえるところではない。雲雀も、興味が無かったので今まで一度も調べたことは無いと言った。
「多分祖父辺りが、戦後のどさくさに紛れて登記したんじゃないのかな」
「それって……」
 さらりと毒のある事を言ってのけ、先を行く雲雀は進路を塞ぐ木の枝を根元から叩き折った。
 飛んできた鋭い枝を慌てて避け、トンファーを上下に振った彼を見上げる。しかし返事は無く、ずんずん先へ進む雲雀の背中に焦り、綱吉は急いで柔らかく湿った地面を踏みしめた。
 サンダルで来るのではなかったと思ってももう遅く、露出している指先は土に汚れ、落ちている枝や葉で擦り切れて右の親指には血が滲んでいた。
 じくじくとした痛みに顔を顰めても、雲雀は待ってくれない。息せき切らしてリュックの肩紐を握り締め、彼は渋々、獣道を掻き分けて進んだ。
 敷地への立ち入りの許可は、すんなり下りた。綱吉が危惧していた昭和の頑固親父なんてものは登場せず、代わりに現れたのは、近代的なバイクに跨って堂々と無免許運転を繰り返す並盛中学風紀委員長だった。
 場所は分かるのかと聞かれ、手作りの図面を差し出す。当時の地図を写し取ったものであまり参考にならないと思いきや、山全体が雲雀家の私有地という事で余計な開発がされずにまるまる残っており、今も当時と大差ない地形が維持されていると雲雀は言った。
 その言葉が正しいとすれば、今も初代の墓が残っている可能性は高い。
「行くのは良いけど、遭難しても知らないよ」
 にわかに期待が膨らんだ綱吉の喜びに水を差すことを言って、彼は屋敷に臨む山を見上げた。
 定期的に人が入り、間伐などして手入れはしているが、それ以外はほぼ手付かず。熊が出るという話は聞かないが、遊歩道なんてものは整備されていないので、道無き道を分け入って進むしかない。
 大体、袖なしのパーカーにショートパンツ、サンダルという、海ならばまだしも、山歩きに適しているとは到底言えない格好をして、本気であそこを登るつもりなのか。畳み掛けるように言われた綱吉は返す言葉もなく、しょんぼりと耳を垂れて唇を噛み締めた。
 その姿があまりにも可哀想に見えたのだろう。長い逡巡の末に溜息をついた雲雀は、場所に覚えがあるから連れて行ってやると肩を竦めながら言った。
 まさに青天の霹靂。涙目の顔を持ち上げた綱吉は、絶対に文句は言わないという条件を二つ返事に勢い良く頷き、こうして二人による夏の昼下がりの登山が始まった。
 山に入って十分もしないうちに、綱吉は後悔に苛まれたわけだが。
 注意深く進まなければ、直ぐに足を取られる。木の根があちこちから不規則に顔を出し、尖った枝が腕や足を刺してあっという間に全身擦り傷だらけに。しかし自分から行くと言い出した手前、引き返そうとは口が裂けても言えない。ペースを緩めない雲雀に置いていかれないように進むのが、今出来る彼の精一杯だった。
 熱の篭もった息を吐き、また飛んできた枝を避けて来た道を振り返る。木々に邪魔されて遠くまでは望むべくもないが、遥か下方に小さく雲雀の邸宅が見えて、もう結構な距離を進んだと肩を上下させた。
「なにしてるの」
 置いて行くよ、と立ち止まった彼に気付いた雲雀が淡白な声で言い、右に握ったトンファーを上下に振った。
「あ、すみません」
 直ぐに意識を戻し、雲雀に向き直って綱吉が頷く。だがその頃にはもう、彼はさっさと歩みを再開させていて、靴の裏で削った土の塊が綱吉の足許へ転がり落ちてきた。
 雲雀もまた、バイクに乗っていた時と変わらない服装をしていた。
 長ズボンは踝まで覆い隠し、後ろから見上げる分には、綱吉ほどダメージを受けていないように思われた。だが半袖から覗く彼の腕は、先頭を行くが故に擦り傷だらけで、赤い血の滲んだ肌が零れ落ちた光に浮かんでは消えた。
 薮を払い、枝を打つにはコツが要る。本当は綱吉がやらなければならない事なのに、彼の好意に甘えてしまった事実に綱吉は胸をざわめかせ、急に押しかけた自分を恥じ入った。
 雲雀の言葉通り、準備を整えて出直すべきだったのだ。
「……」
 申し訳なさがいっぱいで、言葉数は自然と減って行く。雲雀も元々口数は多くないし、道を拓くのに注意が向いているから押し黙り気味だ。
 淡々と、作業のように山道を進んでいく。さほど遠くないと読んでいた綱吉の当ては外れ、三十分が経過しても目的地には到達できなかった。
「綱吉」
 雲雀の表情にも疲れが浮かび、珠の汗を拭った彼は息を整えながら足を止めた。
 五メートルばかり後ろにいた綱吉が、慌てて残る距離を駆け上って彼に追いつく。横に並び、膝に手を置いて今にも崩れ落ちそうな肢体を支えた彼は、ミミズ腫れと擦り傷にまみれた雲雀の腕を真っ先に見て、哀しげに顔を伏した。
「かすり傷だよ」
「けど……」
「君の方が痛そうだ」
 ごめんなさい。掠れた声で謝られ、雲雀は俯いた綱吉の頭を二度、軽く撫でた。
 もう一度地図を見せてくれるように雲雀が頼み、ズボンのポケットを弄った綱吉が皺くちゃのそれを広げて手渡す。土の匂いが混ざった風が流れて来て、肌に張り付く汗を浚っていった。
 雲雀は木漏れ日の中で手書きの地図を眺め、記憶を呼び起こしながら周囲三百六十度をぐるり見回した。
「ヒバリさんは、この山、詳しいんですか?」
 彼の暮らす敷地なのだから、詳しいもなにもないとは思うのだが、久方ぶりに会話が出来そうな雰囲気に気が緩んで綱吉がそんな事を聞いた。
 再度手元を見た雲雀が、片方の眉を反応させて視線だけを横向かせる。一瞬睨まれたように感じたが、彼は元々釣り目なのでそう見えただけで、話しかけられて不機嫌になったわけではないと知り、綱吉はほっと胸を撫で下ろした。
 頭の中に配置を再度刻み込んだ雲雀が、それを丁寧に折り畳んで綱吉に差し出す。
「詳しくはないけれど、小さい頃はよく駆け回ったよ」
 大自然の中で育った、とでも言うのか。緑に触れ合う機会などそうそう無かった自分の幼少期と比べ、少し羨ましいと呟いた綱吉に、そう楽しいものでもなかったと彼はつれない。
「崖からは滑り落ちたし、木に登って飛び降りて脚の骨を折ったし、迷って日が暮れても戻れなくて、心配した家族が通報して山に捜索隊が入った事もあるよ」
「…………」
 そのどれもが五歳前後の頃の出来事だと言われて、聞かなければ良かったと綱吉は相槌も打たずに他所を向いた。
 家にいる子供たちを此処に連れて来たら、幼い日の雲雀と同じ事をしでかしてくれそうだ。想像しただけでげっそりしてしまって、急に元気が無くなった綱吉の後頭部を叩き、雲雀は休憩の終了を宣告した。
「分かったんですか?」
「大体ね。多分、土砂崩れでも起きて埋もれてなければ、今もあると思うよ」
 なんだか不安な事を舌に転がした彼をジト目で見詰め、綱吉は歩き出した彼の背中について脚を前に運んだ。
 何処を向いても同じような景色が続いているのに、雲雀には違いが分かるらしい。白壁を乗り越えて不法侵入なんて真似をしなくて良かったと、ひとりできていたら確実に迷っていた綱吉は前を行く人物を頼もしげに見詰め、疲れから重みが増して感じられるリュックを揺らした。
 どこかから水のせせらぎが聞こえて、鳥の囀りが近くなる。薮が減って人の手が加えられた形跡が感じられる区画に入り、歩き易さが増した。自然とペースも早くなり、音もなくトンファーを仕舞った雲雀が不意に足を止めた。
「うっ」
 気付くのが遅れた綱吉が顔面から彼にぶつかって行って、予想していなかった雲雀が前につんのめった。
 彼だけだったらばきっと持ち堪えられただろうが、綱吉はもう踏ん張りが利かないところまで脚が疲弊していて、挙句咄嗟に彼にしがみついたのも悪かった。後ろからバランスを崩された雲雀は左膝から地面に崩れ、ふたり一緒になって柔らかな日差しが降り注ぐ空間に転がった。
 視界が一変し、上下が逆になってこげ茶色の地面が目の前に迫る。
「わ、あ、あ!」
 みっともなく悲鳴をあげ、綱吉は五十センチばかりの斜面を一気に滑り落ちた。恐怖に身が竦んでしまい、自分を庇うどころではなかった彼の頭を落下寸前で雲雀が胸に抱き込んだが、衝撃は完全に吸収出来るものではなく、小柄な体は弾んで空中に浮き上がり、半回転して右を下にして停止した。
 緑の下草を巻き込んで惰性で流され、完全に停止してもまだ世界は歪んだまま。目を回した綱吉よりも手前に落ちた雲雀が先に復活を遂げ、着地の際に打ち付けた左肩を気にしつつ、腰を浮かせた。
 途中ふらついたが倒れはせず、首を振って視界をクリアにし、放り出してしまった綱吉を探して周囲を窺った。
 存外に近い場所に倒れていた彼にホッとした様子で息を吐き、両手両足を投げ出して天を仰いでいる姿に苦笑する。リュックが背中にあるので自然と胸が前に突き出ており、それでは呼吸が苦しかろうと雲雀は手を差し出し、彼を引っ張り起こした。
「うぅ……いってぇ」
 強かに打ちつけた頭を真っ先に抱きかかえ、地面に蹲った綱吉が呻く。薄茶色の髪に絡まっていた草を払い、自分の肩にも塊で付着していた泥を削ぎ落とした雲雀は、視界を遮るものが失われた空間に目を細め、自分たちが今し方落ちてきた斜面を振り返った。
 生えていた草を抉った所為で道が出来ていて、思わず苦笑してしまった。
「大丈夫?」
「は、はひぃ……」
 五体満足、何処にも骨や内臓に異常が無いのを確かめた雲雀からの問いかけに、綱吉は呂律が回りきらぬまま頷いて返した。まだ瞳の奥がチカチカして、視野が確保できない。だから周囲の光景もなにも解らないものの、雲雀が落ち着いているところからして、安全な場所だと判断する。
 邪魔になるリュックを下ろし、薄らぼんやりして輪郭が滲んでいる景色に瞬きを繰り返し、彼は地面に座り直した。いつの間にかサンダルが片方脱げていて、素足に小石が張り付いていた。
 見つけて拾ってきてくれた雲雀に礼を言い、腕や足に残る泥を払って足元を固め、立ち上がる。視界が急に広くなって、此処に至って初めて、綱吉は自分たちがいる場所を認識した。
 生い茂る樹木は遠慮がちに腕を伸ばし、小規模の広場を取り囲んでいた。
 上を向けば空が見えて、四方のうち一方だけが絵画のように切り抜かれた遠景で飾られている。広場は山を人工的に切り開いた名残が残り、平らに均されて他よりも一段下がっていた。
 広さ的には、綱吉の部屋とそう変わらない。六畳程度の、小ぢんまりとした空間だった。
「ここは?」
「着いたよ」
 日向と日陰の境界線に佇み、意識をはっきり取り戻した綱吉が傍らの雲雀に問う。だが返事は無く、代わりに短いひと言が添えられた。
 着いた、とはどういう意味か。即座に理解できなくて首を捻った彼は、今一度空が大半を占める光景に目を凝らし、斜め後ろを見ていた雲雀に倣って背後を確かめた。
 彼らから一歩半離れた場所、空間のほぼ中央に位置する場所に、彼らの方を向いて積み上げられた古ぼけた石があった。
 苔生し、角が一部風化して崩れてしまっているが、その形状には覚えがある。
 殆ど同じ大きさの、少しだけ色艶が違う石碑がふたつ。表面に刻まれている文字は風化の影響もあってこの距離からでは殆ど読めないが、どうやら綱吉が見ているのが正面らしい。
 そして、この石が見詰める先にあるのは。
「あ……」
 光を宿した風を感じ、綱吉は振り返った。
 彼の瞳が映し出したのは、穏やかな晴れ空に見守られた並盛の町だった。
 雲雀が半歩前に出て、年代を感じさせる石碑の前で膝を折る。汚れるのも構わずに右側の表面を軽く撫でた彼に慌て、綱吉もまた足元に転がしたリュックサックを拾い上げた。
 雲雀が先ほど言った台詞の意味を漸く知り、急いで鞄の中に手を入れて家から持ってきたものを地面に広げる。
 出てきたのはライター、線香、ペットボトルの水と雑巾、あと何故か林檎がふたつ。
 怪訝な顔をした雲雀に、店を広げた綱吉はえへへ、と笑いながら頭を掻いた。
「一応、その、お盆だから」
 掃除をして、線香をあげるほかに、お供え物もあった方が格好がつくかと思ったらしい。なるほどと納得した様子で雲雀は頷き、温くなっているペットボトルを取って栓を捻って外した。
 そしてやおら、ひとくち飲んだ。
「ちょっ、ヒバリさん!」
「君も。熱中症で倒れるよ」
 それは飲むために持ってきたのではない、と声を裏返した綱吉に、平然と口元を拭った雲雀がボトルを差し向けた。
 言われて見れば確かに、家を出てから彼は全くの飲まず食わず。それなのに汗は大量に流しているので、体内の水分が枯渇寸前なのは否めない。
 だが納得しかねて、中身が五分の一程度減ったペットボトルを胸に抱いて唇を尖らせる。いつまでも飲もうとしない彼に痺れを切らした雲雀は、長めの前髪を梳き上げて額を晒し、音もなく顔を近づけた。
「飲まないのなら、口移しででも飲ませるよ」
 瞳には幾許かの怒りが宿り、冗談ではなく本気でやるという気配を漂わせた彼の言葉に、綱吉はヒッと息を詰まらせた。
 彼の呼気が鼻先から唇に触れて、あと五センチ距離が狭まれば本当に重なり合う近さが余計に綱吉を圧迫する。有無を言わせない彼の態度に仕方なく首を縦に振り、綱吉はちびちびと美味しくない水を喉に流し込んだ。
 だが体は、彼が思う以上に乾いていた。一旦咥内を潤すと今度は止まらなくなって、雲雀が飲んだ以上に量を減らしてしまう。気がつけば三分の一以下になっていて、中身を振って確かめた彼は自分の愚かさ加減に泣きそうになった。
「水は、この近くに小さな沢があるから、そこで汲んで来ればいい。全部飲んでも平気だよ」
 横顔を盗み見た雲雀が笑いながら言って、慰めるように彼の頭を撫でた。僅かに汗を含んで湿った肌は、時々綱吉の髪の毛を引っ掛けたが、その痛みさえも不快ではなかった。
 小さく頷き返してまたボトルの飲み口に伸ばした舌を近づけ、溝に残っていた雫を舐めてからふと脇を見上げる。
 ここで自分が全部飲んでしまったら、雲雀の分が残らない。彼だって汗をたっぷり掻いているし、喉も渇いているだろうに。
「俺はもう良いです。ヒバリさんこそ」
 言うほど沢山残っているわけではないが、一時凌ぎにはなろう。どうぞ、と差し出した綱吉にしかし彼は首を振り、君が飲むようにと言って譲らない。
 さっきは自分が飲むように強要したくせに、その逆は認めないという我侭さには辟易させられる。痩せ我慢も良いところで、強情を張るのはみっともないですよ、と小声で呟けば、聞こえたらしい雲雀が僅かに眉根を寄せたのが分かった。
 そこまで言われては、拒否し続けるのも彼のプライドが許さないのだろう。雲雀は横薙ぎにボトルを掻っ攫っていき、空っぽになった指を握った綱吉は喉を鳴らして笑った。
 蹲った状態で立っている雲雀を見詰める。気持ちよいくらいにボトルの水は一気に減って行き、案の定渇きを我慢していた彼はやっと人心地着いたという顔をして息を吐いた。
 空っぽになったボトルを胸元に下ろし、唇を拭う。濡れているのはなにもそこばかりではなく、容器の細いのみ口もまた、雫を滴らせて陽光を反射していた。
 その光を視界の端に認めた綱吉が、とある事実に気付いて笑みを凍りつかせた。
「あ」
「ん?」
 無意識に漏れた声に、雲雀が瞳だけを向けて首を傾げる。
「なに」
 いきなりどうしたのかと表情を強張らせた彼を不審がるが、答えられない綱吉は赤い顔を誤魔化してなんでもない、と早口にまくし立てた。
 言葉とは裏腹に、明らかに動揺している様子に雲雀は怪訝に眉を寄せた。しかし理由は教えてもらえそうになくて、仕方なく彼は気にしないように心がけ、ボトルの底に残っていた最後の一滴まで飲み干そうと首を上に向けた。
 大きく口を開けて舌を伸ばし、その真上に逆さまにしたボトルを掲げる。時間をかけてゆっくり落ちてきた雫を舐め取った彼の姿に、綱吉は恥かしさで憤死しそうになった。
「ヒバリさん!」
「……だから、どうしたの。さっきから」
 拳を振り回して大声を出した彼に、雲雀は眉間の皺を深くしてペットボトルに蓋をした。
 綱吉が唇を噛んで答えないでいると、彼は困った風に肩を竦めて首を振った。手にしたそれで一発だけ綱吉の頭を叩き、太陽が照っている方角へ歩いて行く。何処へ行くのかと後頭部に手を置いた綱吉が振り返ると、彼は空っぽのボトルを肩の高さで回した。
「沢に水を汲んで来る。綺麗にしてあげるんだろう?」
 振り向きもせずに言い、慣れた足取りで背の低い段差を跨いで茂みの中へ消えていく。
 昼間でも尚薄暗い樹林に姿は直ぐに見えなくなり、ひとり取り残された綱吉は唖然として捻ったままだった腰を慌てて戻した。
 起き上がり、土を払って折り曲がって捲れていたハーフパンツの裾を延ばす。その最中で切り傷の痛みが少し戻って来て、顔を顰めた彼は腕に出来ているそれに息を吹きかけ、熱を冷ました。
 このまま雲雀が戻ってこなかったらどうしよう。
 一瞬頭を過ぎった不安に、そんな筈があるわけないと急ぎ否定する。けれど一人ぼっちでこんな物寂しい場所にいると、物事を前向きに考えるというのを忘れてしまいそうだった。
 眩い太陽を仰ぎ見て、両頬を思い切り掌で叩く。小気味良い音が開けた空間に響き渡り、何処かの枝からは小鳥が飛び立っていった。
 深呼吸を二度、数秒間目を閉じて。最後にまだ微かな湿り気を残す唇をなぞり、指の背を浅く噛んだ。
 今更間接キスを恥かしがるような関係でもなかろうに、自分たちは。なにを変に意識しているのかと苦笑し、彼は腕を下ろして雲雀が歩いていった方角に目を向けた。
 沢とは、途中で聞こえた水音の事だろう。この山の地形に疎い自分が追いかけて、入れ違いになるなどしてはぐれては事だ。大人しく雲雀が戻って来るのを信じて待って、その間の暇な時間は、自分が出来ることをやって過ごそう。
 方向性を見定め、気合を入れ直した綱吉は、握った拳を解いて下ろすと肩の力を抜いて右に三歩、立ち位置をずらした。
 斜めからふたつ並んだ墓石を観察し、再度近付いて右側にそっと手を伸ばす。撫でてみると、石の感触よりも表面を覆う緑色の苔の感触が先に肌に伝わった。
 少しだけ力を加えて横に何度か動かし、それらを追い払う。完全には無理だが、最初よりは露出が増えた石に目尻を下げ、彼はゆっくり膝を折ってしゃがみ込んだ。
 刻まれている文字に目を凝らし、身を乗り出す。
「なんて書いてあるのかな……」
 綱吉が調べた家系図が正しく、この墓の主が彼の想像通りだとすれば、これが建立されたのは今から百年以上前、江戸末期から明治初期のどこか、と考えて良い。隣に並ぶもうひとつの墓も、作りや朽ち方からして同年代のものと見て間違いなかろう。
 けれどいったい、どちらがそうなのか。
 左側にも目を向け、表面をそっと撫でてみる。日向にありながらひんやりと冷たく、火照った肌から熱が失せて気持ち良かった。
 思わずほっと息を吐き、その姿勢のまま数秒間停止する。目まで閉じて瞑想状態に入った綱吉を現実に呼び戻したのは、雲も無いのに唐突に振ってきた水の塊だった。
「うひゃあ!」
 落ちてきた液体が頭にぶつかった瞬間、痛みを引き起こして粉々に砕け散った。汗ばんだ肌やシャツ、ズボンにまで冷たい水が染み込んで、びしょ濡れになった毛先が跳ねて雫を弾き飛ばした。
 咄嗟に顔を下向けて目を閉じ、両手の指は地面に向けて無意識に「うらめしや」のポーズを取っていた。
 亀のように引っ込めた首を恐々伸ばし、睫に残る水分を避けて左の瞼を持ち上げる。逆光の中に、残滴を垂らすペットボトルを逆さまに持った黒髪の青年が立っていた。
 綱吉のみならず彼の前にある墓石をも水浸しにして、満足げに口元を歪めて笑う。悪戯が成功したのを嬉しがっている様子に、綱吉はぽかんとした後、ハッと我に返って右の拳を突上げた。
「何するんですか!」
「けど、涼しいだろう?」
 いきなりすぎて驚いた。
 肌を舐める水分に体温が吸収され、その水が太陽の熱で蒸発する。確かにちょっとばかり涼しくなった気がするものの、認めてしまうのも悔しくて、綱吉は声を荒げて雲雀の行動を非難した。
 だが彼は肩を震わせるだけで受け流し、もう一度水を汲んで来ると踵を返した。
「もう……」
 重くなった頭を犬みたいに振って、鼻筋を伝った汗なのか川の水かも解らない水滴を拭う。額に張り付いた分を後ろに梳いた彼は、どんな時もマイペースを崩さない雲雀に膨らませた頬を潰し、鞄の傍で転がっていた雑巾を拾った。
 乾いてしまう前に、墓碑の汚れを落としてしまおう。
 この暑い中、雲雀に沢まで何往復もさせるのは申し訳ない。彼の悪戯を許したわけではないが、連れて来てくれたことへの感謝はその恨みを軽く上回る。
「くっ、結構これ……しぶとい」
 だが苔とて、そう簡単に排除されてはくれない。腹に力を入れてごしごしと磨くが、抵抗は凄まじく、綱吉は渋面を作って握り締めた雑巾に爪を立てた。
 悪戦苦闘している間に雲雀が戻って来て、綱吉の手元に被るよう上から水を注いでくれた。今度は細い筋で少しずつ、狙いを定めて量を調整する気配りも見せてくれたが、どんなに頑張っても角柱の一面だけを綺麗にするのが精一杯だった。
 全くもって、雑巾では歯が立たない。
「これ、次来る時は、タワシ、持ってこないと」
 奈々が鍋底の焦げを磨くのに使っている道具を思い浮かべ、綱吉が腕に力を込めるタイミングで小刻みに言葉を区切り、言った。
 新たな汗を流し、目を細めて笑う。しゃがんでいる彼を見下ろす雲雀が、その言葉に一瞬だけ変な顔をして、即座に消した。
「ヒバリさん?」
「……なら、バケツと柄杓もいるね」
「そうですね」
「着替えも」
「あはは、そうですねー。夏の間だと、汗だくになっちゃう」
 綱吉は此処が雲雀家の領地だという事実を忘れ、彼が言った意味を正しく理解せぬまま声を立てて無邪気に笑った。そしてまた直ぐに墓石磨きに熱中して、分かっていない綱吉に呆れた雲雀は、もう一度水をペットボトルに満たすべく沢へ向かって歩いていった。
 戻って来た彼は、川で水浴びでもしてきたのか、綱吉以上に濡れ鼠だった。
 そっちの方が良かったと、既に乾き始めている自分の服を指で抓んだ綱吉を無視し、彼はもう片方の墓石にも水を降り掛けた。雑巾の汚れた面を入れ替え、畳み直した綱吉がすかさずごしごしと表面を拭う。力の入れ方のコツが段々分かってきたので、最初ほど労する事無く墓碑は、本来の輝きとは程遠いものの、いくらかは綺麗な姿を取り戻した。
 もっとも、一面だけなので見た感じは非常に不恰好だ。
「これくらい、かな?」
「いいんじゃないの」
 付着していたゴミを払い除け、一歩離れたところから眺めた綱吉の後ろに回り込み、雲雀も同意を示す。この辺りが今出来る限界と見切りをつけなければ、綱吉は延々、日が暮れても墓石を磨いていなければならない。
 筋肉疲労が溜まった腕を慰めていると、後ろから雲雀が手を伸ばして肩を揉んでくれた。強い力で容赦なかったが、痛いほうが気持ちよくて、力の抜けた彼は腰をぺたん、と地面に落として雲雀に寄りかかった。
 心臓が近付き、彼の落ち着いた拍動が聞こえた。
「お疲れ」
 言葉でも労われるとは思っていなくて、聞き間違いかと思った綱吉はきょとんとした後、琥珀を潤ませて破顔した。
 座り心地の良い椅子を手に入れて一気に上機嫌なって、濡れている分だけ冷たい彼に甘えて体重を預ける。後ろから抱きすくめられ、頬を撫でられて猫みたいに喉を鳴らしていたら、下りてきた影に視界を奪われた。
「ん」
 唇の先が触れる程度の戯れに、目を開けた綱吉が恥かしげに微笑む。自分からも手を伸ばして上にいる彼の首に絡め、背伸びをして姿勢を少し左に傾けた。
 頬をすり合わせ、くちづける。鼻の頭、こめかみ、瞼にも、触れられる箇所すべてにキスをして、吐息が絡む距離で見詰め合ったふたりだったが、太股に伸びた雲雀の手がズボンの裾を弄っているのに気付き、慌てて膝を閉じた。
 前屈みに背中を丸め、場所を弁えろと調子に乗っている男に怒鳴りつける。
「誰もいないよ?」
「ご先祖様が見てます!」
 綱吉が指差した先には、百年以上前からこの地に鎮座し、並盛を見守り続けていたふたつの墓石。
 耳まで真っ赤になっている彼の叫びに、雲雀は跳ね除けられた手を腰に押し当て、嗚呼、と緩慢に頷いた。
「けど、どうして君のご先祖様の墓が、此処にあるの」
「そんなの、知りません」
「本当に君のご先祖様のお墓?」
 聞かれ、綱吉は声を詰まらせた。
 沢田の家に伝わっていた伝承などを総合した結果、導き出された場所には本当に古い墓石があった。けれど刻まれた名前が読めないので、本物かどうかの確証は未だ得られていない。
 恨めしげな目をした彼に肩を竦め、雲雀は綱吉をその場に残して墓石前に移動した。
 綱吉の持ち込んだ荷物から線香を取り、立てる道具が無いので仕方なく手で穴を掘って地面に直接突き刺す。
「僕はずっと、これは、うちのご先祖様のお墓だと思ってたけどね」
「そうなんですか?」
「知らないよ、調べてないし。でも、うちの山にあるんだから、そう思うのは当然だろう?」
 ライターを綱吉から受け取り、青白い炎を不安定に揺れる線香に移し変える。直ぐに先端は赤と灰色に染まり、白い煙が細く立ち上った。
 綱吉もまた、二個ある林檎をひとつずつ墓前に備えた。雲雀の横に陣取って両手を合わせ、考えるのはひとまず後にして瞑目して祈りを捧げた。
 雲雀の言うことも、もっともな気がする。では綱吉が調べた資料が間違っていたのか、なにせ古いものだし、読むのにも相当苦労させられたから、どこかで解釈に齟齬が生じた可能性も否定できない。
「ああ、けど」
 段々と自信をなくして小さくなっていく綱吉を他所に、彼が一所懸命磨いてくれた墓石を撫で、薄ら現れた凹凸に指を辿らせた雲雀が感慨深げに呟いた。
 頂点部分から少し下がった位置を繰り返しなぞり、微細な変化を読み取って目を眇める。言葉を途中で途切れさせ、集中し始めた彼に、綱吉も邪魔せぬよう息を潜めた。
 不意に、
「君の、あれに似てるね」
「はい?」
 ぽつりと言った彼に、理解が出来ず綱吉が身を乗り出しつつ首を傾げた。
「なににですか?」
「ほら、君が」
 雲雀の横顔を覗き込んだ綱吉の目を見て、雲雀は墓石から外した指を自分の額に押し当てた。
 此処、と何度か叩いて示し、
「君がよく、裸で走り回ってる時に出てる」
「……人を変質者みたいに言わないでください」
「違うの?」
「ちがいます! それに、一応パンツは、履いてます」
 だから裸ではないとぼそぼそ否定し、赤くなって綱吉は後ろに引っ込んだ。
 雲雀が言っているのは、死ぬ気弾に撃たれて復活した際に額に浮かぶ、死ぬ気の炎の事だろう。
 本当に墓石にそんな紋様が刻まれているのか、ぱっと見ただけでは解らないが、雲雀が嘘や冗談を言っている風にも見えないので綱吉は信じることにして、横に移動した雲雀を追い、彼も左側の墓石前に場所を替えた。
 さっきと同じ場所を撫で、残っていた苔を爪で削いだ雲雀がまた黙り込む。だが彼の表情は曇ったままで、どれだけ時間を経ても答えと思しきものは出てくる様子がなかった。
「ヒバリさん?」
 待ちきれず、痺れを切らした綱吉が膝に置いていた手を外し、背中を伸ばして名を呼んだ。
 それにあわせ、彼が腕を引いて肩を回す。骨が鳴る音が綱吉にまで聞こえて、過ぎ行きる風に浚われていった。
「なんだろう。家紋じゃない、けど」
「けど?」
「綿菓子みたいな、……違うな。雲、入道雲かな。そんな感じがする」
 はっきりしないが、そこに何かが刻み込まれているのだけは確かだと言い、雲雀は結論を急がなかった。
 次に来た時に確かめれば良い。汚れを落として、今よりもずっと綺麗にして。資料も探してみよう、屋敷の倉を漁れば何か出てくるに違いない。
「倉なんてあるんですか?」
 爪の間に潜り込んだ緑を弄っている雲雀に綱吉が興味津々に問い、頷き返した彼は短くなった線香の煙に息を吐いた。
「あるよ。うちは、江戸時代から続いてるし」
「へえ……」
 初めて知ったと感嘆の声をあげ、綱吉は丸い目を見開いて何故か尊敬の眼差しで雲雀を見詰めた。
 子供っぽい彼の表情に笑い返し、雲雀はふと視線を持ち上げて澄み渡った空を見た。ぽっかりと浮かぶ綿雲が気持ちよさげに浮かんで、東へと流れて行く。
「そういえば君のご先祖様は、外国人なんだってね」
「みたいですね。俺も、リボーンに言われるまで知りませんでした」
 その外国人のご先祖様が眠っているのが、このお墓かもしれないのだ。そう思うと妙に感慨深くあって、不思議な気持ちがした。
 血の流れを同じくする、顔も見た事が無ければ話したことも当然ない、綱吉からすれば遠い過去に生きた人物が目の前で眠っているという事実。それは妙に現実味が薄くて、他人事のように感じられた。
「ちょっと、やっぱり、良く解らないや」
 物心つく前から祖父母というものが居なかった、だから歳を重ねた人と会話する機会も殆ど無かった。
 綱吉にとって現実とは、自分が直接見て、聞いた経験に裏打ちされたものだけ。ご先祖様だよ、といきなり言われても戸惑ってしまう。
 肩を竦めて舌を出した彼に、雲雀は黒い瞳を細めて少しの間考え込んだ。顎にやった手で鼻の頭を擦り、炎が刻まれた墓碑に拝謝する。
「けど、ひとつ確かなのは、その人が居なければ、君は此処に居なかった」
 風に謳うように紡がれたことばに、綱吉が瞬きをして傍らの人物を振り仰いだ。
 木々が揺れて、楽を奏でる。静謐を包み込む優しい音色に、綱吉は瞠目した。
「僕は、その人に感謝しなきゃね」
「ヒバリさん」
「僕が君に出会えたのも、その人のお陰だろうから」
 真顔で言い切られて、返す言葉を持たない綱吉はぐっと胸に息を詰まらせた。心臓が急停止したかと思えば、一気にアクセルを踏み込んでスピードメーターの限界を軽く振り切った。
 黒髪がそよ風に撫でられて揺らめき、濡れた一本ずつが光を反射して眩い。無意識に胸元を掻いてシャツを握り締めた綱吉は、赤くなる顔と高まる心拍数を持て余し、あ、とも、う、ともつかない奇声を発して雲雀に笑われた。
 人差し指の背で頬を撫でられ、口から心臓が飛び出るかと思った。
「だ、あ、えと、あの、お、俺、俺もっ」
 頭の中がぐちゃぐちゃになって、爆発寸前を行ったり来たり。耳から湯気を吹いて目を回した彼は、両手を広げて雲雀の手首を左右からがっしりと捕縛し、身を乗り出して素早く深呼吸を繰り返した。
 面食らう雲雀の顔を覗き込み、彼に負けないくらいの真剣な眼差しを作り出す。
「俺も、ひ、ひ、ひひ、ひばっ、ひばりさっ、に会えて、う、うれしいから!」
 呂律が回りきらない声で叫び、掴んだ手をぎゅっと握り締めた。
 勢いに呆気に取られた雲雀は、数秒の間沈黙した。それから、じわじわ迫り上がってくるものに負けてプッと噴出す。
「なんで笑うんですかー!」
 物凄く恥かしかったのを我慢して、頑張って言ったのに。
 耳の裏まで真っ赤になった綱吉が、肩を小刻みに震わせて背中を丸めた雲雀に頬を膨らませた。薄ら涙目で睨みつけ、握った拳で空を叩いてじたばたと暴れる。その姿が余計雲雀の笑いのツボを刺激しているとも知らず、彼は笑うな、と必死に訴えた。
 ついには頭の火山を爆発させ、もう知らない、とそっぽを向く。
「ごめん。ごめん、綱吉」
 あまり怒らせると後が大変だと知っている雲雀が、適度なところで笑いを噛み殺してご機嫌取りに転じた。しかし綱吉とて意地があり、言葉くらいでは簡単に許してなどやるものかと相手にしない。
 顔を背けて聞く耳を持たずにいると、急に声が止まった。
 風も凪ぎ、静寂が綱吉を包み込む。
 後ろから背中を抱き締められて、落ち着いていた心臓がまた大きく飛び跳ねた。
「ごめんね、綱吉。大好きだよ」
 腰が砕けた。
 耳元に低い声で囁かれ、背筋が粟立つ。全身に電流が走り抜けて、全神経が一瞬にして麻痺してしまった。
 足に力が入らず、立っていられなくなった身体を雲雀の腕が辛うじて支える。平均体重よりは軽いといえ四十キロ以上ある体を楽々抱えた雲雀が、思考回路をショートさせてきゅぅぅ、と鳴いた綱吉を盗み見て、少しお灸が過ぎたかと些か後悔した。
 綱吉はキスをするよりも、「好き」と言われる方がよっぽど恥かしくて、照れるという事実を忘れていた。
 気がつけば陽は随分と西へ傾き、地平線に近付いている。夏の夕暮れは遅いが、一旦朱が空を埋めると、暗くなるまでの時間は早い。今のうちに山を下りておかないと、闇に呑まれてしまいかねない。
 目を回している綱吉の頬を叩いて我に返らせ、雲雀は散らばっている荷物を手際よく片付けた。
「あ、俺が」
「いいよ」
 元々綱吉の鞄なので、自分が持つと彼は手を伸ばしたが、雲雀は意見を聞かずに自分の右肩にそれを担いだ。最後に線香が消えているのを確かめ、手を合わせて一礼する。
 ワンテンポ遅れて綱吉も従い、赤々とした林檎をどうしようか迷って雲雀を見た。
「お下がり、貰っておく?」
 此処に置いて行けば、野犬か烏が食べるだろう。どちらでも構わないといわれて、綱吉は数秒逡巡した後、置いて行くことに決めた。
「また来ます」
 墓碑と目線の高さをあわせてしゃがみ、本人に話しかける気分で別れの挨拶を告げる。
 場所が分かったので、これからはいつだって、好きな時に会いに来られる。そう思うと、少し嬉しくなった。
「綱吉」
「はーい」
 先に歩き出していた雲雀に呼ばれ、元気良く返事をして彼は立ち上がった。ズボンの裾を汚れてもいないのに払い、深々と頭を下げて最後に笑いかける。
 段差の手前で足を止めて待ってくれていた彼に追いついて、手を繋いで。照れ臭そうにしながらもまんざらでない顔をした彼を撫でて、風が通り抜けていった。
「……?」
 誰かが笑った気がして振り向く。
 鮮やかな緑に包まれる中で、大空に綿雲が浮かんでいた。

2008/08/13 脱稿