恋情

 上物のレースのカーテン越しに、午後を過ぎた夏の日差しが燦々と降り注いでいた。
 床に落ちた影は三十五度ばかりの角度を持ち、十字架にも似た窓枠の形をそのまま浮き上がらせている。その向こう側には荒涼とした山肌が続き、背の低い緑の遙か向こうでは母なる海が広がっていた。
 正面に窓を置き、影が伸びるとは逆方向の右側に、オーク材の机が据えられている。その背後には年代を感じさせる飴色をした書棚がふたつ、肩を寄せ合って並んでいた。
 執務室、と言って良い場所だ。しかし彼が佇む入り口の両側には、送料がどれだけ掛かったかも解らない大量の段ボール箱、及び木製の箱が乱雑に積み上げられ、整理が行き届かないまま放置されていた。
 小奇麗な壁紙が四方を囲い、瀟洒なシャンデリアが天井からぶら下がる広大な部屋の片隅に、ぽつんと取り残された形でひとりの少年が座っている。いや、年齢的にはもうその表現は不適格の筈だった。
 四捨五入すれば楽々二十歳に達する年齢に至っていながら、出会った当初の十四歳から殆ど成長らしい成長が見られない。背丈は幾らか伸びたようだが、相反して体重は増えず、元から華奢だった体型は益々細さを増した。もうひとつ付け加えるとしたら、どうやっても直らない爆発した髪型もあの頃のまま。
 変化が無いのは見分け易くて楽で良いが、本人にとっては些か深刻な悩みだろう。だが今日此処を訪れたのは、彼と青年期の健康相談をする為ではない。
「それで、僕にいったい何の用ですか」
 傲岸不遜に言い放ち、黒手袋で覆った右手を肩の位置で上に向ける。左手は腰に、右膝に若干角度を持たせて肩を竦めれば、明らかに人を馬鹿にしたポーズの完成だ。
 話しかけた少年――沢田綱吉は、重厚な造りの机の前に腰を下ろしたまま、大きすぎる椅子に苦慮しつつ身体の向きを変えた。椅子を反転させるだけだというのに随分と時間がかかると思っていたら、なんてことはない、情けないことに爪先が床についていなかった。
 どうりで肘置きを両手で掴んだまま、前屈みになって鼻を膨らませていたわけだ。理由を悟った彼は盛大に溜息を吐き、右手を下ろして四歩、前に進み出た。
 途中で段ボール箱のひとつを蹴り飛ばすが、気にも留めない。中にどれだけ大切なものが入っていたとしても、だ。いつまでも片付けずにこんな場所に放置しておく方が悪いという理屈で、乱暴な所作を睨んできた綱吉に嫣然と笑みを返す。
 机との距離はまだ開いていたが、引越し荷物が視界を邪魔しないところまで来たので足を止める。混雑した空間を抜けてしまうと、残された部屋の半分はがらんどうに近く、机と書棚だけ置かれているというのが、余計にもの寂しさを強調していた。
 この部屋は、広すぎる。不意にそんな感想が胸の奥から沸き起こって、眉間に皺を寄せた彼は椅子が軋む音に意識を戻した。
「えっと、その。久しぶり」
「そうですね、もうどれくらいぶりになりますか」
「半年……もっと、かな。まさか本当に来るとは思ってなかった」
 言いつつも首を傾げた綱吉がぎこちなく笑うので、同じく笑みで応じてやる。作り物の仮面めいた表情ではあったが、緊張を幾許か緩ませるには役立ったらしい。綱吉は頬にあった強張りを解き、胸の前で結んでいた手を膝に下ろした。
 大きすぎる部屋、重すぎる机、身の丈に合わない椅子。この先、彼が成長するに従って手狭に感じないように、予め一回り上のサイズで取り揃えられたのであろう家具類は、しかし用意立てた人間の気遣いに反し、彼を過剰に萎縮させている気がしてならなかった。
 殆ど何も詰め込まれていない書棚を先に見て、畏まって座っている少年を見詰める。しまりのない緩い笑顔に力が抜けて、それで、と彼は呼ばれた用事を聞こうと水を向けた。
「ああ、うん。あのさ、骸」
 その前にひとつ聞きたい事があると言われ、なんだろうかと今度は骸が首を傾がせる。
 どうやら何かをして欲しくて呼ばれたようで、今から繰り出される質問に「出来る」と答えられなければ、彼はお役御免、わざわざ訪ねて来た意味が完全に失われるらしい。
 そういう事は呼びつける時に確認しておくべきではないかと、今頃言った彼の手際の悪さを声高に非難すれば、綱吉は肩を窄めて身を小さくしながらも、言う前に電話を切ったのはお前だ、と言い返した。
「そうでしたか?」
「ていうか、切ったのはクロームだけど……」
 骸の肉体は、未だ暗く深い牢獄に囚われたままだ。こちら側に出てくる為には、クローム髑髏や彼と契約した人間等の肉体を媒介にするしかない。そして最も彼とのシンクロ率が高いのが彼女で、綱吉はダメモトで聞いていた番号に連絡を入れてみたのだ。
 何度目かの挑戦でやっと繋がり、応対に出た彼女に、綱吉は出来るなら力を貸して欲しいと懇願した。
 元々彼女は綱吉寄りの考え方をする子だったので、二つ返事で快諾してくれて、喜んだ彼は要件の仔細を説明しようとしたのだが、その前に彼女は電話を切ってしまった。
 だからクロームから、ボスが呼んでいる、と言われただけの骸がなにも知らないのも無理はない。あの後綱吉は再び番号を押してみたのだが、結局今日の今に至るまで回線は繋がらなかった。
 綱吉が悪いわけではないのだが、申し訳なさそうに瞳を伏した彼を前に、今回ばかりはクロームのせっかちさが悪いのだと骸は肩を竦めて返した。
「で、なんです?」
「ああ、うん。あのさ、お前……」
 話を戻し、再び聞く。顔を上げた綱吉は嫌に引っかかりを覚える相槌を打って頷いてから、予想の斜め上の事を口にした。
「ピッキングとか、得意?」
 それは犯罪ではないのか。
 言われた内容を即座に理解出来なかった骸が、きょとんとした顔で目を見開く。逆さ向いている髪の毛をそよそよと揺らし、えへへ、と不自然な笑い方をする綱吉をまじまじと見詰めた。
「……人を日本から呼んでおいて、あろう事か君は僕に犯罪者になれと」
 どこに侵入させる気だ。
 さすがはマフィアの後継者になると決めた男だ。元々己が犯罪者であるのは棚に上げ、仰々しく肩を竦めて言った骸の嫌味に、綱吉はムッと頬を膨らませて拗ね、そんなわけは無いと握った拳で硬い机を叩いた。
 それから脚を揺らして椅子を回し、背後に聳える書棚に手を伸ばす。一分としないうちに彼はまた苦労しながら骸に向き直った、その手には、先ほどはなかった箱がひとつ。
 高さは五センチほど、横幅十センチ程度の長方形。奥行きはこの距離では解らないものの、綱吉の両手に挟まれてすっぽり納まる程度だから、それほど大きなものではない。
 木製で、表面には細かな彫刻が施されている。距離がある所為でよく見えないが、それでも精巧な作りなのは伝わってきた。
 縁取りだけが金属で、ややくすんだ銀色が日の光を反射していた。彼はそれを百八十度転換し、前面に当たる部分を骸に向けた。
 本体と蓋とを区切る境界線上に、金属で周囲を補強した小さな穴が開いていた。
 鍵穴だ。
「それは?」
「えっと、まあ、……箱」
 怪訝な声を出して右手で指差した骸に、綱吉は一瞬言葉を詰まらせてから言った。視線は斜め上に走り、琥珀色の瞳は骸から外れた。
 絵に描いたものではなく、立体の箱であるのは、見れば誰にだってすぐに分かる。そういう事を聞きたいのでは無いと、骸は会話が成立しない相手に苛立ちを募らせ、靴の裏で艶やかな床を叩いた。乾いた音がひとつ響き、綱吉がビクリと大袈裟に身を震わせる。
 用がないのなら帰るぞ、と張り付いた笑顔で睨んでやれば、彼は椅子のコマに持ち上げた踵を下ろし、膝に置いた箱の表面をそっと撫でた。
「これを、開けて欲しいんだけど」
「鍵を使えば良いではありませんか」
「無いから、お前に頼んでるんじゃないか」
 先ほどのピッキング発言を暗に指し示し、綱吉は箱を机に移動させた。落ち着かない椅子から両足をそろえて床に降り立ち、腰よりも若干高い位置にある机へ座り直す。
 深すぎるクッションがいやだったのだろう。爪先はまたしても空中に漂うが、幾許か表情を緩めた彼は気にした様子もなく、置いたものを再度膝に載せた。
 扱いは丁寧に、慎重に。大事なものでも入っているのか、箱を見下ろす目は優しい。
「鍵開けくらい、他の守護者に頼めば良いではありませんか」
 たかが開錠ひとつの為に、クロームを日本の外に連れ出したのか。
 綱吉の周囲には、個性的ながら実力も折り紙つきのメンバーが揃っている。無論自分の方が彼らよりも強いのだが、と付け足した骸に、綱吉はぶぅ、と膨らませた頬を潰して上目遣いに彼を睨んだ。
 その子供っぽい仕草が、彼を実年齢以上に若く見せている事を、本人もそろそろ自覚すべきではなかろうか。
「頼んだよ」
 両足を交互にぶらつかせ、最後に踵で机の引き出しを蹴り付ける。脱げ落ちかけた革靴が爪先だけを残してだらん、と頼りなくぶら下がった。
「頼んだよ、とっくに。そしたら獄寺君は、ダイナマイトで吹っ飛ばそうとするし」
 思い出しながら呟く彼の手は、箱の輪郭をなぞって膝へ落ちた。
 綱吉が最初に頼ったのは、日本に居た頃から彼の右腕だといきり立って五月蝿い銀髪の青年。中距離攻撃を得意とし、骸と同じ戦略、戦術を駆使して戦う頭脳派だ。
 だが時々頭の螺子が足りない事があって、周囲を巻き込み大騒ぎを引き起こす元凶のひとりでもある。
「はあ」
 彼ならばやりそうだ、と綱吉の言葉に頷き、骸は右を上にして胸の前で腕を組んだ。
 綱吉は呆れ混じりに鼻から息を吐き、背中をぐっと反らして顔を天井に向けた。歳の割に幼い喉仏が小さく上下して、幾分伸びた蜂蜜色の髪が日の光の中で淡い輝きを放つ。
「ダイナマイトなんか使ったら、鍵どころか箱ごと木っ端微塵になっちゃうよ」
 そんな簡単な事も解らないようでは、この先自分の右腕として名を馳せるなど遠い夢の話だ。
 姿勢を戻して猫背になった綱吉ぼやきからは、しかし彼を部下としてではなく、友として認識した上で、慈しむような、そういう柔らかな響きが感じられた。
 無意識に表情が険しくなったのを自覚し、骸はわざと咳払いをひとつして続きを促した。
「それで?」
「ああ、うん。で、山本ならどうかなって思ったんだけど」
 次に綱吉が頼りにしたのは、獄寺同様、中学生時代から綱吉に寄り添い、お互いを親友と言って憚らない雨の守護者だった。
 だが彼は、獄寺以上に細かい作業が苦手であり、鍵穴を弄って固定されている錠を外すというような器用な真似は出来なかった。その代わりに彼が提案したのが、
「……山本の剣の腕が凄いのは、認めるけどさあ」
 ぼそぼそと再度愚痴を零した綱吉に、答を想像した骸が頬を引き攣らせた。
「まさか、刀で鍵を?」
「そう、それ!」
 正解を言い当てられ、綱吉が勢い良く顔を骸に向けて手を叩いた。続けざまに右手の人差し指を突きつけられ、あまり良い気がしなかった骸がやや不機嫌に顔を顰める。
 だが綱吉はお構いなしに肘を戻して高い位置で腕を組み、うんうん頷いて最後にまた溜息を吐いた。
「鍵だけ切れるのなら神業なんだろうけど、蓋と胴体が分離するかもって言われたら、ねえ?」
「僕に同意を求められても困るんですが」
「……骸が冷たい」
「なんです、抱き締めて欲しいのですか?」
 それならそうと先に言って欲しかったと、揚げ足を取った彼に綱吉は頬を膨らませ、子供じみた表情で拗ねた。
 唇を窄ませてそこから息を噴き出して縮ませ、脚をまた交互にじたばた揺らして膝の小箱を躍らせる。転がり落ちていきそうでそうはならないので、本人も一応、注意深くやっているらしい。
 守護者には他にも数名、骸もよく知る人物を含めて存在しているが、全部を聞く前に結果が読めてしまった。右手を持ち上げて耳に被る髪の毛を掻き上げた彼は、大人しくなった綱吉へ更に二歩近付いた。
「本当に抱き締めますよ」
 答えが無いのを肯定的に捉え、手を伸ばせば届く距離を残して立ち止まる。視線を上向けた彼は途端にふるふると首を振り、骸の機嫌を損ねさせた。
 眉間に三本ばかり皺を作り、両手を腰に押し当てた彼が憤然とした顔立ちで綱吉を見下ろす。何を怒っているのかと分かっていない綱吉の態度に、蹴り飛ばしてやろうかという気を幾らか抱きつつ、横道に逸れてしまった不毛な会話を本来の道筋に戻すべく、彼は右の爪先で床を軽く叩いた。
 響く音は軽やかにふたりの間を通り抜け、広すぎる部屋の壁に当たって砕けた。
「それで、晴れの守護者は殴って壊そうとして、雷の守護者の彼は……まあ、嵐の彼と似たようなものでしょう。雲雀恭弥君は、――もう言わないほうが良いですか?」
 淡々と予想を口に出して連ねた骸に、次第に綱吉の猫背具合が強まっていく。最終的に膝に額が擦れるくらいまで体を丸めた彼は、一旦言葉を切った骸の提案に今度こそ頷いた。
 他の知り合いにも何人か声をかけ、協力を求めたが、誰一人としてまともな手段で鍵を開けようとしなかったのだろう。クロームを通じて骸にまで頼るくらいだから、よっぽどだったと思うべきか。
 ちょっとだけ憐れみを覚え、同情めいた視線を投げかけると低い位置から涙目で睨まれた。だが迫力に欠ける表情はむしろ愛らしいくらいで、琥珀は潤み、美しい宝石は今にも零れ落ちてしまいそうだった。
 胸に抱きこんだ小箱を両手で持ち上げ、上半身を起こした綱吉が座ったまま骸に向き直る。
 最初にピッキングが出来るかどうかを聞いた理由も、これではっきりした。とはいえ、そんな技術を彼から求められるというのはどうにも釈然としない。
「言っておきますが、僕は高いですよ」
「え、お金取るの」
「そうですね、君の身体で支払ってもらうというのも悪くない」
 顎に手をやり、値踏みする視線を投げかけると彼はどう意味を理解したのだろう。うーん、と腕組みをしたまま数秒間、真剣な顔で考え込み、
「……お前、まだ俺の身体乗っ取るの、諦めてなかったのか」
 渋い表情を作った末に、そう言った。
 ぽかんと間抜けな顔を作った骸に、違うのかと綱吉が首を傾げる。怪訝な目で見られ、彼は凍り付いた表情を慌てて右手で覆い隠した。
 自分たちが出会った当初、確かに骸の目的はそれだった。
 マフィアという巨大な組織への報復として、ボンゴレの乗っ取りを容易くする為にその後継者として名前が挙がっていた綱吉を狙ったのが、そもそもの始まり。そして今も、骸が守護者の一員として名を連ねるのは、しつこく綱吉を狙っての事だと、彼は認識していた。
 間違ってはいないが、今となっては一概にその限りだともいえなくて、骸は返答に窮しつつ視線を上に向けた。
「悪いけど、俺の体はお前に譲ってやれないから、他に考えてくれないかな。たとえば、そうだな……これの中に入ってるものとか、ってのは?」
 勘違いしたまま喋り続ける綱吉の声にハッとして、骸が手を下ろす。幾許か赤みを強めた頬は、けれど綱吉が勘付くほどではなくて、内心安堵した彼は代替案を提示した綱吉に、さも仕方が無いかのように肩を竦めてやった。
 その口ぶりからして、中に入っているものが何であるかは彼も知らないようだ。それなのに何故こうも開けたがるのか不思議だったが、わざわざ呼び出されたという事もあり、骸自身も興味が全く無いわけではなかった。
 これで空っぽだったら笑い話だが、他の守護者たちに出来なかった事を自分が難なくやってのけたならば、さぞや優越感に浸れるだろう。
 特にあの雲の守護者は悔しがるに違いない。地団太を踏む雲雀の姿を想像して含み笑いを零した彼は、綱吉が薄気味悪がって距離を取ろうとしているのに気付き、急ぎ表情を引き締めた。
「分かりました。少々割に合わない気がしますが、それで手を打ちましょう」
 鷹揚に頷いて、右手を差し出す。
 一瞬呆気に取られた顔をした綱吉だったが、早く、と骸が浮かせた手を上下に揺らしたのを受けて慌てて膝を躍らせた。飛び上がった小箱を空中で捕まえ、どうぞ、と恐る恐る彼の手に載せる。
 軽い。
 箱の重量分しか掌に負荷が掛からず、最低の予想が正解の確率が高まり、骸は少々結論を先走ったかと後悔した。しかし難しい顔をして鼻筋を撫でた彼を、綱吉が真剣な眼差しで見詰めるのを知り、こういう顔を向けられるのなら悪くないと考えを切り替える。
「どう?」
「何か細いもの……針金はありますか」
 この際ヘアピンでも構わないと言えば、女じゃあるまいし、と綱吉が笑った。
 代わりに出てきたのは、針金を曲げて作られた小さなクリップだった。
 机の引き出しを掻き回し、資料をまとめていたものから外したそれを渡して、乱雑に散らばった紙類に彼は小さく舌を出す。片づけが苦手なのは、部屋の入り口付近を見れば分かるのに、また散らかしてどうするのかと骸は呆れ半分で受け取って、湾曲している部分を引っ張って真っ直ぐに伸ばす。
 机に腰を預けもたれかかると、入れ替わりに綱吉が床に降り立って、今し方自分でぐちゃぐちゃにした引き出しの片付けに取り掛かった。彼の視線が自分から外れたのを大いに不満に思いつつも、見られっぱなしは集中力の妨げになるので諦め、骸は左手に載せた小箱を顔の高さまで掲げた。
 飴色で艶のある側面には細かい意匠が施され、植物の蔦が絡まる風景を描き出していた。蓋部分にも同じく透かし彫りが成され、こちらには万年雪を抱く山を中心とした大地が。再び側面に目をやり、微妙に異なる四つの景色を回転させながら確かめた彼は、これがイタリアの、それも彼にとって非常に馴染み深い、シチリアの風景を刻み込んだものだと即座に理解した。
 一刀ずつ丁寧に細工された造詣は見事としか言いようがなく、角を補強する銀板にも同様に、根気が要りそうな技術が用いられていた。
 この箱だけでも、相当の値打ちがあるのではなかろうか。年代を感じさせる色艶に惚れ惚れとした表情を向け、大事に鍵穴部分を撫でた骸は、中に納められているものに好奇心をそそられ、耳の横で軽く振ってみた。
「あ、音はしないよ」
 目敏く気付いた綱吉が先に言ってくれて、思わずがっくり肩を落とした骸がつまらなさそうに振り返る。
 綱吉はしゃがんだ状態で、頭だけを机の上に覗かせていた。
「では、空っぽではないのですか」
「そうかもしれないけど……入ってると思うんだよね、何かが」
 半信半疑のまま確かめてみるが、綱吉の言葉通り、殆ど音らしい音は聞こえなかった。カサカサと、乾いたものが箱の内壁に触れているのだけは辛うじて聴覚が拾ったが、硬く重い、例えば宝石などの固形物が入っている望みは捨てた方が良いだろう。
 中に納められているものの正体は、開錠に成功した暁の楽しみとするほか、なさそうだ。
「宝の地図とか」
「どこの子供ですか、君は」
 膝は床に残したまま、机に身を乗り出して腕をそこに置いた彼の幼い発想に肩を竦め、骸はいい加減集中しようと一部だけを伸ばしたクリップを構え直した。今度こそ鍵穴に差し込もうと、箱を斜めに傾けて角度を調整する。
 綱吉が大人しく見守る中、彼はそっと、本来の役目から大幅に外れているクリップを小さな穴に差し入れた。
 しかし。
「うん……?」
 妙な違和感を覚え、彼は露骨に顔を顰めて口をへの字に曲げた。
「骸?」
「ああ。いえ、なんでもありません」
 何がどう変なのか、具体的に語る言葉が思い浮かばない。しかし奇妙な感覚ははっきりと彼の中に残されて、骸は可笑しいなと心の中で舌打ちして、再度鍵穴にクリップの先端を捻じ込んだ。
 目を細め、注意深く窺い、指先に伝わってくる微かな振動を読み取って調整していく。だが、不思議なことに、噛み合わさっている錠が動く確かな手ごたえが全く彼の中に生まれてこなかった。
 肘を前後に引き、肩を回して右手の動きを大きくしても同じ。終いには床に向かって放り投げてしまいたくなる衝動に駆られ、奥歯を噛んだ彼は寸前でそれを阻止した。
「……駄目?」
「ちょっと待ってください。こんなこと、ありえるわけが」
 元気をなくした綱吉の声が背中にぶつかってきて、骸は焦りを滲ませながらもう一度最初から手順を踏み、開錠を試みた。されど結果に変化はなく、小箱は沈黙したまま。
 馬鹿にされている気分になって、彼は獄寺や山本たちが極端な方法に走った原因を漸く理解した。
 しかし自分までもが三叉の槍を手にするのは、無駄に高いプライドが許さない。あの連中と同類扱いされるのだけは耐え難く、骸は音を立てて歯軋りし、額に浮いた汗をスーツの袖で乱雑に拭った。
 落ち着け、と自分に言い聞かせて深呼吸し、何か特別なパターンでも用いているのかと疑って鍵穴を覗き込む。
 当然だが、中は真っ暗闇。
「ん?」
 そして再び胸に沸き起こる、小さな違和感。
 なにがどう変なのか、未だ掴みきれぬまま、骸は一度箱を膝に下ろした。入れ替わりにクリップを掲げ、珍妙な形状に曲がった先端に彼は首を傾げた。
「骸?」
「綱吉君、ひとつ質問が」
 簡単に開くかと思っていたらそうではなく、思わぬ骸の悪戦苦闘ぶりに綱吉は気付けば立ち上がっていた。腰を捻って振り向いた骸に至近距離から見上げられ、なんだろうかと丸く大きな目を細める。
 彼は膝から天板へと箱を移動させ、エトナ山を刻んだ蓋を人差し指で二度、小突いた。
「なに?」
「この箱はいったい、何処で?」
 アンティークの部類に入るこれは、どう考えても日本のものではない。てっきりこちらに越してきて、多数ある城の部屋を探検している最中に見つけたのだろうと思って聞いた骸だったが、彼の予想は不正解だった。
 綱吉は首を横に振り、日本から持ってきたものだと何の疑念もなく言い放った。
「日本から?」
「うん」
 怪訝に声を裏返した彼に、綱吉がふかふかの椅子に座り直して頬杖をついた。黒い革張りの椅子に抱き締められているようにも見えて、それが某人物を想起させ、骸はふいっ、と顔を逸らした。
 窓に目を向け、薄日が差し込むカーテンの向こう側に意識を飛ばす。
「ああ、でもひょっとしたら、元々はこっちで作られたものなのかもしれない」
 腕を伸ばし、小箱を取り返して表面を撫でた綱吉が呟いた。何かを知っている様子に、骸がそっと瞳だけを彼に向ける。
 綱吉は昔を懐かしむ表情をして、何度も繰り返し、箱の蓋を撫でていた。
「これ、ずっと昔から、家にあったんだって」
 彼がイタリア行きを決めた時、一緒に持っていくように父親に渡されたのだという。理由や謂れなどは一切聞かされなかったが、代々沢田家の男が引き継ぐことになっているものだと言われて。
 中に納められているものが何であるか、家光も知らなかった。鍵は、最初からなかったらしい。
 だから誰も開けようとしなかった。綱吉だけが、今時珍しい外見に興味を持って、中身を確かめようとあれこれ策を講じて。
「……ううん、違うかな。なんか、俺が開けなくちゃいけないような気がしたんだ」
 両手で箱を包むように持ち、自分でも良く解らないと嘯く。骸はその間黙って耳を傾けていて、彼が言い終えると捻っていた姿勢を戻し、手の中に残っていたクリップを指先でくるくると回した。
 言葉にしづらかった違和感の正体。それが今になってやっと、見えてきた。
 箱の形状から想像される鍵穴の深さと、実際差し入れて奥に行き当たり、折れ曲がったクリップの長さとが、一致しないのだ。
「その箱の本来の持ち主は、君は、誰だと思いますか」
 問いかけつつ、親指で鉤状になった針金を弾き、骸はそれを握りつぶした。後ろでは綱吉が小さく肩を竦め、お前の想像する人物だろうと断言する。
 日本から持ち込まれた、イタリアで作られたと思しき小箱。綱吉が何故この国にやってきたのか、その理由も絡めて考えれば、該当する人物はひとりしか居ない。
「ボンゴレ初代」
 骸が言い、綱吉は緩慢に笑った末に頷いた。
「だと思う」
 ならば綱吉がこの箱を開けたがったのも、或いは箱が、久方ぶりにイタリアの空気を吸って、解放を求めたからかもしれない。
 そう考えるのは強引過ぎるだろうかとの呟きに、骸は答えなかった。
「貸して下さい」
 代わりに手を差し伸べ、一度は諦めかけた開錠に心を傾ける。綱吉から受け取った彼は、胸に抱いたひとつの疑念を核心に変えるべく、眇めた右目で高く持ち上げた箱の鍵穴を見詰めた。
 もし、これが本当にボンゴレ初代の持ち物だとして。
 ではこれに鍵をかけたのは、誰か。
 ヴン、と空気を震わせ、彼は自分が持つ得意な能力を解放し、そこに仕掛けられた巧妙な細工に意識を集中させた。
 予め鍵穴が用意されていれば、誰だってそこに鍵を差し込んで施錠したものと認識するだろう。最初にこれを見た時に感じ取った、騙し絵を見ているような感覚が何故だったのか、今なら簡単に理解出来る。
「骸?」
 綱吉の呼びかけに答えず、彼は数秒間箱を凝視し続け、そして。
 鍵を、外した。
「――!」
 何もない筈の空間から、一瞬沸き起こった大量の霧。瞬き数度の間に完全に掻き消えてしまったそれに、咄嗟に顔を腕で庇った綱吉は、全身に漲らせた緊張をややしてから一斉に解いた。
 背けていた首を正面に戻し、悠々と机に腰掛けている男の顔を先ず見る。どうだ、と言わんばかりの威風堂々とした様に彼は何故かムッとして、次に机に添えられた手元へ視線をずらしていった。
 飴色の味気ない四角形の箱が、横にスライドさせた蓋を半分だけ載せて佇んでいた。
「え?」
 そのあまりの変わり様に、綱吉が目を瞬く。
 間抜けな声を出し、驚きを隠しもしない彼に骸は声を堪えて笑い、銀プレートの鍵穴さえ消えてしまっている、何の変哲もない木の箱を指で押した。
 蓋が完全に上部から外れ、音を立てて崩れ落ちた。
「あ、あれ? あの箱は?」
「此処にあるじゃないですか」
「だって、……え?」
 飾り気に乏しく、切り分けた木片を組み合わせただけの簡素な箱。それまで綱吉の目に映し出されていた精巧な彫り物細工は綺麗さっぱり消え去り、跡形も残されていない。
 まさか骸が、綱吉の目を盗み、質素なものと交換したのではないかとさえ疑ってしまう。だがそんな真似をする理由が骸にはなくて、綱吉は顎を机の天板に押し付け、疑い深い目でじっと面白みに欠けた箱を睨みつけた。
 気がつきさえすれば、実に簡単なトリックだ。
 鍵穴など、最初からなかったのだ。すべては幻、そう見えるように人の目を欺く罠。
「罠……?」
 いぶかしむ声を零した綱吉が、考え込む素振りで丸めた拳を顎に押し当てる。中央に寄った瞳が思案げに揺れる様を眺め、骸はただの古ぼけた箱、という本来の姿を取り戻したそれを、彼に向けて押し出した。
 綱吉の願いは叶えられた。思う存分、中に入っているものを確かめると良い。
「あ、うん。そっか」
 思索を中断させ、綱吉がやや大袈裟に頷いた。宙に浮いた脚をばたつかせて椅子を前に漕ぎ、両手を机に押し当てて身を乗り出す。
 真上から恐々覗き込もうとする彼に苦笑して、骸も自分の報酬となるものを見ようと姿勢を前に傾けた。
 わくわく、と文字に出して表現出来そうな顔をした綱吉に目配せし、四角形に切り抜かれた箱の中を同時に覗きこむ。
「…………」
 両者の期待は沈黙に塗り潰され、部屋に四散した。
「なに、これ」
 やがて、どれくらいの時間が過ぎた頃か。綱吉の掠れた声が静寂を破り、骸を現実の世界へと引き戻した。
 彼らの間にある、みすぼらしさが漂う木の箱。
 遠い海を越え、百数十年間開けられる事無く、日本の地で眠りについていた箱。
 厳重に封をされ、幻術によって守られてきたその中身。
「糸、でしょうか」
 綱吉にかわって骸が答えるが、彼も自分の憶測に自信が無いようで、手袋を嵌めたままの右手を唇に押し当てて半眼した。
 納められていたものは、骸の言葉を借りるならば、黒い糸、だった。
 だが縫い物などに使うにしては、些か短すぎる。白い紐が二重に巻きつけられて散らばらないようにまとめられているそれは、長くても三十センチほどしかなかった。
 試しに一本だけ引き抜いた綱吉が、顔の前にだらんと垂らして息吹きかけて揺らす。
「なんか、見覚えあるなあ、これ」
 これに似たものをごく身近に見ている気がして、綱吉は渋い表情のまま唇を尖らせた。
 骸もまた箱に残された、折り畳まれた糸の束をじっと見詰め、こんなものを後生大事に仕舞い続ける為に、あんなにも頑丈で複雑な幻術を仕掛けた人物の真意に首を傾げた。
 術師にしか解けない――骸でなければ解けなかっただろう幻で包み込んだ、小箱。
 覚えのあるのに正解が思い浮かばない綱吉は、こんなものの為に大騒ぎしたのかと自分の行動を恥じ入り、落ち込んでいた。
「もっと凄いもの、期待してたのにな~」
 それこそ本当に、宝の地図でも出てくるのではないかと楽しみにしていたのに、あっさりと裏切られてしまった。仲間たちも結果を知りたがっているのに、なんと答えてやればよいのやら。
 糸の束でした、と言って果たして信じてもらえるかどうか。
 じたばたと脚で空気をかき混ぜた綱吉が、手にした細いそれを指にくるくると巻きつける。無意識なのだろうが、よりによって左の小指に絡みつかせる彼を横目に見て、骸は箱から大事に束を取り出し、両手に包んで表面を撫でた。
 刺繍糸とは違う。いや、それどころか植物性の繊維とは異なる気配が微かながら感じられ、骸の神経を奥深い場所でちくちくと刺激した。
 確かに綱吉の言うとおり、これと同じものに触れた記憶が自分もあった。それも遠い昔の記憶ではなくて、ごく最近の事。
 否。今だって容易に触れられる――
「髪?」
 自問し、骸は左手で自分の短い襟足を撫でた。
「ふえ?」
 思いがけぬところから飛び出た単語に、綱吉が変な風に鼻を鳴らして顔を上げた。
 きょとんと目を丸くして、今なんと言ったのかと視線で骸に問いかける。
「これは、違うかもしれませんが、……人の髪ではないでしょうか」
 一部だけ逆立って尖った髪を揺らし、骸は思案気味に眉根を寄せて鼻の頭を指で擦った。唇で手袋の中指部分を噛んで中身を引き抜き、素肌で直接触れて今一度感触を確かめる。綱吉はその彼を真正面に見詰めた末、自分の小指に巻きつけられた黒い糸にヒッ、と引き攣った声を漏らした。
 咄嗟に肩を引っ込めて腕を頭上へ弾き飛ばし、ぶんぶん風が唸るくらいに振り回して解こうと試みる。だが関節に食い込んだそれは容易には外れず、先端がふらふらするだけで、まるで意思を持って彼にしがみついているようでもあった。
「ちょっ、やめてよ。なんでそんなものが!」
「僕が知るわけがないでしょう」
 初代ボンゴレは短髪で、色だって見目眩い黄金色だ。それはボンゴレの本拠地に飾られた肖像画からも分かるし、綱吉自身も継承の儀の最中で彼の若かりし姿を目撃しているから間違いない。
 此処にいる十代目継承者によく似た、凛々しい青年だった。
 それに、自分の髪の毛を箱に密封して保管する、というのも考えれば妙な話。
「ああ、もう! 気持ち悪いな」
 他人の、しかも誰のものかも解らない髪の毛に張り付かれたままだなんて、鳥肌が立つ。正直に自分の感情を吐露した綱吉は、自分でやったくせにすっかりその事実を忘れ、小指に巻きつく黒髪を抓み、巻きを解いて宙に投げ放った。
 薄らと残る痣に顔を顰め、息を吹きかけて熱くもない関節付近を冷ます。
 酷い言われようだと骸は肩を窄め、自分はというと丁寧に入っていた箱に束を畳んで戻した。落とした蓋を被せてみたが、幻術は完全に解けてしまっており、あの見事な透かし彫りが復活するようなことはなかった。
「さて、どうしましょうか」
 箱の鍵を開ける代償に、骸は中身を譲り受ける約束をした。しかし、今更貰う気になどなれない。使い道もなく、ただ不気味なだけの品物を手元に置いておくほど、彼は奇特な性格ではない。
 もっともそれは綱吉にも言える事で、彼はさっきからひたすらに怖がり、気味悪がって机から離れ、椅子の上で脚を三角形に曲げて小さくなっていた。
 しっしっ、と獣を追い払うポーズをされて、骸が肩を竦める。
「僕は辞退しますよ」
「俺だっていらないよ!」
 完全に押し付け合いだった。
 長年に渡り、代々の当主が大切に守り通してきたものの中身が知れた途端、掌を返した反応を見せる綱吉であるが、物がものなだけに彼を非難するのも可哀想だろう。かといって骸だって、御免被る。
 残る選択肢は、廃棄処分。だがその案が骸から提示された瞬間、綱吉はそれまで大声で騒ぎ立てていたのをぴたりと止め、膨れ面で黙り込んだ。
 彼とて、歴代ボスの中で最も偉大だったという人物の遺品を、軽々しく捨て去るのは心苦しいと思っているのだろう。ただ手元に置いておくには薄気味悪いから嫌だと、そういう心境か。
 複雑なものだ、人間の心は。鼻から息を吐いて骸は机から降り、皺が寄ったジャケットの裾を伸ばして髪を掻き上げた。
 綱吉は椅子の上で蹲り、上目遣いに人を睨んでいる。臆病風を噴かせながらも必死に威嚇している小動物の表情に苦笑し、仕方がないか、と彼は嘆息した。
 当初の予定通り、中身は貰っていくことにする。だが裸のまま他人の髪の毛を持って歩くのも精神衛生上宜しく無いので、箱ごと引き取る事になるが。そう提案すると、綱吉は即座に頷いて、二つ返事で了承した。
「ああ、でも捨てるなよ!」
 誰のものかは解らないものの、これは――この髪は、少なくとも初代に関わりがあった人物の遺品でもあるはずだ。
 唐突に声を荒げた綱吉が言って、蓋をした箱を手元に引き寄せていた骸は、そんな真似はするかと不機嫌に顔を歪めた。
 そんなにも自分は信用ないのか。箱の縁を爪の先で叩いた彼は、軽く響いた無機質な音に瞳を伏し、机に放り出していた手袋を拾って白い肌を覆い隠した。
 これがきっと、自分以外の誰か――綱吉は元々、誰に対しても平等な態度で接するが、明らかにひとりだけ、露骨に反応が違う相手がいる――なら、状況はまた違うものになっていただろうか。
 己の身の置き所に迷い、骸は魔法が解かれて元の粗末な姿に戻ってしまったシンデレラに小箱を重ね、違いすぎる結末に自嘲気味な笑みを浮かべた。
「貰った以上、これをどうするかは、僕の自由でしょう」
 綱吉の意見など知ったことではない。内心を隠して不遜な態度を貫き、骸は手袋をした手で箱を掴み取った。
 心持ち、さっきよりも幾許か重く感じられた。
「いや、けど」
「なんですか。いざ手放すとなると惜しくなったというのなら、返して差し上げないこともないですよ。今すぐそこに土下座して、お願いします骸様、とい――」
「断る」
 全部を言い終える前に綱吉に即答され、骸は肩を竦めて苦笑した。
 これで所有者は移った。年代物の、骨董品とするには貧相すぎる箱と、百年以上前に生きた誰かの遺髪。結果だけを見れば実りが多い訪問ではなかったが、久方ぶりに顔を見て会話が出来ただけでも、よしとすべきか。
「では、ごきげんよう。けれどあまり、変な用事でクロームを振り回すのは、やめてくださいね」
「分かってるよ、馬鹿」
「その言葉だけは、そっくりそのまま貴方にお返しします。ああ、そうそう。彼女の帰りの飛行機、チケットは当然ですが、貴方持ちですからね」
「あーもう。はいはい、分かりましたよ」
 半ば投げやりに言って、綱吉は骸を追い払う仕草をして彼に退室を促した。もっともそれは、骸自身を嫌がったのではなく、彼が受け取った小箱の中身を気味悪がって、早く自分から遠ざけたいという意識の現われだろう。
 言われなくてもそうする。骸は蓋が外れぬように箱を脇に抱え、顔に掛かる前髪を後ろへ梳き流して優雅に綱吉に向かって一礼した。顔を上げたときに見えた彼は、不満と申し訳なさとが入り混じり、どうにも表現し辛い肌色をしていた。
「その、……チケットは何処に送れば良い?」
「明日、クロームに取りに来させます。彼女も貴方に会いたがっていましたので」
「分かった」
 なら、昼食の頃に時間を空けておく。頷いた綱吉の言葉に骸もようやく表情を和らげ、では、と再度軽い会釈をして踵を返した。
 段ボールが乱雑に積み上げられた細い通路を器用に潜り抜け、真鍮製のドアノブを回して廊下へと出る。足を踏み出した瞬間に振り向いた先では、綱吉が己の手元ばかりを見て何かを操作していた。
 携帯電話でメールを打ち込んでいるか、なにかだろう。誰に宛てたものなのかは、考えるまでも無い。
 時々思うことがあった。
 もしあの男よりも先に、自分が彼を見つけていたら、世界は何か変わっただろうか、と。
 瞳を伏し、瞼を閉ざし、視界を闇に塗り替えて骸はドアを閉めた。彼の邪魔をせぬように音を立てず、気配さえ殺して。女々しい考えを頭の中から追い出し、最初から対等ではなかった自分たちの状況は、今更覆せないものだと割り切る。
 だが、だからこそ。
 彼が自分を必要としてくれたことが、計り知れないほど嬉しかったのだ。
 骸が部屋の外へ姿を消す瞬間、綱吉が顔をあげたのも知らず、彼はドアに寄りかかって暫くじっとその場に佇んだ。この程度のことで疲れてしまっている自分を情けないと嗤い、額に腕を置いて風が囁く声を聞く。
 ボンゴレ初代が若くして築き上げた地位を何もかも捨て、日本という、当時まだそう知られてもいない辺境の島国に移り住んだ事実は、この組織に所属する大半の人間が知っている。だが、彼が何故日本という国を、隠遁生活を送る先として選んだのか、その理由に関しては、知る人間は殆ど居ないだろう。
 骸とて知らない。
 知らないが、あの島国に籍を置き、当時あらゆる分野に於いて最先端だった欧州へ派遣されたひとりの青年が、イタリアへ立ち寄った際に不慮の事故で死亡し、時同じくして初代ボンゴレの隣に、彼の守護者として選ばれた黒髪の、東洋系の青年が現れたことは知っている。
 そして、この長い髪は、恐らくその青年と同年代に生きた別の人物のものだ。
「なんなんでしょうかねえ、本当に」
 時の悪戯、とでも言えば良いのか。皮肉な笑みを浮かべ、彼は綱吉から引き継いだ小箱を左手に握った。右手で蓋を外し、中に納められた哀れな、恐らくはイタリアに残ったであろう男の影を思う。
 彼が選んだのだ、それを他人である自分があれこれ言っても虚しくなるだけ。けれど潔く負けを認めるのも悔しくて、みっともないくらいこうして足掻いて、彼の何気ないひと言に一喜一憂している。
 出会う以前の自分では考えられない姿だ。けれど悪くないと思えるのもまた、彼のお陰だろう。
 憐憫と親愛の情を込めた目で黒髪を見詰め、何気なく右手の親指を動かす。蓋の裏面を擦り、奇妙な凹凸を手袋越しに感じ取って、彼は眇めていた目を瞬いた。
「おや?」
 さっきは気付かなかった新たな事実に彼は首を傾げ、厚みがある板を裏返した。上下を逆にして箱の上辺に被せてやれば、百数十年ぶりに日の光に照らされた文字が、はっきりと彼の前に姿を現した。
 幻などではない。不器用な人間が、ナイフを懸命に操って彫って刻んだ短いメッセージがそこに確かに存在していた。
 イタリア語、読み取りづらいが、全く解らないわけではない。
 骸は手袋を外し、一文字ずつなぞっては指の感触も助けとして、記されている内容を音に乗せた。
「我の心、思い……尽きる、ない。尽きず――」

 我が想い尽きることなく
 永久に汝と共に

 読み上げた誓いのことば。
 不意に迫りあがる、恐怖にも似た痛烈な他者の感情。背筋を震わせて彼を竦ませる、強すぎる想い。
 押し流されそうになり、骸は咄嗟に両腕を掲げて顔を庇った。
 投げ出され、彼の手を離れた木箱が、空中に躍り上がって風に浚われる。突然吹き荒れた突風に中にあったものまでもが宙へ投げ出され、束をまとめていた白い紐が自由を取り戻した。
 黒く細い糸が融けて行く。閉ざされた狭い空間に長く封じられていたものが、今、大空に向かって。
「…………」
 骸は押し黙り、腕を下ろして青空を仰いだ。暗闇に慣れた自分には眩し過ぎると知りながら、それでの尚焦がれて止まぬものは、確かに、この地上に存在する。
 広げた手を見詰め、ぎゅっと握り締めた。
 そういえば、捨てるなとは言われているが、失ってしまった場合の責任はどうなるのだろう。五歩ほど先の通路に落ちた空箱を拾い、彼は蓋を被せて後ろを振り向いた。
「髪でも伸ばしますか」
 物言わぬドアを見つめ、ぽつりと呟く。だがそれは、同じ轍を踏むためではない。
 彼は目を閉じ、数秒後、息を吐くと同時に顔をあげた。
「それも、悪くないでしょう」
 いつか自分も、この箱に開かぬ鍵を掛けて彼に渡そう。
 思いと共に、祈りを託して。

2008/08/10 脱稿