福羽

 意識を取り戻せば見知らぬ天井。アジトから着てきた身の丈にあった服は、下水路に落ちた所為でびしょ濡れ。
 両腕は拘束されて自由は利かず、大事な品は悉く奪い取られて逃げるに逃れられない。
 閉鎖空間は息苦しさに溺れるに充分であり、囚われの身である状況が焦りを加速させる。
 此処が敵拠点内の何処かであり、表向き自分は行方不明扱いとなっているのはなんとか理解出来た。しかし軟禁状態にあるのは疑いようが無い事実であり、挙句敵である筈の束縛者からは珍妙な提案を受けた。
 親切にされているのか、そうでないのか。境界線が非常に曖昧で、対処に困る。
 スパナ、と名乗った相手は日本好きだからだとかなにかで、勧められた日本茶は、確かに香りは良かった。
「あちち……」
 毒でも入っているのかと最初は疑ったが、そういう小細工をしそうな相手にも見えない。多少勘繰りつつ渡された大きいコップに舌を差し入れ、温度を測ると予想よりも熱かった。
 両手で大事にカップを抱え、即座に舌を引っ込めて息を吹きかける。立ち上る湯気は白くゆらゆら揺れて、綱吉の視界を僅かに濁らせた。
 向かい側にいるスパナは、興味津々に綱吉を眺めている。観察している、という方が的確な表現な気がした。彼にとって綱吉は、格好の研究素材でしかないのだろう。
 だから敵である綱吉を拘束し、連れ帰り、同胞には嘘の情報を与えた。彼をそうさせたのは、単純明快、純粋なまでの求知心。
 イクスバーナーの完成形を見たいという、研究者独特の好奇心が疼いたのだろう。なにせ彼は、将来の綱吉のデータを研究し、参考にして、あの巨大ロボットであるモスカを製作してきたのだから。
 こんな稀有な機会をみすみす逃せるほど、彼は利巧でなかったという事。綱吉にとっては命を生き長らえさせられただけ儲けものだが、反面、周囲の状況――別れた仲間が今現在どうなっているのかまるで分からない、というのは非常に難儀だった。
 連絡が取れたらば良いのだが、通信機は取り上げられて、今手の中にあるのは熱くて渋い日本茶だけ。
「美味いか」
「……うん」
 興味津々に問いかけられ、綱吉は少しだけ冷めた茶を啜って小さく頷いた。
 奈々が煎れてくれたものには負けるが、少なくとも自分で煎れたものよりは美味い。
 水に落ち、凍らせて、更にそれを溶かされたたところにまた落ちたので、服はもとより身体は思った以上に冷えていた。熱い茶はその身体を温めるのに役立って、全部飲み干す頃にはしっとりと汗が滲んだ。
 素肌にまとうつなぎも、彼に借りたものだ。サイズが大きすぎて袖も裾も何重に巻かなければならなかったが、裸でいるよりはずっといい。
 空になったコップを置いて一応礼を言うと、はにかんだ綱吉を何故かスパナはじっと凝視して瞬きさえしなかった。
「あの……」
 なにをそんなに、しげしげと見るところがあるのだろう。怪訝に顔を顰めて返すと、漸く動いた彼は咥えた飴の棒を指で抓み、唾液に濡れたそれを引っ張りだした。
 薄い紅色の、楕円形をした厚みのないキャンディー。垂れた雫を伸ばした舌で受け止めた彼は、再びそれを口に押し込んでもごもごと動かした。
 そういう風に舐めている姿を見ていると、アジトに置いてきた小さな子を思い出す。目が覚めて皆が居ないと知ったら、寂しがって泣くだろうか。
 出発前に、眠っている時でもいいから、抱き締めてくれば良かった。スパナの声が十年後のランボに少し似ているから、余計に思い出してしまって、綱吉は口篭もる。
 珍妙な沈黙がふたりの間を流れて、空っぽのカップの底ばかり見ていた綱吉は、やがて居心地の悪さから身を捩って顔を上げた。
 そこには変わらず、スパナの顔がある。
「あの、えっと」
「なに」
「いえ、やっぱりなんでも」
 何か会話を、と思ったが格別言いたいことも見付からない。聞きたい事は沢山あったが、頭の中の整理がつかない状態で喋っても、支離滅裂になってしまうのは目に見えている。
 距離を狭めて綱吉を覗きこむ彼から逃げ、肩を引いて姿勢を低く。動く最中に手錠が擦れる音が響いて、金属の重みに目を向けた彼は、スッと離れていった彼に慌てて顔をあげた。
「飴、食べるか」
「は?」
「なにがいい」
 そうしてやおら聞いたスパナの質問事項に、目を丸くする。
 しかも欲しいと言った覚えはないのに、綱吉が食べるものと勝手に決め付けられていた。思い込んだら一直線、とは少々違うが、自分の都合の良い風に解釈するところは、知り合いの誰かに似ていた。
「いや、あの。別に俺は」
「なにがあったかな」
「……人の話聞いてください」
 空腹で黙っていたわけではないのだが、一向にスパナは綱吉の言うことに耳を傾けない。立ち上がってそう遠くない棚に出向き、ごちゃごちゃに色々なものが詰め込まれているスペースから箱を引っ張り出す。
 一緒に引きずられた細々したものが、大量の埃と一緒に崩れて落ちていった。ガラガラと相当大きな音が聞こえて、思わず肩を竦めた綱吉ではあったが、スパナは慣れっこなのか平然としていた。
「なにがいい」
 窄めた首を伸ばして様子を窺えば、彼は箱の中を掻き回しながら上機嫌に聞いた。その微妙に子供っぽいところに綱吉は苦笑し、床の上に直接腰を落としたまま、僅かに首を左に倒した。
 警戒するだけ無駄な気がする。そう思うと急に疲れてしまった。
「苺」
「フラーゴラか」
 何気なく、深く考えもせず、思い浮かんだ味を口に出す。スパナは即座にイタリア語に変換して呟き、箱を覗き込んだまま綱吉の傍まで戻って来た。
 なかなか見付からないのか、手はずっと四角形の箱の中。底に指が着くくらいまで深く埋めて、溢れ出しそうな中身を引っ掻き回し、浮き上がったものをひとつずつ抓んで色を確かめているが、彼の眉間の数を増やす一方だ。
「これは違うな、こっちも」
「あの。別に、無かったら他のでも」
 そんなに真剣に探して貰うのも、心苦しい。特別苺味が好きというわけでもないので、それ以外は嫌だと我侭を言うつもりも無いのだが、スパナは矢張り、聞く耳を持たなかった。
 膝を折り、綱吉の前にしゃがんでぶつぶつ言いながら、ついには痺れを切らして箱の底を掴むと天地を逆にして高く掲げた。
 当然重力に導かれ、納められていた棒つきキャンディーの大群は床に散らばった。綱吉の足まで飛んできたそれは、拘りなのか全部同じ銘柄だった。
「リモーネ、アランチャ、ラッテ、ウーヴァ……」
 記号めいた単語を並べ、スパナは節くれだった指で飴を種類別に選り分けていく。だが鮮やかな紅色は何処に隠れてしまったのかどうしても見付からず、彼は苛立ちに紛れて奥歯を噛んだ。
 巻き込まれた飴もまた、一緒に砕かれる。バキっ、という音が聞こえた気がして、綱吉は五つ程のグループが形成されていた床から顔を上げた。
 スパナが、視線を宙に浮かせてきょとんとしていた。
「あの?」
「……口開けて」
 その顔があまりにも間抜けだったから、どうしたのかと不審に思った綱吉が声をあげる。返って来たのは、短い命令だった。
 咥えていた棒を引き抜いたスパナが、歯型がついて折れ曲がっているそれを手の中で転がす。
 いきなり、なんだろうか。怪訝に顔を顰めた綱吉だったが、少しでも反抗の意思を見せると拳銃をちらつかされるので、仕方なく言われた通りに口を開く。スパナはそんな綱吉を前に見据え、舌の上で転がした欠片を先端へ移動させた。
「ん」
「ん?」
 鼻から息を抜き、上半身を前方に伸ばす。待ち構える綱吉が、なにやら様子が可笑しいと気取るより先に、唇を割った彼の舌が綱吉に触れた。
 甘い苺の、微かな匂いが。
「んんー!?」
 するりと舌先を抜け、喉へと落ちていった。
 ごくん、と飲み込んでしまった綱吉が、最後に上唇を舐めていったスパナを呆然と見上げ、瞬時に両手で突き飛ばして距離を稼ぐ。だが動揺が強すぎて事は巧く運ばず、即座に姿勢を立て直した彼は平然とした様子で舌を出し、そこに残っている飴の欠片を指差した。
「まだいる?」
 口を開けたまま器用に言い、意地悪く目を細める。
 綱吉がぶんぶんと飛んでいきそうな勢いで首を振る様を楽しげに笑い、スパナは最後の苺味を思い切り噛み砕いた。

2008/04/30 脱稿