入道雲

 真っ青な空に、モコモコと白い雲が、さながら綿菓子のように膨らんでいるのが見えた。
 地表に吹く風は温く、湿気を伴ってもれなく肌に張り付く。鬱陶しいばかりの高温多湿ぶりに辟易して、肩を竦めた彼はふっと短く息を吐き、蜃気楼を漂わせるアスファルトの大地に目を眇めた。
 今日も暑い。
 最高気温は三十五度を越え、猛暑日という名称もそろそろ聞き飽きた。日が暮れてからも蒸し暑く、熱帯夜の記録は現在進行形で更新中だ。
 恐らく今夜も、その記録は伸びるだろう。左手を額に翳し、直射日光を避けて視線を上げた彼はややしてから力なく首を振った。
 太陽が高い位置にある為、地面に伸びる影もまた短い。身体を休める為に日陰を探しても、住宅地のど真ん中ではそんな好都合な場所、そうそう簡単に見付かるわけはなかった。
 このままでは焼け焦げて、消し炭になってしまいそうだ。乾いた咥内に唾を呼んで飲み込み、一時的に喉を潤した彼は、こめかみを伝った汗の感触を嫌い、首を振った。
 汗を吸収した黒髪は毛先だけが湿り、肌に貼りついて気持ちが悪い。白いシャツの背中一面も汗に濡れ、身体のラインをありありと浮かび上がらせていた。
 肩を引き、半袖で汗を拭う。仕草の最中で吸い込んだ空気は、少々汗臭かった。
「喉が渇いたね」
 ぽつりと呟き、言葉にした途端余計に強く意識させられて暑さに喘ぐ。炎天下は休まる事無く、この陽気の所為で外出する人も少ない。
 道の両脇には一戸建ての住宅が、分厚い壁に区切られて並んでいるものの、人の気配は薄く、遠い。まだ明るい昼間でありながら、ゴーストタウンの様相を呈していた。
 人気の無い道路に肩を竦め、頭上を仰ぎ見る。西の空から徐々に範囲を広げつつある入道雲に気付いた彼は、その高さと大きさに眉目を顰め、体内の熱を息と一緒に吐き捨てた。
「確か」
 この辺りには、あの赤ん坊の家があったはずだ。
 ぐるりと周囲を見回し、代わり映えのしない面白みに欠けた灰色の景色を一通り眺めた彼は、進行方向を定めると小さく頷き、革靴の底でフライパンが如く熱を放っているアスファルトを叩いた。
 足早に、まとわりつく温い空気から逃げるようにして歩き出す。
 自分の足音だけを聞きながら、睫に滴る汗を追い払い、黙々と進むこと数分。その他大勢の一戸建てとなんら変わらない、平凡すぎて特徴を見出すのが難しいオレンジの屋根の家の前で、彼は漸く足を止めた。
「……」
 長く息を吐き、一緒に顎を伝った大量の汗を拭う。額に張り付いた前髪を後ろへ梳き流して肩を二度上下させ、彼は塩辛い唇を舐めた。
 視線は門柱に埋め込まれた二文字の表札から、閉まっている門扉へ移り、続いて左へ。猫の額ほどしかない狭い庭に、水色の物干し竿がふたつ、平行に並んでいた。
 片方には真っ白いシーツが干され、もう片方にはこの家の住人の衣服が。
 彼は小刻みに息を吐いて上昇していた心拍数を平均値まで戻し、ぐっと喉に力を込めて首を上向けた。
 住宅の屋根に阻まれて見えづらいが、入道雲は少しずつ、にじり寄る形でこの街に近付いていた。
 彼は首に角度を持たせたまま身体ごと反転し、立ち止まった家の二階を見た。軒先に吊るされた水色の風鈴は、風が吹かない所為で今は沈黙している。心なしか、風鈴さえもがこの高気温にやられ、参っている風に映った。
 ベランダの手摺りが邪魔で窓は下側三分の二以上が見えない。ただサッシの上辺ぎりぎりは辛うじて見て取れて、窓が開け放たれているのは分かった。
 道路を歩いていると、家々の冷房装置が稼動しているのか、昼間から排気ダクトが轟々とうなり声を上げているのも珍しくないというのに。
「なら、いるね」
 ついでに、窓が開いているという事は、家人が誰かひとりでも中に居るという事だ。
 彼は嘯き、不敵な笑みを口元に浮かべて試しにペンキで塗られた門扉に触れた。しかしこの炎天下、鉄製のそれは凄まじいまでに太陽熱を吸収していて、此処に卵を落とせば目玉焼きが作れそうなくらいだった。
 あまりの熱さに彼は肩を窄め、咄嗟に手を放して広げた自分の手に視線を向けた。火傷をするほどでもなく、指先に色などで特に目立つ変化は現れていない。しかし一瞬感覚が麻痺して、ひりひりとした衝撃を受けたのは確かだ。
 出入りを拒まれているようで、気に入らない。彼はあからさまにムスッとした表情を作って瞳を顔の中央に寄せ、唇を尖らせて門扉の構造に目を走らせた。
 四角いフレームの内側に、強度を補強する意味合いと飾り的な役割の両方を担わせて、ほぼ中央で横に一本、縦に等間隔で四本の細い柱が並んでいた。そっくり同じ構造が、観音開きになるように設置されている。右側にだけ取っ手がついていて、それを捻れば内側で簡単な施錠が外れるようになっていた。
 門扉の大きさは胸の高さ程度。中央で横たわる支柱は、太股の辺りに。
「ふぅん」
 生意気な、と彼は悪態をつき、徐に右足を持ち上げた。
 膝を高く掲げ、靴の先を門扉の隙間に強引に捻じ込む。
 ちょっと熱いのを我慢して、取っ手を回して開ければ良いだけの話だ。しかしそれでは、なんとなく負けた気がして癪に障る。こういうものは屈服させてこそだ。
 彼は右足が狭く細い柱の上で安定したとみると、深く嵌りすぎて抜けなくなる前に左足で地を蹴った。
 手は一切使わず、脚力にものを言わせる。ふわりと浮き上がった身体を上に運び、とんっ、と軽い仕草で彼は人様の家の門を楽々と乗り越えた。
 左足の裏が門扉の真上に止まると同時に右足を引き抜き、前に繰り出して地面へと。ものの五秒と掛からず、彼は敷地の外から中へ移動を果たした。
 蹴られた鉄門がキィキィと鳴って、乱暴な彼の所作を声高に咎めるが聞く耳を持たない。やがて自然と静かになるのを待ち、右の靴の側面に溝の痕が薄く残ってしまったのだけを気にして、彼は石畳ならぬブロック畳で彩られた玄関への道を前に見た。
 しかしよくよく考えてみれば、彼はこの細く短い道を進んだ事がなかった。呼び鈴は何処だっただろうかと探して、もしドアを開けて出てきたのが彼でなかった場合の事を考えると躊躇が挟まる。部屋の窓だけ開けておいて、本人が不在という可能性も、無きにしも非ずだ。
 ここは矢張り、本人の部屋に直接乗り込んで在、不在の確認をしてからにしよう。そう考えを改めると、彼は首を巡らせ、腰に押し当てた両手を脇に垂らした。
 先ほど門扉に触れた時の熱を思い出し、またピリピリ引き攣った人差し指を見下ろす。ぎゅっと握って感覚を取り戻すが、同じ轍を踏むのだけは回避したいところだ。
 防護布を持たない両手は極力使わない方向で、道筋を考える。普段この家の二階に侵入するときは、庭と道路を隔てるブロック塀から庭の木に、そこから直接ベランダに飛び移っているのだが、それには腕の力に頼らなければならないので、今回は使えない。
 なにか踏み台に使えるものはないだろうか、と彼は視線を上下左右に揺らしながら玄関前を外れ、日光を吸収して皺を伸ばしている洗濯物の前を行過ぎた。
 リビングの窓にはカーテンが引かれ、こちらの窓は閉まっていた。中の様子は窺えず、これでは人が居るかどうかも解らない。
 一瞬だけ風が吹き、彼の前髪を揺らした。背後のシーツが重そうに裾を揺らし、ちりん、と軽やかな音が耳朶を打った。
 思わず目を丸くして顔を上げた彼は、ベランダの底が邪魔をして見えない場所に思いを馳せ、一秒でも早くそこに辿り着く方法を探すべく庭を横断した。
 庭の端に到達すると、流石に隣の家が日光を遮ってくれるので日陰の範囲が増え、気温も僅かながら下がった。蒸し暑さは相変わらずだが、直射日光を浴びなくて済むだけでも有り難く、彼はほっと息を吐いてシャツの襟を数回引っ張って揺らし、きっちり上まで絞めていたネクタイを緩めて喉元のボタンをひとつ外した。
 手で扇いで風を作り、一度だけ咳き込んでから緑の草が生い茂る一画を眺める。恐らく家庭菜園を試みたのだが、途中で手入れを怠り、雑草が生え放題になってしまったので面倒くさくなってそのまま放置、という手順を踏んだのだろう。
 頑丈に伸びる青臭い草を靴の先で蹴り、彼は視線を持ち上げて此処から屋根までの高さをざっと計算した。二メートル少々、道具を使わずに跳んで移動するのは流石の彼でも不可能だ。
 濡れ縁からでは、軒が邪魔をして上れない。隣家との境界線を担っているブロック塀に飛び乗り、そこから屋根に移動、ベランダに着地して窓、というコースが一番簡単で、かつ確実に思われた。
 問題は、二メートルはあるブロック塀にどうやって飛び乗るか、だ。
 手を使えば簡単なのだが、今回は使わないという制限を設けている。長時間日陰にあった目の前の塀は、南向きの門扉よりも冷たかろうが、今更前言撤回するのもなんだか格好悪い。
 彼は鷹揚に頷くと、ブロック塀の表面を上から順に目で追って、足場に出来そうなものを探して右足を浮かせた。
 青葉をいっぱいに広げている植物の隙間に、半分以上埋もれた蛙の置物があった。陶器製で、高さは三十センチほど。仲間らしき十センチ弱の大きさのものもふたつ、一緒になって横一列に並んでいた。
 半端な擬人化が施されており、垂れ下がった目尻に愛嬌がある。ただ長い間忘れ去られていたからか、窪みには土が流れ込み、水垢が表面を覆っていた。
 彼はその、パイプらしきものを咥えている一番大きな蛙に被さる葉を足で退け、頭部分に土踏まずを置いてごろん、と自分の方に向けて転がした。固定されていないので簡単に動き、蛙の置物は顔から地面に落ちて横向きに転がった。
 尻の周囲には濃い色をした土がこびり付き、隠れていた虫が慌てて逃げていく。それらに見向きもせず、彼はもうひとつ、今度は横に置物を転がし、上に来た蛙の腹に靴底を押し付けた。ぐいぐいと踏んで地面にめり込ませ、最後に二度、踏み応えを確かめて足を上下に動かす。
 次にコンクリートブロック塀を正面に見据え、彼は長年の風雨に晒されて若干ざらついているものの、垂直に切り立って聳える表面に眉目を顰めさせた。
 置物を踏んだ足を持ち上げ、地面に対して直角に足首を折り曲げる。靴底を押し付けると、溝に嵌っていた土がボロリと零れて落ちた。
 土踏まずから指先に掛かる一帯に力を込め、身体を前に傾けてみる。しかし踏ん張りは利かず、一秒としないうちに足は膝よりもずっと低い位置にずり下がっていった。
「どうしようかな」
 ひとり呟き、空を仰ぐ。迫り来る入道雲はもう少しで太陽を覆い隠し、地上への光を遮るだろう。風鈴がまた鳴って、ワンテンポ遅れて彼の襟足を風が撫でていった。
 間抜け顔を上向けている蛙と、微細な凹凸しかないブロック塀。両者を交互に二度、順番に見詰めた彼はやがて諦めたように肩を落とし、緑色の置物を爪先で蹴り飛ばした。
 背中が下に来ていたものを、本来あるべき形に――即ち、倒したものを起こす。
 再度地面に埋め込んで足場を固定した彼は、頭上から落ちた影に目を細め、額に落ちる前髪を脇へ払いのけた。
 右腕の腕章を揺らし、二歩ばかり後退する。一発で成功しなかったら格好悪いな、と心の中で光景を想像し首を振り、彼は乾いた唇に舌を一往復させて舐めた。軽やかに鳴り響く風鈴と、その窓の向こうに居るだろう姿を想像して、静かに目を閉じる。
 助走はしない。その代わり身体の全神経を足に集中させ、バネを最大限に利用し、彼は思い切り、蛙を踏み砕く勢いででっぷりとした腹を蹴り飛ばした。
 宙に浮く。流されぬように両手を広げてバランスを取った彼は、僅かに足りない高さに奥歯を噛み、残る距離を補助すべく爪先で垂直に切り立つ壁を蹴った。殆ど力業で、強引に上半身を塀の上へ運び込む。
「くっ」
 しかし下に伸びきった右足が残されてしまい、左足だけでは着地した直後のふらつく体を支えられない。咄嗟に彼は両手を真下に突き出して十センチ程度しかないスペースを左右から挟み持ち、ずり落ちかけた下半身を寸前で押し留めた。
 踵が外れた靴が脱げそうな状態で、右の爪先に引っかかってぶら下がる。ここで落としたら元の木阿弥で、彼は慎重に膝を曲げて猫の姿勢を作り、体を起こすと同時に靴をしっかり履き直した。
「まあ、これくらいなら……しょうがないね」
 使わないと決めていた両手を使ってしまったが、ブロック塀に移動を果たしてからの使用なので、まだ許容範囲だろう。塵が付着した手を叩いて汚れを落とし、急に広がった視界に首を振る。雲は範囲を広げ、太陽を飲み込もうとしていた。
 犬の鳴き声がして、何事かと思えば鎖に繋がれた隣家の飼い犬が、突然現れた雲雀に驚いて吼えていた。
「五月蝿いよ」
 確かあの子は、犬が苦手だった。
 そう考えると急に地上に居るすべての犬が憎らしく思えてきて、彼は瞳に険を含ませ、凄む目つきで高い位置から喧しく騒ぐ犬を睨み付けた。
 目が合う。距離はあったが、瞬間、彼の怒りを悟った犬は見る間に大人しくなり、尻尾を巻いて青い屋根の小屋へ逃げ込んだ。
 再び周囲は静かになり、ちりん、という軽やかな風鈴の音だけが彼の耳に流れ込んだ。
 暗がりの中に引き篭もり、頭も出さない犬に満足げに笑んだ彼は、狭い足場で器用に百八十度向き直り、近くなったオレンジの屋根を間近に見た。
 もう飛びあがらずとも、軒先に充分足が届く。彼は大股に左足を先に踏み出し、体重を預けても崩れ落ちないかどうかだけを確かめて、重心の位置を置き換えた。
 右足も屋根に載せ、移動を完了させる。五十度近い勾配のある屋根をゆっくりと進んだ彼は、頂点に至る少し手前まで歩を進めた後、ぽっかり開いたベランダの灰色を下方に見た。
 風鈴が吊されている庇の真上まで移動し、両足を揃える。正面は南で、入道雲は南西から幅を利かせて、今や空の三分の二を白く塗りつぶしていた。
 太陽は姿を隠し、薄暗さが増した。
「もうじきだね」
 頬を撫でる風が含む湿り気と温度の変化を鋭敏に感じ取った彼は、短く言葉を発し、何もない空間に右足をゆっくり突き出した。
 体が沈み、左の膝が曲がる。斜め下を向いた右足の先が支えになるものを何も見つけられないまま、彼の体はストン、と瞬きひとつの間にその場から掻き消えた。
 ちりん、と風鈴の音。
「うわぁぁ!」
 それは丁度、タイミング悪く、暗くなった空を気にした家主の少年が窓から外を窺っていた瞬間だった。
 急に上から落ちてきた巨大な塊に驚き、薄茶の髪を逆巻かせた少年は、目を剥いて後ろ向きに下がって、途中で床に積み上げていた雑誌の山に踵を乗り上げた。あって無いに等しいバランスは呆気なく崩れ、どすん、という大きな音と共に尻餅をつく。
 驚かせてしまったことに驚き、彼は一旦低くした体を伸ばして振り向いた。衝撃を吸収させた膝を労ってから横長の窓に肘を置いて中を覗き込めば、フローリングで足を投げ出した沢田綱吉が、人に向かって指を突き立ててわなわなと震えていた。
 ハーフパンツから覗く脚が見事に肩幅に開いており、そんなはしたない格好をするなと眉間に皺を寄せて注意をすると、綱吉は瞬時に顔を真っ赤に染めて慌てて膝を閉じた。
 それから、
「ひ、ヒバリさんこそ、変なところから現れないでくださいよ!」
 ハッと我に返って怒鳴った。
 雲雀とて、まさか彼が窓辺にいるとは思っていなかった。その点の非は認め、肩を竦めた雲雀はのそのそと起き上がった綱吉を視界の中心から外し、背後の空を仰ぎ見てやおら両手を窓枠に引っ掛けた。
 ぺたんと腰を落として床に座りこんでいる綱吉が、再度ぎょっとして全身を強張らせる。
「ヒバリさん、ちょっと、なに」
「雨宿りさせて」
「雨なんか降ってないじゃないですか」
「降るよ、もうじき」
 部屋の主の断りなく、毎度恒例ながら窓から侵入しようとする雲雀に慌てた綱吉が飛び上がり、彼が口にした滅茶苦茶な理由に顔を顰めた。
 窓の外では尚も暗がりが広がり、気の早い日暮れが駆け足でやって来て並盛の空を覆った。確かに雲雀の言う通り、一雨来そうな色をした雲ではあるが、さっきまであんなにも気持ちよく晴れていただけに、俄かには信じ難い。
 頬を膨らませた綱吉だが、どうせ言ったところで出て行きはしないだろうと諦めの境地に突入し、ついに土足のまま床に上がりこんだ雲雀に盛大に肩を落とした。
 指で指し示して、言葉は介さずにジェスチャーだけで脱ぐよう言いつけ、窓辺に立つ彼の方へ静かに歩み寄る。
 風鈴が重い音を響かせ、肌を撫でた冷たい風に綱吉は身震いした。
「あれ……」
「庭の洗濯物、今のうちに取り込んだ方がいいね」
 薄く浮き上がった鳥肌を撫で、上腕をさすった綱吉の独白に雲雀は気付かない。ベランダ越しに微かに見えるシーツの揺れは大きくなり、風鈴が鳴り響く音も間隔を短くして、煽られる短冊は忙しそうだった。
 黒髪を嬲る湿った空気に髪を掻き上げ、雲雀は脱いだ靴を渡そうと綱吉に向き直る。けれどぼんやりしている彼はすぐに気付かなくて、空振りした雲雀の左手が下へ落ちた。
 直後。
 ピカッと上空に閃光が走った。
「うっ」
 遠い。しかし予想していなかった為に身構える暇もなく、窓ガラスに反射した眩い光に目を閉じた綱吉は、咄嗟に肩を強張らせて目を閉じ、首を亀のように引っ込めた。
 窓に背を向けていた雲雀も、影のない室内に一瞬だけ浮き上がった自分の姿に驚く。何かに背中を押された気がして、彼は靴下を履いた足を滑らせ、綱吉との距離を僅かばかり詰めた。
 五秒となかったはずだ。
「う……わぁぁぁ!」
 今度は大地を劈く轟音が鳴り響き、一斉にふたりへと襲い掛かる。鼓膜を強打した激震に綱吉が裏返った悲鳴をあげ、竦んだまま飛び上がって両手を広げた。
 思わずその場にあったものにしがみつき、顔を埋めて落雷が終わるまでの短い時間を耐え忍ぶ。
 ゴロゴロと地球全体を揺らすような音はいつまでも耳の奥に残り、奥歯を噛み締めて堪えていた綱吉は、ひとつ咳き込んだ後に止めた呼吸をどうにか再開させた。途端、鼻腔を擽った汗臭さに眉間の皺を深くする。
 きつく閉ざしていた瞼を広げ、目の前が自分の影で暗くなっていることに気付く。密着させた肌から伝わる熱は温かく、逆を言えば暑苦しい。
 状況を思い出そうとして瞬きを繰り返し、前に倒していた姿勢を真っ直ぐに戻す。浮いていた踵を床に降ろすと、窓の向こうで降り始めた雨の細い線が見えた。
「え……と」
「今日は妙に積極的だね」
 戸惑いがちに視線を泳がせ、今しがたまで自分が支えにしていたものを見やる。綱吉に靴が当たらないよう左肩を高くした雲雀が、楽しげな笑みを浮かべて彼を見下ろしていた。
 ぼたぼたと軒を叩いて降り注ぐ雨が、風に流されて窓から室内に紛れ込もうとしている。だのに綱吉は雲雀の腰に手を回した状態から動けず、状況を把握するにつれて赤らんでいく顔に潤んだ琥珀を双つ浮かべ、横に引き結んだ唇をもごもごさせた。
 そんなつもりじゃない、と言いたいのに未だ雷に驚いた衝撃から抜け出せず、声が出ない。そうこうしているうちにまた窓の外で閃光が走り抜け、さっきよりもずっと近い場所に凄まじい爆音が轟いた。
「ひゃぁぁ!」
 再度悲鳴をあげ、綱吉は雲雀に飛びついた。
 突然の豪雨に気付いた奈々が慌てて庭に飛び出し、干していた洗濯物を回収する声が雨音に紛れて遠く聞こえる。冷房を入れたリビングで昼寝をしている子供たちも、流石に飛び起きたのではなかろうか。
 ビリビリと窓を震撼させた衝撃は通り過ぎたが、一度力んだ筋肉はなかなか緩まない。苦しい、と上から言われるまでぎゅっとしがみついていた綱吉は、その声で我に返ってハッとし、大慌てで後ろへ飛びずさってそのまま仰向けに転んだ。
 またしても尻餅をついた彼に、今度こそ呆れて雲雀が肩を竦める。
「良い眺めだけどね」
「そういう発想やめてください!」
 膝を広げて座る姿勢を上から眺めるのも悪くないと、親父臭い事を平然と言い放った彼に真っ赤になって怒鳴り、綱吉は即座に脚を閉じて背中を丸めた。
 肩に冷たい雨を感じ取った雲雀が、憤慨して頭から湯気を立てている綱吉に目を細めてから斜め後ろの窓に向き直る。右手で閉め、濡れてしまった床を避けて蹲っている綱吉の傍に寄り、俯いている頭を軽く小突いた。
「雨宿り、させてもらうよ」
 ガラスの窓を隔ててもはっきりと聞こえる豪雨は、一瞬で世界を激変させた。視界は濁り、見通しは悪く、横殴りの風と響き渡る雷鳴も相俟って、とてもではないが、出て行けとはいえる状況ではなかった。
 口惜しげに唇を噛んだ綱吉に睨まれるが、簡単に無視して雲雀は左手に持ったままの靴を差し出した。
「ん、もう!」
 どこまでも横暴なのかと憤ったまま、綱吉は横薙ぎにその靴を掻っ攫い、胸に抱きこんだ。唇を尖らせ、渋々ながら立ち上がる。
 入れ替わりに雲雀が座り、胡坐を崩した姿勢で綱吉を見上げた。
 目が合い、笑いかけてやれば彼の顔はまた赤く染まった。
「雨宿りだけですからね!」
「分かってるよ」
 雨が止んだら直ぐに出て行けと強い口調で言って、腹立たしさを隠しもせずに足音響かせてドアへと向かう。見送る体勢に入っていた雲雀は即座に頷き、段々と勢いを増す雨の動向を窺って窓に顔を向けた。
 ドアを開ける音を背中で聞く。しかし続くはずの、綱吉が廊下を進む足音、及びドアを閉める音はなかなか訪れなかった。
 変に思って腰を捻り、後ろを見る。綱吉はドアノブに手を置いたまま、身体半分だけ廊下に出し、戸惑い気味に視線を泳がせていた。
 どうかしたのかと目で問いかけ、雲雀が首を傾げる。
「えと、あの……麦茶でいいですか」
 目をそらしたままぎこちなく問われ、一瞬きょとんとした雲雀はすぐさま口元を綻ばせた。
「よく冷えた奴ね」
 太々しく言って頷き返した彼に、綱吉は肩を竦め、やっと、笑った。

2008/07/31 脱稿