呼号

 授業中、ふと持ち上げた視線。教科書片手に黒板に向かって一心不乱に書き込んでいる先生の背中が先ず見え、次いで等間隔で居並ぶ机に腰掛け、いずれも猫背気味にノートをとっているクラスメイトの姿が見えた。
 教室最後部中央に居座る山本は、自分の集中力が音もなく途切れたのを感じ、握っていたシャープペンシルを転がして広げた手をノートに押し当てた。
 乾いた紙の表面を指でなぞると、汗ばんでいた肌の所為で書き込んだ黒炭の文字が滲んでしまう。裏返してみれば指紋の隙間に黒色が潜り込んでおり、しまったと小さく舌打ちした彼は、やる気が戻るまでの辛抱と頬杖をつき、欠伸を噛み殺した。
 山本はこのクラスで最も背が高い。視力も良い。彼が前の席にいると後ろの生徒は黒板が見えなくなる、という理由で彼は席替えをしても大抵一番後ろに机を置かれてしまった。だから教室全体がちょっと背筋を伸ばすだけで実に良く見える。今も、それは同じ。
 一段高くなっている黒板前では、先生が書き疲れた肩を慰めてまた直ぐに続きを書き込み始めていた。あまり論説を展開せずに、教科書丸写し気味の勉強方法を推奨するこの先生のテストは、故に百問穴埋めなんていう暗記系が主体で、山本は苦手だった。
 授業も退屈、眠くなる。けれどノートを取っておかないと、後々テスト前に悲惨な思いをするのも分かっているので、皆必死だ。
 カリカリとシャープペンシル、もしくは鉛筆を動かす音ばかりが聞こえる。このリズムが、余計に山本の眠気を誘う。
「やっべ」
 口の中で小さく呟き、山本は次第に沈んでいく自分の意識を懸命に奮い立たせ、真面目に授業を受けようと手放したペンに指を伸ばした。
 ふわり、甘い匂いが鼻先を掠めた。
「……ん?」
 それが気のせいでしかないのは重々承知で、山本は自分の直感だけを信じて再び顔をあげた。眠たげに目尻を擦り、黒板の端から端まで文字で埋め尽くした先生が満足げに振り向く様に慌てて下を向く。
 教卓を叩いて音を響かせた先生が、朗々と、これもまた眠気を誘う低音で解説を開始し、終えた部分から順に消していく。書き写すペースが遅い生徒の何人かが色めき立つのが分かり、山本は右手でシャープペンシルを遊ばせながら、右から左へ目線を流していった。
 廊下側の後ろよりの机で、堂々と居眠りをしている生徒がいる。規定の制服を見事なまでに着崩し、シャツの裾はだらしなく外へ出してベルトには銀のチェーンをじゃらじゃらと。指にもロック歌手が好みそうなごてごてした指輪を幾つも装着し、それではグローブを嵌められないなと山本は自分を基準にものを見て苦笑した。
 一時間目が終わってから教室に姿を見せたと思ったら、そのまま教科書を開きもせずに居眠りに突入。転校してきた当初は散々生活態度を注意された獄寺だが、成績が割りと良いことと怒らせると何をするか分からないという面から、最近の教師達は彼に対し、色々と諦め気味だ。
 俺もあれくらいやってみたい、と羨ましさを覚えて山本はこみ上げた笑いを堪えた。指で唇を押さえて肩だけ小刻みに震わせ、声が出そうになるのを押し留める。
 けれど正面向き合わせる格好になっていた教師には丸見えで、
「山本、何笑ってる」
「すんませーん」
 教科書を置いた先生に見咎められ、彼は舌を出して間延びした声で謝罪した。
 クラスメイトの半分ほどが顔を上げ、振り向いて怒られた山本を見てクスクスと忍び笑いを零す。静かだった教室がにわかにざわつき、注目を浴びた彼は照れ臭そうにしながら頭を指で引っ掻いた。
 ゴンゴン、と二度、教卓を叩いて先生は音を立て、浮き足立った教室が静まるよう無言の圧力を仕掛けてくる。ハッとしたクラスメイトは一斉に表情を引き締め、前に向き直って消されて行く板書を必死にノートへ書き写しにかかった。
 山本もばつが悪い顔を正し、椅子の上で居住まいを正してシャープペンシルの先を罫線が引かれたノートに押し当てた。ただ視線は宙を彷徨い、目指すべき黒板を避けて通る。
 騒ぎの最中でも獄寺は眠ったままで、堂に入った態度にはむしろ尊敬の念さえ抱いてしまう。凄いよな、と感嘆した山本はそこで左に目線を移し変え、窓辺の席でぼんやり虚ろに外を眺めている背中で留めた。
 薄茶色の髪、重力の法則を無視して天を目指す毛先は、実は見た目程硬くない。丸っこくて大きな目は机の位置の関係で山本からは見えず、それがとても残念でならなかった。
 なで肩は細く、華奢。中学生の平均身長のずっと上を行く山本からすれば、その平均を下回る彼はとても小さい存在だった。体重も軽い、頑張れば片手で抱えられるとも思う。
 左肘を立てて頬杖をつき、半分だけあけた窓から吹き込む風に毛先を揺らしている。多分、先ほど感じ取った甘い匂いは、あそこから紛れ込んだものだろう。
 山本は目を眇め、外を見ている綱吉の背中をじっと見詰めた。
 端まで消し終えた先生が、反対側へ戻ってまた細かく大量の文字を書き始める。再び教室内に鉛筆が紙面を走る音が重なり合い、ワンテンポ遅れて綱吉も、お気に入りなのだろう、手の中で遊ばせていた赤いシャープペンシルを握り直した。
 平和な光景だった。
「えー、この時代のイギリスはだな」
 山本はノートを取るのを諦め、小さく欠伸を零すと、頻りに顔を上げては伏し、黒板と手元の間で視線を行き交いさせる綱吉の観察を開始した。
 本当は獄寺の真似をして机に突っ伏したかったのだが、そうすると視線は下向いてしまうので綱吉が見えなくなってしまう。カモフラージュで背中は少し丸め、目立たないようにしながら、山本は左前ばかりを気にして、視界の上半分を邪魔する自分の黒髪を抓み、引っ張った。
 長くなって来たから、丁度良いしそろそろ切ろうか。油断するとすぐ伸びて、綱吉に巻けず劣らずのボサボサ頭になるので、そうなる前に手を打たなければ。今週末くらいに散髪屋に行こう、けれど近所のおじさんに頼むと丸坊主を勧められるから、行き先に迷う。
「せめて五分刈りだよなあ」
 ちんちくりんのつんつるてん、青白い肌が丸見えの坊主頭はさすがに遠慮願いたい。自分のそんな姿を想像して相好を崩した山本は、また教師に見付かるところで慌てて顔を下向けた。
 勢いが余り、額が机にぶつかる。音は自分の周囲にだけ響いて、隣の席の女子が驚いた顔をしたが、山本はなんでもないとその場を取り繕って赤くなった肌を手で隠した。
 誤魔化し笑いを表情から消し、息を潜めて再度斜め前を見る。ノートを執る作業はひと段落したようで、ホッとした顔の綱吉が右肩を回し、左手で揉み解していた。
 振り向かないだろうか。神に祈るような趣味は無いが、思わず願ってしまって、山本は自分の陳腐さに自嘲した。
 しかし。
「ん~……」
 実際に声は聞こえなかった。けれど綱吉がそう呻いた気がして、山本は固唾を飲んで彼の動きを目で追った。
 綱吉は左肩も同じように回して両腕を真っ直ぐ上に伸ばし、筋肉の凝りを解きほぐして、首を回した。腕を机に下ろしてほうっと息を吐き、黒板を見て、それから右を向く。
 ゆっくりと巡らされる彼の視線の行方を想像し、山本はドキリと心臓を弾ませた。
 まさか祈りが通じたか。だらしなく頬杖ついていた姿勢を持ち上げ、腰が僅かに椅子から浮く。無意識に背筋を伸ばして見つけ易いように頭の位置を高くした山本だったけれど、綱吉の視線は彼に到達するより前に、別の場所で停止した。
 綱吉の机からはほぼ真横に当たる、廊下側の机。
 火事が起きても、地震が起きても起きそうにない獄寺を見て。
 しょうがないな、と言わんばかりの優しい笑顔を浮かべ、肩を竦めたのが分かった。
「…………っ」
 慄然とし、山本は息を止めた。
 綱吉はそんな彼の動揺など露知らず、顔を前向きに戻して黒板に書き足された文字に気付いて慌てて俯いた。山本は呆然としたまま動けず、全身を走った稲妻の衝撃から抜け出せずに、瞬きさえ忘れて凍り付いた。
 振り返らなかった綱吉から、獄寺を見る。今しがた綱吉が浮かべた笑顔さえ知らず、気付きもせず、のうのうと寝入っている男に怒りがこみ上げ、山本は突如叫びだしたい衝動に駆られた。
 温い風が吹く。握り締めた拳を机の上で震わせていた山本は、肌を撫でた感触にハッとして、綱吉の横の窓がさっきよりも開き加減を大きくしていることを知った。
 綱吉にとっては何気ない、誰かの為を思って取った行動ではなかろう。ましてや自分の為だなんて、考えるだけでもおこがましい。
 けれど山本は、意に反して激高していた心が急速に凪いでいくのを感じた。落ち着きを取り戻し、穏やかな気持ちで自分を冷静に見詰められるところまで降りていく。それと同時に、何故だか分からないけれど、泣きたくなった。
「あ、れ」
 いや、本当に泣いていた。
 理由は知らない。けれど右目にだけじんわりと熱が浮いて、自覚する前にポロッと零れ落ちる。頬を伝ったのはその一滴だけで、拭った手に残った湿り気に山本自身が一番驚き、広げた掌をぼんやりと見詰め続けた。
 だから山本は、誰かに呼ばれた気がして綱吉が一瞬振り向いたのを、知らない。
 琥珀色を瞳が俯き加減の山本の姿を映し出し、少し不思議そうに首を傾がせてから、何をやっていたのか後で聞こうと決めた綱吉の心の機微にも、気付かなかった。
 緩い風が吹きぬける中、退屈な授業は淡々と続く。
 三人が同じ教室にいて、机に向かって勉強をする。なんでもない、ごくごく平凡で面白みに欠ける日常が、まだこの時は当たり前のものとして彼らの周りには存在した。
 だから。
「…………」
 漸く終わった厳しい戦い。これでやっと平穏な日常に戻れると信じた朝、教室内にある空っぽの机をふたつ同時に見せられ、山本は立ち尽くした。
 突然いなくなった親友。理由も、原因も、事情も、なにもかも分からぬまま、部活もサボってあちこちを探し回った。
 何処へ行ったかなんて、当然知らない。綱吉と獄寺、そして綱吉の家に居候していたこまっしゃくれた赤ん坊が立て続けに姿を消した、ただその事実だけが山本に突きつけられた。
 母親に何も告げず、沢田家に居座る子供たちも知らないと首を振る。ハルや京子に聞いても返事は同じ、了平や、よもやと思い雲雀にも尋ねたが、彼らの答えはいずれも山本が望むものではなかった。
 突然、昨日まで普通に其処にいた存在が、消えた。
 何処かへ出かけるなんて話も聞いておらず、町を出たという目撃証言も無い。
 本当に、忽然と。
 いなくなってしまった。
 ゾッとした。
「なん、で……」
 声は掠れ、音にならずに消えていく。魂が震え、暗い穴倉にひとり閉じ込められたみたいな寒さを覚えた。
 だって、此処に居たのに。昨日までごくごく当たり前の日常を、一緒に。これからはまた前みたいに毎日が過ごせると信じて、そうなるように頑張って、辛い戦いを乗り越えてきたというのに。
 思い当たる節は、ひとつだけ。
 マフィアという、彼らのごっこ遊び。
「冗談だろ……?」
 呟き、片手で顔を覆う。指の隙間から覗く光は弱く、足元を這う蟻を彼は意味もなく踏み潰した。
 世界が闇に落ちていく。
 真面目に向き合おうとしなかったから、なのだろうか。けれど、だってそもそも、マフィアなんておかしいではないか。此処は日本で、平和で、穏やかで、テレビで取り上げられるような事件なんてひとつも起こらないで、毎日が平々凡々とした、つまらないからこそ面白い出来事を探すのが楽しい、そんな場所でしかないのに。
 犯罪の臭いを漂わせる単語は、おおよそ自分たちの生活に似合わない。だから遊びだと思っていた、言いだしっぺが赤ん坊だったから余計に。獄寺が毎回ムキになって否定していたけれど、綱吉はマフィアのボスなんてならないと言い切っていたから、そちらを信じた。
 確かに指輪争奪戦の時はちょっとばかり洒落にならない事に巻き込まれたと思ったが、自分が参戦することで綱吉に笑顔が戻るならそれでいいと、マフィア云々は他所に置いて、ただ綱吉の為だけに頑張った。
 その選択を、自分は間違ったとは思っていない。
 思うのに。
「ツナがいない」
 たったひとつの事実が山本の心を打ち砕く。
「ツナが、いない」
 彼だけではない。獄寺も、山本の前から姿を消した。綱吉を十代目と呼び、傍目から見ても鬱陶しいくらいに彼を慕って、付き従っていた獄寺がいない。
 綱吉は選んだのか。
「俺じゃなくて?」
 自分ではなく、獄寺を。負ければ後が無い戦いで無事勝ち残り、次に繋いだ自分よりも、無鉄砲に我武者羅に、心配する綱吉の気持ちを蔑ろにして死んでも勝つなんて馬鹿な格好つけようとして、結局這い蹲って負けて生き残る方を選び取ったような奴を、綱吉は。
 寒気がした。怒りから心臓が破れそうだった。
 自分がこんなにも欲深い人間だと初めて気付かされた。同時に、自分にとって沢田綱吉という人間がどんな存在であるかを、認識させられた。
 気付かされた。
 気付かなければ良かった。
 気付かないフリをしたままでいさせて欲しかった。
「なんで、だよ」
 夕暮れの公園でひとり立ち尽くし、長く伸びる影を踏みしめて呻く。赤く色付いた西の空を憎々しげに睨みつけ、山本は嗚咽を飲んだ。
 いない、何処にもいない。探しても見付からない。
「なんで俺を置いていくんだよ、ツナ!」
 人のいない公園、動く影は風に煽られた木々のそれくらい。帰り道を急がせるカラスの鳴き声が遠く響く、車のクラクションも別世界の出来事のように思えてなにもかもが虚しかった。
 慟哭し、叫び、山本は握り締めた拳で思い切り空を殴りつけた。
 置いていかれたという事実を認めたくなくて、山本は唇を噛み締めて走り出した。目的地は定めず、並盛の町を縦横無尽に、終わりが見えない迷路を当て所なく彷徨う。
 そうして見つけた綱吉は、たった数日の間にすっかり憔悴しきり、青褪めた顔をして山本に頭を下げた。
「ごめん」
 力なく告げられた、その言葉を。
 山本は喜びと悲しみと怒りと恐怖が入り混じる心で聞いた。
 包帯を巻かれ、三角巾で腕を吊るした綱吉は謝ったきり、俯いたまま。
 その日、朝飯もそこそこに、座って食べる時間も惜しんで家を飛び出た山本は、公園で同じく行方をくらませた綱吉たちの身を案じ、探すのに協力を申し出たハルたちと合流した。今日は何処を探そうかと相談し合っていた時に、いきなり目の前で爆発が起きて、気がつけば知らぬ場所。
 さっきまでいなかった獄寺がいきなり目の前に現れて、おまけに変な攻撃を食らって、逃げろといわれても状況は分からない。咄嗟に女子供を庇ってはみたものの、それ以外に自分は、何も出来なかった。
 連れて行かれたアジトだという建物で赤ん坊から聞かされた事の顛末も、到底信じられるものでもなくて。
「全部、本当なのか」
「……うん」
 たどたどしい問いかけに、躊躇を挟んで綱吉が頷く。下を向いた顔はその状態で停止し、視線は重ならなかった。
 直接床に座り、向かい合う。外向きに曲げた膝はあと数センチでぶつかり合うような距離、けれどその僅かな差がとても遠く感じられて、山本は言いかけた言葉を呑んだ。
 伸ばそうとした手を下ろし、自分の膝に重ねる。握り締めるとズボンの布が巻き込まれ、皺が増えた。
「ごめん、ね」
「ツナ」
 巻き込みたくなかったのにと、そう言葉少なに謝罪を重ねる綱吉の肌色は優れず、痛々しさばかりが目に付いて、山本は名前を呼びながら首を横へ振った。
 綱吉の手は胸元に、左右の指を絡めて結び合わせ固く握られていた。呼吸の間隔は短く、細い。血の気の抜けた指先が細かく震え続ける様は、とても見ていられるものではなかった。
 どうしてこんなことになったのか分からないと、綱吉が肩を引いて手を自分の身体に押し当てる。自分を小さくして丸くなり、外から己を守ろうとする彼の姿は、今此処にいる山本さえ拒絶しているように見えて、居たたまれなかった。
「ツナ」
 いなくなった彼を探し、この数日眠れない日を過ごした。
 漸く見つけ出した彼は、笑顔を忘れていた。
 導かれた未来だという世界は、彼らに限りなく残酷だった。
 名前を呼び、恐る恐る手を伸ばす。触れる。与えられた他者の熱に竦み、怯え、綱吉が大仰に体を強張らせたのが分かった。
 それでも構わずに山本は綱吉の手首を掴み、引き、後ろへ逃げようとする彼から強引に身の自由を奪った。膝立ちになりもう片手を真っ直ぐに伸ばす、綱吉の背に回す。
 抱き締めた。
「やまもっ――」
「ツナ」
 同じく膝立ちになった綱吉が山本の肩に手を置き、離れようと足掻く。けれど片手で楽々とその抵抗を封じ込め、山本は久方ぶりに間近に感じ取った綱吉の匂いに目を閉じ、唇を噛み締めた。
 小さくて、細っこくて、脆弱に見えて、けれど強い。眩しい。
 愛しい。
 何もかも投げやりになり、命さえ簡単に投げ出してしまおうとしたあの日、屋上から落ちる自分が見たものは青空の中で輝く琥珀だった。
 自分の命を投げ打ってまで守りたいと思える存在など、人生にそう、多くない。
「見つけた」
 暴れる綱吉を両腕で閉じ込め、見た目に反して柔らかい髪の毛に指を差し込む。そっと撫でて感触を肌で受け止め、山本はぽつり、溜息に混ぜて呟いた。
 自分ではなく獄寺を選んだのではないかと思った時、生まれて初めて、殺したいほどに人を憎んだ。どうして俺じゃなかったのかと、自分には何が足りなかったのかと、そればかりを考えた。
 置いていった二人を見つけた時、平静でいられるかどうかの自信も無かった。怖かった。もう以前のように三人で馬鹿をやって、肩を組んで笑えなくなるのではと。
 自分の居場所を見失って、空っぽになってしまった心に憎しみを満たすことでふたりの存在を補った。憎悪から強くふたりを意識する事で、彼らを近くに感じる方法しか思いつかなかった。
「やまもと……?」
 ぎゅっと小さな存在を抱き締めて、山本は動きを止める。必死に泣くまいと自分を律して、短い呼吸を繰り返す彼を怪訝に呼び、綱吉は抵抗を諦めて全身の力を抜いた。
 身を委ね、寄りかかる。そんなに長期間離れていたわけではないのに、もう一ヶ月くらい会っていなかった気がして、そう思うと胸が締め付けられるようだった。
「ごめん」
「謝んな」
「……ごめん」
「ツナ、よかった」
「やまもと?」
「良かった。会えた……お前に、また会えた」
 互いの肩に額を、顎を埋める形で抱き合っているので、顔は見えない。山本がどんな顔をしているのか、綱吉には分からない。
 けれどいつもよりトーンが高くなった声に感じるものはあって、綱吉は淡く微笑み、肩の上に添えるだけだった手を彼の首に回した。
 自分からも大柄の彼を抱き締め、心の中でだけ謝罪を――口に出したものよりもずっと柔らかな響きを含ませて――告げた。
 十年後の山本はすっかり大人になっていて、背丈も伸びて今よりももっとどっしり、がっしりしていた。頼もしさが増して、彼が居てくれればどんな状況だって平気だと思える空気も、昔と変わっていなかった。
 けれどその十年後の山本は、矢張り綱吉の知る山本武なる人物とは、別の人。
「俺も……会いたかった」
 ずっと不安だった。いきなり未来に飛ばされて、右も左も分からないまま、流されるほかなくて。ゆっくり立ち止まって状況を眺める余裕さえなく、自分の心の置き場さえ見つけられぬまま、緊張の連続で。
 力が抜けた。綱吉は呟くと同時にへにゃりと背中を丸めて小さくなり、山本の体温をもっと感じられるよう彼に擦り寄った。
「ツナ?」
「ごめんね、山本」
「だから、あやまんなって」
 甘えてくる綱吉の背中を撫でてやり、山本がさっきから同じやり取りばかり繰り返している状況に飽きて、拗ねた声を出す。
 綱吉だって分かっているのだが、他に言葉が出てこない。仕方が無いではないかと彼は肩を揺らし、笑った。
「ツナ」
「ん?」
 山本が座ったまま伸び上がり、身動ぎして背中を真っ直ぐに戻した。綱吉が腕を引き、山本との間に距離を作る。けれどそれは決して遠くなく、容易に手が届くとても近い距離だった。
 腰を落として座り直した綱吉が、呼びかけたまま次の言葉を紡がない彼に首を傾げる。大きな琥珀を丸くして、視界の中央に山本の姿を置いて、どうしたのかと問う目線を投げかけて。
 綱吉は頬を撫でた彼の手の大きさに、僅かばかり驚いてみせた。
「山本?」
 眇められた瞳は優しさに溢れ、同時に哀しげに揺らいでいる。今まで見る機会がなかった彼の初めての表情に綱吉は吐き出そうとしていた息を飲み込み、上擦った声で彼の名を刻んだ。
 温かな肌で左の頬全体を包まれる。下を向いた親指が綱吉の鼻筋を辿り、行き着いた膨らみに触れて一寸だけ躊躇した。
 唇の形をなぞり、彼の影が降りてくる。
 綱吉は瞬きを忘れ、山本もまた瞼を下ろすかどうかで迷い、結局ふたりして相手の目を見詰め合ったまま、生まれて初めてのくちづけを、交わした。
 一瞬だけ重なり合った吐息が乾いた肌を湿らせる。離れていく山本の顔を瞳で追って、数秒後、綱吉はやっと右手で唇に触れ、辛うじて残る柔らかな感触に目を瞬いた。
「え、……と」
 お互いに気まずい空気を感じ取り、言葉に困り、視線を泳がせる。綱吉は下を見て自分の口元を、山本は若干臆し気味に上を見て後頭部を掻いた。
 自分たちは今、何をしたのだろう。知っているし、ちゃんと分かるのに、理解が追いつかなくて綱吉は確かこれはキスというものではなかっただろうか、と他人事のように考えた。
 山本も山本で、自分が起こした行動に驚きを隠せず、しかも綱吉の反応が極端に薄いことにもいくらか傷ついて、この先の展開に困って両手で頭を抱え込んだ。
「なんか、なんだ。なんてーか……違う」
 うぐぐぐ、と喉の奥で唸り、山本は指の隙間から目を白黒させ、一分と経っていない前の出来事を振り返って呟いた。
「山本?」
「なんか、違う。ちがくね? ほら、もっとあるだろ。キャーって悲鳴あげるとか、真っ赤になるとか、そういうの。ない? ツナは無い? これって俺がおかしい?」
 淡々としている綱吉に山本が早口に、矢継ぎ早に質問を繰り出して彼を面食らわせた。
 そんなに一度に訊かれても聞いていられないし、答えるのも間に合わない。そもそも意識していなかった綱吉は、自分の身に起こった出来事を未だ正確に把握すらしていなかった。
 唇をなぞり、指とは異なる感触を思い出す。必死に両手を動かして綱吉に反応を求める彼を不思議に見詰め、綱吉もまた数分前を順番に振り返っていった。
 だが、その途中で痺れを切らした山本が拳で床を叩く。
「だって俺ら、今キスしたじゃん!」
 両手を広げめいっぱい声を大にして主張する山本に、綱吉がハッとして右手を落とした。
 ぼんやりぼやけていた視界が急に晴れ、一から十までひとまとめに繋がる。理解しながらも意識していなかった綱吉は、彼の声で途端認識させられ、此処にきてやっと恥かしさから顔を赤くし、どっかん、と頭を爆発させた。
「や、やま、や、やまま、もっ、も、やっ」
「……遅いって」
 狼狽して呂律が回らなくなってしまった綱吉の赤面を見ていると、逆にムキになった自分が馬鹿らしく思えてきて、山本はがっくり肩を落として脱力した。
 けれど何事も無かったかのように去られるよりはずっとマシで、ホッとした笑みを零して彼は綱吉の相変わらず元気に跳ね返っている髪の毛を押さえ、ぐしゃぐしゃに掻き回した。
「うぅ……」
 恨めしげな目線で上目遣いに睨まれ、山本が破顔する。屈託なく笑ってみせる彼に、綱吉は顔を赤く染めたまま俯いた。
 膝に揃えた両手を握り、真一文字に唇を引き結ぶ。山本が前髪を押し潰している所為で表情の半分以上が隠れてしまい、目元は見えなかった。
「ツナ」
 ずっと、一緒に居た。
 離れてみて分かった。
 置いていかれて、気付いた。
 自分の中にあんなにも激しい感情があることを、山本は初めて知った。
 綱吉が気付かせた。
「俺、お前……好き」
 しどけなく濡れた瞳で告げ、山本が表情を隠す綱吉を下から覗きこむ。背中を丸めて姿勢を低くし、首を横に倒して身を乗り出した彼に、綱吉は泣き出しそうなところまで歪めた顔をして、噛み締めた唇を僅かに開いた。
「……く」
 聞き取れず、もう少しで届くという距離で山本は動きを止めた。
 綱吉の返事を大人しく待っていると、至近距離からまた思い切りねめつけられた。
「ぎゃく!」
「は?」
「順番が、――逆だって言ってるの!」
 罵声を正面から浴びせられ、飛んだ唾の冷たさに山本が咄嗟に身を引く。続けざまにもうひとつ怒鳴られ、山本はぎりぎりと奥歯を軋ませている綱吉の怒った顔に嗚呼、と頷いた。
 普通は告白から、キスだ。更に言うなれば、その間に了解の返事というものが含まれなければならない。
 山本はそういった行程の一切を除外したわけであり、人生で一度しかない貴重なファーストキスをいきなり奪われた側としては、怒って当然だった。
「あー……悪ぃ」
 ばつが悪そうに頬を掻き、苦笑して山本が言う。色々とテンパっていたので綱吉の気持ちを考える余裕がなかったのだと苦しい言い訳をして、彼は胡坐を崩した格好になっている脚に手を下ろした。
 肩の力を抜き、首からも力を取り除いて、憤慨している綱吉の肩に額を押し当てる。寄りかかられて重みを受け、彼を支えた綱吉は気勢を削がれた顔をして握り拳を解いた。
「やまも……」
「気が狂いそうだった」
 お前が居なくなって。ひとり取り残されて。
 置いていかれたと思って。選ばれなかったのだと感じて。
 自分は必要なかったのかと、存在そのものを否定され、拒絶された気がして。
「苦しかった」
 息をするのさえ、苦痛だった。楽になる方法を探して、いっそ死んでしまおうかとさえ思った。
「会いたかった」
 綱吉が切々と語られる告白に顔を歪め、口をへの字に曲げる。自分ばかりが辛かった風に言われるのは不本意で、悔しい。こっちだって色々と大変だったのだと嘯けば、山本は声を立てて笑い、「悪い」と謝った。
「謝ってばっかり」
「そうか? ツナよりはまだ少ないぜ」
「そんな事ないよ」
「そんな事あるって」
 目尻を下げた山本に反発して、綱吉が彼の胸を押す。いつまで人に体重を預けたままでいるのかと突っぱね、唇を尖らせた彼に山本は柔和な笑みで返した。
「ツナ」
 何度口ずさんでも絶対に呼び厭きない名前を音に刻み、その響きの心地よさに山本が目を閉じる。諦めずにもう一度綱吉に身を寄せ、胸元に額を押し当てるのに成功した彼は、両手をも伸ばして綱吉のシャツを握った。
 縋り、この手が空っぽになるのを怖がって、震わせ、力を込める。
「いなくなるな」
 搾り出された低い声に、綱吉が下向きかけた視線を強引に上へ軌道修正させた。
「俺の前から、消えないでくれ。ツナ……お願いだ」
 大きいのに、今はとても小さく感じる背中をそっと抱き、綱吉は天を仰ぐ。悲痛な叫びを胸に受け止め、痺れるような甘さと痛みを同時に感じ取り、綱吉もまた背を丸めた。
 山本に被さる格好で身を重ね、瞼を閉ざし、世界を闇に置き換える。
 大人になった山本の背中は、大きくて広くて、頼もしげだった。対して今此処に居る山本は、綱吉に居なくなるなと懇願し、消え去らないようにと手首を折れそうなくらいに握り締めて震えている。
 綱吉の支えを欲して、弱い自分を曝け出すこの彼の方が、綱吉は。
 自分を頼り、縋り、求めてくれる山本が。
 ――俺はずるい。
「好きだよ」
 囁き、綱吉は自分の中にある汚い感情を黒く塗りつぶした。
「だいすき」

2008/06/26 脱稿