瑣末

 それは毎朝の通学で気になっていたことだった。
「うーん……」
 毎日同じ道を、大体同じ時間帯通るわけだから、ひょっとしたら以前からあったものかもしれない。ただ視界に入らず、意識して見ることもなくて、だからある瞬間――それは本当に偶然でしかなかったのだけれど――気付くまで、知りもしなかった。
 だけれど、ある日偶々そちらに目が向いて、其処に転がっているものの正体を知った。
 同時に沸き起こった不快感は、一日が終わるまでずっと、綱吉の胸の中で凝りとなって残された。
 翌日も、そのまた翌日も同じ場所に、ちょっとずつ角度を変えて居座り続けているそれを気にかける人は、綱吉以外殆ど居ない。見て見ぬフリをしているのか、それとも本当に視界に入っていないのか、視界に入っていても、居並ぶ灰色のブロック塀と一緒くたにされて、背景のひとつとして捉えられているのか。
 綱吉も数日前まではその他大勢と同じだったから、気持ちは解らないでもない。ただ、もう知らなかった頃には戻れなくて、毎日其処を通るたびに悶々とした気分にさせられて憂鬱だった。
 そうして、よくよく注意して周囲を見回してみれば、思うよりもずっと、似たような場所は多いことに気付かされた。
「うーん」
「どうした、ツナ?」
 通学路の半ばで合流した山本が、さっきからずっと唸り声をあげている綱吉を不思議そうに見下ろして問う。今日は野球部の練習が無いそうで、いつもは皆より一時間は早く学校についている彼も、珍しくのんびりとした朝の始まりを楽しんでいる様子だった。
 綱吉を挟む格好で反対側を歩く獄寺も、心配そうな顔をして綱吉を窺っている。毎朝飽きもせず迎えに来る彼は、綱吉と歩幅を揃えて同じ道を歩いているのに、綱吉が見ているものが見えていないのだ。
 眉間の皺を深くして俯き、自分の爪先ばかりを見詰めていた綱吉は、山本の声にも直ぐに反応しない。二度目に、少し語気を強めて名前を呼ばれて初めて顔を上げ、きょとんとした様子で目を丸くした。
「え? ごめん、なに?」
 話しかけられていたことにさえたった今気づいた顔をして、落ち着き無く山本と獄寺の顔を交互に見詰める。ひょっとして大事な話をされていたのだろうかと、全く聞いていなかった事実に狼狽して聞き返した彼に、山本が大仰に肩を竦めて溜息を零した。
 そんなおっかなびっくりしなくても大丈夫だと大きな手で肩を軽く叩いてやり、山本は交差点の向こうから歩いてくる同級生のひとりに片手を挙げて挨拶を送った。
 動くもの、特に知っている人間は目敏く見つける彼なのに、どうして分からないのだろう。
 気付いてしまった自分の方が変なのかとさえ思えてきて、綱吉は他所を向いた山本の後頭部を見上げ、ひっそり肩を竦めた。
「十代目、お加減が悪いのですか?」
 終始言葉少なで、話しかけてもどこか上の空の綱吉を案じて獄寺が下から顔を覗きこんでくる。突然目の前に現れた銀髪に大袈裟に驚き、彼はぎょっと肩を強張らせて前に出そうとしていた足を後ろに引っ込めた。
 靴の裏がアスファルトを削り、感触が痛い。頬を引き攣らせた綱吉に、獄寺が若干傷ついた顔をして、そんなに吃驚させることをしただろうかと表情を翳らせた。
「あ、ちがっ、ごめん。ボーっとしてたから」
「十代目、具合が悪いのでしたら今日はお休みになられても」
 暗く沈んだ獄寺に慌てて言い繕うが、変な誤解を招いてしまい、綱吉は過剰に心配性すぎる獄寺に大丈夫だと笑った。ただその笑顔も、無理矢理作ったものにしかならなくて、ぎこちなさが残る微笑みに振り向いた山本も怪訝に顔を顰めた。
 気に病むところがあるのなら、言えば良い。強情に何でも無いと言い張る綱吉へやや呆れ気味にしながらも言ってくれたが、命に関わるような重要案件でもなく、きっと自分が気にしすぎるのがいけないのだと判断づけて、綱吉は首を横へ振るに留めた。
「ありがと。でも、だいじょぶ」
 話し込んでいる間も、足は交互に動いて前へと進む。紺色に塗りつぶされたアスファルトには太陽光が眩しく照りつけ、陽射しは日を追うごとに強くなって地上を焦がしていた。
 直射日光を嫌って人々は日陰を求め、道の中央はぽっかりと穴が開いたようだった。
「そうか? しかし、今日もあっちーなあ」
 その中で健康優良児の山本だけが、わざわざ日向を選んで道を行く。獄寺が譲ってくれた日陰を歩いていた綱吉は、額に汗を滲ませてシャツを引っ張り、前後に揺らして風を招きいれている彼に苦笑した。
 白の半袖開襟シャツの裾はズボンの外にだらしなくはみ出し、規定のネクタイはきっと鞄の中。彼曰く、あんなに結ぶのが面倒くさい上に首を締め付けられて苦しいもの、好んで着用する連中の気が知れないのだそうだ。
 ならば毎朝、不器用ながら頑張って結んでいる綱吉は、彼の中では変な奴の分類に押し込められてしまうのか。慌しい朝の時間でも、風紀委員に見咎められない程度に身なりを整えている綱吉は肩を竦め、遠く見えてきた学校の正門に目を眇めた。
「山本、ネクタイ結ばないと、怒られるよ」
 朝練の時間帯ならまだ正門に服装チェックの風紀委員が立っていないので五月蝿く言われないかもしれないが、今日はそうではない。案の定正門前には、この暑い時期でも長袖の黒い学生服を着込んだリーゼント頭が何人か、居丈高に構えていた。
 今や並盛中学の名物のひとつにも数えられている朝の光景に、またやっているのかと獄寺は唇を尖らせ、久方ぶりの遭遇である山本は何が楽しいのか、呵々と声を立てて笑った。
「まー、平気じゃね?」
 絶対に山本の格好は槍玉に挙げられるのに、本人は飄々として取り合わない。折角人が心配してやっているのに、と綱吉が頬を膨らませる横では、確実に風紀委員に目を付けられると分かっているもうひとりの人物が、鬱陶しいとぶつぶつ文句を言うのが聞こえた。
「獄寺君も、……指輪くらい外しておけば?」
「いーえ、これは俺のファッションであり、ポリシーです。十代目のお申し付けでも、外すわけにはいきません」
 左手に三つ、右手にふたつ。銀色の厳つい指輪を嵌めた獄寺の腰でも、同色のチェーンがぶら下がって彼が動くたびにじゃらじゃらと重い音を響かせていた。
 彼の言い分も、解らないでもない。けれど学校は集団生活を送る場であり、彼のようにおしゃれをしたいと思っている生徒も、協調性を乱さないようにと我慢しているのだ。
 これと言った個性が無く、勉強も運動も、何をやらせても平均以下の綱吉としては、自分を主張して決して他者からの圧力に屈しない彼は格好良く見えるけれど、裏を返せばただの我侭だ。もう少し辛抱というものを覚えた方が良いと心の中で嘆息し、綱吉は目の前に迫る正門に目を向け、居並ぶ風紀委員に肩の力を抜いた。
 どうやってあの分厚い壁を突破しようか。今日は遅刻ぎりぎりの登校でもないので、注意を受けない自信はある。だが日頃から何かと目を付けられている獄寺に山本と一緒に居るというだけで、難癖つけられる可能性はゼロでないのが非常に気がかりだ。
 それでなくとも、朝のこの時間から照りつける熱波をまともに浴び、風紀委員の皆様方も暑さに負けて非常に苛立っている。
 喧嘩にならなければいいのに、と気を揉みながら綱吉は鞄を胸に抱き、恨めしげに灼熱の太陽を睨んだ。
「山本武、獄寺隼人」
 何を根拠にか大丈夫と高を括っている山本と、いつでもドンパチ始められるように臨戦態勢をとっている獄寺に挟まれ、綱吉が正門を跨いで中学校の敷地へと足を踏み入れる。途端、予想していた通りの厳しい声が飛んで、呼ばれても居ないのに綱吉はビクッ、と怯えた仔犬のように全身を震わせた。
「あぁ?」
「ん?」
 ダラダラと冷や汗を垂らす綱吉を他所に、フルネームで呼び止められたふたりが同時に振り返る。山本は呑気な顔をして、獄寺はあからさまに嫌悪を露にして。
 声には覚えがあり、今更目で見て確かめなくても誰なのかは分かっている。それでも振り向かずに居られないのは人間としての性なのか、戦々恐々と背中を丸めた綱吉の視界に、陽光を浴びて不遜に佇む青年の姿が飛び込んできた。
 半袖に臙脂の腕章を安全ピンで固定し、細身のネクタイを喉元で綺麗に結んでいる。やや長い前髪は中央に寄って、隙間から覗く怜悧な瞳は艶のある黒。横一文字に結ばれた唇はどこか楽しげな笑みを薄ら浮かべていて、右手にはチェック用のボード、左手は肘を曲げて腰に押し当てている。
 凛として真っ直ぐに伸びた姿勢は、見た目だけならば模範的な生徒と言って差し支えなかった。
 見た目だけ、なら。
 惚れ惚れとするその姿にうっかり騙されると、酷い目に遭う。実際にその経験多数の綱吉は首を亀の如く引っ込め、自分は関係ないとばかりに首を振って二歩後退した。
「山本武、服装違反。獄寺隼人、君もね」
 悠然と構え、雲雀がボードを上下させてふたりを順番に指し示す。彼の背後では強面顔の風紀委員が三人、横並びになって山本たちを威圧していた。
 もっとも、そんな脅しに屈服するようなふたりではない。綱吉が悲壮な顔をしているのにも構わず、獄寺は不機嫌に顔を歪め、山本もただならぬ雰囲気に表情から笑みを消した。
 正面衝突も辞さない空気に、無関係の生徒が足早に校舎内へ消えていく。そちらのチェックに回っている風紀委員の面々も、一触即発の事態に即座に対応出来るよう、警戒している様がありありと伝わってきた。
 多勢に無勢、しかも向こうにはこの学校の王者として君臨する雲雀恭弥がついている。いくら獄寺と山本が強者であっても、この人数を相手にするのは無謀としか言いようがない。
「ご、獄寺君。山本も、ほら、此処は謝って。授業始まっちゃう」
 なんとか騒動に発展しないよう、綱吉が低姿勢で手前にいた獄寺の袖を引いた。
 朝っぱらからハチャメチャな展開は遠慮したい。このふたりが暴れると、関係ないことでもとばっちりで巻き込まれてしまうので、綱吉は必死だった。けれど獄寺は綱吉の手を払い、それどころか彼の心配を逆の理由に取って、白い歯を見せて笑った。
「大丈夫です、十代目。貴方の右腕たるこの俺が、こんな連中に負けるわけがありません」
「そうそう、ツナ。心配すんなって、授業始まる前に片付けてやるからさ」
「そうじゃなくって!」
「へえ? なら試してみる?」
「ヒバリさんも挑発しないで!」
 山本までもが獄寺の調子にあわせて勝手なことを言い、ピクリと右の眉を持ち上げた雲雀が何処からか取り出したトンファーを構えて、薄ら寒さを覚える笑みを浮かべた。
 風紀委員の間にもザワっとした空気が流れ、後ろの三人が戦闘態勢を取る。鞄が真ん中で千切れるくらいに強く胸に抱いた綱吉は、不穏極まりない状況に置かれて涙目を作り、助けを求めて視線を周囲に巡らせた。
 だが正門を駆け抜ける生徒は、揃って巻き込まれたくないと顔を逸らして逃げていく。
「もう、止めてって言ってるのに!」
 じりじりと双方距離を詰め、獄寺が愛用のダイナマイトを取り出して指の間で構える。山本も拳を作って左足を前に腰を落とし気味の姿勢を取って、隙を見せない。
 綱吉の制止の声は聞こえているだろうに、頭には届いていないようだ。奥歯を噛み締めた綱吉は、雲雀が退いてくれるのを僅かに期待して潤んだ琥珀を左へ向けた。
「服装の乱れは風紀の乱れに直結するからね。見逃してあげない」
「んだと! 大体、テメーらが一番服装乱してんじゃねーのかよ!」
 とはいえ、彼も綱吉の必死の訴えを横目で見こそすれ、思いを汲み取ってはくれない。淡々と抑揚に乏しい声できっぱり言い切った雲雀に、獄寺が噛み付く。
 声を荒立て、獄寺は雲雀の後方に控える風紀委員を指差した。
 並盛中の制服はブレザーで、風紀委員が着用する学生服は規則外。人を注意するよりも、まず自分たちの服装を正すべきではないかという彼の正論に、雲雀はそんな事か、と呆れ顔で肩を竦め、右手に持ったままだったチェックボードを後ろの風紀委員に預けた。
「これは、風紀委員の制服だから、いいんだよ」
「理由になってねえ!」
「風紀委員に楯突く輩は、咬み殺す」
 トンファーを両手に構え、涼しげな表情を変えずに雲雀は会話を一方的に打ち切った。
 静まり返った空気が逆に空恐ろしく、物音が立とうものならそれが合図となって口火が切られてしまう。一度始まってしまったらもう綱吉では止められなくて、その場で右往左往する綱吉は泣き出す寸前まで顔を歪めた。
 死ぬ気になれば何とかできそうな気もするが、それはリボーンの助けがなければ無理だ。一応確認して存在を捜し求めてみたが、そう都合よく行くわけがない。しかも綱吉の体は、本能が危険を察知してとめなければという思いと裏腹に、靴の裏が地面を擦って校舎側へ後退の一途を辿っていた。
 巻き込まれるのを嫌ってひとり逃げ出しても、誰も文句は言わないだろう。もとよりこの喧嘩は獄寺たちが売られて、買ったものだから、綱吉には関係ない。
 けれど彼の性格上、見過ごせるものでもない。
 どうしよう、どうすればいい。必死に巡りの悪い頭を行使して考えて、綱吉は鞄を抱く腕に力を込めた。
 息を大量に吸い、胸を膨らませる。
「……やっ」
 意を決し、彼は自分が被害を受けるのを覚悟で腹筋を凹ませた。
「やめなっ、さーーーーー!」
 めいっぱい、力の限り怒鳴って。
 その綱吉の気合を掻き消す格好で、予鈴が高らかと鳴り響いた。
「あ」
 気勢を削がれた山本が顔を上げ、半端なところで呼吸を止めた綱吉も目を見張る。身構えていた風紀委員のうち何人かも、チャイムを気にして視線を上向けて泳がせた。
 雲雀が、ざわつきを増した周囲に剣呑な目を向けてトンファーを引く。
「時間切れだね」
「んなこたぁ関係ねー!」
 つまらない、と嘯いて武器をしまった彼に、獄寺が尚怒号を上げて地団太を踏んだ。けれど中学生である以上、そして学校に登校してきているのだから、授業を受けて勉強することは、風紀委員を相手に喧嘩をするよりもよっぽど重要だ。
 山本もその点は理解していて、獄寺よりも切り替えが早い。足元に下ろしていた鞄を拾い上げて砂埃を叩き落すと、行こうぜ、とカッカしている獄寺の肩を叩いて宥め、綱吉を誘った。
「そこのふたりは、放課後までに反省文の提出するようにね」
「誰がやるか!」
 綱吉にも腕を引かれ、獄寺は渋々頷いて小型のダイナマイトをポケットへ戻した。最後まで雲雀に噛み付くのを忘れないが、目くじら立てたところで効果がない事は、過去同じ事を幾度となく繰り返している彼だから、とっくに承知していた。
 憤慨する気持ちが治まらないだけであって、言いたいことを言えば獄寺だってすっきりする。ふん、と鼻を鳴らして息巻いた彼の背中を押し、教室へ向かおうとした綱吉を、その雲雀が呼び止めた。
「沢田綱吉」
「はい?」
「ネクタイ、曲がってるよ」
 頭から湯気を立てている獄寺から顔を上げ、振り向いた綱吉は思った以上に近くに居た雲雀に驚き、反射的に身構えた。数歩先に行った山本たちも、再び不穏な気配をまとって注意深く雲雀の動向を探る。だが彼は、短い台詞の末に綱吉の喉元を人差し指で小突くだけに終わらせた。
 過剰に反応したふたりを嘲笑い、大きく広げた琥珀を即座に自分の胸を見詰めた綱吉が、抱き締めたままの鞄をそろりと下ろして結び目を確かめた。
 一応、きちんと形にはなっている。但し雲雀の指摘通り、若干ではあるが右に崩れ、傾いていた。
 登校途中では問題なかったので、鞄を抱き締めている時に歪んでしまったのだろう。言われて初めて気付き、綱吉は慌てて結び目を掴んで真下へと引っ張った。
 けれどやり方が雑だったのと、元々結び方が乱暴だったからだろう。手を放してみれば前よりも状況は酷くなって、一本のラインに揃っていなければならないものが、二本横に並んでいるという甚だ見苦しい形状に変化を遂げてしまった。
「うあ」
 自分でもこれは駄目だろうと解る格好に、雲雀は無言で皺を寄せる。
「ツナ、俺ら先行ってるぞ」
「へ? あ、うん」
「ちょっ、こら野球馬鹿。引っ張んじゃねー!」
 長引きそうな気配を感じ取り、山本が声を張り上げて綱吉に言った。右腕を伸ばして抵抗する獄寺の襟首を捕まえ、ずるずる引きずるように校舎へ入っていく。
 随分あっさり引き下がった彼を怪訝にしながらも、雲雀はひとり居残った綱吉の額を小突き、喚いている獄寺に苦笑している顔を自分の方へ向けさせた。
 同時にネクタイに指を差し入れ、持ち主の断りなく解いてしまう。太さの違う両端が宙に舞って、首を下向きに引っ張られた綱吉は前のめりに姿勢を傾け、頭から雲雀の胸にぶつかっていった。
 左足が地面を離れ、後ろへ蹴り上げられる。思いがけず頭突きを食らった雲雀は、そのまま沈みそうになっていた綱吉の肩を捕まえて支え、皺だらけになっているネクタイを指に絡め取った。
 自力で立たせ、ばつが悪そうにしている綱吉の頭をもうひとつ小突く。
「すみません」
 痛かったですか、と舌を出して聞く綱吉に肩を竦め、首を振った雲雀は浮かせたネクタイの端を視界に泳がせた。そして本鈴までの残り時間を素早く頭の中で計算する。
 風紀委員も散会し、それぞれの持ち場に戻っている。雲雀が綱吉に構うのはいつものことなので、誰も気にしない。
 山本にも変な気を回されて、綱吉は複雑な顔をして人のネクタイで遊んでいる相手を見詰めた。
 冬場は学生服を羽織っている雲雀も、今は暑いからか綱吉たちと同じ白の半袖シャツ。腕章がなければ一般生徒とまるで変わらない格好で、だったらあの暑そうな学生服の風紀委員にも同じ格好をさせてやればいいのに、とも思う。
 獄寺はアクセサリーを大量に身に着けるのを自分のポリシーだと言い切ったが、雲雀のポリシーも独特すぎて綱吉にはよく分からなかった。
「あの、ヒバリさん」
「君は何回教えても巧くならないね」
「うぐ」
 不器用な綱吉に代わり、左右の長さを揃えてネクタイを結ぶ動作に入った雲雀が素っ気無く言った。それは自他共に認めるところであり、手痛い指摘だった。
 ネクタイは一年中並盛の制服に必要不可欠なアイテムで、故に毎朝結ばなくてはならない代物だ。入学当初は奈々にやってもらっていたものの、流石にもうそれは恥かしくて頼れない。何度も教わって今は辛うじて自力で結べるようになってはいるが、胸を張って上手に出来たと思える日は週に一度、あるかないかだ。
 向きが反対であるに関わらず、淀みなく手を動かしてネクタイを操る雲雀に見惚れ、綱吉は気をつけの姿勢で大人しく終わるのを待った。
 しゅるり、と最後の一本が出来上がった輪に通され、形を整えつつ下へ引っ張られる。きゅっと引き締められた喉元に一瞬だけ息を詰まらせ、終わったという合図で胸を叩かれた綱吉は、自分の首で畏まっているネクタイに触れ、続けて深々と頭を下げた。
「僕ばかりが上達しても、仕方が無いんだけどね」
「……これでも一応、頑張ってるんですよ」
 ただその努力が報われているとは到底言えず、もごもごと言いよどんだ綱吉に、雲雀は今日初めて優しい目をして綱吉の頭を撫でた。
 最後にトン、と軽くまた額を叩かれて、前髪を押し退けて撫でた綱吉が物言いたげな視線を彼に投げ返す。
「あの、ヒバリさん」
「なに」
「さっき、服装の乱れがどうの、て」
 獄寺と雲雀が睨み合っている最中に彼が言った内容が気になって、綱吉はもう痛くもない額を頻りに撫で擦り、顔を俯かせて声のトーンを落とした。
 何を聞かれているのか一瞬解らなかった雲雀だが、瞬きひとつの間に数分前の出来事を思い出して人差し指の背で顎を叩いた。そういえばそんな事を口走った気がすると、視線を浮かせて前方に立ちはだかる校舎を見上げる。
 東からの直射日光を反射し、白い外壁はさながら巨大な鏡だった。
「割れ窓理論なんて言うしね」
「なんですか、それ」
 直接的な回答は出さず、雲雀はもう時間がないと綱吉の髪の毛をかき回して玄関を指差した。
 耳慣れない単語に首を傾げて雲雀を見詰めても、教えてくれそうにない。自分で調べろと言われている気がして、綱吉は頬を膨らませ、むぅ、と唸った。
「授業、始まるよ」
「分かってますよ」
 拗ねた顔をしている綱吉を笑い、雲雀がほら、と綱吉の肩を押した。体を反転させ、前に進むように促す。
 此処までされると従わないわけにはいかない。折角予鈴前に学校に着いたのに、本鈴が鳴ってから教室に顔を出しては結局遅刻扱いになってしまうので、勿体無いというのは綱吉だって分かっている。
 けれど中途半端に話をはぐらかされた気持ちが強くて、綱吉はちぇ、と悔しげに舌打ちし、見送る雲雀にあっかんべーと舌を出した。
 たまたま見ていた風紀委員がぎょっとして、そちらに気を取られて綱吉が我に返る。一瞬で顔を真っ赤に茹で上げた彼に、雲雀が肩を震わせて声もなく笑った。
「ほら、急いで」
 遅刻間際で駆け込んできた生徒がふたりの両脇を走り抜けていく。
 風紀委員はまだ仕事が残っているから、一緒にはいけない。つれない彼の態度にもちゃんと理由はあって、綱吉は渋々頷き、正面玄関へ向かって駆け出した。
 上履きに履き替えて、転びそうになりながら廊下を突っ走る背中を見守り、姿が見えなくなったところで雲雀は頭上から降りてくるチャイムの音を聞いた。急げば彼の足でも、鳴り終わる前に教室に辿り着けるだろう。
「それにしても、変なことを気にする」
 獄寺は何かと風紀委員に絡んでくる――無論そこには個人的な雲雀に対する、綱吉に関しての恨みも含まれる――が、間に立たされた時の綱吉は、どちらかと言えば獄寺寄りだ。彼を庇うような言動や、そもそも喧嘩に発展しないようにあれこれ裏工作を仕掛けることが非常に多い。
 背景には、獄寺では絶対に雲雀に敵わないと思い込んでいる綱吉の潜在意識があって、友人が酷い目に遭わされないようにという綱吉なりの優しさ、心遣いの現れでもあった。もっとも雲雀からすれば、目の前で自分以外の誰かに優しくしている綱吉を見るのは非常に不本意であり、不愉快極まりないのだが。
 だから綱吉が、風紀云々を気にするのは、ともすればこれが初めてかもしれなかった。
「ネクタイくらい、いくらでも結んであげるんだけど」
 あのふたりは兎も角、綱吉が今以上に身だしなみに気を配るようになったら、彼に構う理由が減ってしまう。
 それはそれで面白くなくて、思っていたことをついぽつりと声に出して呟いた雲雀は、その瞬間偶々後ろを通り掛かった風紀委員に変な顔をされてしまい、反射的に彼の顔をトンファーで殴り飛ばした。

 その日の夜、綱吉はいつもより少しだけ早く目覚まし時計をセットして布団に潜り込んだ。
 穏やかな夢を楽しみ、けたたましいベルに叩き起こされて寝ぼけ眼を擦る。枕に顎を突っ伏した彼は、最初、どうしてこんな早い時間に起きなければならないのかと首を傾げ、危うく二度寝に突入するところだった。
「あっ!」
 再び温かな布団に包まれて目を閉じた彼だったが、不意に脳裏に蘇った昨晩の決意を思い出し、慌てて掛け布団を弾き飛ばして体を起こした。下手に寝転がったままだと勝手に瞼が閉じてしまう為、いそいそとベッドから降りて立ち上がる。
 カーテンの向こう側ではすっきりとした晴れ空が広がっていて、健やかな目覚めに綱吉は背筋を伸ばし、両腕を高く掲げた。
「ん~……」
 いつもは起きるか起きないかの境界線で右往左往して、ぐだぐだと時間ばかりを浪費していたが、今日はそれがなかった。珍しく自力で起きられたことへの興奮も手伝い、綱吉は意気揚々と制服に着替えると、顔を洗って朝食を済ませるべく部屋のドアを開けた。
 同室で寝起きしているリボーンはまだハンモックの上で、彼よりも先に起きるのも随分と久しぶりだ。鼻ちょうちんを呑気に膨らませている赤ん坊を斜め上に見て、綱吉はこらえ切れない笑みを零した。
「おはよう」
「おはよう。あら、どうしたの?」
 台所に顔を出すと、奈々が振り向いて愛息子の姿に目を丸くした。
 なにもそんなに驚かなくても良いではないか、と綱吉は若干ばつが悪い顔をして、ちょっとね、と曖昧に答えを濁す。けれど彼女は、雨でも降るのではなかろうかと失礼な事を呟き、窓の外を気にして背伸びまでしてくれた。
「母さん」
「ふふ、ごめん。朝ごはんもう食べる?」
「うん」
 わざと意地悪をしているのだと分かっていても、気分が悪い。声を荒立てた綱吉に奈々はにこやかな笑顔で謝罪し、直ぐに母親の顔に戻って座るように促した。
 もっと遅い時間に起きてくると思っていたからだろう、テーブルにはまだ綱吉の分の朝食が用意されていなかった。彼女は茶碗を棚から取り出し、炊飯器のボタンを押して蓋を開く。ぶわっと湯気が立ち上って、綱吉は手を伸ばして箸を取り、言われるままに自分の席に腰を下ろした。
 ランボたちもまだ夢の中のようで、騒がしい彼らの姿も見当たらない。台所に居るのは奈々と綱吉、そして新聞を読んでいるビアンキだけだった。
「嵐でも来るんじゃないかしら」
「ビアンキまで」
 天変地異の前触れみたいに扱われ、綱吉は上目遣いに彼女を睨んで頬を膨らませた。
 炊き立てのご飯が山盛りの茶碗に、菜っ葉の味噌汁、御新香に卵焼き。日本の朝ごはん定番メニューが奈々の手によって次々に並べられ、食欲をそそる匂いが台所に漂う。思わず唾を飲んだ綱吉は、もう一度新聞の向こうに居るビアンキを睨んでから、時計を気にしつついそいそと箸を動かし始めた。
 温かなお茶で口を漱ぎ、右の頬に張り付いていた米粒を抓んでそれも口の中へ。ご馳走様と両手を叩く頃にはランボたちも起きてきて、眠そうに欠伸を繰り返しながら椅子によじ登っていった。
「今日は何かあるの?」
 子供たちにも茶碗を渡して、ほぼ食べ終わった綱吉を振り返り奈々が聞く。学校行事があるなら前もって教えておいて欲しかったと、弁当に詰めるご飯を団扇で冷ましている彼女に言われ、綱吉は小さく舌を出して謝り、特別何かがあるわけではないと弁明した。
「そう?」
「うん。ちょっと早く目が覚めたから」
 本当はしっかり目覚ましも準備して、早起きを目指して昨晩は就寝したのだが、それを言ってしまうと理由も説明しなければならなくなるので、綱吉は黙っていた。
 悪い事をしようとしているのではないから、言っても構わないとも思う。だが、女親に言うのは何処となく気恥ずかしさが先に立ってしまい、綱吉残っていたお茶を一気に飲み干して立ち上がった。
「お弁当、ちょっと待ってね」
「分かった。あ、そうだ」
 綱吉がのんびり時間を過ごすのではなく、いつもより早く家を出る気配を敏感に察し、奈々が台所を出て行こうとした綱吉の背中に声をかけた。
 暖簾を右手で横に払っていた綱吉が振り返らずに返事をし、廊下に足を踏み出したところで彼は何かを思い出して動きを止める。今度こそ振り向いた綱吉は、不思議そうにしている奈々に一瞬だけ言葉を詰まらせ、何故か申し訳なさそうに顔を下向けた。
「えっと、あの、さ。ビニール袋って、ある?」
 瞳だけは上向けて、団扇を持つ手を休めた奈々を窺い、尋ねる。きょとんとした彼の母親は、物珍しげに綱吉を見詰め、頷きながらその首を横に倒した。
「あるけど、どうするの?」
「えーっと……ちょっとね」
 胸の前で両手の指を突き合わせて視線は斜め上へ向け、下手な誤魔化し方しかできない綱吉に奈々は倒した首を戻し、団扇を置いた。
「どれくらいの大きさ?」
「うーん、あんまり大きくなくていいけど、小さすぎるのも、ちょっと」
 出来れば中身が透けない方が良いのだが、ないのなら我慢する。贅沢は言わないという彼に、奈々は釈然としないまま頬に手を当て、暫く考え込んだ後に弁当と一緒に用意しておくとだけ告げた。
 頷いた綱吉が礼を言って今度こそ台所を出て行く。先に歯を磨くつもりなのだろう、洗面所がある左に曲がった彼の背中を見送り、奈々は分かったような、分からなかったような顔をして、肩を竦めた。
「透明じゃなくて、あんまり小さすぎない袋、ね」
 スーパーで貰った物があるから、それで事足りるだろう。
 何をするかまでは知らないが、早起きまでして自分でやると決めたことだから、応援してやらねば。
「私も頑張らなくっちゃ」
 ひとりで自己完結して力瘤を作った奈々を、食事中だった子供たちは変な目で一斉に見詰めた。

 奈々から弁当を貰い、乳白色をしたスーパーのポリ袋を受け取った綱吉は、獄寺が迎えに来るよりも十分ほど早く、ひとり家を出た。
 彼が来たら先に行ったと伝えてくれるよう奈々に頼み、陽光眩しい空の下、急ぎ足で学校に向かう。ただ綱吉の本当の目的は通学路にあって、学校はそのゴールに過ぎなかった。
 故に正門に到達した時間は、普段とまるで変わらない遅刻ぎりぎりの頃合。寄り道をしていたわけではないが、それに近いことになって、思った以上に手間取らされたと綱吉は手にした袋を背中に隠し、次々に並盛中の生徒が吸い込まれていく門を見やった。
 今日も今日とて風紀委員が居並び、威圧的な視線を方々に投げている。服装が乱れている者、余計なものを持ち込もうとしている者を厳しくチェックし、万が一にも学内で風紀が乱れることがないようにと。
 だとすれば、綱吉が持っているこれもまた、彼らから見れば余計なものに当たるのだろう。
「どうしよっか、な」
 かといって路上に棄てて行くのは本末転倒であり、綱吉は尻込みしながら呟き、爪先でアスファルトを捏ねた。
 雲雀の姿は無いが、壁に阻まれて見えないだけで、恐らく中に居る。奈々には誤魔化しが利いたが、彼には多分、通じないだろう。
「でも、置いてはいけないしなー」
 家を出た時はぺたんこだった袋は、今現在、かなりのボリュームで膨らんでいた。
 白い表面は無数に凹凸が刻まれ、口の部分ぎりぎりまで色々なものが詰め込まれている。輪を作っている持ち手部分を一度だけ結び、中身が溢れないようにしているそれを揺らした綱吉は、電信柱の影から学校の様子を眺め、残り時間を気にして視線を泳がせた。
 此処で獄寺に会うのも、また厄介だ。彼の事だから絶対騒ぐだろうし、それが余計に周囲から目立つ結果になるのは過去の教訓で痛いくらい学んでいた。
 出来るだけ地味に、目立たず、自己完結の自己満足で終わらせたい。今日一日だけでは終わらせられなかったから、今後の事を考えると下手な騒動は困るのだ。
「……いくか」
 とはいえ、此処で地団太を踏んでいても結果が好転するわけでもなく。綱吉は肩を落として深々と溜息を吐き、それまでとは打って変わって鈍い足取りで開かれた正門へ向かって歩き出した。
 鞄以外に大きな荷物を持った綱吉を、行き交う生徒が奇異な目で見詰める。この人ごみに紛れる形で中に入れたら、或いは風紀委員に見咎められることも無いかもしれない。淡い期待を持って途中から隣を行く人と足並みを揃えた綱吉だったのだが、そう世の中思い通りにはいかなかった。
 世間の波は険しい。
「沢田綱吉」
 低い、けれど透き通る声で名前を呼ばれる。直後に横にいた人が綱吉を見て、同情めいた視線を投げかけたのが分かった。
 声の主が誰であるかは、確かめるまでもない。首の後ろに冷たい汗を流し、やっぱり駄目か、と心の中で咽び泣いた綱吉は、頑張れよと慰めにもならない励ましを通り掛かったクラスメイトから受け取り、出しかけた足を戻して振り返った。
 臙脂の腕章を白い半袖に留めた青年が、渋い顔で綱吉を見下ろしていた。
「それ、なに」
 チェックボードに、赤ペン。キャップがされている先端を向けられた綱吉は、雲雀の疑問符を伴わない質問に苦笑いを浮かべ、つい癖で指摘された袋を腰の後ろに庇ってしまった。
 ガサガサと乾いた音を響かせ、丸っこい形状のそれが膝の裏にぶつかる。一度だけ弾んで大人しくなったのにホッとしていたら、油断している間に雲雀が素早く後ろへと回り込んだ。
「あっ」
「なにこれ」
「駄目です、汚いから!」
 スッと伸びた手が綱吉から袋を奪い、顔の前まで持ち上げて下から見上げる。底部分には黒っぽい液体が溜まり、微かに腐臭めいた嫌な臭いがした。
 眉間の皺を深くして顔を顰めた雲雀から、綱吉が甲高い声で叫んで袋を奪い返す。両手で大事に、間違っても破らないように注意しての行動に、空っぽになった手を下ろした雲雀は首を傾げ、人には汚いと言いながら自分は平然と胸に抱いている彼に唇を尖らせた。
 よくよく目を凝らして見てみれば、半透明の袋の表面に中身が一部透けて映っている。濃い色で印刷されている文字も幾つか見えた。
「ゴミ?」
 統一性の無い内容物や、逆さまを向いて詰め込まれている空き缶から類推した雲雀の言葉に、綱吉がサッと顔を青褪めた直後、赤く染めた。
 通行の邪魔にならぬよう端に逃げた綱吉が、抱えている袋に目を落として再度雲雀を見る。唇は横に平たく、下唇を噛んでは舐めて、を繰り返して、泳いだ視線は最終的に正門を向いた。
「えっと……」
 続々登校してくる生徒の中には、何人か見知った顔が混じっている。京子にも手を振られたのだが返すことが出来なくて、後で謝らなければと違うことを考えていたら左の耳をいきなり引っ張られた。
 激痛に悲鳴をあげて、視線を戻す。不機嫌な色をした瞳に見下ろされ、ちょっとでも彼の存在を忘れていた自分を恥じ、綱吉は雲雀に小さく頭を下げた。
「それで?」
「……誰も拾わないし、ずっと残ってて、段々増えて行ってたんです。ずっと気になってて」
 電信柱の影、自動販売機の裏、路地のちょっと奥まった所、など等。探し出したらきりがないくらいで、目に付いたものを拾いながら歩いていたら、ゴール地点の学校に至る経路の半分にも満たないうちに、袋はいっぱいになってしまった。
 気付かなければ、目に留めることは無かった。
 けれど気付いてしまった。そして違和感を覚えてしまった。
 町にゴミが溢れていること、そして皆がそれを見ないようにしていること。
 果たして自分も、その中のひとりとして存在していて良いのか。自分ひとりが偽善者になって、格好をつけていると思われるだけではないかと、色々思い悩んで悶々とした日々を過ごしていた。
「昨日ヒバリさんに言われたこと、調べてみたんです。それで」
「窓割れ?」
「はい」
 頭から離れなかった単語の意味を知りたくて、社会科の先生に聞いてみた。あまり詳しくは無いけれど、と前置きされた上で大まかな理論の説明を受けて、はてなマークが浮かぶ部分も多々ありはしたが、ざっと、意味は理解出来た。
 雲雀が言いたかったことも、なんとなくだけれど。
「放っておくのは、やっぱり、良くないかな、って」
 もじもじと指を弄り、綱吉は段々と尻すぼみに声を弱めて自信なさげに言った。
 ひとつでもゴミが落ちていると、それを見た別の人が、棄ててはいけない場所でありながら、先に誰かが捨てていたから構わないだろうと考え、新しくゴミを捨てる。
 それを見たまた別の人が、同じ事を考えて同じ事をする。
 負の連鎖を断ち切るためには、どこかで終わらせる必要があった。
 格好良いことをしようと思ったわけではない。ただ気になって、気になって仕方が無くて。
「全然片付かなかったんですけどね。まだいっぱい、落ちてる」
 自分の目に付く範囲で、拾える限りの量を。
 言っているうちに恥かしさが募って、綱吉は照れ臭そうに頭を掻いた。へへ、と乾いた笑いを浮かべて、自分の馬鹿さ加減に自分で呆れる。
 こんなことをしても、意味などないだろうに。
 雲雀は黙って聞いていた。生徒の雑踏でざわつく空間で、ふたりの居場所だけが、いやに静かだった。
 やがて、綱吉がやり場に困った手を下ろしてゴミ袋を握り締め、俯いたその頭を。
 雲雀の手が、わしゃわしゃと撫で回した。
「う、わっ」
 絡み合った髪の毛を引っ張られ、頭皮に生じた痛みに綱吉がつんのめる。左足が地面から離れ、バランスを崩しそうになった綱吉は慌てて両手を左右に広げた。
 右足で踏ん張り、雲雀との激突は回避させる。その間も彼は無言で綱吉の頭を容赦なくぐしゃぐしゃにして、止めてくれと訴える声も一切無視した。
「ヒバリさん、痛い!」
「十代目! テメー、雲雀! 十代目に何してやがる」
 我慢出来る痛みをとっくに越えていて、このままでは首から上が引き千切られてしまいそうだった。
 甲高い悲鳴をあげてゴミ袋を落とし、自由になった両手で雲雀の手首を掴んで押し返した綱吉の耳に、獄寺の罵声が飛び込んで来る。一瞬雲雀の手が緩んで、自分を取り戻した綱吉は、滅茶苦茶になった前髪の向こうから、鬼の形相で突進してくる銀髪の青年に目を剥いた。
 着火済みのダイナマイトを構え、一直線にこちらへ走ってくる。今雲雀に向かってそれを投げたら、もれなく綱吉も巻き添えを食らうという事は、完全に彼の頭から吹き飛んでいた。
 周囲に居た一般生徒も揃ってぎょっとし、蟻の子を散らすように走り出す。勇気ある風紀委員の何人かが獄寺にタックルを仕掛けて彼を止めようとしたが、それよりも早く、
「果てろ!」
 獄寺の決め台詞とともに、導火線を短くした複数のダイナマイトが宙を待った。
「ちょっ、獄寺君!?」
「五月蝿いね」
 思い込んだら一直線、人の迷惑顧みない獄寺に綱吉が顔を引き攣らせた。
 パチパチと火花を散らし、小型の爆弾が空中に弧を描く。咄嗟に動けなくてその場で硬直した綱吉を庇うように立ち、抜き取ったトンファーを構えた雲雀が低い声で嘯いた。
「うわぁ!」
 直撃を想像し、綱吉が頭を抱えて蹲る。雲雀がヒュッ、と鋭く息を吐き、直後にふたりの頭上で旋風が沸き起こった。
 沈黙。
 下を向いて震え上がっていた綱吉は、いつまで経っても衝撃がこないことを不思議がり、恐々腕を解いて顔を上げた。前方で仁王立ちした雲雀の両足がまず見えて、続けて彼の周囲に散らばるダイナマイトが視界に飛び込んできた。
 導火線が切れ、火はすべて消え去っていた。
「え……」
「てめっ、こら、放せ! くっそー、重いんだよ」
 唖然とする綱吉から大分離れた場所で、獄寺が三人の風紀委員に押し潰されて地面に転がっていた。じたばたと両手両足を振り回して必死に抵抗しているが、屈強な体格の男子が相手では、さしもの彼も脱出は難しそうだった。
 雲雀が汚れていない制服を軽く叩いてトンファーを片付ける。ダイナマイトの傍には、咄嗟に投げ捨てたのであろうチェックボードが裏を上にして地面に寝そべっていた。
「ヒバリ、さん?」
「君、もうちょっとアレ、教育しておいてね」
「……すみません」
 親指でまだ抵抗している獄寺を指し示し、冷たく言った雲雀に返す言葉も無い。
 恐縮しきりで居心地悪く立ち上がった綱吉の頭を何故かもう一度撫で、雲雀は腰を曲げてボードを拾い、ダイナマイトは蹴り飛ばした。
 遠くまで転がっていた赤ペンも見つけて掴み、ボードのクリップに挟む。まだジンジンとした痛みを放つ頭を両手で支えた綱吉の前で、彼は次に、パンパンに膨れたゴミ袋を持ち上げた。
 綱吉が言葉を発する前に、近くに居た風紀委員を呼んで手渡す。
「学校には必要の無いものだから、没収」
「でも」
「没収」
 ゴミなのだから自分で捨てる。そう言おうとした綱吉を遮り、雲雀は不遜に口元を歪めて笑った。
 そして予鈴が鳴るからと綱吉を手で追い払い、朝っぱらから物騒な事件を引き起こした獄寺の方へ歩いて行く。可哀想だが、今回ばかりは後先考えずに暴走した彼が悪い。
 綱吉はぎゃーぎゃー喚きたてている獄寺に憐憫の目を向け、途中で立ち止まった雲雀に気付くのが遅れた。
「そうそう。また、没収してあげるから」
 喋りかけられ、慌てて顔を彼に向ける。
 東から射す光の中で、雲雀はまぶしそうに目を細めていた。
「明日も、持っておいで」
 それだけを告げ、彼は四人目に押し潰されて漸く静かになった獄寺へ風紀委員長の顔を向けた。
 綱吉は彼に撫でられた頭に触れ、すっかり乱された毛先をそっと梳いた。
 顔が勝手に赤くなっていくのが分かる。恥かしさと嬉しさが両方同時に沸き起こって、綱吉は逃げるようにその場から駆け出した。

2008/07/22 脱稿