安慮

 平和な並盛町、平穏な並盛中学校の長閑な昼休みに。
「ぎゃははははは!」
 何故か五歳児の笑い声がけたたましく響き渡った。
「このアホ牛、待ちやがれ!」
「やーだもーんねー」
 牛柄の服にもさもさのブロッコリーヘア。もじゃもじゃの癖毛からはみ出る二本の角は、大人しくしていれば可愛らしい子供の容姿にアクセントとなっただろう。だが彼は今、周囲の迷惑顧みずに学校内の廊下を駆け回り、追いかける獄寺にお尻ぺんぺんと挑発的な態度を取っていた。
 実にこまっしゃくれ、生意気な事この上ない。ランボは廊下に置かれていた灰色のロッカーの上に乗り、あっかんべーと大きく舌を出しては、幼児相手に本気になるのは大人気ないと握り拳を震わせて耐える獄寺を嘲笑った。
 漸く追いついた綱吉が息を切らし、顎を伝った汗を拭って睨み合っているふたりを後ろから見上げた。
「ランボ、危ないから降りて!」
 掃除用具を入れるロッカーなので、その背丈は綱吉たちの遥か上を行く。不用意に転落しようものなら、幾ら身軽なランボとはいえ無傷では済まないだろう。
 声を張り上げた綱吉に気付き、けれど彼はお調子者を気取ってぴょんぴょんと狭い空間で飛び跳ねた。
 降りて欲しければここまで登って来い、そういう事だろう。
「こんの……果たす!」
「え、ちょっ、獄寺君!」
 昼休憩中なので廊下に出ている生徒の数は多い。その中での騒動は否応なしに目立つ。
 我慢の限界を迎えた獄寺から堪忍袋の緒が切れるブチっという嫌な音がして、綱吉は暴挙に出ようとする彼に驚き、身を仰け反らせた。
 ポケットから抜き取られた小型ダイナマイトの姿に、いち早く気付いた生徒が悲鳴を上げて逃げ出す。少量ながら本物の火薬を使用しているそれは、殺傷能力は低いけれど、直撃を食らえば当然痛い。彼はそれを、ランボ目掛けて投げるつもりなのだ。
「駄目だって。獄寺君、堪えて!」
「いーえ、コイツは一回痛い目見なきゃ分かんないんです」
 なんといっても馬鹿だから。さりげなく綱吉にもグサリと刺さる言葉を吐き、獄寺は学内という事で吸うのを控えていた煙草の代わりとして、胸ポケットから赤い外観のライターを取り出した。
 慣れた手さばきで火を灯し、短い導火線に押し当てる。
「うきゃ?」
「ランボ、逃げて!」
 ただならぬ雰囲気を幼心に察し、動きを止めたランボが不思議そうに目を丸めて首を傾げる。綱吉が呑気に下を覗き込んでいる彼に避難を呼びかけるが、自分の置かれた状況が理解出来ていないようで、場を動く様子は全く無かった。
 巻き添えを食うのは御免だと廊下に居合わせた生徒の大半は蟻の子を散らすように逃げ出し、遠巻きに人垣を作って事の行く末を見守っていた。
 空腹から苛立っているのは分かるが、獄寺には辛抱が足りない。点火されたダイナマイトは投球モーションに入った獄寺の指の間で徐々に導火線を短くし、狙い定めてロッカー上部に向けて放たれた。
「果てろ!」
「ランボ!」
「君たち、五月蝿いよ」
 獄寺とランボにばかり気を向けていた綱吉が悲痛な叫びをあげ、背後から音もなく接近していた存在に瞬間、全身を竦ませた。
 あらゆる汗腺から脂汗が噴出し、寒気に鳥肌が立つ。ドッキーンと盛大に跳ね上がった心臓を口から吐き出しそうになって、彼は自分が今いる場所を思い出し、壊れたブリキの玩具みたいにぎこちなく振り返った。
 前方では爆発したダイナマイトに吹き飛ばされ、牛模様の丸い存在が宙を舞った。
「僕の学校で、何やってるの?」
 余波で窓ガラスがビリリと震え、斜め上からの爆風をまともに食らったロッカーがぐらりと傾く。最初は耐えるかと思えたそれは、しかし隣に置かれていた傘立てを巻き込む形で、最終的には横倒しに崩れ落ちた。
 沸き起こった騒音に首を引っ込めて肩を強張らせ、巻き上がった埃に綱吉も獄寺も激しく咳込んだ。
 廊下の角に落下したランボが、鞠玉みたいに跳ねてコロコロ転がっていく。背中から落ちた彼は角がつっかえ棒になって仰向けの状態で止まり、薄汚れた格好でむくりと頭を持ち上げた。
「が、ま、ん……」
 綱吉に巻けず劣らず大きな眼をぐしゃぐしゃに歪め、奥歯を噛み締めて懸命に泣くのを堪えている。涙をいっぱいに溜めている姿は非常に見目痛々しく、出来るものなら今すぐに抱き締めて、頭を撫でて慰めてやりたいところではあった。
 ところが綱吉も、目下本日最大の危機を迎えており、頬を強張らせて鬼の形相で睨んでくる人物への言い訳を考えるのに必死だった。
「なに、騒いでたの?」
 鈍く輝くトンファーを構え持った雲雀が不遜な態度で綱吉を見下ろし、問いかける。声は単調で抑揚に乏しいものの、明らかに不機嫌だと分かる雰囲気に綱吉は完全に怯え、唇を戦慄かせた。
 答えようにも巧く舌が回らず、喋るのさえままならない。
「よっし、仕留めたぜ。十代目!」
 一方の獄寺は、自分が一番騒動を引き起こしている自覚も持たずにガッツポーズを作り、威勢よく叫んで綱吉を振り返った――褒めてもらえるとでも思っているのか、満面の笑みを浮かべて。
 だから彼は、綱吉が自分を見ておらず、彼の主観からすれば闖入者に当たる雲雀と仲良く向き合っている(ように彼には見えた)様に愕然とし、顎が外れんばかりに驚いてみせた。
「学校に爆発物を持ち込むとは、良い度胸だね」
 覚悟は良いかと響きの良い低音で問うた雲雀に、自分は当事者ではないと綱吉が首を振って否定するが、時既に遅し。雲雀の中では、たとえ綱吉が一切手を出していないとしても、この場に居合わせているだけで、共犯者も同然だった。
 向こうの方ではついに堪えきれなくなったランボが滝の涙を流し、大声で泣き叫び出す。
「雲雀、テメー十代目にもし何かしてみろ!」
 その泣き声を掻き消す大声で獄寺が怒鳴り、大股に一歩踏み出した。雲雀が剣呑な目を彼に流し、邪魔をするなと威圧するが綱吉一辺倒で他が見えていない彼には通じない。
 自分は関係ないのに。泣きたい気持ちで顔を歪め、綱吉は一触即発の事態に、胸の前で手を結んで祈るようなポーズを取った。
「僕はこれから、草食動物と遊ぶところなんだけど」
「十代目はお前なんかに渡さない!」
 話がずれている。人が聞いたら誤解しそうな事を叫ばないでくれ、と綱吉は切に願いながら獄寺と雲雀を交互に見やり、泣き喚く五歳児にも気を向けて、どれを最優先にさせるかで迷ってその場で足踏みをした。
 隙無くトンファーを構える雲雀の注意が獄寺に向いたのは助かったが、事態が解決したわけではない。むしろ悪化した。ここでこのふたりがドンパチ繰り広げれば、確実に学校の一部が吹き飛ぶ。それこそ、廊下に倒れたロッカーの比ではない。
 ランボはまだ泣き止まない。緊張感漂う雲雀と獄寺のにらみ合いを嫌って、一般生徒は誰も近付けずにいる。
 もうじき昼休みも終わるというのに、この騒動が終わらないと此処の通行は滞ったままだ。教室に戻るのに回り道をさせられる生徒にしては良い迷惑で、一刻一秒でも早い解決が待たれた。
「ううぅ」
 ただふたりを止めようという剛毅な存在はこの場にはひとりとして居合わせておらず、期待の眼差しは綱吉に一心に集められる。こんな時だけ人から頼りにされても嬉しくなくて、綱吉は震え上がりながら奥歯を噛み締め、新しくポケットからダイナマイトを取り出した獄寺に顔を歪めた。
 自分が注意すれば、獄寺だけなら止められるだろう。しかし、それでは雲雀の気が治まらない。
 このまま手を拱いてみているだけでは、何一つ解決しない。ただ踏ん切りもつかず、思い切った行動に出るには勇気が足りなくて、綱吉は鼓膜を震わせるランボの泣き声に舌打ちし、先にあちらを黙らせようと上履きの底を廊下に押し付けたまま、つま先だけを左に向けた。
「果てろ!」
「咬み殺す」
 そこへ、タイミングを狙ったかのように獄寺と雲雀が睨み合いから一歩踏み出して怒号をあげた。
「げっ」
 慌てて首をぐるん、と回した綱吉の視界に、教室で机を並べる学友が逃げ惑う様が映し出される。ライターの炎を揺らした獄寺に雲雀がトンファーを繰り出し、後方へ跳んで避けた彼がダイナマイトを振り翳した。
 ランボを狙ったものとはまた違う、一回り大きいサイズで。
 今度は、本気で当てようとしているのが傍目にも分かった。
「だめー!」
 学校が壊れてしまう。
 綱吉は力の限り叫び、反射的にふたりに向かって突進していた。
 目の前が真っ白に染まり、遅れて凶悪な痛みが脳天を揺らして星が散った。横っ面に叩き込まれたトンファー越しに雲雀の驚いた顔が一瞬だけ見えて、ブラックアウトする直前に獄寺の悲痛な叫びが聞こえた。
 天を向いた手が虚空を掴み、ぱたりと落ちる。ぴよぴよと頭の周りでヒヨコを散歩させて、綱吉は仰向けに廊下に倒れ、そのまま呆気なく気を失った。

 目が覚めた綱吉の視界に最初に映し出されたのは、真っ白い天井とカーテンだった。
「う……」
 ぐにゃぐにゃと歪んでいた世界が次第に真っ直ぐのラインを描き出し、滲んで見えなかったカーテンレールの銀色も、立体感を伴って知覚出来るようになる。奥行きがある景観に綱吉は顔を顰め、肺の中に残っていた二酸化炭素を熱と一緒に吐き出した。
 唇を窄めると頬に痛みが走り、舌の上に鉄錆びた血の味が広がった。喉の奥からは酸っぱいものの臭いがして、彼はクラクラする頭を僅かに揺らし、喉を仰け反らせてベッドの上に踵を衝き立てた。
 膝を曲げるが、上半身は横たわったままで持ち上がらない。靴下を履いたままの足はシーツを滑って最初の地点まで戻り、胸元まで被せられていた布団だけが引きずられて下にずれていった。
「いっ、つぅ」
 喋ると余計に痛むのだが、声を出さずにいられない。矛盾する行動を取って後悔し、綱吉は一旦閉ざした瞼を恐る恐る持ち上げ、改めてレールが縦横無尽に走る天井を見詰めた。
 ベッドの周囲はカーテンで区切られ、外の様子は解らない。ただ見覚えのある光景だったので、此処が並盛中の保健室だという事は、直ぐに理解出来た。
「…………」
 音もなく唇を開閉し、血の混じった唾を苦労の末に飲み込む。あまり美味しいものではなくて、眉間の皺を深くした綱吉は自分がどうしてこんな場所に寝かされているのか、その理由を考えて即座に思い出した。
 雲雀に思い切り殴られたのだ。
 獄寺のダイナマイトを止めようとしてふたりの間に割り込み、止まらなかったトンファーの痛烈な一撃を食らった。もっとも、直前で気付いた雲雀が多少ブレーキをかけていてくれたようで、目に見える外傷はぷっくり膨れ上がった右頬の一箇所だけで済んだ。本気で殴られていたら、きっと顎を砕かれていたに違いない。
 ダイナマイトも、爆発は未然に防がれた。でなければ今頃、救急車や消防車が校庭で大集合しているはず。
「いてて」
 試しに頬に触れると、自分が感じる以上の腫れ方が酷い。これくらいならまだ平気と思っていた箇所で指先が肌に触れ、途端にまた気絶したくなる激痛が綱吉の脳髄を掻き回した。
 声も出なくて、ベッドの上でひとりのた打ち回る。
「なーにやってんだ、テメーは」
 じたばたと足でパイプベッドを蹴った綱吉の騒音に、彼が目覚めたと知ったシャマルがカーテンを捲って呆れ顔を覗かせた。相変わらずボサボサの頭に無精髭を生やし、眠そうな目が顔の右半分を真っ赤に腫らせた綱吉を見下ろす。
 一瞬彼が笑ったような気がしたが、気のせいだと思うことにして綱吉は跳ね上げていた足を落とした。
「元気そうだな。んじゃ、さっさと出ていけ」
「ぶぇーーーー」
 胸と腰の周囲にだけ上掛け布団を残していた綱吉が、冷たいことを言ってすっぱり切り捨てたシャマルに不満の声をあげた。しかし口が思うように開かず、発音がままならない所為で変な声しか出ない。
 こんなに痛々しい姿をしているのに、あんまりだ。無言の抗議で握った拳で空を殴った彼に、シャマルは深々と溜息を零し、無理をして殴りかかろうとする綱吉の手を取ってシーツへ押し付けた。
 大人しくさせ、聞き分けのない子供をあやす仕草で頭を撫でてからベッド前を離れる。
「ひゃふぁる?」
「喋んな。痛いんだろ」
 名前を呼ぶがまともな発音には程遠く、呂律の回らない綱吉に彼はカーテンの向こうから言った。棚を開閉しているのか物音が響き、水音も聞こえて綱吉は仕方なく口を噤み、代わりに耳を澄ます。視線を巡らせても白しか見えないので、ついでに瞼も下ろした。
 リノリウムの床を叩く足音は淀みなく、一歩ずつ近付いてくる。止まったところで綱吉は目を開けようとしたが、それより早く冷たいものが降って来て彼の頬を覆った。
「ぶひゃ!」
「暴れんな。落ちる」
 濡れた感触が肌全面を覆い、追加された重みで神経が即座に痛みの信号を脳に届ける。両手両足を痙攣させてみっともない悲鳴をあげた綱吉は、振り払おうと首を振ったのをシャマルに止められて目に涙を浮かべた。
 琥珀色を滲ませ、鼻を啜って外してくれと懇願するが聞き届けられない。
「痛いんだろ。冷やして熱取って、薬はそれからだ」
 頬に添えられたのは濡れタオルで、しかも水道を捻って出てくる水ではなく、氷水を吸わせてあるらしい。キンキンに冷えたタオルはそれだけで凶器で、綱吉はひりひりと低温火傷を訴える頬に思い切り顔を歪めた。
 せめてもの抵抗と恨めしげにシャマルを睨みつけるが、涙目なので効果は薄い。
「他に痛いところはあるか」
 逆に聞き返され、綱吉は他の痛みなど全部吹き跳んでしまったと乱暴にベッドを踵で蹴って返事の代わりにした。シャマルが態度から読み取り、呵々と笑って顎を撫でる。垂れ下がった目尻は思いの外優しく、それが意外だった。
「お前んとこのガキんちょが、潜り込んだんだって?」
 タオルが落ちないように横から支えてやり、丸椅子を足で引き寄せたシャマルがそこに腰を下ろした。薄汚れて皺だらけの白衣を踏まぬように後ろへ流し、少しでも姿勢が楽になるよう狙って前屈みに、肘を綱吉の枕元へ突き立てる。
 距離が狭まって、彼の吐く呼気から僅かな煙草の匂いを感じ取った綱吉が嫌がって首を振った。
 直前まで吸っていたのだろう、服にも染みこんだ脂臭さに眉根を寄せる。
「む、臭いか」
 あからさまな表情の変化にシャマルは身を引き、左袖を鼻の前に持って行って臭いを嗅いだ。くんくん、と鼻を鳴らす仕草は動物めいて可笑しいが、笑うのには頬の筋肉を使う必要があって、綱吉は奥歯を噛み合わせることでどうにか堪えた。
 煙草の匂いに馴染んでしまっている自分では解らないと、シャマルは降参のポーズを取って左手を肩の高さまで持ち上げた。離れていた方が良いか聞かれ、一瞬の隙も挟まずに綱吉が首を振る。それでも立ち去ろうとする彼のスーツを掴み、自分の側へと引っ張った。
 綱吉自身も、この匂いには随分と慣れてしまった。昔は、臭いがするだけで露骨に顔を背けていたのに。
 喋るのはまだ辛く、綱吉はふるふると二度首を振って構わないと目で告げて瞼を下ろした。安心しきった表情で首を傾け、シャマルが支えるタオルに頬を寄せる。
 幾許か体温を吸って温くなった布を指先だけで抑え、シャマルは背凭れの無い椅子の上ではにかんだ。
「ハヤトがすっげー形相で飛び込んで来たから、何かと思えばよ」
 人が昼休みを優雅に過ごしていた時に、ドアを蹴り破る勢いで駆け込んできたと、思い出したシャマルが声を立てて笑った。光景が楽に想像できて、綱吉は若干気まずい気持ちになりながら被っている布団の端を持ち上げ、顔の下半分を覆い隠した。
 雲雀に殴られて昏倒した綱吉を背負い、十代目が死んでしまう等と喚きたてる獄寺を落ち着かせる方がずっと大変だった。この程度で人間死にはしないと言い聞かせても、目を開けないだとか返事をしないだとか、気絶しているのだから反応がないのは当然なのに、それが理解出来ていない。
「あはは……」
 狼狽している獄寺の様子も簡単に思い浮かんで、綱吉は乾いた笑いを零した。
 そもそも今回の騒動は、その獄寺が学校に潜り込んだランボと鬼ごっこを開始したのがすべての原因だ。いや、元々は綱吉が、家に弁当を忘れて来たのが悪いのか。
 事情はどの辺まで聞いているのだろう。ちらりと布団の影からシャマルを見上げると、視線を感じ取った彼はタオルを握り、綱吉から剥がした。
「まだ腫れてるな」
「いでっ」
 若干赤みは減ったものの、打撃痕はくっきり残されたままだ。これは暫く腫れたままかもしれないな、と口の中で呟き、シャマルは顎が動くかどうか確かめるよう綱吉に促した。
 だが口を大きく開けるのは苦労で、いつもの半分も行かなかった。
 途中で痛みが走り、思うように動かせない。歯も、強く噛み締めすぎると頬の筋肉が引き攣った。
「こりゃあ、暫く固形物は無理かもな」
 咀嚼するのも辛いだろうと傷の具合を確かめたシャマルは率直な感想を口に出し、聞いた綱吉は悲壮な色に表情を染め上げた。
 それはあんまりすぎる、昼ごはんだって食べていないのに。
 意識すると忘れていた空腹感が蘇り、ぐぅぅと情けない腹の虫が鳴いた。シャマルにもしっかり聞こえて、彼は直ぐに何の音か分からなかったようだが、恥かしそうに綱吉が唇を噛んでいるのを見て、納得した様子で頷いた。
 弁当箱を忘れた綱吉の為に、奈々はよりによってランボを配達人に指名した。いや、恐らくはランボが自ら挙手して候補に名乗り出たに違いない。
 ただ、それだけならば特に問題はない。届けようとしてくれたランボの心意気に綱吉は感謝したし、ランボも奈々のお手伝いが出来て大満足だったろう。
 騒動が巻き起こった原因は、単純だ。
 道すがらお腹が空いたランボが、綱吉の弁当をこっそり食べてしまったのだ。
 最初は、ちょっとだけのつもりだったのだろう。ところが、気がつけば弁当箱は空っぽ。焦った彼はそれを風呂敷で包み直し、さも中身は無事であるかのように偽装して綱吉に届けた。
 一方空腹に苛まれていた綱吉は、ランボの宅配を心から歓迎し、諸手を挙げて喜びを表明した。
 なんだか軽いな、とは思ったがすきっ腹では思考も働かない。意気揚々と包みを解き、蓋を開け、見事すっからかんになっていた弁当箱を見た時、綱吉は目が点になった。
 これはいったいどういう事かと逃げようとしていたランボを捕まえ、問質したところ、思い切り顔を引っかかれて逃げられた。高い場所に逃げ込んだ彼は高笑いし、言った内容が、
『ツナの弁当はランボさんが頂いちゃったんだもんねー』
という、憎たらしいばかりの可愛げ皆無な開き直りだった。
 それを聞いた獄寺が綱吉以上に憤慨し、お仕置きしてやると彼を追い回して、学校中鬼ごっこを展開し、雲雀に見付かってこの結果だ。
 一通り思い出して天井を仰いだ綱吉は、すべてのとばっちりが自分に集中した結末に愕然とし、項垂れた。
「おなかすいた……」
 頭を働かせたら余計に空腹が強くなって、哀しくなった。
 殴った雲雀には怒る気力も沸かない、注意されるほど五月蝿くしていたのは確かだ。ランボも、可能性は教室にあの子が姿を現した段階で疑って然るべきだったのだ。
 獄寺は言うに及ばず。やりすぎだったのは否めないが、彼もあれで良かれと思ってやっている事だ。きつく叱るのは止めておこうと思う。
 とどのつまり、誰も憎めないし、恨めない。お人よし過ぎる自分の性格に辟易しながら、綱吉はまだズキズキ痛む顔の右半分に唇を噛み締めた。
「湿布貼るか」
 何もないよりはマシだろうと、シャマルは濡れタオルを手に椅子から立ち上がった。追い縋って綱吉が手を差し出すが、無視されて背を向けられる。白衣を纏った広い背中が直ぐにカーテンの向こうに消えて、彼は肩の力を抜き、行き場の無くなった手をベッドサイドに垂らした。
 揺れるカーテンの裾を見詰め、左を下にして顔を伏す。タオルを洗っているのかまた水音が響いて、待っているうちに段々と瞼が重くなっていった。
 眠ってしまおうか、空腹を誤魔化すためにも。それが一番良いような気がして、綱吉は力なく微笑み、右の耳でシャマルの足音を聞いた。
 ひやり、と。
「うひゃ!」
 油断しきっていたところに氷水の冷たさを押し当てられ、またもみっともなく悲鳴を上げた綱吉は、折り畳まれて分厚くなったタオルの端と一緒ににんまり笑っているシャマルの姿を見た。
 湿布だと言っていたのに。
「もうちっと腫れが引いたらな」
 不意打ちも甚だしい。不満顔で下唇を突き出した綱吉のおでこを払い、汗で張り付いていた前髪を退かしたシャマルが怒るな、と鼻の頭を小突いて再び椅子に腰を落とした。
 今度は尻に白衣を巻き込み、煙草臭さを遠慮せずに綱吉に触れてくる。
「痛むか」
 案じる声色は優しくて、それが彼らしくない気がして綱吉は小さく笑った。
「ランボは?」
 喋り辛さは相変わらずだが、熱が引いてきたからだろう、最初に比べればずっと楽だった。
 こんなになっても自宅で預かっている幼子の心配をする彼に、シャマルはそのお人よしぶりに苦笑して肩を竦める。午後の授業中なのか保健室は静かで、開けっ放しの窓からリコーダーの合奏曲が遠く聞こえてくるだけだった。
 皺だらけの太い指が綱吉の髪を丁寧に梳き、頭を撫でる。細かい傷が無数にある指先の感触は決して快いものではなかったけれど、綱吉が知らない彼の過去がそこに全部詰まっている気がして、触れられる毎にそれが自分の中にも流れてくる気がして、好きだった。
「牛ガキなら、リボーンが縄で引っ張って連れて帰ったぞ」
 綱吉の敏腕家庭教師を自負する凶悪な赤ん坊もまた、聞くところによると騒動の最初から学校に潜り込んでいたらしい。雲雀と獄寺が廊下でバトルを開始した辺りで死ぬ気弾を綱吉に撃ち込むつもりだったが、その前に綱吉が雲雀のトンファーに沈んだので出番がなかったと拗ねていたそうだ。
 もしそうなっていたら、この程度の騒ぎでは済まなかったろう。結果的には肉を切らせて骨を断ったわけで、綱吉のでしゃばった行動は功を奏した。
「もー、みんな好き勝手なんだから」
 どうして自分の周りには騒動が絶えないのか。心の底から愚痴を零し、綱吉は頬に走った痛みに顔を歪めて目を閉じた。
 ベッドから落とした手を引き戻し、シャマルの袖を抓む。指を絡めるだけで握りはせず、お互い肘をちょっとでも動かせば簡単に外れてしまう程度の力加減に、シャマルは呆れ調子で苦笑し、肩の力を抜いた。
「お前がそれを許すからだろ」
「ん?」
「お前が、そうやってなんでもかんでも許すから」
 ランボの悪戯も、獄寺の直ぐ爆発する気性も、雲雀の謂れなき暴力も。
 最初は苛立ち、不機嫌になり、怒りを抱いても、それらの負の感情はすべて自分の中で消化させてしまって、周囲にぶちまけるような真似はしない。しょうがないか、の一言で全部許してしまうから、みなが皆、綱吉に甘えるのだ。
 よく言えば優しい性格、悪く言えば八方美人。
「そうなのかなあ……」
 そんな風に見られていたのかと思うとショックで、シャマルの顔を見上げた綱吉は琥珀の瞳を揺らした。
 誰にも嫌われたくないから愛想良くして、へらへらして、嫌な事も我慢して。我慢を溜め続けるストレスを解消する為に身に着けた彼なりの処世術が、諦めることだった。
 自分はなにをやってもダメダメだから、目立たず、尖がらず、平凡でいよう。上を望むでもなく、下に転がり落ちるでもなく、真っ直ぐで平坦な道を、どこまでも真っ直ぐに。
 これまでの自分の生き方を否定された気分になって、哀しげに目を細める。彼が意味を曲解していると察したシャマルは、額面通りにしか悟れない綱吉の未熟さを笑い、思い切り彼の小鼻を抓んだ。
 顔の中心を引っ張り、後頭部を浮かせて落とす。
「いででででで、いたい、痛いって!」
 頬の腫れも引いていないのに、しなくていい怪我を増やされて綱吉は大声で喚いた。
 枕に頭を沈め、トナカイみたいになった鼻を右手で庇う。濡れタオルは頬から剥がれ落ち、シーツに横たわって水分を周囲に拡散させた。
 怒るべきなのは綱吉なのに、シャマルが何故か怒っている。訳が分からない綱吉は鼻と頬のどっちの痛みを優先させるかで先ず悩み、ベッドに肘を立てて上半身を僅かに起こした。
「シャマル」
「自己犠牲なんてもんは、お前が思ってるほど綺麗なもんじゃねーんだぞ」
「……シャマル?」
 語気を強めた咎める口調に、綱吉が怪訝に眉を寄せる。一秒後ハッとした彼は慌てて取り繕うように誤魔化し笑いを浮かべ、なんでもないから気にするなと首を振った。
 綱吉はベッドで座り直し、両足は揃えて身体の右側に流した。上体を左に傾け気味の姿勢を取り、目の前の男を見上げる。
 手は宙を泳ぎ、三度彼の袖を捕まえた。今度はしっかりと、無数の襞が刻まれるように力を込めて。
「シャマル」
 力を抜き、頭を垂れる。重力に逆らって天を向く毛先を揺らし、綱吉は背を丸めて彼の手の甲に額を押し当てた。
 加えられる力の所為でシャマルの左手は下に行くが、抵抗して綱吉を支え続けてくれる。
「シャマル」
「……なんだ」
「いい。もっと怒って」
「は?」
「怒ってくれていい。……怒って欲しい」
 傍目には頭を下げている風にも見える綱吉の姿勢に、シャマルは素っ頓狂な声を出して小さな目を丸く見開いた。
 なにをマゾヒストめいたことを言い出すのか。冗談だろうと笑い飛ばそうとして失敗した彼に、綱吉もまた目の前の暗い影を見詰めて曖昧に笑った。
「俺は、……あんまり怒られたことないから」
 奈々は優しかった。家光も、過保護過ぎるくらいに綱吉を愛してくれた。
 勿論悪戯をした後は怒られたし、説教の時に正座させられるのも嫌いだった。そうやって、叱られたくなくて良い子になって、人に迷惑をかけないように気を配っているうちに、本当に周囲から全く怒られなくなった。
 喜ばしい事だろうに、何故だか釈然としない。しっくりこないまま成長して、腫れ物に触るように人に接するのがいけなかったのか、心から思いをぶちまけられるような、正面からぶつかり合える仲間はなかなか出来なかった。
 今は山本や獄寺が傍にいてくれるけれど、彼らとも未だ一線引いたままだ。
 友人関係が壊れるのが嫌で、喧嘩をしたくなくて、意見が分かれた時は自分が妥協するようにしていた。自分の意見を強要することは、したくなかった。相手を慮って、己を蔑ろにする傾向は、シャマルの指摘通りだ。
 自己犠牲なんて気取ったつもりはなかった。ただそう言われたら、そうなのだろう。
「リボーンは怒るだろ」
「……そうだね」
「あいつだけじゃ不満か?」
「そうじゃないけど」
 自嘲気味に笑って、綱吉はもう片方の手も持ち上げてシャマルの白衣を握った。
「リボーンは、こんな風に甘えさせてくれない」
 自分の足で立て、自分で考えろ。自分の力でなんとかしてみせろ。
 言うだけ言って、後は丸投げ。彼の言い分が限りなく正論であり、綱吉が否定できないところをぐさりと抉った上で傷口に塩を塗って去っていく。こちらが途方に暮れて、呆気に取られていても手を差し伸べてくれない。
 勿論それは、彼なりに綱吉を案じ、成長を期待しての言動なのだと分かっている。彼の厳しさがどんな感情の裏返しなのかも。
 ただ、未だ己の力のみで立ち上がるのは、今の未熟な綱吉では辛すぎる。
 支えとなる手が、背中が欲しい。
 怒った上で、ちゃんと綱吉を包んでくれる掌が欲しい。
「お前な、今どんなこっぱずかしい、スゲー事言ってるか分かってるのか」
「ううん、分かんない」
 照れ臭さを隠すシャマルの乱暴な言葉遣いに、綱吉は痛いのを堪えて笑って、彼に擦り寄った。
 ベッドから上半身がはみ出て、姿勢が不安定になる。崩れ落ちそうになるのを、綱吉の期待通り両手で支えてやったシャマルは、複雑な表情で彼の背中を撫で、胸に抱きこんだ。
「まだ痛いか」
「……ちょっと」
「そうか」
 低い声の問いかけに控えめに返し、綱吉は彼のネクタイに鼻先を寄せた。
 頭を撫でられて、嬉しそうに目を細める。
「シャマル」
「ん?」
 名前を呼んで、返事をしてくれるのが嬉しかった。
 しがみつけば面倒臭そうにしながらも、抱き締め返してくれるのが嬉しかった。
 この曖昧な、大人と子供の括りから少しだけはみ出た関係が好きだった。
 だから。
「……なんでもない」
 綱吉はもう何も言わず、彼の胸に顔を埋めた。

2008/07/15 脱稿