微熱

 天気予報が伝える情報の変動が、実に激しい一週間だった。
 昨日晴れると言っていたはずの予報士が、今日は雨だと何食わぬ顔で言い放つ。いったい何を信用すれば良いのか、とテレビに向かって詰問してしまいたくなるほどに、信頼すべきデータはたった数時間で百八十度入れ替わって、見る側の頭を混乱させた。
 しかも混乱していたのはどうやら綱吉の頭だけではなかったようで、朝は見事な晴れ模様だった空が、夕方には一転して重い雲に覆われて、家に帰る頃には土砂降りの日も間にあった。
 夜になっても雨が止む気配はなく、雷が轟いて衝撃から窓がびりびりと震えて音を立てた。
 小さな子供たちは軒を打つ雨音に怯えて早くから布団に潜り込み、頭まで被ってそのまま寝入ってしまったらしい。こういう日は大人しくて助かる、そう言って奈々は笑っていた。
 降りしきる雨はもれなく夏に近付きつつある陽気を春の始まりまで戻し、半袖で事足りた暖かさは揃って何処かへ逃げて行った。残されたのは長袖を着込んでいても感じる肌寒さだけで、しかし五月の長期休暇のうちに衣替えは一足先に済ませてしまった後。
 とどのつまり、着る物がない。
「……くしゅっ」
「あら、風邪?」
 朝方目が覚めた時に感じたのは、喉への軽い違和感。何かが引っかかっているような、紙やすりでも張り付いているかのようなザリザリ感が咽喉の奥に付きまとって、嗽をしても、痰を吐いても変化は訪れなかった。
 それどころか余計に違和感が強まってしまって、頻りに喉を擦るが、その程度で治るものなら誰も苦労しない。鼻の奥深くでも繊毛が細かな塵に反応し、むずっと来た瞬間に小さなくしゃみが出た。
 奈々に訊かれ、綱吉は噛み千切った目玉焼きを数回の咀嚼で飲み込んだ。布団の中でぐずぐずしていた所為で起床が遅くなり、目覚まし時計を見て大慌てで飛び起きた綱吉は、椅子に座ってゆっくり食事を摂る時間も惜しんで、立ったままフォークを握っていた。
「どだろ、分かんない」
 半分になった目玉焼きをフォークの先で突き、牛乳に手を伸ばした綱吉は鼻の下を掻いて首を傾げた。
 確かにちょっと熱っぽい気もするが、もとより綱吉は平均体温が比較的高い。喉の調子も気に掛かるが、唾や食べ物を飲み込むときに少し痛む程度で、風邪と言ってしまうほど酷い症状でもない気がした。
 昨晩は雨の所為で気温も低かったので、眠っている間に冷えただけだろう。酷くなるようなら薬に頼ることにして、綱吉は残る目玉焼きをひとくちで頬張り、大きな塊のまま飲み込んだ。
「行ってきふぁふ」
「気をつけてね」
 口からはみ出そうになったものを無理矢理押し込み、足元に置いた鞄を捕まえて牛乳をもうひとくち。最後にこんがり焼けたトーストを咥え、奈々から弁当を受け取った綱吉は急ぎ足で台所を出た。
 新聞を読みながら優雅にコーヒーを飲んでいたリボーンの、呆れた視線が背中に突き刺さる。だが文句を言っている時間も惜しく、綱吉は鼻の頭についたジャムもそのままに靴を履き、玄関のドアを開けた。
 外は健やかなまでの晴天が広がり、路面が濡れたままでなければ昨晩の嵐が夢だったと思えるくらいだった。
 パンを口に押し込み、乾いた咥内に唾を呼び込んで潤いを補充させ、走りながら鞄に弁当を詰める。今月の遅刻回数がそろそろ両手も足りない回数になっているので、真面目に急がなければ雲雀の鉄槌が恐ろしい。
 歯の隙間に残ったパンくずを舌で捏ね、綱吉は息せき切らせて額に汗も滲ませ、必死に走った。まだ残る路面の水溜りを大きく飛び越え、胃袋に詰めた朝食が激しくシェイクされて気分が悪くなるのも堪えて、両腕を前後に振り回す。
 どうにかぎりぎり、予鈴の十五秒前に正門を潜り抜けたときには心臓が破裂しそうなくらいに高鳴り、息も絶え絶え。残念がる雲雀の妖艶な視線からいそいそと逃げた彼は、汗を吸って冷たくなったシャツもそのままに教室へ続く階段を駆け上り、そこで力尽きた。
「はー……」
 本鈴と同時に着席し、もう動けないと机に寄りかかる。全身に鳥肌が立って突如沸き起こった寒気にも、急激に運動したからだと彼は自己診断で結論付けてしまった。
「けほっ」
 先生が入ってきて、教室のざわめきが静まる。小さく咳をした綱吉は、自分の喉仏の周囲を撫でて朝方からあった違和感に眉を寄せた。
「あれ」
「それじゃ、出席を取るぞ」
 しかし考えるよりも先に、教卓を叩いた先生の威勢の良い声が聞こえてきて、綱吉の思考は霧散した。
 息を飲み込むだけでも喉の奥に熱が生まれ、しこりを感じて痛い。
「だいじょうぶ、だよな」
 口の中で呟き、今は授業に集中しようとまだ何も準備出来ていない状況を思い出し、彼は急ぎ鞄をあけて文房具を取り出し、広げた。しかし急いでいたからだろう、教科書を開こうとしたところで肘が筆入れに当たり、机からこぼれ落ちてしまった。
「あっちゃ……」
 やってしまった。音を立ててバラバラに散らばったペン類に顔を顰め、拾おうと椅子を引き、腰を曲げて腕を下へ伸ばす。自分の身体で作られた影に視界が覆われ、薄暗さに目が慣れない綱吉は二度、立て続けに瞬きを繰り返した。
 喉が異様に渇いて仕方なく、唇を開閉して唾を飲む。舌の根に力を込めて咥内の空間を狭めた直後、急に身体がふわりと浮き上がる感覚に襲われた。
「……え?」
 目を開いているはずなのに、光が遠い。自分の手が何処へ行ったのか分からず、綱吉は傍目からすれば頭を低くしたままの状態で数秒間停止していた。
「ツナ?」
 隣の列、綱吉の席から後ろにふたつ下がった地点にいた山本が、そんな彼の異変にいち早く気付いて眉目を顰めた。
 どうかしたのか、そう問おうとして広げた教科書の上に肘をつき、身を乗り出す。
 ぐらり、と。
 彼の目の前で綱吉の身体が右に大きく傾いだ。
「ツナ!」
 まずい。咄嗟に肝を冷やした山本が叫んで椅子を後ろに蹴り倒し、順番に生徒の名前を読み上げていた先生の声を掻き消した。
 立て続けに綱吉が椅子から倒れ、床に頭から落ちる音が響く。真横に居た女子が金切り声の悲鳴をあげて飛びずさり、廊下側の席に居た獄寺が山本の声に反応して立ち上がった。
「十代目!」
 動揺のあまり裏返った獄寺の声に、出席確認を邪魔されてぽかんとしていた先生も我に返る。静寂に包まれていた教室はにわかに騒々しさを取り戻し、何が起きたのか立ち上がって確認しようとする生徒も何人かいた。
 山本は自席を離れて誰よりも早く綱吉の元へ駆けつけ、硬く瞼を閉ざしている彼を抱き起こして膝を枕に裏返した。
 触れた肌は驚くほど熱く、額は汗でびっしょりと濡れて唇は紫に色を変えていた。
「ツナ、おい、ツナ。しっかりしろ!」
「十代目、大丈夫ですか。十代目、返事をしてください」
 慌てふためきながら人と机の列を掻き分けてきた獄寺が山本の向かいに膝を落とし、浅い呼吸を繰り返している綱吉の顔を覗き込む。必死に呼びかけるものの返事はなく、綱吉は辛そうに表情を歪ませるだけだった。
 細い肩を抱いた山本が、利き腕を解いて汗を滲ませる彼の額に指を置く。
「すげー熱だ」
「おい、この野球馬鹿。十代目にもし何かあってみろ!」
「獄寺、やめろ。ツナを保健室連れて行くのが先だ」
 触れた瞬間に顔を顰めて舌打ちし、手を放した山本の胸倉を獄寺が掴む。シャツを捻って引きずり上げた彼の動揺具合に、落ち着けと山本は平静を装って首を振った。
 両者の間に挟まれ、山本の脚に上半身を預けている綱吉が苦しげに息を吐く。
 獄寺によって姿勢を崩され、山本の曲げた脚の角度が変わった所為で彼の身体はゆっくりと冷たい床に滑り落ちて行こうとした。注意されて気付いた獄寺が急ぎ山本を解放し、両腕の自由を取り戻した山本が綱吉を支え直す。
 開始早々に中断した授業に教室はざわめき、獄寺の後ろから状況を確認した先生が渋い顔をした。
「沢田は、どうかしたのか」
「急に倒れて……。熱があるんで、保健室に」
 連れて行ってもいいかどうかの判断を教師に仰ぎ、山本は神妙な顔をして綱吉の手を握った。
 肩を押されてふらついた獄寺に睨まれ、臆していた男性教師が困った風に視線を泳がせる。顔色を彩の悪い赤に染めた綱吉のつらそうな表情は誰の目にも明らかで、数秒の逡巡の末、彼はこのクラスの保険委員を探して声をあげた。
 教室内に居た面々のうち、約半数がひとりの女子生徒に視線を注ぎ、一斉に見詰められた相手はあからさまに怯えた顔をして椅子の上で身を揺らした。
 彼女の細腕で綱吉を運ぶのは無理な話で、右膝を床に添えて腰を浮かせた山本は、綱吉の脈の乱れに唇を浅く噛んで彼の脇腹に腕を差し込んだ。
「おい」
「俺が運びます」
 勘付いた獄寺が制止の声をあげるが、それより早く山本は丹田に力を込めて起き上がった。
 いくら綱吉が平均体重よりも軽いとはいえ、意識がない人間の身体は重い。案の定彼は姿勢を真っ直ぐに伸ばした瞬間に斜めにふらついて、今は誰も座っていない椅子の角で強かに腰を打ち付けた。
 それ見たことかと獄寺がひとりでやろうとする彼を鼻で笑い飛ばしたが、山本がバランスを崩したのはこの一度きりだった。
「あっ、俺も一緒に」
「保健室連れて行くだけだし、大勢で行って騒ぐ方がツナに悪いだろ」
 なるべく綱吉に衝撃が行かぬよう、慎重に彼の身体を抱え直した山本が、中腰で見上げてくる獄寺に正論を叩きつける。口調は日頃のそれと変わらぬ穏やかさではあったが、有無を言わせぬ気配が裏側に込められていて、獄寺は悔しげに瞳を細め、唇を浅く噛んだ。
 獄寺が保健室までついていったところで、できることはなにもない。せいぜい意識のない綱吉の手を握ってやることくらいだ。
 運ぶのを手伝うという名目は、こうしている間もひとりで彼を抱えている山本を前にしては成り立たない。一歩遅かったのだと獄寺は拳を震わせ、自分の不甲斐なさを心の中で罵った。
「そうか。じゃあ、悪いが頼むよ」
「分かりました」
 ふたりの間で折り合いがついたのを察し、山本に綱吉を任せて教師は踵を返す。立ち上がっていた生徒の多くもホッとした様子で自席に戻り、一分もしないうちに教室に沸き起こった喧騒の波は引いていった。
 山本が教室を出るところまで獄寺はついていったが、後方のドアを開けたところで彼は足を止める。遠ざかる山本の背中を暫く睨んでいた彼だが、自分が席に戻らない限り授業が始まらないと知って、悔しげに宙を蹴った。
 獄寺が渋々着席し、気を取り直すつもりで咳払いをした先生が出席確認から再開させる。読み上げられる生徒名の中、ふたり分の返事を待たずに名簿は閉じられた。

「しっつれーしまーす」
 辛そうにしている綱吉を抱えた山本は、ゆっくりとした動きで一段ずつ階段を下り、保健室のドアを行儀悪く足で横にスライドさせた。
 呼びかけながら目の前に広がった空間に目を凝らすが、予想された返事も、想定していた保険医の対応も、山本の期待に反してなにひとつ起こらなかった。
 無音、無反応。シンと静まり返った室内は消毒薬の匂いが微かに広がる以外、これと言った特徴を持たず、当然ながら此処に在るべき人の影も見渡す限り何処にもありはしなかった。
「あっれ」
 もう一度呼びかけてみるが、返事はない。物音ひとつ響かず、ただ山本の声が間抜けに反響するだけで、彼は寒いのか震えている綱吉を抱えたまましばし呆然とその場に佇んだ。
「シャマルのおっさん、いねーの?」
 三度目の確認をして、足を前に踏み出す。敷居を跨いで潜り込んだ保健室はひんやりとした空気に覆われ、解放された窓から差し込む光で照明無しでも十二分に明るかった。
 無人の机を見て、ベッドが並ぶ区画にも目を向ける。いい加減腕が限界を訴えているのもあって、山本は仕方なくそちらに足を向けると、一番手前のそれにぐったりしている綱吉を注意深く下ろした。
 横に寝かせてから、上履きを脱がせて床に揃えて置く。姿勢が安定したからか、中心にパーツが集まっていた綱吉の顔が少しだけ緩んだ。
「熱、酷いな」
 この場合、どうすればいいのか。超健康優良児である山本は、野球部に所属しているお陰で怪我ならば慣れているものの、病気にだけはほとほと縁がなかった。
 父親も寝込むことは殆どなく、故に家人を看病した経験は皆無に等しい。
 浅く胸を上下させて、頻繁に喉に詰まった咳をする綱吉の額を撫で、熱の具合を確かめて山本は渋面を作った。よりによってこんな時にシャマルがいないとは。何処へ行ってしまったのだろうかと後方の空間を振り返り、相変わらず他に誰もいない環境に彼は肩を落とした。
 綱吉を此処に預け、自分は教室に戻るつもりでいたのに、そうも行かなくなってしまった。このまま彼をひとり置いて行くなんてどだい無理で、それ以上にこんなにも辛そうにしているのに、何も出来ない自分が酷くもどかしくてならなかった。
「くっそ」
 綱吉の足元で折り畳まれていた布団を広げ、被せてやる。汗を拭いてやりたいところではあるが、タオルが片付けられている場所を山本は把握していなかった。
 こんなことならば、自分の鞄を持って来ればよかった。
 教室に置いてある彼の鞄には、部活で使うタオルや着替えも入っている。そのことを思い出して親指の爪を噛んだ彼は、取りに戻ろうかで迷い、盗み見た綱吉の赤い顔に力なく首を振った。
「どっかにある筈だ」
 天井に張り巡らされたレールにぶら下がるカーテンを引き、綱吉を直射日光から遠ざけて山本は靴の裏で床を叩いた。
 苛立ちは自分の胸の中だけに留め、ぐるりと不慣れな保健室内部に目を凝らす。薬品が入った棚に、整理が行き届いていない机、斜め六十度を向いている椅子、吸殻が山盛りの灰皿と順に視線を巡らせた彼は、棚の手前にある消毒薬などの使用頻度が高いものが並ぶワゴンに瞬きを二度繰り返した。
 それには白塗りのドアが下部に設けられていた。ピンと来た山本は大股で歩み寄り、膝を折って屈み込む。観音開きの取っ手を左右に握って力を込めると、予想通り、中には洗濯したタオルが行儀良く並べて収納されていた。
「ビンゴ」
 白無地のタオルを上から順に二枚取り、扉を乱暴に閉める。スッと立ち上がった彼が次に向かったのは、開けっ放しにしている出入り口左側奥の水場だった。
 シャマルがコーヒーなどを作るのに使う為か、簡易キッチンと化しているそこに近づき、再びしゃがみ込む。洗面台の下にある戸を開けて洗面器を見つけた彼は、それを引っ張りだすとドアは足で閉め、さっき見つけたタオルの片方を浅い桶の底に敷いた。
 銀色の蛇口を捻り、水を溜める。水分を吸収した柔らかな布は一旦ふわりと浮き上がった後、ゆっくり沈んでいった。
「えっと……体温計、と氷は、あるのかな」
 他に必要なものは、と記憶を掘り返して指折り数える。洗面器を出す時に氷嚢が見えたのを思い出し、適当なところで水を止めて先に濡らしたタオルを絞って水気を切った。両端を持って捻り、余分な水分を落として平らに広げる。額に載せても落ちない大きさに畳み直して、山本は足早にベッド脇へと戻った。
 綱吉は相変わらず赤い顔をして、息苦しそうに眉間の皺を深くしていた。
 意識が戻った様子はない。瞼は固く閉ざされ、あの綺麗な琥珀色をした瞳を見るのは叶わなかった。
「ちっくしょ……」
 自分が悪いわけではないのに悔しくてならず、山本は呻くように呟き、持って来たタオルを綱吉の額にそっと置いた。
 前髪を指で横に払いのけ、露になった肌に重ねる。ずり落ちぬよう上から数回に分けて手で押して、彼の指の形が温いタオルの表面に幾つも残された。
「う……」
「ツナ?」
 濡れた感触が気持ち悪かったのか、綱吉は嫌がって枕の上で首を振った。唇から声を漏らすがことばにはならず、意識の浮上も見られない。一瞬期待した山本は、変化に乏しい状況に肩を落とし、苦しげにしている綱吉の頭を一度だけ撫でて、離れた。
 水で湿らせたタオル程度では追いつきそうにない。洗面台に戻った彼は盥の水を捨て、先程見つけた氷嚢を棚の奥から引っ張りだした。
 冷凍庫を開け、噴き出た白い煙を手で払って製氷機を探す。直ぐに見付かって、指で触れて固まっているのを確認してから取り出し、山本は勢いよく出来上がっていた氷を洗面器にぶちまけた。
 角がぶつかり合い、ゴンゴンと音を立てて半透明の氷が二十個ばかり傾いた盥の底に沈んで行く。ドアはきちんと閉めて、空っぽになった製氷皿は戸棚に放り出し、金色の金具で口を封じられている氷枕を手にして山本は若干途方に暮れた。
「どうやって外すんだ、これ」
 引いても、押しても、反応しない。ちょっとやそっとの衝撃で中身が飛び出さないように工夫されているからか知らないが、見たこともない固定方法をされていて山本は顔を顰めた。
 熱なんて年に一度出すか出さないかの病気知らずな自分が、この状況下では恨めしくてならなかった。
「これが此処に引っかかって……だからこっちが、こうか?」
 自問を口に出しつつ、手探りで金具を操作して外していく。一見しただけでは複雑に絡み合っている風に見える留め具も、順繰りに定められた法則に従って外していけば、殊更問題に思うほどのものではなかった。
 漸く蝶番を広げてゴム製の氷嚢の口を解放し、ホッと胸を撫で下ろす。氷は既に解け始めていて、互いの表面を覆う水が冷やされて大きな塊が形成されようとしていた。
「それで、えっと、どうだったか」
 氷枕というくらいだから氷を入れれば良いだけだが、果たしてどれくらいが適量なのだろう。試しに数個掴んで中に入れ、口を塞いでみる。感覚的に、これでは少ないような気がした。
「もうちょっとか」
 左手を解き、開いた口にまた氷を。けれど今度は多すぎたようで、表面がごろごろして頭を乗せると痛そうだった。
「あれ、……駄目か?」
 幼い頃の記憶にある氷枕とは違うものが出来上がろうとしていた。首を捻り、苦虫を噛み潰した顔をして苦悶した彼は、溶けていく氷を気にしながら助けを求めて誰も居ない空間を振り返った。
 風にカーテンの裾がゆらゆらと頼りなく揺れている。吹き込む風は夏の気配を匂わせて穏やかだが、時折肌を刺す冷たさを内側に隠して山本の襟足を擽った。
 影になって此処からでは見えないベッドを探し、視線を彷徨わせた彼が最後に己の手の中を見下ろす。
「あ」
 大量の氷を詰め込まれて重くなっている氷嚢の先で、雫を滴らせる蛇口に気付いた彼は、そういえば、と蘇った過去の自分を壁の向こう側に見て目を見張った。
 氷枕を斜めにし、入れ過ぎだった分を吐き出させて代わりに水を注ぎ込む。金具を外した手順と逆で留めて横にし、上から押してみれば弾力は申し分なかった。気になっていた氷の固さも、取り囲む水がクッションになってくれて苦にならない。
 彼は満足げに頷くと、濡れた表面をタオルで拭い、ベッドに向かった。途中ワゴンからもう一枚乾いているタオルを確保し、カーテンを潜る。
 寝返りを打ったのか、綱吉の額から濡れタオルが落ちてしまっていた。
「ありゃま」
 左に向いて眠っている綱吉の少しは落ち着いた顔に苦笑し、山本は持って来たタオルを広げてそれで冷たい氷枕を包んだ。そして綱吉の頭の下に右手を差込み、生温さが増しているタオルごと枕を引き抜く。
 頭は動かさぬように注意深く、入れ替わりに氷枕を窪んでいる箇所に宛がって、静かに下ろしてやった。
「ん、う……」
 頭の位置が低くなったのが分かったのか、彼は鼻から息を吐いて睫を痙攣させた。
 教室で倒れた時よりは色を取り戻した唇が震えて、薄く開かれた隙間から息を吐く。顔色自体は依然優れないままだが、安心して良さそうだと判断して山本は胸を撫で下ろした。
「あ、やべ」
 洗面台をごちゃごちゃにしたままだったのを思い出し、片付けておかなければ怒られると山本は背筋を伸ばした。
 シャマルはまだ帰らない。見上げた壁時計は、一時間目が中ほどまで終了した頃合を指し示していた。
「ん……」
 涼しい風が綱吉の頬を撫でた。役目を失った枕を別のベッドに転がし、濡れタオルだけを手に残した山本もまた、下から上へ流れて行く気流を感じ取って視線を上向ける。
 瞬きをした綱吉が、ぼんやり滲んだ世界に頭の中で首を捻り、酸素を求めて唇を大きく開閉させた。
「……れ」
 掠れた声は喉に引っかかり、小さな痛みが熱を伴って彼を襲う。ハッとした山本が急ぎ振り向いて、鮮やかな琥珀色の瞳をそこに見出した。
「ツナ!」
 思わず飛び出た呼び声は喜びに溢れ、興奮からか若干上擦っていた。
 首をコトン、と傾けて落とし、塊の氷を後頭部に感じ取った綱吉が人の姿を認識して眉目を顰めた。まだ焦点が定まらず、曇りガラスを一枚通しているみたいな景観が広がっている。だが声から相手が誰なのかは直ぐ分かって、彼は緊張に強張っていた頬を瞬時に緩めた。
「こ、こ……」
「保健室。覚えてないか?」
 喋ると喉が痛い。普段よりも僅かに低く、しゃがれた声を出した綱吉は瞳を持ち上げ、真っ白い天井を見詰めて瞼を閉じた。
 一歩ベッドに寄った山本が、タオルを右手に握り締めて問う。返事は首を振るだけで済まされた。口呼吸は喉が辛いのか、綱吉の唇は一文字に引き結ばれていた。
 火照った肌に薄らと汗が浮いている。山本は手にしていたタオルをちらりと見やり、ちょっと待っていろと早口に告げて場を離れた。
 慌しくカーテンの向こうに消えた背中を薄く持ち上げた瞼の向こうから追いかけて、見えなくなってからは再び目を閉ざし、綱吉は長く細い息を吐いて喉を仰け反らせた。
 ドアを閉める音、水道を使っているのか水の流れる音が数秒の間隔を挟んで続く。騒々しくもあるが、不思議と不快ではなかった。
「悪い。待たせた」
 暫くじっとベッドで横になっていると、カーテンを広げて山本が顔を出す。務めて明るく振舞う彼は、濡れている手で絞ったタオルの捻りを解き、綱吉の額に添えた。
 ひんやりとした感触に、綱吉はホッと息を吐いた。
「ありがと」
「氷枕、どうだ。痛くないか?」
 目を閉じたまま礼を言い、問いかけには首を横に揺らして答える。たぷたぷと肌越しに聞く水の音は、穏やかな海の細波にも似て、不思議な感じがした。
 大多数の氷は溶けてしまったようだが、幾らか塊はまだ残って浮いている。頭を揺らすたびに形を変える枕が面白くて、綱吉は喉を鳴らして笑った。
「ツナ?」
「ごめんね、ありがとう」
 急に目尻を下げた彼を怪訝がって、山本が神妙な顔をして名を呼ぶ。薄目を開けた綱吉は、左目だけを直ぐに閉じて隻眼で傍らの彼を見上げた。
 教室に居たはずの自分が、気付けば保健室のベッドに寝かされている。何が起きたのか記憶は曖昧だが、状況の変化から推測は可能だ。
 落とした筆入れを拾おうとしたところまでは覚えている。急に目の前が暗くなって、まずい、と思った気がするがそこから先の記憶はすっぱりと途絶えて何も残っていない。目が覚めて白い天井が見えて、一瞬だけ混乱したがそれも今は遠い彼方だ。
 熱が引いていないので頭はぼんやりしているが、喉以外で痛む場所はない。あの状況からするに、椅子から落ちた筈なのだが。
 窺う視線を山本に向ける。目が合って、言葉を交わすことなく白い歯を見せて笑い返された。
 それだけでなんとなくではあるが分かってしまえて、綱吉は全身の強張りを解いて力を抜いた。吹き抜ける風が心地よく、頭を上下に挟む冷たさも相俟って熱はじきに引きそうだった。
「シャマルは?」
「それがさ、いねーんだよ。職務放棄も良いところだよな」
 気配を探っても自分たち以外誰も居ない気がして、綱吉は小声で簡素な質問を繰り出した。辛うじて聞き取れた山本が、良くぞ聞いてくれたとばかりに大仰に肩を竦め、不満に頬を膨らませた。
 ならばこの氷枕も、山本が用意してくれたものなのか。
 思考を巡らせ、タオルの所為で上半分が暗い視界を持ち上げる。外から差し込む光の中に佇む彼は、屈託なく笑っていた。
 教室から此処まで運んでくれたのも、彼だろう。その上面倒まで見てもらったとは。彼だって授業があるのに、申し訳ないことをしてしまった。
「やまもと」
「んー?」
「ありがと」
 いくら礼を言っても言い足りなくて、綱吉は布団の上で軽く身動ぎして身体を起こそうとした。
 だが平気だと思っていた身体は本人が思う以上にダメージが酷くて、鉄製の鎧を着込んでいるみたいに重く持ち上がらなかった。額にあったタオルが右にずれ、止めようとしたが間に合わない。
 腕を伸ばして拾い上げたのは山本で、含んだ水分の暖かさを確かめた彼はもう一回濡らしてくると言い残し、カーテンの向こう側へ姿を消した。
 そのあまりの素早さに苦笑し、彼の好意に甘えて綱吉は氷枕の上で頭を揺らして深く長い息を吐いた。
 意識がゆっくりと沈んでいくのが分かる。透明だけれど暗い空間に落ちていくのだが、怖くはない。そのまま寝入ってしまいそうになった彼だったが、ぽとりと頬に落ちた水滴に波を乱され、驚きに目を開けた。
 滲む輪郭が徐々にクリアになっていき、自分を覗き込む山本の姿に丸くした瞳を細める。
「悪い。起こしたか」
「……だいじょぶ」
 ちょっとうつらうつらしていただけで、問題はない。不安げに声を潜めた彼に言って、綱吉は持ち上げた手の甲で濡れた頬を拭おうとした。
 けれどそれより早く、身を乗り出した山本が太くガサガサした手で湿り気を取り払ってくれた。
 野球部で汗を流し、生傷が絶えない彼の肌は、帰宅部で荒事とも無縁の綱吉とは随分と違う。これが本来の、この年代の男子の手なのだろう。
 逞しく、ガサツだけれど暖かくて優しい。
 今度は少し絞りが甘いタオルを額に置かれ、擽ったさに綱吉が肩をすぼめる。
「どした?」
 声には出さず笑った彼に首を傾げ、山本は理由を知りたがった。けれど答えてはやらず、
「俺、どれくらい?」
「三十分もしてないんじゃないかな。授業、まだ終わってないし」
 自分でも山本が触れた箇所を撫で、かすかに残る湿り気に触れて綱吉が逆に聞き返した。彼は顔を上げ、壁時計を見上げて大雑把な回答を即座にはじき出した。
 きっと授業が終わると同時に、獄寺が廊下を突っ走って此処に来るに違いない。この場に居ない人物をついでとばかりに話題に乗せた彼に、綱吉は光景を想像して頬を引き攣らせた。
 途中で風紀委員に捕まらなければ良いのだが。布団の端を持ち上げて肩を隠し、今一度山本に、此処まで運んでくれた礼を言う。
「重かったでしょ」
「そんな事なかったぜ。ツナはもうちょっと、太った方がいいな」
 それでなくとも華奢すぎて、折れそうな程細いのだから。布団の上から骨格を撫でた山本に言われて苦笑し、綱吉は更に布団を持ち上げて口元まで隠した。
「風邪か?」
「だと思う」
「どうせ腹出して寝てたんだろ」
「そんな事」
 暖かい日が続いていて油断して、急に寒くなって体調を崩す。よくある事だと笑って、山本は綱吉の柔らかな頬を小突いてベッドに背中を向けた。去るのかと思いきや、逆で、踵を浮かせた彼は綱吉が横になるベッドに腰を預け、浅く座った。
 薄いマットレスが片側にへこむ。綱吉はタオルを落とさぬよう右手で端を押さえ、腰を捻って振り向いた山本を見上げた。
 距離が近くなって、彼の気配がより濃密に感じ取れた。
「しんどいか?」
「結構……平気」
 低い声で聞かれて、首を振って返す。ただ言葉の割に指に力は入らず、支えている筈のタオルは徐々に位置を低くしていった。
 気付いた山本が手を伸ばし、綱吉の額に掛かる髪を払った。数センチ横にずれていたタオルを最初の位置に戻し、生温い感触に唇を噛んで、替えてこようかと提案する。
 綱吉はこのままで構わないと緩く首を振った。
 弾みで離れた山本の手が戻ってきて、綱吉の髪を優しく梳く。太い指先が心地よくて、綱吉は照れくさそうに布団の端を握りしめた。
「ツナ」
「ん?」
「たいした事なさそうで、良かった」
 斜め上から見下ろし、心の底から安堵した表情で告げた彼に、綱吉は反す言葉に詰まり、息を止めた。
「……ごめん」
 いきなり目の前で倒れたわけだから、山本のみならず、居合わせた全員が驚いたことだろう。自分の体調をきちんと把握出来なかったのが悔しくて、情けなくて、綱吉は掠れた声で謝罪した。
「いや。誰だって調子悪いときはあるさ」
 タオルの上から綱吉の頭を撫で、髪を梳いた山本が微笑む。
 肉刺が潰れて固くなった指が恋しくて、綱吉は喉を仰け反らせてベッドの上で伸び上がった。スン、と鼻を鳴らして山本独特の汗と土の混じった匂いを近くに感じ取り、もぞもぞ動いて横倒しにした膝を丸める。
 胎児のポーズを作った彼を笑って、山本が落ちたタオルを拾って脇に除けた。
「寝てろよ。誰も文句言わないし、言わせないから」
 露になっている耳朶を擽り、襟足を撫でて山本が言う。
「獄寺君が来るよ?」
 笑い声を懸命に押し殺し、丸めた拳を喉に当てて綱吉が返す。
「寝てるって言えば、あいつだって変に騒いだりしないだろ」
 なによりも綱吉を最優先にする彼だ、安眠を妨害するなら出て行け、とでも言ってやれば、渋々でも従うだろう。
 耳をぺたんと折り畳み、しょんぼりしている犬の姿を思い浮かべた綱吉が声を堪えて笑った。
「だから寝ちまいな。んで、早く元気になれ」
 若干赤みが引いた頬を指の背でなぞり、山本が手を離した。瞳だけで動きを追い、追いつかなくなって首を持ち上げた綱吉が窓からの光に目を眇める。
「山本は」
「ん?」
 首を上げ続けるのも辛く、もう氷も少ない枕に体重を預けて綱吉は仰向けに姿勢を変えた。最中で紡ごうとした言葉は半端なところで途切れ、先に進まない。怪訝に眉を寄せた彼をちらりと見ただけで、綱吉は両側に広げた腕を真ん中に集めた。
 布団のシーツに皺を刻み込む。握り締めると、指先からするりと厚みは逃げていった。
「……どうせ戻っても、途中からじゃ分かんないし。いるよ、此処に」
 平らになった綱吉の両手に利き手を重ね、遠くを見詰めた山本が囁く。
「うつるよ、風邪」
「うつんねーよ」
「ほんとに?」
「試すか?」
 体力には自信があると嘯く山本に微笑んで、綱吉はやんちゃな子供の顔をした彼に目尻を下げた。
 ゆっくり、瞼を閉ざす。黒い影を受け止めた綱吉の頭上で、一時間目の終了を告げるチャイムが甲高く鳴り響いた。

2008/06/27 脱稿