不味

 昼だというのに部屋の照明のスイッチを入れなければならないような薄暗さは、梅雨時の曇天が原因だった。
 キラキラと眩しい蛍光灯に目を細め、瞼を閉じても残像が残る中、綱吉は椅子にだらしなく凭れ掛かり、ギシギシと骨組みを軋ませて盛大に欠伸を零した。
「ん、ん~……」
 遅れて両腕を持ち上げ、背筋を後ろへと反らす。もう一段背凭れが傾き、椅子の前脚が宙に浮いた。
 このままでは倒れると、綱吉は慌てて重心を前に戻して今度は机に突っ伏した。額を平らな面に押し当て、紙の間に挟まれた前髪を避けて目を閉じる。
 静かだった。
 いつも家中を走り回って騒々しい子供たちも、今日はいない。奈々が商店街のくじ引きで動物園の無料招待券を貰ったので、出かけているからだ。
 綱吉も誘われたけれど、動物園では以前酷い目に遭わされているのであまり気乗りがしない。大人二枚に子供二枚、家族向けのチケットは、だから奈々とビアンキ、ランボとイーピンの四人で消化されることとなった。
 リボーンは最初から興味を示さず、湿度も気温も高くなる日本の夏に向けて、愛用の拳銃の調整をしてくると言って出かけた後。つまり今現在、沢田家には綱吉以外、誰もいない。
 これはとても珍しいことで、自堕落に過ごしていても誰からも怒られない自由を満喫していた綱吉なのだが、結局昼食を終えた頃にはそれにも飽きて、今は机に向かい、自ら率先して宿題に勤しんでいるところだった。
 中学に上がる前までは、こうやってひとりで過ごすのも日常茶飯事だった。思えばいつの間にやら大勢と一緒に居る生活に慣れてしまい、この静けさが却って少し寂しかった。
 一緒に行けばよかったかと後悔しても後の祭りで、指でシャープペンシルを転がし、顔を上げた綱吉は真っ白なままのノートに肩を竦め、姿勢を真っ直ぐに戻した。
「……降って来たかな」
 長く時間をかけて息を吐き、首を振る。型がついてしまった額を指でなぞりつつ見た窓に、細い筋が幾つか刻み込まれていた。
 鉛色の雲は目が覚めた時からずっと並盛の空に鎮座しているが、位置が心持ち低くなっている気がする。どんより、という表現がぴったり来る色合いに辟易しつつ、次第に増えていく雨の筋を気にして、綱吉は机に両手を押し当てて立ち上がった。
 椅子を引き、隙間から抜け出て窓へ向かう。換気の為に十センチほど開けておいたのだが、降って来た以上そのままにはしておけない。室内が蒸し暑くなってしまうが、致し方ないだろう。
「梅雨、早く終わらないかな」
 四季のある日本において、綱吉の最も憂鬱度が高い季節が梅雨だった。太陽が望めず、じめじめとして気が滅入る。食べ物も傷むのが早くなり、ポテトチップスなどを置いていたら直ぐに湿気てしまうのも、嫌いな理由のひとつだった。
 溜息ひとつと一緒に愚痴を零し、本格的に勢いを強め始めている雨空に目を向ける。奈々たちはどうしているだろう、雨の中ではあまり楽しくないのではなかろうか。
 朝から大量の弁当を作り、芝生の上で広げて食べるのだと言っていたが、その計画が実行出来たかも心配だ。もう昼飯時を過ぎているので恐らくは大丈夫だったろうが、青空の下で、というわけには行かなかったのは間違いない。
 陰鬱な気分に浸り、下唇を浅く噛み締めて綱吉は灰色も濃い並盛の空に目を眇めた。
 他の部屋の窓は全部閉まっていたか、それも確認しなければ。隙間から紛れ込む生温い空気に掌を晒し、肩を落としてもうひとつ溜息を零した彼は、さっさと閉めてしまおう、とアルミサッシの溝に指を引っ掛けた。
 肩同様に視線も伏し、焦点をずらして視野を濁す。輪郭がぼやけて自分の手すら滲んで見えて、まだ幾許か明るさを残していた目の前が一段階暗さを増した現実に、彼は即座に気付けなかった。
 再度溜息をついて、右に窓を閉めようと力を込める。障害物は無く、間に何かが挟まっているなんて事も一切ない筈だった。
 だのに。
「あれ」
 ぐっ、と力を込めても窓が閉まらない。
 瞬きをして斜め下を見て、自分が与えている力に抵抗して震えている窓枠に目を見張る。何故、という疑問は直後に前方から聞こえて来た微かな呼気によって呆気なく砕け散った。
 顔を上げた綱吉の瞳に、黒い巨大な影が浮かび上がる。
「ひぅわっ!」
 予想していなかったことに驚き、彼は言葉にならない悲鳴をあげて後ろへ飛びずさった。
 手を放された窓は直後、外側から加えられていた力をまともに浴びて物凄い勢いでレールの上を走った。ズガガガ、という歪な音が部屋中に響き渡り、行き止まりにぶつかった反動でサッシが跳ね返る。
 腰を抜かさんばかりに驚いた綱吉が仰け反り、バランスを崩して尻餅をつく。その前で唐突に現れた黒い影は自身が通り抜けるだけのスペースを確保し、ベランダから窓枠を乗り越え、右足を先に潜らせた。
 土足のまま、しかも濡れた状態で、フローリングに降り立つ。
 水分を含んで重くなったシャツが肌に貼り付き、部分的に地の色を浮かび上がらせていた。
「……」
「…………」
 ぽたり、雫が落ちてこげ茶色の床に沈む。靴底にまとわりついていた雨粒もまた、床に走る浅い溝を伝い、じわじわと靴の形から面積を広げた。
 呆然とする綱吉を見下ろし、彼は艶を無くした黒髪を掻き上げて剣呑な目つきを一層強める。
「ひ、……」
 喉の奥に息を引っ掛けてしまい、綱吉は喋ろうとして失敗した。
 ゆらり、柳の枝のように黒い影が綱吉に向かって揺れた。
「ひぃぃぃぃぃ!」
 咄嗟に身体を丸め、両腕を頭上に掲げて自らを庇った綱吉の手首を彼が強引に掴み取る。乱暴に引っ張り、雲雀は何をそんなに過剰反応する必要があるのかと、若干棘のある目で綱吉を睨んだ。
 腰を屈めて顔を近づけ、吐息が鼻先に触れる距離から見下ろされて、綱吉は返す言葉を詰まらせた。
「だっ、な……」
 だって、いきなり窓から現れると思わなかった。
 そもそもなんで、いつも窓から入ってくるんですか。
 しかもこっちは、入って良いと一言も言っていないのに!
 言いたいことは沢山あるに関わらず、その殆どが喉の奥で泡となって弾けて音にさえならなかった。金魚みたいに口をぱくぱくさせて空気を食べ、唾と一緒に飲み込んで拍動強める心臓を必死に宥める。その間も雲雀は綱吉に一点集中して視線を逸らさず、下手な言い訳をするようなら許さない、と気迫だけで告げていた。
 そういう事をされると、こっちは脊髄反射で怯えてしまうのだと、前から何度もそう言っているのに、伝わっていない。
 綱吉は泣き出す寸前まで顔を歪め、奥歯を噛んで唇を横に引き結んだ。鼻の穴を広げて息を吸って吐き、潤んだ瞳を震わせて、掴まれたままで痛い腕を雲雀から奪い返した。
「靴は脱いでください!」
 めいっぱい怒鳴った、その台詞もまたいつものお約束。
 パッと指を広げて綱吉を放した彼は、目を丸くして一秒程の間を置き、嗚呼と鷹揚に頷いた。
「そうだった」
「そうだった、じゃなーい!」
 顎に手を置いて呟かれた彼の台詞に再び大声でツッコミを入れ、綱吉はこの数秒間だけでドッと押し寄せてきた疲れに肩を落とし、滲んだ脂汗を拭って額を手で覆い隠した。
 極端な程マイペース過ぎる雲雀と正面から向き合っていたら、寿命が縮んで仕方が無い。くしゃくしゃに前髪を掻き毟って盛大な溜息を零した綱吉は、目の前で左足から靴を脱いだ雲雀の置き場所を問う視線を受け、鈍い動きで起き上がった。
 壁際の本棚に差し入れてある紙を引き抜いて広げ、しかしこれでは水分を吸収仕切れないかと途中で思い直す。
「玄関に置いてきます」
 ベランダは、軒があるとはいえ風が吹けば雨粒を避けられる場所ではなく、其処に靴を置いておくのは正直可哀想な気がした。
 紙は机に置いて、空っぽの両手を揃えて差し出した綱吉の言葉に、雲雀は僅かな逡巡の末濡れた靴を差し出した。上物だと分かる革の色つやは湿り、ちゃんと拭いておかないと染みが残ってしまいそうだった。
 雑巾が必要だなと思いつつ受け取った彼は、それより先に清潔なタオルか、と濡れた髪を掻き上げた雲雀を見てだらしなく笑った。
「なに」
「いえー、なんでもありません。タオル持ってきます、そこから動かないでくださいね!」
 雨も滴るなんとやら。
 見惚れていたとは口が裂けても言えず、綱吉はワザとらしく声を大にして誤魔化し、くるりと雲雀に背を向けて部屋を慌しく出て行った。
 窓辺に残された雲雀は、外から響く雨音に耳を傾け、開けっ放しになっているガラス戸を思い出して手を伸ばした。
 動くなとは言われたが、此の程度ならば問題なかろう。紛れ込んだ雨が床に模様を作っている中を、黒色具合を強めた靴下で進んで窓を閉める。カーテンも裾の周辺が水を吸い、襞を張り付かせて重そうにしていた。
 ものの数分の間に本降りの様相を呈した空は暗く、低い。雨雲の切れ目は見当たらず、今や並盛全体が水底に沈んでしまったかのようだった。
「…………」
 唇を舐め、隙間から息を吐く。肌寒さを覚えた彼は右手で左肘を握り、小手を擦って摩擦熱を呼び起こした。
 邪魔になるので傘など当然持ち歩かず、しかしずぶ濡れの状態で町を歩くのは嫌。降り始めの段階で駆け出してはみたものの、間に合わなかったのは自分の判断ミスだ。
 透明な板ガラスを曇らせる雨模様に指先を翳し、邪魔になる髪の毛を後ろへと流す。
 物音がして肩越しに振り返れば、黄土色のドアの前で綱吉が屈んでいた。
 床に伸ばした手がタオルの角を抓み、全体を広げて反対の端がフローリングを擦っている。彼が胸に抱えていたものはその一枚だけではなくて、怪訝に眉を顰めた雲雀の傍へ歩み寄った綱吉は、どうぞ、と運んで来たもの全てをまとめて差し出した。
 一番上に、今落として拾ったばかりのタオル。その下にあるものは、塊を成していてこの状態では分からなかった。
 受け取りを渋っている雲雀の気配を悟り、綱吉は一旦肘を引いて抱えた大量の布製品を椅子の上に置いた。最下にあった雑巾だけを取り出し、雲雀を避けて窓辺に投げる。
「えっと、着替え、です。俺のじゃ小さいから、父さんの」
 長い間家を留守にしている男の衣服も、奈々はしっかり洗濯して畳み、箪笥にしまっている。いつ帰ってきても良いようにと、季節ごとに中身も入れ替えていることを綱吉は知っていた。
 立ち位置を入れ替え、椅子に近付いた雲雀が言われたものを手に取ってみた。綱吉は雑巾を広げて濡れた床を雑に拭き、薄衣のカーテンを引いて外から屋内が覗かれないように視界を遮った。
 白い薄手のトレーナーに、スウェットのズボン。あまり着慣れたものではないが、このまま水分を吸った制服を着続けて身体を冷やすよりは良いかと嘆息し、雲雀は先にタオルを広げてそれで顔を拭いた。
「お湯沸かしてあるんで、何か淹れてきます。コーヒーにしますか、紅茶?」
「なんでもいいよ」
「じゃあ、紅茶」
 自分も飲むから、と理由を付け足して綱吉は湿った雑巾だけを手に、再び部屋を出ていた。
 取り残された雲雀は、両手で支えるタオルに再び顔を押し当て、後ろへ流して髪の毛に残る水気を移し変えた。次いで首、腕を拭って一息ついてから、白無地のシャツのボタンを順次外していく。
 すべての着替えが終わる頃に、タイミングを計っていたかのように綱吉が戻って来た。今度は両手に丸盆を抱え、平らな面にマグカップをふたつ載せて。
「大きかったです?」
 盆は勉強机ではなく、部屋の中央にある脚の短いテーブルに置き、若干居心地悪げにしている雲雀を見上げて綱吉は首を傾げた。
 家光は大柄で且つ骨太なので、細身でシャープな印象が強い雲雀とは随分体型が違う。小さいよりは良いかと判断した綱吉だったが、若干裾余りの格好をしている雲雀を見ていたら、この選択は失敗だったように思えてならなかった。
「そうだね、腕が二本入りそうだ」
 袖口も広く、幅が余りすぎている。ぶかぶかの服を着ている雲雀は非常に珍しくて、自分でも着慣れないと分かっているのかやり難そうにしながら、雲雀は率直な感想を述べて綱吉の傍へ距離を詰めた。
 濡れた服はまとめて椅子の背凭れに預け、タオル一枚だけを首に引っ掛けていた。
 膝を床につけてしゃがんでいた綱吉が、横並びに腰を落とした彼にマグカップを片方スッと差し出した。互いに特別な合図を送りあうこともなく受け取って、雲雀は温かな湯気を立てるカップに息吹きかけてひとくち分を喉へ流し込む。
 待たせている間に少し冷めたようで、けれど飲み込むのには丁度良い温度だった。
 凍えていた身体が、ゆっくりと内側から熱を取り戻していく。ホッと丸い息を吐いた雲雀に笑みを零し、綱吉もまた自分のマグカップを両手で持ち上げた。
 雲雀の紅茶は透明度の高い、明るいオレンジ色をしていた。しかし綱吉の分にはミルクが入っているようで、傾けられて波立つ液体は白っぽく濁っていた。
 この分では砂糖もたっぷり溶けているに違いない。本当に甘いものが好きな子だと心の中だけで呆れ果て、雲雀はもうひとくち、余計なものはなにも混じっていない紅茶に舌鼓を打った。
 雨音は窓を閉じ、カーテンを引いた後も静かに部屋へ流れ込んでくる。勢いは弱まることを知らず、樋を伝う濁流の音も微かながら耳に混じった。
「止みそうにないですね」
 ミルクティーを半分程飲み干し、綱吉がカップを両手で抱いたままポツリと言った。残り僅かなところまで来ていた雲雀は、そのちょっとの量を一気に喉へ流し込み、親指で唇を拭ってからカップをテーブルに置く。
「そうだね」
 カーテンのお陰で見えない外に目を向け、緩慢に頷いてから彼は胡坐を崩し、背中を後ろへ傾けた。
 斜めに天井を見上げ、蛍光灯の眩さに瞼を下ろす。眉間に浅く皺を刻んだ彼は、薄く開いていた唇を閉じて横一文字に結び、瞑想に耽るかのように暫く黙り込んだ。
 雲雀から放たれる凛とした空気を感じ取り、綱吉は音を立てぬよう注意しながら残る紅茶を飲み干し、盆へふたり分のカップを並べた。会話は途絶え、やることがなくなってしまった綱吉は隣を気にしつつ、空っぽになったカップを右に寄せては左に移し、持ち手部分を交差させてはすれ違わせて、と意味もなく柄違いのそれらを躍らせた。
「あ」
 だが調子に乗って勢いを乗せ過ぎ、雲雀が使っていた桜の絵柄のカップが横向きに倒れてしまった。
 綱吉の使っていた秋桜のカップに激突し、割れこそしないがけたたましい音が鳴る。雲雀も当然瞑っていた目を開いて、幾分驚きを露にしながら真っ先に綱吉を見た。
 失敗した、と恐縮して小さくなった綱吉が、赤い舌を覗かせる。ごめんなさい、と軽く会釈をして態度で伝え、倒したものを起こしていそいそと立ち上がった。
「えっと、あの。……テレビでも見ててください」
 正直に言えば、この部屋で雲雀とやることは何も無い。いや、何をしていいのかが分からない。
 彼が突如襲撃して来る時は、大抵リボーン目的であったし、そうでなくとも雲雀から綱吉にちょっかいを仕掛けてくるので、彼はその対応をすればそれでよかった。
 こんな風に黙られて、何をするでもなくじっと隣に座っていられた場合、喋りかけてよいものかどうかがまず不明で、付け加えるなら何を話せば良いのかもさっぱりだ。
 緊張する、どきどきする。
 綱吉は赤い顔をした自分を持て余し、雲雀の返事を待たずに盆を抱えて部屋を飛び出した。
 雨の音が五月蝿い。けれど心臓の音の方がもっと五月蝿い。
 どたばたと足音喧しく階段を下りて、最後の一段で躓いて危うく顔面から床に突っ込むところだった綱吉は、頭上に盆を掲げてなんとか最悪の事態だけは回避させ、胸を撫で下ろした。羞恥心で頬を染め、後ろを振り返って雲雀が付いてきていないことに安堵する。
「家が静か過ぎるからいけないんだ」
 どうしてこんな時に限って、他に誰も居ないのだろう。
 ふたりきりだという現実を否応なしに意識させられて、妙な期待さえ抱いている自分に慌てて首を振る。真昼間から破廉恥な想像をしてしまった自分を後悔し、彼は明りを点けたままでいた台所の暖簾を潜った。
 コンロの上には紅茶を淹れるのに使ったヤカン、換気扇は回しっ放し。空気が循環しているからか、廊下よりも若干温度が低い台所に鳥肌を立て、綱吉は持ってきたものをテーブルに置いてから、流し台へ移し変えた。
 二十センチばかり低くなっているステンレスの洗い場には、他に昼食で使った食器が何枚か積み上げられていた。
 メニューは、奈々たちの弁当の残りだ。ソボロを塗したおにぎりに、卵焼き、鳥モモ肉の唐揚にブロッコリーのサラダと兎の形に切った林檎。他にも色々とメニューは豊富で、食べきるのにとても時間がかかった。
 どれも美味しかったな、と思い出してつい舌なめずりをした綱吉は、
「そういえば、ヒバリさんって」
 ふと、上階に残してきた人物が昼食を済ませたのかどうかが気になって、視線を何も無い天井に向けた。
「まだだけど」
「うわわわっ!」
 そうして真後ろから放たれた声を聞いて、綱吉は予想外な出来事に驚き、飛び上がった。
 腰を流し台にぶつけ、骨に直に走った衝撃に悶絶して蹲る。当たり所が非常に悪く、激痛に言葉も出なくて、綱吉は縋る手を上向けてシンクの縁を握り締めた。
「なにしてるの」
 それなのに、事の発端たる人物は平然として、むしろ怪訝として、細かく震えている綱吉の反応に眉目を顰めている。誰の所為でこうなったのか、と怒鳴り返してやりたいところだったが、彼はこういう人間なのだと言い聞かせてぐっと堪え、綱吉は唇を噛み締めた。
 振り向けば食事をするテーブルを挟んで向こう側に雲雀は立っており、首を覆っていたタオルは置いてきたのか巻かれていなかった。お陰で広い襟刳りから鎖骨のラインがよく見えて、無駄な贅肉とは無縁の引き締まった体型が見て取れた。
 咄嗟に目を逸らし、俯いたまま起き上がって綱吉は汚れてもいないのに膝を叩いてズボンの皺を伸ばした。
「綱吉」
「別に、……なにもしてませんってば」
 低く柔らかな声で名前を呼ばれ、ぎこちなく返事をする。何か忘れている気はしたが思い出せなくて、ただ恥かしいからと赤い顔を逸らした彼は、不満げに目尻を吊り上げた雲雀に気付かず、よって彼が素足の歩を進めたのにも気付けなかった。
 バンッ、と比較的大きく重い音が台所に響き、反射的に肩を強張らせた綱吉が左に目を向ける。
 冷蔵庫のドアが開いていた。
「え?」
「なにかないの?」
 綱吉が開けたわけは当然なくて、他にそれが出来る人といえばひとりしか思い浮かばない。遮られた視界、ドアの上から顔を出した雲雀の問いかけに、綱吉は目を丸くして瞬きを繰り返した。
「あの、ヒバリさん」
「見事に空だね。君の家って、まともな食事してないの?」
「ヒバリさん。あの、……人んちの冷蔵庫、勝手に開けないでもらえませんか」
 窓から入って来た時もそうだが、この人は沢田の家を自分の第二の住処だと勝手に決め付けていやしないか。今度は軽く握った拳を震わせて、怒りを少しばかり表に出してみた綱吉だったが、雲雀は聞く耳を持たずに再び空の段が多い冷蔵庫に目を向け、興味を無くしたのか乱暴に扉を閉じた。
 開けた時以上の音がして、その態度にも腹が立つ。
「綱吉」
「なんですか!」
「お腹が空いた」
「はい?」
 そんな状態だから、甘い声で名前を呼ばれてもムキになった対応しか出来ず、言葉を荒げた綱吉は同時にそっぽを向き、彼がどんな顔をして続きを言い放ったのか、その瞬間を見逃した。
 素っ頓狂な裏返った声を出し、綱吉がぐりん、と首を百四十度回転させる。雲雀は拗ねたような顔をして、唇を尖らせ気味に立っていた。
「……はい?」
 もう一度言ってくれ、と首を倒してお願いしたところ、彼は益々表情を険しくさせて綱吉を睨み、苛立たしげに冷蔵庫のドアを叩いた。
「昼食。僕はまだなんだけど」
 さっきからそう言っている、と胸を張って威張られても、綱吉には何のことだかさっぱり分からない。雲雀が言っているのが、いきなり後ろから声を掛けられた時の事だと思考が繋がったのは、随分後になってからだった。
「まだ、って。じゃあ自分の家に帰れば」
「雨が降ってる」
「傘くらい貸しますよ」
「この格好じゃ嫌だ」
「……我が儘」
「そうだよ?」
 嫌味で言ったつもりだったのだが、即答で肯定されてしまった。
 不敵な笑みを向けられて息が詰まり、綱吉は荒々しく足を踏み鳴らすと、苦虫を噛み潰した顔で思い切り舌打ちした。
 冷蔵庫は今雲雀が言った通り、食材はあらかた今日の弁当で使い尽くされて空っぽに近い状態。炊飯器も蓋が外されて沈黙しており、残り物はすべて綱吉の腹の中。
 あとは何があるだろう、と視線を泳がせて考え込み、
「カップラーメンとか、なら……」
「いやだ」
 一応聞いてみたが、案の定はっきり拒絶されてしまって、成す術がなくなった綱吉は左手で頭を抱えて鈍痛を堪えた。
 出前を取るにしても、代金はこの様子だと、綱吉持ちになる可能性が非常に高い。憤然としている雲雀を盗み見て肩を落とした彼は、どうしたものかと天を仰ぎ、膝を折ってしゃがみ込んだ。
 雲雀が追いかけて視線を下へ移す。綱吉は蹲った状態で戸棚前まで移動し、引き戸を引いて中に仕舞われているものの検分を開始した。
「なにか、なにか……ないかなあ」
 今から米を炊くには時間がかかりすぎるし、残った食材で何かを作れと言われても無理だ。一応ビアンキに教わっているとはいえ、彼女が作るものは人間が食べるものではないので参考にならない。
 レトルト食品は論外で、ならば後残されているものといえば、なんであろう。
 家庭科での調理実習を思い返しつつ、棚の中を漁った綱吉は、小麦粉を見つけて手を止めた。
「綱吉?」
 未開封の重い袋を右手に持って瞬きさえせずに動かなくなった綱吉を訝しみ、雲雀が小首を傾げながら彼を呼んだ。後ろから近付き、膝に手を置いて腰を屈める。
 綱吉がジッと見つめるものは、何の変哲もない、スーパーでごくごく普通に売られている薄力粉だ。
「ヒバリさん、えっと」
 音もなく接近していたのに、今度は驚きもせず綱吉は振り返って雲雀を見上げた。影を作っている彼に大きな瞳を向け、落ちそうになった薄力粉の袋を膝に置き換える。
「失敗しても怒りません?」
「怒る」
「……ですよねえ」
 恐々問いかけられた雲雀が間髪入れずに返し、色よい返事を期待していたわけではない綱吉は肩を竦めて苦笑した。
 だが彼の中ではもう答えは決まったようで、起き上がろうとする仕草をしたのを受け、雲雀は黙ったまま後ろへ半歩下がった。
「卵と、バター……はあったよな。他に何入れてたっけ」
 曖昧な記憶に残るレシピをぶつぶつと呟き、小麦粉をテーブルに置いた綱吉はそそくさと雲雀を避けて冷蔵庫へ向かった。ドアを丁寧にあけて中を覗きこみ、下段奥の方に押し込まれていたバターと、ポケット部に収められている卵とを取り出してドアを閉める。一旦流し台まで戻った彼は抱えたものを其処へ大事に並べ、裏返して乾かされていたボウルを手に取った。
 邪魔にならない場所へ移動した雲雀が、腕組みをして事の成り行きを大人しく見守る。下手に茶々を入れようものなら即座に綱吉の罵声が飛ぶのは目に見えていて、あまり効率が良いとは思えない動き方をする彼に目を細め、椅子を引いて腰を落とした。
 テーブルに頬杖をつき、フライパンを取り出した綱吉の背中を楽しげに見詰める。
「ねえ、いつ出来る? お腹空いた」
「そんなに直ぐになんか無理ですってば」
 どうだったかな、と母親の背中を思い浮かべて手順を諳んじていたところに雲雀の声が混ざり、苛々と、それでも律儀に返事をして綱吉は、先ず口を切った薄力粉をふるいに掛け始めた。
 分量は計量せずに適当、いい加減、その上手つきは雑で且つ覚束ない。多分これくらいだよな、という勘頼みの目分量で、果たして大丈夫なのだろうかと心配にもなるが、必死の形相で台所を所狭しと駆けずり回る綱吉を眺めるのは、楽しい。
 換気扇の回る音、綱吉の足音、ボウルの中で色々な物を混ぜあわせる泡だて器の音。ガチャガチャと騒々しいことこの上ないけれど、その分外の世界を覆っている雨音は遠ざかる。
 目を閉じて雑多な音に耳を傾け、雲雀は自然と緩む頬を時折思い出して引き締め、飛び跳ねた粉にまみれて肌を白くしている綱吉に苦笑した。
「あーっ、もう!」
 なかなか思い通りにいかないのか、綱吉は時々大声を出して泡だて器を振り上げた。
 その度に先端の輪に絡み付いていた塊が飛び、綺麗に片付けられていた台所はどんどん汚れていく。テーブルに座っている雲雀にも被害は及んで、彼は飛んできた柔らかい物体を手で払いのけようとし、逆に張り付かれて顔を顰めた。
 揉むと柔らかく、べたべたしており、皮膚にこびり付いて簡単に落ちない。逆さまにしても粘性を発揮して長く伸びるばかりで、真ん中で細くなって千切れるまでそれなりの時間が必要だった。
 これはいったい、この後何になるのだろう。真剣な表情で格闘している綱吉を斜めに見て、雲雀は首を傾げて指に残ったものを口に含ませた。
「…………」
 感想は出来上がってからにしよう、と眉間に皺を寄せた彼は咥内へ多めに唾液を呼んで、即座に指を引き抜いた。
 そんな雲雀を知ってか知らずか、綱吉は頬にベージュ色の乾いた塊を幾つか付着させたまま、ボウルの中で粉と卵、その他色々が完全に馴染むまでしつこくかき混ぜ続けた。もうこれくらいでいいだろう、と満足できる状態に持っていった頃には、腹を空かせた雲雀の事など完全に頭からすっぽ抜けていて、出来た、と呟き小さくガッツポーズまで作る始末。
「つなよし、まだ?」
「へ? あ、あああごめんなさい。今すぐ!」
 目の前の事に没頭しすぎて、当初の目的を失念していた。待ち疲れたと不満の声をあげた雲雀に、振り向いた彼は一瞬驚いた顔をして、大慌てでフライパンを置いたコンロのスイッチを入れた。
 油を薄く引いて、ボウルの中身をお玉で掬って移し替え、小さな円い形を作り出す。
 これでよし、と綱吉が力む傍から、表面に無数の粒々が現れ始めた。
「?」
 それまで無かった匂いが漂い、鼻腔を刺激された雲雀が伏していた瞳を持ち上げた。頬杖ついて崩していた姿勢を正し、背筋を伸ばして綱吉の様子を窺う。
 彼は焦げ色がつくのをじっと我慢して待ち、そわそわと落ち着き無く上半身を泳がせた後、そうだ、と手を叩いて戸棚の方へ走って行った。
 フライパンの前に戻って来た彼の手には大きな白い皿が抱かれていて、フライ返しを手にした彼は、意気込みひとつ、きつね色になった円い物体を一気に裏返した。
「う、ちょっと……失敗」
 同時に聞こえて来た声に、椅子の上で背伸びをしている自分を思い出して雲雀は急ぎ居住まいを正した。
 芳しい匂いは次第に勢力を強め、否応なしに彼の好奇心を刺激する。何が出来るのか、胸躍らせて待っている自分が可笑しくて仕方が無かった。
「つなよし」
「もうちょっとですからー」
 急かすつもりで呼びかけて、予想通りの返答に笑みを零す。
「お腹すいた」
「だから、あとちょっとですってば」
「まだ?」
「うあー……だから、もうちょっと辛抱してくだ――――あー! ほら、焦げちゃったじゃないですかー!」
 フライパンの中身に夢中の綱吉をどうしても振り向かせたくて、雲雀はしつこいくらいに彼に話しかけた。そのうちに綱吉の集中力も切れて、甲高い悲鳴をあげるに至る。
 睨み付けられ、やり過ぎたと雲雀も少しだけ反省の色を見せた。
「ヒバリさんの為にやってるんですからね」
「分かったよ」
 ぷんすかと煙を立てて怒る綱吉に渋々頷き、雲雀が口を閉ざす。彼の返事に満足げに頷いた綱吉は、焦げた物体を皿に載せ、手順の最初に戻って何度か同じ事を繰り返した。
 それから待つこと数十分。
 台所に綱吉たちが降りてきてから、軽く一時間は過ぎ去ろうとした頃。
「……どうぞ」
 綱吉は消え入りたい気持ちでいっぱいになりながら、出来上がった物体を皿ごと雲雀へ押し出した。
「これは?」
「多分、ホットケーキ……です」
 自信なさげに綱吉が答え、萎縮しきった状態で彼は積み上げられたホットケーキらしき物体の後ろに隠れた。
 四枚……いや、五枚はあるだろう。どれも大きさはバラバラで、厚みもちぐはぐ。焼け方も均一ではなくて、上には申し訳程度に四角く切ったバターが添えられていた。熱で既に一部が溶け始めている。
 匂いは悪くないが、見た目はお世辞にも美味しそうとはいえない。さすがあのビアンキの教え子だな、と自己評価して、綱吉は沈黙を続ける雲雀に恐々と問う視線を向けた。
「あの、別に、無理して食べなくても」
 最初の失敗の後、何度も挑戦してみたのだが、どれも巧く膨らまず、べたべた、もしくはぱさぱさになってしまった。
 此の皿にあるものは、それの中でも比較的上手に焼けたと思えるものだ。彼の後ろには、この倍近い数のホットケーキの残骸が積み上げられている。
 正直、作った本人でさえ食べるのに勇気が要る。もっとちゃんと奈々の手伝いをしておけばよかったと後悔しても、すべては後の祭り。
「そうだ、今からでもピザの宅配を」
 こんな不出来なものを雲雀に食べさせたくない。必死の説得を試みて、裏返った声で顔を上げた綱吉だったが、彼の目の前でフォークを手にした雲雀が無作法に若干硬い生地に刃を突き立てる様を見て、ムンクの叫び宜しく全身を戦慄かせた。
「ひ、ひば、ヒバッ、り、さっ!」
「ん」
 呂律が回らず、飛び上がって止めようとした綱吉の手を掻い潜り、雑に切り裂いた一片を雲雀は無造作に口に放り込んだ。
 ジャリ、と砂糖の塊らしきものを噛み砕き、口の中で溶けた甘さに顔を顰める。
 だが彼は吐き出さず、十数回の咀嚼を経て一息で飲み込んだ。
 喉仏が上下するのを見送り、力尽きた綱吉がへなへなとテーブルに寄りかかった。膝を折って床に落とし、顔を突っ伏す。
 それを前に、雲雀は二口目にフォークを突き立てて、黙々と食事を続けた。
「待ってください、ヒバリさん。なんで食べるんですかー」
 一枚目を素早く終え、二枚目に突入した頃、若干復活した綱吉が弱りきった声で問うた。
 自分が作ったものに対して言う台詞ではないが、とても人が食べるものではない物体を噛み砕き、飲み込んでいく雲雀の事務的な動きに、彼はとことん泣きたくなった。
 不味いでしょう、と聞けば雲雀は黙ったまま頷く。
「でも」
 自分で聞いたくせに些かショックを受けている綱吉を笑い、三枚目を終えた雲雀がバターの追加を注文してフォークの先端を彼に向けた。
「僕のために君が作ったものだしね」
 苦いし、ぱさぱさしているし、生焼けのところもあるけれど。
 一所懸命作ってくれたところだけは、ハナマル。
 きょとんとしている綱吉を放置し、雲雀は四枚目に取り掛かった。少し冷めて硬くなっていたが、文句も言わずに切り分けて口へ運ぶ。
 食器がぶつかり合う音だけが暫く台所に響き渡って。
「次は……もっと上手に出来るよう精進します」
「うん、お願い」
 出来れば次の雨の日までに。
 そう言って、雲雀は五枚目にフォークを突き立てた。

2008/06/23 脱稿