雨音、重ねるは君の声

 降水確率は七十パーセント。集合時間の段階では、どんよりとした曇り空ながら風はまだ乾いていた。
 最初の一滴が鼻の頭に落ちたのは、四回に入る直前。セカンドゴロでバッターアウト、チェンジの瞬間だった。
「降って来たか」
 花井がぽつりと言い、ベンチ前の庇下から手を差し伸べる。掌を打って砕けた雨粒は大きく、次第に量と勢いを増してグラウンドを薄ぼんやりとした灰色の世界に変えてしまった。
 六回を終える頃には土砂降りの大雨となって、屋根の無い場所に立っていると痛いくらいに。どれだけロージンバッグに触れても、グラブの中にあるボールを握るだけで指先が濡れてしまうものだから、殆ど意味を成していなかった。
 相手側にとってもそれは同じで、ずぶ濡れのユニフォームを懸命にタオルで乾かして雨脚が弱まるのをじっと待つ。だが中断した練習試合はお互いの監督が話し合った結果続、不可能と判断され、ここで終了となった。
 たとえ奇跡が起こって雨が止んだとしても、水気を吸って泥となったグラウンドを元の状態に戻すのは至難の業だ。野球場のように砂を入れて、なんていう真似も、試合相手の高校のグラウンドを借りている以上、出来るわけがない。
 マネージャーと顧問、監督以外の全員が濡れ鼠で戻った学校のグラウンドも、当然ながら似たり寄ったりな状態。雨雲はどかん、と頭上に居座って容易く動きそうにはなく、体育館や渡り廊下などの屋根がある区画は、既に他の部に占領された後だった。
 よもや退いてくれとは言い出せず、濡れたユニフォームを脱いで着替えた後は、部室で軽いミーティングとストレッチ。互いの肩がぶつかり合うような狭さの中で出来ることは程度が知れていて、今日の反省会と明日以降の練習メニューや予定の確認を終えた後は、予定よりも一時間以上早い解散となった。
 外は薄暗いが、時計の針はまだ夕方に至らない。思いがけない自由時間に部員の大多数は歓声をあげ、監督に「羽目を外しすぎないように」と怒られていた。
 試合が中途半端に終わり、消化不良の田島がバッティングセンターに行かないかと手を挙げ、数人が同調して鞄を担ぎ上げる。
「三橋は?」
 なにかと構ってくれる彼だから当然声は掛かって、けれど三橋はぼんやりと窓から雨空を見上げていた為、反応が遅れた。
「三橋?」
 額が窓ガラスにぶつかりそうなくらい近付け、吐く息で白く表面を濁した三橋の肩を田島が叩く。ぽん、と軽い仕草だったのだが、思考が完全に他所を向いていた彼は大袈裟なまでに驚き、飛び上がり、右側から窓に激突していった。
 物凄い音がして、部室全体も少しだが揺れた。居残っていた面々が全員揃って物音の原因となった三橋を振り返り、合計十個以上の視線を浴びた彼は痛みの衝撃もそこそこに、ビクッと全身の毛を逆立てて床で小さく、丸くなった。
「ふお、お、おお?」
 口をパカパカと、壊れた玩具のように開閉させ、意味不明な声を発してきょろきょろと周囲を見回す。あまりにも狼狽しすぎている彼の反応に、一部が噴き出し、残りは毎度ながら大袈裟な彼に肩を竦めた。
 田島だけが首を傾げて不思議そうに彼を見下ろし、手を差し伸べて彼を引っ張り起こした。最中に遊びに行かないかと誘いを入れるが、理解するのに三秒を要した三橋は、期待に胸膨らませる田島に申し訳無さそうに首を振った。
「えー、いいじゃん。行こうぜー」
「け、ど、阿部君がっ」
「あんな奴の言うことなんか聞かなくていいってば」
 既に帰宅の途についている三橋の女房役である阿部は、直ぐふらふらと何処かへ行ってしまう三橋の性格を見越し、真っ直ぐに家に帰って風呂に入って、温かくして肩を冷やさないようにと非常に厳しい言葉で三回繰り返していた。さしもの三橋も、あれだけ睨みつけながら言われれば、逆らう気も起こらない。
 田島はそれを阿部の横暴だと頬膨らませるが、この冷たい雨の中で六回までとはいえ投げただけあって、三橋の身を案じるところはあったのだろう。花井が仲介に入るまでもなく、しゅんと頭を垂れると「分かった」と不貞腐れた声で言った。
「ごめ、ん、ね」
「次は付き合えよなー」
 ズボンの汚れを払い、立ち上がった三橋が心底すまなさそうに謝る。臍の前辺りでもじもじと左右の指をこね合わせて上目遣いに相手を窺う彼に、けれど田島はニッと白い歯を見せて笑い、一瞬で気分を切り替えて三橋の肩を乱暴に叩いた。
 じんじんとした痺れに見舞われ三橋がひとり呻くが、田島はもう一切彼を気にしない。いこうぜ、と入り口近くに集まって待っていたメンバーに声をかけ、率先して雨の中を走り出す。
「じゃあ、俺も。お先」
 最後まで残っていた花井が部室の最奥に居る三橋に声をかけ、ドアを閉めた。その音だけがこの高湿度の中で乾いた音を響かせ、取り残された彼はまだ微かに痛む肩を抱き、下唇を噛んだ。
 自分も帰ろう。三橋は少し離れた場所にあるロッカーを開け、鼻をついた黴臭さに一瞬顔を顰めてから慌てて必要なものを取り出し、扉を閉めた。肩から鞄を吊り下げて入り口横にフックに引っかけてあった鍵を取り、外に出て雨樋を激しく打つ雨音に耳を澄ませる。気温が低い所為かこの季節でも吐く息は濁って見えて、霞む世界に目を細めた彼はくるりと身体を反転させて部室に鍵をかけた。
 最後にぽつんと残された黒い傘を引き抜き、自分が濡れないように雫を外向きに飛ばして広げる。
「雨……」
 薄いビニールの皮を叩く音はリズミカルだが、少し重い。折角の練習試合が最後まで出来なかったのがなによりも残念で、今日は調子がよかったのにと心の中で愚痴を零し、三橋はゆっくりと水溜りが散乱する土の上を歩き出した。
 ぱしゃん、ぱしゃんと足を前に繰り出すたびに、靴の裏に水滴が跳ねて泥がズボンの裾を濡らし、汚す。帰ったら洗濯してもらわないと、と何かと多忙を極めている母親の背中を思い浮かべ、彼はそっと溜息を零した。
 高校に入り野球部で本格的に活動を開始したと同時に、彼女にかける負担も倍増してしまった。朝早くから夜遅くまで、辛いだろうに文句ひとつ言わずに手を差し伸べてくれる彼女には、幾ら感謝しても足りないくらいだ。
「あ、め。あめ。雨」
 爪先で水滴を蹴り飛ばし、部室の鍵を返却して、用事が終わった校舎に背を向けて自転車置き場へ。薄暗い中でか細い照明に支えられた敷地には、休日だからというのもあって駐輪車数も普段の半分以下だった。
 合羽を着てくれば良かったかと、自転車での片手運転に不安がある三橋は、ポケットから鍵を探しつつも躊躇した。
 もしハンドルを切りそこなって滑って転び、怪我をしたら阿部になんと言われることか。想像したら寒気がして、全身を竦ませて両腕で身体を抱き締める。思わず背後を振り返ってしまい、背の低い常緑樹の葉が水滴を弾く様が見えて彼はホッと胸を撫で下ろした。
 ゆっくり慎重に、時間をかけて帰ろう。どうせ家に帰っても何もすることはない、汚れ物を洗濯籠に出して、シャワーを浴びて、髪の毛を乾かして。
 宿題という項目は完全に頭の中から消えており、三橋はやることを指折り数えて頷き、ハンドルを握り締めた。
「あ」
 そういえばあの人も、今日は練習試合だと言っていた。
 不意に思い出して、三橋は瞬間的に上向けた視線を足元へ落とした。誰も近くにいないのにそわそわと内股気味に膝を擦り合わせ、自転車置き場の斜めになったトタン屋根の下で振り続ける雨の音を聞く。
 傘は広げて肩に押し当てたままで、表面を飾る無数の水玉は重力に引かれて次々にコンクリートに沈んだ。
 遠く、校舎の方から吹奏楽部の練習が聞こえてくる。この雨の中、管楽器の音さえも湿り気を帯びてどことなく低い。
 自分たちが試合を中断し、中止に追い込まれたくらいだから、彼の学校もきっと同じ憂き目に遭っているに違いない。そう思うと三橋は今まで以上に落ち着きをなくし、何をそんなに気が急くのか、左右に慌しく視線を巡らせて雨が吹き込むぎりぎりの境界線を探し、駐輪場の内側に居場所を移した。
 担いでいた鞄を外し、自転車の前籠に押し込む。大きすぎるそれは元の形状のままでは納まりきらなくて、何も入っていない部分を押し潰して変形させて漸く、三橋の両手は自由を取り戻した。
 傘を畳み、出来る限り避けたと言っても完全ではない吹き曝しの中、彼は濡れそぼるそれも自転車の前籠に引っ掛けた。雫の滴る先が一箇所に集中した所為でコンクリートに落ちる水滴の量は増え、速度も増した。
 三橋は、元は灰色だった濁った色のコンクリートを暫く見詰めると、未だ決心がつかないのか胸の前で左右の手を結び合わせて熱を呼び、そこに息を吹きかけて首を振った。
 一緒に揺れた肘が籠に当たり、荷物が入っている所為で元から不安定だった自転車の前輪が傾いだ。バランスを崩して倒れそうになっていると気付いて彼は大慌てで両手を伸ばし、他を巻き込んでドミノ倒しを起こすところだったのをぎりぎりで回避させた。
「うわぁ!」
 代わりに勢い余った自分は尻餅をついて、三橋は今日が休日で良かったと安堵した。
 いつもだったら、見渡す限りの自転車を巻き込んでしまっていただろう。今は利用者が少ないお陰で一台ごとのスペースにも余裕があって、ひとり寂しく倒れた自転車を起こして行く作業をせずに済んだ。
 入学当初にしでかした失敗を思い出し、胸を撫で下ろして三橋は立ち上がる。もうあんな苦労は二度と御免で、彼は衝撃で外れてしまった傘を拾い、さっきと同じ場所に引っ掛けた。
「……」
 トタン製のねずみ色をした屋根を見上げ、唇を舐めてひとつ深く息を吐く。力を抜いてリラックスしようと試みるのだがなかなか巧くいかず、それどころか意味も無く緊張して、三橋は湿気を含み垂れ下がってきた前髪を指に絡め、引っ張った。
「い、い……かな」
 誰に聞くともなく、当然返事も期待せず、彼は狼狽気味に呟いて右を盗み見た。
 続けて左に視線を走らせ、落ち着き無く両手を下ろして腰のポケットを探った。けれど布の感触ばかりが指先に伝わって、幾ら叩いても、撫でても、育ち盛りながら育ちきらない骨と皮ばかりの身体しか見付からなかった。
「あ、あれ。あれ」
 腰を捻って自分のお尻付近に目を向けるが、凹凸は殆どない。どこかに落としたのだろうかと、さっき転んだことを思い出して足元を探すが、雨粒以外なにも落ちてはいなかった。
 まさか部室に忘れて来たのか、それとも練習試合相手の学校に置いてきてしまったとか。
 どんどん悪い方向に思考が向いて、三橋はサッと顔色を青褪めさせて脂汗を額に滲ませた。
「ど、どうし、よ……」
 携帯電話をなくした、かもしれない。
 その可能性がある、というだけなのに世界の終わりを目前に控えた顔をして、三橋はその場で足踏みを開始した。絶えず体のどこかを動かし、探しに行くべきかどうか、探すとしたらどこから当たるのか、必死になって頭の中で考える。
 だが思い浮かぶのはもっと別の、こんな時に限ってといいたくなるようなどうでもいいことばかり。今日の夕飯はなんだろうとか、ユニフォームの水気はちゃんと絞っただろうかとか、鞄の中にいれてあるものは無事だろうか、とか。
「ん?」
 じたばた足を踏み鳴らして不審極まりない動きを見せていた三橋が、そこに至って急に動きを止めた。
 頭の上に浮いたビックリマークがコン、と音を立てて彼の上に落ちていく。そういえば自分は、ズボンのポケットに入れておいたら濡れるかもしれないからと、部室で着替えた時に鞄の中へ大事にしまわなかったか。
 携帯電話を。
「あっ」
 甲高い声をあげ、三橋が自転車の前籠に突撃する。がんっ、とぶつかって弾かれて、また自転車ごと倒れそうになって、彼は両手両足をばたばたと振り回し、先と同じく落下寸前のところで籠を捕まえて引き戻した。
 無事に自転車がスタンドで支えられて起立するのを受け、入れ替わりに三橋が湿ったコンクリートに蹲る。いったい自分は何をしているのだろうか、と自暴自棄になりそうになって、雨で気温も低い中、寒気を覚えて背筋を震わせた。
 早く帰ろう、こんなところにいつまでも居たら凍えてしまう。
 身体は拭いたが、芯は暖まっていない。試合中、マウンドにいる間は濡れるに任せていたので、本人が意識している以上に三橋の身体は冷えていた。
 半袖の上から肩を抱き、上腕から小手に向かってゆっくりと撫でる仕草を繰り返す。自転車置き場も屋根があるとはいえ、壁はないので完全に雨を防ぎきってくれているわけではない。
 長い息を吐いて三橋は肩を落とし、籠に自分で押し込んだ鞄を引っ張りだして足元に置き換えた。ファスナーを横に引いて口を広げ、中身を確かめる。
 タオルに包んだユニフォーム、母親が持たせてくれた弁当に水筒、ミーティングで使ったノートと筆記用具に、財布。それから。
「……」
 三橋は右手で包んだ自分の携帯電話を前に強張っていた表情を緩め、助かったと天を仰いで脱力した。
 着信ランプが短い間隔で明滅していて、恐る恐る左手で支えて広げる。パッと明るく点った液晶画面には数件の新着メールを知らせる文字が並んでいた。
 受信箱を呼び出し、一番上のものを選択してボタンを押す。たったひとこと、田島からまた明日、という彼の元気な声が聞こえてくるような文章が浮かび上がった。
 どんな時でも自分を気にかけてくれる彼の気持ちが嬉しくて、冷えていた心に柔らかな炎が灯った気がした。すぐさま三橋は返信画面を呼び出し、こちらも短いながら感謝の気持ちを込めて、彼がくれたのと殆ど同じ文章を打ち込んでいった。
 送信ボタンを押し、紙飛行機が彼方へ飛び去るアニメが終わるのを待って次のメールを開く。阿部からだった。
 内容は、部室で口煩く、耳にタコが出来るまで言われた内容とまるで同じ。こんなところまで念押ししなくてもいいだろうに、と着信時間と今現在の時刻とを比較して、そこに彼が部室を出た時間を加味し、三橋は頭を垂れた。
 そんなに頼りなく映るのだろうか、自分は。信用されていない気がしてショックで、三橋は落ち込んだまま三十秒ほどの間、雨音に紛れる吹奏楽の合奏に耳を傾けた。
 人の気配は途絶えたままで、駐輪場に立ち寄る足音も響かない。
「なんか、寂しい」
 深く考えぬままぽつり呟けば、急にその言葉が実感されて三橋はうっと喉に息を詰まらせた。
 寂しいし、寒い。
 ひとりで居ることは、中学時代に散々経験して慣れているのに、高校に入ってからは田島を筆頭に騒々しいメンバーが常に周囲に居て、その空気にすっかり慣れてしまった。
 こんな環境に居られるだけでも充分幸せだというのに、それ以上を求めようとしている。なんて傲慢で、贅沢な望みなのか。
 けれど同時に、こうも思うのだ。
 望みは、望むだけでは叶わない。言葉に出して、行動に出て、実行してみて始めて叶うものなのだと。
「……」
 はっ、と息を吐いて携帯電話を握り締めている自分の手に熱を送る。悴んだ指先の凝りを解きほぐし、三橋は小さく蹲ったまま曇天に目を細めた。
 昔は、試合の日に雨が降るとホッとした。
 今は、悔しいと思っている。
 あの人も、そう思っているだろうか。
 想像すると、うず、と心の中が震えて一部分が盛り上がる気がした。平らだったところが隆起して、上にあった気持ちがコロコロと表面を転がり落ちていくのだ。
 持ち上がった坂の途中にある沢山のものを巻き込んで、一番下に到達する頃には超巨大な物体に変化して。
 ちょっと突くだけで爆発してしまう。
 野球が好き、投げるのが好き。
 投げている時のあの人がこの世で一番格好良いと思う。そう前に言ったら、何故だか急に不機嫌になって頭を掻き毟られた。
 電話を掛けても、怒られないだろうか。雨は降り続き、止む気配はない。グラウンドは水に沈み、屋外での活動を続けるのは厳しい状況が続いていた。
 練習試合が中止になっていれば良い。でもそんな事を自分が考えていると知ったら、やっぱりあの人は怒るだろうか。
 ゆっくりと、着実に時を刻む液晶画面と睨めっこをして三橋はぐるぐるまとまらない頭で懸命に考える。こう言われた時はこう切り替えして、別の事を言われたらその時はこう返事をして、と何度も何度もシミュレートしながら、やがて回線はパンク寸前に至ってぶすぶすと黒い煙を吐き出した。
「うぅ……」
 どのパターンを想定しても怒鳴られる結末しか出てこなくて、三橋は泣きそうに顔を歪めて上唇を噛み締めた。
 フェンス越しに車が走り抜けていく音、雨どいを伝って排水溝へ流れ込む水の嘆き、何度も同じ箇所を繰り返す吹奏楽部、何処かから一度だけ聞こえた蛙の声。そのどれもが三橋の耳を右から左へ抜けていき、彼の胸には残らなかった。
 懸命に動かした親指で、登録してあるアドレスを呼び出す。阿部に見付かるとあれやこれや言われると分かっているので、名前の登録は苗字のイニシャルだけ。メモリーを使わずともそらで言えて、指も覚えているナンバーを画面に導いた三橋は、大仰なまでに緊張で頬を強張らせ、咥内に溢れた唾を飲み込んだ。
 前にこの画面を見せたら、「まるで俺がスケベみたいじゃないか」と、この時も怒られた。
 そんなつもりはなかったのだが、改めて考えてみたら赤面するに充分足りる文字でもある。思い出し、頭から湯気をたてて三橋は携帯電話ごと両手を額に押し当てた。
 衝撃でボタンに添えたままだった親指がずれる。悲鳴を飲み込み、後ろへ身を退いて二度目の尻餅ついた彼は、画面が先ほどより若干暗くなった以外変化を見せていないのにホッと息を吐いた。
 心臓がどきどきして、今にも破れそうだった。
「は、るな、さん」
 たどたどしく名前を呼べば、顔が直ぐに浮かんでくる。初めて姿を見た時の球場での印象が強い所為か、いつも彼はユニフォーム姿だ。
 試合が中止で、雨で練習も休みで、自分たちみたいに今日は早く終わっていればいいのに。それでいて、ちょっとだけ気まぐれを起こして、ほんとうに少しの間で構わないから、自分の為に空いた時間を使ってくれたら。
 どんなにか嬉しいだろう。
 祈りを込めて金属の小さな端末を握り締め、三橋は深呼吸を二度繰り返した。
 胸いっぱいに息を吸い、吐き、また吸って。全部を吐き出しきらずに残して止めて、鼓膜を震わす心音を数えながら、親指をそっと、押し当てる。
 これを押せば機械が勝手にやってくれる、三橋に残された仕事は彼が応対に出てくれるように祈ることのみ。
 それなのに最後の勇気が出てこなくて、プルプル小刻みに震える親指はたっぷり十数秒後、力尽きてしな垂れた。
「うぅ……」
 意気地なしと罵る声が聞こえて、三橋はがっくり肩を落とした。電話一本かけるのに、ひと試合投げきる以上の体力を使っている。
 滲んだ汗を拭って、彼は大きく屋根を打った雨音にビクリと全身を硬直させた。
「ひぁぁ!」
 驚き、声を張り上げて右手を高く。唐突に震え、軽快なリズムを刻み始めた携帯電話を前にして、彼は。
 そこに現れた文字に目を見張り、大慌てで通話ボタンを押した。
 アルファベットたったひとつで表される、この世で一番格好良いと思っている人の名前。
 三橋は目を見張り、絶対に聞き漏らすものかと右耳に端末を貼り付かせた。
 上擦った声が、空を駆ける。
「は、はい!」
『よお、元気そうだな。なあ、お前って今暇か?』
 明るく、ちょっとだけお調子者な空気を滲ませた優しい声が心に響く。
 空が少しだけ明るくなった気がした。

2008/06/20 脱稿