村雨

「来月?」
 電話口から聞こえて来た意外な言葉に綱吉は目を瞬き、自分の聞き間違いではないかと思わず聞き返してしまった。
『ああ。なんだ、都合悪いか?』
 けれどどうやら綱吉の耳は正常だったらしい。即座に肯定されて、続いたのは若干寂しげな口調の台詞だった。
 綱吉はベッドの上でクッションを抱えたまま背筋を伸ばし、向かいの壁に吊るしたカレンダーに目を凝らした。季節は五月の前半を終え、初夏の陽気が連日続いていた。
 目線を手元へ戻し、階下から持って上がってきたコードレスフォンに耳を傾ける。大人しく綱吉の次の言葉を待っている相手を想像して肩を竦め、自分は特にこれといった用事があるわけではない、と早口に弁明した。
『そっか。じゃあ、来月』
「う、ん……」
『ツナ?』
 そんなにも気を重くするようなことではないのだろうが、どうも引っかかってしまい、綱吉は元気を取り戻した彼の声に若干の躊躇を残して頷いた。
 綱吉があまり乗り気でないのは、電話越しであっても充分伝わっている。しかも電話相手は、百人を越える部下を従えてボンゴレファミリーの一角を担っているディーノだ。彼にとって、他人の機微を察することなど造作も無いのだろう。
 訝しむ声で名を呼ばれ、しまったと慌てて顔を上げてももう遅い。綱吉はハッと息を呑んで口元を手で隠したが、その微かな呼気さえも受話器は拾い上げ、遠く離れた異国の地に居るディーノの耳に届けてくれた。
『ツナ、俺と会うのそんなに嫌か?』
「や、ちがっ。そうじゃなくって」
 眉を顰めて哀しげに目尻を下げる彼の姿が脳裏に浮かび、綱吉は咄嗟に声を張り上げて一緒に首を振った。しかし動揺が激しくて、なかなか続く言葉が口をついて出てこない。
 その間にもディーノが益々落ち込む空気が読み取れて、綱吉は最後に深いため息を零した。右手で髪の毛を掻き上げ、肩を落とし、左耳に押し当てている受話器を握り直す。居住まいを正して、彼は再度壁のカレンダーに目を向けた。
「えっと、あのですね、ディーノさん。日本に四季があるのは、知ってますよね」
 まどろっこしく説明を開始し、頭の中で懸命に理由を整理する。異文化で生まれ育った彼には、いったいどこから解説すれば理解してもらえるだろうかとぐるぐる考え、結局綱吉はそこからスタートさせた。
『ん? ああ、綺麗だな』
「それで、なんていうのかな。日本には、その四季以外にも季節の変わり目に色々とあって……」
 少し方向違いの返答をしたディーノに構わず、綱吉はたどたどしく言葉を繋げて説明を続けた。電話口からは興味深げな相槌が頻繁に聞こえてきて、綱吉は右手を上にしたり、下にしたり、握ったり広げたり、と絶えず落ち着き無く動かして、懸命に語彙の少ない頭を駆使して舌の上に音を転がした。
 居心地悪げにもぞもぞと脚を揺らし、膝を擦り合わせて、最終的にはベッドの上に寝転がる。跳ね返ったクッションが腰に当たって、震動で声も一緒に震えた。
「えっと、だから……六月は梅雨なんですよ」
『ツユ?』
 白い天井を見上げ、眉間に皺を寄せた綱吉はやっと辿り着いた結論に長い息を吐いた。
 瞬時に切り返されるディーノの声には、聞きなれない言葉だと言わんばかりのぎこちなさが含まれていた。
『ツユって、あれか。ソバ食べる時の』
 しかし後に続いた彼の独自解釈に、綱吉はうっと呻き、そういえば同音異義語でそんな単語もあったなあ、と顔の上半分を広げた手で覆い隠した。
「そうですね、……それもひとつのつゆですね」
 他に言いようがない。同意して、暗に違うものだとほのめかすのも忘れず、一旦言葉を切る。ディーノは首を傾げているのか、否定気味の綱吉の声の意図を探って、後ろにいる誰か――ロマーリオ辺りだろう――に大声で「ツユ」の意味を聞いた。
 多分受話器を片手で押さえているのだろうけれど、彼らの会話は音量が大きい所為で綱吉にもしっかりと聞こえた。日本語に精通している奴を呼べ、と命じる野太い声の後に足音が重なって、騒々しいことこの上ない。
 そもそも、綱吉は季節の話をしていた。それなのに何故ソバなのか、とディーノの思考回路に疑問符を浮かべ、彼は右腕をベッドに沈めて上半身を起こした。
 クッションを膝に寄せて抱き潰し、背中を丸めて座り直す。
「ディーノさん、ディーノさん」
 どたばたと集まってくる部下に気を取られている電話の相手に呼びかけ、綱吉はちらりと壁の時計を盗み見た。文字盤にはもうそろそろ眠らないと、明日の活動に差支えが出てくる時間が表示されていた。
『ん? ああ、悪い。なんだ』
「梅雨っていうのは、雨が降ってばっかりの時期のことです。じめじめして、湿度が高くて鬱陶しくて、洗濯物は乾かないし、放っておいたら直ぐに黴が生えるし、気は滅入るし……」
 言っているうちにまだ先のことなのに気持ちがやさぐれてきて、綱吉は唇を尖らせると途中で言葉を切ってしまった。
 彼に愚痴を言っても仕方の無い事で、綱吉は深々と何度目か知れないため息を零し、抱き締めていたクッションを掴んで向かいの壁目掛けて放り投げた。
 ボスッ、とカレンダーの真下に命中したそれは、重力に引かれるままに床へ落下する。押し出された空気の煽りを受けた紙が捲れ上がり、六月の一部分を綱吉の目に晒して直ぐに閉じた。
「だから、ピクニックとかは無理だと思います」
 語気を強め、一気に言い切る。
 鼻息荒い言葉は苛立ちの感情を伴ってディーノに届けられたようで、彼は惚けたように黙り込み、重苦しい沈黙がふたりの間にある長い距離を丸ごと包み込んだ。
 勿論梅雨時であったとしても、毎日、四六時中、雨天が続くわけではない。晴れる日もあれば、曇りの日もある。確かに他の季節よりも雨に遭う確率は高いが、百パーセントと言い切るのは傲慢だ。
 ディーノが来日する日に雨が降る可能性は、半々。皆で郊外へ遊びに行かないかという誘いは、本当なら諸手を挙げて歓迎すべきものだと綱吉も思う。
 けれど楽しみにしていて、雨でお流れになってしまうことを考えると、素直に喜べない。
『そんなに雨ばっかりなのか』
「うん」
『ツナはそのツユっての、嫌いなのか?』
「好きな人はあんまり居ないと思いますよ」
 奈々も、毎年その時期は洗濯物を干すのに苦労している。外に出しておいて雨に降られて全部台無し、なんてことにならないように細心の注意を払わなければならないし、不用意に窓を開けていたらそこから雨が吹き込んで家の中が水浸し、なんてことも。気温も高くなるので食中毒にも注意しなくてはならず、生ものは直ぐに傷んでしまう。
 それに、朝っぱらからどんよりした曇り空を見せられたら、テンションも下がるというもの。
 指折り数えて例を挙げ、綱吉はイタリアのカラッとした陽気が羨ましいと呟いた。またしてもベッドに仰向けに転がり、右を下にして身体を横向ける。
『そっか。ツナは雨、嫌いなのか』
「雨が降らないと困る、ってのは分かるんですけど。でも、毎日、毎日雨だったら飽きるんですよね」
 梅雨が嫌いなのと、年間を通して降る雨とをディーノは混同しているようだったが、構わずに綱吉は言葉を連ねた。心底そう思っている、と言葉尻に匂わせて、目の前を埋めた前髪を後ろへと梳き流す。
『そっかー。じゃあ今回は、ピクニックは諦めるしかねえかな』
 ディーノの身動ぎする音が一緒に聞こえ、綱吉は瞬きを連続させて妙に諦めの良い彼に我知らず首を傾げた。
「でも、来るんですよね?」
『おう。元々ビジネスで行くわけだから、そっちのキャンセルはねーよ』
 肩から上だけを持ち上げ、受話器に近付いて聞く。声のトーンが若干跳ね上がったことに、ディーノは気付いただろうか。彼の返事は軽快だった。
 悟られぬよう安堵に胸を撫で下ろし、綱吉は足の親指で皺だらけのシーツの溝をなぞった。起き上がり、背中を預けた壁に後頭部を押し当てる。視線は自然と斜めを向き、目を閉じればディーノの存在を間近に感じられた。
「そっか。会えるの、楽しみにしてます」
『お土産いっぱい買っていくから、期待してろよ』
「うん。細かい日程が決まったら、また教えてください」
『分かった。日本は夜だっけか、おやすみ。ツナ』
 遅くまでつき合わせて悪かったと詫びられ、気にしていないと首を振る。彼のそういう細かい気配りを忘れないところがくすぐったくて、綱吉はケラケラと笑って誤魔化し、別れの挨拶を告げた。
 親指でボタンを押して、電話を切る。名残を惜しんでいたらいつまで経っても終われないからと、綱吉はいつも自分から通話を終わらせるようにしていた。
「おやすみなさい」
 無音を刻む受話器にそっと囁きかけ、軽く触れるだけのキスをする。
 直後に何をやっているのだろうと真っ赤になって、暫くの間、綱吉はひとりベッドの上で身悶えていた。

 しとしとしと、雨が降る。
 明日の便で日本に着くと聞かされ、即座に作ったてるてる坊主も、結局役目を果たさなかった。
 ひとり部屋で作業に没頭していたら、見つけたランボとイーピンたちも手伝ってくれて、比較的大きめのものの両隣に不恰好な小さいてるてる坊主がふたつ、合計みっつが綱吉の部屋の窓辺に並んでいた。
 マジックで書いた顔は線が歪み、まるで福笑い状態。それでも完成した時は巧く出来たほうだと胸を張ったのに、今はなんだか萎れていて、哀しげに見えるから不思議だった。
「止まないなあ」
 椅子に座って机に頬杖つき、斜めに降りしきる雨空を見詰める。閉じた窓ガラス越しでも聞こえる雨どいを打つ音は、時折強く、また時には弱く、けれど決して止まりはしない。
 昨日の日中は薄ら陽射しが望めたのだが、夕方頃からどんよりした雲が立ち込め、夜半過ぎには本格的に雨が降り始めた。以後ずっとこの調子で、空は低く、重い色をしたまま。
 このまま振り続けたら、地上が全部水で覆われてしまう。大洪水だ。そんな事をぼんやり考え、綱吉は溜息と同時に腕を横に倒した。
 背中を後ろへ反らし、骨を鳴らす。一緒に椅子の背凭れもギシギシと言って、湿気を含んだ空気が彼の首筋をしっとりと撫でた。
「う、さむっ」
 雨の所為で気温は下がり、肌寒い。閉めきった屋内と雖も半袖で過ごすには不向きで、咄嗟に肩を竦めて両腕で身体を抱き締めた彼は、奥歯を噛み締めて足元から登って来た悪寒をやり過ごした。
 朝からずっとこんな調子なので、昼を過ぎても温かくなる気配は微塵とも感じられない。宿題は少しも進まず、ぼうっとする時間ばかりがどんどん増えようとしていた。
 もうじきディーノが来るというのに、これではリボーンが外出を許可してくれない。遊びに出る条件が真面目に勉強を終わらせること、なのでもっと切羽詰るべきだと分かっているのだが、先だってディーノに説明した通り、朝から雨というたったそれだけの理由で陰鬱な気分に浸ってしまい、頭もまともに働かなかった。
「あーああ」
 声にも出して溜息をつき、右頬を下にして机に寄りかかる。ひんやりした木の感触は硬く、頬骨が当たって少し痛い。
 利き手に握っていたシャープペンシルも転がして、やる気を放棄する。目を閉じると壁や窓が取り払われ、目の前で雨の音を聞いているように錯覚した。
 この雨は恵みの雨、植物にとっては無くてはならないもの。いや、生物すべてを潤す貴重かつ大切な水。だから雨空を見上げて嘆き哀しんでいるのは、失礼千万。そう呟いて懸命に自分を奮い立たせるものの、心躍るところまで気持ちを引き揚げるのはなかなかに難しい。
 雨に霞む町並みも、いつに無く静かで沈痛な面持ちをしている。本当に水底に沈んでしまいそうで、綱吉は眇めた目で役立たずに終わったてるてる坊主を見詰めた。
 もうそろそろディーノが言っていた時間で、続けて視線を向けた壁時計の文字盤を読み取り、綱吉は鈍い動きで身体を起こした。
 首を振り、へこんでしまった顔の右半分を元に戻す。息を吸って膨らませ、一気に吐き出し、真っ白なままのノートに肩を竦め、立ち上がった。
「なにか、飲み物」
 格別喉が渇いたわけではないが、このまま部屋でジッとしていても何一つ捗らないと判断して、綱吉は踵を軸に身体を反転させた。しかし途中で思いとどまり、方向転換して窓に向かう。
 鍵を外し、吹き込む雨粒を気にしつつ、腕を伸ばした。
「よ、っと」
 捕まえたのはびしょ濡れになったてるてる坊主だ。
 どうせもう意味を成さないし、吊るしているだけ無駄。こんな幼稚な神頼みに縋ったのだと知られるのも恥かしくて、綱吉は背伸びをして懸命に手を伸ばし、風に煽られて左右に揺れ動くそれに狙いを定めた。
 中央に陣取る自分が作ったものを手繰り寄せ、引っ張る。たっぷり水を吸った紐は弱くなっていて、実に呆気なく掌大の球形をしていた頭部は軒下から外れ、指の形に拉げた。
 頼るものをなくした残るふたつのてるてる坊主が、揃って恨めしげな目を綱吉に向ける。そのあまりのタイミングの良さに思わずぎょっとしてしまった彼は、身を硬くし、直後一際強く吹いた風に飛ばされた雨粒の直撃を食らって反射的に目を閉じた。
「くっそー……」
 踏んだり蹴ったりとは、まさにこの事だ。
 雨が目に入って、大きく仰け反った綱吉は危うくそのまま真後ろに倒れるところだった。ぎりぎりのところで踏ん張って、テーブルの角で頭を打つ、なんてことは回避させたものの、顔の右半分がべっとりと濡れてしまった。
 そんなに激しい雨ではなかったのに、と顔に被せた両手を見る。
 右手の中に、てるてる坊主だったものがあった。
「…………」
 とてもやるせない気分に陥り、綱吉は何も言わぬまま自分を慰めて窓を閉めた。
 なんて格好悪いんだろう、と潰れた上にマジックが滲んで不細工に拍車がかかっている物体に首を振り、濡れた前髪を掻き上げる。このままでいるわけにもいかなくて、綱吉は舌打ちの後にゴミ箱目掛け、用済みとなったてるてる坊主を投げ捨てた。
 指先に残った泥を叩き落し、力なく頭を垂れる。全てにおいて今日は調子が出ないと愚痴を零した彼は、その直前で車がブレーキを踏む音が響いていた事にまるで気付きもしなかった。
 ピンポーン、と甲高い呼び鈴が綱吉の鼓膜を震わせる。反射的に顔を上げた彼は、雫が滴った前髪にまた目を直撃されて悲鳴を上げた。
 心配しなくても、下には奈々が居る。フゥ太やランボたちも居るから、綱吉が出向かずとも応対には事欠かない。問題ないと判断した彼は、湿る髪の毛をまとめて後ろへ掻き上げて額を曝け出し、瞬きを何度も繰り返した。
 タオルを探すが、そんなもの、この部屋にありはしない。勿体無いがティッシュペーパーで済ませるか、と苦虫を噛み潰した顔で棚に手を伸ばした綱吉は、騒々しい複数の足音を聞いた気がして中腰で動きを止めた。
「ん?」
 ランボたちだろうか、それにしては音が若干重い気がするが。
 体重が軽い彼らは、足音もそれに見合った音しか響かせられない。小走りにタンタンタンっ、と飛び跳ねるリズムを刻むのがランボで、それよりももっと細かいリズムでタタタタタッ、と軽快さを増したのがイーピン。フゥ太は比較的落ち着いていて、住民に配慮してかあまり大きな足音を立てないよう気を遣ってくれていた。
 だが今、沢田家の階段を登っているのはそのどれとも違う。もっと雑で、大きくて、若干気忙しい様子の。
 ずっと同じポーズで固まったままでいるのは苦痛で、綱吉はやっと薄い紙を箱から引き抜くと、顎付近に集中していた水滴を横に拭った。
 細かな繊維が皮膚を撫で、一部が千切れてその場に残されている気がする。空いた手で撫でて振り払った綱吉は、髭もまだ生えない肌に今一度触れて確かめ、成長の遅い自分を呪った。
「ちぇ」
 悪態をつき、丸めたティッシュペーパーもゴミ箱へ。だが量が満杯に近い所為で跳ね返され、弾みもしないで床に転がった。
 生意気な無生物に腹が立ち、綱吉は大仰に足を踏み鳴らして一歩前に出た。一応はちゃんと円の中には入ったのだから、無駄な抵抗などせずに大人しく納まっていればいいものを。自分が投げたものが入らなかったのだから、自分で後始末をするのが道理ではあるのに棚に上げ、綱吉はぎりぎりと奥歯を噛み締めるとゴミ箱の横に鎮座する歪な球体に手を伸ばした。
 ドアが乱暴に、突き破る勢いで開かれる。
「ツナー!」
 綱吉の部屋におけるゴミ箱の定位置は、部屋のドアを入って直ぐのところ、テレビのある棚の横。たまに位置が入れ替わったりするけれど、そこが一番通行の邪魔にならないので、本日も例によってそこに、不要物をわんさか詰め込まれた筒状のケースは置かれていた。
 綱吉はそちらに足を向けている最中で、しかも身をかがめているので視線の位置は低い。
 ドアを開けた存在に驚いて顔を上げた彼の視界に。
 両手を振り上げて狂喜乱舞するディーノの、満面の――けれどこの時の綱吉には恐怖の対象としてしか映らなかった――笑顔が。
 落ちてきた。
「ぎゃああ!」
 ドスギュバタン! とよく分からない効果音を轟かせ、見事に綱吉はディーノに押し潰され床に撃沈した。
 折角転倒を免れたばかりだというのに、五分と経たずにこの有様。やはり今日の運気は最悪だと、綱吉は目の前で無数の星を散らして彼方へ向かおうとしていた意識を引きずり戻した。
「ツナー、元気だったかー?」
 一方のディーノは、綱吉を押し潰しているとも理解せず、至ってマイペースに甘えた声で人に頬擦りをして、綱吉の冷えた身体をぎゅむ、と上から抱き締めた。
 体重を預けられる方としては溜まったものではないのだが、肺を圧迫されている所為でまともに声も出ない。綱吉は顔色を青くして呻いたが、バシバシと彼の肩を叩いて抵抗するのも嬉しがっていると勝手に解釈され、ディーノはなかなか彼を解放してくれなかった。
「ねー、ねー。これあけてー」
 助け舟を出してくれたのは、本人にその意図は無かっただろうがランボで、開けっ放しのドアからひょっこり顔を出したかと思えば手に持っていた瓶を差し出して、蓋を外してくれるよう強請って来た。
 ただこれだけでは綱吉とディーノ、どちらに頼んでいるのかよく分からない――どちらでも良かったのだろうが、開けてくれるのであれば。
「お、いいぜ。ちょっと待ってな」
 熨斗烏賊にされた綱吉から漸く身を剥がし、膝立ちになったディーノがランボの頭を撫でて瓶を引き受ける。その間に綱吉は彼の前から逃げ出して、何度も咳き込んでは新鮮な空気を全身に送り込んだ。
 いったい彼はいつやって来たのか。先ほどの呼び鈴をすぐに思い出せなくて、綱吉はケホッと息を吐いて喉を撫でた。
 入り口を占領して小さな子供の相手をしている男は、間違いなく綱吉が今日の来訪を心待ちにしていた人物に他ならず、しかし思いもよらぬ襲撃に面食らったのも事実だ。
 窓を振り返れば雨は振り続けていて、不器用なてるてる坊主がふたつ、寂しげに風に揺られていた。
 雨音に紛れて気付かなかったのだと自分を無理矢理に納得させ、なんとか呼吸を落ち着かせるのに成功する。ダメージを受けた自分の身体を慰めて、綱吉は胡座をかいて座り込んでいる青年を斜め後ろから見つめた。
 目に鮮やかな金髪に、がっしりとした体躯。広い背中に、寒くないのか半袖から覗く逞しい腕には見事なまでの刺青が。
 視線を感じ取り、綱吉に向き直った彼の目は底抜けに明るく笑っている。思わずドキッとしてしまって、綱吉は勝手に赤くなる顔を隠してそっぽを向いた。
「ど、ドア開ける時はちゃんちょ、ノック、してくださいよね!」
 言いたいことはそれではないのだが、誤魔化すべく開いた口が言い放ったのはそんな台詞だった。
 微妙に呂律が回りきらず、途中で一度、噛んでしまった。
 これも格好悪い。益々顔を赤くして、綱吉は泣きそうになりながら横目で大人しくなったディーノを窺った。
 彼はランボに蓋が緩んだ瓶を返し、ちゃんとお礼が言えたのを褒めていた。幼子は大きな手で頭をかき回されて嬉しげに目を細め、元気良く部屋を駆け出して行った。
 喧騒が止み、雨音だけがまた室内を埋め尽くす。
「どした?」
 首を傾げたディーノの目元は優しい。少し垂れ下がり気味の瞳に見詰められ、綱吉は返す言葉を失って膝の上で両手を結び合わせた。指を互い違いに絡ませ、もぞもぞと落ち着き無く動かす。
 彼が来たら一番に言おうと決めていた台詞があったのに、頭から吹き飛んでしまった。完璧に真っ白で、今度は咄嗟に声も出なかった。
「ツナ?」
 穏やかな声色が、電話越しではなく直に聞こえてくる。ひとりぐるぐると目を回している綱吉を怪訝に見詰め、赤い顔をしている彼が発熱でもしているのではないかと勘繰り、ディーノは両手を床について前屈みに綱吉へにじり寄った。
 重ね着したシャツの襟が下へ下がり、頸に刻まれた刺青もまた露になる。
「つぁっ、う、うぇあっと、お、お帰りなさい!」
 違う。
 そう思っても後の祭りで、口走ってしまった単語に自分でも驚いた綱吉は、間近にあった空色の瞳に目を瞬いた。
 ディーノもまた、予想外の言葉に面食らって反応出来ずにいた。きょとんとしたまま停止して、斜めに傾けていた姿勢が崩れていくに任せる。額と額がゴチンとぶつかって、軽い衝撃に彼らはやっと我に返った。
「いっ」
 後ろに弾かれた綱吉が瞼を閉じて喉の奥で悲鳴を潰し、ディーノも背筋を立てて白い肌に手を翳す。そのまま前髪ごと額に置いて、肩を揺らし笑った。
「ああ、ただいま。ツナ」
 いらっしゃい、よりも嬉しい。表情でそう告げる彼に綱吉は面映い気持ちになりながら、失敗が成功に結びつくこともあるのだな、と記憶に書き留めた。
 次から彼が来たらこう言って迎えよう。こっそり心に誓って、彼もまた目元を綻ばせた。
「で。帰ってきて早々で悪いんだけど」
「はい?」
「出かけようぜ、ツナ」
 イタリアに巨大な邸宅があるくせに、沢田家が本来の自分の住処みたいな言い方をして、ディーノは下向いている綱吉の腕を取った。引っ張り、立ち上がるよう促して自分も膝を起こす。
「ディーノさん?」
 外はまだ雨模様で、音を聞く限り止む気配は感じ取れない。逆に勢いを強めている気がして、綱吉は半端に腰を浮かせた状態のまま背後を窺った。
 灰色に濁った空に、白いてるてる坊主がふたつ仲良く並んでいる。ディーノも同じものに目を向け、可愛らしい曇天への抵抗に口元を緩めた。
「ちがっ、あれはランボたちが!」
「いーって、いーって。隠さなくっても」
 笑っている彼に気付いて綱吉が咄嗟に声を張り上げたが、信じてもらえない。ちょっと前まであの間に綱吉が作った分があったというのはばれなかったが、一気に気恥ずかしさが募って彼は握られたままの腕を持ち上げ、強引に振り解いた。
 驚いたディーノが肩を引き、僅かな間を置いてその場で座り直した。肩幅よりも狭く膝を広げて脚を畳み、膝に手を添えて身を乗り出す。
 なにか企んでいる目つきで見下ろされ、綱吉は居心地悪げに尻を使って後退した。
「で、ツナ。いかねえか、ドライブ」
「ドライブ?」
「そうそう」
 目を糸のように細め、ディーノが再び綱吉を誘う。底抜けに明るい声に訝しげな目線を送り、鸚鵡返しに問うた綱吉に彼は深く二度頷いた。
 頭を過ぎったのは、年末から年始に渡る日の出来事だ。長らく忘れていたが、つい昨日のことのように思い出されて綱吉は咄嗟にこみ上げた吐き気を必死で堪えた。
 正直言って、ディーノのドライブテクニックは、酷い。
 これでよく免許を取れたな、と感心してしまうほどに、酷い。
 下手なんて可愛らしい表現では済まされず、命が幾つあっても足りないくらいの恐怖をその日綱吉は味わった。
「…………」
 念の為、冗談である事を願ってディーノを盗み見る。けれど彼はニコニコと、これでもかと言わんばかりの満面の笑みを浮かべてオーラを輝かせており、あまりの眩しさに綱吉は打ちのめされ、床に額をこすりつけて咽び泣いた。
「そっか、そっかー。泣くほど嬉しいか、ツナ」
 違う。
 断じて違う。
 しかしディーノには通じない。彼はあれで、自分は運転が巧いと思っているから余計に始末が悪い。
「あ、あの。……ロマーリオさんとかは、一緒で」
「あいつは、なんだったかな。雨だと髭が曲がるとか言って、先にホテルに行ってるぜ」
 斜め上を見て空港でのやり取りを思い出すディーノの台詞に、綱吉はうっかりロマーリオに殺意を覚えそうになった。
 長年ディーノに付き従い、仕えてきたあの男が、ディーノの運転技量を知らないわけが無い。
 逃げたのだ、まず間違いなく。
 ふつふつと沸き起こる怒りのやり場もなく、綱吉は沈痛な面持ちのまま顔をあげ、湿って重い前髪を掻き毟った。
「ピクニックじゃなかったんですかあ」
 先月の電話で聞いていた彼の計画を例に出し、身体全体から行きたくないオーラを放つ。けれどディーノは相変わらずのあっけらかんとした表情のまま背筋を伸ばし、猫背になっている綱吉の頭を乱暴に撫でた。
 髪の毛をぐしゃぐしゃにされ、加重もあるので姿勢が低くなる。喉の奥で呻いて頸に力を入れ、抵抗を試みるがあまり効果は得られなかった。
「あれはツナが、この時期はツユだって言うから止めにしたんだろ?」
 そうだっただろうか。どこかで意思の疎通が巧く行っていなかったのかと頭の片隅で考え、綱吉はいよいよ自分を押し潰さんとする彼の手から逃げた。
 両手を使ってしなやかで強靭なディーノの腕を振り払い、後ろへ下がって距離を取る。
 庇うように身体を抱き締めた綱吉にちょっとだけ不思議そうな目を向けたディーノだが、様子から気を悪くした気配は感じ取れない。その事に安堵した綱吉は左上腕を撫でさすって暖め、乾いた唇を舐めた。
「ツナは、雨が嫌いなんだろ」
 姿勢を崩し、胡坐の体勢から頬杖をついたディーノに言われる。咄嗟に答えに困って綱吉の瞳は宙を泳ぎ、電話でのやり取りの中で彼が勝手にその結論に至っていたことを思い出した。
「あんまり、好きじゃないです、けど」
 しかしそれとこれと、何の関係があるのか。ドライブなんて快晴の空の下で颯爽と走り抜けるからこそ楽しいのであって、今日みたいな雨が降りしきる中を駆けても、景色だってろくに見えないし楽しくないだろうに。
 疑問符を頭に浮かべ、怪訝にしながら首肯した綱吉にディーノがニカッと歯を見せて笑った。屈託無い笑顔を浮かべられると、ディーノの見た目が年齢以上に幼くなった。
「だからさ、行こうぜ」
「ディーノさっ」
 何処へ、と言おうとして綱吉は舌を噛んだ。
 徐に手を差し伸べたディーノが、綱吉の答えを待たずに細い腕を取って強引に引っ張る。抵抗する暇さえなく前のめりに倒され、彼の身体は呆気なくディーノの膝に崩れ落ちた。
 間を置かずディーノは綱吉の脇に手を差し入れて持ち上げる。二段構えの攻勢に綱吉はされるがままで、せめてもの抵抗に足を蹴ってやったが、効果は無かった。
 広げた距離を詰められ、にこやかな笑顔で見下ろされる。そういう顔をするのはずるいと、もとより彼の笑っている姿に弱い綱吉は頬を膨らませ、不貞腐れた気持ちのまま唇を尖らせた。
「な、ツナ。行こうぜ」
「行くって、だから何処へ」
「えーっと、分かんない」
「はあ?」
 自分から誘うくらいなのだから、目的地ははっきりしているのだろう。前回は教えてもらえなかったが、今回はちゃんと出発前に聞き出しておくぞと意気込んだ綱吉だったが、返されたディーノの明るい声に顎を外し、素っ頓狂な声を頭の裏側から出した。
 目を丸くし、瞬いて、困ったなと言いながらちっともそんな素振りを見せない男を凝視する。前々から非常識なところがあると思っていたが、どうやら彼は綱吉とは別次元で生活しているらしい。
 頭を抱え、綱吉は悲嘆に暮れた。
「分からないって……なんなんですか、それ」
「でも方向なら決めてある。西だ、西に行こう、ツナ」
 ぐっ、と捕まえたままの綱吉の腕を引き、北の方角を指差してディーノが言う。どこかで変な青春ドラマでも見たのか、熱血教師風を利かせた彼に綱吉は肩を落とした。
 どうせ、言っても聞かないのだ。今日はとことん巡りの悪い日だったと諦めるほかない。
 虚脱感に襲われて眩暈がし、額を押さえた綱吉は仕方ないと首を振った。
 西に何があるのかなんて知らない、富士山でも見に行くとでも言うつもりか。けれどこのまま押し問答を続けるのも時間の無駄だし、ディーノが意固地になるだけだ。
 折角久しぶりに日本へ来た彼をもてなしたい気持ちは、当然ある。自分がディーノのドライブに付き合うことでそれが果たせるのならば、万々歳ではないか。
「分かりました。もー、分かりましたよ!」
 ただ投げやり気分なのは否めない。
 声を張り上げ、ディーノの手を再度振り解く。やけっぱちの怒鳴り声だったのにディーノは嬉しげで、キラキラの目を一層輝かせて破顔した。
「ツナだったらそう言ってくれると思ってたぜー!」
 さすが俺の弟分、と叫び、両腕を広げて逃げの体勢に入っていた綱吉をぎゅむ、と抱き締めた。力加減を忘れてぐりぐり頬を押し当て、綱吉が悶え苦しんでいるのもちっとも気付かない。
 出発前からこの調子で大丈夫なのだろうか。不安が胸を過ぎり、綱吉は生きて帰ってこられるよう神に祈らずにいられなかった。

 西を目指す、とディーノは言った。
「ひぃぎゃぁぁぁぁ!」
 助手席のシートにしがみつき、足元を突上げる震動で天井にぶつかりそうになった身体を必死で支える。涙と鼻水が混ざり合って宙に浮かび、一瞬無重力状態で停止した後、沈んで砕けた。
「ひゃっほーー!」
 水しぶきを巻き上げ、ディーノが軽快にアクセルを踏みしめる。速度規制なんてものは彼の頭には存在しないらしい、高速に乗ってからは特にその傾向が顕著に現れていた。
 速度メーターの針は振り切れるかどうかのところを行ったり来たりで、暴走族も真っ青なハイスピードぶり。警察がサイレン掻き鳴らして追いかけてこないかと綱吉はさっきからずっと冷や冷やしているのだが、幸運にもその様子は今のところ見られなかった。
 だからといって安心もしていられず、そもそも警察に捕まる以前に防音フェンスを突き破って奈落の底に落ちていきやしないかと、そちらの方がよっぽど心配だった。
 ヘルメットがあればよかったのに。いや、いっそ全身防御の強化スーツでもあれば。
 不用意に喋ると舌を噛み千切る。必死に悲鳴を堪え、綱吉はこの状態でも楽しげにハンドルを握っていられるディーノの神経を心底疑った。
 巨大なトラックの幅寄せさえなんのその、むしろそういった車の攻撃に益々アクセルを踏み込んで歓声をあげる。制限速度を遵守する車はあっという間に後方へ流れて行って、雨のカーテンで直ぐに見えなくなった。
 今日が渋滞する日でなくて良かったと思う。溜息を飲み込み、シートベルトがしっかり金具で固定されているのを確かめて、綱吉は眇めた目をディーノから窓の外に向けた。
 車内に流れる音楽はいずれもディーノの趣味で、洋楽に統一されていた。軽妙なリズムに合わせて彼の手は時折ハンドルから離れ、口笛を吹いては一緒に歌ったりもする。常に身体は前後左右に揺れ動いていて、これで事故を起こさないのが奇跡と言えた。
「ツナー、なあ、今どの辺かな」
「知りませっ……うえっぷ」
 助手席で瀕死の状態に陥っている綱吉に目も向けず、一瞬で過ぎ去った標識が読めなかったディーノが質問を繰り出す。そんなもの、常に後ろを向いて座席にしがみついている綱吉にだって見えるわけがなく、もとより車で遠出する機会など滅多にない綱吉に、分かる筈もなかった。
 西、というキーワードしか今回のドライブには設定されていなかった。何故西なのか、その理由もまた綱吉は知らされていない。
 怒鳴り返している途中で吐き気に見舞われ、慌てて両手で口を押さえて身を丸くする。内臓がぐちゃぐちゃにかき回されてひっくり返ったみたいで、酸っぱいものを舌の根に感じ取って彼は涙目になった。
 やっぱり乗るのではなかったと後悔しても、すべて後の祭り。助けてと叫んだところで車に居るのはディーノと綱吉当人だけであり、密室状態から脱出はほぼ不可能と言えた。
 子供たちを連れてこなくて良かったと思う。ふたりが出かけると知って、特にランボは連れて行けと五月蝿かったが、歓迎を表明するディーノの前で絶対に駄目と綱吉が言い張った。お土産を買って来るという約束でなんとか諦めてもらって、逆にディーノはそんなにふたりっきりが良かったのかと素敵な誤解をしてくれた。
 厄日である。綱吉はどよん、とした空気を背負って打ちひしがれた。
「お」
 すっかり沈みきっている綱吉を他所に、前を見据えるディーノが不意に声をあげた。
 今度はなんだ、と綱吉が顔をあげる。アクセルを緩めたのか、心持ち速度が落ちた気がした。
 それ以外にも何か、変化を感じ取って綱吉は目を瞬いた。不思議そうに斜め上の天井を見やり、左を向いて窓の外を眺める。だが掴みきれず、彼は両手を自由にすると膝で登っていたソファから脚を下ろし、背凭れに身体を預けて座席に座り直した。
 身体が安定して、呼吸が楽なる。それでもまだ他の車よりずっと速度は出ていたが、慣れたのか、怖いとは思わなかった。
 これで安全運転を心がける人の車に乗せてもらったら、遅いと文句を言いそうだ。想像してげんなりしつつ、窓辺に肘を置いて外に目を凝らす。
 僅かだが、防音壁の上に見え隠れする空が明るい。
「あれ?」
 路面は濡れているし、窓を打つ雫は斜めの筋を無数に刻み込んで綱吉の視界を邪魔している。
「ディーノさん、今どの辺?」
 さっき自分で答えられなかった質問をそのまま左側にいる人物に尋ねるが、誤魔化しの口笛がひゅぅ、と流れて行っただけだった。
 期待するだけ無駄だと苦笑し、目を凝らして標識を探す。フロントガラス越しに看板は幾つか流れていったが、覚えの無い地名が記されているだけでさっぱり見当がつかなかった。
 帰ったら日本地図を眺めよう、と車を降りる頃には絶対忘れているだろう事を心に決め、飛び込んだ暗闇に彼は肩を竦めた。
 首を亀みたいに引っ込め、全身を硬くする。耳の奥でグォォォ、と音が変な風に反響して、流れて行くオレンジの光に彼は今日何度目か分からない緊張で奥歯を鳴らした。
 トンネルに入る都度同じ反応をする綱吉を笑い、ディーノはウィンカーを灯すと同時に速度を緩め、左の車線へ進路を取った。
 曲がるのかと思ったが、違う。緩やかな右カーブを描くトンネル内は一本道で、コンクリートの柱に支えられて対向車線を行く車の姿が良く見えた。
「ディーノさん?」
「もうちょっとだと思うんだ」
 怪訝に名前を呼ぶと、運転に集中する彼が前を見たまま言う。なにが、と一番肝心な部分を口に出さず、彼は更に速度を絞って一番左の車列に移動を果たした。
 長いトンネルの終わりが遠くに見えて、五秒数える前に人工の灯りは途絶えた。
 雨はまだ降っている。止まっていたフロントガラスを叩く音が再開され、ワイパーが自動的に立ち上がった。
 外が明るいと感じたのは目の前が広いからだと気付くのに、綱吉には幾らかの時間が必要だった。
「うわ……」
 感嘆詞を声に出し、綱吉は座席から身を乗り出してシートベルトに行く手を阻まれた。
 今、彼の左側には海が、右側には緑に覆われた大地が広がっていた。
 大きな水溜りを真っ二つに切り裂いて、車はディーノの運転の元、綱吉を乗せて西を目指す。見知らぬ光景に目を輝かせた綱吉を横目に見て、ディーノはまだ終わりではないと嘯き、アクセルを踏んだ。
 ぐっ、と加速して座席に背中が押し付けられる。内臓が圧迫されて苦しく、潰れた蛙みたいに呻いた綱吉は恨めしげにディーノを睨んだ。
「外、見てな」
 彼はそれを平然と受け流し、ハンドルを左手一本で握ると、持ち上げた右手の人差し指以外を折り畳んだ。綱吉の前を横切るように動かして、窓の方に注目するよう言い付ける。
 渋々従って、綱吉は彼に背を向けて助手席横の窓に額を貼り付けた。
 後ろでディーノが笑う。頬を膨らませて憤懣ごと吐き出し、綱吉はいったい外に何があるのかと目を平らにして口も横一文字に引き結んだ。
 雨が地上を潤す。綱吉の心を曇らせる。
 ディーノがアクセルを踏み込んだ。加速し、ワンボックスカーを追い抜く。
 窓に当たる水しぶきがぶつかる角度を急にして、数を増した。世界が煙り、視界を濁らせる。
 右目を眇め、奥歯を噛んだ綱吉は左目だけで轟音を響かせる車の進行方向を見詰めた。
 ふっ、と。
 肺の中に残っていた吐息が唇を掠めた。
「え――――」
 耳の中に残るザアア、という雨の音が後ろへと遠ざかっていく。首を巡らせて行方を追った綱吉は、今の一瞬で彼らの中に起こった変化に心臓を震わせ、静かに呼吸を止めた。
 魔法でも使ったのか。目を見開き呆然とした綱吉は、やがてふらりと身体を左右にふらつかせ、肩から座席に身を沈めた。
 雨が、終わった。
 まだ耳の奥で雨の残響が波紋を広げている。だのに空は晴れやかな青に覆われ、濡れた路面は乾き行こうとしていた。
 喉の奥で笑いを噛み殺し、ディーノがしてやったりと口角を持ち上げた。
「いま、の」
「雨の終わりだよ、ツナ」
 雨雲の切れ目、天気の境界線。それを今、彼らは駆け抜けたのだ。
 声が震える。生まれて初めての経験に綱吉は魂さえ揺さぶられる思いで、身を乗り出し、座席に膝を立てて遠くなった雨雲を必死に探した。だが車は高速で走り続けており、景色は遠い彼方。
 ただ道路の向こう側の真っ青な海が、目に眩しく輝いていた。
「雨の、終わり……」
 ディーノは西を目指すと言った。
 綱吉は雨が嫌いだと言った。
 ドライブに行こうと、彼を強引に連れ出した。
 今漸くすべてがひとつに繋がって、綱吉は目を見張った。ハンドルを握るディーノが、驚きを素直に顔に出している彼に白い歯を見せる。
「どうだ?」
 雨が嫌なら、雨が終わった先へ行こう。
 キザっぽくウィンクしてみせたディーノに綱吉は頬を紅潮させ、興奮気味に頷いた。
 気分が悪かったのも、機嫌が悪かったのも全部吹き飛ぶ。憂鬱だったのも、今日が最悪の一日だと思っていたのも、なにもかも。
「そっか」
 満足げに相槌を打って、ディーノはまた一台車を追い抜いた。
「何処まで行くの?」
「さあ。何処まで行きたい?」
 目的地は最初から決まっていない。目配せして聞いて、聞き返されて、綱吉は声を立てて思い切り笑った。
 今なら虹の橋だって渡れそうな気がした。

2008/06/15 脱稿