黄昏に煙り想いは暮れゆく

 過ぎた時間に「もしも」の定義を持ち込むのは不毛だと、その認識は確かにある。
 絶対に起こり得ないことを想像して、一喜一憂するのは極端な話、愚かしいし、無意味だ。分かっている。
 けれど、人間とはえてして弱いもので、そういう空想に耽らなければ精神を維持できない部分も確かにあるのだ。
「一年早く、か」
 ぽつり呟くと、言った内容は聞き取れなかったものの、こちらが口を開いて音を発したのだけは察した相手が素早い瞬きを連続させ、大きな目を見開いた後に首を傾げた。
 大袈裟なまでの反応に、緊張が窺える。
「なんでもないよ」
 少なくとも彼が案じるような、彼に不利益になる事を考えていたのではない。苦笑して緩く首を振ると、彼は明らかにホッとした様子で息を吐き、元からしまりのない表情を更に幼くしてふにゃりと微笑んだ。
 綿帽子のような髪の毛が、日の光の中で淡く輝いていた。
「ほら、行くぞ」
「う、うん!」
 握り締めたゴムボールを振りかぶり、大きな軌道を作って放り投げる。狙い定めた地点より若干左上に向かったオレンジ色の球は、素早く構えを取った彼の手の中に音もなく吸い込まれていった。

 その日は中間テスト最終日、の、前日だった。
 まだ科目は残っているものの、英語や数学といった難関は山を越えて後は神に祈るのみ。諦めの気持ちが徐々に膨らんで、もうなるようになれ、と教科書や参考書を机に放り出してしまいたくなる時期でもあった。
 とはいえ、本当に何もかも投げ出してしまっては赤点になる。赤点、それ即ち試合への出場停止だ。
 三度の飯より、いや、同じくらい好きな野球が思う存分出来ない環境など考えられなくて、必死にペンを握って問題集相手に格闘していたわけだが、よりによってこんな時に。
 シャープペンシルの芯が切れた。
 筆箱を漁り、筆立てもかき回してみたが、新品は見付からず。辛うじて筆立てにあったペンの中に半分に減った芯が残っていたが、それも尽きてしまって八方塞がり。泉は乱暴に頭を掻き毟ると、どうして買っておかなかったのかと過去の自分を罵って項垂れた。
 使うと先が減ってしまう鉛筆とは違い、シャープペンシルは替え芯さえあれば一本で事足りる。荷物は少ないに限ると筆入れにはその一本と色ペン、消しゴムくらいしか入れておらず、家に帰ってからの予習復習に使う物も全く同じ。
「くっそお」
 残り少ないかな、とは思っていたが、そのうち買い足せば良いと楽観的に考えていてこの有様だ。購買には試験期間中も何度となく足を運んでいたのに、思い出すのはいつも用事を済ませた後だったのが災いした。戻るのが面倒で、また次行った時にと問題を先延ばしにしていて、結局買わずに此処まで来てしまった。
 机の端で山を成している消し屑に目を向け、ガシガシと黒髪を掻き回した彼は、小さく舌打ちして猫背にしていた姿勢を後ろへ反らした。座っていた椅子のパイプが軋み、嫌な音を立てた。
 大人しく買いに出るしかあるまい。まさかこんなことになるとは夢にも思っておらず、外向きに跳ねた前髪を指で弾き、仕方が無いと泉は勢いよく立ち上がった。
 隙間から出て椅子を机の下へ押し込み、財布ひとつを持って素足のまま部屋を出る。家人に少しの間だけ外に出てくる旨を伝え、玄関のドアを開けた彼は、灰色のアスファルトで覆われた大地に目を向け、面白みに欠ける住宅地の細い路地を歩き出した。
 近所にあった煙草屋兼文房具屋兼駄菓子屋、とどのつまり何でも屋は、便利だったのだが、ひとりで切り盛りしていた老婆が亡くなって廃業してしまい、今はもうない。だから自宅から歩いて十分ほど先のところにあるコンビニエンスストアが、一番近い商店だった。
 買い物する時間も含め、往復で二十分少々。その時間があれば参考書の一ページくらい進んだだろうに、手痛いタイムロスだと認めて肩を竦めた彼は、一方通行の標識が立つ角を曲がって顔をあげた。
 薄茶色の綿帽子が目の前を斜めに横切っていった。
「あれ……」
 否。風にそよぐ植物とはおよそ無縁の存在が、きょろきょろと挙動不審気味に視線を彷徨わせ、泉の前方を彼に気付きもせず歩いていた。
「三橋?」
 その覚えのある後姿に、首を傾げて泉は目を瞬かせる。
 名前を呼べば、羽を休めるべく花を捜す蝶の如くあっちへふらふら、こっちへふらふらしていた存在が、途端に足を止めて全身を竦ませた。今絶対怯えただろう、と分かる大袈裟な態度に、泉は右肘を曲げて腰に手首を押し当て、嘆息した。
「なにやってんだ、んなトコで」
 今日部活が休みなのは、ご近所探検で出歩く為ではなく、机に向かってちょっとでも勉強する為だ。たとえ無駄な足掻きといわれようと、赤点ぎりぎりの知能指数しか持たない面々にとって、この時間は非常に貴重なもの。殊更三橋は、田島と並んで赤点候補の筆頭株であり、最も真剣に教科書と向き合うべき存在だった。
 それなのに、自宅から離れたこんな場所にいるとは。
「うお、い、泉く、ん」
「よぉ」
 今日も朝から学校で顔を合わせたが、昼過ぎに試験が終わって別れてからまた会うことになろうとは思わなかった。
 我ながら間抜けだと思いつつも、左手を肩の位置まで持ち上げた泉が軽い調子で挨拶を送る。最初は首から上だけを振り向かせていた三橋も、泉の存在を知覚すると、踵を浮かせて身体ごと向き直った。
 軽く握った拳を胸に押し当て、落ち着き無く瞳は泳いでいる。夕暮れ時の風に擽られる髪の毛は淡く色付き、服装は学校で見た時のまま変化無かった。
「浜田んちでも行くのか」
「えっと、う、ううん!」
 この近辺に暮らすもうひとりのクラスメイトを思い出し、泉は腰に当てていた腕を伸ばした。前に一歩足を踏み出すと、三橋がまたビクリと震えて身構えるのが分かった。
 ああ、まただ。そう思いながら泉は彼との距離を一気に詰め、長く伸びる彼の影を踏んだ。
「どっちだよ」
 三橋は返事をするのに、一度頷いてから横に振った。それでは色々な意味に受け止められて、答えが分からない。困惑と呆れをまぜこぜにした表情を浮かべた泉に、彼は細い雲が重なり合う空を見上げ、広げた両手の指を絡ませた。
「えぅ、……かえり、みち」
「ああ」
 どうやら泉の質問は半分正解で、半分間違いだったらしい。
 浜田の家に行って、その帰りなのだ、三橋は。用件は察するに、試験勉強だろう。授業中ただでさえ居眠りばかりで、ろくにノートを執ってもいない三橋にとって、浜田は勉強を教えてくれる頼りになる兄貴分、という事らしい。
 実際、このふたりの成績はドングリの背比べに等しいのだが。
 情景を想像して、泉は肩を落とす。ならば自分にも声を掛けてくれればよかったのに、思いはしても顔には出さず、泉は西の地平線に近付きつつある太陽に目を細めた。
「で、迷子?」
「ふへ!」
 浜田の家に行ったは良いが、帰り道に苦慮していたところに自分と遭遇。そう想像した泉のひとことに、三橋はどうして分かったのかと驚きに顔を染め、大きな目を丸くして人の顔をじっと見詰めてきた。
 分からないほうがどうかしていると思うのだが。考えていることが丸分かりの三橋に苦笑し、泉は着々と過ぎ行く時間を思い出して緩めていた口元を引き締めた。
「い、泉君、は?」
「俺? 俺はちょっとコンビニ」
 会話を発展させるのが苦手な三橋にしては、珍しく自分から質問を繰り出して来た。あわよくば帰り道を教えてもらおうという魂胆が見え隠れしていて、握り拳を上下に振った彼に泉は言い、あそこ、と看板だけが遠く、道路の向こうに見えるのを指差した。
 振り向いた三橋の髪の毛に西日が差込み、元から薄い色が余計に薄まって溶けてしまいそうだった。
「一緒に行く?」
 黄金色にも似た輝きを眩しく感じて、泉が目を閉じて代わりに口を開く。三橋は恐らく吃驚した様子で振り向いただろうが、その様は泉の目には映らなかった。
「いい、の?」
「いいさ」
 コンビニエンスストアまでの道程は、残り少ない。それでも僅かな距離を一緒に、肩を並べて歩けるのならば。
 呼吸を整えて丹田に力を込め、泉が目を開く。直ぐ其処にいる三橋は、嬉しげに笑っていた。
 細かな表情の変化の逐一を見逃したことを惜しいとも思ったが、つぶさに目の当たりにしていたらきっと、自分は平静で居られなかった。
「浜田に勉強教えてもらってたのか?」
 先に歩き出した泉について、三橋も半歩遅れで足を前に繰り出した。目だけを後ろに流しての質問に、彼は上機嫌に頷いて返す。
「はまちゃん、に……ノート、借りてたから」
「そっか」
 つたない彼の説明曰く、明日試験がある科目のノートを借りたまますっかり忘れていて、慌てて届けに来たのだそうだ。
 浜田もそのノートが無ければ明日の試験に差支えが出てくるので、三橋は当然ながらとても焦った。それで彼の家を訪ね、少しだけ上がらせてもらい、写し損ねていた箇所をその場で手書きでコピーして、今はその帰り。
 昔、彼が幼い頃住んでいた地区でもあるので、浜田は大丈夫だろうと玄関先までの見送りで済ませた。しかし郷愁に駆られた三橋は、当時家族と暮らしていた場所を探し、記憶だけを頼りに突き進んで道に迷ってしまった。
 どうりで浜田の家からも随分と方向違いな場所に立っていたわけだ。
 納得した、と時間と理解力の必要な説明を聞き終え、泉はコンビニエンスストアの自動ドアを潜り呟く。閉まりかけたドアを急ぎすり抜けた三橋が転びそうになって、反射的に腕を伸ばした泉がその腰を支えた。
 ピッチャーズマウンドに立った時の三橋は、決してフィールディングも悪くない。それなのにグラウンドを離れると途端にこうなのだから、人間とは分からないものだ。
「ありが、と」
「気をつけろよ」
 よろめきつつ、人に縋って姿勢を直す三橋に呆れ声を出し、その細い肩を叩く。彼が怪我をすると、過保護な阿部がなにかと五月蝿い。
 心配しすぎなのだ、彼は。キャッチャーとして投手の三橋を大事に思うのは勝手だが、それで三橋の行動まで制限するのは如何なものかと、部活中もふたりのやり取りを見ていると時々思う。
 ただ三橋は、誰かに気にかけてもらえるのが純粋に嬉しいようで、あまり気にしていない様子だが。
「う?」
 ちらりと横目で、身なりを整えている三橋を盗み見た泉は、目が合って途端に逸らしてしまった。不思議そうに首を傾げられ、直後にまた彼が後ろで狼狽し始めたのが気配で伝わってくる。失敗したと後悔しても、もう遅い。
 自分が何か泉の気に触ることをしたのではないか。ネガティブ思考の極みにある三橋が、今の泉の態度に困惑するのは仕方の無い事。急いで訂正しようとしても、咄嗟に言葉が出てこなくて、泉はこんな場所であるに関わらず泣きそうになっている同級生に肩を落とし、盛大なため息を零した。
 利き腕を握り、多少汗ばんでいるそれを広げ、持ち上げる。入り口に二人揃って立ち続けるのも通行の邪魔で、慰めの言葉も掛けず泉は三橋の俯いている頭を一度撫でるように軽く叩いた。
 いくぞ、と聞こえるかどうかも微妙な音量で囁き、文房具類が陳列されている棚を目指して泉が動く。顔を上げた三橋は距離が開きつつある泉の背中を暫く大粒の目で見詰めた後、ぎこちない動きで彼を追いかけた。
 別段珍しくも無い、どこにでもあるコンビニエンスストアだ。大きな窓からは光が差し込み、片側一車線の道路に行き交う人の波がよく見える。店員はひとり、レジの前に立って不審げにふたりの姿を見詰めていた。
 泉が真剣な眼差しでシャープペンシルの芯の太さを選んでいるのを見て、三橋は出しかけた右足を慌てて引っ込めた。もじもじと伸ばした左右の人差し指を捏ね合わせ、邪魔をしては悪いかと近付くのを躊躇する。
「これ、と……あと」
 出るか、引っ込むか。迷っている間に泉はさっさと商品を選び終え、傍らで爪先を頻りに前に、後ろに動かしている三橋を見つけて首を捻った。
「三橋?」
「は、ひぃ!」
「……いや、悪い。なんでもない」
 怯える猫みたいな反応をされて、泉はさっきからどうにもペースを乱されている自分を意識してこめかみに指を置いた。
 夜食になるような菓子も一緒に買おうかと思ったが、その気も一瞬で失せた。必要なものだけを購入し、無駄遣いは控えようと心に決め、レジへの最短コースを三橋に塞がれていた彼は緩く首を振り、反対側に進路を定めた。
 歩き出せば、親鳥に付き従うカルガモの子供みたいに三橋がついてくる。
「あ」
 棚の間を抜け、冷蔵のドリンクが並ぶ一角の前まで来て急に後ろから声がした。何事かと振り向けば三橋が何かを見つけたようで、目を輝かせて口を間抜けに開いている。
「三橋?」
「う。なんでも、ない、よっ」
 呼びかければ即座に目が合って、早口に取り繕われる。けれど態度からしてなんでもないわけがなく、泉は来た道を半歩戻って三橋の真横に並んだ。
 狭い中、肩がぶつかり合う。そのつもりは無かったが肘で三橋を押してしまい、泉は緊張で汗ばんだ彼の肌を直接感じて眉根を寄せた。
 彼が見ていたのは、鮮やかなカラーボールだった。
 ゴム製で、中に詰められているのは空気。対象年齢は幼児から、地面に投げつければ反動で大きく弾む。日頃硬球に慣れ親しんでいる自分たちからすれば、ちゃちな玩具でしかないけれど。
 泉とそのボールとを交互に盗み見ている三橋を脇に置いて、泉は左手に握ったシャープペンシルの芯を裏返した。
「キャッチボールでもする?」
 此処の近くに公園があったはずだ。地図を思い描き、泉は質問しておきながら決定事項のつもりで、銀色の陳列用の棒からボールのパッケージを引き抜いた。
 肩を震わせ、綿帽子の髪を逆立てた三橋が頷きかけた首を横へ振った。
「で、も」
「どうせ今から勉強したって、変わんないさ」
 だからお前も諦めろ。
 広げた手の中で購入が決定した品物を躍らせ、泉が白い歯を見せて笑う。一蓮托生だと告げた彼に、三橋はきょとんとした顔で照明の白い光の下に佇み、意味を理解した途端頬を紅潮させ、興奮気味に力いっぱい頷いた。
「うん!」

 起こり得なかった過去に思いを向け、成し得なかった未来を夢見るのは不毛な行為だと理解している。
 だから人は、少しでもその虚しい空想に今が近付くよう、努力するしかないのだ。
「い、くよー」
「おー」
 本来ボール遊びは禁止の公園なのだが、他に誰もいないのを良い事に少しだけ融通を利かせてもらい、ふたりは十メートルほどの距離を置いて向き合った。
 泉が投げた球を三橋が受け止め、握り直して合図を送る。いちいち言わなくても良いのに、律儀なのか、不器用なのか、彼は投げる前に毎回肩を振り回した。
 ゴム製なのだから、当たっても痛くない。窓ガラスだってきっと割れない。バッターも居ないのだから遠慮せず、あの細かいコントロールも気にせずに思い切り投げればいいのに、それもしない。
 遠慮されている感じがして、こそばゆく、腹も立った。
 泉が構えを取り、三橋が投げる。緩い山なりの軌道を経て、オレンジ色のボールは泉の手の中にすっぽりと収まった。
 寸分の狂いも無い丁寧すぎるコントロール。投手としての三橋にはとてつもない武器となるこの洗練された球捌きも、今の泉には邪魔なものでしかなかった。
 西の空は赤く色付き、天頂に近付くにつれて藍色から紫に変化を遂げる。棚引く雲は薄く、幾つも重なり合って不可思議な紋様を彩りに添えていた。
 横からの陽射しを受け、眩しさに目を細めて泉は右腕を肩まで持ち上げ、握るボールに意識を向けた。
 苦々しい表情を隠し、乱暴に投げる。狙いは外れ、三橋の右側に大きく逸れて行った。
「あ、悪い」
 三橋は飛んで捕ろうとしたが、指先が掠めただけで届かなかった。横に跳ねてバウンドを繰り返すボールを追う背中に呆然としてから慌てて謝罪し、泉は左右に動き回る彼に対し、最初の場所から殆ど動いていない自分に苛立って地面に穴を掘った。
 足跡が一箇所に集中している。自分を中心に直径一メートルの円を描いたら、その全てが内側に収まるはずだ。
 この広さが、今の三橋の自分に対する扱いなのだと思うと、虚しさがこみ上げてきて泉は唇を噛み締める。
「あった、よー」
 弾みながら公園を囲む木々の隙間に逃げたボールを追い、泉に背を向けていた三橋が明るい顔で手を挙げる。
 彼の手には夕日を浴びて淡い色に輝く球体が握られていた。
「悪いな」
 彼をあんな風に走らせたと知れれば、阿部から雷が落ちるかもしれない。今日のことは内緒にするよう、三橋には後で釘を刺しておこう。放り投げられたボールを胸の前で受け止め、泉はその絶妙なコントロール具合に心の中で舌打ちした。
 右手を上に、左手を下に。どこかの格闘漫画で気孔弾を撃つようなポーズだが、実際はその逆で、ボールはするりと寸分の狂いも無く泉の両手の間に吸い込まれていった。
 握って、左腕を下ろし、右手を裏返してポーン、と垂直に弾く。直線の軌道を上下になぞり、ゴムボールは泉の手の中へ戻った。
「三橋」
「う、ん?」
「野球、好き?」
 落ちてきたそれを捕まえて、肘を引く。右足を主軸にして左足を膝の高さまで持ち上げ、前に踏み出す。
 小さな円を踏み越え、薄い砂煙を巻き起こし、泉は力いっぱいそれを、三橋に向かって投げた。
「う!」
 たとえ柔らかいゴム製であっても、勢いに乗せたものをぶつけられれば、それなりに衝撃はいく。咄嗟に肩を強張らせて身構えた三橋は、利き腕を前に出して広げ、左手を手首に添えた。
 パシッ、という乾いた音が、夕凪の空に溶けて行った。
 広げ、そして緩く握られた手の向こう側に三橋の驚いた顔がある。赤焼けた空を背景にして、長い影を乾いた大地に零し、丸い目をより大きくした彼の表情を見て、泉は理由の分からない悔しさで唇を噛んだ。
 三橋かすれば質問を投げかけられると同時にボールを放られて、どちらを優先させるべきか分からなくてこの状況に陥っただけに、自分ばかりが責められる理由が分からない。きつい泉の視線に背筋が粟立ち、自分はまた気付かぬところで失敗していたのかと折角捕まえたボールを落としてしまった。
 足元で跳ねた球体は彼の左腿に当たり、前に転がって止まった。
「いず、み、くん」
「なあ、三橋。本気で投げてる?」
「え」
 勢い余った右足を更に前に突き出して身体を止め、顔を上げた泉の詰問に、三橋はぎくりと心臓を竦ませた。
 落としたボールを急いで拾い、両手で包み込む。脇を締めて肘を引いた彼は胸の前でボールを捏ね、表面に付着していた細かな砂粒で掌を汚した。
 何故泉が怒っているのかが分からない。自分は彼が捕りやすいように、彼が構えた場所を目掛けて投げていた。それは三橋からすれば、当然の行為であり、彼にとっての真剣だった。
 球威の無い、緩い、優しい球筋。素手でのキャッチボールで相手に怪我をさせないようにとの、三橋なりの心配りだったものが、泉には気に食わない。
 もっと捕り難い珠を投げても構わないのに、そうしない。遠慮されていると、そんな風に感じさせる球を幾らキャッチしても、自分たちの間にある壁に気付かされるだけだ。
「三橋、あのさ。俺、センターってポジション、すっげー好きなんだ」
 歴史に「もしも」は存在しない。三橋がこんな風に投げるようになった時間に、泉は彼の傍に居なかった。
 居れば、教えてやれたのに。
 いいや、違う。
 頭を振り、泉はボールを抱いたまま立ち尽くす三橋へ踏み出した。彼には西日を斜め前から浴びる泉が、とても怖い存在に見えたかもしれない。現実に彼は怯え、戸惑いを前面に押し出して踵で地面を抉った。
 逃げたいという気持ちと、そうしてはならないと留める理性が、彼の中で拮抗しあっている。やがて両者の間に残る距離が一メートルを切ったところで彼は首を窄め、ぎゅっと瞼を硬く閉ざした。内股気味に膝まで閉じて、猛犬に追い詰められた子猫みたいに全身を竦ませる。
 同級生に対してその態度は無いだろうに。苦笑して、泉は彼の柔らかな髪に両手を押し当てた。
 上から体重をかけ、思い切り押し潰す。
「うりゃ!」
「ふぎゃっ」
 身構えていなかった三橋は呆気なく膝を折り、泉を巻き込んで地面に崩れ落ちた。ボールを手放した指が空を掻き、泉のシャツを握り締める。首を庇って下向いた頭の先が丁度その泉の胸元に当たって、泉の両手は後ろへと滑り斜め向いた彼の背に落ちた。
「センターってさ、知ってるか。広いんだぜ」
 二塁ベースの真後ろ、左右に広がる両翼のその中央。ライト、レフトへ飛んだ打球のカバーに回ることもあれば、バックホームへの中継の為に走りこむこともある。
 セカンドのバックアップに前へ走る場合だって多い。なにより投げ放たれたボールを打者がまっすぐ打ち返した時、投手の頭上を越えた打球が向かう先は、他でもないセンターの守備位置だ。
 何処に飛んでくるか分からないボールを追いかけて、グラウンドを縦横無尽に駆け回る。どのポジションだって基本的にそれは変わらないけれど、誰よりも速く打球の道筋を読み取り、上空の風の強さや向きを計算し、走る。ふらふらと泳ぐ白いボールが自分の目指した通りに落下し、差し伸べたグローブに吸い込まれる。その瞬間の心地よさが、なによりも泉のお気に入りだった。
 だから三橋の投げるボールのような、予め何処に落ちるかが分かっている球を捕まえても、彼はちっとも嬉しくない。
 確かに三橋が持つ、類稀なコントロール能力は投手として長所だし、貴重だ。阿部が言うように強烈な武器にもなる。
 けれど今は、試合ではない。
 泉は投げ勝たなければならない敵ではない。
「俺さ、……どんな打球だって捕れる自信、あるよ」
「泉君?」
「お前がどんな変な場所に投げたって、捕れる自信、あるぞ」
 三橋の頭を抱きこみ、膝を折った泉が呟く。
 シャツを引いた三橋が怪訝にして、持ち上げようとした顔を反対に伏した。
「だから、俺にくらい、本気の本気で、投げてみろよ」
 くしゃり、綿毛のような亜麻色の髪をかき回して泉が呻くように言う。
 一年早く生まれていたら、と思う。一年早く出会えていたら、と思う。同時に、それがどれだけ不毛な願いかを、泉はきちんと理解している。
「お、れ……いずみくん」
「あー、もう。かっこわりー……」
 三橋が決して泉を蔑ろにしていたわけではないことも、分かっている。それでも押し殺しきれなかった感情を吐露して、三橋に押し付けた。
 一方的な感情は相手を傷つけるだけだと知っていても止められなかった自分を、泉は嫌いになりそうだった。
 腰を落とし、地面に座り込む。三橋を開放した手で前髪を毟った泉に、三橋は泳がせた視線の先で見つけたボールを拾い上げ、差し出した。
「お、俺。野球、好き……だよっ」
 緊張と興奮が入り混じって、更に夕焼けが追加されて赤い顔をし、懸命にたどたどしい口調で言い切る。力の込められた言葉に、泉は一瞬狐につままれた顔をした。
 二秒後、三橋の理解力の遅さに呆れ、ぶっ、と大きく噴き出した。
「くっ……はは、そっか。そうだよな、悪い。変なこと言った」
「泉君?」
 突然腹を抱えて笑い出した泉にきょとんとして、三橋が右手の中のボールと彼を交互に見比べる。
「そうだな。俺も、……好きだよ」
 今のやり取りで、ひとり真面目に考えて空回りしていた己の滑稽さに気付き、もうどうでもいい気分になってしまった。
 彼を相手にぐだぐだ考えるのは、やめにしよう。
「ぅえ?」
「続きやるか。あー、でももう日が暮れるな」
 声を立てて笑ったのもあって、幾分すっきりした顔をして泉が三橋の手からボールを受け取る。穏やかに凪いだ彼の表情に、三橋は一瞬だけ目を奪われ、ドキリと跳ねた心臓に自分で驚いて息を詰まらせた。
 彼は野球が好きと言ったのであって、それ以外に深い意味は無い。それなのに急に心の中がざわめき立って、三橋は左胸に手を押し当て首を傾げた。
 先に立ち上がった泉が夕焼け空を見上げて目を細め、まだしゃがみ込んだままの三橋を手助けするべく手を差し出す。
 指を揃えて伸ばされた彼の手を見詰め、三橋は硬直した。
「三橋?」
「お、俺、帰るね!」
「お? おー……道分かるか?」
「へ、いきっ」
 突然の彼の変容ぶりに泉も驚き、目を瞬かせる。三橋はその前で慌しく起き上がると、ズボンの汚れを乱暴に叩いて払い落とし、いつに無く挙動不審に足踏みをすると、逃げるように走り出した。
 転ぶぞ、と泉が注意をする前に本当に右足に左足を引っ掛けて転び、頭から砂をかぶって照れ臭そうに笑う。大丈夫なのかと本気で心配している泉に手を振って、彼は慌しく夕闇に覆われようとしている公園を出て行った。
「また明日なー」
 遠ざかる背中に声を張り上げ、残されたボールを手の中で遊ばせる。三橋の珍妙な行動は今に始まった事ではないが、殊更可笑しくて首を傾げ、彼は薄く棚引く雲の隙間目掛けて高く球体を投げ放った。

2008/06/15 脱稿