充腹

 日曜の昼下がり、発売されたばかりの漫画本を買いに出たその道すがら。交差点手前で配られていたクーポンに目を落とし、綱吉はそういえば、と街路の中ほどに突っ立つ大時計を見上げた。
 遠くからでも十二分に目立つそれは、正午を小一時間ばかり経過したところで針を休めていた。
「お腹、空いたかも」
 服の上から肉の薄い腹筋を撫で、胃袋の中身を想像する。途端にぐぅ、と調子の良い虫がひとつ鳴いて、狙ったようなタイミングに彼は思わず苦笑した。
 本日の起床は遅く、午前九時を軽く過ぎた辺りでベッドから這い出した綱吉は、それに伴い朝食も、当然ながら日頃より格段に遅い時間に摂取した。
 逆算すればまだ三時間程しか経過していない。確かに今は昼飯時ではあるが、体内で朝食が消化され切るまでまだ幾許かの猶予があるはずだ。
 それなのに覚える空腹感。我ながらタイムスケジュールに正確な胃袋をしている、と肩を落とした綱吉は、歩いている最中で差し出され、つい受け取ってしまったクーポン券に再度視線を落とした。
 出かけると言った時、奈々に昼ごはんは必要かと聞かれて、即座に返したのは、不要の一言だった。だから今から家に帰っても、食べるものは何も用意されていない。ただおやつ時には間に合うだろうから、夕食まで空腹で死にそうな目に陥るなんて事は起こらないはずだ。
 専業主婦である奈々を母親に持つ綱吉は、家に帰れば暖かな食事が用意されているという恵まれた家庭環境にある為、わざわざ貴重なお金を支払ってまで外で好んで食事をしなければならない状況にはない。だがごく稀に、外食をしたくなる時というものはある。そうでなくとも、綱吉は育ち盛りの中学生だ。
 家に着くまでの時間と、空腹具合、そして懐の温かさを天秤にかけて、綱吉は最後に空を仰いだ。右手に持った紺色のビニル袋の重みは、中身の少なさと相俟ってさほど苦痛ではない。むしろ意識した途端に強さを増したひもじさの方が、余程今の綱吉には辛い。
「参ったなあ」
 今月は思っていた以上に出費が多く、今日のこの外出で終わりにしようと決めていたのに。
 来月の頭にも新刊が発売されるし、週刊の雑誌の購入費用も残しておかなければならない。それを思うと早く止めた足を動かして帰路を急ぐべきなのだが、スニーカーの裏に糊でも張り付いたか、思うように持ち上がらなかった。
 財布の残高を素早く計算して、溜息をひとつ。三度目を落としたクーポンには赤色が目立つように配色され、食欲をそそる写真が幾つも並んでいた。
 上部に大きく、最近発売が開始された新商品が目玉として掲載され、その下側半分に細かいミシン目が縦横無尽に走っている。必要な分を千切って店に渡す形式で、各チケットには商品名の他に、割引前と後の金額が矢印で結ばれていた。
 割引率は決して良いものではない。だが万年貧乏の綱吉にとっては、救いの女神の囁きにも思える魅力的な誘いだった。
 思わず喉が鳴り、唾液が咥内に溢れた。
「う……」
 前から来る人を避けて端に寄り、顔を上げて周囲の景色に目を凝らす。片側二車線の通りを挟んで商業ビルが立ち並ぶ一角にある綱吉は、裏返したチラシに書かれていた地図を読み取るより先に、一際目立つ色と形をした看板を見つけた。
 思っていた以上に近い。三叉路の中央に陣取る角のビルが丸ごとそうで、二階、三階が店内飲食用で設けられたスペースらしかった。
「うう、どうしよう」
 心底迷い、苦虫を噛み潰した顔で綱吉はいよいよ勢いを強めるすきっ腹をそっと撫でた。
 此処で食べて行けば、家に帰るまで空腹に嘆く必要は無くなる。だが同時に、来月までの資金繰りに泣くことになる。
 食べなければ財布は現状維持、苦しいながらもなんとか日々やって行くだけの財産は残る。但し、家が遠ざかる。
 絶えず揺れ動き続ける天秤を頭の上に乗せ、綱吉は低く呻いて恨めしげにクーポンを睨んだ。こんな物を手渡されさえしなければ、こんな悩みを抱えずにすんだものを。
 他人に責任をなすりつけ、綱吉は盛大に肩を落として嘆息した。今日も元気に跳ねている髪の毛を掻き上げ、この時間でもまだ混雑ぶりが続いている店内に目を向ける。但し行列があるとはいえ、何十分と待たされそうな気配は薄い。
 次いで上を見た彼は、ガラス張りの二階部分に目を細めた。外向きに並んだテーブルに座る人の足が見える。並び方はちぐはぐだが、隙間はちらほらと見受けられて、探せばひとりくらい潜り込むスペースはありそうだった。
「……よっし」
 なにもセットで買わなくてもいいのだ。要はお腹になにか入れさえすれば、それだけで。
 だからハンバーガーのひとつでも買って、座って食べて、それで終わり。食べきれないポテトまで購入する必要はない。
 そう心に決めて、綱吉はクーポンを手に当初の予定進路を変更した。
 しかし彼の硬いはずの決心は、にこやかな笑顔を武器にセットメニューを勧めてくる店員の前に敢え無く瓦解し、ボロボロになって足元に崩れ落ちた。気がつけばプレートにはお約束の如くハンバーガーにフライドポテト、オレンジジュースの三点セットが並べられ、あまつさえデザートのアップルパイまで載せられていた。
 こんなに食べられないのに、どうして。人の頼みを無碍に断れない自分の意志の弱さをひたすら嘆き、細い階段を登った綱吉は兎も角座る場所を決めよう、と縦長の店内を見回した。
 時間をかければなんとか食べきれないことはなかろう、いざとなれば持って帰ってランボにでもあげればいい。冷めてしまうとあまり美味しくないのだが、致し方あるまい。
 両手でプレートを支えて持ち、本の入ったビニル袋を揺らした綱吉は最初、ふたり掛けのテーブルのどこかが空いていないかと探した。しかし四人連れや二人連れの客でどれも埋まっていて、自分ひとりが複数人使える席を占有するのも申し訳なく思えてくる。ならば、と彼は壁の一面を覆う窓辺に足を向けた。
 外から見上げたときに見えた、横長のテーブル席だ。椅子は床に固定されており、そのうちいくつかが空いていた。
 大通りに面しているので、見晴らしは至極良い。地上からでは分からなかったが、随分と遠くまで見渡せる特等席のようだった。
「失礼しま~す」
 綱吉はそのうちの、右端に近い空席に狙いを定めて脚の長い椅子を引いた。
 プレートの片側をテーブルに載せ、奥へと押し込む。隣の席を占拠していた若い男性が身動ぎして、左手に持っていたコーヒーカップを下ろした。
 背もたれを持って回転させ、座るのに適した角度に持っていった綱吉が、顔を上げる。
 目が合った。
「え」
「……」
 お互い、とても驚いた顔をして見つめ合ってしまった。
 一瞬の沈黙の後に気まずい空気が襲って来て、綱吉は瞬きを忘れて彼の顔を、それこそ不躾なくらい食い入るように見詰めてしまった。
 ガタン、と音がして我に返る。周囲の人は誰もふたりに気を留めず、これだけの人が一箇所に集まりながら各自の世界に没頭していた。
「え、あ、ちょっと」
 急ぎ椅子を斜めにして床に足を下ろした青年に、綱吉は咄嗟に手を伸ばして呼び止めていた。まだ彼のプレートには食べかけの食事が残されている、コーヒーなど半分以上カップに入ったままだ。
 それらを置き去りに、場に背中を向けようとした腕を捕まえ、綱吉は手首に引っかかっている袋の中身が勢い余って彼の腰を打つ様にしまった、と顔を顰めた。相手もいきなり腕をとられた上に硬いもので殴られたに等しく、不快さを前面に押し出して綱吉を睨む。
 眼鏡の奥に宿る密やかな瞳に見下ろされ、綱吉は指先に込めた力を徐々に緩めていった。
「えと、あの……ごめん」
 言い淀み、唾を飲んで視線を落とす。他に言葉は思い浮かばず、謝罪で場を取り繕いはしたが、一度濁った場の空気はなかなか晴れてくれそうになかった。
 窓ガラス越しに大通りで鳴り響くクラクションが聞こえ、綱吉は視界を埋める彼の脚が動かない様に唇を噛んだ。窺うように顔を上げればまた目が合うが、さっき感じ取った鋭い棘はもう其処から掻き消えていた。
「食べないの」
「へ? え、あ、食べるよ」
 顎でしゃくられ、何かと思ってそちらに目を向ける。半分ちょっとをテーブルに乗り上がらせた状態で綱吉のプレートが宙ぶらりんに浮いていて、ちょっと突けば簡単に傾いて崩れそうなところでバランスを取っていた。
 慌てて掌で残りを押し込んで、ビニル袋も横に並べる。乱暴に扱った所為でポテトが零れ、油が下に敷いている紙に滲んだ。
 やや複雑な気配を漂わせる視線に、綱吉は気を取り直そうとして失敗し、上目遣いに相手をねめつけた。気付いていないわけではなかろうに、それでも彼は平然とした様子で受け流し、椅子に座り直す。どうやら彼も、食事を断念して立ち去るのは不本意だったらしい。
 ナゲットに、一番小さくて値段も安いハンバーグ、コーヒー。シンプルで素っ気無い、むしろそれが彼らしいと思える選択を横目で見て、綱吉は自分とは全然違うと山盛りのごちゃ混ぜになっている盆に肩を竦めた。
 これで来月は雑誌を一冊か二冊、諦めなければならない。誰かに借りて読むしかなさそうで、知り合いで同じ漫画を買っていそうな人物を思い浮かべつつ、綱吉は零れていたフライドポテトを指で抓んだ。
 パクっと口に入れ、唇を閉ざす。咀嚼はものの数回で終わり、形を崩したそれを飲み込む傍で、食べかけだったハンバーガーを取った彼が矢張り大口を開けてそれにかぶりつく様が見えた。
 意外に潔いその豪快な食べっぷりに、些か驚いた綱吉が次のポテトを抓んだまま停止する。
「……なに」
「や、うん。なんでもない」
 見た目が大人しそうだから、もっと丁寧に食べるのかと思っていたが、違った。人を外見で判断するのは良くないな、と自分の中で勝手に作り上げていた彼のイメージを改め、綱吉は歪な形をしたポテトを口に放り込んだ。
 そしてふたり、偶然隣り合った席で談笑するわけでもなく、黙々と食事を続ける。
 息苦しさを覚えて根を上げたのは、勿論綱吉だった。
「今日は、ひとり?」
 まさかこんな場所で遭遇するとは思っていなくて驚いた、と小声で前置きをした上で、綱吉は半分程齧ったハンバーガーを置いた。口の中をオレンジジュースですすぎ、右を向く。
 ナゲットを抓んでいた指を舐め、湿り気を紙ナプキンで拭い取った彼は答える気など無さそうに前ばかりを見て、綱吉を無視し続けた。
「ねえ」
「……見れば分かる」
 無愛想な奴だとは知っていたが、こうも大っぴらにやられると腹立たしい。沸き起こった怒りをひたすら内側に押し込め、こめかみが引き攣っているのを自覚しつつなおも問いかけようとした綱吉は、沈黙を破る低い声に目を瞬き、その音が何処から発せられたか思わず探してしまった。
 目の前の――位置的には右隣の青年が、ワンテンポ遅れて綱吉を見た。
 眼鏡越しの瞳が鋭く綱吉を捕らえる。
「うん、まあ……そうなんだけど」
 綱吉の質問が答えるに値しない愚問だった、と言わんとする彼にまごまごしてしまい、綱吉は肘で置いていたプレートを押した。半分も減っていないポテトが底を押され、わさっと広い取り口から飛び出した。
「犬は、臭いが嫌いだからこういうところには来ない」
「あ、そうなんだ」
 見るからにジャンクフードが好きそうなのに、これも意外だ。それまで考えもしなかったことを教えられ、綱吉は素直に驚いてからなるほど、と納得したように頷いた。
 その彼をじっと見詰め、柿本千種は綱吉が目線を上げようとしていると悟ると、愛想の無い顔を即座に逸らした。
 今度は視線がぶつかり合うこともなく、千種は最後のナゲットに手を伸ばし、綱吉はパンの間に挟まっていたレタスの芯部分に悪戦苦闘して鼻の頭をソースで汚した。
「うあ」
 包み紙の内側に付着していたタレが飛んで、冷たい感触に思わず声をあげてしまう。咄嗟に手で拭おうとしたが目算を誤り、もう一度やろうとしたら横から伸びた白いものに視界の下半分が埋もれた。
 乾いたものに肌を擦られる。反射的に息を止めてしまい、呼吸の苦しさに喘いだ綱吉は退いた紙ナプキンの向こうにいる千種に怪訝な目を向けた。
「……ありが、とう?」
 何故か謝辞が疑問系になってしまうのは、照れ隠し以前にお互い予想していなかった行動を取り、取られたからだ。
 千種自身も今自分が何をしたのか理解しかねた顔をして、ゼロコンマ数秒のタイムラグの後ナプキンを握り潰した。
 丸くなったそれをプレートに転がして、彼は調子が狂うと眼鏡を人差し指で押し上げた。
「あの、さ。変なこと聞いていい?」
「なに」
「フライドポテトって、……好き?」
 端正で、だから余計に冷たい印象を抱かせる横顔に問いかけ、綱吉は自分のプレートの上で赤い紙のケースに収められたフライドポテトを彼に向かい、押した。
 零した分は全部食べたが、それでも残量は多い。調子に乗って大きいサイズを選んだ十数分前の自分が恨めしくてならず、アップルパイも手付かずで、とてもひとりでは食べきれないと早々に彼は判断した。
 質問しておきながら既に押し付ける気満々の綱吉を感じ取り、千種が不機嫌を隠しもせずに振り向く。その割に、肘を着いてテーブルに寄りかかっていた彼の背筋は真っ直ぐに伸びて、手は許可を得る前に赤いケースに向かっていた。
「嫌いじゃない」
 言いつつ短い切れ端を抓み、口へ運んでいく。ぶっきらぼうな態度は一向に崩そうとせず、ギャップが可笑しくてつい綱吉は声を立てて笑ってしまった。
「いいよ、全部食べちゃって」
 自分も嫌いではないのだが、如何せんどれも同じ味なので飽きる。左手で自分の太股をバシバシ叩いた綱吉が言うと、彼は笑われたことに腹を立てた様子だったが、ポテトを抓む手は休めなかった。
「食べきれないものを注文するなんて、無駄」
「そーですねー。どうせ馬鹿ですよ、俺は」
 そこまで言っていないのに、と千種が眉根を寄せる前で、自虐思考に陥った綱吉が残っていたハンバーガーを荒々しく噛み千切った。少ない咀嚼で、まだ塊が大きいまま飲み込み、案の定詰まらせて咳き込む。
 苦しげに頬を膨らませて目を中央に寄せ、喉と胸の間辺りを拳で叩いて肩を丸めて小さくなる。ぐっと腹に力を込めるのが傍から見ているだけでも充分に伝わって、千種は声もなく綱吉の顔が青から赤へ、そして平常に戻る様をぼんやり眺めていた。
「くはっ、うぅ……」
「飲めば?」
 天井を向いて大きく息を吐き、直後に項垂れた綱吉へ千種がオレンジジュースのコップを差し出す。氷が溶けて水っぽくなって、味も殆どしなくなってきているジュースではあるが、何も飲まないよりはマシ。大人しく受け取った綱吉は、ストローを刺していたキャップを外し、音を立てて小さくなった氷を口の中へ流し込んだ。
 奥歯で威勢よく噛み砕き、飲み込む。ひんやりした感覚が遅れてやってきて、冷や汗を拭った綱吉は残量の少ないコップを両手に抱えて肩を落とした。
 今の一瞬で体力の大半を使ってしまった気がした。
「馬鹿」
「……」
 淡々と言われ、返す言葉も無い。自分の行動で証明してしまった綱吉は臍を噛み、コップを戻していつの間にか千種のトレーに移動していたフライドポテトをひとつ奪い取った。
 残っていたチキンナゲットのソースに先端を浸し、掬い取って口の中へ。少しだけ塩味が薄れた冷たいジャガイモの塊に渋面を作って、綱吉は苛立ちを誤魔化すように座っている椅子の足を蹴った。 
 分かっている、全部八つ当たりだ。ひとりで怒って、ひとりで勝手に自滅しただけ。
 現に千種は我関せずの姿勢を貫き、慰めもしなければ笑いもしない。透明な壁が自分たちの間にはあって、綱吉がどれだけ滑稽な真似をしようと、冷静で淡白な姿勢を変えることはないだろう。
 寂しいし、虚しい。改めてジュースを口に運び、綱吉は最後に残ったアップルパイをどうしようか迷って遠くへ視線を投げた。
 空が薄い灰色に見えるのは、窓ガラスが汚れているからだ。内側なら容易に拭けるが、外側は流石に難しかろう。
 下に目を向ければ、スクランブル交差点を行き交う人の波が見える。信号待ちをする車の列、電飾が眩しい看板、喧騒は脳内で再生されるが、実際に聞こえてくるのは店内のざわめきばかりだ。
 こんなにも大勢の人間がひとつの場所に集まっているのに、誰も彼もが他人に無関心。顔見知りである自分たちでさえろくに会話を発展させられずにいるのに、赤の他人であればなおのこと。
 綱吉は何故千種が此処に居るのかという理由を考え、黙々とフライドポテトを食べている彼の横顔を盗み見た。
 食べている時と眠っている時ばかりは、人は無警戒になる。眼鏡の奥に潜む彼の瞳は、先ほどまで綱吉が見ていたのと同じものを捕らえていた。
 行き交う人の群れ、流れて行く車のライト。留まることを知らず、ひとつの形に休まらず、絶えず動き、もがき、崩れていくものたちを。
 此処に居れば人は沢山居る。けれど誰も、彼を見ない。
 誰の目も気にせず、誰の気も煩わせず。
 揺れ動く中でじっと息を潜めることで、ひとりきりの自分を意識する。
 ひとりになりたい。
 でも、本当のひとりぼっちになるのは、嫌。
「あのさ」
 迷った末に手を伸ばし、くしゃくしゃにしたハンバーガーの包み紙を脇へ寄せて綱吉は若干トーンの高い声を出した。
 千種には目を向けず、アップルパイを拾い上げる。階下で渡された時は温かかったそれも、今では哀しいくらいに冷たかった。
「…………」
 千種は視線だけを綱吉に向け、ポテトの箱を持ち上げると中身を紙ナプキンの上にばら撒いた。とはいっても量は少なく、細かな欠片ばかりが目立った。
 彼に引き渡した時はまだ結構な量が残っていたはずなのに、早い。丁寧に食べているようで育ちの悪さが垣間見える彼の手癖に、綱吉は荒んでいた気持ちが浮上する気がした。
 頬を緩めて笑っていたら、変な目を向けられる。綱吉は肩を竦めて小首を傾げ、アップルパイのケースを開けた。
「俺、思うんだけど」
 正直言えば、ハンバーガーひとつで充分なくらいしかお腹は空いていなかった。商売上手な店員にのせられて、つい買いすぎてしまっただけ。
 食べきるのは難しく、かといって捨ててしまうのは勿体無いし、忍びない。家に持ち帰っても、こんな小さなパイひとつでは子供たちは満足しないだろう。
「ひとりで食べるのってさ、なんか、つまんないよね」
 二重に重なっている蓋部分を広げ、指で押して閉じないように折れ目をつける。サクサクの衣に覆われたパイを抓んで頭を引っ張りだした綱吉は、いきなり何を言い出すのかと怪訝にしている千種に向かって無邪気に笑った。
 微かに甘い香り。
 最初に彼が綱吉を認め、立ち去ろうとしたのはひとりきりになれる時間を邪魔されたくなかったからか。
 その後思い直し、この場に留まった理由は。
 隣に居ても良い許可をもらえた気がして、綱吉は両手で大事に持ったアップルパイを顔の前で左右に揺らした。
 千種の瞳が、あわせて左右に泳ぐのが分かる。
「あの、さ」
「嫌いじゃない」
 手を止めた綱吉が笑ったまま訊くよりも早く。
 白い綿毛が綱吉の目の前で踊った。

2008/06/12 脱稿