魂祭 第四夜(第六幕)

 轟々と音を立て、幾重にも枝分かれした水が白い飛沫と共に岩肌を舐めて滑り落ちていく。滝壺は激しく波立っているものの、中心地を離れて陸に近づく程に水面は穏やかになり、押し寄せては引く水の流れは、実物はまだ見たことがないけれど、話に聞く海のようだった。
 ぱしゃん、と掌を水面に落とした綱吉は足許から迫り上がってきた寒気に全身を震わせ、濡れた前髪を額から引き剥がした。
 白衣一枚だけを素肌に見つけた彼の身体は当たり前だが水浸しで、布は水分を吸って重くなり、肌に吸い付くように貼り付いている。無数の襞が彼の身体を覆い、薄く透けた肌は水の冷たさ故か若干赤く色付いていた。
 水面の流れに従って揺れる裾は、時折大きく広がって彼の華奢な足をさらけ出す。此処が誰も見る者のない場所と分かっているからこそ彼は平然としていられて、両手を並べて透明な水を掬い上げた綱吉は、肌刺すその冷たい液体を思い切りよく顔にぶちまけた。
「っ……」
 鼻に少しだけ入り、痛い。喉の奥がつんとして涙がうっすら滲み出るのが分かり、顔を拭うついでに目元を擦った彼は、深く長い息を吐いて雫を滴らせる両腕を再び水中へ沈めた。
 禊ぎの為に訪れた水辺は、禁域のただ中にある。訪ねてくる人はなく、あるとすれば雲雀くらいだ。
 怒濤の勢いで落下に転じる水の流れの中程には、きらきらと陽光を反射させて虹の橋が架かっていた。濡れた岩肌も光を受けて眩しく輝き、波打つ水面もそれは同じ。だが綱吉が腰まで浸かっている地点では水際に聳える太い木が枝を伸ばしており、それが丁度良い日陰を作り出していた。
 赤みを帯びた肌を照らすのは木漏れ日ばかりで、風の吹き具合でいくらでも形を変えるそれらに目を細めた彼はゆっくりと背筋を伸ばし、首を上向けて空を仰いだ。
 緑濃い木々の隙間から見える色は、底抜けの蒼。それはディーノの瞳と同じ彩で、太陽と空というふたつの色をひとつの姿に宿している彼を思い浮かべ、綱吉は陰鬱な気持ちに陥って唇を噛んだ。
 持ち上げた両腕を胸の前で交差させ、肩を抱く。
「……うっ」
 こみ上げた吐き気は寸前で飲み込み、必死に考えまいとするけれど一度思い出してしまうとなかなか忘れるのも難しく、彼は瞼も硬く閉ざして唇を噛み、水滴を飛ばして強くかぶりを振った。
 容易に押し倒されてしまって、好きなようにされた事が悔しいのではない。思いの丈をぶつけられて、真摯に返せなかった自分を責めているのでもない。
 ただ純粋に恐かった。なにが、と具体的に求められても困ってしまうのだが、ともかく震えが自分で止められない程に恐くて仕方がない。
 ディーノを暴走させたのが何なのか、依然はっきりとは分からないままだけれど、朧気になら理解出来るようになっていた。恐らくはディーノが此の地にやってきてから見るようになった、あの幻影にある光景の所為だろう。
 それは綱吉ではない者の視点で紡がれた、綱吉でない誰かの記憶。そして、ディーノはこの記憶の持ち主と綱吉を混同している可能性が高い。
 あれは綱吉ではなく、別の誰かだと言ってもまるで聞いてくれなかった。知らない名前で呼ばれても、綱吉は返事など出来ない。
 自分を否定されたようで、今の自分はまるで此処にいてはいけないみたいに言われているようで、無性に哀しくなってしまう。
 正直言えば、ディーノの事は今でも好きだ。あれが嘘であったなら、自分が見た馬鹿な夢だと思えたなら、どれだけ良かったか。しかし全ては疑いようのない真実であり、目を逸らすのは叶わない現実なのだ。
 魂祭の最後を飾る鎮めの儀の為に禊ぎに来ているのに、本来の目的がまるで達せられていない。綱吉は息を潜めて胸にわだかまる不安を全て脇へ置き、考えるまいと再び首を振った。
 じっとしていたお陰で水の冷たさに皮膚が慣れてしまい、もうあまり苦痛は感じない。水気を吸って重くなった後ろ髪から伝った雫が首を撫で、その感覚に鳥肌を立てた彼はずっと捕まえたままだった肩をやっと懐抱して、悴んでいる指先に息を吹きかけた。
 今年こそ、魂鎮めの儀は無事に成功させたい。去年も、その前も、そのもうひとつ前も、結局最後まで舞いきれずにリボーンの手を借りる羽目に陥っているから、余計に責任を感じてしまう。家光が居てくれれば、という甘い考えはもう捨てた方が良いのだろう。連絡を絶って早数年、そろそろ何処かで朽ち果てている可能性を考慮しても良い頃だ。
 正式な継承の儀は綱吉が成人してからだが、今でも十分に当主の役目はこなしている。心配なのは、もし自分が蛤蜊家の十代目を正式に継ぐ事が決まった場合、此処並盛の里を離れなければならなくなる、という事だ。
 それはとても困る。
 奈々をひとり残していくのは忍びなく、雲雀と離れる考えは毛頭無い。なにより綱吉自身、あの人の悪意渦巻く、暗く混沌とした屋敷で過ごすのは嫌だ。
 人の悪意ほど厄介なものはなく、綱吉はそういったものに慣れていない所為で免疫もない。並盛が平和である証拠だが、この先綱吉の前に立ちはだかるだろう艱難辛苦を思うと、憂鬱だった。
「辞退出来ればいいんだけどなあ……」
 正直、何度考えても自分には荷が重すぎる。
 未だ候補のひとりという扱いであるが、実質的に内定しているに等しく、今でも時折、将来の重用を期待する輩が菓子折を持って里を訪れている。無碍に扱うわけにもいかないので、まだ確定したわけではないと誤魔化して受け取らずに追い返してはいるけれど、それだっていつまで押し通せるものか。
 水を打った手を裏返し、掌を上に向けて皺を流れる細かな水滴に目を細める。手首にまで伝ったその行く先は雫一滴にすれば大海に等しい泉だ。
 苔で滑りやすい足許を気にしつつ慎重に歩を進め、もう少し深い地点を目指して綱吉は泉の中心に近づいた。白衣の裾は水中で大きく揺らぎ、彼の脚に絡みついて輪郭線をはっきりと浮かび上がらせる。
 邪魔で仕方がない布の片側を引っ張り、肌から引き剥がすが直ぐに戻ってしまう。諦めの境地に至って綱吉は胸元まで水中に没し、両手の平を重ね合わせて瞑目した。
 滝の音に耳を傾け、心の中を空っぽにしていく。身を清めるだけでなく、心に絡みつくあらゆる穢れたものを洗い流すのが、彼が此処を訪れた目的だ。
 人という存在は、あまりにも邪念が多い。こんな状態で、魂を守る殻と言うべき肉体を持たぬものに触れてしまったら、魂はあっという間に闇に染まり、行くべき道を見失って地よりも深い暗い世界へ堕ちていってしまう。
 そうならぬ為に、或いはそういった穢れを持つ魂に当てられぬようにする為の禊ぎだ。身を清め、心を洗い、無心になって祭を執り行う大事な儀式のひとつ。手抜きは許されない。
 本当はこの後、物忌みとして屋敷ではなく、禁域の小屋にひとり籠もる必要があるのだが、フゥ太と旅芸人一座の興業を見に行く約束をしてしまっているので、それも難しい。抜け出して、こっそり戻ってくれば問題無いとは思うのだが、リボーンは許してくれるだろうか。
 昨日からまるで姿を見ない赤ん坊を思い出し、また憂鬱になって綱吉はしまった、と小さく舌を出した。邪念を払うつもりで来たのに、これではいつまで経っても水からあがれない。
「参ったな……」
 考えなくてはならない事が山積みで、放っておいたら一気に崩れてしまいそうで恐い。なにひとつ解決していない、気がかりは後から、後から沸いて出て止めどがない。
 山本が本家から持ち帰った、退魔師を襲撃して回っている連中の情報もその後音沙汰無し。段々とこちらに近づいて来ていると、それだけは分かっているのだけれど、かといってそれでなにか有効な手立てがあるわけでもない。
 村に出入りする人間を制限するのは難しく、反対意見の方が多いだろう。魂祭のこの時期に合わせ、都市部へ出稼ぎに出ていた人が戻ってもいるから、余計に。
 そもそも、村の運営に関わる意見を声高に主張する、そんな権限は今の沢田家には与えられていない。
「あー。もう!」
 ただでさえややこしい状況に身を置いているのに、これ以上自分にどうしろというのか。やけっぱちで高く掲げた両腕を水面に叩き付けた綱吉は、跳ねた飛沫に顔面を襲われて閉じ損ねた右目に痛みを感じ取った。
 馬鹿、間抜け。そんな悪口を自分に向かって心で吐き出し、睫毛を濡らす水を弾いて目を擦る。折角の琥珀が濁ってしまうからあまり乱暴に触れてはいけないと、そう自分に言ったのは誰だったか。
 自分の記憶と、誰かの記憶とがごっちゃになって判別がつかない。雲雀に言われた気がするが、違うような気もして、同じ場所を思考がぐるぐる回っている。
 気持ちが悪い。
 自分の所在が分からなくなる。此処にいる自分が、本当に沢田綱吉なのか疑ってしまいたくなる。
「……」
 跳ねた水が今度は左目の下に飛び、砕け散る。濡れた感触に目を瞬かせ、指で拭ったそれは果たして池の水か涙なのか、区別がつかなくて綱吉は淡く微笑んだ。
 思い切り泣けたら良いのに、泣いたら認めてしまう気がして出来なかった。怖くて堪らない、でもそれを表に出すのは憚られて誰にも相談できない。
 雲雀にさえ。
 彼に会うのも、今は怖かった。逃げるように禊を言い訳にして屋敷を飛び出てきてしまった事を、彼は怒るだろうか。
 左胸をそっと撫で、そこにある熱を確かめる。いつもより少しだけ緊張して早まっている拍動に吐息を重ね、薄絹一枚で覆われた自分の脆弱な体躯を自嘲気味に笑った。
 ディーノに言った言葉に、嘘はない。雲雀が好きで、だから雲雀以外の誰かに触れられるなんて死んでも嫌だ。
 それなのに欲望に忠実な四肢は、あろう事か彼の手に反応した。浅ましく、汚らわしいとさえ思う。雲雀でなくても良いのかと自分を責めて、段々と自信が無くなっていく。
 こんなにも好きなのに、本当に自分は彼の事を好きなのかが分からない。綱吉は唇を噛み締めて嗚咽を飲み込むと、硬く瞼も閉ざして再び両肩を抱いた。自然と膝から力が抜けて、顎の高さまで水に没する。彼は構うことなく、躊躇せずに頭の先まで池に沈めた。
 全身を取り囲んでいた空気が一斉に白い泡となって彼を包み、水面を目指して昇っていく。鼻から噴き出た息もまた気泡となって彼の額を擽り、逆巻く髪の毛をなぞって消えていった。
 心の中に溜まる黒いもやもやしたものも全部、水で洗い流せたらいいのに。水中で首を振って口から空気を吐き出した綱吉は、息苦しさに喘いで背筋を伸ばし、細かな砂礫で覆われた足元を蹴った。小さな水柱が立ち上り、飛沫を砕いた彼は思い切り息を吸い込んだ。
 ぜいぜいと肩を上下させて呼吸を整え、髪の毛から無数に垂れ下がる透明な雫に映る自分の姿に苦笑する。両手の指を広げて額に並べ、後ろへと梳けば癖まみれの髪の毛もさすがに従わざるを得ず、額を白日に晒した彼は煌々と大地を照らす太陽に目を細めた。
 例年ならもうそろそろ秋も深まろうとする時期なのに、夏の盛りに戻った陽気は今日も続いている。雨不足の懸念もある、収穫前の稲や野菜も心配だ。
 雲雀が雲読みの結果を外すなどこれまで無かった。ならばこの異常気象は、なにかしらの外的要因によって無理矢理作り出されたものなのか。赤く色付いた唇に人差し指を添え、思案気味に瞳を揺らした彼は肌に付きまとう白衣の衿を空いた手で無意識に弄った。
 濡れた項には幾重にも水滴が流れ落ち、婀娜な色合いを醸し出している。全体的に艶めいた彼の背中は結界内という場所柄故か無防備で、流紋を刻む水面に視線を奪われた彼は周囲への注意も一切払っていなかった。
 白い手が、そんな彼の首筋へ音もなく伸ばされる。
「ひいっ!」
 ぽん、とやった本人は軽く叩いたつもりだったのだが、完全に意識を外に向けていた綱吉は心臓を吐き出す寸前まで驚き、まだ胸の高さまで水に浸かっているのも忘れて飛び上がった。
 爪先がつるりと砂の上を滑り、体勢が崩れる。あ、と思った時には視界の真ん中に太陽がぽっかりと浮かんでいて、空を掻いた手は光の塊を掴もうとして見事に空振った。耳の両側で水が一瞬だけ凹み、即座に綱吉の顔を覆い隠す。息を止める暇さえなく、彼は後頭部から泉に没して全身で悲鳴をあげた。
「……」
「ぶわっ、は!」
 再び水柱を、さっきよりも幾分勢いに乗せて衝き立てた綱吉が、鼻に入ったと顔の中心を手で覆って激しく噎せた。折角水気を絞った髪の毛もまたびしょ濡れで、犬みたいに全身を振り回して四方八方へ飛沫を散らした彼は、喉を焼くちりちりした感覚にも咳き込み、首筋を撫でて涙目を持ち上げた。
 振り返った先で呆然と立っている雲雀が、上げたままだった右手をゆっくりと下ろして綱吉を見返す。
「綱吉?」
「けほっ、びっく、り……させな、っで!」
 合間に何度も息継ぎをして、咳をしながら苦情を申し立てる。一部気管に入った所為で胸も痛く、喋るのも必死で、飲み込んだ水を吐き出そうと呻いていると、ぼんやりしていた雲雀も我に返った様子で、慌てて綱吉の背中をさすりに場所を移動した。
 触れる他者の体温が心地よく、撫でられることで幾分か気持ちも静まっていく。ほうっと息を吐いた綱吉は喉元に押し当てていた掌を臍まで下ろし、外した。
 もう大丈夫だと合図を送るが、雲雀は直ぐに離れていかない。どうしたのかと首を捻って振り向くと、涼やかな黒が僅かに翳りを帯びた色で綱吉を映し出していた。
「ヒバリさん?」
「もう平気?」
「あ、はい」
 先ほど綱吉が手を振ったのを、雲雀は見ていなかったのだろうか。言葉にして問われて、一瞬間を置いてから首肯した綱吉は不思議そうに彼を見返し、自分と似た格好で腰よりも若干上の位置まで水に浸かっている彼に眉を寄せた。
 何故雲雀が此処に居るのかを考える。まさか本当に怒って追いかけて来たのかとも思ったが、服装からしてそれは違うと即座に否定する。
 彼もまた素肌に白衣一枚を纏っただけで、腰を結ぶ紐は細くて酷く頼りない。
「ヒバリさん?」
「なに」
「いえ、なんで、かなって」
 それは禊をする際の格好で、だから雲雀も当然それを目的に此処に来たはずだ。けれど彼が何故禊ぎをせねばならないのだろう、と疑問を口に出して目を瞬かせた綱吉は、途端に雲雀が不満げに口元を歪める様を見て肝心なことを思い出し、顔を赤くした。
 また水の中で飛び跳ねて肩まで浸かり、鼻の頭を濡らす。呆れた雲雀はまだ乾いている部分が多い黒髪を掻き上げ、肩を竦めた。
「僕も、なんだけど」
「そうでした……」
 明日の魂沈めの儀は、綱吉ひとりで執り行うものではない。舞い手は確かに綱吉だけだが、舞にあわせる笛の奏者は雲雀だ。
 神域の中心部に立ち入るためにも禊は不可欠で、だから雲雀は綱吉に遅れてこちらに出向いたのに、それを不思議がられるとは思わなかった。唇をへの字に曲げて拗ねてみせる彼に、綱吉は苦笑しきりで最後にごめんなさい、と小さく頭を下げた。
 一旦下向かせた顔を持ち上げて正面を向くと、引きずられるかのように雲雀の手が持ち上がる。水気を湛えた手で頬を撫でられ、乾いた肌が湿っていく感触に綱吉は首を傾げた。
「ヒバリさん?」
「なにが不安」
 どうしたのだろうか、と自分も左手を水から引き抜いて彼の手首を取ろうとしたが、それより先に問いかけられた言葉に綱吉はどきりとして、自分を中心に幾重もの水紋を刻み込んだ。
 動揺がはっきりと形となって現れて、綱吉は狼狽気味に瞳を揺らして持ち上げたばかりの腕を落とす。身体の前で左右の指を絡ませて肩を揺さぶった彼は、まだしつこく触れてくる雲雀から逃げることも叶わず、下唇を噛んだ。
 白い前歯を赤い肉の隙間から僅かに覗かせた彼に、雲雀は瞳を眇めてゆっくりと手を下へずらしていく。顔の輪郭をなぞって喉仏に触れた彼は、最後に人差し指だけをその場に残した。下方に向いていたものを表返し、下顎の出っ張りに残る指の腹を添えて力を込めた。
 上向くように少ない動作で命じられ、綱吉は仕方なく従う。目を見張る晴天を背景にした雲雀の黒髪がいやにぼやけて見えて、綱吉は眩しさから瞼を半分閉ざした。
 影が額に落ち、吐息が鼻先を掠める。
 けれど綱吉は首を横へ倒し、彼の口付けを避けた。
「駄目、です」
 倒した首を元に戻した雲雀の、益々不機嫌に顰められた表情にも臆さず、綱吉もまた姿勢を戻しながら顎を捕らえる彼の手を上から押した。
 抵抗は無く、素直に雲雀は綱吉から手を離した。遠ざかる体温を少しだけ惜しいと感じながらも、綱吉は今自分たちが此処に居る理由を改めて頭に思い描き、それを伝心で雲雀にも伝えた。
 彼だって分かっているはずだ、此処に来た理由が禊ならば尚更。
 禊祓は身を清め、心を鎮める為のもの。それをわざわざ、真逆を行く行動に出るなど、あってはならない。
 しかし納得いかない様子で雲雀は再び綱吉に手を伸ばし、腰を引いた彼を捕まえて自分の胸に引き入れた。傍から見れば綱吉に負けず劣らずの細さをしているくせに、骨太で肉付きもしっかりとしており、引き締まった体躯を有している彼は、易々綱吉を捕獲すると両腕でがっちり拘束してしまった。
 身動ぎしてもびくともしない。腕も一緒に束縛されているので関節が無理な方向に曲がってしまい、左腕が痛んだ。だのに彼はまるでお構いなしで、体を揺らしたのを逃げようとしていると勘違いしたのか、余計力を強めて綱吉を抱き締めた。
「いた、いっ」
「どうして、僕から逃げようとするの」
「そんな……やだ、待って」
 耳元で囁かれる熱を含んだ吐息に、声が自然と上擦る。雲雀との身長差の所為で気付けば爪先立ちになっており、綱吉は体勢の悪さから咄嗟に彼の衣に指を絡めた。そちらに意識を取られている間に、再び顎を取られ、躱す暇もなく唇を奪われる。
 昨日あれほど貪りあったというのに、まだ足りないというのか。前歯を立てて噛み付かれ、熱い舌を差し入れられる。呼吸に苦しんで喘いだところを狙ってより深く吸われ、同時に流れ込んでくる雲雀の綱吉を求める感情に、心を凍らせていた様々なものが見る間に溶解して行くのが分かった。
 濡れた音がふたりの間に波を立てる。綱吉は唇を柔らかく食んで離れようとする彼に追い縋って、今度は自分から合わさりを求めた。
 雲雀の拘束が緩んだと知ると、腕を掲げて彼の首に絡ませ、胸を寄せる。完全に雲雀に凭れ掛かって姿勢を楽にした彼は、息継ぎの合間さえ惜しんで雲雀の舌に舌を擦り合わせ、滴る唾液に口元を濡らした。
「ん……ふっ、あ」
 頭を抱いた雲雀の手が前にずらされ、頬に添えられる。互いに伸ばした舌を繰って透明な雫を垂らした綱吉は、口腔に溜まる唾液を飲み干そうと一度唇を閉ざして喉に力を込めた。
 塞いだ口に尚も雲雀は舌で触れ、思い切り牙を突き立てる。食いちぎられそうな痛みに綱吉はいやいやとかぶりを振って、ふたり分の唾液と池の水とが混じった生温い液体を飲み込んだ。
 上下に動いた幼い喉仏に視線を落とした雲雀が、薄い皮の下で浮き上がる鎖骨と、そこに張り付く白い薄衣へ指を這わせる。重なり合った両者の境界線を人差し指でなぞった彼に、綱吉は浅い呼吸を繰り返した。
「ヒバリ、さん」
 痺れた舌の上で音を転がすと、雲雀は黒髪の隙間から細い眼を持ち上げて綱吉を見返した。その鋭い目つきに一瞬竦んだ彼だったが、二度ばかり深呼吸を繰り返した後、自分から身にまとう衣を剥ぐべく衿に手を重ねた。
 けれど何故か、誘いをかけて来た筈の雲雀が綱吉を押し留めた。
「なにが怖いの」
 重ねて紡がれる、雲雀の問いかけ。左手に添えられた雲雀の右手のぬくもりは、綱吉が見ないようにしていたものを抉り出し、直視するよう彼を促した。
「なにが、って……」
「今の君は、僕に抱かれて、安心したいだけだろう」
 最初は拒みながら、易々と入り口を自分から広げてみせる綱吉の、日頃は考えられない態度。不安に怯え、雲雀に縋ることで自分の心の平穏を維持しようとする浅ましさは、隠そうとするだけ無駄だった。
 魂の一部を結合させている両者の間では、揺れる心の波さえも簡単に相手へ届いてしまう。雲雀が山の斜面を登る最中から琴線を揺らしていた綱吉の声は、そのまま雲雀の不安にも直結していた。
 目の前に居る存在が、果たして本物なのか。
 自分が今抱き締めている存在は、果たして本当に沢田綱吉なのか。
 自分が愛しいと感じている相手が、いったい誰なのか。
 昨日までは疑いもしなかったことが、今は根底から大きく揺らいでしまっている。自分が恋している相手が誰なのかさえ分からない状況は、無秩序の混乱を招いた。
 狂おしいばかりの想いは何処からやってくるのか、自分が綱吉を好いているという感情は本当に自分のものなのか。
 綱吉が自分を好いているのも、元々は別の誰かのものだった感情を、ただ引き継いだだけなのかもしれないと、そう。
 触れあった肌の温もりは確かなのに、直ぐに水の冷たさに溶けて分からなくなってしまう。波が揺れるように、心が震える。
「ヒバリさん、俺、……こわい」
 雲雀の薄衣にしがみつき、思い切り引っ張って綱吉は叫んだ。硬く閉ざした瞼から溢れる涙に頬を濡らし、白い飛沫を散らして彼は雲雀の背中に爪を立てる。
「俺、俺は俺なのに、どうして? 分かんない、分かんないよ全然!」
 瞳孔を見開いた綱吉の琥珀が嘗て無い程の怯えを含み、言いたいことが巧く言えぬまま、それでも懸命に分かって欲しいと訴えかけている。その綱吉の必死さが却って雲雀を冷静にさせて、彼は耳の後ろに張り付いている髪の毛をゆっくりと梳いて剥がしてやりながら、綱吉の頭を優しく撫でた。
 指に絡みつく毛の一本さえも、雲雀に答えを求めている。彼の混乱振りは痛いくらいに雲雀へも伝わっていて、だから綱吉が何を言って欲しがっているのかもつぶさに理解出来た。
 弱々しい身体を抱き締め、支えてやり、雲雀はその胸に綱吉を押し込める。
「こわい、怖いよ……」
 自分では無い誰かが、自分の中に居て雲雀を見ている。いや、雲雀を通して雲雀ではない誰かを見ている。そこに宿るのは綱吉が雲雀に対して抱く感情となんら相違なく、だからこそ余計、綱吉は自分の感情が本物かどうかが分からない。
 十年間、大切に育ててきた雲雀への恋情が、突き崩されていく。
 胸に抱き続けてきた想いは、自分ではない誰かによる想いをすり変えられたものなのか。たとえそれが過去を生きた自分自身だとしても、では、自分が見詰める相手は、今目の前にいる雲雀その人ではないことになる。
 自分を否定するのか、雲雀を否定するのか。或いはその両方か。
 結論なんて出せるわけがない。
「分かんない、よ……っ」
 どうしてこんな苦しい思いをしなければならないのか。ディーノによって揺さぶられた魂は、あれからずっと、泣いたままなのだ。
 水面に落ちた涙は跳ね返りもせずに底へ向かって沈んでいく。行方を追って俯いた綱吉を優しくあやしながら、雲雀は皮膚を刺す綱吉の爪の痛みを表情さえ変えずに耐えた。
「綱吉」
「ヒバリさんが好きなのに!」
 強く叫んだ彼の声に驚き、羽根を休めていた鳥が甲高い嘶きと共に空へ飛び去っていく。水面に落ちる木漏れ日が揺れて、反射した光が綱吉の琥珀を照らした。
 潤んだ瞳に魅入られた雲雀が、その目尻に触れようと距離を詰める。が、緩く首を振って嫌がった綱吉は彼の胸に額を押し当て、嗚咽を零した。
「ヒバリさんは、ヒバリさんだけ、なのに」
 他の誰でもない、今此処に居る雲雀が好きなのに、気持ちが揺らぐ。二重写しの幻に見る、今の雲雀よりも少し年嵩の男性にも心が揺れてしまう。それは決して雲雀ではないというのに。
 細かく震える綱吉の肩を抱き締め、雲雀は何も言ってやれない自分を口惜しく思った。
 雲雀もこの数日で度々目にした、幾つもの幻。綱吉に似た姿の、綱吉よりも少し高い声で笑う子の影。そこに寄り添うディーノと、彼とほぼ同じ目線の高さにある自分ではない別の誰か。
 綱吉から伝わってくる映像がこの視線の持ち主ならば、綱吉が見る視点の持ち主は彼と同じ琥珀の瞳をした存在に他ならない。
 起点は、ディーノ。
 彼が綱吉を呼ぶのに使った名前に覚えはないのに、妙に耳に馴染んで懐かしさが胸の奥から滲み出る。それを止める手立ては雲雀に無くて、同時に切ない思いに駆られるのは囲炉裏端で綱吉と共に見た、あの光景の所為だろうか。
 血飛沫の只中で消え行こうとする命を、どうすれば救えるのか。導き出された結論は、奇しくも雲雀自身が十年前に綱吉に施した手段と全く同じだった。
「俺、おれ……ヒバリさんが好き。好きなのに、どうして? なにも、分かんない」
 泣き笑いの顔で綱吉は叫び続ける。
 こんな状態では魂鎮めの儀など執り行えない。乱れきった感情の波は綱吉を呆気なく呑み込み、暗い檻へ沈めてしまった。
「つなよし」
 その彼の頬を、雲雀の手がなぞる。
「好きだよ」
 溢れる涙で顔を濡らし、水を打って暴れていた綱吉がはたと動きを止め、零れ落ちる寸前の大きな雫を目尻に残したまま顔を上げた。
 斜めになった所為で、綱吉の丸みを帯びた頬に透明な川が流れる。赤く染め上げられたそこにきらきら光る一本の線をなぞり、雲雀は穏やかな笑みを浮かべて綱吉だけを見詰めた。
「ヒバリさん……?」
「好きだよ、綱吉」
 囁きを重ね、一度解いた腕で綱吉を再度抱き締める。大事に、壊れ物を扱う仕草で、そっと。
 彼の胸元に手を添えた綱吉は、間で挟まれた所為で少し苦しい肘を横に広げて息を止め、呆然としたまま彼を見上げた。
 底抜けに優しい黒曜の瞳に見詰められ、映し出される自分の小さな姿を琥珀に宿した彼は、何かを言おうとして唇を僅かに動かした。だが音は刻まれずに再び閉ざされ、歳の割に成長の遅い喉仏をひとつ鳴らす。
 直後、彼の頭が火を噴いた。
「う、え、あ、うおっ、おあ、う、ぉおぉおお……?」
 どかん、と火山が噴火したみたいに湯気を立てた綱吉が、耳の裏まで真っ赤にして瞳を落ち着き無く泳がせる。手もまるで方向性を持たずに振り回され、時折雲雀を引っ掻いて彼を顰めさせた。ばしゃばしゃと跳ねる水がふたりを容赦なく濡らしていくが、そんな事はまるで意に介さず、綱吉はひたすらひとりで狼狽し続け、そのうち力尽きたのかぶくぶく泡を吐きながら水に沈んでいった。
 気泡が水面に溶けて弾けて消える。ついに頭の先もすべて水中に没した綱吉は、雲雀が見守りつつ数えること五秒後、ぶはっと盛大に息を吐き出して吸い込み、飛び上がった。
 顔は依然として赤いが、水に浸かった分熱はいくらか冷めたらしい。恨めしげな目で睨まれるが無視して、雲雀は大量の雫をあらゆる場所から滴らせている彼に苦笑した。
 濡れそぼった彼の唇に親指を押し当て、指越しに口付ける。
「どうして照れるの?」
「だ、って」
 日頃から情を交し合い、人が見れば赤面することを平然とやってのけているのに、ことばひとつでこんなにも過剰な反応をする綱吉に問いかけて、雲雀は目を細めた。
 言い難いのか瞳を右に流し、綱吉はもごもごと雲雀の親指を唇で噛んで答えを濁す。
 今更確認する必要など何処にも無い事実だからこそ、いざ正面向いて言われると恥かしくて仕方が無い。ディーノに指摘を受けた時だってそうだ、当たり前だと思っていることが実際はそうじゃないと悟ると、途端に自分たちの中の普通が音を立てて崩れていく。
 綱吉は赤みが引かない頬を両手で隠し、ちゃぷん、とまた肩まで水に浸かった。
 言葉も出ない彼が弾いた水滴を掌で受け止め、握りしめた雲雀は、自分の中にあった綱吉と同じ不安がさらさらと溶けていく音を聞いた。
「今照れているのは、だれ?」
 視線を合わせてくれない綱吉を優しい目で見守り、重ねて問いかける。彼は二度立て続けに瞬きをして、水の中に大きく息を吐き、顔を上げた。
 飽きもせずに綱吉の面倒を見てくれて、綱吉が動き出すのを辛抱強く待ってくれる。こんなだめだめな自分を好きだと言ってくれる雲雀を、世界中の誰よりも好きだと思っているのは、紛れもない綱吉自身だ。
 陽射しを背中に浴びて黒髪を透かす雲雀の瞳の柔らかさに安堵しているのも、この綺麗な人を愛おしいと思うのも。
 今此処に居る雲雀を、今此処に在る綱吉が。
「おれ……」
 掠れた声で呟き、綱吉は膝を伸ばした。白衣の襞を体に貼り付けて、広げた自分の両手を見詰める。ぎゅっと強く握りしめ、背筋を伸ばしてまっすぐに雲雀を見つめ返す。
「俺、ヒバリさんが好き。大好き」
 はっきりと音に載せて、声に出して告げる。
 今更だと笑われるかもしれないけれど、真剣に。本気で。生まれて初めてその言葉を口に出す時みたいに、ほんの少し照れて。
 綱吉ははにかんだ。
 水から抜かれた雲雀の手がその彼の頬に触れ、包み込む。柔らかく輪郭線をなぞって、もう片手も使って綱吉を抱きしめる。
 綱吉もまた彼に手を伸ばし、しっかりとその体躯を腕に確かめる。間隔短い呼吸の先で、そっと目を閉じた。
「ヒバリさん、俺、貴方が好きです」
 重ねあった拍動がひとつの音を刻み、綱吉を落ち着かせてくれる。母親の胎内で眠っている時にも似た穏やかさに彼は淡い笑みを浮かべ、雲雀へ頬を寄せた。
「だいすき」
 何度言っても飽きない言葉を口ずさみ、その度に雲雀が優しく自分を包んでくれるぬくもりに心を躍らせる。
 ずっとこうしていたい、このままでいたい。一緒に、これまでと同じように。
「傍に、居てください」
「つなよし?」
「俺の傍で、隣で、ずっと」
 この人でなければ駄目なのだ、自分は。この人と一緒に居られないのなら、自分が生きている価値さえ無い。
 強く思った心は直接雲雀へも伝わり、彼は少しだけ困った顔をしてまだ湿る綱吉の額に口付けを落とした。
「居るよ」
「本当に?」
「本当に」
 雲雀とて綱吉から離れる未来を考えたことはない。確かめるまでもなく最初からそのつもりで、たとえ綱吉が拒んだとしても自分はきっと彼から離れられないのを自覚している。
「ずっと、君の傍に居る」
 隣に。
 最も近い場所に。
 心の奥深い場所に。
 君の中に。
「離さない」
 囁き、熱っぽい息を吹きかけて綱吉の前髪から雫を散らす。先端を食んで引っ張り、むずがる彼の鼻筋をなぞって唇へ触れる。最初は表面を掠めるだけの繰り返しで、次第に鳥が嘴を啄ばみあうように。徐々に触れ合う時間を長くして、互いの舌を絡めて貪りあって。
 綱吉の後頭部を抱き支え、逃れられないように背中に腕を回して腰を押し当てる。冷たい水の中でありながらはっきりと感じ取れる彼の熱に、綱吉は頬を朱に染めながらも小さく頷いた。
 腕を伸ばして雲雀の首にしがみつき、口腔から覗かせた赤く熟れた舌先で雲雀の下唇を擽る。音を立てて吸い付いて軽く咬み、仕返しに息を吐いた雲雀が奥深くへ逃げた綱吉の舌を追って彼の咥内を攫った。
「んぅ……」
 鼻から抜けた息が甘い色を匂わせ、もどかしげに身体を揺らした綱吉に雲雀が熱を帯びた視線を送る。弾けた雫の飛沫を舐め取った彼に婀娜な笑みを返し、綱吉は上気した肌を濡らして身体にまとわりつく布を自ら剥ぎ取った。
 雪のように白い肌が今は全体的に赤らんで、その所々には連日の名残が色濃く浮き上がっている。むき出しになった綱吉の左胸に掌を押し当てた雲雀は、指の腹に吸いつく肌理の細かさに満足げな笑みを浮かべ、膝を屈めて昨日自分がつけた痕に唇を寄せた。
 ひくりと喉を震わせた綱吉が先走る感情を懸命に押し留め、唇を噛んで声を堪える。
「ヒバリさん……俺、おれ……」
 どうしようもないくらいにこの人に焦がれて、恋をした。
 その感情に偽りは無く、紛れもない自分自身の素直な気持ちだと今なら自信を持って言える。
 彼とならば何処へでも行ける、なんだって出来る。どんな困難でも乗り越えていける、彼さえ傍に居てくれたら。
「俺から離れないで」
 抱き締めた雲雀に切に願い、たまらなく幸せな自分を実感する。
「放しはしない」
 抱き返される腕の確かさと暖かさに、胸の中が満たされていく。
 怖がることはなにもなく、不安に思うものもなにもない。今までとなんら変わらない日常が、これからも連綿と続いていくのだと誓い合う。
 それなのに、どうしてだろうか。心の海を揺らす憂いの波は、最後まで消えてくれなかった。

2008/05/25 脱稿