「あ、そーだな」
道場は寛ぐのに不向きだと言外に諭せば、山本は殊更拘っていたわけでもないので直ぐに同調し、綱吉を押す腕からも力を抜いた。
自力で立ち、歩き出した綱吉は上衣の衿を手で押さえると、若干苦しげに息を吐いて乾いた舌を唾液で湿らせた。獄寺がその様に怪訝に眉を寄せたが、話しかけられる雰囲気でもなくてただ心配げに彼の背中見守るのみに留めた。
振り向いた雲雀が彼らを急かし、綱吉を屋敷の玄関へと追い遣る。最初に到着しておきながら最後に中に入った彼は、その直前に沈黙する土色の道場を睨みつけて忌々しげに舌打ちし、乱暴に扉を閉めた。
昨日そこで綱吉に何があったのかを知るのは、本人と雲雀、そしてこの場に居ないディーノだけ。更にその肝心の、事の張本人たるディーノはあれ以降行方をくらましており、所在はつかめていない。
気をやった後の綱吉を抱え、屋敷に戻った雲雀は、一発殴ってやらなければ気がすまないと彼を探したのだがついに見つけ出せなかった。注意深く気配を探り、神域にも念の為足を運んでみたのだが、影も形も無い。挙句リボーンまで雲隠れしてしまって、誰かに聞こうにも聞けない状態が今も続いていた。
山本たちは彼の不在を、元々この地に根を下ろしていた人ではないからと怪しみもしない。綱吉と一緒に持ち帰ったディーノの赤い打掛は、下敷きに使った所為で泥まみれになってしまい、とても着られる状態ではなかったけれど、いつの間にかこちらも本人同様、何処かへ霞の如く消え去っていた。
まだ近くに、村の中にいるはずなのだが、気配を悟れないとなると隠れているのだろう。綱吉に対する負い目故か。
悪いと思うのであれば姿を現して謝罪すればいいものを、何を躊躇しているのか雲雀は不思議でならない。勿論見つけたら即座に殴り飛ばす気持ちは少しも萎えていなくて、逆に時間を置くに従って怒りは膨れ上がる一方だった。
綱吉をこんな風に怯えさせる輩は、たとえ相手が誰であろうと許しはしない。
当分道場には近づけそうにない綱吉の背中を見詰め、遅れて土間へ足を運び草履を脱ぐ。普段と勝手が違う格好に若干戸惑うが、裾を絞ってあるので段差の移動の邪魔にはならなかった。
山本が鉄瓶に水を張って持ち込んで、獄寺は先に火箸を取って囲炉裏の灰に埋めていた墨を穿り出していた。
「五徳は?」
「鉤で良いだろう」
顔を出した墨の表面を削ってやれば、黒の奥から燃え滾る赤が覗く。まだ充分に熱を持ち、そう火元に近付けなくても大丈夫そうだと山本の答えに、隅に追い遣られていた火鉢に歩み寄ろうとしていた綱吉は、途中で進路を変えて座布団を手に戻って来た。
囲炉裏を囲んで並べ、自分はちゃっかり雲雀の隣に座った綱吉は、時折足の裏を気にして腰を捻った。
「まだ痛い?」
「いえ、もう治ってるし」
ただ新しく皮が張ったばかりで、少し痒いと綱吉は土踏まずを擽って姿勢を戻した。
ふたりの会話がさっぱり分からない獄寺は、話題に混じりたいのか綱吉から引き取った座布団に腰を落としつつ身体を揺らし、自在鉤に南部鉄瓶を吊るした山本もまた興味深げにふたりへ視線を流す。
だが到底言えるような内容でもなくて、綱吉は正座を作って他よりも皮膚が新しく、色も違っている足の裏をふたりから隠した。
「それで? 何の話だったか」
「並盛の祭りが一度途切れてる、って話」
居心地悪げに肩を揺らす綱吉をちらりと見て、何も入っていない湯飲みを四つ用意した雲雀が静かな声で問う。話題が逸らされたのに気付かないで、山本はそうだったと手を叩き、移動の最中で中断していた疑問の解明を彼に求めた。
赤々と灰の中で燃える炭火が、時折場の空気を読まずに音を立てて爆ぜる。都度綱吉は肩を竦ませ、彼の左手に座っている雲雀に寄りかかっていった。
囲炉裏の北側に座した獄寺が、それを羨ましそうに眺めて向かいの山本に笑われる。頬を膨らませて幼稚に拗ねる彼を無視し、西側の席に在る雲雀は山本の言葉を先ず訂正した。
「並盛の魂祭りは、途切れたことは無いはずだよ」
「へえ?」
「途切れたのは、魂鎮め」
片方の眉を持ち上げた山本から綱吉に視線を移し変え、雲雀は淡々と、抑揚に乏しい声で言った。
見られた綱吉は僅かに遅い反応で彼を見返し、知らなかったとでも言いたげに琥珀色の瞳を翳らせる。考え込む仕草で丸めた拳を顎にやった彼は、甘茶色の髪を波立たせ、細めた眼で自在鉤にぶら下がる鉄瓶を睨みつけた。
白い湯気が弱く注ぎ口から噴出し、熱が空間に伝わり始める。湯の沸く音が微かに鼓膜を打ち、綱吉は遠く古い記憶を懸命に掘り起こそうと意識を傾けた。
だがそれすらも知らぬ山本と獄寺は、彼の思索を中断させる声を上げて雲雀へ先を促す。
「魂鎮め?」
「毎年、代々の沢田家当主――今は綱吉が神域で舞っている、といっても、君たちには分からないだろうけれど。要するにこの盆の時期を利用して、騒ぐ魑魅魍魎共を鎮め、荒ぶる神々を鎮め、災いを避ける為の奉りだよ」
並盛はその特殊な磁場故に、妖を多く惹きつける。特に黄泉との道が開く精霊会の頃はそれが顕著で、実に騒がしいことこの上ない。中には結界を破り、中枢たる神域に舞い込もうとする不埒な、それでいて凶悪な輩も在る。
それらをまとめて封じ、浄化するのが、魂鎮の儀。長い年月を粛々と受け継がれて来たその重要な祭儀は、だが一時期、絶えた事があった。
何故か。
もったいぶった言い方をする雲雀に眉目を顰めた獄寺へ、彼は不遜な笑みを口元に浮かべた。
「簡単だよ。死に絶えたからさ、血筋が」
「え――」
事も無げに言った彼に、残る三人が一斉に目を見開き彼を凝視した。
「死に……って、じゃあ沢田は」
「君は何代目?」
絶句した綱吉が最初に我に帰って、けれど巧く回りきらない舌が言葉を詰まらせる。
手を伸ばし雲雀の上衣を引いた彼に、その雲雀は指を揃えた手を重ね合わせ、落ち着くように心の中で諭した。握り締めてやり、改めて問うた声はどこまでも平坦で波が無い。
一度は乗り出した身体を引いて背筋を伸ばした山本が、雲雀の言わんとしている内容を先に理解して成る程と頷く。
「俺は八……じゃない。九代目」
「魂祭りが始まったのは、沢田がこの地に引き篭もる前だよ」
歴史的に、年数が合わない。
並盛はずっとこの地にあるが、沢田が此処に居を構えたのは百八十年と少し前で、実はそう古くない。沢田が魂鎮めの儀を引き継いだのもその頃だ。しかし山本は、昔聞きかじった知識のひとつとして、魂祭りは二百年近く続く神事だと口にした。
十年以上のその差。そして雲雀は、この空白期間こそが魂祭りが始まった理由だと言い切った。
「魂鎮めの儀は、限られた血筋にしか行えない。けれどそれが途切れた以上、里は、災厄を避ける為にも、どうしても祭自体は継続させなければならなかった」
その潜在的な霊力の高さから、度々強大な妖に狙われ続けた並盛を平定した一族。その血筋が絶えた時、それまで彼らの加護を当たり前のように享受していた村人は恐怖したに違いない。
自分たちを守る者がいなくなり、守護する壁が消え去ってしまった。今後予想される様々な災厄を忌避する為に、彼らが取った道のひとつ。
それが、魂祭りの継承だった。
無論、誰も見た事が無い魂鎮めの儀をそっくりそのまま真似るなんて不可能。今、里に伝わる魂祭りは、彼らなりに考えた結果作り上げられたものだ。それゆえに祭りの本質が鎮めからかけ離れたものに変容したのも、仕方の無い事だった。
「……?」
火箸を手に灰を掻き回した雲雀の声に、獄寺は唇をへの字に曲げて視線を天井に這わせた。
湯気を勢い良く吹き上げる鉄瓶を取り上げた山本が、湯飲みに均等に白湯を分けていく。そのひとつを綱吉へ手渡した彼は、まだ僅かに中身が残る鉄瓶を持て余し、結局鉤へ戻した。
しゅわしゅわと音が断続的に響くが、雲雀が炭へ灰を被せたので熱は弱まり、音も少しずつ静かになっていく。
「つまり?」
結論を急ぎたがる獄寺が、顎を撫でた指を外して手の平を広げる。肩の横で表替えした彼の問いかけに、雲雀は小さく笑って火箸を置いた。
山本から差し出された湯飲みを受け取り、知らぬ間に乾いていた口腔を潤す。隣では綱吉が、熱かったのだろう、懸命に息を吹きかけ冷ましていた。
「並盛の祭は、魂振り。神々を喜ばせ、その気を増幅させて加護を依頼する」
魂鎮めのように荒ぶるものたちを宥めるのではなく、元からこの地にある神に縋って、一年で減退した気を盛り返させる為に様々に手を施す。自分たちだけで目に見えぬものたちを防ぎ切れないのならば、同じく目に映らぬものに頼り、防いでもらおうという考え方だ。
神々を喜ばせ、同時に自分たちの気も補充する。互いに互いを鼓舞し合い、笑い、穢れを祓う。その主導はあくまでも祭りの発端となった村人たち自身であり、沢田は其処に深く関わらない。ただこの日だけ、沢田が常々守護する御神体を彼らに預け、委ねるのみ。
「…………」
獄寺は分かったのか、分からなかったのか、曖昧な顔をして腕組みをし、胡坐を崩した。山本はそれまで知らなかった祭の由来に、感心した風に背中を後ろへ逸らして頻りに頷いていた。
けれど疑問も残る。
そもそもどうして、沢田以前の並盛の守護家は滅びたのか。
何故その後釜として、沢田がこの地に居を構えたのか。
そしてなにより、どうして綱吉が知りえない歴史を雲雀が知っているのか。
家光も、綱吉に舞を教え込みはしたが、その裏に隠された歴史にはあまり精通していなかった。ただ代々伝わるものだからと、そう言って、覚えるように命じただけ。
リボーンがこの地に在り、此処から離れられないのと何か関係があるのだろうか。
土地に縛られた、人にあらざる赤ん坊の存在を、村人は知らない。リボーン自身も沢田以外の人間と極端に係わり合いを持たず、沢田には深く関与しても他の事にはほとほと無関心だ。
この血筋だけあれば良いとでも言いたげな彼の態度にも、疑念は生じる。
「祭の由来は、まあ……よく分かんねーけど、分かった。んじゃ、なんで、血筋は途絶えたんだ?」
頬を指で引っ掻き、獄寺が言葉に迷いつつ新たな疑問を雲雀へぶつける。それは綱吉も不思議に思うところであり、山本も知りたい様子で聞き耳を立てる。座布団ごと傍に寄ろうしている彼らを手で払って、湯飲みに口をつけた雲雀は、濡れた箇所を拭って深く息を吐いた。
空になった茶碗を音も立てずに床へ置く。表面を垂れた雫が古びた床板に吸い込まれて色を変え、其処に指を這わせた彼は眉目を顰めて意識を遠くへ飛ばし、数秒の間を挟んで綱吉を見た。
急に顔を上げられた綱吉が、若干驚いた様子で身を引く。
「ヒバリさん?」
迷うような瞳の揺れを彼から感じ、何かに臆している雲雀に綱吉は胸元を握り締めた。
指が震えている。
「……あれ」
いや、違う。瞬きをして確かめたが、綱吉の手は少しもぶれていない。血の気の通った肌がしっかりと布に絡みついており、寒さとも暑さとも無縁のところで平素の姿形のまま其処にあった。
だのに綱吉の意識下で、その拳は小刻みに震え、激しい恐怖に怯えていた。
痛みに。
熱に。
苦しみに。
散り行こうとするものを懸命に押し留め、引き戻そうとする声に。
嘲笑が聞こえた。
憎しみを謳い、森羅万象を呪う哀しい叫びが、聞こえた。
「ツナ?」
顔色を悪くして唇を噛み締めた綱吉の異変を知り、山本が彼を呼んだ。けれど綱吉は反応できず、力をなくして膝の上で裏返った己の指先を見詰めるばかり。
瞬きさえ忘れ、息の詰まる現実ではない光景に彼は恐れ戦いた。
燃え盛る炎、崩れ落ちる梁。断末魔の叫び、空を嬲る紅蓮の翼。
胸が――心臓が焼けるように痛い。呼吸する度に千切れた血管から鮮血があふれ出し、どうしても止まらない。次第に弱まり行く拍動は意識を混濁させ、目に映るものを闇へ誘った。消え行こうとする命に、必死で呼びかける声は遠い。
どうしてこんなことになってしまったのか、そればかりが、後悔ばかりが。
べっとりと濡れた手の平、弱くなる呼吸。意識が遠退き、すべてが闇に落ちる。
死ぬのだ、と理解した。現実に死ぬのではない、綱吉自身が死ぬのではない。
誰かは知らない、けれどここ数日間ですっかり綱吉と意識が同調してしまった誰かの命が、尽きようとしている。その瞬間を、綱吉が視ている。
死なせない。
死なせてなるものか。
力も、地位も、名声も、なにもかもかなぐり捨ててでも、必ず助ける。死なせはしない、失いはしない。守ると誓った、そう決めた。だから死なせない、なにをしてでも。
それまでの自分を棄ててでも。
「――ナ」
目の前が暗く沈む中、灯った輝き。最初は小さく、けれど少しずつ大きく。やがて綱吉を呑みこんで照らす光の中核から、不意に彼を現実に呼び戻す声が響いた。
誰かの声に似ている。
でも、誰の……?