翠微

 夜闇差し迫る中、疲れた肩を交互に慰めた綱吉は、漸く帰り着いた自室でゆっくりと休もうと金茶色のドアノブを回した。
 ひんやりとした空気が凛と映え、窓の向こう側で美しい月夜を演出している。観音開きの窓辺ではカーテンがやや肩身狭そうに端に集まって小さくなり、長く伸びた影が若干形を歪ませて床に文様を描き出していた。
 ノブに触れた瞬間に走った静電気に顔を顰めたまま、綱吉は今日一日自分の首を苦しめ続けていたネクタイに指を入れ、隙間を広げた。斜め下に引っ張りながら左右へ揺らして空間を作り出し、完全に解かぬうちに手を下ろす。交代で頭を振り、やや乱暴にドアを閉めた。
 冷え切った部屋の空気に、吐息を零す。
 室内には充分とはいかないが、月明かりだけでも特別困らない明度が保たれている。カーテンを全開にしている影響だろう、床に反射した光は天井にも影を作り、ゆらゆらと波のように揺れていた。
「……」
 ふっ、と鼻から吸い込んだ息を唇から吐き出し、綱吉は脱ごうとしていたジャケットから指を外した。チリチリと首の後ろに生える細かな産毛が自分以外の何者かの気配を感じ取り、警戒するように彼へ訴えかけていた。
 敵の侵入を許しただろうか、けれどそんな様子は此処に来るまで微塵とも感じ取れなかった。
 しかし違和感は綱吉の中で次第に膨らみ、彼に緊張を強いる。誰が、どうやって、何を目的に。いや、目的だけは既に判明している。この部屋の主を待つ以外に、不心得者が持つ理由があるだろうか。
 綱吉はさりげなさを装って右手に意識を集め、注意深く部屋を探った。けれど相手も気配を殺し、綱吉に居場所を悟らせない。
 何処から来る、どんな方法で――
 首筋に汗が伝い、乾いた口腔が唾を求め、綱吉は歳の割に幼い喉仏を浅く上下させた。
「……」
 カタン。微かに、本当に微かに、床が鳴った。
「ツーナヨーシ!」
「うわぁ!」
 しかし直後、綱吉の後方から元気良く彼を呼ぶ声が響いて、全くの想定外に彼は飛び出しかけた心臓を懸命に口の中に戻した。
 どかっと押し寄せてくる重みに潰されて、膝が折れる。不意打ちに慣れていない綱吉はみっともなく悲鳴をあげ、空中で両手を掻き回しながらうつ伏せに倒れこんだ。顎と額を同時に打ち付ける、あと少しで絨毯が敷かれた空間だったのが惜しい。
 圧し掛かってきた存在も一緒になって床に沈み、益々綱吉にしがみついて離れない。脳裏に妖怪子泣き爺が思い浮かんで、そんな馬鹿な、と綱吉は痛みから混乱を来たしている頭を振った。頬に流れた汗が唇を濡らす、しょっぱい。
「おも……」
「ツナヨシ、やあっと帰って来た」
「重いってば、ベル!」
 人を下敷きにして少しも悪びれず、腰に腕を回して抱き締めたかと思うと背中に頬を摺り寄せて来る青年に向かい、綱吉は上半身を持ち上げて思い切り怒鳴りつけた。
 ひとこと叫ぶだけで息が切れる。ふたり分の体重を押し上げた両腕は直ぐに力尽き、綱吉は再び床の上の人となってぜいぜいと呼吸を乱した。
「俺は重くないもーん」
「俺は重い……」
 お気楽調子のベルが白い歯を見せて笑う。全く綱吉の事を思いやっていない自己中心的な台詞にどっと疲れが押し寄せて、綱吉は仕方なく彼を亀の甲羅のように背中に負ぶったまま、ずるずるとカーペットが敷かれた部屋の中央に向かい、匍匐前進を開始した。
 最初はそれを面白がったベルだが、綱吉の進行速度があまりにも遅いので途中で飽きてしまう。背中がやっと自由になり、身軽さを取り戻した綱吉は折角ゆっくり出来ると思っていた時間を無駄にしたと、埃まみれになっている自分の格好に肩を落とした。
「なんなんだよ、もう……」
 ベルの気まぐれな我侭ぶりは今に始まった事ではないが、まさかこんな夜半過ぎに強襲されるとは思わなかった。髪の毛に絡まった糸くずを抓んだ綱吉の声に、彼はひとり先にソファで寛ぎ、右足を持ち上げて左膝に載せて笑った。
「だーって、折角久々に帰って来たのに。ツナヨシ居ないんだもん?」
 長く伸びた前髪に顔の上半分を隠し、表情を読み取らせないベルが横倒しにした脚に肘を立てた。綱吉は一部だけ妙に小奇麗になった床を見下ろして溜息をつき、ジャケットを脱いで上下に振る。途端に埃が散って彼は咳き込み、ベルもまた不機嫌そうに唇を尖らせた。
 彼所属のヴァリアーは、この数日間ボンゴレの本拠地を離れていた。それがひと段落し、戻って来たのは良いけれど、綱吉こと十代目とその側近もまた別件で不在。待ちくたびれた、と金髪王子は脚を崩すと今度は頭の後ろで両手を結んだ。
 金色のティアラが月光を浴びて鋭く輝く。彼が綱吉をいたくお気に入りなのは周知の事実だが、そのお気に入り具合もどちらかと言えば面白い玩具、という扱いに近い。
 ししし、と歯の隙間から声を漏らして笑う彼に何度目かしれない溜息を落とし、綱吉は半分に折ったジャケットを腕に引っ掛けた。
 なにもこんな遅くまで待ってなくとも、明日の朝になれば普通に顔を合わせられるではないか。それまで待てば、暇を持て余す事もなかったろうに。
 けれどそういう綱吉の反論が気に食わなかったようで、彼は地団太を踏んで床を鳴らし、夜中であるに関わらず騒音を撒き散らして綱吉の眉間の皺を深くさせた。
「王子の俺が待ってやってるのに、ツナヨシ、生意気」
「我侭王子よりは良識があるって言ってくれる?」
 最後に一際強く床を蹴り、ベルが勢いを利用して立ち上がる。売り言葉に買い言葉で応戦した綱吉は、途端鋭利に尖ったベルの気配にゾッと背筋を粟立てた。
 彼が肉親殺しのふたつ名を持ち、極端に爆発し易い性格であるのも周知の事実だ。綱吉が知る人の中で極端に沸点が低い彼から放たれる棘ある空気に、産毛がチリチリと痛みを放った。
「ベル」
「なーまいき、ツナヨシの口、切り刻んじゃおっかな」
 そうすれば自分に反抗的なことはもう言わないよね、と愉しそうに言って、ベルは愛用の柄が無いナイフを空中に躍らせた。
 ティアラよりもより鋭い光が放たれ、綱吉の目に突き刺さる。
「ベル」
 冷やりとしたものが背中を伝い、綱吉は若干声を荒げて彼を呼んだ。
 闇の中で笑うベルが、三本に増やしたナイフをお手玉のように遊ばせている。彼のナイフ裁きが見事なのは知っているが、こうやって顔を突き合わせて見せられると嫌な汗が浮かんで来る。綱吉は震える脚を悟らせぬよう、腹に力を込めて肩を怒らせた。
 気圧されぬように自分を奮い立たせ、首を緩く振る。
「ベル、そういう事は気安く言うものじゃないよ」
 相手は自分よりも年上なのに、同年代かそれ以下にも思えるのは、彼の言動が見た目に反して幼いからだ。純粋故の凶暴性とでも言うのか、彼は人を傷つけるのを躊躇しない。
 それが彼の特性だと綱吉も一応理解しているが、誰もそれが哀しいことだと教えてやらなかったのかと思うと、寂しくなる。
「生意気なツナヨシは、要らないや」
「ベル」
 気まぐれな彼は、一時の感情で全てを判断する。長期的な視野を持とうとしない。それもまた子供の特徴だ。
 傷つけられた綱吉が痛がったり、後遺症を負ったり、ベルを嫌いになる可能性をまるで考慮していない。その時々の感情が彼の行動理念となる、後悔する自分を想像しない。
 彼が以前、間違って本当に綱吉を傷つけて(綱吉も避けなかった分悪いのだが)、一週間以上も引き篭もって自傷行為を繰り返した過去は綺麗さっぱり忘れ去られているらしい。
「駄目だよ、ベル。口を切られたら、俺はもう」
 君の名前を呼べない。
 掴み取ったナイフの切っ先を差し向けた彼に、綱吉は自分から距離を詰めて右手を上げた。
「え?」
 一瞬怯んだベルが、刃物の行き先に迷って綱吉の動きを見守る。急速に彼を包んでいた怜悧さが薄れ、綱吉は握る力が弱まった彼のナイフを静かに下ろさせた。
「……俺と喋られなくなるの、ベルは嬉しい?」
「それは、やだ」
 駄々を捏ねて頬を膨らませた素直さに、つい笑みが零れる。
「なら、ナイフはしまって」
 危険極まりない彼の武器を指差し、綱吉は抱えたままだったジャケットをソファへ移した。ベルも大人しく彼の言葉に従ってナイフは元の位置に戻すが、まだ納得がいかない様子で口をへの字に曲げている。機嫌はなかなか治ってくれそうになくて、どうしたものか、と綱吉は自分よりも背の高い子供を見上げて肩を竦めた。
 ひとまず身辺の危機は去った。それは確かで、ホッと胸を撫で下ろした彼は匍匐前進の最中ですっかり緩んだネクタイも続けて外した。襟元を広げ、呼吸を楽にしてから髪を掻き上げる。
「ベル、明日は何も無いの?」
 朝早いようなら、もう休まないと仕事に差し支える。ヴァリアーが失敗するような事があってはならないと、一応彼を心配して問うたのに、ベルは途端に頬を風船みたいに丸く膨らませた。
「ツナヨシ、生意気!」
「なんでそうなるのさ!」
 追い出されるとでも思ったのか、逆効果で、ベルが声を高くして綱吉にしがみつく。ぎゅうぎゅうに締め付けられ、苦しさから逃げ出そうともがけばもがくほど彼の束縛は強くなる。足も使って暴れていたら、床を滑った踵が宙に跳ねてバランスが崩れた。
「う、わっ」
 ふたり団子になって床に倒れこむ。またしても綱吉が下で、強かに後頭部を打ちつけて目の前に星が散った。激痛が全身を襲い、呼吸さえ止まって指先が痙攣を起こす。絨毯はクッションにはならず、冷たく綱吉を迎え入れた。
 上に圧し掛かったベルは、苦痛に呻く綱吉へ薄明かりに影を落とし、丁度良い抱き枕だと笑ってから前髪の奥の瞳をスッと細めた。
 その癖のある微笑みに、薄ら涙を浮かべた目で綱吉は自分の頭を撫でつつ彼を見返す。
「ツナヨシ黙らせる、いーこと思いついた」
「ベル?」
 人の頭の両側に腕を置いて、人の悪い表情で彼が言う。背筋に嫌な予感が走りぬけ、綱吉は逃げ場を探したが何処にも見付からなかった。
「塞いで良い?」
「駄目、って言っても聞かないくせに」
 肘を折って顔を寄せる彼に言い返し、綱吉は諦めの境地で両腕を投げ出した。
 シシシ、とベルが愉しげに笑う。
「うん。だって俺、王子だし?」

2008/02/06 脱稿