微細

 人間、些細なことがやけに気になってしまう時がある。
 大抵他の人にはどうでも良くて、挙句本人とっても本当につまらない内容。だのに気になる。
 沢田綱吉もこの日、そんな状況に陥っていた。
 右の人差し指、爪の左側が逆剥けを起こしていたのだ。
「……うーん」
 生活に支障はないし、気にしなければどうって事はない。けれど場所が場所なだけに、ついつい無意識に弄ってしまって、朝の段階ではちょっと皮が捲れている程度だったのが、昼を過ぎた頃には面積を広げ、触れると微かに痛むようになっていた。
 シャープペンシルを握ると、持ち方の所為でそこに親指が触れるのも悪かった。軽く手を握っただけでも、親指の腹が其処に当たってしまうので、日頃無いものがあるというだけで勝手に手が傷口を抉ってしまう。触らなければ問題ないと分かっていても、ぼうっとしているうちに気付けば自分で皮を剥いていた。
 手の甲を顔の前に掲げ、他よりも赤みを強めている皮膚を睨みつける。そんな事で傷が癒えるわけはないが、どうすれば一番ダメージを少なく済ませられるだろうかと考え、綱吉は眉間に皺を寄せた。
 さっきからそうやってうんうん唸っている彼を横目でちらりと見やり、雲雀は何をやっているのだろうかと怪訝に右の眉を持ち上げた。
 何か面白いものでも見えるのかと気に掛かるものの、彼の位置からでは綱吉の指先は遠すぎて見えない。手を裏返したり逆さまにしたりして眺める綱吉の百面相は面白いが、視界の中で落ち着き無く動かれると気が散って、雲雀はどうしたものかと書きかけの文書を指で小突いた。
「あ」
 その音が聞こえたのか、唐突に綱吉が声をあげる。前触れもなかったその感嘆詞に、雲雀はもうひとつ叩こうとしていた指をピクリと止めた。
 紙との間に髪の毛一本ほどの隙間を残した彼は、諦めの心境に近いものを胸に抱いて広げた掌を机に押し当てた。黒髪を梳いて肩を回し、目の前の応接セットで寛いでいる綱吉の次の動きを待つ。
「あー……」
 若干間延びした声が少しの時間を経て彼の口から放たれ、顔の前で両手を掲げていた綱吉は、ずっと弄っていた右手を先に下ろした。
 僅かに遅れ、左手も膝に落ちていく……と思いきや、それは彼の顔の前に留まった。
 左右に、さながら風に煽られた柳の葉の如く揺らめかせ、親指と人差し指で抓んだ何かを見上げている。渋い表情はどこか痛々しく、歪められた口元は歯を食いしばっているようでもある。
 雲雀は眉間の皺を深め、肘を立てて頬杖を作った。両手で顎を支え、興味深く綱吉を観察する。
 動物園の檻の中ではあるまいに、自分が見られているとは思わない綱吉は額の高さまでやった左手をしげしげと眺めてから、再び「嗚呼」と息を漏らして肩を落とした。今度は若干拗ねた様子で頬を膨らませ、窄めた口から息を吐き出して左手を外側へ振る。重ねていた指を広げてひらひら風を作り、手首をソファへ沈めた。
 入れ替わりに右手が持ち上がる。
 一秒としてじっとしていない。なかなか面白い光景だ、と雲雀は目を細めて完全に仕事の手を安め、綱吉の百面相を見守る姿勢に入った。
 まだ気付かない彼は、五本指揃う右手の甲をまじまじと穴が空くほど見詰め、肩を上下させて溜息を零してから音の無い舌打ちをする。下唇を突き出して瞳の光を尖らせてから、左手で頭を乱暴に掻き毟って両足を床に叩きつけた。
 太鼓を打ち鳴らしたような音が応接室に響き渡り、苛々した様子で彼はもうひとつ、今度は雲雀にもはっきり分かる音で舌打ちした。右の親指を咬み、ぶつぶつと聞こえない文句を口の中で呟いて、人差し指以外を折り畳んだ。
 天井を指差す形で残されたその指を、どうやら彼は至極気にしているようだ。
「いったあ……」
 ソファの上で一頻り暴れた後、彼がぼそり吐き出した台詞。若干涙ぐんだその声色に、雲雀は形の良い眉を顰めた。
「どうかしたの」
「へ? え、あ、うわ」
 気になって呼びかければ、一瞬の間を挟んで綱吉が横を見る。
 自分の現在地をすっかり忘れていた彼は、其処に座っている雲雀を見て驚いた顔をした。正直に心の中の声が外にはみ出てしまった綱吉に、少しばかり雲雀は不機嫌になって頬杖の位置をずらす。机に寄りかかりながら前傾姿勢を強めた彼の視線に、綱吉は敏感に雲雀の不機嫌さを感じ取って首を窄めた。
「いえ、あー……たいした事じゃ」
「どうしたの」
 言い淀んだ綱吉が視線を泳がせて右手を背中に隠す。だが一連の行動をつぶさに観察していた雲雀には通用しない。語気を強めた彼に、綱吉は観念した様子で首を振った。
「あ、そうだ」
「なに」
「いえ、こっちの話」
 その仕草の最中で急にまた裏返った声を出した彼に、雲雀が唇を歪める。右手を上にして重ねていた頬杖を崩し、椅子の上で姿勢を正した彼になんでもない、と綱吉は今しがた思い出した何かの説明は拒み、代わりに顔の横で手を振った。
 意識しているのか、人差し指だけが他の指よりも動きが重い。
「逆剥けが切れちゃって、血が」
 気になって触っていたら、余計に状況を悪化させてしまったのだと彼は笑った。
 せめて皮が捲れている部分だけでもどうにか出来ないかと左手の爪で引っ張っていたら、勢い余ってまだ肉に張り付いていた部分まで一緒に引き千切ってしまったのだという。お陰で爪の脇からうっすら血も滲んで、微かな痛みが綱吉の迂闊さを責めていた。
「……そう」
 たいした事じゃない、と言いながら綱吉の顔は辛そうだ。利き腕の人差し指ともなれば、使用頻度も高い。傷口を露出したままでは生活にも支障が出る。
 そういえば引き出しに絆創膏があったと、雲雀は頭の片隅で思い出して右肘を引いた。
「なら」
「でも、絆創膏あるの思い出したんで」
 引き出しを開けようと金具に指を掛ける。だがそれより早く、綱吉は明るい声で笑った。
 雲雀の動きが止まり、滑った指先に引きずられて彼の右腕が椅子を叩いた。音が響き、綱吉がどうしたのかと首を傾げて彼を見返す。
「ヒバリさん?」
「そう、なら、大丈夫だね」
 務めて平静を装った雲雀に気付かず、綱吉は目尻を下げると嬉しそうに頷いた。
 ポケットを探り、目当てのものを取り出す。一瞬だけ彼の顔が凍りついたのは、絆創膏を包んでいたフィルムを剥いだ先に、可愛らしい図柄を見てしまったからだ。
「京子ちゃん……」
 恐らくはその絆創膏の元々の持ち主だろう名前を呟き、粘着面を指の腹に押し当てて傷口を覆い隠す。違和感があるのか何度も指を曲げ伸ばしする彼の真剣な横顔に、雲雀は垂らしたままの右腕を持て余して視線を浮かせた。
 些かショックを受けているらしい自分に、笑いたくなった。
「これでよし、と」
 隙間を埋めて指にしっかり絆創膏を固定した綱吉が、ゴミを捨てようと立ち上がる。ゴミ箱は雲雀の執務机にしかないので、必然的に彼は雲雀の方を向き、天井を見上げてぼんやりしている彼に首を傾げた。
「ヒバリさん?」
「なに」
「あ、いや……」
 やや剣呑な声を返され、綱吉が言葉に詰まって唇を指でなぞる。丁度それが右人差し指だったものだから、桜色をした少女好みの図柄が雲雀にも良く見えて、彼は益々表情を険しくしてそっぽを向いた。
 何故そこで自分が怒られなければならないか分からず、綱吉は疑問符を頭に浮かべる。
 近寄り難い雰囲気に困惑して、握ったゴミを持て余す。此処のゴミ箱が使えないとなると、後は外に行くしかない。
 雲雀の冷たい態度に少なからず傷ついて、綱吉は絆創膏の上から人差し指を弄って踵を鳴らした。
「俺、帰りますね」
 鞄は机に置いたままだ。回収して、家に戻ろう。
 取り立てて応接室に用事があったわけではない。雲雀が手透きだったら一緒に帰ろうとか、それくらいしか考えていなかった。だから、雲雀も引き留めない。
 本当は制して欲しかったのだけれど、彼は「そう」としか言ってくれなかった。
 彼が素っ気無いのは今に始まった事ではないし、もう慣れた。でも矢張り寂しい。
 後ろ髪引かれる思いで応接室を出て、廊下を進む。そのうち段々腹立たしく思えて来て、綱吉は廊下にあったゴミ箱に握り潰したゴミを叩き付けた。
 しかし寸前でバラバラに散らばって、フィルムの滓が上履きに落ちた。
「もう!」
 苛々を隠しもせず地団太を踏んだ綱吉が、腰を屈めて白いそれを抓む。利き腕を自然と使って、目に飛び込んだ人差し指の絆創膏。
 目立つ色合いの、少女趣味過ぎてなんだかくすぐったくなる絆創膏。
 これを取り出す前に、雲雀は何かを言いかけていなかったか。
「あ……」
 違うかもしれない、けれどあの段階で唐突に切り替わった雲雀の機嫌。深く考えもしなかった、だって雲雀は何も言わなかったではないか。
 けれど。
 綱吉は来た道を振り返った。何も無い、空虚な学校の廊下に運動部の掛け声が遠く響き渡っている。
 がらんどう、ぽっかり空いた空間は見慣れた景色に関わらず綱吉の心を圧迫し、強く締め付けた。
「……もう!」
 こんな気持ちになるくらいなら、気付かなければ良かったと思う。綱吉はかぶりを振り、教室へ向かう道を急いだ。階段を一段飛ばしに駆け上って、もう誰も居残っていない教室から自分の鞄をひったくる。窓から差し込む夕暮れが彼を急きたて、綱吉は途中の廊下に設置されている水道の蛇口を思い切り捻った。
 飛沫を上げた鋭い水流に右手を差し入れ、顔に掛かるのも構わずに手を洗う。
 粘着力を弱めたピンク色の絆創膏の下で、涙が溢れそうな痛みが綱吉を襲った。
「ヒバリさん!」
 濡れた手をそのままに階段を駆け下り、廊下を突っ切ってドアを乱暴に押し開く。
 仕事もせずに椅子の上から暮れ行く空を見上げていた雲雀が、唐突の綱吉の襲撃に驚き、頬杖の姿勢を崩して顎を落とした。
 驚きのあまり無防備に目を見開いている彼の姿はとても珍しく、それだけでも戻って来た甲斐はあったと綱吉は息咳切らし、絆創膏の剥げた右手を前に突き出す。
「手を洗ったら絆創膏取れちゃったので、新しいのもらえますか!」
 応接室の静寂を打ち破る綱吉の大声に、雲雀は呆然として、途端に噴出した。
「わ、笑わないでくださいよ!」
「いいよ。おいで」
 にわかに恥かしくなって怒鳴った綱吉を、雲雀が瞳細め手招く。
 その向こう側で、雲間から顔を覗かせた夕暮れが笑った。

2008/02/03 脱稿