微意

 高い木の枝に停まった鳥が、朝露に濡れた葉を揺らして翼を広げた。甲高い鳴き声と共に、吹いた風に乗って小さな身体が青空へ吸い込まれていく。
 生い茂る肉厚の常緑樹を真上に見上げ、彼はまだ揺れている枝の先に目を細めた。
「んー」
 いい天気だ。
 気持ちの良い快晴が広がっている。千切れ雲はどれも小さく、朗らかな陽射しが夜中に冷え込んだ空気を一気に温めてくれている。鳥の声は爽やかで、風もそう強く吹かず穏やかだ。
 この分だと昼前にはぽかぽか陽気に包まれるだろう、絶好の昼寝日和だ。
 これで学校さえなければ最高だったのに。持ち上げた両腕を下ろしながら、綱吉は心の中で小さく舌を出した。
 中学生という立場上、登校して勉強するのは彼に課せられた義務だ。出席日数も足りていない、留年なんていうろくでもない単語も脳裏にちらつきだしており、彼は渋々心地よい布団を抜け出して学校への道程半ばに居た。
 もう少しで学校の正門が見えてくる。敷地を囲む灰色の壁を右手に見ながら、遅刻しないで済みそうな時間配分に綱吉はホッと安堵の息を零した。
「好きです!」
 そんな油断しきりの最中。
「うわっ」
 唐突に鋭い声が聞こえてきて、綱吉は驚きのあまりその場で飛び上がった。
 女の子の、緊張してか震えて裏返った声だ。しかし心臓を竦ませた綱吉が鞄を抱きしめ周囲を見回しても、声の主の姿は何処にも見当たらない。
「あれ……」
「好きなんです。お願いです、私と」
 声はまだ続いている。数秒考え、これは自分に対する告白ではないと悟った彼は、なーんだ、とガッカリしながら肩を落とした。よくよく見れば三歩先で道は曲がり角に達しており、どうやらその先で事は展開しているらしい。
 こんな熱い告白を受ける幸せ者はいったい誰だろう。ちっとも羨ましくないぞ、と鞄を握り直した彼は、しかし自分が此処で角を曲がったらば非常に気まずいのではなかろうかと思うに至り、出しかけた足を慌てて引っ込めた。
 けれど其処を曲がらないと、学校には遠回り。壁を乗り越える技量も度胸も、綱吉には無い。参ったな、どうしよう。心底困った顔で腕を組んだ彼の耳に、返事を急かす少女の声が続いた。
「悪いけど」
「え」
「俺、お前に興味ないし」
 そうして聞こえた、告白された側の声。低い、少し癖のある、綱吉の耳によく馴染むそれは、聞いただけでその顔が瞼の裏に姿まで浮かんでくる人物だった。
「そんな、酷い……」
「別に酷かねーだろ。本当の事なんだから」
 震えた少女の声、同じく震えた綱吉の心臓。ドキリとしたのは、少女の気持ちを欠片さえ真摯に受け止める意思をまるで感じられなかったからだ。
 直後に乾いた音が響き、影で聞いていた綱吉は咄嗟に首を窄めた。自分が叩かれたのではないのに、痛みを右の頬に感じて顔を顰める。
「うわっ」
 そうして駆け出した少女が道を曲がって綱吉の方へ来るのが見えて、彼は慌てて壁側に避けた。すれ違う直前に見えた彼女は泣いているのか口元を手で覆い隠していたが、其処に綱吉が立っていたのを見ると途端に鬼の形相で睨みつけてきた。
 肩に掛かる茶髪が揺れる。あっという間に走り去っていく背中を呆然と見送り、別に立ち聞きしようとしたのではないのに、と睨まれた理由を想像して綱吉は臍を噛んだ。
「十代目」
 朝から気まずい場面に遭遇してしまった。折角気持ちよく登校していたのに、なんとなく残念にさえ思い胸のしこりに唇を噛んでいると、前方から彼を呼ぶ声がする。
 視線を上げれば其処には、左の頬を赤く腫らせた獄寺がやや呆然とした顔で立っていた。
「……おはよ」
 盗み聞きするつもりはなかったのだと舌を出せば、彼もまさか綱吉が此処にいるとは思っていなかったようで、気まずげに苦笑して肩を竦めた。
「変なとこ、見られちゃいましたね」
「いや、まー……うん。ごめん」
 彼が悪いのではないのだが、どうにも会話が沈む。歯切れの悪い綱吉の返事に、獄寺は叩かれた左頬を引っ掻いて痛みに悲鳴をあげた。良い音がしたので、相当力を込めて叩かれたのだろう。口の中が切れているのかもしれない。
 ちらりと盗み見た彼は感情が混ざり合った曖昧な表情をしており、綱吉は踵の裏でコンクリートの地面を削ってそうと知られぬように吐息を零した。
 断るにしたって、もう少し上手な言い方があるだろうに。あれでは彼女を傷つけるだけではなく、余計な恨みまで買いそうだ。獄寺が頻繁に受ける恋の告白を、総じて断っているのは知っていたが、あんな風に毎回拒絶しているのだとしたら、それは少し酷すぎやしないか。
 時間が差し迫っている為に立ち止まったままでもいられなくて、綱吉は歩き出す。半歩遅れて獄寺が続くが、十歩と行かぬうちに彼は足を止めた。
 下を向いていて気付かない綱吉を呼び、振り返らせる。
「十代目」
「ん?」
「俺のこと、酷い奴だって思いますか」
 何気なく後ろを見た綱吉が、途端ぎくりと表情を強張らせた。
 分かり易い反応に、獄寺が苦笑する。東の空にある太陽を浴びてキラキラと光を放つ銀髪を揺らめかせ、彼は綱吉を優しい目で見返した。
「そんな事……」
「いいんスよ、俺だって自分があんな風に言われたら傷つきますから」
 否定しかけた綱吉の言葉を遮り、獄寺が小さな声で告げる。視線をずらそうとしていた綱吉は、自分の耳に飛び込んできた発言に驚き、息を止め、弾かれたように首の向きを戻した。見開いた琥珀の双眸に獄寺を映し出す、彼はやや自嘲気味に口元を綻ばせていた。
「じゃあ、なんで」
 相手が傷つくと分かっていながら、あんな態度を取ったというのか。
 自分を好いてくれている相手を冷たくあしらって、それを楽しんでいるのだとしたら最低だ。彼はそんな人種ではないと信じていた綱吉にとって獄寺の告白は衝撃的であり、にわかに信じられるものではなかった。
 が、その本人が言ったのだ。綱吉の目を見ながら彼は静かに頷いてみせる。
「なんで、あんな」
「気を持たせるような真似、したくなかったんで」
 声を震わせた綱吉に、獄寺は真っ直ぐな声を出した。
 にっ、と白い歯を見せて子供っぽく笑う。
「俺は、十代目に一生捧げてますから」
「っ」
 だから彼女の思いは受け取れない。獄寺の心は既に誰かひとりで埋まってしまっていて、割り込む余地は何処にも残されていないから、変に優しい断り方をして期待させるより、最初から冷たくあしらって諦めさせた方がいい。
 振り向くことは永遠にない自分を待ち望み続けるなんて、向こうだって苦しすぎる。
 平手打ち一発で済むのなら、幾らでも受けよう。けれど獄寺の想いは、どんな責め苦を与えられようとこの先変わることはありえない。絶対に。
 真剣な表情を向けられ、綱吉が困った風に赤い顔を逸らす。少女とすれ違った瞬間に睨まれたのが思い出されて、ひょっとしなくても自分は、自分の知らぬところで色々な女性から恨まれていたりするのだろうかと、頭を抱えたくなった。
「聞くけど……その説明、誰かにした事は?」
「え、駄目でしたか」
 確定だ。
 目を丸くした獄寺に盛大な溜息を零し、綱吉はこめかみを襲った鈍痛に背中を丸める。獄寺はそんな綱吉に、本当のことを言っただけなのに、と唇を尖らせて不満顔だ。
 確かに獄寺に好意を寄せられているのは知っている。それが十代目と右腕という構図を大きく逸脱しようとしているのだって、重々承知だ。
 けれど時にその感情が重くて、綱吉は潰れそうになる。信頼してくれるのは嬉しいが、その信頼が依存になり、妄信になりはしないかと不安を抱くこともある。
 何もかも綱吉を優先させて、自分を二の次にする傾向がある獄寺を綱吉が拒絶した時、彼がどうなるか。
 脆く砕け散るガラス細工にならなければ良いが。
「重いですか」
 不意に獄寺が言った。
 低い、けれど研ぎ澄まされた声に綱吉が顔を上げる。置き去りにされた手が胸の前まで沈み、行き場をなくして制服を握り締めた。
「それは……」
 獄寺の感情は、確かに重い。彼は判断の全てを綱吉に委ねている、命の在処さえも。
 綱吉が死ねと言えば、彼は迷う事無く自分に銃口を向けるだろう。そうなるという確信が綱吉にある。盲目的な獄寺の忠誠心には恐怖さえ覚えて、自分に果たしてそれだけの価値があるのか、彼に対価を払えているのか、不安になることも。
 彼が気付いているとは思わなかった。いつも一方的に綱吉を慕う彼は、自分が原因で綱吉が迷っていると気取っている素振りなどまるで見せていなかったのに。
 返事に窮し、綱吉は足元に視線を泳がせる。
 完全に止まってしまった足取り、頭上遥かで壁越しの予鈴が鳴り響いた。
「すみません、十代目。俺、十代目にばっかり背負わせてますよね」
 いつでも、嫌になった時は気にせずに捨ててください。獄寺は俯いている綱吉の柔らかそうな髪の毛を見詰め、無理矢理作った笑みで返した。
「十代目がお決めになったことには、従います」
 綱吉を苦しめたいわけでも、傷つけたいわけでも、ましてや悲しませたいわけでもない。獄寺としては、一緒に居られるだけで充分なのだ。無理を願うつもりはない、望む気もない。
 綱吉が重いと言うのであれば、獄寺は大人しく身を引こう。右腕として彼に忠誠を誓う存在でありたいという願いが、たとえ果たされないとしても。
 遅刻してしまう。今日も風紀委員が口煩く正門に待ち構えているだろうから、急がなければ。
 一方的に宣言して終わらせ、獄寺は動かずにいる綱吉を誘った。
「……あのさ」
 しかし彼は動かなくて、獄寺は怪訝に眉を寄せる。下向いたまま呟かれた声に、獄寺は頬に掛かる銀髪を後ろに流して耳に預けた。
 一瞬逡巡し、綱吉が制服から外した手で鞄を握り締めた。
「荷物ってさ、毎日同じ重さのものを持ってると、慣れちゃうんだよね」
 例えば弁当箱、例えば通学鞄。毎日持ち歩いていると、その重さを身体が自然と覚えてしまう。違うものが紛れ込んでいると、指先が敏感に感じ取ってしまえる程に。
「十代目?」
「それがさ、急に無くなったらやっぱり、バランス悪いんだよね」
 綱吉は地面を蹴り、中空に身を躍らせて一気に獄寺を追い越した。彼を置き去りに駆け出す、本鈴まであと一分も残されていない。
 目の前をふわりと舞った風に、獄寺が目を見開いた。
「十代目!」
「遅刻するよー」
 それはどういう意味か。声を高くして問うた獄寺にただ笑って、綱吉は握り締めた鞄を振り回した。足は休めず、一直線に正門を目指す。
「待って下さい、十代目!」
「やーだね!」
 聞きたければ捕まえてみるといい。前を向いたまま怒鳴り返した綱吉へ、獄寺は懸命に腕を伸ばした。

2008/02/03 脱稿