機微を知りて君を知らず

 朝、約束した通りの時間に迎えに行って、玄関の呼び鈴を鳴らした。
 けれどなかなか応答が無くて、可笑しいなと首を捻りながらもう一度呼び鈴を鳴らす。
 すると今度はやけに焦った様子で「どちら様!」と怒鳴る声が聞こえてきて、思わず両耳を塞いだ叶は、声の主がこの屋敷の住人である同い年の少女だと知って眉を寄せた。
「おーっす。何やってんだ、遅刻すっぞー」
『あ、叶? 叶、ちょっと、レンレン、ちょっと、叶来たよ!』
 インターホン越しに会話が聞こえてきて、叶は何事かと三橋家の朝の騒動に顔を顰めた。
 声は途中で聞こえなくなり、益々眉間に皺が寄る。門は自由に開閉出来る仕組みだ、けれど人様の敷地なので勝手に入るのも憚られて、どうしたものかと学校に行くのに必要な時間を頭で軽く計算し、叶は肩を竦めた。
 仕方なくそこで暫く待っていると、三橋廉と瑠里が絡まるように玄関から飛び出して来た。ふたりとも寝癖で毛足が盛大に跳ねており、似たような顔が並んで走ってくる。
 退いて、と瑠里にまた怒鳴られて叶が道を譲っていると、足をもつれさせた廉がその手前で盛大に転んだ。
「レンレン! あー、もう。叶、後は任せた!」
「はあ?」
 何がなにやらさっぱり分からないが、瑠里は転んだ廉をその場に置き去りにして急ぎ足で駆けて行った。
 あっという間に小さくなる背中を呆然と見送り、叶はよろよろと打った鼻を押さえて起き上がる廉を振り返る。
 ボサボサの頭に、食べ残しの米粒が口の横にこびり付いている。制服はちゃんと着込んでいるが、学校指定のネクタイは結ばれていなかった。
「廉、どうした」
「しゅ、しゅうちゃ……」
「ネクタイは?」
 鞄を肩に担いだ叶が、手を差し出して廉が立ち上がるのを助けてやる。ついでに顔に残っていた米粒を弾いてやると、自分の胸元に遅れて目をやった廉は気恥ずかしそうに左右の指を絡ませた。
 このまま突っ立っていても遅刻してしまう。兎も角先を急いで、道すがらネクタイは結ぼう。廉の制服のポケットに丸められたネクタイが突っ込まれているのを横目で確認した叶は、重い足を門前で固定させている彼の背中を力いっぱい押した。
 だが廉はなかなか動かず、先を行く叶が数歩進んでから振り返る。
「なんだよ、学校いかねーの?」
「お、俺……その」
 彼が入学式の直前まで、祖父の経営する学校になど行かないと言い張っていた話は、叶の耳にも届いている。まさか本当に、始業式たる初日から登校しないとでも言い張るつもりか、彼は。
 それはあの爺さんも許さないだろうな、と顔くらいしか知らない廉と瑠里の祖父を思い浮かべて叶は肩を落とす。しかし廉は違う、と首を横に振り、ポケットに放り込んでいるだけのネクタイを恐る恐る取り出した。
 細長いそれが揺れ、片側が地面に着きそうになって慌てて腕を高くした彼は、横を向いたまま時折チラチラと叶を見て、居心地悪そうに爪先で地面を捏ねた。
「ネクタイ?」
 廉の頭を見る限り、寝坊したのは間違いないだろう。大慌てで着替えて、朝食を食べて、焦って学校に行こうとしたのは分かる。けれどならば、瑠里まであんなに慌てて出て行く必要は無いはずだ。
 廉の寝坊は、彼女には関係ない。
 ならば他に理由があるのかと頭を捻り、叶は廉が握るネクタイを見下ろす。自分が首に巻いているものと同じものだ。
「お、俺、これ、その、えっと、だから」
 細切れの言葉が断続的に続き、しかしいつまで経っても意味を成す文章にならない。そろそろ痺れが切れそうで、叶はだからいったい何なのか、とつい怒鳴りつけてしまった。
 途端に怯えた目をした廉が叶から距離を取る。
「あ……あー、悪い。つか、どうしたんだよ。まさか結べない?」
 短気な自分に苦笑して手を振り、廉を呼び戻して聞けば何故分かったのか、凄い、という顔をされた。
 普通ネクタイを前にあんな態度を取られれば、誰だって気付けそうなものだ。単純でいいな、と彼の思考回路を微笑ましく思いつつ、叶は残り時間を気にして廉からネクタイを受け取った。
 自分で結べなくて、きっと瑠里の手を借りようとしたのだろう。けれど彼女も巧く出来なくて、結局ふたりして悪戦苦闘しているうちに時間切れとなった。その辺りか。
 瑠里の両親の手を借りればいいのに。聞いてみたら廉が起きた時に男親は既に出勤した後で、女親は洗濯で忙しそうだったから声をかけるのに気が引けたそうだ。入学式は実母が結んでくれたので苦労せずに済んだが、彼女も埼玉に帰ってしまっているので頼れない。
 子供だけでなんとかしようとしたのだろう、様子を思い浮かべて叶は笑いを堪える。
「しゅうちゃん?」
「いや、なんでもない。廉、頭下げて」
 訝しむ目を向けられ、叶は慌てて手を横に振って両手にネクタイを握り締めた。表彰台でメダルをかけてやる要領で、姿勢を低くした廉の頭にネクタイを通し、左右のバランスを確かめる。
 ブレザーの中に滑り込ませた布はそこで引っかかって止まった。襟の下に押し込むのは諦め、後でやれば良いと思い返して叶は素早く廉の喉元で細い布を交差させた。
 だが、いざ細くなっている方を巻きつけようと持ち上げたところで彼の手は急に止まり、渋い顔をして考え込み始めた
「しゅうちゃん?」
「ちょっと待ってな」
 どうだったかな、と口の中で呟いた叶が試しに思う通りにネクタイを結ばせる。けれど出来上がったのは微妙にちぐはぐで、裏と表が逆になり損ねて斜めに傾いた結び目だった。
 可笑しいな、と叶が顔を顰めて見守る廉の前で自分のネクタイを引っ張る。それは今朝彼が自分自身で結んだものだが、間違っても廉の首にぶら下がっているような不恰好な結び目はしていない。
 どちらも自分が結んだものなのに、この違いの原因は何なのか。当事者の廉を他所に真剣に悩みだした叶は、背後を通り過ぎていく通勤通学の人々から怪訝な視線を向けられるのも構わず、時間も忘れて立ち尽くした。
「うーん」
「しゅう、ちゃん。学校」
 このままではふたり揃って初日から遅刻だ。ネクタイくらいなら注意される程度で済むし、学校に着いてからでも遅くない。それよりも始業式に間に合わない方が問題だと、廉は踵を浮かせてその場で身体を上下に揺らした。
 だが叶は動かない。段々不安になってきて、廉はどうしよう、と視線を中空に泳がせた。
 自分の所為で叶まで遅刻してしまう。
「あ、そっか」
 それは嫌だ、と廉が泣きそうに顔を歪めた瞬間、叶が急に手を叩いて高い声を出した。
「……わっ!」
 何事か、と慌てて顔を上げた廉だったが、唐突に肩を掴まれ後ろ向きに回転させられた。視界が急激に変化し、目が回る。勢い余って転びそうになった身体を後ろから支えた叶は、華奢な廉の両腕を外側から押さえ込むと、何も言わずに彼を抱き締めた。
「しゅ……!」
「えーっと、だから、これがこう、だろ」
 狼狽した廉が顔を赤くして息を止めるのも放置し、叶は廉の首に吊り下げられているネクタイを弄って素早く解き、再び結び始める。口の中で手順を呟き、指一本動かせずにいる廉にお構いなしで事を進め、良く見えないからか、肩越しに廉の胸元を覗き込んできた。
 意図せずして彼の頬が髪の毛を巻き込んで押し当てられる。柔らかく暖かなその感触に、廉は瞬間、ドキリと心臓を跳ね上げた。
「しゅうちゃ……」
「よーし、出来た」
 反対から見ていたから巧く出来なかったんだな、と満足そうに呟いた叶がスッと廉から離れ、前に回りこむ。そこで初めて真っ赤になっている廉に気付き、彼は首を傾げた。
「廉?」
「ふえ!」
 名前を呼んで顔を寄せると、上擦った声で悲鳴をあげられた。飛び上がって距離を広げ、逃げられる。
 折角結んでやったというのに、その態度は酷くないか。ついムッと顔を顰めた叶に、廉は慌てて上を向いて下を見て、綺麗に整った自分の襟元に赤い顔を綻ばせた。
 叶の頬が触れた場所を指でなぞり、残る手でネクタイの結び目を撫でる。
「え、えへ、へへ……」
 まだ僅かながら叶の体温が其処に残っている気がして、勝手に表情が緩んだ。
 眺めていると力の抜けるその笑い具合に、叶も一瞬で怒る気力を萎えさせて目尻を下げた。気持ち悪い笑い方だな、と廉の頭を小突いて肩を竦める。
 変な奴。叶が率直な感想を口に出し、けれどそれさえ嬉しいのか、廉は照れ臭そうにネクタイを両手で大事に抱き締めた。
「あ、やべ。学校」
「うあ!」
 そんな廉に叶も嬉しくなって、一緒になって相好を崩す。けれど遠く微か、彼らが通うのとはまた別の学校から鳴り響くチャイムの音色にハッと我に返り、叶が叫んだ。廉も遅れて反応し、どうしよう、と何が入っているのか大きい鞄を抱え直す。
「急ぐぞ、廉!」
「うん!」
 叶も鞄を担ぎ、ジャケットを翻して大慌てで道路を駆け出した。
 ふたつの影が縦に連なり、やがて横に並ぶ。
 空高く、チャイムは風に流され静かに消えていった。

2008/02/03 脱稿