流転

 地下での生活というものは、太陽の陽射しを望めないために体内時計が狂いやすい。
 故に対策として、アジト内の照明は午後五時を境にしてゆっくりと、本当に僅かな違いではあるけれど、昼の時間帯よりも明るさが絞られるようになっていた。
 健康への配慮もあって夜十時には非常灯の明り以外の照明も全部消される。子供は早く寝ろ、と言われているようで、この時代に来る前は当たり前のように午前近くまで起きていたものが、急に健康的な生活を強いられるようになってしまった。
 ただ昼の特訓の疲れはあるので、食事と風呂の後の身体は勝手に眠りを求めて重くなる。テレビもない、ゲームもない、読書をしようにも此処の資料室にある書籍といえば、綱吉の読めない文字で書かれた専門書が大半だった。
 いったい十年後の自分は何を考えていたのだろう。自分のことの筈なのに理解できなくて、綱吉は真っ暗闇の中で瞬きし、寝返りを打った。
 左を上にして横になっていた身体を、仰向けに。両手を体の脇に添えて僅かに広げ、掌を硬いベッドに押し当てる。
 此処での生活も、不本意ながら少しずつ身体に馴染んで、慣れてきていた。人間とは恐ろしいもので、今までとまったく異なる環境に唐突に追い込まれても、数日あれば体が先に適応してしまうのだ。ただ精神的にまだまだ未熟な彼らは、その事実を簡単に認められなかったし、認めたくもなかった。早く帰りたい、元の暖かな家に戻りたい。そればかり考えて、見えない太陽に胸を焦がしていた。
「母さん、心配してるかな」
 ぽつりと呟くと涙が溢れてきて、口煩くて邪魔だと思っていた母親の存在が、思いの外自分の中では大きなウェイトを占めていた事実に、綱吉は鼻を啜った。
 無事に帰れたら、まず元気な自分を見せて、抱き締めてもらおう。きっと沢山心配しているだろう彼女を自分も思い切り抱き締めて、肩を揉むくらいの親孝行はしたい。もうちょっと家のことも手伝おう、布団を干すのが最近一苦労だとぼやいていたから、次からは自分が、その役目を担おう。
 色々なことが頭を過ぎる。京子やハルまでこちらに来てしまっているから、彼女らの両親も突然姿を消した愛娘を心配しているはずだ。本当のことは説明できないかもしれないが、精一杯誠意を見せて謝って、巻き込んでしまったお詫びはしたい。本来彼女らは無関係だった。ふたりにも、全部終わったらちゃんと、改めて謝ろう。
 獄寺や山本にも、大変な思いをさせてしまった。明日の朝一番で怪我の具合を聞きに言って、彼らの笑顔を確かめたい。
 十年前の了平は、今この時代に居る京子を探しているだろうか。
 それから、あの人は。
 目を開けていても何も映し出さない闇に、微かに浮かび上がる記憶の中の姿。何故か思い出すのはいつも背中ばかりで、いかに自分が、常日頃から彼の後ろをついて回っていたかが、こんなところで分かってしまった。
 ゆっくりと息を吐き、力を抜いて目を閉じる。
 彼も、――あの人も、自分を探してくれているだろうか。
 それとも、もう呆れて見放してしまっている?
「ヒバリさん……」
 十年後の彼と再会出来た時は、嬉しかった。
 人目を憚らずに抱きつけたならどれほど良かったか。けれど綱吉はそのタイミングを逸してしまって、思いは未だ果たせないでいた。
 会話どころか、用事が無ければ会いにさえ来ない。行けばいいのだろうが、奇妙な緊張と気まずさが先に立って、ボンゴレと風紀財団のアジトを繋ぐドアを未だ潜り抜けられずにいる。
 目の前まではいけるのに、あと一歩が踏み出せない。怖いのだ、知るのが。
 この十年という自分が知らない時間の中で、この時代の『沢田綱吉』が『雲雀恭弥』とどういう関係にあったのか、綱吉は未だ何も知らない。
 フゥ太もビアンキも何も言わないし、自分から聞くのも照れ臭さが手伝って出来ない。気にしている素振りは見せて、さりげなく話題を振ってみたりもするのだが、未来の情報は与えるな、と釘を刺されている彼らは、気取っても何も教えてくれなかった。ただ曖昧に笑うだけで、良い方にも悪い方にも取れる表情に、綱吉の悶々は蓄積する一方だった。
「あー、もう!」
 フラれているならそれはそれで、そう言ってくれればいい。
 勢い余って極端なところに思考が行き着いて、綱吉は自分で導き出した結末にショックで落ち込んだ。
 それは嫌だ。その未来だけは受け入れ難い。
 再びごろんと寝返りを打ち、両手を互い違いにずらして横たえる。少しだけ遅れてついてきた髪の毛に額を撫でられ、息を吹きかけて再度浮かせた綱吉は、ぼんやり滲む闇の中で瞬きを繰り返した。
 だがリボーンに顔を見せても、自分にはちっとも会いに来ないこの時代の『雲雀』を思うと、その可能性も否定し切れなくて、余計に暗い方向へ気持ちは沈んでいった。
 会いたい。けれど会えない。
 会いにくい。
 この時代の――つまり、隣り合う敷地に居る『雲雀恭弥』にとっての『沢田綱吉』は、もう居ない存在。その居なくなってしまった人物が、いきなりぽんと十年前に戻って現れたわけだから、あちらとしても複雑な気持ちになる、のだろうか。
 分からない。元から雲雀が何を思っていたかよく分からなかったのに、こちらの『雲雀』が何を考えているのかなんて、尚更分かるわけがなかった。
「……」
 鬱屈した思いを抱え、綱吉は背中を丸めて小さくなった。
 ふたりの雲雀が頭の中に渦巻いている。中学生の雲雀、大人になった『雲雀』。どちらも同じ雲雀恭弥なのに、成長した彼の冷たい視線は綱吉を素通りして行ってしまって、心が凍えた。
 あの人は、此処にいる沢田綱吉を見ていないのだ。
「ああー、もう! いらつく!」
 ふっと脳裏を過ぎった感覚に背筋が震え、心臓が竦む。鬱々と悩むのは自分の性分ではないのに、何故こんなにも苦しい思いをさせられなければならないのか。
 腹立たしさが堰を蹴り破り、綱吉は大声で叫ぶと同時にがばりと起き上がった。
 被せていた布団を足元に跳ね除け、膝を寄せて身体を横に向け直す。パイプ製のベッドから脚を下ろした彼は、ひんやりと冷たい床に素足を載せて奥歯を噛んだ。
 手探りならぬ足探りで靴を見つけ、爪先を乱暴に押し込む。寝間着として使用しているシャツ一枚では肌寒いので上着も探し、踵を踏んで立ち上がった彼は、見つけたパーカーに袖を通して出入り口を示す弱い光を頼りに歩き出した。
 シャッ、と空気を切り裂く音を立てて目の前を塞いでいた壁の一部が横に逃げていく。
「うっ」
 闇に慣れた瞳では、たとえ儚い非常灯のランプでさえ昼の太陽に等しい。目に飛び込んできたオレンジ色の輝きに呻き、背後でドアが閉まる音を聞いて、綱吉は咄嗟に閉じた瞼を恐々持ち上げた。
 無意識に掲げていた両手が顔の前にあって、光を遮り己を庇っている。傍から見れば滑稽なポーズをしていて、綱吉は誰も居ないのにひとり照れながら頬を掻いて誤魔化し、脱げそうになっていた靴を慌てて履き直した。
 爪先を交互に床に突き立てて、視線を巡らせる。既に山本や獄寺は就寝中か、男性陣の生活区画には自分の呼吸音以外、物音ひとつ響かなかった。
 彼らはガンマ戦で負った傷がまだ癒えておらず、一昨日まではベッドに磔状態だった。今は自力歩行が可能なまでに回復を見せているが、まだまだ安静にしておくに越した事はない。綱吉の腕も、包帯こそ取れたが、完治したとは言い難かった。
 この時代の医療技術は、綱吉が居た頃よりも格段に進んでいる。医者がいなくとも、細胞の活性化である程度の怪我ならば、カプセルに入っているだけで治ってしまうのだから。
 ふたりがいる部屋を順番に見詰め、綱吉は肩を落とした。
 勢いに任せてベッドから出てきてしまったが、行く当てもないのだ。
「食堂にでも行ってみるかな」
 空腹ではないが、水くらいなら飲める。単純に気分を変えたかっただけなので、歩き回るだけでも充分だ。
 パーカーの上から自分の腹を撫で、視線を上げる。行き先が決まれば即実行あるのみで、綱吉は脳裏でアジト内部の地図を思い浮かべ、右に進路を取って足を前に繰り出した。
 此処に来たばかりの頃は、勝手が違う所為で歩き回るのも不便で、トイレに行くのさえ迷ってしまった。しかし今では、矢張りそうと知らぬうちに慣れて来たのだろう、もう道を間違えることもなくなった。
 食堂までの道順を静かに辿り、冷えた空気に背筋を伸ばす。息をするたびに体温が下がっていく気がして、時折立ち止まった綱吉は両腕をさすり、摩擦熱を呼び起こした。
 通路が薄暗い所為もあってか、気持ちも萎えていく。自分たちが此処に居たところで、いったい何が出来るだろうかと不安が膨らむばかりだ。
 ボンゴレは負けたのだ。まだ一族郎党が滅びたわけではないが、大局は既に決している。自分たちのような小さな存在が足掻いたところで、戦況を一変させるには到底及ばない。ボンゴレリングがあったところで、それがなんだ。ちっぽけな指輪ひとつのために、どうしてこんなにも大勢の人が振り回されなければならない。
 ミルフィオーレの目的が分からない。ボンゴレ憎しというだけの理由で、果たしてこんな騒乱を起こせるものなのだろうか。
「ぐちゃぐちゃだよ、もう」
 頭の中でこんがらがった糸に唸り、こめかみを叩いて綱吉が首を振った。
 考えるのは苦手だし、嫌いだ。けれど頭が考えろと言っている、身体は休めと命じてくる。
 重い足を引きずり、綱吉は壁に手を着いて角を曲がった。
「あれ……」
 夜のしじまの中に薄らぼんやり、光が溢れている区画がある。それは綱吉が先ほど目的地と定めた部屋に他ならず、思わぬ先客に彼は目を瞬き、正直な驚きを表に出した。
 誰か居るのか。ひょっとしたら獄寺か、誰かか。そんな淡い期待を胸に抱いて少し小走りに残りの距離を埋めた彼だったが、開けっ放しにしていたドアを覗き込んだ先、見つけたのはふっくら、を通り越してでっぷり、という表現が相応しい体格をした背の低い人物だった。
 丸い顔、少々額の後退した頭、胸と腹と腰の区別がないメタボリック一直線の体型と小さな手足。一度見たら永遠に忘れられそうにない特徴的過ぎる体つきをした男性が、綱吉に背を向ける形で椅子に座り、テーブルに突っ伏していた。
「ありゃ」
 間の抜けた声が出てしまって、綱吉はひっく、というしゃっくりひとつと共に振り返った相手に苦笑した。
「おやー、これはこれは。どうかなさいましたか?」
 ジャンニーニだ。彼の横には、半分程中身が減った大瓶と空っぽのグラスが置かれている。
 仄かに赤い顔をした彼が、椅子の上で苦しそうに身動ぎしながらガタゴトと椅子を鳴らした。
「いや、あ……ちょっと」
 予想外の人物に綱吉は困惑し、どうしたものかと苦笑して頭を掻く。彼の事は全く知らないわけではないが、殆ど知らないに等しい。十年前の世界で会ったのだって一度きりで、まさか将来の自分がこんなところで彼と関わってくるなど、当時は考えもしなかった。
 彼は人好きのする顔をしてグラスを揺らし、中身が入っていないのにやっと気付いて円らな瞳を大きく広げた。
「てっきり、もうお休みになられたとばかり」
 グラスを置いて入れ替わりに瓶を持ち上げ、蓋を回して外す。長い口を傾けてグラスに中身を注ぎいれた彼は、視線だけ手元に向けたまま綱吉に話しかけた。
 トトト、と液体が透明なグラスの中で小規模の濁流を作り出す。平らな底に当たった流れは壁面に添って駆け上がり、やがて勢いを失って中央へ戻る。徐々に波が弱くなっていく様を眺め、綱吉は手を後ろで結んだまま彼の傍まで歩み寄った。
 グラスに半分程注ぎ、ジャンニーニが瓶をテーブルに戻した。片手で器用に瓶の蓋をして、微かなアルコールの匂いを嬉しそうに嗅ぐ。
「お酒……」
「これがなければ、一日を終えた気がしませんで」
 ぼそりと呟いた綱吉に頷き、彼は満面の笑みで額をテカらせ、グラスの底を持って高く掲げた。
 ぐいっと口に縁を押し当てて傾ける。あっという間にかなりの量が彼の喉に吸い込まれていって、潔いまでの豪快な飲みっぷりに綱吉は唖然とした。
 当然彼と綱吉の間には十年のブランクがあり、今やあの小さかったジャンニーニも一人前の成人男性。アルコールを嗜むのだって別段おかしなことではないが、イメージが繋がらなくて綱吉は困惑した。
「どうです、十代目も」
「俺は未成年ですよ」
「おや、そうでしたね」
 すっかり忘れていたと上機嫌に笑われて、綱吉は慌てて拒否した自分がなんだか恥かしくなった。
 十年経てば綱吉だって二十四歳、ジャンニーニとも当たり前に肩を並べ、酒盃を傾けていてもなんら可笑しくない。家光は酒に強いから、遺伝していれば自分もそこそこ飲める体質だろう。
 まだ飲んだことが無いので実際どうなのかは分からないが、窺う目を向けると彼はにっこり微笑んだ。
「そういえば十代目に酒は飲ませるなと、言われておりました」
「え?」
「雲の守護者殿から」
「ヒバリさんに?」
 それこそ予想外の人物の名前が挙がって、綱吉は驚いて目を丸くした。だがジャンニーニは、おや? とそこで首を傾げて視線を浮かせ、濡れた口元にぷにぷにした指を押し当てると、眉間に皺を寄せて考えこんだ。
「嵐の守護者殿だったかもしれませんね。いやいや、霧の守護者殿でしたか」
「ジャンニーニ!」 
 記憶に自信がないらしい。結局守護者全員分を次々に口に出した彼に怒鳴って、綱吉は一気に疲れたと肩を落とし、頭を押さえた。
 最初に雲雀をあげられたから、ドキリとしてしまった。彼に――雲雀ではないのかもしれないが――そんな事を言わせるだなんて、自分はいったい、酒を飲んで何をやらかしたのだろう。気になったが、そこまではジャンニーニも関知していないようで、話題は此処で途切れた。
 ぐいっと残っていた分を一気に煽り、満足げに息を吐いた彼の丸々した腹を見下ろす。そんなに飲むから、こんなに太っているのかと言いたくなったが、そういえば彼は十年前からこの体型だったから、関係なさそうだ。
 酔っ払いの相手を真面目に務めるのも馬鹿らしく、首を巡らせた綱吉は視線を転じ、広いキッチンを隅々まで見回した。
 普段は京子とハル、あとはビアンキの独壇場となっている所為で狭く感じられたこの部屋だが、今はジャンニーニとふたりだけだからだろう、酷く物寂しかった。
 洗い残しの食器が積み上げられ、蛇口の雫が重みに負けてシンクに落ちる。心の水面に紋を刻んだ音に綱吉はハッとし、当初の目的を思い出して冷蔵庫に向かおうとした。
 その背中に、ジャンニーニは何を察したのか、再び声をかけてきた。
「眠れませんか」
 低い、穏やかな、けれど深い。
 酒を飲んでいた時の陽気さは影を潜めて、成熟したひとりの大人としての威厳が宿された声だった。
 見てくれはああだけれど、彼は綱吉より十年先を行っている。色々なものを、綱吉がまだ知らぬ物事を知り、経験し、此処にいるのだ。
 出しかけた足を止めた綱吉が、息を呑んでその姿勢のまま硬直する。
「……べつ、に」
「お気持ちは分かりますが、今は休息をしっかり取られることも、貴方の仕事です」
「決め付けるなよ!」
 見抜かれて、図星を刺されたのが悔しくて綱吉はつい声を荒げた。
 握った拳を真横に薙ぎ払って、勢い任せに怒鳴って振り返る。けれど、既に酔いの境地に入っているジャンニーニはまるでダメージを受けた様子無く、むしろ高らかに笑って丸々とした腹を揺らした。
 真剣に相手をする気力が一気に萎えて、そんな彼に腹を立てた自分にも同時に腹が立った。綱吉は煮え切らない感情を吐き出す場を求めて地団太を踏み、力いっぱいジャンニーニのふくよか過ぎる顔を睨み付けた。
 天井からの照明を薄ら浴び、脂ぎった額を輝かせた彼が、そんな綱吉に向かって大仰に肩を竦めた。
 解決の糸口が見えない焦燥感、大勢を巻き込んでしまった責任感、大空を頭上に望めない地下に引き篭もらなければならない圧迫感。様々な要因が、彼の精神をズタボロに引き裂いている。
 聞けば綱吉たちがこの時代にやって来たのは、指輪継承戦が終わった直後だ。ひとつの辛い戦いが終わり、人心地ついて、漸く穏やかな日常に戻れるとなんの疑いもせずに信じていた時期だったに違いない。
 それが一瞬で裏切られた上に、状況は更に困難な局面を迎えている。非常に重要かつ苦難の道を選択せざるを得ない環境に置かれた彼は、まだたった十四歳の子供なのだ。
「休養は、大事ですぞ」
「だから、俺はただ」
 節目の無い指を突きつけられた綱吉が、頑固に違うと首を振って言葉を捜し、視線を彷徨わせた。しかし妙案はついに思いつかなかったらしい、諦めた様子で肩を落とし、ジャンニーニを無視して髪を梳きあげると、今度こそ冷蔵庫に向かって手を伸ばした。
 重いドアを両手で開け、顔を撫でた冷気に眉を寄せる。顰め面を作った彼は、溢れ出した白い靄を掻き分けて、ドアポケットに並べられているボトルを物色すべく膝を軽く折った。
 牛乳、醤油、味醂、など等。調味料の類が多くて、肝心の水は冷えていない。
 水道の蛇口を捻るほうが早かったか。顔をあげて背後を仰いだ綱吉は、しかしふと、棚の奥で食材に隠されるように置かれていた小さな瓶に気付いて首を傾げた。
 試しに手に取ってみると、ラベルの無いボトルの中身は琥珀色の液体だった。
 横に揺らすと、ちゃぷちゃぷと狭い空間で波立つ音がする。蜂蜜を思わせる鮮やかな飴色で、光に翳すと色合いはより強調されて非常に甘そうな印象を与えてくれた。
「なんだろ」
 裏返してみるが、ボトル表面に中身を説明するものは一切無い。ジャンニーニは自分のグラスに新しく酒を注ぐのに夢中で、綱吉が手にしたものにはまるで気付かなかった。
 冷蔵庫に保存されていて、しかも見つかり難いように隠してあった。瓶の蓋は何度も開閉した形跡が窺えて、だから綱吉はこれが、子供たちがこっそり作った甘い飲み物かなにかだと決め付けた。なによりも色合いが魅力的で、絶対にこの液体は甘いという先入観が働き、他の可能性を全く考慮しない。
 喉を鳴らした彼は、わくわくする気持ちを抑え切れない表情で左手に瓶を持ち、右手で蓋を捻った。しゅぽん、という気持ちの良い音が比較的大きく響いて、グラスを置いたジャンニーニがハッとした時にはもう、彼の桜色をした唇から琥珀の雫が零れ落ちるところだった。
「十代目殿、それは!」
「ふへぇ?」
 大声で叫んだジャンニーニが両手を勢い良くテーブルにつき立て、身を起こす。騒々しいその物音に、綱吉はごくん、と咥内に含ませた液体を飲み込むと、途端に喉を焼く熱にカーッとする頭を揺らし、紅色に染まった頬をふわりと膨らませ、とろんとした瞳を丸めて慌てている彼を振り返った。
 行動ひとつひとつが、大きく、遅い。締まりなく緩んだ唇は笑みを形作っているが、それも普段の彼とは少しばかり色が違っている。
「にゃーにぃー?」
 呂律の回らぬ舌が、一オクターブほど高い声を放った。
「それは、それはウィスキーですぞ!」
「ほへえ?」
 冷や汗を滲ませるジャンニーニが指差した小瓶の中で、琥珀色の液体が光を浴びて弱い波を立てる。
 四角形を基本にした、表面にギザギザ模様が彫られた瓶。知る者が見ればその形状だけで中身が類推出来ただろうが、綱吉はアルコールに関しては全くの無知。分かるわけがない。
 とっておきだったのに、と両手で頭を抱え込んだジャンニーニに綱吉はきょとんとした目を向け、やがて何が可笑しいのか、急に腹を抱えてげらげらと笑い始めた。
「こえ、おいしーよー」
「いけません、十代目。返して!」
 飲み込んだ瞬間は喉が熱いけれど、ひとたび胃袋まで落ちてしまえば後は甘い匂いが身体中に広がって、摩訶不思議な高揚感に包まれる。足が大地から離れてふわふわ飛んでいる気持ちになれて、綱吉は面白いともうひとくち飲もうとした。が、それは転げ落ちるように椅子から降り立ったジャンニーニによって防がれた。
 ボトルを横から引ったくり、奪い取って、そのぽっちゃりした体型からは凡そ想像がつかない俊敏さを発揮する。両手が空っぽになってしまった綱吉は、見るからに不満だと分かる顔をして頬を膨らませ、怒りに更に頬を紅潮させた。
「なーんーでー!」
「ですから、十代目。これは」
「もう知らない!」
 ダンダンと乱暴に床を蹴って騒音を撒き散らし、一瞬で酔いが醒めてしまったジャンニーニの説明も聞こうとしない。それどころか前後の脈絡一切無視でいきなり怒鳴ると、ぷいっと顔を逸らし、千鳥足で歩き出した。
 右にふらふら、左にふらふら。冷蔵庫のドアも開けっ放しで、途中でテーブルの角に身体を打ち付けて転んだ。しかも両腕を伸ばして庇う真似もせずに顔面から床に突っ込んで、素晴らしく痛そうな音を立てた。
 両手を前に投げ出して、倒れた姿勢のまま暫く沈黙。ジャンニーニが固唾を飲んで見守る中、彼はまたしても唐突に起き上がり、
「ふえっ……」
 大粒の瞳で顔をぐしゃぐしゃにして、
「びえぇぇええぇーーー!」
 鼻水を垂らして、泣き出した。
 自分の年齢を忘れて、赤ん坊みたいに大声を張り上げる。あふれ出した涙を拭いもせず、ぶつけた額を真っ赤に腫らし、えぐえぐと何度もしゃくりをあげて、綱吉は奈々を呼んだ。
 アルコールの作用か、精神が一時的に幼児退行を起こしていた。何処にもいないのに、助けを求めて最も自分に近しい肉親に懸命に呼びかけては、返事が無い事を哀しんでまた泣きじゃくる。
 それまでの不安や、苛立ちや、押し殺し続けてきた色々なものが全部まとめて押し寄せて、濁流となって綱吉を飲み込んだ。最早自分でこの涙は止めることも叶わず、そのうちにパーカーの襟元や袖も涙を吸い、湿って色が変わり始めた。
 ジャンニーニはウィスキーの小瓶を抱えたままおろおろするばかりで、こういう場合どうすれば良いのか全く分からないとひたすらに冷や汗を流し続けた。まさかこんなことになるとは夢にも思わず、守護者が何故綱吉に酒を飲ませないよう通達を出したのかを、此処に来て漸く理解した。
 泣き上戸、始末が悪い。
「じゅじゅじゅ、十代目、どうぞお、お、おお、おち、落ち着いて」
 お前の方が落ち着けと言われそうな狼狽具合で、ジャンニーニがなんとか彼を宥めようと呼びかける。しかし綱吉は期待した母親の優しい声ではなかったのが余計ショックだったのか、益々声を大にして壊れそうなくらいに涙を溢れさせた。
 食堂から外にも当然彼の鳴き声は響き渡るが、居住区が離れていたこともあってか、誰も気付かない。既に就寝時間に突入しているので、獄寺やビアンキたちも、当然布団に包まって夢の中だ。
 ジャンニーニは汗の所為で輝きを強めた額を頻りに拭い、それでも追いつかない汗を首筋から垂らした。
 こんなことになるなら、日本酒のあとはウィスキー、なんて気持ちを起こすのではなかった。後悔してもすべて後の祭りで、床に蹲って涙の海を作り始めている綱吉の対処に困り果て、中身の減った瓶を胸元で揺らした。
 そこへ、
「なにしてるの」
 まさに奇跡としか言いようの無い第三者の声が。
 低い、伸びのあるテノールにジャンニーニは息を呑み、期待に満ちた瞳を持ち上げて食堂入り口を仰ぎ見た。
 黒のスーツに、ダークグレーのシャツ。ネクタイを絞めて身なりも綺麗に整えた黒髪の男が、左手をドアの縁に添えて室内を覗き込んでいた。
 短い前髪から覗く瞳は切れ長で鋭く、流れるような身のこなしはまるで隙が無い。やや不機嫌そうに唇は歪んでいたが、端整な顔立ちを崩す要因とはならなかった。むしろスッと伸びる鼻筋の造形美を強調する役割を果たしているくらいで、もしこの場に妙齢の女性が居たとしたら、彼の姿を見た途端に黄色い声をあげただろう。
 だが残念ながらそのような女性はひとりとして居合わせず、代わりに食堂にいたのは小太りのジャンニーニと、目下大泣き中の綱吉のみ。
「雲雀殿」
「……それは?」
 ただジャンニーニに関しては、まさしく今この場に居合わせた雲雀が救いの神にも見えたことだろう。きらきらとおでこのみならず目も輝かせ、胸の前で結んだ手で彼を仰ぐ。
 もっとも雲雀本人は、氷のように冷たい表情を変えず、淡々とした面持ちでまだ泣き続けている綱吉を指差した。
 端的に何があったのかを問うた彼だが、時間帯とこの場にいるのがジャンニーニである事、更にテーブルにある大瓶とグラスという状況から、大まかな展開は既に予想済み。廊下に響く声にあからさまに顔を顰めた雲雀は、自分の手には余ると降参のポーズを取ったボンゴレ随一のメカニックマンに溜息を零し、壁に添えていた腕を下ろした。
 軽く肘を曲げて腰に宛て、綱吉の前に歩み出る。彼は依然として琥珀色の瞳を真っ赤に染め上げ、えぐえぐと鼻を啜っては唇を戦慄かせていた。
「沢田綱吉」
「マ~マ~!」
 新しく聞こえた声、それから目の前に現れた顔。そのどちらもが、今度もまた彼の求める母親と違っていた。
 いつもは「母さん」と呼ぶ奈々を、幼少期の呼び方で探し求めて、大粒の涙で頬を濡らす。
 雲雀は片膝を立てて腰を落とし、黙って右手を伸ばして綱吉のその頬を撫でた。
 無数に走る涙の川を堰き止め、上に向かってなぞる。目尻に溜まっていた雫を爪で弾き、反対側も同じにして、微かに湿り気を帯びた指先で前髪を梳きあげた。
 綱吉は触れられた瞬間だけビクリと肩を強張らせて震えたが、雲雀の手つきが思った以上に優しかったことで直ぐに警戒を解き、まだ涙は完全に止まらないものの、張り上げていた大声を徐々に弱めていった。
 急速に静かになっていく彼を遠巻きに見ていたジャンニーニは、露骨にホッとして、抱えていたウィスキーのボトルをテーブルに戻した。波立つ琥珀色の液体を横目で睨んだ雲雀は、綱吉が飲んだものはそれだと類推し、額を撫でる手を握り締めてきた綱吉に視線を戻した。
 力加減を忘れて思い切り掴まれているので、彼の手首は指の型に従って肌が少し赤くなってきていた。骨にまで響く圧力は、我慢できないほどではないが、このままでは血流が悪くなって細胞が壊死してしまう。
「沢田」
「やだ、やだ……」
 幾分落ち着きつつあるが、未だに涙は止まらない。いったい何が嫌なのか、本人も良く分かっていない顔で首を振り回し、綱吉はぎゅっと雲雀の手に縋って顔を俯かせた。
 実年齢よりずっと幼く、頼りない顔立ちと身体つき。こんな貧弱な体型だっただろうかと、記憶に残る姿と重ね合わせて雲雀はもう一度涙を指の背で拭ってやり、頭を撫でた。胸元に引き寄せると、綱吉は大人しくそこに収まって、今度はジャケットにしがみついてきた。
「飲ませないよう、通達は出していたと思うけど」
「いや、あ……、すみませんでした」
 鼻水が付着しそうで本当は引き剥がしてやりたいが、理性で我慢して雲雀は綱吉の身体を抱き上げると、両腕で支えて立ち上がった。途中ジャンニーニと目が合ったので冷たく告げると、彼は言い訳しようとしたのを止め、素直に頭を垂れた。
 とはいえ、その通達はこの時代の『沢田綱吉』に対して出されたものなので、此処にいる沢田綱吉に対しても適用させるべきかどうかはまた別の問題だ。そもそもこの沢田綱吉はまだ十四歳の為、飲酒自体が法律違反。
 風紀を乱すのは、誰であろうと許さない。険も鋭い雲雀の視線に萎縮して、ジャンニーニはすっかり小さくなり、雲雀たちが出て行くまでずっと顔を下向かせたままだった。
「まったく」
 とんだ騒ぎに出くわしたものだ。
 雲雀は綱吉の小さな身体を抱え、薄暗い廊下に足音響かせ盛大にため息を零した。
 リボーンに用事があって出向き、うっかり話し込んで気がつけばかなり遅い時間。赤ん坊を夜更かしさせるのも悪いと途中で切り上げ、部屋を出たらどこかから聞こえる不気味な音。
 細い通路を反響して届く声には聞き覚えがあって、様子を見に足を向けたら案の定だ。
「君は、十年経っても経っていなくても、トラブルばかり持ってくる」
 付き合わされる側の身にもなれ、と聞いていないだろう愚痴を零し、雲雀はずり落ちかけた綱吉の身体を抱え直した。
「やーだー、帰るー。かえるー」
「じっとして」
 しかし最中に顔をあげた綱吉は、両足を雲雀の背中側に真っ直ぐ伸ばして腕を突っぱね、斜めに背中を傾けて暴れ出した。
 尻と背中を支えている雲雀の腕を抜け出そうと、癇癪を起こしてじたばた動き回って、雲雀の言葉にも耳を貸さない。先ほどまであれほど呼びかけていた奈々の記憶は弾けとんだのか、今度は帰る、の一点張りだった。
 いったい何処へ帰るつもりなのか。雲雀は眉目を顰め、綱吉の背中を抱く左腕に力を込めた。
「いやあ!」
「じっとして!」
 このままでは落ちてしまう。酔っ払った状態では受身もまともに取れないだろうに、彼は必死に雲雀から逃げようとした。
 それを強引に封じ、胸の中に綱吉を閉じ込める。叫んだ雲雀の声にビクッと震えた綱吉は、恐怖に駆られた目を見開き、新たな涙を浮かべて唇を噛み締めた。
 その瞳に映る存在が誰であるのか、正確に理解出来ているとも思えない。雲雀は小刻みに震える綱吉を複雑な目で見下ろし、慰めに背中をそっと撫でた。
 ゆっくり、出来るだけ優しく。
 ほんの少し力を込めて押すと、促されるままに綱吉の身体は前に傾いて雲雀の肩に寄りかかった。伸ばしていた肘も力を弱め、雲雀の襟に指を絡めてから上に伸ばし、首に回す。
 こうやって抱えられるのに、慣れているのだ。自然と雲雀が運び易い体勢を作っていく綱吉に、教え込んだ存在を思い浮かべて彼は自嘲気味に笑った。
 無言でぎゅっと腕に力を入れ直される。加減はやはり、して貰えなかった。
「苦しいよ」
「やーだー」
 喉が圧迫されて呼吸がし辛い。訴えかけて上下にゆすってやると、綱吉は途端に駄々を捏ねて、曲げていた足を真っ直ぐ伸ばし、ブラブラと雲雀の背中で揺らし始めた。
 こうも波を作られると抱えているだけでも一苦労で、雲雀が疲れた吐息を零すと、これは分かったのか綱吉は楽しげに目を細めて笑い、舌を出した。
 言葉遣いも、仕草も、なにもかもが幼い。無理をしない歳相応の彼が、今の姿なのだろう。記憶に残る面影は、もうちょっとしっかりしていた気がしたが、ならばあれは虚勢を張っていたのだろうか。
「にゃー」
 猫の真似をしてごろごろ喉を鳴らし、頬を摺り寄せて甘えてくる。首を抱く力は相変わらずで、このままでは動けないと雲雀は廊下の真ん中に突っ立ったまま、どうしたものかともうひとつ嘆息した。
 連れて帰るわけにもいくまい。朝になって彼の不在が周囲に知れれば、今は十四歳のあの取り巻きたちが五月蝿い。
 彼らの、綱吉への過保護具合もそういえば昔からだった。
 色々と変わっているようで、案外なにも変わっていない。変わったとしたら、自分の方か。
「ほら、部屋に戻るよ」
「やーだー」
 兎も角此処でじっとしていても仕方が無い。酔っ払いは早々にベッドに押し込むに限る。
 今度はケラケラと笑い出した綱吉は、さっきからその単語ばかりを繰り返して雲雀の肩に頬を押し当てた。柔らかな髪の毛で雲雀の頸を擽り、童心に返って抱っこを純粋に楽しんでいる。
 きっと幼少期にも、父親にこんな風に抱いて運ばれたのだろう。
 それとも、別の誰かにか。
「ヒバリさん」
 不意に。
 出した右足が凍り付いて、雲雀は右耳から流れ込んだ声に瞠目した。
 息を潜め真横を窺う。首は正面を向けたまま、瞳だけをスライドさせた雲雀は、むにゃむにゃと目を閉じて寝言を言っているだけだった綱吉にホッと胸を撫で下ろし、同時に沸き起こった暗い感情に首を振った。
 あどけない表情をしている子供は、夢を見ているのか、幸せそうに目尻を下げて微笑んでいた。
「相変わらず」
 真剣に相手をすると疲れる子だと嘯き、雲雀は僅かに重くなった綱吉の体を軽く揺らした。
「ん……」
 振動を受け、まだ寝入り端で、意識は現の境界線近くを漂っていた綱吉の眉が寄る。落ちようとしていたところを無理矢理上昇に転じさせられたようなもので、次第に顔のパーツを中央に集め始めた彼は、むずがって首を左右に振り、小ぶりの鼻を雲雀の肩で潰した。
 熱っぽい息を吐き、折角会えた人が霧散してしまった現実に嗚咽を零す。
「や、だあ……」
「うん?」
「やだ、いっちゃやだ。やだ、ヒバリさん、やだ、行かないで。やだ、いやあ!」
 堰を切った感情は止め処なく溢れ出て、冷たい涙が頬を舐めて雲雀のスーツを濡らした。こみ上げる慟哭は心臓を戦慄かせ、動悸は止まず、綱吉は虚空に向かって懸命に手を伸ばした。
 誰も居ない場所に救いを求めて、其処にいない人に縋る。助けてと呼ぶ声は儚く消え、夢に見た幻は遠い彼方へと。
 嫌だと現実を否定しても、彼が求める世界は何処にもありはしなくて。
「やだ、帰る。帰りたい、帰りたい!」 
 どれだけ泣いて、どれだけ喚いても。
「ヒバリさん、ヒバリさん、何処。どこ……っ」
 彼の探す人は、此処にはいない。
 ぐずついて、鼻を啜って綱吉が顔を伏す。日頃、仲間の為に務めて笑顔で過ごしている彼も、所詮はまだ子供でしかなくて。
 その子供に、この時代の未来と、そして彼ら自身の未来を委ねなければならない矛盾が、甚だ滑稽で嘆かわしい。
「泣くな」
 むずがる子供の頭を抱いて、雲雀が呻いた。
 居なくなった『沢田綱吉』も充分小さかった。けれど今此処にある肩はもっと小さく、今にも重圧で粉々に押し潰されてしまいそうな程に細く、か弱い。
 託さなければならない自分の不甲斐なさと、愚かさを呪う。
「ふぇっ……」
 天井を向いた綱吉が一際大きく鼻を啜り、新鮮な酸素を求めて喘いだ。
「泣くな。泣くな!」
「やだ。ヒバリさん、ヒバリさんに会いたい。帰りたい、帰りたいっ」
 此処はいや、この世界はいや。
 駄々を捏ねて首を振り乱し、綱吉はぐずぐずと鼻を鳴らして叫び続ける。苛立ちを募らせた雲雀の声は最早逆効果としかならず、胸を締め付ける子供の涙に彼は膝を折り、綱吉を抱えたまま床に身を沈めた。
 綱吉の背中を折れそうなまでに締め付けて、その右上腕に額を押し当てて声を殺す。
「………………」
 吸った息を吐いて瞬きし、急激に変化した視界の高さに驚いた綱吉は、やがてまだふわふわする頭をぐるりと回し、自分を抱き締める存在に気付いて首を傾げた。
 微かに震えているその人を不思議そうに見詰め、彼は数秒前の自分を忘れて琥珀の瞳を細めた。
 瞬きを連続させ、睫に残っていた涙を飛ばす。どうして自分は此処に居るのだろうと考えるが、記憶はなにひとつ繋がらず、自分を取り巻く景色にも覚えが無くて、彼はクエスチョンマークを頭上に乱立させた。
 とても哀しい気持ちは少しだけ胸の中に残っているが、その正体も分からない。なんだったろう、分からなくて彼は頻りに首を捻り、自分を閉じこめて俯いている人を窺い見た。
「ないてるですかー?」
 呂律が回りきらぬ舌では発音が巧くいかなかったが、辛うじて通じる音にはなった。呼びかけに相手はハッとして肩を強張らせ、それからゆっくりと首を立てて顔を上げる。漸く見えたその顔には、予想通り涙の筋が細く走っていた。
 綱吉は身動ぎして彼の腕を解き、左手を持ち上げてその片方を辿った。痛くないように爪は立てず、目尻まで進んだところで手を広げ、艶やかな黒髪ごと彼の頭を撫でた。
 よしよし、と小さな子供をあやす時の仕草で、にっこりと微笑みかける。
「おとなは、ないちゃだめなんですよー」
 無邪気な笑顔を全開にして、少し偉ぶった口調で言い放った彼の変わりように、雲雀は呆然として返す言葉を持たず、大人しく綱吉の濡れた手で頭を撫でられ続けた。
 雲雀の左足を跨ぐ格好でしゃがんだ彼は、次いで声も出ない雲雀の前で人差し指を立て、唇を窄めて尖らせた。左右に横に振り、大人なんだからしっかりしないと駄目、と小うるさい説教まで開始して、益々雲雀を困惑させた。
 アルコールの所為で記憶が混濁しているのだろう。まだ酔いが醒めないのかと雲雀は心の中で嘆息し、どれだけの量を飲んだのか聞いておけば良かったと少し後悔した。
「おとなのおとこは、むねをはってなきゃだめなんだってー。おとなのひとがないていいのは、すきなひとのまえだけなんだよ?」
「誰に教わったの?」
「おとうさん!」
 妙な理屈を捏ねて、真剣な顔で言い聞かせる綱吉に問えば、彼は満面の笑みで元気いっぱいに答えをくれた。
 今の彼の精神は、幼稚園児辺りの年齢まで下がっている。穢れを知らず、世の中の理もなんら関係なく、ただ純粋に親の言葉を鵜呑みにして信じて、それを誰かに教えたくて仕方が無い顔をしている。
 終始にこにこしている彼は、雲雀が知るどの顔よりも輝いていた。
「君は、そんな風に笑える子だったんだね」
「さわだつなよしです!」
 ぽつりと零した雲雀の言葉のどれに反応してか、彼はスクッと背筋を伸ばして自分の名前を大声でなぞった。右手を真っ直ぐに伸ばしてポーズも決めて、雲雀が淡く微笑み返すと嬉しげに目を細める。
 ぺたんと尻を床に落として座り込んだ彼は、やがてじっと雲雀の顔を下から覗きこんで見詰め、うーん、と唸って眉間に皺を寄せた。
 綱吉の下から足を取り戻し、同じく腰を落とした雲雀がなんだろうか、と顔に残っていた涙を手の甲で拭って視線を向ける。行く先の綱吉は右手を掲げてそれを遮り、再び雲雀の髪に触れた。
 かき回すのかと思いきや、優しく、撫でた。
「いたいの、いたいの、とんでけー」
「……」
 今の彼の精神状態が幼児なのを思い出し、どっと疲れが押し寄せて雲雀は脱力した。
 難しいことは何も考えない、ただ思ったままに行動するだけ。単純明快で、分かり易いが、掴みづらい。笑顔を絶やさない彼を見詰め、雲雀は最後に見た『沢田綱吉』の笑顔がいつだっただろうかとぼんやり考えた。
「大人は、どうしても泣いちゃ駄目?」
「だめです」
「好きな人の前でも?」
「それはいいでしゅ」
 幼稚な口調でえっへん、と胸を張った綱吉が褒めて欲しそうに頭を雲雀に差し出した。だから雲雀は握っていた拳を解き、綱吉の跳ね返った癖だらけの髪の毛を優しく梳いて撫でてやった。
「じゃあ、僕はもう泣けない」
「どしてー?」
「いなくなってしまったから」
 今のこの綱吉は雲雀を知らない。『雲雀恭弥』を知らない。
 ぽつり言った雲雀の表情をじっと見詰め、綱吉は大きな目を二度瞬きさせた。
 桜色の唇は息を吸った後に静かに閉ざされて、一所懸命雲雀が今しがた口にした言葉の意味を考えている様子が窺えた。
 そして、
「いなくなっちゃったの?」
 僅かに身を乗り出し、哀しげな顔をして問いかける。
「そう」
「どしてー?」
「分からない」
 子供の無邪気さは、時に大人の心を残酷なまでに抉り出す。淡々と受け答えする雲雀もまた、流れ落ちそうになる涙を堪えて浅く唇を噛んだ。
 その辛そうな表情から読み取るものはあったのか、綱吉は再び黙り込んで顎に手をやり、視線を伏して震え続ける雲雀の掌に見入った。
「かえってくる?」
「帰ってこないよ」
 首を右に倒した彼の質問の答えを即座に返し、雲雀はゆるりと持ち上げた手を目尻に押し当てた。
 格好悪いと分かっていても、勝手に出てくるものは止められない。きっと自分も酔っているのだ、アルコールなんて久しく口にしていないけれど。
「こないの?」
「来ないんだ」
 興味津々に聞いていた子供の瞳が、にわかに翳りを帯びて哀しげに歪んでいく。横に広がって伸びた唇が、えぐ、と喘いで息を吐き、顔のサイズに比例して大きな瞳が見る間に涙で潤んだ。
 どこからこんなにも大量の水分が溢れて来るのだろう。枯れる事を知らない涙は、彼の中に蓄積されていた悲しみの現れだった。
「さみしい?」
「ああ」
 聞き取りづらい声でなおも問いかける彼に頷き返し、雲雀は止め処ない涙の川に親指を遡らせた。
 触れれば暖かく、血が通った肌を指先に感じる。目の前の存在が生きている、他ならぬ証拠だった。
 けれどもう、求める人はこのぬくもりを持ち得ない。残されたのは記憶と、命の欠片を宿さぬ空虚な肉塊のみ。
「ふえっ」
 果たして今の心理状態の綱吉が、死の概念を理解できているかどうかは甚だ疑問だった。しかし、雲雀の回答が意図する二度と会えないという点に関しては、十二分に伝わったらしい。
 彼は肩を大きく揺らしてしゃくりを上げ、鼻水をずくずく垂らして頻りに目尻を手の甲で擦る。擦りすぎて赤くなった肌から手首を取って引き剥がすと、更に潰れた声で泣き出されて、雲雀は軽く途方に暮れた。
 泣くべきは雲雀であって、綱吉ではないのに。
「どうして君が泣くの」
 指の背で彼の頬を撫で続け、雲雀が静かな声で問う。哀しいはずの心はいつしか穏やかに凪ぎ、不思議なことに、涼やかな風が彼の心の中を優しく過ぎて行った。
 俯いて泣きじゃくる子供は、相変わらず言葉にならない声で涙を零し続けていたが、雲雀の指が鼻の頭を擽って止まったところでひとつ大きく息を吸い、分からない、と首を振った。
「わか、……なっ……けど」
 しゃっくりで言葉が途切れる。ゆっくり顔を上げた綱吉は、琥珀色の瞳をいっぱいにまで広げ、浮かべた涙を儚げに零した。
 両手を掲げて雲雀の右手を取り、顔から剥がす。跳ね除けられるのかと思えばそうではなく、肘を引こうとした雲雀の動きは綱吉によって制止された。
 空を掻いた彼の指が丸く握られようとするのも拒否し、無理矢理掌を広げさせて、綱吉は彼の手を己の左胸――心臓の位置に押し当てた。
「っ」
 服の上からでも感じる、確かな鼓動。
 反射的に逃れようとした雲雀だったが、思いの外綱吉の拘束は強く、叶わなかった。
「なに――」
「ここがね、いたいの」
 たどたどしい言葉で、懸命に伝えようとする綱吉がかぶりを振った。蜂蜜色をした髪が風を含んで膨らみ、揺れる。微かに感じ取った甘い匂いは錯覚か。
「ここがね、ぎゅっとするの。かなしいの、さみしいの。いやなの」
 巧く説明できないのがもどかしいと腰を浮かせ、雲雀へ膝を詰めた綱吉が懸命に訴えかける。
 どうしてだか分からないのに、心が苦しい。切なさが胸を締め付けて、何かが自分にも足りなくて、それを埋められないことに寂しさと哀しさを覚えている。思い出せないのに、何かが其処に確かにあったと魂が覚えている。
 今はすっぽり抜け落ちてしまって、その空虚さだけが此処にある。
「……あいたい、よ……」
 無意識に呟かれた言葉に雲雀は息を呑み、綱吉の手に包まれる指先を痙攣させた。
 ヒクリと喉が震え、声もなく目の前の小さな存在を見詰め続ける。見開かれた黒水晶の瞳に走った影に気付く事無く、綱吉は沸き上がる言葉を次々に連ねて行った。
「あいたい……会いたいよ。ヒバリさんに、会いたい……」
 ぎゅっと握る手に力を込め、しがみつく。溢れ出す透明な涙は雲雀の袖にも落ちて、黒い布地に染み込んで消えた。
 彼が探す人は此処には居ない。それを改めて知る。雲雀が探す人がもう、何処を探してもいないように。
 時は止まったまま、濁り、沈んでいく。心もまた、寂しさに喘いで。
「――会えるよ」
 顔を上げた雲雀の唇は、気がつけばそう、本人が意識せぬうちに音を刻んでいた。
 触れた綱吉の心臓が鳴動する。指先で受け止めた彼は、暗い水底から湧き出た水泡が明るい水面に向かって静かに泳ぐ様を見た。
「会えるよ」
「……無理だよ!」
「会える。信じて」
 声を荒げて叫んだ綱吉が、今度こそ雲雀の手を振り払って肩を怒らせた。身を乗り出して強く首を横へ振った彼の瞳には絶望にも似た彩が濁り、零れる涙がなんとかしてその色を洗い流そうとしていた。
 雲雀は目尻に浮かぶその澱を払い退け、自由を取り戻した腕で震える綱吉の華奢な体躯を抱き締めた。
 胸の中に封じ込めて、その小ささを実感する。
「会いたい、よっ」
「会えるよ」
 細かく震え、泣き続ける身体を撫でて、一心にひとりを捜し求め続ける心を思う。
 彼はまだ、なくしていない。
 道は残されている。『雲雀』にとって潰えた希望であったとしても、綱吉はまだ、そうじゃない。
「会わせてあげる」
 光を、閉ざすな。
「君の雲雀恭弥に、必ず、君を還してあげる」
 戦いが終わって、時が来れば。きっと。
 会いたいと泣き続けるこの子供を元の時間に戻す術は、見付かる。
 見つけてみせる。
 だから、今はどうか泣かないで。
 腕の中の綱吉は大きくしゃくりをあげ、琥珀の瞳を見開き、遠く微かに輝く薄緑の非常灯の明りに気付いて目を瞬いた。
 ゆっくりと横を向いて、此処に居る雲雀の微笑みに再度瞼を開閉させた。
「……俺も」
「沢田?」
「俺も、会わせてあげます」
 貴方が探す『俺』に。
「絶対」
 その一瞬だけ、彼の瞳に他ならぬ意思が宿っていたように見えたのも、錯覚だろうか。
 雲雀が判断を迷ううちに彼は瞼を閉ざし、ふっと息を吐くと同時に全身の力を抜いて雲雀へと崩れかかった。
「…………」
 どうしたのかと思えば、単純に眠ってしまっただけの様子。すぅすぅと穏やかな寝息が聞こえて、散々人を振り回した末の呆気ない幕切れに、彼は言葉を失い、こみあげた笑いを堪えて肩を震わせた。
 くしゃりと前髪を掻き回し、額に手をやった雲雀が顔を顰めながら目尻を下げた。
「本当、どこまでトラブル体質なんだ、君は」
 大きくても、小さくても、なにかしら騒動を引き起こす。本人にそのつもりはなくても、彼を中心に実に様々な出来事が舞い込んできて、一日として静かな日はなかったほど。
 その日々を懐かしく思い返し、雲雀は涎を垂らしだらしなく口をあけて眠っている綱吉の身体を抱えあげた。
「……期待しないで、待ってるよ」
 囁き、背中を撫でてやる。
 雲雀の肩に顔を埋めた綱吉は、幸せそうに微笑んだ。

「う~~~~」
 翌朝。
 食堂のテーブルに突っ伏し、箸を左右の手で一本ずつ握った綱吉は、目覚めてからずっと続く頭痛に悩まされて青白い顔で呻いていた。
「十代目、どうしたんですか?」
「頭、いった……」
 朝食のために食堂のドアを潜り抜けて現れた獄寺が、そんな綱吉に目を向けて早速首を傾げ、何事かと質問を繰り出す。搾り出すように吐かれた返事は、どうやらちゃんと聞こえなかったようで、彼はきょとんとしたままキッチン側で忙しく動き回っている女子ふたりに救いの目を向けた。
 振り向いたハルが、サラダボウルを片手に苦笑する。その足元を駆け抜けたイーピンは、綱吉の為に用意した氷水の入った袋を差し出し、急ぎ足で京子の手伝いに戻っていった。
 イーピンから渡された袋を額に押し当て、綱吉がひんやりした感触に漸く人心地ついたと息を吐く。
「大丈夫ですか?」
「あんまり、大丈夫じゃ、ない……」
 正面から獄寺に覗きこまれ、心配そうに声をかけられるが、返事をするのでさえ苦痛だった。
 頭に逆さまにしたバケツを被せられ、横からガンガンと叩かれているようなもので、胃の中は荒れて不快だし、固形物どころか水滴ひとつを口に入れるだけでも即座に吐き気が沸き起こる。
 なにがどうして、こうなったのかさっぱり分からない。確か自分は昨晩、眠れなくて部屋を抜け出し、この食堂に来たはずなのに、気がつけば自室に戻って枕を抱き込んでベッドで横になっていた。
 自分の足で戻ったのか、それとも誰かに運んでもらったのか。それさえ、彼の記憶から悉く欠落していた。
 ジャンニーニに会って話をして、冷蔵庫を開けたところまではなんとか覚えている。確か水を飲もうとして、ジュースを見つけたまでは間違いないのだが。
 そのジャンニーニは、一足先に朝食を摂っていたのだが、綱吉がふらふらする頭を抱えて姿を現した途端、食べかけのパンを咥えたまま、急ぎの用事があったのを思い出したと慌しく出て行ってしまっていた。色々と聞きたいことがあったのに、質問をする暇さえなかった。
「くうー」
 あまりの苦痛に悶え、綱吉は昨晩の出来事を思い出すのを諦めた。左頬をテーブルに落とし、首を傾けて何も無い壁に見入る。獄寺は京子から自分の食事を受け取り、匂いに顔を顰めた綱吉に遠慮して隣のテーブルへ移動して行った。
 身体はあちこち痛み、頭痛は絶好調。吐き気は止まらないし、此処でこうしているのもかなり辛い。
 ただ、不思議なのは。
「夢、だったのかなあ」
 意識だけはふわふわして、とても幸せな気持ちだけが残っている。体調は最悪なのに、心は奇妙なくらいに穏やかだった。

『会えるよ』

「――っ!」
 唐突にテノールが耳元に響いて、綱吉はボッと顔から火を噴いて立ち上がった。
 急激に揺れた脳髄が反乱を起こし、くらりと来た彼はそのまま自身を支える力を失って背中から床へ倒れこむ。
 ハルと京子から悲鳴があがり、サラダを頬張っていた獄寺は驚きのあまり口の中のものを盛大に噴き出した。
「十代目!」
「ツナさん?」
「ツナ君!」
 三者三様に彼を呼び、一斉に駆け寄って仰向けに目を回している綱吉を覗き込んだ彼らが見たものは。
 恥ずかしげに、しかしちょっとだけ幸せそうに、泣き腫らした目を真っ赤にさせた、綱吉の笑顔だった。

2008/04/28 脱稿