天河

 夕食後、なにげなく目にしていたテレビのニュース番組。
 生真面目すぎて面白い内容など全くないけれど、他に特別見たいものが無いので仕方ない。ならばテレビを切れば良いと分かっているのだけれど、絶え間なく画面が入れ替わるこの賑やかさにすっかり慣れてしまって、無音の部屋でひとり過ごすのは耐えられなかった。
 スポーツニュースが終わり、天気予報が始まる。膝の上に広げた漫画から意識を浮上させ、ただのバックミュージックと化していたテレビをなんとはなしに眺めた沢田綱吉は、ページを捲ろうとしていた手を半端なところで止めた。
「ん……?」
 鼻から抜ける音を響かせ、小首を傾げる。いつも通り天気図から説明が入るかと思われた天気予報は、彼の予想に反して一面の夜空を画面に映し出していた。
 男性アナウンサーの声がスピーカーから聞こえ、テレビモニターでは天頂に輝く星が一瞬強くきらりと輝き、箒の尾を残して消えた。瞬きをする暇さえ無いほどのあっという間の出来事に、綱吉は僅かに身を乗り出して膝から漫画本を落としてしまう。
「うわ」
 ドサッと広げていたページが閉じて、カーペットに裏表紙が上向いた状態で転がったそれに注意が向き、幾つかの説明を聞きそびれてしまった。急いで神経をテレビに向け直すが、満天の星空は既に青字に白い線という天気図に移り変わってしまっていて、綱吉は背表紙を掴んだ漫画本ごとがっくりと肩を落とした。
 ただ、耳から飛び込んできた幾つかの語句は、しっかりと脳裏に焼き付けられた。
 流星群、と。
「ふぅん……」
 さしたる興味も無いまま呟き、手元に視線を落とす。艶がかった表紙を殊更意味も無く爪でなぞって、綱吉は徐に立ち上がった。
 目線の高さが変わり、床に散らばった様々なものをひとつの景色として捕らえた彼は、腰を屈めてテーブルのリモコンを取りテレビの電源を切った。画面ではまだ明日以降の天気についての解説が続いていたが、四角形のモニター外側から中央に向かって黒い影が走って暗闇に染まり、中央の点で最後に白い光が弾けて散った。
 静寂の帳が唐突に舞い降りて綱吉を包む。彼は小さな溜息とリモコンを一緒にしてベッドに向けて投げ、反対の手にあった漫画本もそちらに放った。
 直線の軌道を残して行くそれを見送りもせず、彼は部屋で唯一の窓に顔を向けた。カーテンの引かれていないガラスは、部屋の照明を反射して、屋内の景観をそのまま映し出していた。
 勿論その中には綱吉自身の姿も含まれている。
 覇気の乏しい、言い換えればやる気に欠けた顔をした自分に苦笑して肩を竦め、彼はそっと夜の窓辺へと忍び寄った。
 近付けば、さっきまでは霞んで殆ど見えなかった窓の向こう側に続く景色も、ぼんやりとだけれど浮かび上がってくる。多くの家の窓からは光が漏れ、地平線はまるで見えない。覗き込んだ空は電線が幾つも交差して切り刻まれており、とてもではないが星を見るに適した環境とは言い難い。
「むう」
 額を冷たいガラスに押し当てて、瞳が向く限界まで上向けるが効果は感じられない。仕方なく鍵を外して開けようとしたところで、階下から奈々の呼ぶ声がした。
「ツッくーん、お風呂入っちゃって~」
「はーい」
 両手は窓に添えたまま、腰から上だけで振り向いて返事をする。姿勢を戻した彼は、相変わらず鉛色よりも重く沈んだ夜の町並みに目を細め、首を振った。
 此処から流星を見るなんて、とてもではないが叶いそうにない。
「この辺で、背の高い建物……」
 パジャマと下着の替えの用意をしようとクローゼットに歩を進める最中、ぼそりと綱吉が呟く。無意識に背を丸めた指が唇をなぞって、脳裏に浮かんだ景色は至極彼の見慣れた場所だった。
 と同時に、そこを牛耳る人物の姿まではっきりと脳裏に蘇り、胸が高鳴ると同時に諦めに似た感情が一斉に彼に押し寄せた。
「でも。聞くだけ、聞いてみるかな」
 あの人の事だから、駄目だと言う気もする。けれどひょっとしたら、ひょっとすることだってあるかもしれない。
 言わないままで過ごすよりは、玉砕覚悟でぶつかってみるべきだ。やる前から尻込みしていたら、目の前にある壁はひとつも乗り越えられない。
 ダメモトで頼んでみよう。心に決めて、綱吉は部屋のドアを押し開けた。
 そうして翌日。
「いいよ」
「へ?」
 駄目と言われると承知しながら、胸のどきどきを止められぬまま訪れた応接室で、綱吉は間の抜けた声をあげてしまった。
 彼の正面にある机に向かって座っていた人物は、その綱吉の返事が気に食わなかったのか、組んだ脚の上で悠然と結んでいた手を解き、背中を丸めて頬杖に作り変えた。
「聞こえなかった?」
 低い、若干憤りを含んだ声に凄まれ、綱吉はハッと我に返って右の踵で床を擦った。
 頼んだのは自分なのに、確かに今の素っ頓狂な声は宜しく無い。取り繕うように苦笑を浮かべた彼は、誤魔化しに頬を引っ掻いて首を横へ振った。
「いえ。聞こえました」
「そう」
「ほんとに……良いんですか?」
 だが聞き間違えたという可能性は、ゼロではない。念の為にもう一度確認しておこう、と綱吉は腕を下ろして背中に回し、左右の指を絡め合わせて声を潜めた。
 疑いの色が滲み出た問いかけに、雲雀は左の眉を僅かに持ち上げる。不機嫌さは幾分波を引いたものの、まだ完全に消えたわけではなくて、綱吉は薄氷を踏む思いで彼を窺い、呼吸の間隔を普段よりも短くした。
 彼は膝に置いていた肘の位置を机に移動させ、椅子のコマを軋ませて綱吉との距離を数センチ程度詰めた。背筋を伸ばし、結び合わせた指のうち何本かを立てて自分の顎に添える。
「確かに、夜の学校を無条件で解放するわけにはいかない。万が一事故が起きた場合、責任問題に繋がるからね」
「ですよね」
 雲雀の言うことも納得できて、ならば何故、と綱吉は先ほどの雲雀の返事に首を捻った。
 綱吉が彼に頼んだのは、夜に学校の屋上を使わせて欲しい、という事。使う、と言っても単に其処を借りて星空を見上げたいだけだ。
 並盛にはあまり背の高い建物が無くて、一戸建て中心の住宅街が大半を占めている。庭先から空を眺めようにも天は遠く、また周囲の家々から漏れる明りが邪魔をして、地表に降る星の光は弱い。
 綱吉が知る限り、この町で一番大きな建物は学校。しかも広大な敷地は夜になると静寂に包まれるので、星空観察には絶好の環境だった。
 問題なのは、学校は下校時間を過ぎると校門が閉鎖されること。校門のみならず学内に入るためのあらゆる扉には鍵が掛けられ、自由に出入りできない。屋上に行くのに壁を伝って這い登る、というのは滑稽すぎて、綱吉は正直に、この学校の実質的な支配者殿に伺いを立てたのだ。
 どうせ嫌がられるだろうと想像していたのに、いともあっさり許可が出たのが不思議でならない。思っていることが素直に顔に出ている綱吉を見上げ、雲雀は頬杖で隠した口元を綻ばせた。
「勿論、条件はあるよ」
「やっぱり」
 彼がそう易々と許可を下すわけがない。いったいどんな条件が提示されるのか、胸を撫で下ろすと同時に冷や汗が背中を流れて、リボーンと戦いたいとか言い出しそうな彼の顔を見詰め返した。
 けれど彼は三度綱吉の想像を覆し、左の手を解いて掌を上向かせた。
「保護者同伴」
「はい?」
「君の場合は……特別」
 さらりと告げられた内容に、綱吉は目配せした雲雀の思惑を三秒後理解した。
 自然と頬が赤くなり、カッと熱が全身を走る。見る間に茹蛸の頭の先から湯気を立て始めた彼に、今度こそはっきりと分かる笑みを浮かべ、雲雀は相好を崩して椅子に凭れ掛かった。
「門は、閉めてはおくけれど鍵は外しておくよ。屋上へ行く前に此処に寄るように」
 肘起きに左肘を添えて身体を若干斜めに倒した雲雀が、不遜に言い放つ。けれどその傲慢な態度も気にならないくらい綱吉は狼狽していたし、嬉しさと恥かしさが入り乱れた感情に苛まれて咄嗟に返事が出来なかった。
「春先とはいえ、まだ夜は冷えるから。暖かい格好をしておいで」
「は、い!」
 上擦った声で返事をして、綱吉はピンっ、と背筋を真っ直ぐに伸ばした。
 その、元気ばかりが良い反応に雲雀は満足げに目尻を下げる。後は集合時間を決めるくらいしかやることはなくて、綱吉は一気に気分も上昇して、応接室のドアをノックしたときとは打って変わって軽い足取りで部屋を出て行った。
 音を響かせて閉じられたドアを眺め、雲雀は頬杖を崩し椅子を引いて立ち上がる。
 綱吉の気持ちが伝染したのか、自分まで今夜が楽しみだと思っているのを感じ取って雲雀は皮肉に口元を歪めた。そうして机を背にして寄りかかり、薄い雲が広がりつつある西の空に目を向け、眉間に皺を寄せた。
「ああ。そういえば、今日は……」
 脳裏にふと蘇った事項に引っ掛かりを覚え、彼は制服のポケットから愛用の携帯電話を取り出して広げた。慣れた手つきでボタンを操作し、インターネットからとある情報を引き出して益々表情を曇らせる。
 空っぽの右手を広げて顔の下半分を覆った彼は、満面の笑顔で部屋を出て行った綱吉の姿を思い返し、息を吐くと同時に肩の力を抜いた。
「どうするかな」
 呟き、自問して彼は瞳を眇める。やがて、どれくらいの時間が過ぎた頃か。
「……悪くないね」
 雲雀は導き出されたひとつの答えにひとり頷き、準備を整えるべく歩き出した。

 学校の正門は、雲雀の言葉通り鍵が掛かっていなかった。
 閉ざされていた鉄製の重い柵を横にスライドさせ、自分が通り抜けられる幅を確保して身を滑り込ませる。途中で引っかかったジャケットのボタンを慌てて引き剥がし、敷地を跨いだところで振り向いて、柵を元通りに。
 二度動かすのに全身の筋肉を酷使させられて、それだけで息が上がった綱吉は肺の中に残った二酸化炭素を一気に吐き出して額を拭った。
 汗以外の水分で湿った肌を撫で、指に張り付いていたペンキの欠片を思い出して舌打ちする。ザリッ、と擦られる感触にもうひとつ息を吐いた彼は、左肩から吊るした懐中電灯を胸に抱えて暗い敷地内部に目を向けた。
 静謐に包まれた中学校の校舎は、昼間の顔と随分違って綱吉の目に映った。太陽の下では陽気に学生を迎え入れる健やかさが際立つのに、月さえない夜のしじまに閉ざされている今は、うら寂しくひっそりと佇んで不気味だった。
「さむっ」
 生温い風に首筋を撫でられ、綱吉は反射的に身を竦めて自身を抱き締めた。それでなくとも此処は街灯も遠く、薄暗い。こんな場所にいつまでもひとりでいたくない、と彼はその場で二度ジャンプして、恐る恐る校舎へ向かって足を踏み出した。
 誰かに見付かるといけないので、校舎内部に入るまで懐中電灯は使わない。正面玄関のドアを押すと中央の一枚だけ鍵が外されていたので、そこを潜り抜けて綱吉はやっと人心地つき、ホッと胸を撫で下ろした。
「応接室、と」
 約束していた時間までまだ少し残っているが、呑気に夜の学校を探検しようという気は少しも起こらなかった。
 綱吉は非常等の灯りと記憶を頼りに自分の上履きがしまわれている下駄箱を探し、蓋を開けて踵の潰れた上履きを取り出す。
 校舎は真新しさが引き立つ綺麗さだけれど、こういう備品はどことなく古めかしさが漂って、蝶番も少し錆付いていた。蓋を持ち上げる時に微かに軋んだ音が響いて、しかも目の前で鳴っているのに真後ろから聞こえた気がして、綱吉は戦々恐々としながら慌しく靴を履き替え、スニーカーを靴箱に押し込んだ。
 空気が冷えて澄んでいるからか、繊細な音でさえも昼以上に響き渡り、都度綱吉は大仰に震え上がった。
 手元で起こした音が全く別の場所から反響して来て、逐一後ろを振り返っては何もないことを確かめて安堵する。半泣きになった彼は、日頃踏み潰している踵を立てると、くしゃくしゃになっているそこに指を添えて足裏全体を靴で覆った。
 夜の学校が此処まで怖いものだとは思わなかった。昼間の明るく喧騒に包まれた時間を知っているから、余計にバランスが悪く感じられるのだろう。
「……よし」
 しかし玄関に留まったままでいても仕方が無い。ぐるりと闇のカーテンを垂らしている玄関を見回して、最後に握り締めた自分の拳を見詰めた彼は、空元気に意気込んで懐中電灯をしっかりと抱き締めた。
 踏み出した一歩は、音もなく静かに廊下に吸い込まれていく。
 外が見える位置を抜けたところで、非常灯の灯りも届かなくなった。入れ替わりに綱吉は家から持って来た懐中電灯を手繰り、黒いボタンを押して白色電球に火を入れた。
 出かける直前に乾電池を交換したので、当面消えることはないだろう。ラジオも聞ける懐中電灯は大きめで、片手で握るとずっしりとした重みが肘に負担をかけた。
「えっと」
 校内のマップはしっかりと頭にあるのに、暗いというだけでそれが急激にあやふやになってしまう。綱吉は楕円形になって床に広がった懐中電灯の灯りに目を細め、今一度目的地への最短経路を脳裏に描き出した。
 左の人差し指で唇を小突き、眉間に浅く皺を刻んで考える。眇めた瞳を戻して瞬きし、深呼吸をひとつして、右手に握ったライトを左右に揺らして障害物の有無を確認し、更にもうひとつ深呼吸。
 光の所為だろう、浮かび上がる景色はどれも微妙に白っぽい。
「学校の怪談が出来るわけだよ」
 竦む心臓を奮い立たせ、強がりに呟いて綱吉はゆっくりと歩を進めた。
 そういえば並盛中学にも、俗に言う七不思議があった。日頃触れる機会もないから今の今まですっかり忘れていたが、よりによってこんな時に思い出すとは、ついていない。
「なんだかなあ」
 けれどおかしなことに、怖がるどころか笑いがこみあげてきて、綱吉は滑り落ちないよう気をつけながら階段を登っていった。
 この先に雲雀がいるという安心感が、綱吉の背中を押している。彼相手ならば、幽霊さえも逃げ出すのではなかろうか。
 光を壁や窓に当てないよう注意しつつ、角を曲がって進む。そう時間もかからずに、綱吉は頭上の薄明かりにぼんやりと浮かぶ「応接室」の文字を見つけた。
 扉は閉められているが、足元の隙間からは光が漏れている。それは他でもなく、戸の向こう側に誰かが居る証拠で、綱吉は今まで以上にホッとした様子で肩の強張りを解き、握りすぎて形が固定されてしまった右手を懐中電灯から引き剥がした。
 ライトを消して、控えめにドアをノックする。
「開いてるよ」
 返事は即座にあって、耳慣れた低音に綱吉は表情を綻ばせた。
「失礼しま~す」
 肩から提げた懐中電灯に腰を叩かれながら、ノブを回して内側へ押す。抵抗もなくすんなり開かれたそれに引きずられながら応接室に身を滑らせ、彼はほぼ正面奥に立っていた雲雀の姿に目を細めた。
 彼は相変わらず、黒の学生服を白いシャツの上に羽織っているだけ。昼に会った時とまるで格好が同じだから、ひょっとしたら帰らずにずっと綱吉を此処で待っていたのかもしれなかった。
 一方の綱吉は一旦帰宅し、着替えて夕食も済ませている。怒られるかと思ったが私服で、薄鼠色のパーカーに濃紺のデニム。足元が上履きというのがいかにも不釣合いだが、これは仕方が無い。
「え、っと」
 なんと挨拶をしようか。目が合った綱吉は、何も言葉を準備していなかったのを思い出して、戸惑いがちにズボンを握り締めた。
 時間帯的には「こんばんは」が妥当だが、それも変な気がする。いや、変ではないのが、雲雀にその言葉は似合わないとも思えて、迷ってしまう。
 段々と沈んでいく綱吉の視線と、緊張と戸惑いが入り混じった表情を眺め、雲雀は凭れていた窓ガラスから上半身を浮かせて二本足に体重を移し変えた。
「来ないかと思った」
 助け舟を出したつもりではなかろうが、先に彼が口火を切って喋り始める。彼の率直な感想にはたいした感情も込められていなかったが、反射的に顔を上げ、綱吉は握った拳を胸元に押し当てた。
「だ、だってヒバリさん、携帯」
「電池が切れてしまってね」
 何度か連絡を入れようとしたのに、日が暮れる直前から雲雀の携帯電話はいきなり繋がらなくなってしまったのだ。
 いけしゃあしゃあと言い放った彼の不敵な笑みに、それがわざとだったと悟って綱吉は唇を噛んだ。
 その悔しげな彼に肩を竦め、雲雀は黒の学生服を翻して後ろを向く。視線の先にあるのは窓、見ているのは空だ。
 綱吉は懐中電灯のバンドを肩から外し、左手に持ち替えて雲雀へ歩み寄った。並びはしないが、雲雀が見上げているのと同じ空を視界に捕らえられる距離まで詰め、斜め上を向く。
 肉厚の雲が一面を覆い尽くしていた。
「もう……」
 ぶすっとした声で呟き、綱吉は反射鏡側を下にして重い荷物を雲雀の執務机に置いた。乱暴にやった為かガコン、と比較的大きな音がひとつ響いて、咎められた気分になって綱吉は益々頬を膨らませる。
 振り向いた雲雀が肩を竦め、半透明の自分たちが映っている窓を撫でた。
「どうする?」
 中指の爪でガラスを削り、静かに問う。
 矛先を向けられた綱吉は、息を吐き出して凹ませた頬をまたぷっくりと膨らませて雲雀を睨んだ。
「どうする、って……」
 答えを渋り、彼は涼しげな表情を変えない雲雀から夜の空を仰いだ。
 灰色よりは白に近い雲が、高い位置で空を埋めていた。月明かりは遮断され、逆に地表から空に向けて放たれる光を浴びてか、雲は随分と目に明るい。
 当然星の煌きが見えるわけもなく、よって綱吉が望んだ流星群の観察など夢のまた夢。学校が雲を突き抜ける高さがあったなら叶ったかもしれないが、世迷言を口にしたところで虚しいだけだ。
 昼、まだ陽の高いうちは晴れ空が望めたのに、夕焼けが西の空を焦がし始めた頃から徐々に雲は量を増し、厚みを増し、日没を迎えた頃にはあっさり灰色が世界に蓋をしてしまった。
 綱吉は迷って、今夜の約束を延期しようか雲雀に相談したかったのに、肝心の雲雀の電話は繋がらない。メールを送ってもなしの飛礫で、一切の連絡が取れぬまま、仕方なく綱吉は予定通りに家を抜け出して学校に潜り込んだ。
「見えないじゃないですか、星」
 こんなことになるのなら、もっと天気予報を確認しておけばよかった。
 不貞腐れた顔で文句を並べ立てる綱吉を、雲雀は飄々とした態度で聞き流す。心持ち目元が笑っているので、ひょっとしなくても彼は、今夜から天気が下り坂だというのを知っていたのだろう。
「分かってたのなら、教えてくれれば良かったのに」
「思い出したのは、君が帰った後だよ」
「連絡……」
「携帯は電池切れだって言ったよね?」
 平然と言った雲雀だが、応接室には固定電話があるのだ。彼が綱吉の家の番号、或いは携帯電話番号を諳んじられないとはとても思えず、わざと知らせなかったのだとは用意に想像がついた。
 彼の底意地の悪さを知らなかったわけではないが、悔しさは募る。無意識に握った拳に力を込め、何度か自分の太股を叩いた綱吉は、目の前か影って暗くなったのにあわせて顔を上げた。
 気付けば雲雀が数歩の距離を一瞬で詰め、綱吉の前に立ちふさがっていた。
「どうするの?」
 持ち上げられた彼の掌が綱吉の頬を撫で、まだ湿り気を残す髪を擽って後ろに払いのける。人差し指と中指の腹を擦り合わせ、雲雀の手が引っ込んでいくのを視界の端で見送った綱吉は、自然と赤くなる顔を俯かせて隠した。
 どうするかと聞かれても、困るだけなのに。
「どう、って……」
 言い渋りながら綱吉は足元にやった視線を左右に泳がせ、灰色に汚れた上履きで床を捏ねた。
 曇り空が急に晴れるとはとても思えないし、流星は諦めるしかない。折角来たのに勿体無いが、帰るしかないだろう。授業も終わって人も居ない学校に、用事も無いのに長居したところで、退屈なだけだ。
 それとも、雲雀には何か考えがあるのだろうか。
 ちらりと盗み見るが、いつもながら雲雀の表情からは考えている内容がまるで読み取れない。
「綱吉」
 慈しむ声で名前を呼ばれ、仕方なく綱吉は促されるままに再度顔を上げた。
 その額に、唐突にキスが落ちる。
「うっ」
 柔らかく暖かな感触を感じ取って、咄嗟に呻くような声をあげてしまう。悲鳴とも言えそうな彼の反応に、雲雀は気を悪くしたのか今度は額を押し当て、ごちん、とぶつけてきた。
「いつっ」
 首が少しだけ後ろに傾き、距離が開く。左目だけを閉じた綱吉は、微かに湿っている自分のおでこに手を置き、苦虫を噛み潰したような顔をして吐き出した息を吸った。
 目の前の雲雀は、右手を腰に当てて若干腹立たしげにふんぞり返っていた。
「なんなんですか、もー」
 いきなり予告もなくされて、驚くなと言う方に無理がある。広い額をさすって熱を冷まし、綱吉は自分が悪いのではないと唇を尖らせた。
「なら、言った方が良かった?」
「……それは、まあ、はい」
 今からキスをする、と宣告されて口付けられるのと、不意打ちでされるのと、どちらがマシだろうか。
 大体いつも雰囲気的に流されて、なし崩しにキスする機会が多かったから、考えたこともなかった。想像したら照れ臭くなって、綱吉はもじもじと居心地悪げに指を弄って顔を逸らす。雲雀に向けた左頬は撫でられたが、それ以上は特別なにもなく、彼の手は離れていった。
「おいで」
 その代わり、掌を上にして招かれる。
「ヒバリさん?」
 この手はなんだろう、と思っているうちに雲雀の唇から音が零れて、急いで拾い上げた綱吉は目を丸くし、彼に首を傾げた。
「星、見たいんだろう」
「え、でも」
「おいで」
 誘い文句に使われた単語に、綱吉は躊躇してから後ろを窺う。横目を流した先の窓では、雲が空を白く染めたままで、なんら変化を来たしていなかった。
 綱吉が何を気にしたのか、分からない雲雀ではないだろうに、彼はまた同じ言葉を繰り返して指を曲げ、肘を折り畳んだ。
「ヒバリさん、けど」
「こっち」
 横をすり抜けて部屋の中央から出口に向かおうとする彼の背中に、尚も呼びかけた綱吉だったが、首から上だけを後ろ向けた雲雀の意思は変わらない。綱吉が持ち込んだ懐中電灯をひっくり返して右手に持った彼は、いつまでも窓辺に立ち止まったままでいる綱吉などまるでお構い無しだった。
 このままでは置いていかれる上に、帰り道に必要なアイテムも奪い取られてしまう。再度曇り空を仰ぎ見た綱吉は、其処に月明かりさえ見出せないのに頷いて首を捻り、諦めの吐息を零して雲雀の背中を追いかけた。
 ふたり揃って応接室を出て、照明が消される。パッと光が弾けた直後に訪れた沈黙は、暗闇をいっそう深くして綱吉の両肩を撫でた。
「……」
 声には出さなかったものの、震える気配は真横に伝わってしまった。隣で学生服を羽織り直していた雲雀は、奥歯をカチリと鳴らした綱吉を見下ろし、乾ききっていない所為で元気が無い髪の毛の跳ね具合を笑い、懐中電灯を右手に持ち替えた。
 左手が空を掻き、目当てを探し出す。指の背が触れた瞬間だけ、綱吉は大袈裟に息を吸って止めたが、暖かな熱の伝播に気付いて瞬時に全身の強張りを解いて行った。
 擦り合わせ、雲雀は揃えた指を、綱吉の親指と人差し指の隙間にもぐりこませた。その途中で彼が何をしたいのかを察した綱吉は、掌を裏返し、四本の指を大きく広げた。
「そっち?」
「駄目ですか?」
 ただ握るだけにしようとしていた雲雀が一寸だけトーンの高い声を出して、輪郭線ばかりが浮き上がっている綱吉に問う。首を斜めに傾けた綱吉は、上目遣いに矢張り薄明かりでぼんやりとしか見えない雲雀を見詰め、甘えるような声を出した。
 掌同士を重ねて、指を互い違いに絡ませて握る。肌越しに伝わる体温と拍動がより強まって、相手の存在の確かさに心強さを感じ取った綱吉は何も言わず許容してくれた雲雀に感謝した。
 頬を朱色に染めていると、雲雀が右手を持ち上げて懐中電灯のスイッチを入れた。床に白い、外に向かうにつれて薄れる楕円が浮かび上がり、中心部の眩さに瞳を細めた綱吉は、光が差す方角を見て眉を寄せた。
 応接室から右か左か、どちらに進むかによって行き先は大きく異なる。大雑把に分けるなら、左が一般教室で、右は特別教室だ。
 雲雀の灯した明かりは、右を向いている。
「あの、何処へ」
「行けば分かるよ」
 大体の予測はついても、特別教室は数が多い。それに、毎回突拍子も無い事をしでかす雲雀のことだ、行き先が教室だとも限らなかった。
 行き先を教えて欲しがる綱吉の手を引き、雲雀は答えずに歩き出した。ゴールは秘密にしておきたいらしい、それとも綱吉が不安がってびくびくしているのを面白がっているだけか。
 生温い汗が首筋を伝って、綱吉は唾を飲んだ。右手を引っ張られて仕方なく自分も歩き出し、遅れないよう歩調を彼と揃えて静か過ぎる学校の廊下をふたり渡った。
 ひたひたと足音は低い位置で渦を巻き、時々窓の外から飛び込んでくる車の光にも驚かされる。実際よりもずっと長い距離を歩かされている気がして、夜の学校が膨張している錯覚にさえ陥った。
 びくびくする綱吉と対照的に雲雀は慣れた様子で、臆する様子もなく背筋をピンと伸ばしている。足を動かすペースは乱れず、正確に学校の構造を把握しているのが分かった。
 この人は、ひょっとして目隠しをしたままでも学校の端から端まで、何にもぶつからずに踏破してしまえるのではなかろうか。そんな想像が働いて、綱吉は何処まで行くのかと彼の左手を握る指に力を込めた。
 階段をふたつばかり登ったので、今歩いているのは最上階の筈だ。其処にあるのは確か、と記憶の片隅を突いて掘り返す。
「着いたよ」
 特別教室棟の最上階は、図書室と、それから。
「視聴覚教室?」
「そう」
 ガラッと音を立てて横にドアをスライドさせた雲雀が、綱吉の疑問を肯定した。
「入って」
「はーい」
 先に中に忍び込んだ雲雀に誘われ、軽い調子で返事をして綱吉もレールを跨いだ。横に避けた雲雀が即座にドアを閉めるので、瞬時に目の前は闇に落ちた。
 廊下を歩いていた時はまだ、窓から外の光が僅かながら差し込んでいたので、幾許か明るかった。しかしすべての窓に暗幕が引かれた視聴覚教室はそうではなく、雲雀が持つ懐中電灯の光だけが唯一の頼りだった。
「ヒバリさん、あの」
 此処で何をしようというのか。
 急に不安が胸を駆け上ってきて、綱吉は鳴り響く心臓の五月蝿さに眩暈を覚えた。
 真っ暗闇で、しかも此処は防音壁が備えられているから外部に音が漏れる心配はない。あまり頻繁に足を運ぶ場所ではないので、室内の構造もよく覚えていない綱吉は、ライトに照らし出された横長の机の影にさえ怯えて胸の前で両手を握り締めた。
 下から上に向かって鳥肌が立ち、擽られるような感覚が綱吉を包み込んだ。全身が戦慄いて落ち着かず、勝手に想像を巡らせて体温が急上昇を始める。ばくばくと今にも破れそうな心臓をどうにも出来なくて、段々と自分が赤く染まっていく感覚に綱吉は震えた。
「ひ、ばり、さ」
「ちょっとそこで待って」
「あ、の」
 懐中電灯を持った彼に歩み寄ろうとしたら、先に制されてしまった。それが却って綱吉の想像力を刺激し、広げた指で空気を掻き回した彼は、恥かしい妄想を開始している自分を持て余して背筋を粟立てた。
 夕食の後にちゃんと歯は磨いたし、風呂にも入った。入念に身体を洗って、髪の毛も洗って来た。そんな事にはならないと思いつつ、心の片隅で期待していたのは嘘ではない。
 けれど、どうせならソファがある応接室か、ベッドのある保健室が良かった。そんな事を考えて、次第に熱を帯びてくる身体に、綱吉は思わず生唾を飲んで身悶えた。
「なにしてるの」
 それを一瞬で冷ます、雲雀の淡白な声。
「うひぇ!」
「いいよ、おいで。足元、段差があるから気をつけて」
 床に置いた何かを確認していた雲雀が、膝を伸ばし立ち上がって床を指差す。
 吃驚しすぎて頭の裏側から変な声を出してしまった綱吉は、想像していた色々と恥かしい内容を知られたわけではないと知ってホッとしていいのか、期待していたことが何も起こりそうにない状況に哀しんでいいのか、よく分からぬまま両手を下ろして俯いた。
 非常に短い歩幅で、部屋の、恐らくは中心地に当たる場所に腰を落としている雲雀の傍へ寄る。ストンと膝を折って自分も座り、両足首を外側に投げた綱吉は、蛍光灯の鋭いけれど狭い光の中に浮かぶ箱に目を瞬いた。
「これは?」
 先ほどまで雲雀が弄っていたのはこれで、ならば彼が綱吉を此処につれてきた目的もそれだろう。
 試しに小突いてみると、中は空洞で手応えは軽い。押した分だけ床を滑って位置がずれて、けれど行き過ぎることなく途中でなにかにつっかえて止まった。
「星を作る装置」
 頻りに首を傾げる綱吉に、雲雀が意味深に言ってずらされた分を元に戻した。
 床に置いた懐中電灯を受け、斜めに長い影が伸びる。
「星?」
「無駄にならずに済んでよかったよ」
 鸚鵡返しに聞いた綱吉に、答えにならない返事をして、雲雀は床に置いていた箱を持ち上げた。底の部分が切り抜かれ、中から円柱状の物体が現れる。先ほど綱吉が指に感じた抵抗は、この物体に箱の内壁が当たったことで生じたのだ。
 赤い外観の、円柱形をした懐中電灯。
「ヒバリさん」
 ふたつ目のライトに光を灯した雲雀の袖を引き、注意を自分に向けさせる。だが雲雀は一向に気に留めず、今度は綱吉が持ち込んだ方の懐中電灯を消した。
 真上を向いておかれたライトの光が、まるでサーチライトのように天井を照らし出す。彼はその上に、持ち上げていた箱を被せた。
 光を遮られ、暗幕に閉ざされた視聴覚教室は静寂の闇に落ちる――筈、だった。
「……え」
 そうならなかった現実に、綱吉は息を呑み、目を見張った。
 白い小さな、沢山の輝きが、真っ暗闇の中に浮かび上がる。確かに数秒前までそこは味気ない特別教室の天井だったのに、瞬きする間に一変し、鮮やかな星空に姿を変えてしまった。
「う、わ」
 他に言葉が出てこなくて、琥珀色の瞳をいっぱいに見開いた綱吉は、同じくらいぽかんと口をあけて首を反らした。
 隣で、姿は見えないけれど雲雀が笑う気配がする。衣擦れの音がしたので、姿勢を変えたのだろう。床に添えた手に何かが触れて、握ったそれは雲雀の右の小指だった。
「これ……ヒバリさん、これ」
「うん」
 手元は微かに明るい。それは綱吉が先ほど小突いた箱から、無数の白い筋を空中に浮かせて溢れているからだ。
 膝頭を揃えて擦り合わせ、綱吉は下向けたばかりの視線を再び上に戻す。そこには確かに、雲雀の言う通り数多の星が生み出されていた。
 上下を切り抜いた箱に、細かく穴を開けたアルミホイルを被せて固定。箱の内部に光を放つもの――今回は懐中電灯を入れて、部屋を真っ暗にする。無数の穴から漏れた光は、懐中電灯からの距離や角度によって四方へ散り、天井にぶつかってそこに留まる。
 さながら、星の如くに。
「流星は、残念だけど」
 天然の星には到底敵わない。瞬きもしないただの光の影だと自嘲気味に言った雲雀に、綱吉は首を振った。
「充分です」
「綱吉?」
 上ばかりを見続けるのに疲れて、けれど目を逸らすのが勿体無くて、綱吉は一瞬迷った末に両手両足を投げ出し、仰向けに床に寝転がった。
 腰から背中、頭にかけて広がった硬い床の感触は、決して心地よいものとはいえない。だけれどまるで気にならなかった、肌を刺す冷たささえ意に介さない。
 感嘆の息を漏らした彼を笑って、雲雀もまた綱吉に倣い、狭い場所に密集している机を押し退けて空間を広げて横になった。
 肩に羽織るだけだった学生服を外し、綱吉の胸元から腹にかけての一帯に被せる。寒くないから平気だと押し返そうとした綱吉だが、意固地な雲雀は受け取らずに押し切ってしまった。
「すごい、なあ」
 他人が見ればちゃちなものと笑うかもしれない。実際雲雀も、これならば市販されているものを入手した方が良いと思ったくらいだ。
 けれど時間は足りず、こんな簡素なもので済ませるしかなかった。
「つまらないものだよ」
「でも、綺麗だ」
 大きさも輝きもばらばらで、並びに規則性もない。雲雀の卑下する言葉を、綱吉はたったひとことで否定して、徐に右手を広げ、腕を伸ばした。
 真上に突き出し、際立って大きな星のひとつに翳す。
「つなよし?」
「なんか、届きそうで」
 指を動かし、空を掻く。本当に届くわけがないと言った本人も分かっているだろうに、綱吉は何度も同じ仕草を繰り返した。
 だから雲雀が、その手を捕まえる。
 横から伸びた彼の力強さに綱吉は一瞬肩を強張らせ、動きを止めた。首を横に傾け、薄明かりの中、闇と同化寸前になっている黒髪の雲雀を見つけ、見開いた目をふっと和らげた。
「あ、なんだ」
 ストン、と胸の中に何かが落ちた。
 得心顔で呟いた綱吉に、雲雀が怪訝な顔をする。その彼の手を握り、自分たちの間に倒して、彼は。
「もう捕まえてたみたい」
 目映い星明かりの中、嬉しそうに笑った。

2008/04/17 脱稿